―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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タエコと雪子 4

 

 先生、お疲れ様でした。と、彼女が当たり前のように去っていく。
 雪の中にぼんやりと佇むギャラリーカフェへと、息子同様に消えていった。

 窓辺の父子は既に、スケッチブックを挟んで笑い合っている。
 自分が手ほどきしたビーナスのデッサンが、一家の中心を彩り始める。

 ついに多恵子がやってきて、息子の隣に座ろうとしていた。
 その前に。多恵子が窓の外を見る。まだ足下が凍り付いたままの謙ではあったが、目が合わぬうちにそこから離れる。

 はらはらと舞う雪の中、独り、アトリエがあるマンションへ向かう。足早に。冷気が入り込んでくる首元の襟を片手で急いで閉じる。あまりにも寒すぎた。つい先程まであれほどに暖かく感じていたはずだったのに。風が吹いているとは知らなかった。
 背を丸め、男は一人で帰る。それが日常ではなかったか。

 アトリエに戻ると、少年が懸命に向かったイーゼルがある。そしてその少し後ろに小さな椅子。
 そこで微笑んでいた女性は、このアトリエの女ではなかった。
 何故、僕は今。このように何かをもぎ取られたかのような気持ちに落ち込んでしまっているのだろうか。謙は探した。自分で自分が解らなくなるようなこの感覚、久しく巡り会っていないこの感覚。なにもかもを上手くやり過ごせるような、そう、もう……若さなど色褪せてしまった男が『未だにこの衝撃に陥る』とは、自身で二度とないと思っていた。ある程度の山場は謙にも漏れなくあった。しかし、それを乗り越えて、若さはなくしてしまったがその代わりに『自分で築いた平和』を手に入れたと信じていた。

 なのに、この気持ち。

 アトリエ部屋の灯りを、おもむろに消す。
 多恵子が座っていた椅子に、ダウンジャケットを脱がずに、そのまま腰をかける。
 真っ黒に塗り潰された空に、白い雪がざんざかと降り注いでいる。風が強くなっていた。部屋を出た時のまま、暖房も消えている。暖まっていた空気が徐々に冷えてくる。
 そんな頃、謙はふと思いついて窓辺へ歩み寄る。あまりにも平凡すぎて雪景色の中に消えていってしまいそうな女性との短い歩みを辿る。その道の先を、無邪気な少年が笑っていた、つい先程の時間を反芻する。
 だが少年と雪の女性は、あの灯りが降り注ぐカフェへと消えてしまった。そこは暖かで、明るく、そしてその奥では二人を包み込んでいる男が待っていた。彼も妻の多恵子同様に、雪道をただ通り過ぎてい行くだけの、そこら中にいる一人の男に過ぎない。そんな男性。しかし彼は、謙の心を引っ張っていく少年と女性を堅実に包み込み守っている。だから少年と彼女は、何に置いてもそこへ向かっていく――。

 その暖かいドアを。
 謙は叩くことが出来ない。いや、叩けないように自分でしてしまったのだ。

 平和になったのではなかったのか。
 一家を優しく迎え入れたカフェのドアを、謙は遠く見つめ、はっとする。
 風が強まる夜道。そこへ少年が飛び出し、肩を並べた夫妻が出てきた。
 先程まで謙がそうしていたのと同様に、少年が先に走り、その無邪気さを後ろで見守って笑い合っている夫妻の姿があった。

 多恵子は笑っていた。
 そして彼も。

 白い雪明かりの夜道を、吹雪き始めても、彼等と彼女は歩いていく。
 そして謙の肩は冷えていた。凍り付く窓辺、そして部屋に灯りはなく、謙の息する音だけ。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その指先が慣れはじめている。
 黒髪を結い上げる指が迷いなくまとめ上げ、鼈甲の飾り櫛を最後に添える。

 玲美に結ってもらった日に、多恵子は懸命に覚えマスターしようとしていた。
 それが数回で慣れた手つきになる。
 今日もモデルにやってきて、服を脱ぐとガウンを羽織り、ソファーに座ってそれをしている。小さな鏡を正面に、見えない後ろの黒髪をひとつかみにして一気にねじ上げピンで留める。手鏡で後ろを確認し、そして謙が望むようなややルーズなスタイルに整え、最後は櫛を。またそれも、アトリエ部屋の入り口、ドアに背を持たれながら謙は眺めていた。
 やがて、多恵子が少しばかり訝しそうにして、待っている謙を見た。
「先生、どうかされましたか」
 何が。と、謙ははたと我に返り、こちらを見てる彼女とやっと目が合う。
「なにもお話されないので。私、どこかいけませんか」
 手鏡でもう一度、自分で結った髪を心配そうに確認する多恵子。
「いや。それでいいよ。さあ、はじめようか」
 心の中で溜め息ひとつ。「はい」という多恵子の返事、そしてこれも慣れきった手でガウンを脱ぐ姿。すっかり裸でいることに慣れた多恵子がそこにいた。また謙は溜め息を密かに落とし、アトリエに入る。

 ソファーに横たわるモデル。ポーズをつくるのも慣れたものだった。
 そして画家の男も、イーゼルに向かい、パレットと絵筆を持つのも手慣れた動作。
 イーゼルの男と寝そべる裸婦の目が合う。毎回のこと。そして二人はそこで少しだけ微笑み合っていた。それが互いの最初の疎通。僅かな瞬間を得て、男はカンバスに、女はカンバスの世界観を作り上げる為に、気持ちも目線も何処かに行ってしまう。時折、彼女を「タエコ」と呼ぶと戻ってくる。その時に絵筆をちらつかせると、彼女が謙を観て、謙が望む世界を探してくれる。やがてそれが彼女のつま先から指先へと行き渡り、さらなる裸婦の世界観を醸し出す。謙はそれを追いかけて捕まえる。そしてカンバスに閉じこめる。遠ざかっていく目線、時折帰ってくる目線。彼女の唇がふっと息継ぎをするように小さく開き、何かを囁く。画家の男にはそのコトノハは聞こえない。なにを囁いたのか眼で聞き取っても聞こえないことにしていた。いつもそれが彼女が謙の前でよく呟く『二文字』であっても、聞こえないふりをする。吐息だけの呼びかけに、彼女は彼女だけの世界で謙を呼んでも……。その肌も、眼差しも、素肌も。そして『先生』と呟く吐息も、彼女愛用のクリームの香りも、その下に微かに存在している肌の匂いもも。全て、カンバスに閉じこめるだけのことで、捕まえても彼女は決して謙の手に触れられることのない……。

 いつもはどこまでも絵の具に込めるだけで満足していた男は、この日、ほんの少しの時間で絵筆を置いてしまった。

「先生……」
 また彼女の不安そうな顔。
「いや、そんな日もあるものでね」
 そして彼女の表情が和らいだ。
「当分はスケッチで過ごすと言われていたのに、また急にカンバスに向かって作品に挑まれて……。先生だって、お疲れになりますよね」
 気遣ってくれているのは、謙でも解っている。これが昨日であったなら、彼女らしい優しさに謙は頬を緩めて、筆を置いても心が重くなることはなかっただろうに。
「先生、お茶を煎れましょうか」
 なにもかもを受け入れてくれようとする彼女の、その『パートナーぶり』をこれほど憎々しく感じたことがあるだろか。彼女とこうして向き合うこと数ヶ月。ここまでの信頼関係を築けたことを喜びと感じれば感じるほどに、今日はそれが憎々しい。
 目の前のカンバスには、『三浦謙』とかいう裸婦画家が見出した『タエコ』が全裸で横たわり、肩越しにこちらを見つめている。この絵を見た者はきっと、この女性を『優雅な婦人』と感じることだろう。毒気がなく、柔和で、清らかな……。そんな印象で彼女を見る。誰が見ても、美しいというより『見るだけで癒される婦人』。謙もそのつもりで描いていた。
 だが、と謙は立ち上がる。カウンターの上にあるペインティングナイフを手に取っていた。それを握りしめ、己が生み出した婦人を見つめる。いま抱いていた多恵子を憎らしく思う同様の気持ちで婦人を見る。その腕を躊躇わずに振り上げていた。振り落としたい先は、婦人の顔だった。だが、出来るはずもない。謙は既にその婦人の目線も顔も肌も仕草もなにもかも……愛していた。
 だからこそ、謙はナイフを振り下ろす。でも顔は避けた。極近い、クリーム色に塗りつぶした壁に、ソファーに、アクセントに添えた紅紫色の大輪の花へと、ざっくりと大きく斜めにカンバスを引き裂いていた。後悔はなかった。

 当然、カンバスの向こうにいるモデルが、己の身体を引き裂かれた痛みを感じたと思うほどの勢いで立ち上がる。僅かだが悲鳴めいた声を漏らし、本当に息の根を止められたかのように固まってしまっていた。全裸で立ちつくす多恵子。切り裂いたままカンバスを眺めているだけの謙。暫しの静寂のなか、やっと動いたのは多恵子で、彼女が全裸にもかかわらず、イーゼルに駆けよってきた。
「どうして」
 謙の顔より、多恵子は切り裂かれたカンバスに肩を落とすかのようにすがった。
「先生、私のどこがいけなかったのですか。言ってください」
 非はモデルの自分にあると思い込んでいるその顔も、今日の謙には気に障った。だからとて、多恵子に当たるのは筋違い。しかし、顔が眼が多恵子を責めているのだろう。そしてカンバスを引き裂き、いきなり鼈甲櫛の婦人画を強制終了させたことに後悔など微塵もないこの気持ちがどうしてなのか、謙は既に自分で判っていた。
 彼女はまだ、引き裂かれたカンバス哀れに見つめては、謙の顔色から原因を探ろうと必死の目。そんな多恵子の肩を無理矢理掴み取り、謙は自分の目の前に向かわせる。
 多恵子の困惑する顔、目が熱を持って潤んでいるのが判る。彼女にとって謙の手で描かれた『自分』を無碍にされたのだから哀しくて当然だろう。だが謙はそんな彼女にも容赦なく手をかける。
「こんなもの、まやかしだ」
 そう言って謙が手にしたのは、自ら彼女の為に選んできた本鼈甲の飾り櫛。それを床に放った。多恵子の息が驚きで引き、自分の為に飾ってくれた櫛を目で追う。たが謙はそれもさせまいと、今度は黒髪の頭をがっしりと掴んで、また自分の目を見るよう多恵子を離さない。
 櫛が外れたまとめ髪がそれだけで崩れる。はらはらとか細い黒髪が多恵子の頬に落ちてくる。先程まで柔らかな婦人であった彼女が見る見る間に乱れていく。それに拍車をかけるが如く、彼女が手際よくまとめた髪を整えたヘアピンも、謙は次々と取り払う。取るたびに一本ずつ床に落ちていくヘアピンが、かちりかちりと多恵子の足下に散らばる。もう多恵子は、謙の勢いに茫然としてるだけ。謙を見開いた目で見ているだけ。
「まやかしだ。こんなタエコはまやかしだ」
 ピンが全てなくなり、謙はタエコの黒髪を両手でくしゃくしゃと混ぜる。綺麗に優雅に、スタイリッシュなインテリアの中にいた婦人が……。ありきたりと思っていた女性の魅力を引き出そうとしていた、いや引き出したと思っていたが、謙はそれを自らの手で崩壊させる。
 そして茫然としている多恵子に向かって、謙は最後に引き裂いた『作品』を指して叫んだ。
「こんな飾り立てた多恵子は、タエコじゃない」
 時間を止めてしまったかのような彼女の黒目が、やっと僅かに動いた。それだけで多恵子も気が付いてくれたのだと、謙は不思議と、不思議とそう感じることが出来た。それが余計にどうしようもなく哀しかった。
 貴女はそれだけで僕の気持ちを解ってくれるのか。
 だから憎々しい、今日は憎々しい。そしてそれは哀しく、謙に空虚を与える。
 やがて謙はカンバスに額をつけ、がっくりと項垂れた。
「……僕は、また。同じ過ちを繰り返すのか」
 遠い過去、恋人を熱烈に愛するまま、彼女を裸にして勢いで描いていた。彼女がいつ、自分の妻になり息子の母になったのか思い出せないほどに。そんな彼女を『偶像化』するまでに謙は暴走していた。
 最愛の妻をビーナスに。そして今度は。いつの間にか恋するようになっていた女性を、ありきたりな彼女をシンデレラの如く貴婦人のように仕立て上げたりして。
「こんなの、多恵子じゃない」
 項垂れたまま目を開けると、視界の端に、全裸の多恵子がそっと寄り添うのが見えた。
「先生」
 彼女の指先が、謙の背をなだめている。その指先が何もかもを知っていることを謙は感じた。――『父さん、ごめん。子供の頃に残していった父さんの絵と似ていたから。彼女に、母さんと父さんのこと話してしまった』――息子、拓海の報告を思い出す。別に知られても良いと思っていた。いつか自分からも話す機会があれば。その機会がなかっただけ。そしてそれに関して改めて彼女と会話する機会もなかっただけ。なのに、こんな時に彼女の指先が『解ってます、先生』と、謙を労ってる。
 もう、嬉しいのか、情けないのか、分からなくなってきた。しかし今日の謙は、顕著に現れているあの感情が全ての感情を束ね、一貫させる。いつまでもいつまでも謙を慰めようとする指先。腹立たしく思う、その指先。
「やめてくれないか」
 背を撫でてくれていた指先を、謙は強く捕まえ握りしめる。
「分かっていたのか。僕が同じ過ちの作品を手がけはじめたと――」
 驚きの表情を見せた多恵子が、慌てて首を振る。分かっている。最初は彼女が良い感を謙に与えてくれこうなったというのに。謙が上手く使えず、ねじ曲げたのだ。
「嬉しかったから、鼈甲の櫛を毎日綺麗に差していたんじゃないですか。でも……私じゃないみたいだとは……」
 きつく握りしめられた指の痛みなのか、彼女の顔が歪む。そして謙の顔を見て、彼女は目を逸らす。
「もう駄目だ。描けない」
 絵を捨てる。代わりに、謙は多恵子の顎を掴み取っていた。その先、何をされるか悟った彼女の顔がある。驚きでもない、そして怯えてもいない。だが多恵子も哀しい眼差しに陰る。
 構わず、僅かに迷っている唇を塞いだ。そのまま抱き寄せた。抵抗もなく、こんな時も多恵子の全裸は柔らかに謙の胸に入り込んできた。
「せ、んせ」
 息苦しそうに呟くが、多恵子は嫌がっていなかった。そのまま謙の両手は多恵子の黒髪を撫で回す。もう何処にも、あの優雅な婦人はいない。くしゃくしゃに乱れた飾り気のない女が、特徴のない女がそこにいるだけ。
 きっとこうして乱れて、困った顔をしながらも、彼女はこの甘美な味わいをあの彼と交わし合っているのだ。謙のモデルとなってからも、それは謙の知らないところで確かに交わされていたはず。その匂いを嗅ぎ取りながらも、謙は夫妻なら当たり前と横に置いて見ようとしなかった。いままでのモデル同様に。
 しかしもう、なにもかもが変わってしまったのだ。
 飾りのない、そして、清らかでもない。熱い吐息を漏らし、肌を火照らせ、そして唇を濡らす。男、に。夫だろうが画家だろうが同じ事。「タエコ」は清らかな女性ではない。
 彼女も男を愛すための淫らさを刻みつけた『女性』だということを。何故、忘れていたのか。いや……見ようとしなかったのか。
「これだ、これが本物のタエコなんだ」
 彼女の身体にすがりつくように、謙は跪く。目の前に彼女の、小さな臍があった。見上げたそこには、まるい乳房が謙を見下ろしている。そこに手を伸ばし指先で柔らかに掴むと、「あ」と多恵子が濡れた声を漏らした。その途端に彼女の肌がしっとりと熱気を放ったように感じた。冷えた頬を謙は肌に寄せ、その熱さにとろけるようにして多恵子の臍に口づけた。

 

 

 

Update/2009.9.21
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