結婚した頃はまったく出来なかった魚の煮付け。これもなんとなく出来るようになっていた。かすべの煮付けは、夫も息子も大好物。唐揚げにしても美味しい魚だが、近頃、揚げ物に洋食が続いたので、今夜は煮付けにする。
「ただいま」
息子の大輔が帰ってきた。
今日は横殴りの湿った雪が吹雪いていたので、寒い思いをして帰ってくるのではないかと気にしていたところだった。
「おかえりなさい。どうだったの」
帰ってきた大輔は、すぐにキッチンに立っている母親のところにやってきて、傍にあるテーブルに荷物を置いた。そして母親に報告する前に、バッグの中からスケッチブックを取り出した。
「うん。面取りデッサン、だいぶ慣れてきた。今日は仕上げで、先生が赤鉛筆いれてくれた。次からクロッキーをするって」
そのスケッチブックを多恵子に当たり前のように差し出した。多恵子も早速、それを開いてみる。
「すごい。上手くなっているね、大輔」
「だって、先生の教え方がいいんだもん。分かり易くて丁寧で」
大輔の満ち足りている笑顔を見て、多恵子も頬をほころばせる。
――もうちょっとで。息子が楽しみにしていた先生とのレッスンを台無しにするところだった。そして、自分が頼み込んだのに、あんなこと一つで母親の不始末でなかったことにしようとしていただなんて。息子のチャンスだって潰すところだった。
その通りで。スケッチブックに描かれたデッサン画に持って帰ってきた画用紙の作品を眺めると、大輔は格段に上達していた。初めて先生に見せた時に言われたような『漫画絵の延長のような線』ではなくなっていた。確実に、その線は『美術』で覚えていく手捌き。
でも多恵子はそんな息子が得た覚えた鉛筆のラインを見て知ってしまう。――『先生のスケッチのタッチに似ている』。師匠の技術を吸収して帰ってきた、というところなのだろうか。なんだか複雑だったが、大輔は自分がしっかりと描いてきたデッサン画を満足げに眺めているばかり。
「そう言えば、先生。今の母さんとの作品が出来上がったら、札幌から引っ越すんだってね」
あのアトリエを見れば、子供の大輔だって判ってしまうこと。それを目にして、そして先生が『札幌を出る』と説明をしたのだろうと多恵子は思った。
「すっごく大きなカンバスでびっくりした。専用のイーゼルもすごかった。お母さんが等身大って感じだったね」
隠しようもない大きさに描かれた母の裸婦画。息子は本当になんとも思っていないのだろうか。確かに、彼の好奇心を満たすために何度も絵画展に連れて行って、裸婦画も見慣れているとは思うが。
しかしそんな息子がお喋りをやめて、暫く多恵子の顔をじっと見つめていることに気が付いた。
「母さん、あのさ」
「なに」
何かを尋ねることを躊躇っているのが見て取れた。そこには等身大の裸の絵にされている母を窺う目をしていることにも気が付いた。やはり、画家とはいえ父親以外の男性の前で母親が堂々と裸になる。あの大型カンバスにはそれだけの生々しさがあったのだろう。
「初めて裸になった時、どんなだった?」
息子の問い。もし、いつかこんなふうに問われたら。多恵子は何度も考えてきた。それこそその時の受け答えを予行練習するように。
だけれど多恵子は大輔を見つめ返し、こう告げる。
「裸になれない日が一ヶ月ぐらいあったのよ。やっぱり恥ずかしくて、お父さん以外の男の人の前で裸になるのは怖かった」
隠さずに、そのまま告げていた。誤魔化しても誤魔化すほどに、掛け違えていく。傷つけたくない為の嘘もあるだろうし、それが正解の時もあるだろう。だが母の裸を目の当たりにした息子に、しかも同じアトリエで描くことを営んできた息子に『裸婦』として誤魔化したくなかったのだ。
当然、大輔はストレートに答えてくれた母に戸惑っていたが、次には堰を切ったように尋ねてくる。
「やっと脱げた時、母さんはどんな気持ちだったの」
「それがね。笑わないでよ。年甲斐もなく、泣いちゃったの」
「えー! 涙がボロボロ出たってこと?」
「そう。まるで……初めてキスした時みたいに」
「えー! それってお父さんとのこと? もしかして!」
いちいち面食らう大輔には、まだ少し刺激が強いかもしれない受け答え。だが大輔自身、興奮しながらも、なにか納得をしてくれたように、まだ無くしていない無邪気な笑みを見せてくれた。
「また裸婦モデルをするの」
その問いに、多恵子は首を振った。
息子の『どうして』と言いたげな顔、そして恐らく……『もうして欲しくない』と密かなる不安を忍ばせている静かな眼差しを母は見てしまう。
「ううん。もう、しない。三浦先生だけ。これっきり。二度としない」
「ほんと?」
「うん。すごく大変な仕事だと分かったから。お母さんみたいな素人にはやっぱり無理」
「ねえ、母さん。裸婦モデルをしてどうだった?」
いつになく深く踏み込んでくる息子に母親の多恵子が戸惑いつつも、でも息子の目は殊の外真っ直ぐで多恵子を離してくれない。
「いつか俺も、美大生になったら裸婦を描くかもしれないよね。母さんがその時、どんな気持ちで裸で画家の先生の前に立っていたか。その時に知ることが出来るかな」
大輔の目は未来を見ていたのだった。それがどうしてか多恵子には嬉しくもあり、そして何処か切なくもあった。息子が見据えているものが、いつか彼の手元に無事にやってくる日が来るといい。そう思い。
「まさに裸だった。お母さんの良いところも悪いところも丸見えになるの。それが嬉しかったり、とても口惜しかったり、情けなかったり。そして忘れていたことを思い出したり、逆に忘れそうになったり」
「裸婦は美ではないってこと」
「きっと、そのモデルさんそれぞれだと思うわよ。綺麗がテーマの人もいるだろうし、内面を表現しようとする人もいるだろうし。描く人のテーマもあったりして、上手く噛み合わない時もあるかもしれないわね」
「母さんと先生は息が合ったということ」
「描いて欲しいことと描きたいことが合っていたから、あの絵があるんだと思うわね……。そうね。ただお父さんの奥さんであったり、大輔のお母さんだったり、そして多恵子という女性だったり。結婚して十何年も経ってしまって、お母さんはそれが全部分からなくなってしまいそうだったんだけれど、どれもこれも、裸になって見えてきたの」
「どんなふうに?」
一言では言い表しにくかったから、多恵子も懸命に探した。自分のための言葉を。
「最初からどれも全部大事に持っていて、この歳になっても全く失っていない。それをもう一度思い出して……かな?」
「忘れそうだったのかよ。それって全部、ちゃんとなくちゃいけないお母さんじゃないのかよ」
自分の母親であることも忘れそうだったのかと、ふいに大輔がむくれた。一瞬でもそれがあったことを、多恵子は大輔に言えない。でもここは誤魔化してはいけないだなんて絶対にやってはいけない。
「大輔のことを忘れることなんて、絶対にない。もし忘れそうになっても、大輔を一番に思い出して、お母さんは絶対にここに帰ってくるから」
「当たり前じゃんっ。なに真剣に答えているんだよ! 怖いだろ!」
照れなのか、本当に怖かったのか。いつもの反抗的な大人ぶった少年に戻っていた。
「あっそ。お母さんも馬鹿正直に答えて、損した。あー、忘れていた。お魚が焦げる」
「なにやってんだよー。今夜の晩飯ナシって嫌だからな」
慌てて放っていた鍋を確かめると、丁度良く煮詰まっているところでホッとした。大輔も今夜のおかずが無事でホッとしたのか椅子にゆったりと座って、またスケッチブックを眺めようとしてた。
「あれ。お父さん。いつからそこに居たんだよ。びっくりするだろ」
息子の言葉に多恵子も驚き、鍋を見ていた視線をリビングの入り口へと向ける。玄関から続く明かりがついていない廊下に充が立っていたのだ。一瞬、ドキリと胸が騒いだ。もしかして、今の息子との話を?
「ただいま」
「お、おかえりなさい」
息子の手前か。そんな仲違いを疑われない程度の挨拶はする充。
そんな充も、テーブルの上に広がっている息子のスケッチにデッサン画が目に付いたようだった。面取りデッサンが描かれている画用紙を手に取り、暫く眺める。大輔は当然、期待顔で父親からの言葉を待っている。
「すごいな。大輔が描いたのか、本当に」
「そうだよ。先生の手伝いなしだよ。ちょっとはこうした方がイイよって説明はしてくれたけど、その通りに描いたんだから。赤鉛筆は先生の修正線」
良く思っていない男性に教わって息子が願っている上達をする。それも男としても父親としても痛い思いをしているのではないか。多恵子ははらはらするのだが。
「やっぱり先生はプロ。本当に絵描きなんだな。そうでなければ……大輔がこんな上手くなるはずがない」
「そうだよ。先生はすっごく優しく教えてくれたよ。俺、本当に先生に教えてもらって嬉しいし楽しんだから。きっと三浦先生じゃなくちゃ、こんなに上手にならなかったよ」
手放しで先生を褒める息子の口を……。何も知らない子供が言っていることとは言え、多恵子は口を塞ぎたくなる。
だが、こんなにハラハラして充の顔色を窺うだなんて。そんな羽目になったのは、多恵子自身のせいなのだ。
「今夜も夕飯は、俺の部屋に持ってきてくれ」
静かに息子のデッサン画を置くと、コート姿のまま充は部屋に閉じこもってしまった。それはここのところずっと、だった。
「なんかお父さん、疲れていない? この前から元気がないし」
「仕事をまとめるのが忙しい時期なんですって」
たまにあることだから、そう誤魔化している。それで大輔も納得しているのだが、部屋に閉じこもって充一人で夕食を済ませている為、ダイニングでは多恵子と大輔の二人だけの食卓が続いている。
だが大輔が訝しみ、何かおかしいと子供心に胸を痛めるような仲違いになるなら、多恵子も腹をくくらなくてはならない。
これが、あと何日続くのか――。
―◆・◆・◆・◆・◆―
数日ぶりにアトリエに来た多恵子は、カンバスを見上げ驚いていた。
曇り空の淡い光彩の中、ぼんやりと浮かび上がる裸婦。
たった五日間、それだけの僅かな間に、その容貌を露わにしていたのだから。
「ほら、気を抜くと顎が上がる。多恵子さんの癖だね。肩も張って、胸を張る。どんなに淡いイメージでも、立ち姿はきっちり整えてくれ」
先生の睨む目に気圧され、慌てて顎を引く。うっかりもの思いに耽ってしまっている多恵子のポーズは、知らず知らずのうちに肩がすぼまり背が丸まりだらしなく顎が上向きになっているようだった。
まるで今の自分のようだった。身体の中にあるはずの筋が真っ直ぐに立っていない。何かを掴もうと張り切っていたはずなのに、踏み間違えてしまった自分を自責している。
「もっと、背筋を伸ばして。腹に力を入れる」
とても苛々しているようだった。多恵子を見るたびに、先生は渋い顔をする。そんな先生が筆で多恵子を差した。
「毒を知って、それを喰らってしまった。ああ、そうだ。僕が言うことではないよ。だけどね、毒されてそのまま貴女は朽ちていくつもりか」
多恵子に『毒』。あまり人から言われたこともない言葉で、そして直ぐには理解出来ない言葉で多恵子も眉をひそめた。
「毒を知らなかったことは、本当に幸せなことだったと思う。だけれど毒を知らない者は毒を喰らうと直ぐに重体になる。抗体がないわけだ。多恵子さんもこのまま毒に侵されたまま朽ちていく。それでいいのか」
飲み込んでしまった毒の抗体を自分で作り出さなければ、そのまま背中を丸めて病人のように生きていく。それでいいのか。そう聞こえた。
「毒気が抜けたら。これからの貴女は、二度とその毒を喰らうことはないだろう」
もう知っているから。貴女は二度とその毒を欲することもないだろう。それは多恵子があの晩に行き着いた気持ちだった。
「先生が飲み込んでしまった毒は、どうなったのですか」
敢えて聞いてみた。すると先生は暫くは絵筆を動かし黙っていたのだが。
「同じ毒を喰らったからね。同じ気持ちになっていると思うな」
それを聞いただけで、多恵子は驚いてしまった。もし。多恵子と同じ気持ちになっているとしたら? そうしたら多恵子が思いつく答はひとつしかないのに。でも先生に、札幌にまで流れ着いて来た先生にそれが出来るのかという驚き。もしそうならば、先生が札幌を出て次に行く土地は……。
「ポーズを整えて」
何かを悟られたことを知った先生が、多恵子がポーズで集中するように話を逸らしたように思えた。
その日の制作を終え、多恵子がカンバスを確かめると、来た時に見た絵からそんなに変化はなかった。
「次は二週間後――」
あまりにもインターバルがあるので、どうしてかと先生を見た。
いつもの穏やかな微笑みに戻っている先生も、ちょっと気後れした様子で、多恵子ではなくカンバスの裸婦を見上げている。
「あと一日付き合ってくれ」
つまり次で最後になると言いたいのだろうが、先生は明言はしなかった。気持ちは最後でも、筆が承知してくれるか分からないと言ったところなのだろう。そして多恵子も『たった三回のモデル。それだけで構わないのですか』と問いたかったが、もう自分はただのモデルなのだと考えた。
「もう、紅茶もないから。今日はここで。お疲れ様」
「お疲れ様でした」
パレットとナイフを持って背景を整える先生は、もうカンバスの裸婦と二人きりになったような横顔。
裸のままの多恵子は、もうカンバスの中。そして先生の記憶と心の中。実際の多恵子は、裸になって立ちにやってくるこの女は、ただの物体になったのだろう。
記憶と想い出で描いている。そんな気がした。だからもう、先生と交わるようにこのアトリエの中にいたタエコはこの裸体にはいない。たまに幻に囚われないよう、実態の多恵子を見て確認するだけ。先生がどう考えているかは確かではないが、夏からずっと先生とこのアトリエに居た多恵子にはそう思えて仕方がなかった。
着替えてからもう一度、アトリエを覗いた。やはり先生は、もうそこには多恵子が居ないのに、ポーズと取っていた窓辺に視線を馳せていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
雪祭りがあるこの時分が、一番冷え込む。日中も氷点下。時には夜中より日中の方が雪も凍るほど気温が落ちる日もある。
まさにそんな切り込む冷気の帰り道。
アトリエのマンションを出て直ぐに、頬を突き刺す冷気に多恵子も震え上がる。冷気で喉を痛めないよう、マスク代わりにマフラーで口元を塞いだ。
雪の道を歩き、いつものギャラリーカフェの角を曲がった途端、呼び止められた。
「多恵」
そんな呼び方をする人は、一人しかいない。背中から聞こえた声に、多恵子は立ち止まる。
「多恵……」
もう一度呼ばれ、多恵子は振り返った。
黒いコート姿の充が白い息を吐きながら、ギャラリーカフェのドアの前に立っていた。
「ミチ」
何故そこにいるかだなんて。聞くまでもなかった。
「終わったのか」
「今日はね。次は二週間後。それで最後だと思う」
「そうか」
彼も寒そうに震えながら、カフェの木の階段を下りてきた。
「帰ろう」
「うん」
夫妻て、なんだろう。前ならそう思っていたかもしれないけど、今ならもう……。
そんな充と肩を並べて歩き出すと、彼の長い腕が多恵子の身体を包み込むように肩を抱いて、きつく抱いて、そのネクタイが見える胸元に強く引き寄せてきた。
「寒い。早く帰ろう。俺も寒かった、多恵」
まるで片割れを失ったかのような日々が、ほんの暫く。そのほんの僅かな日々でも、隣りに吹き込んできたかのような隙間風を感じずにはいられなかった毎日。
「ミチ、今日は何が食べたい?」
ワイシャツとネクタイの胸から良く知っている匂いがする。多恵子は頬を埋めながら胸いっぱいに吸い込んだ。
Update/2010.2.4