-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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4-3 離れたら死んでしまう

 

 蝉の声が賑やかな公園。
 消防官の紺色の作業服を着ている正樹が、ふと微笑んだ。

 その笑みは、知り合いを見かけて挨拶がてら声をかけただけに過ぎない程度のものだった。
 緋美子と正樹の場合は、妹の友人と、友人の兄。そんな関係性だけでかわす挨拶。
 今、ほかの知り合いがこの二人が向き合っている様子を目にしたら、誰でもそう思うだろう。きっと、夫の拓真だって……。

 そう、そのように接するべきだ。
 あの『毒々しくも甘いひととき』のことなど、もう二人の間では『なかったことにする』と決めているのだから。
 そして二度とあのようになってはいけないと、年上の、大人の、正樹が先にそう決めたのだから。

 それでも緋美子は異様な緊張感に縛られたまま……。
 夏だというのに、汗を冷たく感じながら、ごくりと喉を鳴らす。
 落ち着いて、落ち着いて……。それを呪文のように繰り返し、やっと座っている。

「本署に用事があってこちらに出てきたら、帰りに緋美子ちゃんをみかけてしまったもので」

 だからなに? と、緋美子は思ってしまった。
 それならそれで声などかけなくても。私達は『近所でありながら、付き合いはしない』と互いに心に決めた関係なのだから。必要以上の挨拶はいらないではないかと緋美子は思った。
 もし、また……あんなふうな甘美な世界に触れてしまったら、引き返す自信がない。あの時、正樹が正気に戻ってくれなかったら、きっと緋美子は言いなりになっていたと思う。その危険性がいまだってある。実際に、そこに彼がいるだけで滲み出てくる汗は、そのあらぬところから湧いてきてしまう隠微な甘さを味わいたいと堪えているからだ。

「これ、良かったら」

 緋美子が座っているベンチ。その隣のベンチに、正樹がゆっくりと近づいて何かを置いた。
 そして彼はそれを置くと、また足早に元にいた離れた位置に戻っていく。
 かなりの警戒が窺える。彼も緊張しているのだろうか。あの時のように思いがけず肌が触れ合って、理性もふっとぶようなエロティックな怪奇現象に陥っても、この日中この公衆の場では危険だ。
 なのに。隣のベンチに置かれているのは、冷たそうな缶ジュース。緋美子は少し驚いて、離れている正樹を見た。

「近寄れないから、ここで勘弁してくれ」

 いえ、結構です。
 そう言いたかったが、言えなかった……。
 その代わりになんだか泣きたい気持ちになってきた。

「何故……ですか」

 何故。私を見かけて、声をかけ、なおかつそんな気遣いまで……。
 正樹がそこにいるだけで、恐ろしいし、そして哀しい。緋美子の思いは上手く言葉にならない。

「疲れた顔でそこで休んでいれば目に付くよ。特に『良く知っている人』なら、遠くからでも判る」
「だからなんだというのですか。私達は近づいてはいけません……」

 だが、緋美子はもう泣いていた。
 彼と結ばれないことを嘆いているのではない。
 大好きな友人の兄。本当なら、気兼ねなく挨拶も交わすだろうし、相変わらず奔放な早紀の話で笑い合うこともできただろうに。
 あの出来事を話しても、決して誰にも信じてもらえないだろう『性的な怪奇現象』。それに二人揃って遭遇し、官能という甘い蜜に溺れたら互いにその身を滅ぼす予感に怯えてきた。
 だからこそ、早紀という最も親愛なる友人の兄なのに、早紀という可愛い妹が慕っている友人なのに、二人は一番遠い縁になろうと努めてきた。
 それは端から見れば『嫌っている』ともみえる距離感に態度だったと思う。……まだ、誰も気が付いていないようだけれど。
 少なくとも緋美子は、どうしようもないことと思いながらも、早紀に問いただされる機会がないことにほっとしながらも、心苦しく思っていた。

 けれど、緋美子の隣のベンチには彼の気遣いがある。
 それは、そんな縁の二人でなければ、彼には嫌われていないと言うことだった。
 しかし、その気遣いを込めた『物』すらも、緋美子は触れることを恐れた。

「疲れているみたいだね。やっぱり初めての子育ては大変なんだな」

 正樹は落ち着いている。彼から寄ってきた余裕ということなのだろうか。
 彼は本当に、挨拶ぐらいなら当たり前の知り合いの顔。しかも、緋美子の隣、缶を置いたベンチ、さらにその隣の向こうに腰をかけてしまった。

 ……話し込むつもりなのかと、緋美子は益々ひやりと緊張をする。
 このまま走って逃げても良いだろうに……既に足が動かなかった。
 もう捕まっている。もし、正樹がその気になれば、緋美子は従う。もう、遅いのかと思った。

 それでも正樹は悠然と足を組んで座っている。
 そして彼も自分の為に買った缶コーヒーを開けて、飲み始めていた。

「驚いたよ。まさかこんなに早くに、緋美子ちゃんが結婚するとは思わなかったから」
「後悔していません。むしろ、幸せです」
「そう。結婚、そして出産、おめでとう」

 いつか『素敵なお兄さん』と思っていた笑顔がそこにあった。
 でも今は油断大敵。彼の笑顔をまともに見ることなど、決して出来なかった。
 それでも緋美子は『有難うございます』と、なんとか丁寧に頭を下げ、礼を述べた。

「しかも、あの鳴海とね。……参ったよ」

 参ったという彼の声が、とても疲れているような声?
 訝しく思った緋美子が正樹を見ると、彼は投げやりな様子で缶コーヒーを一気に飲み干しているところ。
 それを飲みきると、正樹はふうっと大きな息を吐いて黙り込んでしまった。

 緋美子の身体の左半分は、とても心地良い木陰の風を感じ、右半分は正樹の方からちりちりとした熱風を感じる。
 嫌な間だった。緋美子の感覚では、あの赤い者がずうっとこちらを窺って、隙を狙っているかのような気持ちにさせられる。
 このまま逃げてしまおう。息子が待っている。可愛い一馬が待っている。
 不思議と、愛しい我が子の顔を浮かべた途端、逆らう力が湧いてきた。緋美子はハンドバッグを握りしめ、立ち上がろうとしたのだが。

「調べてみたんだ」

 緋美子が走り去ろうとしているのを引き留めるかのように、急に正樹が言葉を発した。
 そしてやはり緋美子は、動けなくなる。しかもその言葉に、緋美子は興味を持ってしまったのだ。

「なにをですか?」
「おかしいじゃないか。誰に話しても信じてもらえないだろう『変な現象』に俺達は襲われたんだ。しかも、触れただけであそこまで理性がふっとぶほど本能的に引きずり込まれるだなんて、きっとあまりにも『縁が濃すぎる』のだと思った。長らくあの高台に所有地をもつ同士。何かあったんじゃないかと」

 緋美子はドキリとさせられた。
 それは緋美子も気にしていた。
 長谷川の家はあの土地に何代か続いている。そして緋美子の家も。本家は高台を降りた市街地にあるが、あの薔薇の家は別宅として同じように長い間ある。ただ、薔薇の庭になったのは祖母の代からだと聞かされているが、あの土地はずっと正岡の物だ。
 あの近隣は旧家が多い。世代が変わって付き合いがなくなって現代に至ることもあるだろう。では、遡れば、両家がもっと親しい時もあったのではないかと。
 調べようと思えば、きっと調べられる。なにせ父は考古学者。頼んで資料を漁ろうと思えば出来ただろう。しかし緋美子が思いついた範囲ではなかったはず……。父にさりげなく聞いた昔話からも、さらには先々代が語り残した話からも、『近所の顔見知り。会えば挨拶をする程度』のお付き合いしか記憶にないという。
 調べてみて、緋美子も痛感した。これは理屈や簡単な歴史では解読の出来ない、やはり怪奇的なものなのかと。
 緋美子の魂と正樹の魂が、あまりにも強すぎる男女の関係を生んでしまう。そんな縁があの夕方、がっちりと結びついてしまい、それはもう、ただ人間の持ち得る力ではどうすることも出来ないのだと。

 では、正樹は何かを得られたのだろうか?
 そう思ったから、緋美子は興味を持ったのだ。
 そして、正樹の答は……。

「特になにもなかったかな。もしかして、緋美子ちゃんも同じ事を考えて調べたりした?」

 『私も同じでした』と緋美子も頷く。
 でも、なにもかも読まれているような気になった。
 しかしと、緋美子は思う。あれだけの現象を引き起こした者同士、『どこか通じている』という変な気持ちにさせられることも、あの後多々あった。
 垣根に立っている正樹の心が透けて見えてしまう。正樹がこちらを見つめる目が何を言いたいか判ってしまう……。そんなものだ。
 そしてやはり、正樹も同じ事を思い、あの毒々しい現象を気にして調べていたのだと。妙な連帯感を覚えてしまう。

「そうか。なにもなかっただろう?」
「古い家系を持つ家同士ですから、私は直ぐにそちらを思い浮かべましたけれど」
「ふうん。前世ってやつ? 俺は今までそんなことはちっとも信じていなかったな。たとえ『時々、見えてしまっても』だ。目に見えるならまだ現実的だけれど、前世なんてあまりにも不確かすぎる。緋美子ちゃんはどの程度? いつも見えてしまう程?」
「良くあります。頻繁ではありませんが……」
「やっぱりね。引きは君の方が強かった訳だ」

 『引き』は、緋美子が原因だった。
 まるでそう言われたようで、緋美子の中の血がぐわっと上昇した。
 それは恥ずかしさもあり、そして、ある意味『屈辱』でもあった。

 卑しいものを引き寄せたのは、女のお前だと言われたような、そんな気持ち。
 そんな思い、微塵も持っていない十五の中学生だったというのに。まだ男も知らない、淡い恋を追いかけるだけの毎日でせいいっぱいの。そんな少女が、成人になりかけていた青年を誘惑し、あれほどに理性を奪った。俺のせいじゃないと彼は言っているのだと……。

 しかし憮然としている緋美子に気が付き、直ぐに正樹が言い直してくれた。

「いや、そういうつもりで言ったのではなく……」

 そんな繕う正樹を目にして、緋美子もまあいいだろうと気を取り直す。

「いえ、構いません。どちらが強いというならきっと私でしょう。私も前世などは全面的に信じていません。でも、今は……僅かにそれもあるのかもしれないと思うようになりました」
「俺もだよ。でも、違うと思わなかったか?」
「違いますね。家系と土地にまつわる縁ではなさそうです。……しかし、そうでなければ。もう、どうしようもない『偶然』としかいいようありませんね」

 いつの間にか、離れてはいるが、正樹と面と向かって話してた。
 そこには、これからもあってはいけないこと、そして引き寄せてはいけないものに対して『共に防ごう』という正樹の前向きな気持ちが見えたように思えた。
 今日まで、彼とこうして話したことがないから、彼は脅威だった。そしてたった一人で怯えていた。
 あの土地にだけ生きてきた家の娘と青年。そして緋美子にとっては唯一無二の親友である早紀。それから離れる勇気などないから、余計に切れない縁、そして直ぐ側にある恐怖、そして誘惑だった。
 だけれど、一人じゃない。そんな気にさせられた……。その思い故か、緋美子はいっさい手を付けようとしなかった正樹が置いてくれた缶ジュースに手を伸ばしていた。

 少し怖かった。
 正樹が触れた物にさえ、おかしな物を引き寄せる要因があるのではないかと……。
 まるで電気を帯電させている物に警戒するような手つきで、緋美子は数回、それを指先でつついてみた。
 特になにもない。正樹から漂ってくる熱い気以外は──。緋美子は安堵し、その缶を握りしめた。
 やっとひんやりと心地良い感触に安らげた。これだけは……。互いが引き寄せてしまった不吉なものとは無縁の、正樹という人の純粋な気持ち。だからこそ、緋美子はその缶を丁寧に握りしめた。

「頂きます。有難うございました」
「いいえ」

 しかし飲む気にはなれず、水滴がついているその缶をハンカチに包んでバッグにしまった。

「それで、結果なんだけれど」
「結果など、あったのですか?」

 緋美子側では『もうどうしようもない偶然』と結論づけた。
 特に、怪奇的なことには信じざる得ない体質を持ってしまった緋美子には、人間が残した足跡から見つけだす原因よりも、もっと実感できる物だからだ。そちらの方がすとんと心の中で落ち着く。ただ、解決策もなにもなくなってしまう。ひたすら正樹を避けていく一生を送らねばならない。
 では、正樹はどのような結論に落ち着いたというのだろうか。

「結果じゃないけれど。この仕事柄、市内で起きた様々な事件に事故など、結構、年月を遡って調べたり集計したりもしたんだ」

 なるほど。それは緋美子も思いつかなかったし、手に負えない調べ方だったかもしれないとハッとさせられた。
 それで何か判ったのかと、緋美子は正樹が行き着いた結論に対する期待を高めたのだが……。

「でも……。これといって関連するようなものはなかった」

 急速に、緋美子の期待はしぼんでいった。

「そうですか。では、本当に私達のあの出来事は、どんな理屈も理由も原因もないどうしようもないことだったのですね」
「……だろうね」

 正樹の声も沈んでいる。
 あれから、五年が経とうとしている。
 今日の再会も偶然なのだろうか。
 あまりにも衝撃的で突発的な災害にでも遭ったかのような出来事。二人はそれに縛られて日々を過ごしてきたことだろう。
 でもその間に、危機感を持って手探りで一つのことを互いに追っていたことで、緋美子の心は少し救われた気がした。
 正樹が決して、あの時の甘美なる獰猛さを再び宿して、なんとかして緋美子を奪ってやろうと、それだけを念じている訳ではなかったのだから。
 それだけで……。今日、正樹が声をかけてくれたのは、感謝をしたい気持ちになった。
 さあ、これで帰ろう。これからもお互いに気を付けていれば、大丈夫。正樹という緋美子にとっては危険な男性、でも、こうして距離を保てば、彼は大好きな親友の素敵なお兄さんで、そして愛している夫が尊敬している消防官の先輩でありつづけてくれるだろうと。
 だけれど、正樹の話はまだ終わっていなかった。

「理由はつかないけれど、俺は事件や事故を調べているうちにあることを思った。きっと『俺達は、その部類だ』と確信したね」
「私達の、部類? なんですか、それは」

 すると、先ほどまで五年分も安心させてくれた正樹が、少しばかり不気味に感じる笑みを浮かべたのだ。
 安堵していた緋美子の身体が、一気に冷えていく。

「時々、あるだろう? 特に金にも困っていない生活も人間関係も順調なのに、愛し合っていたと言われる男と女が、周囲も見当もがつけられない原因不明のまま共に死んでしまう事件が。つまり、無理心中。それの理由はきっと、『離れると生きていられない』とお互いに思い詰めたからなんだろうなと。それを人々は、死に至った二人のことを不思議に思いつつも言うんだ。『愛し合いすぎたんだ』と。不可解な男女心中の顛末はそれにつきるんだ」

 その話に、緋美子の心臓が大きくドクリを動いた。
 まさに『それ』かと、同じように思えたからだ。

 もっと言えば、『身体と身体が離れられない』ということなのだろう。
 生活にも人間関係にも困っていない。むしろ幸せなほどに愛し合っている。でも、お互いに死を選ぶ。どうしようもなく二人でそこに至る。
 緋美子の中で、なにか逆らいがたい熱いものが巡るほどの、一致感。ただひとつ違うのは、正樹とそこまで愛し合っていないこと。
 それだけに。如何に自分達の場合は、身体と身体が引き合ってしまったか、だった。
 まだ愛し合ってそこに至るなら、それはそれで、幸せなのかも知れないのに。
 身体と身体を繋げたまま離れられなくなる男と女なんて……。そんな『人』ではなくなるような哀しい転落はしたくないと緋美子は泣きたくなってきた。
 しかしその魔の手は、この時にも既に緋美子の目の前に潜んでいた。

「俺達は、一度結ばれたら。きっと……もう離れられなくなるだろうな」

 正樹の笑みが、徐々に邪気を含み始めたように緋美子には見えてきた。
 また身体が固まった。彼は正樹じゃなくなったのだと、緋美子は怯えた。
 なのに、正樹が立ち上がったかと思うと、あろうことか緋美子が座るベンチに、一歩、二歩と近づいてきた。

 正面に迫ってきた彼の不気味な笑みに、あの赤い残像の『微かな口元』を感じた。
 やはり、あれは……。垣根で緋美子を探していた正樹が残した『霊気』なのだと確信した。
 そして初めて見た! 正樹の背後は真っ赤に燃えている!
 座ったまま、緋美子は後ずさる。でも、それすらも僅かな動きでしか抵抗が出来なかった。
 怯える緋美子を物欲しそうに見ている正樹が、じっくりと詰め寄る。

「きっと日がな一日、男と女の行為に耽るんだ。身体と身体を離していると気が狂いそうになるほどの中毒症になって……。そして死を選ぶ」

 緋美子は頭を振った。
 そんな恐ろしい縁が、目の前にあるだなんて!

「緋美子だけだった。どんな女を抱いても、誰も俺を満足はさせてくれなかった。君は鳴海で満足しているのかな? いいや、していないだろう? そうだろう?」

 悟った。正樹はもう、あの時の獰猛な男になりかけている。
 やはり、今日は話しすぎた、気を許しすぎた、近すぎたのだ!

「まだ結ばれていないけれど、分かる……。俺にとって、あれほどのエレクトはなかった。その行き場が見つからないんだ……」

 理知的な正樹じゃない。
 どうしようか。このままでは、この日中、この公然の場で、きっと正樹は……!
 緋美子の身体に、ざあっと鳥肌が立った。嫌悪ではなかった。あの時と同じ、緋美子にも官能の波が立ち始めているのだ。

「こ、こないで! まだ、まだ、死にたくない!!」

 やっとの思いで声を振り絞った。
 今度は、まだ理性が残っている緋美子が正樹を止める。
 そして今の緋美子の脳裏には、屈託のない夫の燦々とした笑顔と可愛らしい息子の寝顔、元気な泣き声。

「私には、拓真が、一馬がいるの!!」

 あの子を置いて死ぬことなど、絶対にあってはいけない。
 これから先、ずっと! どんなに甘美な誘惑があっても、それだけには絶対に自分を奪われてなるものか!!
 その思いが、緋美子に声を出させていた。

 そして、正樹の足も……そこで止まった。
 また彼の呆然とした顔。そして、また自分が思わぬ事をやろうとしていたのだという、情けない顔。
 正樹のそんな顔は見たくなかった。近所で評判の跡取り息子。消防署でも有望な青年。早紀の頼りがいある兄。夫の……。

 緋美子も力が抜けていた。
 ここで、ここで、走って逃げなくては!! そう思っているのにまだ力が入らない。また正樹がその気になる前に、なる前に……。
 だが、去っていったのは彼だった。

 気が付いた時には、彼はふいっと背を向け歩き出していた。
 そしてどんどん遠くへと離れていく。

 突然、ぶつっと時間を切断された気持ちになった。
 それまで、穏やかにも怪しくも危なげにも、二人は向き合って話していたのに。そんな貴重な救われたような時間など、まるで無だったのだと、幻だったのだと言わんばかりに切り捨てられていた。
 緋美子のまわりにひんやりとした木陰の風が戻ってきた。
 正樹の背が、公園の外へと消えていく。

 挨拶もなく、親しみも消え。彼は去っていく。
 もう緋美子とはまったく関係ないといわんばかりの、後ろ姿。
 だが、緋美子はまた正樹に感謝していた。
 きっと、堪えに堪え、正樹という『人』がまた『獣』に勝ってくれたのだと。

 この時になって、やっと緋美子の心臓は激しく動いていた。ドクドクと──。
 そしてやっと鎮まった頃、緋美子は一人で呟いた。

「あの人、火の人だわ」

 夫が真っ白に光っているなら、正樹は真っ赤に燃えている。

「あの人、火に取り憑かれているみたいだったわ」

 そんな背後。

 だから、消防官?
 そんな気にさせられた。

 やがて、十四年後。この日の二人だけの会話がまるで予言だったかのような出来事に、二人は遭遇する。
 それが火の海の中での『死』だなんて、この時の緋美子はまだ信じていなかった。
 そして正樹が火と相性が悪いことも。この時にはまだ緋美子でも気が付けなかった。

 

 

 

Update/2008.1.12
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