―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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タエコと雪子 3

 

 数枚のスケッチで慣らした後、髪を結い上げたタエコを描き、その日の制作を終える。

「もうすぐクリスマスだ」
 独り身であるうえに、この歳になって『クリスマス』を気にするほどでもないのだが……。次はいつ多恵子が来る日だったかと思い描いた時、その日程がクリスマスに近いことに気が付いた為、ふいに呟いていただけのことだった。
 イーゼルに筆を置いた謙に話しかけられた多恵子が、ふと微笑み返してくる。
「そうですね。大通りのイルミネーションも始まっていますし、街中はクリスマス一色ですよ」
 この日も謙の目の前で、裸のままでいる多恵子だが、さもあたりまえの様子で目の前を横切っていく。制作を終え、彼女はそのままアトリエ部屋を出ていった。
「先生はクリスマスが気になるのですか」
 素肌に衣服を身につけようとしている多恵子の声が、リビングから聞こえてきた。
「別に、そんなわけでは。でも札幌に来てからはなんとなく『目につきやすくなった』と言うべきかな……。雪国のせいかな? 雪景色とクリスマスの雰囲気、まさにといった感じになるからな」
 謙もアトリエ部屋を出て、多恵子が衣服を身につけるソファーの側へ。そこで多恵子は既にショーツを穿き終え、ブラジャーを身につけているところ。背を向け、身を屈めながらバストの形をカップの中へと綺麗に収めている後ろ姿だった。
「大通りの『ホワイトイルミネーション』、こちらに来てから見に行かれましたか」
 後ろ姿とはいえ、下着姿。ショーツの端からは、柔らかな肌の膨らみがこぼれそうに見えた。裸婦画家であり、そんなところについつい目がいくのも仕方がないし、以上にそのようなラインを幾度となく描いてきたのだが、『つい、うっかり見てしまった』と感じてしまったのは何故なのだろうかと、謙は一人で頬をさすってしまう。
「先生?」
「あ、ああ。うん、勿論。来た年の冬に、早速に藤岡が連れて行ってくれたよ。大通り公園の雪景色と光の粒。北国の冬の中にいる実感が湧いた瞬間だったね」
 ブラウスを羽織り始めた多恵子が「そうでしたか」と笑う。やがてジーンズを穿き、彼女の身なりが整っていく。謙はそれをただ眺めている。それも毎回だ。
 そう思うと、なんとなく奇妙な気もした。あの多恵子が謙の目の前で、気兼ねなく脱ぎ着をしていることが。そして謙もそうだ。気兼ねなく、彼女の着替えを眺めていることが。すっかり日常化していることが、なんだか急に奇妙だった。このままでいいのか? とさえ、何故か思ってしまった。
 おかしなことだ? 女を裸にするのが生業の男が、女性の裸は平気で『着替え』に見とれてしまうとは……。それを眺めていることに違和感を覚えるだなんて。今までモデルの着替えは、目につかないよう配慮してきた。どのモデルも。多恵子も最初はそうだったのに。制作を再開し、彼女がソファーで着替えるようになってからは、毎回こうなってしまっていた。そして日常化。
「お茶を煎れますね」
 着替え終わった多恵子がキッチンへ向かい、謙は初めて『僕の役目』である湯沸かしを忘れていたことに気が付いたのだ。つまり、彼女の着替えを夢中になってみていたことになってしまう。
「ごめん、すっかり忘れていた」
 コーヒーポットを手にした多恵子から、その役を返してもらおうとした。
「構いませんよ。お湯を沸かすぐらい。先生ったら、そんなに慌てなくても」
 彼女が可笑しそうに謙を見上げる。だが謙は余計にたじろいでしまい、どうしてかしどろもどろになり何も言い返せず、そのままソファーで待つ形になってしまった。
 そしてまた。お茶の準備をする多恵子の後ろ姿を見つめるだけになってしまう。
 変わらずにテキパキとお茶を煎れている多恵子を眺め、謙はそんな彼女に聞いてみる。
「多恵子さんはクリスマスは? やはりご家族と――」
「ええ、まあ。そんなところでしょうか」
 ――やはりね。そうだろうな。
 家族と過ごすクリスマス。極々普通のことであり、そして多恵子のような女性には『それしかない』に決まっていた。
 だから余計に……。脳裏に、彼女の息子である大輔と、そして見知らぬ男性を思い浮かべる。妻を裸にしたまま謙に貸してくれている男性を。
 ――僕よりもっと若いのだろう? きっと多恵子と同世代の、まだまだ男盛りの。
 それぐらいしか思い浮かばない。彼女の仕草や表情、そして多恵子が持っている雰囲気から、『多恵子が選んだ男性像』を色々と想像してみたが、やはりどうあってもしっくりするものは得られなかった。
 やがてカップに湯を注ぎながら、多恵子がさらに答える。
「家族と、と言っても。子供も大きくなりましたから、ただクリスマスがくるだけになりましたね。プレゼントは未だにねだられますけれど、男の子ですから。いつまでも可愛らしい小さな子供だった時のような扱いで『クリスマスパーティー』なんてやりますと、逆に『もうガキじゃない。そういうのやめてくれ』だなんて言われるようになりまして」
「なるほどね。……うん、なんとなくわかるなあ。うちの拓海も欲しいものだけねだって、何処かに行ってしまうからね」
 なんて、謙はあの生意気な息子『拓海』がおねだりの部分だけ強調し、『おいしい』ところだけかっさらっていく姿を思い浮かべ、うんうんと頷いてしまった。
「ですから。中学生になりましたし、去年は希望のプレゼントだけ買ってあげて、手の込んだ料理などするのはやめてみたんです。なのに……大輔も主人も『夕飯だけでもクリスマスらしくすれば良かったのに、がっかりした』とか言いだすんですよ。まったく……」
「そうか。それなら今年は作るつもりなんだね」
「は、はい……」
 スケジュールを話し合った時に、多恵子がクリスマスの午後は早めに帰りたいと言った理由を知った気がした。今年は今まで通り、早めの時間から手をかけクリスマスのご馳走の準備をするのだと。
「大輔君もご主人も、去年は寂しい思いをしたほど。多恵子さんの手料理を楽しみにしているのだろうね」
 そしてそれはとても『美味い』のだろうなと、謙は彷彿とした。そんな自分が現れたことにも、驚いていた。

 紅茶片手の他愛もない会話も日常化か。こんな時に何気なく聞いてみようかと考えていることが結局は出てこないまま、いつものお茶の時間も終わってしまった。
「それでは、お疲れ様でした」
「もうすぐ大輔君のレッスンが始まるね。僕も楽しみにしているよ」
 その為のイーゼルにビーナス像、そして大輔にクリスマスプレゼントでちょっとした画材も準備済み。それは多恵子にも言ってはいない。
 マフラーを巻きながら、多恵子が玄関をいつものように出て行った。彼女が開けた玄関のドアの向こうは雪。ふわりと静かに舞う牡丹雪の匂い……。そこへ多恵子が消えていくのを謙は見送る。これも日常化。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 暗澹とした空の代わりに、雪が真っ白な明るさを添える。ビーナス像も同じで、白と黒だけの陰影だけで彼女はそっと微笑み、美しさを湛えている。
 黒い縁のデッサンスケールの中には、十六分割にされた女神像。

「これは『デスケル』と言って、デッサンの時に寸法や比率、バランスを確かめるためのスケールなんだ」
 黒縁の中には透明な枠。長方形の透明なそこは、黒いラインで縦横それぞれ四分割にされている。計十六分割のスケール。つまり、この透明な枠を白い画用紙に見立てている。これをイーゼルの位置から、デッサンモチーフを写し出し、同じく縦横四分割、全体で十六分割にした画用紙にどう書くか、デッサンをする者に画用紙に描くイメージを明確にしたり、狂いを見直す為にあったりする。
 そのスケールを手にして、謙は隣にいる少年に微笑んだ。
「持ってごらん」
「こう、ですか」
「そう。それで、今、大輔君がひとまず書いてみたデッサンと比べてみようか」
 ワイン色の鉛筆を手に、少年はビーナスを描いた画用紙に無心に向かう。そして少年は『デスケル』を手にして、遠い位置にある石膏像を写す。透明な枠に見える真っ白なビーナスが、黒い線で十六分割になる。
「このスケールに写った石膏と、大輔君のデッサンを比較する為に、今度はこの画用紙をデスケルと同じように縦横四分割してみよう」
 どうやって? と、大輔に尋ねられ、少年の横に付き添うように座っていた謙は立ち上がる。
「定規で画用紙の寸法を測って割り出さなくても、鉛筆一本で分割できるんだ」
 大輔が持ってきたワイン色の鉛筆を取り去り、謙は画用紙に向かう。
「こう。鉛筆の丈を使って、上から中心まで、ここで一度印を付ける。そして次は下から中心まで……同じように印をつけて。上下から計り中央で重なったこの位置が、中心だ。横も左右同様に――」
 鉛筆だけを使った簡単な分割ラインを引く方法を教える。大輔はじいっと謙の手先から目を離さない。息もしていないのではないかという程に、それはそれは集中してくれていた。

 ついに冬休みに入り、この日、多恵子が息子の大輔を連れてきた。
 今日はそのレッスン第一日目だった。

「クロッキーは手早く、でも、デッサンはこんなに繊細で細かいんだね、先生」
「基礎中の基礎だからね。これをすると、寸法やバランスなどを気にせずに描いていた時の自分の癖をみつけることも出来るんだ」
 なるほどねーと、大輔がデスケルに女神を写し、自分が描いた女神とのバランスを見比べる。すると大輔が大きな溜め息をついた。そして肩もがっくりと落とす。
「全然、出来てない。俺のデッサン、歪みだらけだ〜。ちゃんと描いたつもりなのに。なんか、めんどうくさいな」
 クロッキーと違い、デッサンは何処か緻密さを求められる。今まで気ままに楽しく書いてきた大輔には、きっと急に型の中に押し込められるような窮屈さを感じたのだと、謙は察した。
「きっと、大輔君のお母さんも、同じように描いていたはずだよ。そうだよね、お母さん」
 少年と肩を並べて立っている後ろに謙は振り返る。そこには、息子のレッスンの邪魔をするまいと、ひっそりと控え、無言で見守っている多恵子がいた。
「懐かしいです。私も美術部に入った時に先輩からデスケルの使い方と、鉛筆だけで画用紙をデスケルと同じように分割する方法を教わりました」
「ほらね。お母さんも習っていたし、やっていた」
「ですけど、私は、その細やかさが億劫で、それでデッサンを怠ってしまったんでしょうね……。基礎を叩き込んだ子より上手くなるはずなかったわけです」
 そう言った多恵子を見て、大輔は母が何を言おうとしたか、きちんと解ったようだった。小言を止め、無言でデスケルと自分のデッサン画を見比べる。
「この額と、ほお骨の位置、そして顎のライン。これぐらい、ずれているね――」
 少年がしっかりと自分の欠点と向き合う姿勢になったのを見逃さまいと、謙は赤鉛筆で、彼が描いた女神の歪みを修整する。まだ幼く拙いライン。彼の癖だけで描かれた絵。その上に画家である謙が施す、基礎の固さをしっかりと押さえているシャープなラインが広がっていく。それを大輔は頷きながら、自分の癖に納得したようだった。
 講師となった謙と息子の大輔が画用紙を挟んで黙々とデッサンに取り組んでいるのを、母親の多恵子はひっそりとした笑みを浮かべながら、ただただ見守っている。

 初日のレッスンが終わり、大輔はとても満足そうだった。
「来週は今日のことを踏まえて、もう一度ビーナス像を描いてみよう。家に帰ってからも何でも良いからモチーフを決めて、デスケルとにらめっこしてごらん」
「はい。やってみます」
 素直な少年の返事に、謙も頬を緩めた。

 母子が帰り支度を始めた時、謙は用意していたものを、まず……母親の多恵子に差し出した。彼女が訝しそうに小首を傾げた。
「差し出がましいかと思ったのだけれど、これはデッサン先生からクリスマスのプレゼント」
「うちの子にですか?」
「そうだよ。僕も『ユニ』は好きでよく使うけど、これも試しに使ってみたらいい」
 そして謙は今度はそれを、大輔に改めて差し出した。大輔が戸惑った顔を母に向ける。だけど多恵子は『せっかくだから頂きなさい』とばかりに、息子に頷いた。
「先生、有り難うございます。鉛筆……かな?」
「鉛筆だよ。『ステッドラー』という青色の。製図のプロが使うんだ。どんな鉛筆が自分に合うか、色々と使ってみたらいいよ」
 思わぬプレゼントに、大輔の笑顔が輝いた。
「申し訳ありません、先生。レッスンをしてくださるだけでも、有り難く思っておりますのに……」
 途端に改まってしまった多恵子に、謙も恐縮してしまう。
「い、いいんだよ。レッスンをするからには、大輔君には短い間でも刺激になって欲しいし、知って欲しいことは教えておきたいし。鉛筆もそのひとつだよ」
「本当に、有り難うございます。先生」
 また多恵子が恭しく頭を下げるので、謙も困ってしまう。
 そんな彼女は、いつもの裸婦モデルとして来る女性とは異なった姿だった。やはり母なのだ。息子の為に時間を割いてくれた人間には、母親として深く感謝をする女性だった。

「では、また来週。あ、お母さんは明後日にまた、モデルに来てくださいよ」
 母子が揃って『はい』と笑顔で答えた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「あ〜。もう外が暗くなっているっ」
 帰り支度を終えた大輔が見た窓の向こうは、もう夜空だった。しかも大きな牡丹雪が舞っている。
「すっかり遅くなってしまったね。大輔君の集中力につられて、僕もつい夢中になりすぎてしまった」
 午後から始まったレッスンは予定の時間を大幅にオーバーしていた。だが多恵子は気の良い笑顔を見せてくれた。
「いいえ。こちらの我が儘にとことん付き合ってくださって、感謝しております。今日は私も高校生だった時の部活生活を思い出して、懐かしくなりました」
 ただ母親として座っていただけなのに、多恵子の頬はモデルを終えた時のように紅潮している。謙は思う。今日の多恵子は息子の大輔と同じ気持ち同じ意気込みで黙って座っていたのだと思う。なにもしなくても、見守っているだけで『母』というのは子供と同じエネルギーを使っているのだと、初めて思わされた。
「そこまで送るよ」
「いえ、そんな……」
「いいから。そこの地下鉄の入り口まで」
 彼女を送ったことなど一度もないが、今日の謙はそんな気分だった。何故と言われても自分でも分からない。だが大輔は、『三浦先生』直々の見送りとあって嬉しそうだった。

 アトリエ部屋の玄関を出て、三人共にエレベーターに乗った。
「先生にもらった鉛筆で、早くなにか書いてみたいな」
 思わぬ贈り物を鞄にしまわず、大輔はそのまま手に握りしめてくれていた。それだけ嬉しさを噛みしめてくれているようで謙も満足だった。
 少年の美術への情熱。楽しんでいる姿を眺め、謙はそっと隣に並んでいる多恵子を見下ろすと、そこでぴったりと目が合った。そして同じように微笑みを浮かべていた。
 ――嬉しそうだね。――そうですね、嬉しそうです。
 彼女との会話が心に浮かぶ。
 多恵子の眼差しはそのまま母親として直ぐ息子へと向かっていってしまった。その息子を見つめる目が、またとても幸せそうで――。
 そして謙もそんな母子とこうして一緒にいると、とても気持ちが和んだ。

 エレベーターのドアが開き、大輔が一番に出て行く。ご機嫌な少年はそのまま軽やかな足取りで、雪が舞う外へと飛び出していった。
「もう、あの子ったら。大人ぶった振りをするようになったかと思ったら、まだまだ子供だわ」
 と呆れた顔で言いながらも、やはり多恵子は最後には息子を愛おしそうに見る。
「そりゃ、まだまだ子供だよ。拓海だってあれでも『まだ子供だなあ』と僕も思うからね」
「きっと私達、ずっとそうなんでしょうね――」
「きっとそうだねえ」
 親としての気持ちで共感し合う。雪の路地に二人揃って出ると、大輔はもうギャラリーカフェの前にいて『はやくー』と母親を呼んでいた。
「あはは。どこが無口なんだ」
 反抗期で、望みが叶わないと苛む少年の抵抗は『無口になった』ことと、この母親が言っていたのに。すっかり無邪気でご機嫌な様子で、笑わずにはいられなかった。
「先生のおかげです。効果がありすぎて、すっかり子供返り」
 多恵子も笑っている。
 肩を並べて歩く、雪の夜空の下。先に行く無邪気な子供にせかされて――。隣には暖かな母の眼差しをした、この世界のなにもかもに溶け込んでしまいそうな柔らかな女性が一人。謙の隣にいる。

 何かを錯覚しそうだった。
 それに気が付いた自分に驚き、その一瞬は謙を酷く寒くさせた。
 この冷気に覆われた雪の都市の中、でも、この隣の女性と少年は間違いなく暖かな存在だった。だが謙は違う。今、ほんの少し、彼女達と寄り添って歩いている雪の中で見てしまったのは『幻』――。
 それはずっと昔に謙が自ら捨て去ったもの。

「母さーん。来て、早く来てよ」
 また大輔が叫んでいる。でも今度の呼び声は妙に慌てている様子だった。
「どうしたの、大輔」
 母、多恵子の足が急ぐ。謙の傍らからすっと飛び出していってしまう。しかし幻から目覚めた謙も、その後を大股で追った。

 大輔はギャラリーカフェを指さして、なにやら喚いていた。
 息子の傍に追いついた多恵子がそちらに目を向ける。そして、彼女がとても驚いた顔。雪の中、多恵子がそのまま固まってしまい、そして狼狽えた様子で謙を一目見たのだ。
 なにがあったのかと、謙も胸騒ぎ。多恵子の傍に追いつく一歩手前、大輔が指さしたギャラリーカフェの窓に何があったのかと確かめようとした時だった。

「父さんだ!」
 謙の足が、冷え切った雪道に囚われるように凍り付く。そのまま動かなくなる。

「きっと待っていてくれたんだ。迎えに来てくれたんだよ。母さん、店の中に入ってもいい」
「え、ええ。いいわよ」
 窓辺を見て、謙を見て、気もそぞろのまま多恵子が答えると、大輔は嬉しそうに走り出す。
「大輔、先生にご挨拶なさいっ」
 そこは流石にしっかり母として押さえる多恵子。
「先生、さようなら。有り難うございました」
 あっという間に、謙といた少年はカフェの入り口に吸い込まれ消えてしまった。
 少年が残した残像は、ふわりとした大きな綿雪。静かに舞い降りているだけの……。紺碧の夜空と白い綿雪の残像に寒さを覚えると、謙の足下には暖かな灯りが降り注いでいる。灯りは多恵子が見上げている窓辺からこぼれているもの。寒くなっていくばかりの謙は、灯りの暖かさに誘われるように顔を上げた。だが暖かな灯りに包まれたそこには、自分よりもずっと若々しい男性がいる。スーツ姿の男が謙を見ていた。
 ただ彼を見るだけで精一杯で茫然としていると、窓辺の彼から謙へと一礼をしてくれている。黒い洒落たネクタイがよく似合っている彼は、そのまま頭を上げようとしなかった。
 困惑した様子の多恵子も暫く言葉を失っていたが、そんな彼を見て静かに言った。
「私の主人です」
 そう言った多恵子がカフェの窓辺を見上げると、窓辺の男性も既に謙ではなく彼女を妻を見ていた。
 二人の眼差しがぴったりと合わさる。謙の目の前で。 

 

 

 

Update/2009.7.23
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