―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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愛しい人は 5

 

 息子に聞くと、そのアトリエはまだちゃんと残っているらしい。
 イーゼルも椅子も、窓辺のベンチもそのままで、父親がいなくなった後は息子のアトリエになっていたとのことだった。
「イーゼルは残っているけど、画材はないと思うな。壁には俺が高校まで描いてきた絵ばかり貼られているよ」
 拓海がそういうので、とりあえずのものを一式揃え持ってきた。
 
 五月ともなると、こちらの地方はもう初夏。今日はラフにマリンボーダーのポロシャツとジーンズ姿で三浦は坂を歩いている。
 数冊のスケッチブックとF10サイズのカンバスを一枚、それらをまとめた大きなバッグを肩にかけ、片手には油彩セットの木箱を持ち、額に滲む汗を拭いながら歩いている。
 随分と登ってきたところで、坂を振り返る。
 呉市の街並み。安芸灘大橋が映える青い海が見えた。幾つも浮かぶ島と島の間を小さな漁船が行き交う。細長いタンカーも白波の長い尾を引きながら、青い鏡のように光り輝く海をゆっくりと進んでいる。
 見るだけで潮の香りがした。これが三浦の日常だったはず。
 初夏の薫りを堪能しているうちに、懐かしい一軒家に辿り着く。
 玄関を覗くと、息子が教えてくれたように『三浦』という表札がまだ掲げてあった。だがそれと合わせ『村上』という表札も並んでいた。離婚後に彼女が加えたのだろう。
 女の一人暮らしとあって、近頃のご時世に合わせのか、セキュリティを強化していると拓海からの話。その通り、玄関先の塀にはセキュリティ会社のロゴが貼られてあった。無理に門や塀を乗り越えようと思ったら、大変なことになりそうだった。
 インターホンもカメラ付き。しかしここまで決してきた三浦に躊躇いはなく、直ぐにそれを押した。
 チャイムの音が、家の中で響き渡る。だが反応なし。
 さて、留守にしているのだろうか。拓海には『お父さんが行くことは内緒にしておいてくれ』と釘を刺したが、息子は嬉しくて母親に知らせてしまったのだろうか。『あんな男、二度と会うものですか』。気の強い彼女のこと。一度張った意地はなかなか解かない。喧嘩もいつも三浦が折れていた、いや、折れてもまったく嫌ではなかった。最後にはそんな気が強い彼女が愛らしくて仕方がなかったのだ。しかし絵を描くことに関しては違った。新しいモデルを自宅のアトリエに連れ込み新しい裸婦画を描き始めた時は、三浦も折れなかった。
 『どうして、本当の私を描いてくれなかったの。それを描いてから他の女を描いてよ』。彼女が最後まで三浦に訴えていたことだった。『それはまた今度。今は駄目だ。お前は描けない』。それが彼女に許してもらえず、そして三浦も折れる気もなく。離婚だと意地を張る彼女に最後まで抵抗したが、なのにこんな時はいつも通りに三浦は折れてしまったのだ。
 今なら思う。どうせ折れるなら新しいモデルなど連れてこなければ良かったのだと。一生、妻だけがモデルだと誓っていただけに、他の女が自宅のアトリエで妻の目の前で裸になり、それを描き始めた夫を見ていた彼女はどんな気持ちだったことだろう。それでもモデルではなくなっても『画家の妻』だからと暫くは堪えてくれたのに、返ってきた世間の評価は『妻を描いていた時が一番駄作だった』という仕打ち。他の女と夫の作品が評価得た時、その時の妻は……。しかし画家として描かないわけにはいかなかった。描かないほど不安なことはない。妻が描けるまで、筆を置く。出来なかった。
 それでも札幌では、多恵子が描けなくなっても、三浦は静物を描いたりして凌いでいた。裸婦が描けなくても、何かは絶対に描けている。そうだったのに、沙織の時は……。それだけ若かったこともあるだろう。互いに譲れず、今日に至る。
 そんな仕打ちをした夫が帰ってくる。もし息子が知らせてしまったていたら。もう十何年も会うこともなかった彼女は二度と会いたくない男を避けるために先に逃げてしまったかもしれない。
 もう一度、チャイムを押してみたが。やはり物音一つ聞こえやしなかった。
「出直すか」
 市内のビジネスホテルに一応、宿を取っている。長期戦だ。
 玄関を離れ、三浦はまた歩き出す。また明日来ようと、目についた庭を見た。沈丁花や金木犀、酔芙蓉の木がある庭で、今は彼女が植えた山吹が色鮮やかに咲いている。季節の花はどれも彼女が選んだもの。アトリエの窓を開けると、その季節の花と一緒に、この海が見えた。鮮烈に残っているのは、窓辺に三浦がこさえたケヤキのベンチで、いつも二人で肩を寄せ合い、この呉の風や海を眺めていたことだった。昼下がりの風も夕暮れの黄金も、全て妻の肌に映っていたあの頃。全てがそのアトリエにあった。今はもう扉が閉め切られ、息子も出て行って、誰の気配もない。
 また海を見下ろすと風が鳴った。いつもあのアトリエの出窓から、この橋が見える海を見ていたのに。
「帰るの」
 突然開いた窓、アトリエの窓際に女性が現れた。
「沙織」
「なにをしに来たの」
 気が強い彼女らしい、しかめ面。『帰ってちょうだい』。今にも言われそうだった。だが当然であり、それも覚悟してきた三浦。
「お前は変わっていないね」
「貴方は歳をとったみたいね」
 余計なお世話だ。今度は三浦がしかめ面になる。
 だが彼女も容姿は変わっていた。そんなにふくよかになったわけでもないが、顔つきがややふっくらしていた。三浦と同じぐらいに年齢を重ねているが、久しぶりに会ってもあの頃の艶も雰囲気も残っているのが直ぐに判った。さらに、なんでもかんでも怒っているような始終不機嫌な顔をしているのも彼女の特徴だ。実家が裕福で、東京のお嬢様大学生だった沙織。不自由ない東京での学生生活だったはずなのに、気丈な彼女は自ら美術モデルのアルバイトをしていた。大学の講義に来るモデルは、ほとんどが中年女性なのだが、そんな中まだ瑞々しいばかりの若い沙織がやってきた時の男達のどよめき、あの瞬間を今でも覚えている。しかしその時から、彼女はそんな顔だった。不機嫌で、怒っているようで、切れ長の目がつり上がって見えキツイ美人と言うのが第一印象。若いモデルが裸になる時。男達のいやらしい視線も充分にわかっていて、それを真っ向から受けても沙織は毅然としていた。そんな彼女の立ち姿は、とても気高く美しかった。
 その気高さが彼女の美しさで。それもどうやら変わっていないようだった。
「モデルになってくれませんかね。絵のモデルに。勿論、裸婦でお願いしたい」
「他に沢山いるでしょう。今更どうして私なの」
「本当の意味で、お前を一度も描いていないよ。そう、沙織という女性を一度も描いていない」
「だから? 別に描かなくても良いじゃない。私のような女性は沢山いるでしょうに。こんな瀬戸内の海辺まで、札幌からわざわざ来たわけ」
 やはり強情だ。どう見てもアトリエで待っていてくれたとしか思えない。
 だけれど、不思議だな。三浦は思った。息子が知らせてしまうことも、彼女が待っていることも、強情で素直になってくれないことも、全部手に取るようにわかる。
 多恵子が浮かんだ。きっと彼女が戻った場所にはそれがあったのだと。そして『先生にもまだあるんですよ』、そう言ってくれていた意味がわかった気がする。
 ああ、あったんだな。僕にも。失っていなかったんだな。間に合ったんだ――。
 そう思うと、笑いがこみ上げてきた。
「なに。久しぶりに来たかと思ったら、なんでそんなに笑うのよ。歳をとった私が、そんなにおかしいの」
 言い放つ沙織にも三浦は笑った。
「本当にお前は変わっていないね。ああ、益々描きたくなった」
「描けるの。描けないでしょう。私以外の女性なら貴方は良い作品にする。私以外ならね」
「だからこそだ。描かせてくれ」
「嫌よ」
「そうか。それは仕方がないな」
 今度はあっさり退いて、三浦は画材を手に坂を下り始める。去っていく三浦の背に扉が開く音が聞こえた。キイと軋む音。アトリエから庭に出るガラス扉が開く時の、懐かしい音だった。
 立ち止まり庭に振り返る。彼女が裸足で庭に立っていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 いい加減にしろよと、目くじらを立てる夫と喧嘩をして出てきた。
「夜になっても、絶対に帰らないんだから」
 家事の一つも出来ないくせに。大輔と一緒にお腹を空かせていればいいんだわ。
 子供じみていると判っていても、多恵子は家を飛び出していた。
 いつもの地下鉄に乗り、大通まで出てみた。夏の賑わいを見せている大通公園。さっぽろテレビ塔前の噴水は憩いの場。観光客や子連れのファミリー、さらに散歩をする人々に合わせ鳩までもが集まっている。
 高々と空いっぱいに煌めく水滴を見上げた。
 噴水のベンチに一人で座る。軽い綿素材の白いブラウスが、風を吸い込んでふんわりと膨らんだ。頬杖、多恵子はふてくされ噴水の花を眺める。
『あの絵が、札幌から出て行ってしまうんだぞ。藤岡さんがギリギリまで置いているから見に来て欲しいって』
「いつから藤岡さんと親しくなったのよ」
 つい最近まで、まったく知らなかった。
 数日前になって、充が神妙な面持ちで帰ってきたかと思うと、彼が多恵子を諭すように言ったのが『雪子が札幌から出て行く』という言葉だった。最初はなんのことかさっぱり分からなかった。
 その何も分かっていない妻の顔にも充は驚いていた。『自分が裸になった絵のタイトルも知らなかったのか』と。今度は多恵子が『なんでミチがそれを知っているのか』という質問に彼が口ごもり……。やっと聞き出せた今日までの彼の行動に、多恵子も驚くしかなかった。
 いや。一度は妻が裸になった絵を見に行っただろう、ぐらいは予測していた。彼の心を痛めてまで、勝手に裸になったのだから。彼にはあの絵を誰よりも先に見る権利があると思った。だけれどそれもまだ雪があるうち、出来上がって直ぐのことだと思っていた。
 それから充も何も言わないから、多恵子もそれで見終わって作品は受け入れてもらえたものと思っていたのだ。
 後は、いつか。あの窓辺に立った自分と偶然に出会えたらいい。まるで先生に再会するみたいに。そしてあの時に、大切なものを見つけたばかりの自分に出会えたらいい。そしてまた再認識するだろう。自分が何処にいるかを。
 なのに。充はあの絵から目を離さず、多恵子がいつ見に行くか黙って見守っていたという。
 そしてついに。あの絵が三浦謙の個展の為に、広島市に送られることになったとのこと。
『個展で即売するそうだ。藤岡さんが言うには、雪子は絶対に売れて戻ってこなくなると言っている』
 俺達の手に届かない商品となって。だから行ってこい。
 私はモデルだったから見るのではなく、その展示で偶然に出会った観覧者として自然に会いたいのに、なんでそんな無理に行かせるの。
 そんな言い合いを数日。土曜の休日で一日中家にいる充と朝からやりあって、我慢出来ずに、午後になって多恵子は飛び出してきてしまったのだ。
 でも……。多恵子は大通公園の空を飛ぶ鳩を見た。
 でも、家を思い切って飛び出してきた訳を多恵子は充分に分かっていた。
『先生の絵が、もう一枚あった。雪子とはまったく違う絵が』
 それを聞いてから、多恵子に迷いが生じた。
 そこに出て行った先生がどうしているか判るものがある。自分の絵以上に、その絵が見たい……。
『わざわざ三浦先生から、札幌の藤岡画廊に送って来たんだそうだ』
 そして充は、まるで誰かを代弁するかのようにきっぱりと言った。
『お前に見て欲しくて、先生は札幌に送ってきたんじゃないか』
 胸がドキリと蠢いたのを、夫もきっと感じ取っただろう。それでも充は言った。
『別れた奥さんがいる広島まで先生を帰らせたのは、多恵子だと藤岡さんも言っていた。先生はお前に絶対に見て欲しいに決まっている』
 夏のざわめきの中、多恵子は立ち上がる。大通公園から側にある地下街に降りる階段へと急いだ。

 

 がらりと作風が変わっていたんだ。多恵を描いてくれていた雪子とはまったく異なる色彩でタッチだった。背景は鮮やかな青で海、まるで南国。そこに、ややふっくらとした長い黒髪の裸婦。もの凄く鋭い目つきで、堂々としていてまるで女王のようだった。でも。隣りに飾られているお前が、青い裸婦の鮮やかさに霞むかと思ったら、そうでもなかった。不思議な感覚。先生は確かにお前をお前として描いてくれていたんだって実感できたんだ。それは感動でもあったよ。
 オレンジ色の路線に飛び乗ると、多恵子の耳にはずっとずっと充の声。
 お前、いつまでそんなお嬢ちゃんみたいな『偶然』とか『いつかは』だなんて夢見がちなことを言っているんだ。白いワンピースを後生大事に持っていたお前らしいな。ワンピースを持っていれば、また若かった頃のように輝けると思っていたんだろ。『偶然』とか『いつか』が絶対にあると言えるのか。二度と、先生が描ききった多恵を見られなくてもいいのか。本当にそれでいいのか。『ずっと前のワンピース』に『いつか偶然に会えたらいい』、そんなことばかり、お前の今はどこにあるんだよ。あの雪子がそれなんだろ。だから脱いだんだろ。なにもかもかなぐり捨てて。夫の俺も捨てて。脱いで裸になっただけで何かが分かった、そこでお終いでいいのか。その眼で脱いだ自分を、先生が映しだしてくれた自分をしっかり見てこい。
 地下鉄を降り地上へ出ると、あのカフェが見えた。そのまま多恵子は急ぐ。
 雪が染めていたこの通りも、今はポプラやプラタナスの緑で彩られていた。その木陰に藤岡画廊。店のガラスドアをそっと覗くと、一目で見つけた。奥のギャラリーにある青と白の裸婦画。
「多恵子さん、待っていたんだよ」
 多恵子を見つけ、藤岡氏がドアを開けてくれる。
 
 白い裸婦と青い裸婦。
 どちらも願ったとおりの絵で、多恵子は微笑まずにいられなかった。
 あの雪の日々を過ごした女の顔。そして青いカンバスからは鮮烈な潮の香。
 あれから先生がどうしていたか、多恵子に伝わってくる。その匂いは先生の日常になっていると知る。
 海が見える窓辺に裸婦、イーゼルに向かっている画家の横顔が見えた。
 
 
 ■ 裸婦/完 ■

 

 

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Update/2010.2.16
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