-- 緋花の家 -- 
 
* 君は僕の白い花 *

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3-4 砂丘の風に咲く

 自転車で彼女を迎えに行くと、もう庭先で待っていた。

「おはよう。拓真さん」

 彼女が元気良く、手を振っている。
 いつもはブラウスにスカート、ワンピースと言った清楚な姿なのに、この日は真っ白いノースリーブのシャツに、ジーンズ。そして足下は真っ白なスニーカーを履いている。

「なーんか、いつもの緋美子さんじゃないみたいだ」
「あ、やっぱり? お庭の土いじりする時しかこんな格好しないから」

 そうなんだ。でも、それも新鮮でいいよ……と、拓真は言いたかったけれど、やっぱり、いつもの清楚な格好が好きかなと思う。
 じゃあ、それを思った通りに率直に言った方が彼女は怒らないだろうかなんて……考えるようになった。
 でも、ふと見ると、そんな彼女がちょっと頬を染めて俯いていた。

「どうしたの?」
「……うん。本当はね。こういう格好も庭にいる時はしているんだけれど。あのね……」
「うん」
「ここのところ、拓真さんが来るから。本当はね、ちょっとお洒落ばかりしていたの」

 え、そうだったんだ!? と、拓真は驚いた。
 でも、それはやがて『感激』へと変わっていく。
 俺に会いたくて、女らしく見られたくて、それで、いつもあの清楚なブラウスにスカートだったんだ、と。

「だからね。本当はこういう格好もするの……。私もいつまでも誤魔化していちゃいけないかなと思って」
「何言っているんだよ。砂丘に行くのに、スカートだった方が俺、怒るよ。足下もスニーカーで正解。いつものお洒落なサンダルだったらどうしようかと思いながらここにきたんだ」

 だから『良かった』と笑うと、緋美子がほっと安心したように微笑んだ。

「後ろ、乗って」
「うん……」

 拓真は当たり前のように進めたのだが、彼女はちょっと物怖じするようにしてゆっくりと荷台に横座りで乗る。
 振り向くと、荷台に掴まっているだけで、まだ拓真の背に頼ろうとはしてくれなかった。

「危ないから、俺に掴まってもいいよ」
「有難う……」

 触れて欲しくて言ったのではない。彼女が、その華奢な彼女が落ちたら困るから真剣に言ったのだ。
 その拓真の言い方が良かったのか、彼女は遠慮がちでもしっかりと拓真の腰に掴まってきた。
 それに安心して、自転車を発進させる。

「二人乗り……初めて」
「俺もだよ……」

 坂を下ると、いつもよりスピードが出た。
 拓真は慎重にブレーキをかけるけれど、それでも荷台にいる彼女は軽く感じる。でもそこにある『大切な重み』をちゃんと意識しながら、拓真はいつもの乱暴な運転はしないよう心がけた。

 市内の大きな駅に出て、そこから砂丘行きのバスに二人は乗り込んだ。
 二人がけの席に、肩を並べて座る。

(この前、抱きしめてしまったけれど……。やっぱ、くっつくの緊張する)

 また胸がドキドキした。
 抱きしめた時は、頭の中真っ白だけれど、独身寮に帰ってからも、腕や胸、指先に緋美子の肌の感触と暖かみがいつまでも残っていて、鼻先には彼女の黒髪の匂い、目には彼女の恥じらっている可愛らしい顔とか……。一晩中、それを何度も抱きしめて抱きしめて、あらぬこともちょっとは想像したが、それでもその日の彼女を抱きしめた時のことを何度も何度も思い返した。
 それを思い出させるかのような、この密着度──。
 でも緋美子はいつもの顔でいる。時々思う。『彼女って、俺といて緊張しないのかなあ』と……。まるで拓真一人が、固まっているような気もして。これでもだいぶ自然体になった方だと思うが、やっぱり『垣根の向こう』から出てきてくれた彼女と向き合うのとは違うような感覚と緊張感がある。初めて、そして長く一緒にいることになる。昨夜なんて眠れなかった……。

 バスが出発すると、窓際に座らせた緋美子が『出発ね』と嬉しそうに笑った。
 彼女は彼女で、楽しみにしていてくれたようで、拓真はホッとし、幾分か肩の力が抜けてきた。
 そんな緋美子の手には、膝に乗るぐらいの大きさのバスケット。

「お弁当を作ったの」
「まじで!? やった、俺、そういうのも憧れていたんだあ」

 なんて素直に言って、拓真はハッとして頬を染めていた。
 照れていると、緋美子がいつものように可笑しそうに笑っている。

「私も。憧れだったの。だから早起きして張り切っちゃった」
「え、そうなんだ。……いなかったのかな、その……いままでも……」

 過去を聞いているようで嫌だったが、でも拓真はちょっと気にしていた。
 大人しそうだけれど、こんなおっとり清楚な大和撫子なら、ちょっとは高校生時代に男友達がいたとか、好きな男の子がいたとかありそうじゃないか。拓真の通っていた高校だって、女の子達はそうして憧れの男の子に女らしいアタックに懸命だったのだから。きっと、緋美子だって──?

「まさか。私『なんでも』拓真さんが初めてよ。だから……嬉しくなっちゃって……」

 え、そうなんだ! と、声に出したいのに拓真は堪えた。
 でも『なんでも拓真さんが初めて』には、また舞い上がってしまう拓真だった。

(そうなんだ、そうなんだ。俺がなんでも初めてなんだ!)

 たぶん、知らない間に鼻の下が伸びて、そして頬はゆるみ、かなりだらしのない顔になっていたのではないかと思い返すぐらいに、舞い上がっていたと拓真は思う。
 男性に声をかけられたのも、お話をしたのも、そしてこうしてお弁当を作ってでかけるのも、そして……抱きしめられたのも。好きと言われたのも。『嬉しかった』。拓真が彼女に向けた気持ちは、全部、彼女は快く受け取ってくれているのだと分かった。

 でも、あの時の『堪らなく好き』という拓真の告白に対しては、緋美子はまだ何も言ってくれていない。
 『私も好き』とは、まだ明確に言ってくれないし、彼女の気持ちだって……はっきりとは告げられていない。

 そりゃ、『言葉じゃない』と拓真だって思う。

(でも、少なくとも、俺といるのは楽しいってことだよな……)

 まだ、独りよがりに浮かれちゃいけないなと、拓真ははたとしたりもする。
 そう思うと、ちょっと溜息。
 気がつけば、彼女は窓の外ばかり見ている。時々、景色のことを話題にするが、ただ黙って窓を見つめていることが多い。
 少しだけ、空気が重くなったように拓真は思う。

 やっぱり、垣根を挟んでささやかな時間にお喋りをしていたのとは、もう訳が違うように思えた瞬間だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ついにバスは砂丘がある浜辺に辿り着く。

「久しぶり〜! お天気が良くて、本当に良かったわね!」

 バスの中では静かにしていた彼女に、拓真はちょっと躊躇していたのだが、緋美子は下車した途端に、明るく元気になった。

「……バスの中で、静かだったから」
「え? ああ、だって……。お喋りがあちこちに聞こえそうだったから、我慢していたの」

 『あ、そうだったんだ』と、拓真はやっとほっと一息。
 どうやら、緋美子がいつになく黙ってしまい、垣根から出てきた彼女に違和感を感じたのは、たったそれだけのことだったらしい……。

「暑いけれど、良い天気だよな」
「うん、そうね」

 やっと拓真も肩の力が抜けて、彼女と並んで砂浜へと向かう。

「どこか日陰があるかな?」
「なくてもいいわよ。今日は、ちゃあんと日焼け止め、塗ってきたから」

 お日様の下でも大丈夫と、元気いっぱいの緋美子を目にして……。今までのおしとやかさの影が薄れていくのだけれど、拓真はなんだか嬉しくなってしまう。
 こんなふうに楽しむことも分かっている女性なんだなと、本当に女性とデートをするのだって初めての、こんな不器用な自分が、うんと楽しませてもらっているのは、彼女のこうした気さくな性格のお陰なんだと思えた。

「先にちょっとお散歩しましょうよ」
「そうだな」

 もうすぐ、正午。
 その前に、せっかく来たから砂丘をひとつ登ってみて、海を眺めることにした。
 その間、垣根から出てきてくれた白い彼女は、拓真の横に並んで、色々な話をしてくれた。

 緋美子は、拓真より一つ年下で、市内にある大学に通っている。
 今は長い夏休みの最中で、あの薔薇の家に通っているようだ。
 本当の自宅は市内にあるのだが、そこには結婚したばかりの兄夫妻がいるとかで、家に入ってくれた兄嫁に気遣って緋美子は父親の書斎として使われているあの薔薇庭の別宅に通ったり、父親と寝泊まりをしているとのことだった。

「お義姉さんは、とても優しい素敵な人なのよ。決して、気が合わないとかじゃないの」
「そうなんだ。じゃあ、学校が始まったら、その家に帰ってしまうんだ……」
「うん。新婚生活を味わって欲しいのだけれど、お義姉さん、実は身体が丈夫じゃなくて。それにこの春、妊娠していることが判ったばかりだから──。時々は様子を見に行かないと、兄さんも大学の仕事しなくちゃいけないし……」

 緋美子の父は、市内にある私立大学の考古学教授との事だった。
 市内の歴史や遺跡を調べる仕事をしているらしい。兄もその大学を卒業し、大学院を経て、父親と同じ研究室で勤めているとか……。
 そして緋美子も、そんな父と兄と暮らしていたせいか、自然と同じ学問に興味を持ったそうだ。それで、同じ人文学部に、この春に進学したばかり。
 高校を卒業したこともあって、父親が別宅で一人暮らし感覚で過ごしても良いと、許可をしてくれたらしい。それでもまだ未成年の女性一人を放っておくだけでなく、父親も頻繁に通っているということだった。
 そんな薔薇の家での夏休みを過ごしている最中、近所であの火災があり、拓真と出会うことになった……。緋美子はそこまで、話してくれた。

「危なかったよな。あの火事は……。風の強さも向きも最悪、本当に先輩が心配して、駆けつけたのがよく分かったよ。もし、火の粉が飛んでいたら、あの綺麗な庭が、どうなったかと思うと、俺も気が気じゃなくなると思う」
「……そうね」

 急に? 緋美子の声がしぼんだように感じ、拓真はふと隣を歩いている彼女を見下ろしたが、大きな帽子のつばに隠れてしまい表情は窺えなかった。

「長谷川先輩とは……。昔から?」
「え? ……うん、正樹さんは、お友達のお兄さんというだけで、あんまり話したことはないの。でも、早紀さんとずっと仲良しよ」

 聞けば、早紀とは中学を入学した頃からの付き合いらしい。
 緋美子の本家は、あの住宅地とは校区が違うので通う学校は違うが、緋美子があの薔薇の家に遊びに来ていたある日、早紀から積極的に緋美子を誘ってくれたとのこと。学校は違っても、付き合いはずうっと続いていると、緋美子はどこかその友情を誇らしそうに語ってくれた。

「早紀さんは、その頃から、あの家に住みたいって言うの。今度、赤ちゃんも生まれるし、手狭になってくるから、父はいずれ住んでも良いと言ってくれているのだけれど、今度、私が本当に住むようになったら、二人でルームメイトになって暮らそうなんて言っているのよ。もしかすると、本当にそうなるかも? 長谷川のお父様が許してくれたらの話だけれどね。あそこのお父様、厳格だから──」
「でも、先輩のことは跡取りにとか、喧嘩しなかったのかな? 俺、不思議で──」
「うん、まあ……早紀さんから聞いたら、色々あったみたいだけれど。正樹さんは、自分のことはあまり喋らない寡黙な人らしいから、きっと拓真さんにも言わないのよ」

 ああ、そんな感じ。と、拓真も納得。
 正樹はそんな男性だった。
 そしてふと安心した。妹の早紀とはそこまで仲が良ければ、兄の正樹とも自然と親しいかと思ったが……。親しければ、あの格好良く要領の良さそうな先輩のこと、彼がその気がなくても緋美子が好きになっていてもおかしくはないと、心の片隅で懸念していただけに。だが、正樹は『あまり話したことはない』と言っていたし、そして緋美子も……。

(たまに会うご近所さん程度かな)

 きっと、そうだと。拓真はこの時から、暫くは安心することになる。
 そして、正樹のことも緋美子のことも信じていたのだ。
 ──あの日までは。

「お弁当、食べましょう」

 夏の砂丘で、青空の中、綺麗に咲く拓真の白い花。
 その微笑みを見てしまえば、そんな先の暗雲など──拓真には無いに等しいと思わせるほど、輝かしいものだった。

「すっげー! これ、全部、緋美子さんが作ったの?」
「うん。きっと拓真さんは沢山食べるだろうと思って。好きなだけ食べてね」

 まるで、母親が作ってくれたかのような手慣れた豪華な弁当だった。
 握り飯に、定番の鶏の唐揚げ、煮物、そして若い彼女らしく可愛らしい洋風の惣菜もある。そして季節の果物。
 本当に、理想的だった。そして、見かけだけじゃなかった。味も、最高!

(こんな手料理が上手い彼女、欲しい〜!)

 もう拓真はすっかりその気。
 まだ、彼女から『私も好き』という一言は聞いていないけれど……。

 緋美子は中学生の頃から、家事をしていたらしい。母親がその頃に亡くなって、仕事で忙しい父の代わりに、兄と一緒に家事を分担して暮らしてきたそうだ。

「だから、うちのお兄さんはすっごく料理上手よ。それで義姉さんが具合悪くなっても、なんとかなっているみたい。それでも兄さんも仕事があるから、私が時々見に行くの」
「そうか……。でも、家族の皆で、協力し合っているんだ。良いと思うよ……うん……」

 苦労したんだね……とは、軽々しく言えず、拓真はそれなりに労う言葉しか出せなかった。
 それは拓真も同じ事。親を早くに亡くしている境遇は、自分も良く知っているから、そうとしか言えなかったのだ。そしてそれは緋美子もきっとよく分かっていると思えていた。

「拓真さんも、地元なのよね」
「うん。でも、俺も同じで親父はもういないんだ」
「そう……」

 今度は拓真が自分のことを、話す。
 父親が消防官だったこと。自分も中学生の時に父親が殉職したこと。母が一人で育ててくれたこと。だけれど、母を支えてくれる男性が現れ、拓真が高校を卒業し、消防官になるまでは、再婚を待ってくれたこと。そして──この春、ついに再婚し、相手の地元である福岡の小倉へとこの街を出ていったこと。自分は独身寮にいることを話した。

「拓真さんが消防官になること。お母様、反対なさらなかったの?」
「しなかった。うちのおふくろさんは、結構、度胸は座っているんだ」
「流石、消防官の妻で母ね。すごいわ」

 お互いが片親の生活をしてきた話で、暗くなるかと思ったが、最後にはこうして緋美子が明るく笑ってしまう。
 だから、拓真もなんだか本当に自然体で笑っていた。
 そして、なんだろう……。この『安らぎ』は。
 拓真は本当に、緋美子という女性を上辺だけじゃない部分で、もっと欲し、そして恋だけじゃない、なにか大切でかけがえのない愛おしいものになるのかもしれないという、漠然としていてもそんな予感が生まれていた。

「ああ、でも。私、拓真さんと初めて会った時に思っていたの。──『この人は、きっと私と境遇が似ている人だわ』と」
「なに? それ……直感?」
「うーん、そうとも言うかしら? そうそう、私ね。時々『見える』の」

 彼女が唐突に言いだした『見える』の一言が分からず、拓真は握り飯を頬張りながら、首を傾げた。
 すると、緋美子がとんでもないことを言った。

「時々、見えちゃうの。生きていない人とか、ううん……生きているけれど、彷徨っている生き霊とかも何回か見たかもしれないわ」

 今度は食べていた握り飯を、小さくぶっと吹き出しそうになった。

「それって、つまり?」
「幽霊と言えばいいのかしら?」
「本当に?」
「本当よ。さっきもバスの中にいたわよ」

 それをしれっと告げた緋美子に拓真は驚いて、今度は食べることを忘れ、緋美子をしげしげと見つめた。

「ああ、信じてくれなくてもいいのよ。早紀さんも、仲良くなって数年は信じてくれなかったもの。今はなんとなく腑に落ちなくても、私の言うことだからと信じてくれているの」
「な、な、な……俺だって信じるよ!」

 拓真は慌てて、彼女の女友達に遅れを取るものかと叫んだ。
 緋美子はそんなことは、実際はどちらでも良いようで、ただ『有難う』と笑っているだけ。

「さっきのバスって……。何処にいたのかな?」
「私達が座っていた横の座席。反対側の窓の席よ」
「く、空席だったけれど?」
「だからよ。そこが空いていたから座っていたのよ。……残念だけれど、まだご自分が亡くなっていることを知らないで、バスに乗っていたみたい。きっと毎日よ。それとも一日中? バスから降りる時も、私の前で運転手さんに定期券を見せていたわ。ちっとも見てくれないから、何度もね」

 そう言われて拓真も思い返すと、緋美子が窓の外ばかり眺めていたのは、その霊をなるべく見ないためだったのじゃないかとも思えたのだ。
 そんなありそうでなさそうな話をしながらも、緋美子には実体に近いものとして見えるからだろう? ちょっと哀しそうな顔で砂丘の向こうに見える海を眺め、初物の梨を頬張っていた。
 でも、拓真にはもう……。彼女のそんな顔を見ただけで、話を信じることが出来た。彼女の顔は嘘をついていない。そう思え、心底信じられた。

「そう言えば、運賃を払う時に、緋美子さん立ち止まっていたよな。あの時、その前にいた幽霊さんの気が済むのを待っていたとか?」

 そう言うと、緋美子が『分かってくれた』とばかりの嬉しそうな笑顔を見せた。
 逆に拓真が驚くほどに、嬉しそうだったのだ。

「そうなの! 何度も定期券を見せているから、通り越せなくて。でも、あの時、運転手さんが私に向かって『どうしたのですか』と声をかけたでしょう? それでその人、気がついてくれたと思ったみたいで、嬉しそうな顔をして降りていったの!」

 少しばかり妙に思った彼女の間をちゃんと覚えていた拓真に、緋美子はとても感激してくれたようだ。

「思った通り。拓真さんて、とても『綺麗な人』だって……」
「綺麗──? 俺の、こんな汗くさいだけの男の俺が? 顔だって俺はちっとも!?」

 だが、目の前の緋美子は、拓真が惚れ込んだ綺麗な瞳で、拓真を慈しむように見つめてくれている。
 そして柔らかな、落ち着いている清らかな笑顔。

「魂が綺麗と言っているの。とても透き通っているの」
「俺の魂……が?」

 どうしてか。彼女が急に神秘的なものに見えてきた。
 そして彼女の言っていることは、嘘でもなんでもなく、本当にそう思っているから拓真に告げていると信じられた。

「こんなこと。誰も信じてくれないから、本当は言わないの。早紀さんくらい。でも、拓真さんは……分かってくれそうと信じていた」

 いつから『信じてくれる人』と判断していたかは分からないが、だからこそ、今日は彼女の方から真摯に向かい合ってくれていることを、拓真は痛感することが出来た。
 それは垣根から連れ出してきた男としては、とてつもなく嬉しい言葉だった。
 まさか、こういう曖昧な話題で解り合えるとは思ってもいなかったが。だが、拓真はこの後、この女性のこうした変わった能力を信じていくことになる。彼女が時々『見える』と言うことを、『恋人』として『夫』として、愛した女性の一部分として受け入れていったし、嘘だなんて一度も疑うことなく信じ続けていくことになる。
 そして、まざまざとそれを見せつけられることともなっていく……。

 この世に、魂というものが本当に存在し、それがどれだけ重い存在であるかということを……。

 そんな彼女と、初めてゆっくりと話が出来た拓真としては、今日は忘れられない一日となっていく。
 なにもかも、『緋美子』という女性のなにもかもが、拓真にとっては『素敵なもの』として根付いていく最初の日でもあったと、後で振り返る一日。

 食事を終えた後も、二人で延々と砂丘を歩いた。
 真夏の太陽が、どんなに強く、二人を焦がすように照らしても、二人はどこまでも肩を並べて歩いた。
 今度は笑ってばかりの気楽な話。

「早く、赤ちゃんに会いたいわ。私、この若さで姪が出来て、『叔母さん』になるのよ!」

 今、彼女の義姉のお腹にいる赤ん坊。
 それが後の『凛々子』となり、二人の間に挟まれていく存在になるとは、この時は拓真も緋美子も思っていなかった。

「赤ん坊なんて、俺、ここのところずうっと見ていないし、触ったこともないなあ」
「だったら、生まれたら、一緒に抱っこしに行きましょうよ。きっと赤ちゃんも拓真さんみたいに『綺麗な人』だったら安心して喜ぶと思うわ」

 ちょっと不思議な喋りをするところは、この日の拓真はまだ慣れなくて、驚いたりしていたものだったが。でも、『今度、一緒に』と、新しい家族になる赤ん坊に会いに行かせてくれる気持ちがあるだけでも、この日の拓真は彼女に認められたようで嬉しかった。

「うん。無事に生まれること、俺も祈っているよ」
「お義姉さんにも、そう言っておくわね。素敵な人と出会ったって……お義姉さんにだけ、打ち明けているの」
「そ、そうなんだ……」
「勿論、拓真さんが『綺麗な人』ということも話していてね。お義姉さんは『それなら、大賛成』って応援してくれたの」

 つまり、そのお義姉さんとやらも、早紀と同様に『緋美子の霊感』を信じているらしい。
 いや、それよりも、家族の一人に彼女が拓真のことを報告しているだけでも、なんだか照れくさいやら、嬉しいやら。拓真は一人で赤くなって緋美子の横で照れていた。緋美子はそんな拓真を分かっているのかどうかは知らないが、ただ楽しそうに笑っているだけ。

 どれぐらい話ながら歩いただろう?
 時には座って水筒のお茶を飲みながら……。また立っては砂丘を登り海を眺め、下っては波打ち際に座り込んだり。海水浴を楽しんでいる水着の人々も見える。
 時折、風が吹き上がる。乾いた砂が二人の足下で綺麗な紋様を描いては消えていく中、心ゆくまで二人は話した。
 まだ夕方ではないが、日が傾いてきたので、そろそろバス停へ向かおうかと二人で決めた時だった。
 砂丘の下りで、強い風が吹いて、それを腕で凌いだ緋美子が、足下を砂に囚われてしまい、しりもちをついて転んだ。

「やーん、今の凄い風〜」
「大丈夫? 俺も砂が目に入りそうだった」

 転んだ緋美子に対して、拓真はそこは男らしく、彼女の手首を掴んでお越しあげようとした。
 だが、また強い風が吹いてきて、立ち上がろうとした緋美子がまたバランスを崩して、『すてん』と転ぶ。彼女の腕を引っ張っていた拓真も、それにつられるようにして、うっかり砂の上に倒れ込んでしまった。
 気がつけば、緋美子は拓真の胸の下敷きになっている。

「ご、ごめんっ! 俺まで──」
「だ、大丈夫よ」

 綺麗な長い黒髪が、砂まみれになってしまった緋美子。それどころか、頬まで砂が沢山くっついてしまった。
 拓真は後先考えずに、緋美子の頬に触れて砂を払った。額も、肩も、黒髪も。白いブラウスにかかった砂も。やがてその手が、彼女のふんわりとした胸元に辿り着いて、拓真は初めてハッとした。
 気がつけば、まだ砂の上に横たわったままの緋美子が、潤むような眼差しで拓真を見つめている。
 その視線が、初めて熱く拓真を見つめているような気がして、あの日、初めて緋美子と目があった時のように、ぎゅうっと拓真の胸は鷲づかみにされたよう……。

「可笑しいわ。そんな真剣な顔……しないで……」

 緋美子は真剣に砂を払った拓真のことを笑いたいようなのに、でも、どうしてかその顔が直ぐに真剣な面もちに戻ってしまう。
 そして何処までも、あの黒い目で拓真を見つめている。
 今日はどうしてか本当に、彼女が神秘的に見えてしまい、見つめられると拓真は身動きが出来なくなってしまった。

 この時、思った。
 彼女は『言葉』では生きていない。
 彼女は『魂』で生きる女だと──。
 そう、直感した。

 その直感は当たった。

 恋する彼女に見つめられて身動きが出来なくなった拓真の首に、奥ゆかしいはずの白い花が大胆に両腕を絡めてきた。
 拓真は驚いて、戸惑うばかり……。でも、どうしてか、彼女に呪文でもかけられたかのようにして、従っていた。

 やがて触れる唇の感触。
 軽く、ふんわりと……。拓真の唇に、そんな柔らかいものが重なった。
 でも、一瞬のこと。いや、拓真が驚いて、離れてしまったのだ。
 きっと勢いだったのだろう? それでも思い切ったことをしてしまった緋美子は、ちょっと傷ついた顔。そしてやっと我に返ったのか、そんな大胆なことをした自分を恥じるように頬を染めてしまっていた。

「私……ただ、その……そうしたかった……から……」

 大胆なことをしたくせに。緋美子の声はとても震えていた。
 そう、彼女は心のままに、そうしてしまったのだ。
 拓真は、まだ甘い感触が残っている唇を指でさすりながら、緋美子を見つめ返した。

「嬉しかったけれど。これ以上は、俺……本当に後戻り出来なくなる。俺、きっと男として……きっと……」

 それでもいい?
 無言で彼女を見つめた。
 彼女は何も言わないが、ただただ、拓真しか見えていないように、その綺麗な瞳で見つめ返してくれるだけ。
 それだけで、もう……。拓真は……。

 だんだんと、分かってきた。
 彼女はきっと、これからも拓真の目の前で、『生きていく姿』で気持ちを伝えてくれる女だと。
 やがて、どちらからという訳でもなく、二人はお互いの頭を抱え込むようにして腕を絡め合っていた。

 引かれ合うようにして触れあう唇。
 先ほどの、柔らかく甘く重なり合うだけの口づけ。
 だけれど、それではもう……物足りない。

「好きだよ、緋美子……」
「わ、わたし……も……」

 彼女の唇をそっと噛む。それは拓真にとっては男としての勢いではなく、本当に彼女を愛したいと思うが故の、自然な行為。それが通じているのか、拓真が望んだとおりに、唇が開いた。
 初めての、キス。
 なのに、このぴったりと合わさる感触はなんなのだろう?
 それに彼女、なんて熱いんだろう? 初めてじゃない? でも、震えているし? そんな余計な考えも、熱い砂の上で抱き合って唇を愛し合うという初めての情熱と砂の上を滑る風に飛ばされ、ただ灼熱の世界に引き込まれていくよう……。

 でも、やっぱり慣れていないせいか、お互いの前歯ががっちんとぶつかった。
 それに驚いて、二人の唇も顔も離れてしまった。
 まだ、お互いにちょっと噛み合わないところはあるけれど──。でも上手くいくような気がした瞬間、そんな初めての口づけ。
 拓真が微笑むと、胸の下にいる彼女も笑っていた。

 その後、二人は恋人として付き合うことになるのだが……。
 拓真の白い花は、やがて艶やかな緋色の花であることを、心でも身体でも存分に感じていく日々を迎えることになる。
 それは良くても悪くても、拓真の一生を翻弄していくことになる。

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