-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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 ※【警告】※
当作品は、[性R18][反社会的R]指定を設けている作品です。 
特に『倫理』とは多少ずれた展開がある為、苦手な方は閲覧にご注意下さい。

 

13.白く埋葬して

 

 五週目ぴったりに、つわりが来た。

「本当なの、緋美子ちゃん!」
「うん。診察もしてきたわ。五週目ですって――」

 部屋で塞ぎ込んでいるという早紀を呼び出して、緋美子は報告をする。だがその報告が一番恐れていたもので、早紀は避けられない事態が来てしまったことに震えていた。
 いつものソファーで、今日の二人は隣同士に座り合う。いつもの仲良しである二人は共にある不安を抱きしめるようにして、寄り添っていた。
 早紀もやつれていた。嫁入り前の一番きらきらしている美しい時期だろうに、少しばかり痩せてしまって――。

「どうするの? 拓真さんに言ってしまうの?」

 早紀はふるふると震え、もう泣きそうな顔だった。

「ええ。そうね。騙せないわ」
「彼、傷つくわ。だって、あんなに貴女のことを愛しているんですもの! なによりも、貴女はしっかり者で貞淑な良妻賢母だって信じ切っているわ」

 緋美子もそれを言われると辛い。
 夫がこれっぽっちも疑わない状態から、最悪の裏切りを告げてどん底の突き落とすのだから。

「でも、言うわ。なんとなく、聞いてくれると思っているの」
「なんとなく? 貴女らしくないわ。そんな甘い予想をするだなんて」

 ――なんとなく。
 それは妻だから分かることで、そしてそれが分かるから辛いのだ。
 これは早紀に言っても分かってくれない感覚かも知れない。

「早紀さん、お願いがあるの。彼に話す時、少しだけ一馬を預かってくれないかしら?」

 どのような修羅場になるかわからない。
 その光景を息子が目に焼き付けないようにしておきたい。
 その為に早紀を呼んだのだ。実家の義姉に預けても良いが、万が一何か起きた時にはまたショックを与えることになってしまう。それなら事情を知っている早紀にと思ったのだが。

「それはかまわないわ。英治さんも協力してくれると思うし」
「彼、すごい男性ね。英治さんなら、長谷川家を任せても安泰だわ」
「そうなの? でも、今回のことすごく必死になってくれているわ……。兄のところにも抗議にいったみたいだし」

 あれから初めて、正樹の様子を耳にして緋美子ははっとする。
 本当に彼にあれだけのことをされても、緋美子はちっとも嫌悪を抱いていないのだから。

「兄さんはちっとも悪びれないみたいで、……反応が貴女と一緒で驚いているのよ」
「私と一緒?」
「そう。まさにあの一度きりの関係の為に必死になっただけだと。もう緋美子のことはなんとも思っていない。だけれど悪いことをしたのは分かっている。だからどうにでもして欲しいと」
「お仕事はちゃんと行っているの?」
「行っているわよ。広島に転勤する準備もしているわ。本当にその前に、貴女を奪いたくてしようがなかったのね。兄は、霊的なことを英治さんが持ち出しても『なんのことかわからない』としらを切っているわ。貴女が言っていることは、襲われたショックを和らげる為の思いこみだって」

 そんな――と、緋美子は思った。
 新しい命を挟んで、愛はなくとも共同体だったことはどこかで認めて欲しかった。
 だが、そんな軽いショックも一時。緋美子はすぐに思い直す。

「正樹さんは、私には罪がないように自分が全て悪いことをしたと言い張るつもりなのよ。私が薬を飲まされて、そのうえ拘束されていたのもその為よ。どう露見しても、自分が襲ったことにすれば、私は百パーセント、被害者ですもの」
「兄さんがそうしたというならば、そのままにしておけばいいのに。あんな告白をするから、英治さんにあんなに貴女は怒られてしまって」
「だって。本当のことだもの。分かっていて、正樹さんだけに罪をかぶせるなんて出来ないわ。そんなことをしたら、もう妹の貴女とも顔向けできない。早紀さんは、私のこと、信じてくれたのね」

 早紀は俯いて、一時黙ってしまったのだが。

「うん、信じる。だって、緋美子ちゃんの霊感を実感したこと何度もあったもの。中学生の頃からずっと貴女を見てきたのよ。悪いけれど、英治さんとは歴史が違うもの。それに貴女が言っていることを繰り返し考えていると、なんとなく今まで腑に落ちなかったことが繋がっていく実感もあったわ。例えば、兄さんと貴女があまり親しくなかったこととか。あの兄さんが女性にだけはどうしてか癖が悪いこととか――。私も感じるの。貴女との深い、何かを。今なら今までの不思議な感覚がなんだったのか分かる気がするわ」

 早紀の目が熱く潤んで、緋美子に微笑みかける。
 緋美子も不思議な熱さがこみ上げてきた。

「早紀さん……。有り難う。そしてごめんなさい。貴女を巻き込んでしまって――」
「ううん。あの時、きっと貴女は私を呼んだのだわ。……手遅れだったけれど。もしかすると道連れのようなことになっていたかもしれないと。貴女を助ける為だったんだって――。そう思っているわ」

 その笑顔がとても愛らしく、緋美子はつい、いたいけにうちひしがれている彼女を抱きしめてしまった。

「私ね。今回、思ったの。何故、一目見た緋美子ちゃんに惹かれて、仲良しになりたかったのか。学校も違うし、住んでいる校区も違う。性格もぜんぜん違う。なのにすごく仲良くなりたかったの」
「私も嬉しかったのよ。あまり学校の友達とは心から話せなかったけれど、早紀ちゃんは上手に私の内面を引き出して、そして受け入れてくれたわ」
「貴女が正樹兄さんと深い縁だったというなら、妹の私も男だったらどうにかなっていたのかもしれないわ。女同士だから、私達こんなに惹かれて離れられない友人になれたのよ――」

 何故か二人は深く抱き合って、互いに寄り添っていた。

「緋美子ちゃんといるととても安らぐの。雄と雌とか、近所の友人とか。そんなこと最初からなかった気もするわ。ただ私達は縁が深いのよ」

 今度は早紀が緋美子を優しく包み込み抱きしめてくれる。
 緋美子も素直にその腕と胸にもたれかかった。
 暫く、幼馴染みの二人は柔らかくて甘い匂いを互いに感じながら、ふと安らいだ。

 そこには今はない薔薇の花に包まれているような甘美さがある。
 女同士にしか分からない、ちょっと秘密めいた愛情。
 緋美子も感じている。長谷川の血を持つ早紀とも、最初からこうなる運命だったのだと。私達は深い縁で結ばれている。そしてこれからも離れることはないのだと。

 早紀の背後は慈愛に満ちている。
 華やかで優しい、穏やかな、誰をも幸せにしてしまうピンク色。
 ロゼッタ咲きの大輪のオールドローズ。早紀はそんな女性。誰からも愛されるそんな女性に緋美子は愛されていることを実感していた。

「早紀ちゃん、明日……。拓真が非番で帰って一休みしたお昼にお願いできるかしら」
「いいわよ。連絡して、カズちゃんを迎えに来るから」

 女同士の結束はこの上なく強く固まっていた。
 後は男達――。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ただいまー。ミコ、帰ったぞ」

 朝、二十四時間勤務で交代し帰ってきた拓真。
 いつも通り、息子の一馬と朝食を取っていると彼がそこに現れた。
 息子と一緒に笑顔で『おかえりなさい』とパパを迎える。拓真がそこで大きなあくびをするのも変わらない。

「ふあ、悪い。先に寝るな」
「いいの、お腹空いていないの?」
「うん。中央署に寄る用事があって、一緒に出向いた田畑隊長とあの喫茶店でモーニングを取ったんだ」

 時々あることなので、緋美子も『そうだったの』と微笑んだ。

「そういえば、あの喫茶店。結婚してから行っていないわ。懐かしいわね。あの喫茶店を待合い用に見つけた時、タクったらものすごく嫌がって――」
「その話、隊長にも今日したところだよ。こんなところで待ち合わせていたのかって驚いていた。やっぱり誰にもばれなかったんだな」
「ばれる前に結婚しちゃったのよ」
「そうだ、そうだ。出来ちゃった婚な!」

 懐かしい話。しかも短かった恋人時代の。でも拓真はそれを思い出してとても嬉しそうな顔。眠そうなあくびをしていたのに、急に生き生きとした笑顔になって、『できちゃった息子』の一馬の頭を愛おしそうに撫でた。

「お前が来たから、パパとママは結婚したんだ。キューピット、キューピット」

 首をかしげている息子をまた嬉しそうに抱き上げて、拓真は上機嫌だった。
 だが、緋美子は急に重い気持ちになった。なるべくいつも通りの朝であろうとしたのだけれど。
 このような日に、偶然なのだろうか。恋人時代の懐かしい話で微笑みあう一瞬に巡り会うだなんて。

「どうかしたのか。緋美子」
「う、ううん。なんでもないわ。ほら、一馬は食事中だから、パパったら遊ばせないで」

 なんとか誤魔化し、早く寝室へ行って眠るようにと緋美子は拓真を追い払ってしまう。
 不思議そうな顔のまま、拓真が二階へと消えていった。

 今日、その時はあとわずかでやってくる。
 覚悟は決めているが……。少しのことでも幸せそうな笑顔を見せ続けてくれた夫に、最悪にものを突きつけるのかと思うと、ここに来て緋美子の罪悪感は最大の重さとなってのしかかってくる。

 何故、このようなことになったのだろう。
 人としての『緋美子』に戻れたのは夫である拓真が帰宅してからだったが、それから襲ってきた当然の罪悪感はかなりのものだった。
 平然としていた獣の緋美子もまだいるが、それはだいぶ奥へと沈み始めていた。あとはお腹の子を守ろうとする母性を遺して――。
 拓真が帰宅してから夫妻の営みがなかったのは幸か不幸か。拓真はかなり傷心気味で、緋美子と寄り添って眠りたがる。時折、神戸でどれだけ悲惨なものを目にしてしまったか語ってくれる。緋美子はそれを黙って聞いて、そしてうちひしがれている拓真を精一杯暖めるように抱きしめた。

 そんな夜を過ごしていた。
 二人で寄り添う夜は静かで、でも柔らかで暖かい。
 妻を抱けなくなった男と、夫に抱かれると困ってしまう妻。
 それでも寄り添っていれば二人は紛れもなく互いを暖め合う愛し合う夫妻だった。

 なのに――。

 時間は容赦なく過ぎていく。
 緋美子は小さなお弁当箱に息子の好物を詰めて、小さなリュックサックに持たせることにした。息子の好きなミニカーと絵本と……。それを息子に背負わせた。

「ママ、これなに」
「今日はサキちゃんのおうちに冒険に行って下さい」
「ぼく、ぼうけん?」
「そうよ。それでサキちゃんと一緒におべんとうを食べてね。パンダのおにぎり作りました」
「ぱんだのおにぎり!」

 もうリュックを背負っただけで嬉しいのに、お気に入りの特製おにぎりを持ってお出かけとあって、一馬は大はしゃぎだった。
 やがて、早紀が約束通りに迎えに来る。

「お願いします」
「うん……。緋美子ちゃん、大丈夫?」

 これから一番の時を迎える夫妻。
 それを知っていてただ見ているだけしかできない早紀の不安そうな顔。

「大丈夫よ。なにもかも覚悟できているの。でも一馬だけは……」
「分かっているわ。任せて」

 早紀は一馬に手を取ると、緋美子と相談したままに『サキちゃんのおうちに冒険に行きましょう』と微笑みかけてくれる。
 玄関のドアを開けると、小雪がちらついていた。そして門には黒いコートを着込んでいる英治が。彼もそれなりに見届けるつもりのよう。緋美子の側には寄ってこないが、そこから丁寧に一礼してくれる。緋美子もそっと頭を下げた。

「一馬君、こんにちは。よかったらおじさんの黒い車にも乗ってみるかな?」

 英治も息子の機嫌を上手く取ってくれる。彼のそんな笑顔にも緋美子はほっとして、玄関のドアを閉めた。

 それから暫く――。緋美子はただリビングのソファーで夫が起きてくるのを待っていた。
 静かなリビングには、少しばかりの風の音。そして窓にはちらちらと舞う小雪。
 どう話そう、どう話せば彼のショックが一番軽くなるか。いや……軽くなんかならない。どんなふうに告げても、他の男の子供を宿したことも、体を許したことも変わらない。
 ただただ。自分の身に起きたことよりも、あの純真な夫を傷つけてしまうことが苦しくて堪らない。
 彼をこんなふうに苦しめる為に結婚した訳じゃない。それとも? こんな体質を持っていると分かっていたのだから、結婚をすべきではなかったのか。拓真の真っ直ぐな恋の告白を断るべきだったのか。そうすれば正樹とどうなっても、二人だけの問題で終わったのかも知れない。正樹が言うように、誰も邪魔しないのなら、二人で性を貪るだけ貪って死んだのかもしれない。あるいは緋美子がたった一人で子供を産んで育てたかも知れない。それだけなら、拓真という夫が傷つくことはなかったのか。

 でも……。拓真は素敵な恋を緋美子に教えてくれた。
 緋美子が憧れていた、『白い恋』を。
 だが赤に塗られた女には、望んではいけないことだったのか。

「ミコ」

 ソファーで一人、悶々としている間に拓真が目を覚ましたようだった。
 彼の声でふと顔を上げると、外は小雪から大きな牡丹雪に変わっていてふわふわと舞っている。

「静かだな。カズはどうした」

 パパが目を覚ましたらすぐに飛びついてくる息子がいない。拓真がリビングからキッチン、そして子供部屋を見渡した。
 そんな夫を見ているうちに、だんだんと心がくじけそうになる緋美子だったが。目を閉じ、そして深く息を吸い込んで意を決する。

「拓真。話があるの。ここに座ってくれるかしら」
「え。ああ、うん……」

 拓真はまだ息子を探している。
 でもいつもと何かが違うことは感じ取ったようだった。どこか不安そうな顔で緋美子の向かいに腰をかけてくれる。

「なんだ。なにかあったのか」

 緋美子は小さく『ええ』と答えたが、それ以上は言葉が続かなくなった。
 暫く、夫妻が向き合うだけの静寂が続いてしまった。
 だがせっかちな性分の拓真はそう長くは持たない男。

「早く言えよ。どうしてカズがいないんだ」
「早紀さんに預けたわ。ちょっとだけ」
「なんで預けたんだ」

 なにかがいつもと違う。徐々に拓真の表情が険しくなる。彼が滅多に見せない顔つきに、緋美子も心が痛み始める。

「貴方に、大事な話があって――」
「だから、それは何だよ」

 彼はとてもシンプルな男だ。
 もし迷うようなものが二つあってもどちらが正解か分からなくても、答はどれか一つを取るしかない。そして選んだらその答に一直線。迷いなど見せたらお終い、逃げはなし。そんな男。
 救命という一刻を争うシビアな現場をいくつも経験してきた為か、きっぱりとした判断をつける癖をつけている。
 何事も当たって砕けて、ぶつかってみないと分からない。そうして一直線に迷うことなく行く男なのだ。

 そんな拓真にもったいぶったり、迷いを見せていると苛つかれることがある。
 そんな時、拓真はいつもこう投げかけてくる。

「なにを迷っているんだ。なにとなにがあって、お前はどうして迷っているんだ」

 状況判断を強いら訓練されてきた男らしい投げかけをしてくる。
 問題を二つ三つ、まず明確にしてから向かい合ってみる。二つ並べて二つを見て悩む前に――。そういったところだろうか。緋美子は拓真のきっぱりとしている判断の仕方をそう感じることがある。

「迷っているものを二つ、俺に言ってみな。一緒に考えるから」

 そしていつもそう言ってくれる。
 まだ学生だった緋美子と結婚した拓真は、若い妻と母になった緋美子を決して置き去りにしたりしなかった。
 逆もしかり。拓真は実家がないに等しい。父親には死なれているし、母親は再婚して向こうの家族に。そんな拓真の居場所はここしかないといつも言う。だから緋美子も拓真の一番の場所として家庭を大事にして彼の帰る場所になるようにと努めてきた。
 それは若い二人が本当に手と手を取り合って、お互いを支えて思い合って、手探りで作り上げてきたのだ。それは居場所である『家庭』だけじゃない。夫妻としての絆も――。

 そんな拓真は緋美子が困っていると、必ずこうして一緒に考えようと言ってくる。そして今回も――。

「タク、私ね……」
「うん。なにがあったんだ」
「私」

 やはりすぐには言えなかった。
 だが緋美子は……。

「私、貴方と結婚できてすごく嬉しかった」
「わ。なんだよ、突然に――」
「貴方がそこの垣根に現れて、私のことを『白い花』と言ってくれた時も、すごくドキドキしていたわ」
「ど、どうしたの。お前?」

 恋人時代を持ち出して、急に泣き始めた妻に拓真はとても狼狽えた顔。

「それで夏の間、貴方にこの身体をうんと愛してもらって幸せだった。一馬がお腹にいると知った時もとても幸せだった。だから私、貴方との結婚、迷わなかったわ。学校で勉強したいこともあったけれど、私、後悔していない。だってこんな幸せな家庭を持って、家族がいるんだもの。お母さんだけじゃなくてお父さんまでもが死んでしまってとっても寂しかったけれど、でも私、拓真に抱きしめてもらって『一人じゃない』ととても安心した」

 いつもは静かな妻だと言われている。
 そんな妻が今日は泣きながら夫に向かって叫んでる。しかし何の為に妻が取り乱しているのか夫には分からない。だから拓真はただ唖然としているだけ。

「でも。拓真……。貴方が知らない私がひとつだけある」

 そう告げると、何故か拓真がびくっと怯えた顔になった。
 それが緋美子には意外に感じたのだが……。

「な、なんだ――。俺が知らないお前って」

 その顔に益々緋美子は驚かされる。
 拓真が見せた表情は、既になにかを予感していたかのような顔だったからだ。もっと言えば、『なにかを不審に思い、疑っていた』かのような。

「私、白くない赤いのよ」
「それ、もう分かっている。それに女は皆そうであると、俺は思っているけれど」
「そうじゃないわ。私、ずうっと前から赤かったの。それに赤い色にとても悩まされていたわ」

 どこかエキセントリックな発言に聞こえるだろう?
 拓真も一瞬、眉をひそめていた。だが、すぐに飲み込んだかのような顔になる。というのも、緋美子という妻がこういったエキセントリックな発言をしたのはこれが初めてではないからだ。つまり、自分の妻は人には見えないものが見える体質であることをそれは良く理解してるから。今回も『赤い色にずっと悩んできた』という告白は、『そこに霊が見える』と時々妻が言うことと似た状況だと考えてくれたのだろう。

「なにか、お前にしか見えないもので怯えているのか」
「ずっとよ。中学生の頃からずっと……」

 すると拓真がすごく驚いたのか、息を止めてしまったかのような顔に。
 その上、向かいに座っていたのに慌てるように緋美子の隣へとすっ飛んできた。

「何故、黙っていたんだ! お前……そういう困っていることがあるなら、なんで俺を頼ってくれなかったんだよ! 中学からって……。それって俺と結婚する前からってことだろ? 今まで俺の側にいて、お前一人で悩んできたのか?」

 隣に突撃してきたような夫の勢いに気圧され、緋美子は固まってしまった。
 彼が緋美子の両肩を強く握りしめ、そして激しく揺らす。それだけ心配してくれているようだった。
 まさに彼はそんな男。熱くて一直線で、純真で――。だから緋美子はそんな優しい拓真を見て、涙をこぼさずにはいられない。
 だから、だから。今日こそは、今まで一人で抱えていたことを全部吐き出すべきと緋美子は思った。

「ご、ごめんなさい……。とても信じてもらえそうもない不思議なことで……そしてとても、恥ずべきことだったから……」
「俺、お前の感覚を信じているんだ。お前が見えることだって嘘じゃないと信じていること、緋美子だって信じてくれるから俺にはちゃんと見えることを教えてくれたんだろう?」
「そ、そうだけれど――」

 『だったら、今、お前が怯えていることも言ってしまえ!』

 夫の、その一言に、ついに緋美子は口にする。

「同じように赤い色につきまとわれている男の人がいて……。中学生の時、その人と遭遇したら私の意志とは関係のない強烈な引き合いがあって、私達、抱き合った。でもその時は未遂で終わって……」

 拓真の目が大きく見開いてそのまま止まってしまった。
 その先を言わずとも、彼はもう分かっているかのように。

「私達、理性を失って自分たちが大変なことになるとその時悟ったの。だからお互いに、中学生の頃から避けてきたのに。貴方が留守の間に、その男の人と……」

 その夫が思わぬことを口にした。

「それ、正樹先輩のことか」

 『中学生の頃から避けてきた赤い男性』――。たったそれだけで、夫に相手を言い当てられ、緋美子は驚愕した。逆に自分が驚かされる羽目になるとは。と、いうことは。拓真はなんとなく予感していたのか。だから先ほど何かを感じているような意外な顔をしていたのか。

「何故、分かったの?」
「なんとなく。お前を見ていて」
「私のなにが? 私そんな素振りなんか一度だって――」

 すると拓真がものすごい形相で緋美子に向かってきた。

「馬鹿野郎! 俺はお前の夫だぞ。なんにも見えていなかった馬鹿旦那だったって言うのか!?」

 目の前で吠えた夫に、流石の緋美子もびくっと硬直し怯えた。

「そんなに俺の目は節穴じゃない。不思議に思っていたことがたくさんある」
「た、たとえば――?」

 自分では全て隠し通せていると思っていただけに、どんなことが夫には見抜かれていたのかと緋美子の胸の鼓動が早くなる。

「窓辺だよ。お前、二階の出窓で時々、垣根を見ている。まるで誰かを探しているようだった。それが俺じゃないのも分かっていた。だって、俺はお前と一緒にこの家の中にいるんだからな」

 その通りだった。正樹は時折、垣根に立って緋美子を探していた。彼自身が密やかにそこに立っていることもあれば、いつか赤い残像に襲われたように『生き霊』であることも希にあった。だからいつも気にしていた。彼がその垣根を越えて来まいかどうか。緊張し警戒していた。
 それを拓真は気がついていた――!

「それだけじゃない。前もお前に聞いたけれど、早紀さんとはあんなに仲が良いのに、兄貴の正樹先輩とはものすごく疎遠でよそよそしい。すごく不自然に見えた。そしてお前は、そんなものだって俺に言った。つまり――その時、お前は俺に嘘を言ったんだな」

 拓真を目の前に、緋美子は震えた。
 緋美子よりも、拓真の方が逃げない目をしていた。緋美子の隣に駆け込んできた夫は、先ほどからずっと緋美子を真っ直ぐに見つめている。彼の目は『真実』を探している。拓真に『逃げ道』はない。彼の性分そのままに、自分が選んだ道を『答はこっちだ』と見定めたらそこに迷わずに突き進んでくる。そんな真っ直ぐな目から逃れられる訳がない。そして、嘘だってつきたくない。

「そ、そうよ。だって、肌を触れ合っただなんて言える?」
「ああ、言えないな。それにお前……ちゃんと……俺が最初の男だったのは間違いないもんな」
「それっきりだったのよ。その時、最悪の事態に突き進む前に気力を絞って正気に戻って阻止してくれたのは正樹さんだったわ。お互いに受けたあまりにも抵抗できない衝撃に、私も正樹さんも恐ろしくなって、その時、彼と誓ったの。『二度と近づかない』と。そうでなければ、私達は触れあったら我を忘れて獣のようになって――」

 次から次へと、押し込めていたものが口から出てくる。
 涙でくしゃくしゃになりながら、声を詰まらせながら、でも緋美子は今まで誰にも言えなかった重い秘密を夫にぶちまけていた。

「獣のようになって、人ではいられなくなる。そんな霊的なものなの」
「じゃあ、正樹先輩もお前と一緒だって言うのか?」

 緋美子はこっくりと頷いた。

「見えると言っていたわ。拓真が現場で正樹さんが勘が良いと言っていたのはそのせいだと思うわ」
「そ、そうだったのか――」

 今はまだ、今まで腑に落ちなかった事が解明していく為か、ひとつひとつは納得してくれる拓真。
 だが、まだまだこれから。緋美子は息を呑みながら、その時の為に気を確かに保とうとした。

「でもそれで、何故、お前と正樹先輩なんだよ」
「だから。それは本当に偶然なのよ。そんな強い引き合いを持つ濃い縁を持った私達が、近所同士で生まれてしまった。そうとしか言えない」
「それで。俺が留守の間に、とうとう、禁が解けたというのか?」

 再び、彼の怒りを込めた強い眼光が緋美子に突き刺さってきた。
 まるで鬼に睨まれたかのようで、緋美子は一瞬硬直してしまったのだが――。

「そ、そうよ。そうなの……よ」

 最後には静かに頷いていた。
 目の前で見る見る間に愕然とした表情に変わっていく拓真。緋美子を逃すまいとばかりに、両肩を強く握りしめては揺さぶっていたのに。その手が力無く緋美子の肩から落ちていく。
 どんどん生きる気力をなくしていくようにも見える夫の顔に、今度は緋美子が必死になる。

「許して、拓真。でも信じて。愛なんてないの。それに襲われた時のことは覚えているけれど、抱かれた記憶がないの。本当に私達、獣なの――。そういう……そういう……」

 夫の何かを引き留めるかのように懸命になって叫んでも……。
 彼にとっては酷なことしか出てこない。そしてそれらは全て事実だった。嘘はないが、拓真には残酷な事実。
 緋美子は口を閉ざし、がっくりと項垂れた。

「襲われたって。お前から飛び込んだ訳じゃないのか」
「満中陰の挨拶に言った時。おじ様もおば様も早紀さんも留守で、珍しく正樹さんが留守番していたわ。玄関先で帰ろうとしたのだけれど、うっかり……お茶をごちそうになってしまったの」
「近寄ると、危ないのに?」
「こんな関係ではなければ、彼だって大好きな早紀さんのお兄さんだもの。何年も必要以上に避けてきたこと、私だって心苦しかったのよ。お兄さんも離れてお話をしようと言ってくれて、つい……。でもご馳走になったお茶に、薬が入っていたわ。それで身体が動かなくなって――」
「それ。言い訳なのか」
「……信じてくれないでしょう。赤色で引き合った偶然の縁で、情事の一部始終を覚えていないだなんて」

 拓真は黙ってしまった。
 もう怒りもしないし、そして、悪あがきのように暴れたりもしない。
 ただ。何かをまだ思うように静かに緋美子の隣に座っていた。そんな拓真も何かを思い出したかのように静かに呟いた。

「俺がお前と結婚すると言った時。正樹先輩、すごく驚いたんだよな。あれが不思議だった。つまり、先輩はなんだかんだ言って、お前を狙っていたんだな」
「違うわ。それは正樹さんではなくて、正樹さんを支配しようとしていた赤い本能が私を欲していただけで、緋美子という女としては正樹さんのような男性は鼻にもかけないわ。だっていつだって素敵な女性が側にいたじゃない」
「でも、その女達では『本能』は満足しなかった。つまり、それだけお前と最初触れた時がすごかったってことだろ。お前もなのか」

 その問い。ぐうの音も出ない。でもここでその本能が全てだったと負けてはいけない。迷ってはいけない!
 赤い女ではない、夫が愛してくれた白い自分を見失っては行けない!

「でも、私は拓真を必死に求めたわ。知っているでしょ。私が時々狂ったように貴方を求めるのを――」
「つまり! 正樹先輩が与えてくれたけれど、俺では足りない分をお前は必死になって求めていたってことか!」
「私は! 貴方から欲しかったのよ! そうよ。貴方以上の快感を知ってしまっていたわ。それも、中学生の時に!! 私がどれだけそれに悩んできたと思うの? 誰に告白できたって言うの? でも私はいつだって拓真からそれを欲していた。正樹さんじゃない。それに私はちゃんと感じていたわ。貴方だってそれは知っているじゃない。一晩に何回も何回も私を愛し抜いてくれて、私はそれで同じような満足感を得ていたわ。それにあんな毒々しい雄と雌のような交わりより、貴方との情熱的で血の通ったセックスの方が私にとってはなによりも素敵だったし幸せだったわ!」
「だったら! 俺に言えば良かったじゃないか。こうなる前に! 俺、信じたし、未遂ならお前を許した。そして一緒に避けるように俺だって協力した!! なのにお前は――」

 でも、拓真は叫びながらも、静かになってしまう。

「なのにお前は……お前は……」

 責めたいけれど、責められない。
 緋美子と愛し合ってきた幾夜もの睦み合いは嘘ではないことは、彼も信じてくれいる。そして緋美子が、言っても信じてもらえない恥ずべき秘密をどうしても告白できなかった心情も察してくれたのだろう。

 だがまだこれからだ。
 最後に言わねばならないことが残っている。
 緋美子は、もうすぐで切れてしまいそうな気力を振り絞って最後の告白を口にする。

「獣の睦み合いよ。ごめんなさい、貴方――」

 拓真がハッと顔を上げた。
 また予感したのか。

「私、妊娠した」

 一瞬で、二人の周りがしんと静まりかえった。
 互いに感じていた息づかいも。鼓動も、動作も。全てが制止した間。
 感じたのは、大きくなった牡丹雪が舞い降りる気配だけ――。それも徐々に風に煽られて、横にながされ始めている。そんな強い風の音。
 茫然と目の前の妻を見るだけの男と、夫の顔が見られずに項垂れている女。
 しかし徐々に、緋美子の側で拓真の息が乱れ震えているのが聞こえてきた。

「俺はお前を守れなかったのか」

 ゆらりと拓真が立ち上がった。
 その目はもう……何処を見ているか分からないほど彷徨っていた。

「ち、違うわ。私が貴方に全てを見せられない妻だったから……貴方は、なにも……」

 彼の震えている手を取ろうとした。
 だがそれを容赦なく振り払われてしまった。

「うるさい! 俺に触るな!」

 緋美子に向けられる非難の眼差し。
 あって当然の怒りと感情と表情。
 それが今、緋美子につきつけられていた。

 その顔で緋美子を蔑むように睨むと、拓真はリビングを飛び出していく。

「た、拓真!」

 追っても、足の速い夫はそのまま玄関を飛び出していってしまった。
 緋美子も迷わずに靴を履いて外に飛び出す。

「タク、待って。貴方、待って!」

 薔薇の家を飛び出した夫はそのまま吹雪き始めた坂を駆けて下りていく。
 緋美子もなりふり構わずに、夫の背を追った。

 ここで逃がしちゃだめ。
 自分がどんなに悪いことをしたか分かっている。彼を傷つけたことも分かっている。彼に一生蔑まれてしまうことだって覚悟している。
 でも、彼が好き。彼を愛している。夫は貴方だけよ。私が一人の清い白い女として愛したのは、貴方だけよ――!!
 本当に叫んでいたか、心の中だけで叫んでいたかは分からない。でも緋美子はそんな思いの丈をここぞとばかりに振り絞って、懸命に雪の中、夫の背を追う。
 でも鍛えている彼の足には追いつかない。その背は激しくなってきた吹雪の中、すぐに消えてしまった。でも、緋美子は走った。

 冷え込む冬の時期。
 雪が降る日。いつにも増して空気は肌を切り裂くように冷たく、路面は凍り始めていた。
 そこを緋美子は普段履きの古い靴で坂を駆け下りる。
 夢中になって駆け下りた緋美子は、やがて凍結して始めていた路面で足を滑らせてしまう。ガンという衝撃が頭と腰に。
 『痛い』と思った時には、頭を打ち付けて後ろに倒れていた。

「……う、タク……」

 見えなくなった夫の背。
 そして、緋美子は無意識に身体を丸めてお腹を包み込んでいた。

「私の……赤ちゃん……二人目の……」

 空から容赦なく、大粒の雪が花びらのように舞い降りてくる。
 緋美子の身体にふわりふわりと積もっていく牡丹雪。
 少しずつ、自分が白くなっていくのが分かった。

 このまま、私を白色に染めて。
 このまま私を……白く埋葬して。

 ふと、そう思い緋美子は目を閉じた。

 

 

 

Update/2008.7.21
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