25.隼ラプソディ

 

 「……ゴメン、いきなり……」

 「ううん……」

美沙とひとしきり……何か感極まったように抱き合ってしまったのだが……

隼人は泣きはらした美沙の瞳を見つめてそっとため息をついた。

 

「えっと……その……何て言うのかな?」

黒髪をかきながら……隼人はもう美沙とは目が合わせられずに俯いた。

「ふふ……昔、そうして学校から帰ってくると飛びついてきたっけね?」

美沙がクスクスと笑い始めたのだ。

「……そうだったっけ?」

隼人がとぼけると、美沙がまたクスクスと笑いだした。

「…………」

美沙は微笑みながらも遠い目をしながら……

そっと先程まで座っていたダイニングチェアに脱力したように腰をかけた。

隼人はそんな憧れていた女性をそっと眺めて見下ろすだけ……。

俯いた目元、泣きはらした目元に……少しだけ『年相応』の目尻シワを見つけてしまった。

彼女が歳を取ったことを……初めて知ったように思えた。

そのシワが妙に愛おしく感じる……。

そんな『シワ』……初めて見つけた。

それだけ……彼女の顔を『直視』していなかった事になる。

 

『美沙さんは歳を取った』

がっかりするわけでもなく、彼女の美しさも否めないほどまだ輝いているが……

隼人は、それだけ自分が『置き去りにした時間』を初めて痛感した気がした。

それとともに……

 

隼人はそっと自分の頬に自分の手のひらを当ててみた。

やっと……40代になった彼女と30代へと成長を遂げた自分が向き合って……

『生身の時間』が流れ出したように思えた。

 

その手のひらを頬から離して……そっと今度は見下ろしてみた。

整備で先がささくれている指。

その手のひら……。

美沙の……『憧れの黒髪』の温もりが……まだ、ふんわりと漂っているのだが……

『俺も変わった……大人になった』

そう思った。

その温もりは……もう『渇望』する程の強い『欲求』ではなくなっていて……

その温もりは……ただ、ほのかに手先に残っているだけ……

その温もりは……『僅かな量』で隼人を満足させる物に変わっていた。

隼人はそっと手のひらを、柔らかく握った。

 

『それで……終われるようになったんだ。俺は……』

 

「……お父さん、とても素敵だった。ううん……今だってとても素敵」

美沙が急に優しい眼差しで床に視線を落として、そんな事を呟いた。

「いきなり……のろけかよ?」

隼人も……今の自分らしくやっと呆れると……

美沙が隼人を見上げて、輝く笑顔をこぼしたので

不甲斐なくも『ドッキリ』……胸がときめいてしまった。

「お返し……。さっき、葉月さんとの事、随分、のろけられたから」

「あっそ……」

「…………」

素っ気なく、ふてくされた返事をした隼人を見て、美沙がまたそっと微笑んだ。

だけど……その瞳がまた麗しく潤んだのだ。

「──なに?」

そんな隼人をジッと美沙は切なそうに眺めて……

そして、また笑ったのだ。

「隼人ちゃん……初めて解ったわ」

「え? なにが??」

「その『素っ気なさ』って……それがあなたの本当の姿なんだって」

「なに? 今更? 俺は昔からそうだぜ?」

「……私は素直で賢くて可愛かった隼人ちゃんしか……記憶していなくて」

「ああ……そう言うこと」

今度は隼人が呆れて……美沙の隣の椅子を引いて腰をかけた。

「俺の成長は認められなかったって事か……」

「そう……あの小さな男の子のままでいてくれると思ったから」

「っんな、ワケないだろ?」

「そうね……バカね……。なのに大きな男に、成りつつある貴方に怯えていたなんて」

美沙が何かを嘆くようにまた……手のひらで顔を覆って泣き始めたのだ。

「……ま、美沙さんが怯えて当然の……事……俺、考えていたし。

って……その! 男の本性の事じゃなくて……目つきとか……醸し出していたと……」

隼人は身体中の体温が上がるのが解るほど……つまり『告白』と一緒だからだ。

こんな姿──葉月の前では絶対ない!

そう思うくらい……照れて俯いていたのだから──。

「……お父さんを裏切らないために……家を出たというなら……私のせいだわ。

だから……あなたをフランスに送ろうとするお父さんを必死になって止めて……

あなたの決心を止めようと必死になって……貴方に『はっきり』心を見抜かれて」

『最初で最後ひっぱたいた』

「……」

隼人の脳裏に苦い思い出が蘇る。

『俺が出て行くと追い出した継母と思われるから引き留めるんだろ!?』

あれは……

「違う……。ただの八つ当たりさ。あれは……。

美沙さんが思っているところの『私のせい』とは次元が全く違う……。

美沙さんは……俺達『四人家族』の形を守ろうと必死だったのに……。

俺の──ガキだった俺の……幼さが言わせていた暴言だ」

「隼人ちゃん……」

「それから……横浜にこうして帰って来た訳も、やっぱり『葉月』のお陰なんだ」

「彼女の──?」

「そう。俺がフランスにいなかったら……空軍整備員になっていなければ……

彼女との出逢いもなかった。つまり……

美沙さんから離れるためにこの家を出た事が『今の俺のすべて』を作って

たくさん……満足する出逢いも数々生んできたから……」

隼人がそっと目を細めながら俯き、微笑むと……

「……!!」

彼女が驚いて呼吸を止めるような息づかいを──。

隼人はそれを耳に留めて顔を上げた。

そして、美沙が……また顔を覆って泣き始めたのだ。

「う……うう……」

「美沙さん……今まで、ゴメン。俺、苦しめていたね」

そっと美沙のか細い肩に手のひらを乗せてさすった。

だけど……美沙は顔を覆いながら、首を振るだけ。

「私がここに来て……隼人ちゃんの気持ちだけ無視して……。

思うままに和之さんばかり見つめて、和人にばかり構って……」

「違うよ……。どこにもいない母親を

美沙さんと和人という母子を見る事でしか、見い出す事が出来なかったんだ」

「だとしたら……隼人ちゃんが悪いのではないわ」

「……なのに……和人を本気で怒る、しつけようとする美沙さんの母親としての姿。

俺には、そんな風に向かってくることがない『その差』で……。

いつも『異物感』を感じて仕方がないのも……

俺にとっても美沙さんにとっても仕方がないことだったと」

隼人が肩をさすればさするほど……美沙は力無く肩の力を落として泣き崩れるだけ。

 

『もう……いいじゃないか』

 

隼人がそっと……黒髪の中俯く美沙の顔を覗き込むと……

やっと彼女が昔のままの若々しい笑顔を浮かべて涙を拭った。

 

「大人になったのね……びっくりしちゃった」

「あー。俺の事、やっぱりバカにしているだろ!?」

「そりゃね? 弟みたいなものだもの、勝たれちゃ困るわ」

『弟』……そう言われてなんだか……隼人の身体に『電気』が走った気がした?

「お、弟──!?」

なんでも『お兄ちゃん役』の隼人からすると違和感がある言われ方だったのだ。

だけど──美沙と『姉』のような間柄になりたいという『答』は……

小笠原で実家帰省を決めた頃……固めた『新たなる方向』ではあった……。

だけど──実際、そうなると『弟のようになる』なんて……隼人には違和感がある。

「そ。なんで早く気が付かなかったのかと……葉月さんにも夕方言ったところ」

「葉月に──?」

「……」

すると美沙がまた……優しそうに微笑んだ。

あの……葉月の為にこぼしてくれた、隼人には向けられない笑顔を……。

「……あの子に『お継母様』と言われて凄く違和感があったのに……

『お姉様』って言われたら……妙に、しっくりしたの……。

あの子に……隼人ちゃんの彼女に『お姉様』と言われるなら……

そう──隼人ちゃんから見ても『お姉様』でも良いのじゃないのかしらって……」

「……!」

「そう──思ったわ。初めて……」

美沙も……同じ方向を『見いだし始めている』

同じ……方向を向き始めている……。

隼人も初めて……美沙をそう見ることが出来そうな気持ちになってきた。

「…………」

目の前の若い継母が……『新しい姉弟』として始めようとしている。

今からでも……違う家族の姿を始めても『遅くない』

本当に、そう思えてきた。

 

美沙に、思いっきり抱きついた途端に、何か『憑き物』が取れたよう──?

 

「ま。姉様は出来過ぎだよなぁ。頼りない姉ちゃんって所かな」

隼人がシラっと答えると美沙がまた途端にムッとした顔をしたのだ。

「俺も初めて知った。美沙さんって結構、怒りっぽいんだって。

それって本当の姿だったんだ。別に俺が怒らせていたんじゃなかったんだ」

「あら? そちらこそ。なに? その生意気な目つきは、生まれつきだったのかしら?」

「あーそうかもね!? なんたって生意気な和人の『兄貴』だからな!」

「あら? 巡り巡って繋がったわね? 私はその生意気な貴方の弟の『母親』!」

美沙が急に嬉しそうに手を打ったので……

「ホントだ……」

「……ホントね」

二人揃って、笑い合ってしまった。

笑って……隼人は少しだけ目頭が熱くなった気がしてきた。

 

「……何年ぶりかな?」

隼人は美沙に見られまいと、目を拳で押さえて立ち上がった。

「……いつか飲んで貰おうと思っていたものがあって……」

そっと流し台の前に立つ。美沙に背を向けて──。

すると──隼人の背中に美沙の一言が届く。

「カフェオレ? いつも和人ばっかり作ってもらっていて羨ましかったのよ?

フランス……行った事、ないから……。本場物……上手に作ってよ?」

振り返れなかった……。

涙が一筋……頬に流れていたからだ。

だけど……美沙が、葉月を遠く愛しそうに思い浮かべている『優しい笑顔』を

自分に向けて浮かべていると『確信』出来たのに……振り返れない。

「ぐ、軍隊……仕込みだから……本場とは言えないかもな……」

震える声を精一杯、隠そうとして……隼人は上の棚にある珈琲豆を手にした。

何故か珈琲豆は何年経っても同じ位置にある。

やっぱり『実家』だと思った。

それとも? カフェオレは自分で作る事を知っていた美沙が……

この位置を隼人の為に変えなかったのだろうか?

そんな気がして……隼人は唇を噛みしめながら……涙を堪えていた。

 

その後……美沙と向かい合って何時間話したかは解らない。

葉月に出逢った事。

フランスで康夫と出会った事。

そして……葉月の上司だった祐介の事。

今の仕事の事。

家を出た後のホームステイ話……。

美沙に今まで伝えられなかった事を隼人は延々と話していたようだった。

美沙も驚きながら、笑いながら聞いてくれた。

カフェオレを何杯? 彼女が、おかわりしてくれたかは覚えていないほど。

 

15年を埋めるには……伝えるには時間を要したのだ……。

 

 

 そして──時間は瞬く間に経って行く……。

 午前1時頃──。

 

 「ああ、ここにいたんだね。帰ろうかと思って……」

 

 ひょっこり……昭雄伯父がキッチンに姿を現したのだ。

しかも美沙と隼人が笑い会って向かい合っているのを見て、

一瞬、表情を止めたのだが、すぐにいつもの笑顔になった。

「どうして? お泊まりにならないの?」

美沙が慌てて立ち上がった。

「そうだよ? 親父と随分盛り上がっていたみたいじゃないか?

夜も遅いし……泊まって行けよ? おふくろの仏間で寝たら?」

隼人も……

『親父……伯父さんに葉月の事……色々話していたんだろうな?』

父親の一番の相談相手、ご意見番……。

隼人は伯父の事をそう思っていた。

「いやー。いいのかなぁ?」

昭雄が美沙に遠慮するように伺う笑顔。

そう──伯父は……沙也加と隼人があっての『澤村一族』だから

この家の中では美沙に遠慮している所があるのを隼人も知っていた。

そして美沙も……

沙也加を思って、昭雄には複雑な存在感を抱いていることも。

「当たり前じゃありませんか!? お返ししたら和之さんに叱られます」

「うーん……しかし、お客様もいらっしゃるし」

葉月が寝付いているゲストルームに、いつもは泊まる伯父が

今日は居場所がないと感じたらしい……。

「……伯父さん、ごめんな。彼女と使わせてもらって」

「いいや? そう言うワケじゃないけどね」

「昭雄が帰ると言っているから良いじゃないか?」

階段から和之が降りてきた。

 

何故だか……美沙と隼人は揃って固まった。

別にやましいことは何もしてはいないのだが……。

この大人になってお互いが『抱き合った事』には

勢いとは言え……少し後ろめたさが宿ったのだ。

だけど──父親の表情はいつもと同じで落ち着いている。

 

「そうそう。カズが音楽を鳴らしっぱなしで寝ているみたいだったよ?」

昭雄がいつもの笑顔で美沙に一言伝えると……

「もう! あの子ったら相変わらずね!」

美沙がいつもの母親らしく息子の元へ向かおうと一歩踏み出したのだが!

「ああ、いやいや。余計な事、言っちゃったかな?

私が行ってくるよ。カズにも帰ること伝えたいからね」

和人には滅法甘い義理の伯父が、寝顔でも眺めたかったのか?

子煩悩な笑顔をこぼして美沙を差し止めた。

 

「す、すみません……いつも」

「いやいや? 構わないのだよ?」

昭雄はいつもの笑顔をこぼしながら階段を上がっていった。

 

「また明日。葉月君に挨拶に来るそうだから、今日は私の車を貸して帰すことにしたよ。

酒気が抜けるまでと思って話していたら……こんな時間になったよ」

和之が階段を上がる昭雄を見上げた後……

キッチンにいる妻と息子の『茶会の跡』に視線を移したが……

それでも何も感じるところもない様子でいつもの威厳ある顔つきのままだった。

 

「……久し振りに、昔話に花が咲いて」

隼人も……後ろめたいことは何もないのだから……そう父親に告げた。

『仲直りした』

そう伝わる事を隼人は願った。

「カフェオレか……私にもくれるかな? 私も昭雄と話しすぎた」

「──!」

和之も穏やかに微笑んで、今度は隼人の隣にある椅子を引いて腰をかけた。

「文句付けるなよ?」

「……さてね? 『大佐お墨付き』とやらを試させてもらおうかな?」

『ちぇ』

相変わらず偉そうな父親に隼人はふてくされて、カフェオレボウルに向かった。

「和之さん。隼人ちゃん、とっても上手なのよ? 美味しかったわ」

「ふーん……美沙がそう言うなら、間違いはないかもな」

「あら、持ち上げてくれても。合うおやつが今はないから出せないわ」

「ハハー! 美沙には適わないよ。秘書の頃から、あれこれ口うるさい」

「なぁに? ひどいわね」

 

「…………」

隼人は思わず……振り返って父親と継母の夫妻姿を凝視してしまった。

「……? なんだ?」

父が、なんだか照れくさそうに息子を見つめる。

美沙も……何か感じたのかそっと恥ずかしそうに俯いたじゃないか?

美沙の甘えた声も……初めて聞いたように思えた。

そして……父親の……

『可愛い妻扱い』を初めて見たような気がした。

子供の時には、感じることがなかった……『大人であった二人の本当の間柄』を……。

 

「懐かしいな。俺がガキの時は……こうして三人でよく食事に行ったじゃないか?」

「何年前だ。まったく」

和之が面白くなさそうに頬杖を付いた。

「そうそう! 隼人ちゃんが、お父さんに急な仕事が入ると拗ねて拗ねて」

「うわ! やめろよ! そういう昔話!」

「そうだった。秘書だった美沙がこれまた『口うるさく』

『社長! 早く会議終わらせて下さいね!』って……どっちの味方か解りゃしなかったなぁ」

 

「……」

「……」

「……」

 

三人一緒に……そこで僅かな微笑みを浮かべて黙り込んでしまった。

 

そう……本当に何年ぶりに、こうして三人が揃って話しているか解らないほど。

 

隼人も封印していた沢山の想い出が頭の中に急速に蘇ってくる。

 

おそらく……父も継母もそんな事を噛みしめている最中だと思った。

隼人は静かにカフェオレ作りに戻った。

 

すると──昭雄が何か腑に落ちないように黒髪をかきながら階段を降りてきた。

 

「おやー? おかしいな? 和人は部屋にいないけど……風呂かな?」

「あら? 一階に降りてきた気配はしなかったけど? ね? 隼人ちゃん」

 

隼人はそれを聞いて……妙な胸騒ぎを感じた。

一階の風呂に弟が降りてきた気配は確かになかった。

だけど……

『見られたって事はないよな?』

ふと……そんな事が頭に過ぎる。

「ま。いいか……音楽かけっぱなしで風呂に入っているなら。

また、明日……と、カズに言っておいてくれよ。じゃぁ──和之、車借りるぞ」

「気を付けてな」

「おやすみなさい。昭雄さん」

「伯父さん、おやすみ」

 

「おう、私もそのカフェオレ明日頂くよ。今日は家族団らんに水射さず退散だ」

何故だか……三人の顔が何かを取り戻したのを昭雄は悟ったように……

和之から受け取った車のキーを片手に玄関を出ていった。

 

「出来たぜ。親父」

隼人は、ダイニングで昔の『三人家族』に落ち着いたところで

いつも通りに作ったカフェオレを父親に差し出した。

「お? 泡立っているな?」

和之がカップに手を着けた時──。

 

『ピンポーン』

夜中なのにチャイムが鳴る。

それなら……出ていったばかりの、昭雄しかいないと皆は顔を見合わせた。

「あれ? 伯父さん……忘れ物かな?」

「なんだ? 珍しいな……昭雄兄貴が忘れ物とは……」

和之が呆れながら、カフェオレはお預け状態で席を立って玄関に向かった。

 

『和之……ガレージに行ったら……』

『……なに!?』

 

玄関でヒソヒソ声の男達の話しぶりが妙な雰囲気だったので

隼人と美沙は顔を見合わせてそっと玄関を二人揃って覗くと──。

 

「……!」

隼人が立っているキッチンドアの目の前……

父親が血相を変えて、階段を上がっていった!

「伯父さん??」

隼人も何事かと廊下に出てみる。

「いや……和之が……今日は隼人と葉月さんは横須賀校長の息子さんの車を貸してもらったと

白い綺麗なBMWだと聞いたんだけどね? 『ないんだよ』」

 

「……『ない』って?」

隼人は……オウム返しのように問い返した。

いや──『信じたくなかった』

あの右京から預かった車が、『ない』と言うだけでヒヤッとするじゃないか!?

その上……そこから流れ出てくる『様々な……予感』!

 

『和人!?』

父親の声が二階から響いた。

末息子の名を呼んだかと思うと……。

『葉月君──!?』

そうだろう……右京の車がないと言うことは……運転できる『犯人』は一人しかいない!

 

隼人と美沙は顔を見合わせて、お互いに同じ『悪い予感』を強めた。

 

「隼人! 葉月君は寝かせたまま……どうした!?」

和之が階段の上から身を乗り出して、下で顔色を変えている隼人に叫ぶ。

「……どうしたって……いないのかよ?」

「いないのか?……だと? お前……ずっとそこにいたのか?」

「え?……ま・・・ぁ」

隼人は、何故だか語尾を濁してしまった。

 

「…………」

 

その時……先程、『三人家族』で元に戻り、いつにない安らかな笑顔を浮かべた父親が……

 

下にいる息子に……今まで向けたことのない様な『眼差し』を向けたのだ!

 

「──!!」

隼人に向けられたその『眼差しの意味』

それは息子である隼人にはすぐに解った!

 

『ショック』ではなかった。

隼人はずっと父親である和之に『後ろめたさ』を感じることもあり……

だから、それも実家を避けていた理由の一つ。

『覚悟』はあった……。

いつか『父親』にそんな風に見られることもあるだろう……と。

若い息子へ対する『嫉妬の眼差し』を隼人はずっと想像していた。

 

だけど──その……父親が浮かべた眼差しは『予想外』の、もっと違う物!

和之の『戸惑い』、『不信』、『虚心』から滲み出る混じり混じった『哀しみ』の眼差し。

『男が男を見る……覇気のない初老の眼差し』

息子と父親の間に『対等の男』の空気を初めて感じた。

 

「親父──俺は……」

息子が何かを言葉という『音』にする前に……

和之はサッと……隼人から視線を外してしまった……。

息子に『負なる言葉』を言わせない為だと、隼人は父親の『配慮』に胸が熱くなった!

『……お、お父さん』

心の中で……子供の時のように父親をそう呼んだのは何年ぶりだっただろうか?

『お父さん……ごめん』

隼人の心の隅で……小さな少年が涙を流していた。

隼人の『ショック』は……

『父親を傷つけた事』

『お父さん……違うんだよ、なにもなかったよ!』

だけど……憧れの女性の胸に飛び込んだことは『僅かに残した恋心』

だから……言えなかった。

 

「隼人」

和之がいつもの落ち着いた表情に戻して……そっと階段を降りてきた。

「……お前、葉月君を放っておきすぎたようだな」

和之は……息子と妻で『何があったか』は敢えて追求しないようだ。

「……らしいな。悪かったと思う」

『薬が効いている間は目は覚まさない』

と……しても……

『継母との再会』に立ち向かう事を不安そうにして……

『見届けよう』、『見送ろう』としていた彼女。

継母と落ち着いて快活に話し出せた後……

一度は様子を見に行くべきだったかもしれない。

「……美沙。お前も……和人に注意が行き届かなかったという事かな」

「……」

美沙は隼人の後ろで青ざめて、俯いていた。

 

だが──

 

「……私が一番、不注意だった。和人が何を感じた事か……。

初めてこの家に来てくれた葉月君まで……巻き込んで……」

そこで、いつにない辛い表情に崩した和之の弱々しい顔!

先程、隼人に見せた『男としての哀しい眼差し』とは違った。

今度は……『力無い父親の眼差し』

隼人は……その父親の『弱さ』を初めて……いや?

先月、『私が選んだ人生のしわ寄せ』と嘆いた和之の裸の姿を見てしまった。

それが……もの凄い『衝撃』を与えている!

『お父さんは……悪くない!』

なんとか……なんとか、『しなくちゃ!』

でも、いつものように身体が動かない……。

 

小さな子供……『いつまでも和之の子供』である自分が

今、何が出来るというのだろうか──?