-- 緋花の家 -- 
 
* 君は僕の白い花 *

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3-1 薔薇の家の娘

 二十歳になったその夏、拓真は大きな火災をひとつ経験した。
 それほど大きくはないこの街の繁華街にあるビルが全焼するというもの。
 かといって、もう古い古いビルで入っていた人も少なく、死亡者も負傷者も出なかったことは幸い。それでもまだひよっ子扱いをされている拓真には、初めての大きな経験だった。

 その後は、いつもの日々……。
 いつもの交替勤務。いつもの夜の仮眠。寝入りばなの時間だったと思う。

「鳴海、起きろ! 出場指令だぞ」

 そんな先輩の大声で目が覚める。
 仮眠室で隣で寝ていた先輩の背は、もうこの部屋のドアを飛び出していくところだ。
 はっとして、拓真も無我夢中で布団を跳ねとばし起きあがる。そして先輩の背を追う!
 どんなに眠たくても、身体が勝手に動く。いつのまにかそんな身体になっている。それが消防官──。それでも二十歳の拓真は、まだまだ出遅れている。いつもの通路を通って、防火服や酸素ボンベ、そして酸素マスクなどを常に置いているその場に辿り着くと、もう装着を済ませた上司に先輩達だらけ。早い人は既に消防車に乗り込んでいた。

「鳴海、早くしろ!」
「うっす!!」

 大隊長の急かす声。
 いつも最後になる拓真に、必ずかかる声。

 指令が出てから四十秒。それが消防が出発するまでの準備時間。
 今回もなんとかこの時間に拓真は付いていくことが出来た。

 現場に着くまでのその間。消防車に乗り込んだ男達はその心積もりを固めるために、集中している。
 拓真の目の前には、銀色の防火服姿の先輩、『長谷川正樹』がいつにない不安そうな表情に歪んでいた。

「……俺の家の近くだ」

 その呟きに、周りにいる上司に先輩達も彼に振り返った。

「先輩の家の近くって……。あの有名な高台の住宅地ですよね」

 『有名な』──イコール、『この街のブルジョア住宅街』のことも指していた。

「あそこはまだ木造なんかも多いぞ。今夜のこの風は、場所によっては、最悪だ」
「俺の家の辺りがそうなんですよ。番地も近かった。まさか──」

 消防官は、『防火活動』も重要な任務。
 街の何処がどのような住宅街であるかなども、把握している。だから、三十代の慣れている先輩はすぐにその土地の特徴を思い浮かべて青ざめている。
 そして地元である正樹は余計に青ざめていた。

「だけれど、まだ火が広がっているという報告はないぞ」

 上司がそんな長谷川先輩をなだめる声。
 拓真も『そうすっよ!』と、正樹に叫んだ。

 実際に、その現場に辿り着くと本当に正樹先輩の実家の側だった。
 しかし側と言うだけで、何軒も離れているらしく、大隊長が『長谷川の実家とは離れているじゃないか』と呟いたのを聞いて、拓真はほっとした。
 なのに──。

「ちくしょう! やっぱりこっちの旧道かよ! 鳴海、はやく来い!」

 長谷川先輩は、その旧道沿いの住宅街であることに余計に慌てているようだった。
 拓真は不思議に思いながらも、消防官にとっては『どんな火災』も『同じ火災』なのだ。自分の家の近くだろうが、近くでなかろうが、ほっとする暇などあったら、すぐさま『消火』だ! それが仕事だ。

(そうだよな。先輩の実家の近所なら、やっぱり地元だけに知り合いが多いだろうし)

 我が家と同じぐらいに心配になるところは当たり前かと思いながら、拓真は消火ホースを構えた。

 この高台の住宅地は、裕福な家庭が多い。
 そして拓真と同じ小隊員である長谷川正樹も、古くからこの市街で経営している有名な会社の息子だった。
 だけれど彼はその跡を継がずに『消防官』となった。父親が反対したとかそういう話は聞かないが、彼はそうして今は自宅を出て自活している。
 そんな長谷川家がある高台の住宅地。その側は、やはり古くからそこに住まうこの街の旧家が多い。だから、先輩の実家の周りはそうした古い町であるらしいのだ。
 それでも先輩の家の前は近頃は拓けてきたらしく、道は広がり、若い世代が入ってくるようになったとのこと。
 その代わりに、昔のメイン通りは、いつのまにか『裏通り』とか『旧道』とか言うようになったらしく、古い造りの家が多い。それでも大きな家ばかりだが。
 今、拓真と正樹が消火作業をしているのは、そんな古い家並みがある『旧道』の一軒家。昔ながらの瓦葺きの木造家屋。そこの二階から火がチラチラ見える。寝室か? だったら、寝煙草か?

「まずいぞ。風が強くなってきた」

 ベテラン先輩の一言に、さらに正樹の顔が強張る。

「早く、消すんだ!」

 木造だからすぐに燃え広がる。火の粉が出れば、ここら辺りの木造家屋に次々と飛び火する。
 そう言う懸念なら、ここにいる誰もが思い描くのだが、いつも一緒にいる後輩の拓真としては、冷静沈着な正樹先輩がいつになく前へ前へと急いでいる気がしてならなかった。

 ──なんとか、消火できた。
 だが、思った以上に燃え広がった。
 二階の半分は焼けこげてしまった。拓真の目から見ても、ひどいものとなってしまった。やはり木造は予想外の結果を生みやすい。

 予想外の成果。
 本当ならもっと食い止められていたのではないかと言う顔を皆がしている。
 そんな時、消防官は己の力のなさに肩を落とす。
 結局、この家の被害を広げたのは自分達のような気がして。そして拓真も。消防官になってこのような気持ちになったのは何度目だろうか?
 死傷者が出なくても、やっぱりがっかりしている家の者を見ると、居たたまれなくなるのだ。

 各点検をしている中、いつもは組織内にきちんと収まり忠実に、そして的確に行動をする正樹先輩が、思わぬ方向に走っていったのだ。

「こら! 長谷川!」

 ベテラン先輩の声。
 だが、大隊長が『構わない』と止めた。

「あいつにとっては、古い付き合いがある地元町。怯えているだろう知り合いの様子でも見に行ったのだろう。その方達をあいつの一言で、安心させてやればそれでいい」

 先輩も『そうっすね』と、あっさりと後を追うことは諦めたようだ。
 それに大隊長の寛大なその計らいも、日頃、正樹がきちんとした行動をとっている優秀な人材だからだと拓真は思った。

「鳴海! ぼやっとしていないでキビキビと片づけるっ」
「ういっすっ!!」

 こちらはまだまだ新人ひよっ子扱いの手厳しさ──。
 拓真は使ったホースをキビキビと片づけるだけだ。

 それでも、あの正樹先輩がさあ帰ろうと言う時になって、まだ帰ってこない。
 流石に大隊長が苛ついた顔を見せた。

「お、俺が見に行ってきます!」

 先輩や隊長の『よし』と言う声も聞かずに、拓真は防火服姿で飛び出した。
 先輩が走っていった道をそのまま真っ直ぐ拓真は走ったのだが、そんなに遠くはなかった。
 火災現場となった木造家屋の場所から、数軒しか離れていない。
 周りの昔ながらの日本家屋と違うややモダンな洋風作りの家の垣根に立っていて、そこの家の者と話しているようだった。

「先輩。大隊長が切れそうっすよ」
「ああ、鳴海か……」

 拓真がふと見ると、正樹と話していたのは、着物姿の五十代ぐらいの男性。

「正樹君の仕事仲間?」
「はい。同じ小隊の後輩です」

 正樹の品ある微笑み。男ばかりの職場での凛々しい彼しか見たことがない拓真の目には珍しく映る。確かに美男といえる彼だけれど、こんなに麗しく見えたのは初めてのような……。
 そして、その着物の男性はにっこりと拓真にも微笑んでくれる。

「ご苦労様です。近くで火が出て驚きました。娘がすっかり怯えてしまって。でも、もう安心ですね」
「はい。大丈夫ですよ、もう」

 ご苦労様の挨拶に、拓真も気をよくして微笑み返した。

 その男性の後ろにある庭を見て、拓真はふっと固まった。徐々に強く香ってくる花の匂い。
 着物姿の男性の後ろには、沢山の薔薇。植え込みから蔓薔薇までありとあらゆる薔薇が庭中に咲いている。

「薔薇──ですか?」
「ああ、そうなんです。うちの庭は昔からこうでしてね。代々受け継がれてきましたから、今は私が娘と手入れしております」

 今夜の風は強い。
 直ぐそこが現場(げんじょう※消防用語※)となった木造家屋から、もし、この薔薇園のような庭に飛び火したら、一発で燃え広がっていただろう。
 だから? だから、実家が近所にある正樹先輩は、飛び火していないか心配できたのだろうか?
 まあ、こちらのご主人とは親しいようだから、それもそうかと拓真は納得した。

「なにかありましたら遠慮なく言ってください」
「有難う、正樹君。君も、素晴らしい仕事ではありますが、気を付けてくださいよ」
「有難うございます」

 正樹が敬礼をしたので、拓真も敬礼を。
 にこやかなご主人が背を向けようとしたのだけれど、正樹先輩は去ろうとせずに、まだ何か言いたそうな顔。

「あの……」
「ん? なんだい?」
「いえ……」

 訝しそうにご主人が振り返った途端に、今度は正樹が顔を逸らしてしまった。
 少しばかりそんな先輩の様子が腑に落ちない拓真だったが、先輩がやっと納得して仲間の元に帰る気になってくれてほっとした。

 なのにまだ、先輩は惜しむような足取りだ。
 ご主人が洋風の白い玄関に入った後、また垣根に立ち止まる。
 『先輩、いい加減にしてくださいよ!』──拓真も業を煮やしてついに叫ぼうとしたその時、正樹はその家の二階を見上げていた。
 なんだろうかと思い、拓真も二階を見上げると──。

 二階の窓辺に、長い黒髪の女性が一人。こちらを見ていた。

「あれが、娘さん?」

 拓真がそういうと、正樹はハッとしたように我に返り『ああ』と呟いた。
 そして拓真がもう一度、二階を見上げると、もうそこには誰もいなかった。

「先輩と親しいのですか?」
「いや、あんまり喋ったことはない。だけれど、妹が仲良くしている」
「へえ。あの綺麗でお嬢様っぽい妹さんが」

 正樹の妹『早紀』は、拓真も既に知っていた。
 いつも清楚なお嬢様姿で、時々兄が所属している消防出張所まで陣中見舞いに来る。
 そうすると男達が色めき立つ。長谷川のお嬢様がにっこりと楚々と差し入れを持ってくるその瞬間の華やぎに、誰もが取り囲まれてしまうほど、早紀はちょっとしたマドンナ的存在だった。
 兄の麗しさと並ぶと、やっぱり兄妹だと納得できる華やかで清楚な女性なのだ。彼女だけ見れば『おおっ。社長令嬢!』と拓真だって唸る。
 だけれど先輩は、確かに美男なのだが、不思議とそういった御曹司振りはうかがえない。消防官という仕事から離れたら色香ある独り者という感じではあるが、派手ではない。普通にやもめ暮らしをしている男臭いところは、いっぱいある。
 だけれど拓真は休日や非番の時に、街中で色々な女性と歩いている正樹を何度も目撃していた。まあ、そういうことには困らないよう。
 二十歳になって、毎日が夢の消防官の仕事で精一杯の拓真には、遠い世界の話。女っ気なしの拓真に、正樹先輩は『紹介しようか』とふざけることもあるが、拓真もふざけて断っている。ちゃんと自分で見つけたいからだ。

「気になるか? 妹を通して紹介しても良いぞ」
「え? なに言っているんすか! 今、ちらっとしか見えなかったですよ。全然分からないのにどうして!」
「お前は真面目だなあー」

 正樹が笑う。
 ちょっとしか見えなかった女性を紹介するだなんて、やっぱりからかっているとしか思えなかった。

 そう、この先輩にとって、近所であって親しくしているのはこの薔薇庭の家の主人であって、娘とは親しくなく、それは自分の妹。
 ただそれだけのことだと、拓真は思っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 翌日は、晴天。
 真っ青な空と、蝉の声、蒸し暑い夏の気候。

 その中、拓真は上司と共に昨夜の火災現場となった木造家屋の『原因調査』へと向かう。

「鳴海。いちおうこの近所を巡回して来てくれ」

 何か変わったことが他になかったか──。
 小隊長の命令で、拓真は返事をして出かける。
 正樹は大隊長と共に、二階の火元だっただろう場所の調査をしている。

 うだるような熱さの中、拓真は昨夜、正樹が走った方向へとゆっくりと歩きながら、言われたとおりに入念に辺りを見渡した。
 やがて、穏やかになったこの日のそよ風にのって、あの香りが拓真の鼻を掠める。
 そして、目を疑った。昨夜は夜闇でちっとも分からなかったあの薔薇庭。そこが別世界の如く、明るく華やかに沢山の薔薇が彩っている光景を目にしたからだ。

 風に揺れる色とりどりの薔薇と緑の葉。
 そして心が和んでしまう清々しい香り。
 そこだけが別世界。まるで楽園だ。

 するとそのピンクや黄色の蔓薔薇が揺れているその影に、黒髪の女性の背が見えた。
 木造の小さな丸椅子に腰をかけ、イーゼルに向かって絵を描いている女性の後ろ姿。
 大きな帽子を被り、白いブラウスと、青いストライプの長いスカート姿。風に長い黒髪がキラキラと煌めきながら揺れ、その度に拓真の鼻先に薔薇の匂い。まるでその彼女の毛先から匂ってきたかのような錯覚に陥る。

 目を凝らすと、イーゼルにセットしているスケッチブックには赤い花の絵。
 彼女の手は、緋色のパステルコンテ。
 それを動かしていた指先が、何かを察したようにピッタリと止まった。

 彼女が振り返り、大きな帽子のひさしから、真っ黒い綺麗な瞳が拓真を見つけた……。

 この瞬間、拓真の胸がどっきりとうごめいた。
 いや、握りつぶされたかのような感触。

「ご、ご苦労様です。昨夜は、大丈夫でしたか!」

 思わず出ていた声。
 急に声をかけられた彼女がびっくりした顔。
 でも、拓真が紺色の消防署員の作業服を着ていたせいか、すぐに『昨夜の消防士』と察してくれようだ。

「昨夜は、ご苦労様でした……」

 か細い声。
 でも、拓真にはとても甘い声に聞こえた。

「も、も、も……う、大丈夫ですから!」
「有難うございます」

 慌てる自分に対して、あくまで楚々と落ち着いている彼女の返答。
 おまけに彼女は、絵を描くことをやめて椅子から立ち上がり、丁寧にお辞儀をしてくれたのだ。
 彼女が顔をあげた時、初めて正面、二人の視線が合う。
 彼女が少しだけ、にっこりと微笑んだ──。

 その時の胸の高鳴り!

「し、失礼します!」

 拓真は敬礼をして、さあっとそこを走り去った。
 そんな自分に対し、彼女がどんな顔をしたのか見るのも怖い気がして──。

 

 どうしたんだろう? 俺。

 

 その後、じわじわと拓真の胸に、この薔薇の家の娘が占めていくことになる。
 今、走り去った拓真にはまだそこまでの思いに気が付いていないが、ふうっと薔薇の花びらが胸に落ち、そこから蔓が出てきて胸を締め付けるようになる。
 それまで、それほど時間は経たなかった。

 拓真の薔薇の家へ通う日々が始まろうとしていた。

 暑い夏の日。
 若い二人の初めての出会い。

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