―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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タエコと雪子 8

 

『こんばんは、先生』
 そろそろ寝ようかと、静かなアトリエ部屋で一息ついた頃だった。
『大輔を自宅近くまで送ってくださったそうで。有り難うございました』
 随分と夜も更けた頃の携帯電話への連絡だったので、謙は驚いていた。
「いや。僕はね、ほら……中学生という男の子でも子供だと思ってしまってね。大輔君に子供じゃないと言われちゃって。僕の気が済まなかったんだよ。途中で何かあったら嫌だしね」
 本心半分、しかしその道行きの途中からほんの少しの心の変化。それを多恵子に読みとられていやしないものかと焦る心が、余計に言い訳じみた言葉数を増やすばかり。
『いいえ、助かりました。いつまでも親の目が届くようにしておきたい反面、やはり子供の自立を信じて待つようにする。ですけれど、それも落ち着かないものなのですよ』
「そうだよね。うん、そう……思うよ」
『でも大輔はそれでも、嬉しかったようです。有り難うございます』
「ううん、いいんだ。あ、そうだ。別れ際に大輔君が駅側にあるパン屋を教えてくれてね。そこで大輔君が好きだという『ミルクブレッド』というのを買って食べてみたんだ。美味しかったよ。お母さんがずっと買ってきてくれるパンだって」
 また、なにかを覆い隠すが如く謙は喋りまくっていた。そしてそれだけ喋って、実は自分が一番痛みを抱いた出来事だったことを、さも平気だと言わんばかりの一人踊りにも気が付き、途端に意気消沈。また一人で静かになってしまった。
『そうでしたか。あれ、私も大好きで……ずっと……』
 そして多恵子もぎこちない。
 謙自身も、なにか居たたまれない気持ちになる。
「……多恵子さん」
『はい』
 もう、いいだろう。
 全てを誤魔化すかのような、この濁った空気に耐えられなくなった。
「多恵子さん。あのパンを食べてね、貴女がずうっとそこで大輔君を育ててきた母親だと痛感したんだよ」
 彼女の息づかいさえ、聞こえなくなった。
「ずっとそこで変わらずにあるパンを、ずっと気に入っている親子のね。そんな姿を僕は見たよ」
 多恵子は黙っている。いや、僅かに息する声は聞こえてきたのだが、どこかそれがとても震えているように思えた。
 暗闇に浮かぶ夜の雪を、謙は窓辺で見る。真っ白な雪が静かに落ちて、それでも一夜で真っ白に覆ってしまう。
「僕たち、おかしくなってしまったね。そして僕が馬鹿だったよ」
 雪ならば、車が跳ねて染めていく泥水に汚れても、一夜で真っ白になるものを。
「スケジュール、白紙にしようか。何日に来て欲しいと決めたモデル日を全て、取りやめにしよう」
 その時ばかりは、多恵子の息引く音が耳に届いた。
『先生、私は駄目なモデルでしたね。アトリエの世界観に耐えうる素材ではなかったということになりますね。でも、私、本当は』
 彼女もそこで黙りこくる。言いたくて、でも、もう何も言えない多恵子は『行くことを許されない女』と心を決めていたことだろう。
「そんなことはないよ。こんな状態になったのは全部、僕のせいだ。でも僕は諦めていないよ。貴女を描ききることを。でもね……それがまた二人で描けるかどうかは、もうわからないよね」
『そうですね』
 救われたのは、そこで多恵子の声が絶望を思わせる悲嘆に震える声だったからだ。彼女はまだ『描いて欲しい』気持ちを捨ててはいない。
「これで終わりにはしないよ。もう一度、もう一度だけ、向き合ってみようよ。だけれど今は駄目だ。暫く、僕に時間をくれるかな。必ず連絡はするから」
 ――待っていて欲しい。謙は念を押した。
 多恵子はなにも言わず、『わかりました』と言っただけ。
 逆に言えば、謙だけでなく、多恵子も己を振り返り答を決めるということだった。彼女が今までの自分に戻ろうと保身的な道を選び、これで二度と描けなくなっても。それでも彼女が何かの殻を破りたいと、もう一度裸になって挑んでも。多恵子が思うままにしてやりたい。
 そして信じていた。彼女はもう一度、脱ぐ。自分の為に。そしてその時、僕は――。

 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 バブル時代に流行ったワンピースを着て歩いていた多恵子の姿を、人々は滑稽とばかりに横目で見ていた。
 そんな出会った日を思い浮かべながら、謙は鉛筆を持ってスケッチブックに向かっている自分のことも『滑稽だ』と思っていた。

 

 滑稽だ。いま、謙は『静物』のスケッチを始めていた。
 モデルもいない、イメージを膨らませるモデルがいても、そのイメージが描かせてくれない。裸婦画を描く気になれない。それなら静物のモチーフを並べて描いてみよう。その通りに、これまた『滑稽の産物』と化してしまった、多恵子との創作の為に奮発したイタリア製のテーブルの上にモチーフをセットする。
 これまた滑稽なことに、暫く使わなかった為に色褪せてしまったプラスチック製の果物に、埃を被った造花を、これまた奮発した小樽ガラスの花瓶に活けて。
 そしていつも通りにイーゼルにスケッチブックをセットして、鉛筆を手にしてスケッチをする。
 なにが一番、滑稽か? 裸婦を描く気がない裸婦画家が、それでも静物をわざわざ己でセットして、それでもなにかを描こうとしていることが、だった。

 結局。なにかを描いていないと落ち着かないのだ。
 なのに。この前のあれはなんだ。『もう描けない』だと? 『描けない』ことの甘えを誰に求めた? その肌に僕は救われたのか? 謙は自問する。

 古ぼけた作り物のモチーフが、偽物だけにより一層滑稽に思えた。なのに、今のこの画家には、非常にしっくりさせられるクオリティ。だからこそ、余計にすらすら描けてしまうのも、奇妙にしっくり……だった。

 暮れを迎える札幌は、雪の日が続いていた。切り込むような寒さの中、しっとりゆっくり落ちてくる大粒の雪ではなくなった。僅かに含んだ水分さえ冷気に凍らされ、サラサラとしたきめ細やかな粉雪になる。夜明かりにもその雪は七色のセロハンのようにキラキラと反射し、夜の札幌を彩り包み込む。かなり寒くならないと見られない雪だった。
 真冬の冷気に独り。アトリエでひたすら、作り物のモチーフをスケッチする男。
 その静けさに、謙は既に癒されていた。これが滑稽でも偽物でも、僕は今、無心に描いている。それが心地よかった。

 なにが僕を迷わせたのだろう。
 その答えもひとつしかなかった。
 いつだってそれは男と女を惑わし、そして無意識に男と女を蝕むもの。その毒に慣れてしまった頃には、何かをなくしていることにも気が付かない。
 なのに、その甘い毒は必ず恍惚とした世界へと誘ってくれた。失っていることも気が付かず、満たされる気分に高揚するばかりの。その甘美な靄の中に浚われ、時に溺れ、男と女の肌と心をバラバラにしたこともあった。
 裸体は裸体、心は心。決して、謙の中では一つにはならない。いや、なってはいけなかったのだ。
「一つだったから、僕は沙織といられなくなったのではなかったのか」
 洋梨を描いた輪郭、それを何度もなぞった。輪郭の描写だけで本来の姿より、肥大していく洋梨は徐々に別物の果物のような姿になるほどに――。
「いや、一つになって描けないなんてあるものか」
 逃げていただけだ。そして、上手く流れることに……負けていたんだ。
 やがて、謙の鉛筆の先が、人の顔を描き始める。モチーフの余白に、切れ長の黒い目、通った鼻筋、そして唇。彼女が謙を涼やかに見つめていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 滑稽な静物画は、カラーコンテの水彩で徐々に仕上がりつつあった。気休めの遊びにしては、夢中になって。

「静物なんて、俺も久しぶり。大学入ってからモデルを描く講義ばっかりだったからさ」
「うん、たまには静物もいいだろう」
「高校んときに部室にあった年代物の静物教材に、負けていないモチーフだなあ」
 相変わらず、辛口のものいいをする生意気な息子の例えに、謙は『いえているな』と苦笑いをこぼした。

 息子の拓海が冬休みに入り、年末年始の帰省を前にして、札幌にも足を運び父親の謙に会いに来てくれた。
 と言うよりも。『雪の年の瀬、北国の年の暮れを見てみたいなー』という、そんな気持ちがもとよりあったらしく、いつもは別れた妻がいる広島の実家へ真っ直ぐに帰るのに、今年は母親の許しを得て前もって札幌に寄ることも予定に入れたとのこと。
 そんな息子は来るなり、見たこともない父親の姿に唖然としていた。『父さん、どうしたんだよ。静物の水彩スケッチをしている父さんなんて初めて見た』。そう言って、暫くは妙に遠巻きにして眺めていたのだが。やがて自分もスケッチブックを取り出し、そこらにあるイーゼルにセットし、謙とは違うアプローチの角度で、彼もコンテの水彩を描き始めた。
「父さんの水彩て、意外と色彩強いな。コントラストが強い。知らなかった」
 肌色とその背景しか描かない裸婦画家が描く静物画。そこにはまるでその描き手の人柄を表すかのような色彩が浮かび上がる。それを見た息子が言う。
「父さんの裸婦画は、品があって芯が見えて、アクのない優しそうな女性が多いと思っていたけど。母さんを描いてきた色彩とは違うんだよな。そう思っていたけど、その水彩は母さんを描いていた時の色彩に見えるよ」
 遠く、なにかを思い返しているかのような息子が目を細め微笑んでいた。だが、次にはなにかを諦めたような顔。どうしたことだろうか。そんな息子の顔を初めて見知った気がし、にわかに胸が痛んだ。
「拓海、不甲斐ない親父で悪かったね」
 急な父親の言葉に、あの拓海が面食らった顔。
「なに言いだすんだよ、今更。本当に今更なんだけど」
 いつもの突っぱっている口だったが、顔が……謙も知っている少年時代の顔になっている拓海。それを見て、どうしてか抱きしめたくなったが、もう……許されるはずもない青年。いや、そうすれば良かったのかも知れないが、そうしてもきっと大人になった拓海に逃げられるような気もしたのだ。

 スケッチを終え、夜は藤岡の家に招かれていたので出向く支度をしている時だった。
 父親のスケッチが置いてあるイーゼルに、息子が佇んでいた。
 彼の指が、父親のスケッチブックをめくり、あるところで止まっていた。
 それを遠くで見守っていた謙は、息子が驚く顔を見届ける。彼が、答を求めるように、遠くで見ている父親へと視線を向けてきた。
「父さん、これ」
 何枚かスケッチした静物。数枚のページ、静物をスケッチした鉛筆画の余白に現れる女性の顔。
「多恵子さんぽい顔もあるけど。でもこれは母さん……だよね」
 息子の問いに、父親はなにも答えなかった。
 何故なら、その女性にもうずっと会っていない。そして多恵子とも彼女ともつかぬ思いで、気持ちが赴くままに描き出した女性のスケッチ画に名など無いからだった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 年が明け、また独りのアトリエ。
 年が新しくなり、そしてアトリエの淀んだ空気も無くなった頃、その部屋に燦々とした陽射しが戻ってきていた。
 これからまだまだ雪が深くなる季節ではあるが、ほんの少しだけ日が長くなった。
 いつもなら『まだこんなに早い時間なのに暗いな』と侘びしい気持ちがもたげる中、部屋の灯りをつけてきた。だが、ほんとうに僅かではあるのだが、同じ午後の時間でも部屋の床に陽射しが当たることが多くなってきた。
 年の瀬の冬至が過ぎただけで、北の国にはほんの少し春道が始まる予感。まだまだ雪が降り積もり、本当の春がやってくるのも何ヶ月も先なのに。新春とはよく言ったものだと謙は鉛筆の先を動かしていた。

 正月休みが明け、歩く街並みにも日常の姿が戻ってきた頃だった。
 今度の謙は、同じ静物でも違う試みを始めていた。
 ペンキで真っ白に塗った静物を並べている。食器も、林檎も、洋梨も、花瓶も、造花も。全て真っ白に塗ったものだ。テーブルクロスも含め、色彩は白一色。何故、そうしたかというと、これは学生時代に受けたレッスンの一つで、『白一色の物体』を如何にして一枚の紙の中に表現するか。そんな課題に使われるのだ。
 白一色だから、陰影で立体感をつけなくてはならない。白と黒だけでは結局平面的になるし、画面が重くなる。下地に赤、紺、緑、黄色。それで立体感を出し、最後に白色を被せる。そんな初歩的な、そして懐かしいスケッチに没頭してみようと思ったのだ。

 テーブルに真っ白なモチーフを並べ終わり、イーゼルに向かった謙はカレンダーを見た。
「今日、来る日だったか」
 時計を見ると、いつもなら多恵子がモデルにやって来る時間だった。
 まあ、あの様子では『モデルは続けたいけれど、もう行くことは出来ない』と決めている様子だったなと、謙は緩く笑う。
 きちんとしている多恵子のこと。いや、彼女にとってそれが良かったのだ。僕もあれ以上、彼女を壊したくなかった。そう言い聞かせ、それを忘れるが為に鉛筆を手にする。
 椅子に座った途端だった。チャイムが鳴ったのだ。謙の背筋が伸びる。『まさか』という思いだった。

 玄関を開けると、いつものありきたりなムードの多恵子がそこにいた。
「来てしまいました」
 だが、多恵子の笑みは固かった。

 

 彼女がそうしたいから来たのだろう。だから謙は黙って見ている。
 いつもそうしていたように、部屋に入るなり、多恵子はソファーで服を脱ぎ始めた。謙もいつもそうしていたように、アトリエ部屋に入るドアに背をもたれ、彼女の『支度』を眺める。だが、謙は眉間に皺を寄せていた。

 信じていた。彼女がもう一度、自分の為に『脱ぐ』ことを。
 だがこんな、お互いがこんなに迷っているのに。そんな無理矢理脱がなくても。――わかっている。多恵子が『来てしまった』のは、なにも肌を寄せ合った謙を忘れられないからではない。モデルに戻りたいからだ。
 それをわかっていて、謙は眺めている。見守っている。しかし案の定、彼女の背に迷いを見出していた。
 もっとピンとしていた背筋も、そして堂々としていた丸い尻も、恥じらいなどとうにかなぐり捨て誇り高くツンと張っていた乳房も。なにもかもが、しおれたように輝きを失っていた。
 だがここで謙は、別の意味で自分の目を呪った。画家としては『なんと自信を無くしてしまった裸婦であろうか』と見たのに対し――。無造作なままの黒髪を肩で払う多恵子の仕草に、アンニュイな迷いある横顔で、ゆったりとランジェリーを取り払い全裸になった彼女の後ろ姿が、とても艶っぽい女になっていて……。不甲斐なくも、自制を心に決めていたはずなのに、どうにも胸を熱くさせられた。当然、男としてだった。
 それだけ多恵子が女になっていると言うことなのだろう。別に、謙に色気をみせつけているわけでもない。きっと、自宅でもあの色香を自然に醸し出しているはずだ。
(まさか。彼も感づいているのでは……?)
 同じ男なら、今の多恵子のしっとりこなれた熟しようを感じ取るはず。ましてや、夫ならば。それとも傍にいすぎて気が付かないだなんてことになっているのなら、謙は世の中の『夫妻』である夫達を叱責したくなる。なにをしているんだ。目の前に傍に、これほどに熟した女を、当たり前という状況に甘んじて粗末にしているのか。罪は気が付かぬ男にある。僕のしたことを棚に上げてもだね、これに気が付かないで捕まえないだなんて、本当に罪だ。そう思う。彼への嫉妬も存分に込めていることは、無視して。
「先に待っているよ」
 なんとか見なかったこと感じなかったことにして、アトリエに入った。
 イーゼルには描きかけの『白一色の静物画』のスケッチがかけたまま。それを重い気持ちで降ろし、『タエコ』のスケッチブックに替える。椅子に座り、鉛筆を手にした頃に、多恵子がアトリエにやってくる。
 アトリエでは裸でありたいという新たなるポリシーを心に決めて存在していた多恵子。そんな彼女のしおれた裸婦姿がアトリエに入ってくると余計に浮き上がる。
 ソファーへと向かう多恵子が、少し驚いた顔で『白いモチーフ群』を見つけた。そして、彼女が何かを教えて欲しいとばかりに謙を見る。
「ああ、久しぶりに学生時代の課題を思い出してね。暮れに来た拓海と静物を一緒に描いたりしていたんだ」
「そうでしたか。先生、静物も描かれるんですね」
「時々ね」
 時々――なんて、嘘だ。何年ぶりか、それぐらい久しいのに、さも多恵子が居なくてもやることがあったように誤魔化している自分がいる。そして多恵子がそこで戸惑って、このアトリエの中ではタエコだけの部屋ではなかったことを知って、また瞳を伏せている。
 そんな顔をさせたくて言った言葉でもなかったのに。そんな顔をさせて謙の心が曇っても、でもそんな顔をしてくれて何処か安堵しているという。なんともやっかいでご都合良い心境に、謙は密かに舌打ちをする。
 多恵子がソファーに寝そべり、破ったキャンパスに描いたままのポーズを取った。それを見ても、謙は顔をしかめる。もう過去のものだった。
「ポーズを変えてくれるかな」
 まだ記憶に新しいだろうから、多恵子もあからさまに反応した。即座に、破られた自分を思い返してしまったことだろう。三浦謙が破り捨てた自分は、本当に必要とされていないと悟った悲しみを縁取る多恵子の顔があった。
 それでも彼女もなんとか堪え、しっとりと横座りで身体を傾けるポーズに変えた。
 白い紙に、謙は鉛筆を置いた。大まかな肢体の輪郭を描きバランスを取るラインを描きながら。しかし、裸婦へと視線を馳せようとする度に、二人の間にある『白の群像』がどっしりと存在感を醸し出す。謙はその度に、静物へと視線が引かれていってしまう。
 指先と鉛筆の芯先も危うい。裸婦を描きたいのか、白い群像の中にある白い洋梨を描きたいのか、そんなわからないライン取りを始めていた。
 その上、やっと多恵子へと視線が辿り着いても、多恵子の目が何処かに行ってしまっている。遠い空を見て、多恵子の心はこのアトリエにはなく、そして謙を見ても居なかった。そんな裸婦でも良かろう。その眼差し、なかなか風情はある。そんな時だけ、多恵子が立派な彫刻に見えた。だが、謙が描きたい女ではなかった。
 ついに、その手から鉛筆を手放した。
「やめよう」
 僅かな時間だった。だがこの不穏な空気は、あっという間にアトリエに充満した。やっと澄んだように思えた空気が、二人きりになってまた濁る。
 謙の頭の中も、白い静物を見ているような純粋な透明感は今はない。
 多恵子は……。そのポーズのまま固まっていた。本当に彫刻のようになって、もうそこから動かないのではないのかと思うほどに。呆然としているのだろう。なにが駄目になってしまったのか、なにが自分達を駄目にしてしまったのか。彼女ももう存分に身に染みている様子だった。
 心なしか、瞳が潤んでいるように見えたのだが。
「わかりました。そうですね」
 致し方ない小さな微笑みを見せ、聞き分けの良い女の顔で多恵子がポーズを崩す。だがそれでも、ソファーに座り直した多恵子は暫し俯いてしまう。
 泣いているのだろうか。謙ははらはらしてしまった。歩み寄って、跪いて、あのころんとした目に浮かんだ涙を慰めたい気持ちに駆られる。そして、ちいさくしおれてしまった、いや僕がしおらせてしまった裸婦を抱きしめてあげたいと……。またそんな邪な。
「私も、駄目みたいです」
 そう言って、顔を上げた多恵子は笑っていた。無理なよそよそしいものではなかった。なにかを吹っ切った笑顔に見えた謙は、多恵子の元へ吸い寄せられそうだった足下を止めてしまっていた。
 その清々しい笑みはなんなのか。

 

 その笑みが妙にひっかかる。あっという間に制作をやめてしまった二人は共にアトリエを出た。
 またいつものように、多恵子がたたんでいた服をソファーで広げて身につける。それを傍目にして、謙はキッチンで湯を沸かす、はずだったのだが。
「先生、今日はお暇ですか」
「え、ああ。なにもないよ」
 咄嗟に答えていた。振り返ると、多恵子はあの笑みのまま、そう多恵子らしい穏やかな微笑みで、あの赤いセーターを首に通し頭を出したところだった。なんとも思っていない手先が、ブラジャーの胸元をさっと仕舞う。謙は急に惜しくなり、眉をひそめる。二度と会えない気がした。
 白いカーディガンを羽織り、ジーンズを履きながら、多恵子が言う。
「よろしかったら、私とお散歩がてら、お昼ご飯を食べに行きませんか」
「は? 僕と」
「そう。先生と」
 多恵子は既に楽しそうだった。それがなんだか余計に妙だった。しかも。
「先生のご馳走で」
「え、僕の、奢りってこと」
「はい。頂きます。そのかわり、私はお店まで案内しますから」
 いつだって控えめの彼女が、唐突にねだったことにも謙は目が点になるばかり。どうしたの、多恵子さん? やっぱり妙だった。

Update/2009.12.28
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