-- 緋花の家 -- 
 
* ミツバチは花が好き *

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5-9 男友達にはならない

 

 約束通り。翌日、幸樹は学校帰りに薔薇の家に寄る。
 庭に入ると、そこには水まきをしている凛々子の姿があった。

「リリ。もう大丈夫なのか」

 幸樹の声に、ホースを持っている彼女が振り返った。
 黒髪が陽の光にきらりと煌めき、綺麗に薔薇の匂いの中広がった。そして、あの笑顔。

「おかえり!」

 昨日、やっと『これが本物の凛々子なんだ』と思うことが出来た、彼女だけの素直な微笑みがそこにあった。
 ホースの水を止め、凛々子が駆けてくる。そして幸樹が手にしている自転車を見てほっとした顔を見せた。

「良かった。昨日、自転車を放って帰ってきたじゃない。私のせいでなくしちゃったんじゃないかって思って」
「夕方この家を出てからすぐに探しに行ったら、ボロだからそのまま残っていた。これ、約束のクッキーな」
「ほんとに買ってきてくれたの!」

 驚きながらも、心底嬉しそうな顔をみせてくれるのも既に彼女らしいかな。と、幸樹も微笑む。
 ――きっと。あの『リコ=緋美子さん』では、こんなに飛び上がる程喜んでくれなかっただろう。穏やかな笑顔で、近所の男の子が、そう親友の息子が、あるいは自分の息子が『お土産をもってきてくれた』感覚で、母親のような気持ちで受け取っていただろう。だから、いつだってどこか寛大そうな笑顔で落ち着いていたのだって。
 今の凛々子なら、本当に年が近い女性だと違和感がない。でも……。

 この凛々子は、いったいいつまで俺の目の前にいられるのだろう?

「ね、冷たいものでも飲んでいかない? 一緒に食べようよ」

 本物の凛々子に問いかけられ、幸樹はハッとする。

「そ、そうだな。自転車飛ばしてきたから喉が渇いているところだし」
「やっぱり、庭だよね。『うちのアフタヌーンティー』は」

 幸樹を見て『うち、我が家』と言ってくれた凛々子。幸樹は口元をほころばせてしまう。すぐに気持ちが和んでしまった。

「待っててね」

 この家にいた頃、両親と一緒に良く座っていた庭のテーブル。そこへ促され、幸樹も慣れた手つきで椅子を引いた。

 テーブルに鞄を置き、制服シャツ首元のボタンを緩める。
 今日も薔薇が揺れている。幸樹の日常、穏やかな日常を意味する美しい情景。薔薇の匂いがするそよ風に包まれて育ってきた。もうすぐ夏休み、一学期が終わる

「おまたせー」

 テーブルにアイスティーを差し出す凛々子。薔薇庭の、黒髪の女性。風にそよぐ長い髪の毛先に見とれていた。彼女に悟られないよう、そうしてちょっとした彼女の仕草を幸樹は見つめている。これが凛々子。本物の凛々子なんだと。

 冷たい紅茶を互いに一口。

「いいな、制服。私も着たかったな」

 向かい合っている凛々子が、制服姿の幸樹を見てそう言った。

「そっか。凛々子は着たことがないんだな」
「中学の最初に着たぐらいかな。ミコ叔母ちゃんは、私と同化して叔父さんと夫婦生活をやり直している間、姿が私でも高校は行かなかったみたい」

 また奇妙で不可解な現象を前提とした話が、普通にポンと出てきたので、突然幸樹の喉が硬直。紅茶も急に個体のよう、それをなんとか飲み込んだ。

「えっと……」

 返答に迷っていると、察した凛々子から続けてくれる。

「だって。叔母ちゃんは大学はデキ婚で中退だったけど、高校は一度卒業しているからね。いくら姪の身体で魂だけ生きているからって、私になりすます為にもう一度高校に行って、解りきった勉強をして、実際は自分より若い子達を相手にするために無理して合わせて……なんて面倒じゃない。下手すりゃ変に疑われるリスクも生じる。高校なら義務教育じゃないんだから『行かない』という選択も出来るし」
「それが、正岡凛々子が高校に行かず、家で専業主婦をしていた理由ってことなんだな?」
「……みたい」

 他人事のように言った彼女の顔色が曇った。だが幸樹も同情する。自分の身体で生きていた叔母が選んでいた人生は、自分の望んでいた人生ではなかったのだろう。もし自分だったら、幸樹だって『高校に行きたかった』と思ったに違いない。

「そういう交渉が出来なかったのかよ」
「叔父さんから、どこまで聞いたの?」

 急に凛々子が目を逸らし、滴に煌めくグラスの中の氷を、ストローでくるくる回し始める。

「何処までって……」

 姪が生きていると判っていたら、愛したりしなかった。もう姪の身体を抱けないと言うことなんですね? 昨日の夕方。その会話をした男二人。最後に拓真は、幸樹の目の前で静かに頷いてくれた。
 『抱けるわけないだろ。妻と思っていた幻想が冷めた瞬間でもあった』とも言った。
 その後、簡略的に『姪としての凛々子が再び表面に出てきたのは二年前、彼女曰わく、叔母ちゃんを取り込んでしまった時、私は赤ちゃんみたいに小さくなってしまって大きくなるまで自分の意思では何も出来なかったと言っていた』。という話を幸樹は聞かせてもらった。

「叔母さんを取り込んだ時、赤ん坊みたいになったんだって?」
「うん。感覚の問題。知能まで戻ったとかじゃなくて、力がなくなっちゃったみたいで……。意識もはっきりしていなかったみたい。だから私の代わりに生きていた叔母ちゃんが何をして、何を考えていたかも解らない」
「いつから、凛々子自身に戻れたんだ」
「ある日突然、目が覚めたら戻っていたの。その時、健康になった自分と初対面。びっくりして年数と月日を確かめたら『六年』も時間が経っていて、十四歳から二十歳になっていることに気が付いた」

 六年も空白が。幸樹は驚かされた。それじゃあ……本当に十四歳に意識を無くし、いきなり目覚めた浦島太郎状態じゃないかと。それで彼女が時々子供っぽくなるのも頷けた気がする。

「叔父さんはいつ、凛々子が奥さんの緋美子さんじゃない凛々子だって気が付いたんだよ」

 するとまた、凛々子が俯き黙り込んでしまった。そして、何故か顔が赤くなり慌てているようにも見える。

「も、もしかして。夜のアッチの時、とか……」

 感がよい幸樹はそれだけで察した。きっと夫妻が当たり前としていた『夜』に、流石に凛々子も妻になりすますことは出来なかったんだと――。

「い、言っておくけど! 私自身の時には、叔父さんとは一度だって寝ていないから!」

 ……そんなムキになって否定するところ。ああ、十代の女の子みたいだ。と、幸樹は溜め息をついた。

「わかっているって。拓真さんから聞いたから」
「やっだ、叔父さんたら。そんなセクシャルでデリケートなことまで幸樹さんに話したの!?」

 それだけ男女関係に乏しい凛々子にとっては恥ずかしい話。それは幸樹にも判る。

「そういう話し方ではなくて、拓真さんは『もう妻じゃないから愛せない』と言っただけ。それを聞いて、男として妻じゃない女は抱けないという気持ちを、俺から察しただけだよ」
「あ、そういうこと」
「それしか聞いていない。後は俺の想像だけど。緋美子さんが表に出てきた時、『どうしてもう愛してくれないの』というすれ違いでも起きていたんじゃねーの?」
「流石ね〜。男と女のことは察しいいわね。その通りよ。拓真叔父さんは真っ直ぐで純粋な人だから。身体は私なのに妻と思ってなんとかやってきたことに耐えられなくなって、だから家出してここに帰ってきたみたい」

 思った通りだった。だがそれを聞いて、幸樹はどうしても不思議に思っていることがある。

「叔母さんは、凛々子が意識を戻したことを知らないのか? 知っていたら『諦めてくれる』と思うんだよな。可愛がっていた姪の身体、返してくれるんじゃないか」
「……そうなんだけど」

 急に凛々子の歯切れが悪くなる。幸樹が買ってきたクッキーの袋を、もてあます自分を誤魔化すようにして開けている。彼女が答えられないなら幸樹から再び。

「事故で亡くなったなら、突然の別れだったわけだよな。だから、思いがけず蘇ってしまったから、今度こそ思い残しがないよう『やり直す』。たぶん、女性としていちばん心残りだったのは、子供のことだろう。でも、美紅ももう成人する。お兄さんの方はもう独立しているみたいだし、子育ては一段落。夫妻として力を合わせて子育てもしてきただろうし……」

 そこまで言って、その後の言葉を言おうとして幸樹はいったん口を閉ざしてしまう。だが凛々子が『なに?』と聞いてくるので、思い切って。

「その……男と女としてだって。姪の身体借りてやり直したんだから、凛々子が戻ってきたと知れば、叔母さんだって夫の拓真さん同様、もうそんなことは出来ないと思ってくれる気がするんだけどなあ」

 だが、幸樹が振り返るあたり。あの『リコ』であった緋美子さんが、それを知っているような気がしなかった。必死に拓真にしがみつき、なりふり構わずキスをしたあの情熱的な女性の姿に叔母の影はどこにもなかった気がするのだ。

「うーん、叔母さんと同化してしまった原因みたいなのはいろいろあるから判らないんだけど。いちばん怖れているのは……成仏っていうのがね、ちょっと気になって言えないでいるのよね。叔母さんに知らせるかどうかと拓真叔父さんと話し合った時に、そんな結論になって保留中」
「成仏? ああ、満足したり未練がなくなって霊界に帰るてことか。その方が凛々子にとっても、叔母さんにとっても本来ある姿なんじゃねーの」

 そこまで話し、幸樹も先を考えた時ハッとさせられた。

「そっか。リリ自身が生命力がなくて霊界寄りの貧弱な身体に戻ってしまうのか」

 それは彼女にとって再び死を意味するのだと思ったら、幸樹も青ざめる。だが目の前の彼女がとても驚いた顔。

「幸樹さんって。すっごい視野を持っているのね。本当に高校生?」

 全てを言い当てられたからか、凛々子が苦笑いを見せていた。

「よく言われる。大人ぶっているとか、大人びているとか。かなりガキの頃から」
「ふーん。でも私の目から視ても、幸樹さんの精神年齢は確実に実年齢より上みたいね」

 『どうして、そう言いきれるのか』と幸樹は聞き返す。

「なんとなく。長谷川の血……じゃなくて、私からみたら長谷川のオーラってところかな」

 長谷川の血と言えば。

「そういえば。死んだ俺の伯父さんが、すげえーやり手で落ち着いた人だったとか。母ちゃんがよく俺のこと『兄さんみたいなことを』って言うんだ。それで褒めてくれる時もあれば、まるで伯父さんみたいになるなって言い方に聞こえる時もある。早死したせいかな? 確か……火事に遭遇して消防官だったから見過ごせなくて、部隊が到着するまでたった一人で救助活動をしたけど、煙に巻かれて逃げ遅れたんだって」
「そうなんだ。その伯父さんに似ているんだね、きっと」

 急に。彼女が素っ気なく答えた気がして、幸樹はドキリとした。なんだか機嫌を損ねたかのような……彼女の顔が怒っているような気がしたのだ。

「どうかしたのか」
「別に。ね、私、これが気に入った。メープルとクルミのクッキー、美味しい!」

 話をぶった切った。もうその話はしたくないとばかりに。……無理もないか、彼女にとって死ぬか生きるかどうするか『保留中』。それよりも楽しくしたいという、ワザと明るくしている笑顔だと幸樹にはそう見えた。

「メープルウォルナッツだな。俺は……やっぱりショコラかな」
「なんかスイーツのお店に詳しいよね。もしかして、甘党?」
「アタリ」
「えー、イメージになーい」
「誰にも言うなよ。隠れ、なんだから」

 『言わない、言わない』とケラケラ笑う凛々子。だから幸樹も、そのまま彼女と笑った。

 今はそうしてあげればいい。昨日、拓真にも言われた。

『凛々子の間は、楽しくさせてあげて欲しい。幸樹君のように元気に高校に通って大学に行って。それを望んでいたのが良く伝わってくるんだ』

 だから、『友達になってあげてくれ』。妻を他の男と親しくさせようとする。そんな理不尽な夫だと思ったあの言葉も、今なら理解できる。
 凛々子が出てきたことを一目で判った拓真だから、幸樹にそれを頼んだ。
 心底、姪を案じる叔父の顔、叔父の気持ちだったのだと。

 だから今は、歳が近い男友達のようにして凛々子と笑えばいい。

 だが幸樹は『男友達にはならない』。そう思っていた。

 

 

 

 

Update/2010.11.10
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