―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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タエコと雪子 6

 

「これは駄目だな」
 久しぶりにアトリエ部屋を訪ねてきたと思ったら、作品群を眺めた藤岡氏の言葉がそれだった。
 破ったカンバスを見つけられてしまい、その描きかけの絵を見た画廊の店主が下した評価が『駄作』。
 わかっていたが、謙は顔をしかめた。
「よくぞ、破った。よくぞ、筆を投げた」
 貴婦人風に整えたタエコの姿を避け、カンバスは斜めにぱっくりと開き、向こうのソファーセットを隙間から覗かせ、さらに謙を責め立てる光景がある。
「思った通りだ。君はあの人妻に恋したな」
 だからなんだと言いたいが、謙は口を閉ざし、知らぬ顔を決め込んでいた。そこで諦める友人ではない。
「しかも恋した途端に、これまたこの路線で来たな」
 裸婦なのに、綺麗に仕立て上げ奉り立ててしまう勢いで描いたものからは、彼が言うところの『駄作』という匂いが酷く漂ってくるのだそうだ。
「だが、今回は思い留まったんだな」
 いや、あの彼に会わなければ、そのまま突っ走っていたに違いない。そう思う謙は『自分で踏みとどまった』とは言えなかった。
「どうも、あの偶然の婦人とやらから、まずいなとは思っていたんだ。あの作品はまあ良いとして、あの時の君の戸惑いとか荒れっぷりとかね。それでもまだね、君があれを描き上げられたから黙っていたけど……」
 破れたカンバスを見つめ、藤岡氏がなにかを口ごもった。「だけど、なんだよ」と謙は先を急かす。するとまた、ちょっと面白そうな目つきで彼が謙を見た。言って良いのか、言ったら君は嫌がるよ、だから俺は敢えて言うのを止めたんだよ、と言いそうな目。そうだとわかって謙は再度「だから、なんだ」と差し迫った。
「いや、玲美がね〜。髪結いを頼まれて裸婦の制作を初めて見せてもらったとかいう後に話してくれたんだが、『あれは男と女だったよ。演じきっていた。でもおじさんは本気にしか見えなかった』とか教えてくれたもんでね。いやいや、いいよ。どちらかが勝手に密かに恋してもね。だけれど『演じていた』というのが、どーも引っかかってねえ」
 うわ、もうそれ以上言わないでくれ――。謙はそれすらも言えずに、顔を覆いたくなった。この彼にかかっては絵を見られたら何もかも隠せないと言ったほうがいいぐらい。だから本当はこの絵をみせたくなかったのだが。きっとそれすらも隠せないだろうと――。
「本当に恋をしているなら、気持ちを悟られぬよう密やかに見つめるだけ。そのほうが『本物』というものだよ。なにも『如何にも通じ合っている男と女の演出をしなくても』――。それにこれまた、『撮影セットの如く』。彼女を仕立てたな」
 その通り、ああその通りだよと、ついに謙はぷいっと藤岡氏から背を向けてしまった。
「まあまあ。同じ事を繰り返す前に、君自身が気が付いたわけだし。いいんじゃないの」
 ずけずけ言った詫びのように彼が肩を叩いてくれたが、謙はすっかりその気で描いていたわけだから、旧友にしかも画廊屋に言われてかなりのダメージだった。
「もう彼女との制作は限界かね……。君だって昔を思い出して、その気になれまい。君は主観的には描けなくなった男だよ」
 佐藤多恵子という裸婦モデルとは、潮時だ。彼がそう言いだしているのだ。これ以上、彼女と一線を越えて男女の仲になるかならないかの関係は残っても、もう絵画を描く関係にはなれそうもないと言う藤岡氏。だが謙は、そんな藤岡氏にひとつのスケッチブックを無言で手渡した。勿論、怪訝そうに彼がそれを受け取る。彼はそれを開くと、数ページ追ううちにはっとした顔で謙を見た。
「まさか、寝たのか」
 言うと思ったと謙は顔をしかめるのだが。
「信じてもらえるかどうか知れないが、寝てはいないね」
「でもさ、これ」
 特にスケッチが途切れているあたりのページを何度も彼が眺め返している。やがて彼が『いやいやいや、これは』と謙を再度確かめるように、顔色を窺っている。
「これ、あの彼女?」
 こくりと謙が頷くと、また藤岡氏の驚きの顔。彼はしげしげと『タエコ』ばかり眺めることに。
「でも、ぶるっと来た」
 感じたままに藤岡氏が、ぶるっと震えた真似をする。男としてぞくっとそそられたらしい。  だが今度の彼は真剣な顔で多恵子を見ている。
「俺だったら、抱いているね。あの彼女がこんなに色っぽい顔で裸でいるのに? 勿体ない」
「まったくその通りでね」
 え、抱きたかったのか。と、藤岡氏に尋ね返されたが、謙は無視した。しかしそれが答のようなものだっった。
「そんな上手の女性にはみえないけどなあ」
「侮らない方が良い。上手だよ」
「そうか? 押し切られそうな静かな女性じゃないか」
「いやいや。男って馬鹿だなあと僕はつくづく思った。これはね、彼女が上手とかではなくて『女性達が男よりずっと上手』ということなんだってね」
 やっと彼も『あー、なるほどねえ』と、同じ男として納得してくれたようだ。
「男として燃え尽きることが出来なくなっただなんて。つまんない年寄りになってしまったんだなあ、俺達」
「十年前なら、自分のことしか考えなかった……」
 多恵子に諭されたから踏みとどまれたと言っても良いが、それでも謙が男の欲一辺倒で押し切らずに済んだのも、そういうこともあったのだ。多恵子の向こうに離れて消えない影が、ずうっと謙の視界で揺れている。それを在っても無いものとしてやり過ごせなかったのだ。
「よくよく考えてみれば、謙。君の場合、今までも独身としてオイシイ思いをいっぱいしてきたではないか。もう、充分だ。恋なら沢山してきただろ。これ以上、人妻まで望むなっ」
 ここに来て『人妻といざこざするくらいなら、そのまま身を退け』。藤岡氏は言う『今までの背負うものがない気ままな独り身同士の恋とは違うだろ』と。それを押し切るのは良くない。それは謙だって重々分かっている。
「でも、彼女をまだ描きたいんだ。彼女だってそれを望んでいる」
「出来るのか。毎日、恋する女の全裸を目の前に、今までのように『冷めた目』で客観的に描けるのか。今だから言うが、謙、君は情熱的な男だからあんなことになったんだ。本来の君はそうなんだ。そんな自分に『戻れる』のか? 今の絵が描けるようになるまで、評価されるまで、どれだけ苦悶して今の地位を手に入れたんだ。だとして、それを今から崩す勇気もあるのか」
 十数年かけて、やっと落ち着いた絵描きとして安泰の日々。苦悶の創作年月をかいくぐり『三浦画伯』とまで呼ばれるようになって、『作風』を変える勇気はあるのかと。そう突きつけられている。
「やってみないとわからないではないか。別に僕は、無理をして変わろうとしているわけでもないし、このまま自然に彼女を描きたいだけだ」
「ほう。五十路間近のチャレンジかい。いや再チャレンジかね。沙織さんとそうだったように『二度と会えない関係』になってでも、描きたいものなのかね」
「画廊屋の言葉とは思えないな。君もビジネスだ。お抱えの画家が良いものを描けるなら、画家とモデルがどうなろうが作品が出来さえすればいい。目をつむって黙って、絵が出来るのを待っている。絵さえ出来ればいいのだろう」
 『抱かずに描けたスケッチ』で説得しようとしたが、そのスケッチブックが謙の胸に叩かれるように戻ってきた。それが藤岡氏の忠告だった。
「この艶絵をそのままカンバスに描く気か。これはスケッチだから許される『遊び』に過ぎない。だから君も、スケッチブックに描くだけにしているのだろう。画廊屋として良い絵が出来そうだったら、モデル女とどんな関係になっても素知らぬ顔はしたいところだがね。君という男を知っている画廊屋としても、今の状態で『三浦謙が良いものを創り出す』に賭けることは出来ない。良い収穫がなさそうなのに、結果ももたらさない、不倫の道だけが残っている男女に目をつむれとでも言うのか。以前に、彼女から絶対に身を引く。彼女は生粋の家庭人だ。恋を選ぶとは思えない。だからもう、お終いだ。彼女も解っているだろう。潮時、もう三浦謙という男の前で裸になることは出来ないってね。当然だろ。三浦謙が画家ではなくて男の目で自分の裸体を見るのだから。もし『それでも暫くモデルを続けてみる』と思ってくれたとして、『いつ先生とその気になってしまうか』。そんな危険な日々を送れるか? 彼女は平穏を守り抜いてきた主婦だぞ」
 彼が破れたカンバスを手に取り、イーゼルから降ろしてしまう。まるで『彼女をカンバスに描くことはもうないだろう』と幕を閉じるかのように。
「この後。彼女は、どうした」
 それでも彼もどこか惜しそうな顔。今度は画廊屋の顔だった。今まで通りに謙が描きさえすれば、あるいは……と、人妻を捕まえた創作を始めた謙に、密かに期待してくれていたのも知っていた。
「別に。いつも通りに帰っていった」
「断りの連絡はまだないんだな。次のモデルの日は……」
「モデルの前に、彼女の息子にしている基礎レッスンがある。その付き添いで来るはずだよ」
 何とも言えないため息を彼がこぼす。それ以上は何も言われなかったが。
 だが、その夕。多恵子から連絡があった。『風邪をひいてしまったので、次のレッスンは息子だけ行かせます。よろしくお願いいたします』と。

 まさか。
 謙は案じる。
 危ない雰囲気だったが、二人にとっては胸に迫るものがある甘やかな時間でもあったはず。
 それで終わりだと言うのか。
 彼女が僕を避けている?

 

 

 

 

Update/2009.10.23
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