29.ハロー、レイ

 

隼人は特にクラシックに詳しいわけではないのだが……

 

『好きな曲、弾いてあげるわよ?』

 

ミシェールの家にヴァイオリンを持ってきた彼女にそう言われて

選んだ曲がそれだった……。

『15年……』

フランスで籠もっていた15年を思って隼人はその曲を選んでいたのかもしれない……。

 

フランスで一人殻に籠もっていた日々を解き放ってくれたのは

紛れもなく……ある日突然やって来た『栗毛のウサギ』なのだ。

それを思って……今回の帰省を思いながら……

葉月がなんだかまどろっこしいくらい柔らかく表現してくるのが伝わってくる。

隼人のなかなか進まない気持ち……。

そして辿り着いた所を……思って──。

 

隼人の心に、鳥の翼から離れてしまったひとひらの『羽』が

風に揺らめいて……そよ風に不規則な軌道を描いて……

ヒラヒラ、ヒラヒラ……そっと彷徨って何処の土地に落ちるのか……。

落ちたらまた風に吹かれて舞い上がって……彷徨って……。

そんな景色を思い浮かばせるようなテンポを葉月が繰り返しているように思える。

 

『これが……葉月の音楽?』

初めて……彼女の音楽思想に触れた気がした。

伝えてもらった気がした……。

 

『葉月の感には適わない』

 

従姉の薫がピアニストでありながらも、従妹の『センス』を認めているわけが解ったような気がする。

 

障子の影で、彼女が弾いてくれる曲を……

ヴァイオリンとはまた違う音を、隼人はそっと俯いて噛みしめていた。

 

 

曲も後半に来て、隼人は右京が立っていた入り口にそっと近づいた。

大きな畳の和室に、スタンディングタイプのピアノが二台もあった。

その一台に腰をかけている栗毛のお嬢様が一人……。

そこに……スミレの様な淡い紫色の小花が白地に描かれているワンピースを着た葉月が……

そっと鍵盤の上、白い指を舞わせている。

そんな彼女を初めて見た隼人……。

清楚なワンピースは右京のお見立てだと解ったが……。

そんな可愛らしい服を着ている彼女も……

お嬢様のようにピアノを弾く彼女も初めて目にした。

なんだか……まるで初対面のよう……。

隼人も緊張する──。

 

すると……

気配取りは鋭い彼女が、右京の気配が去ったのに……

そこに誰かがいるのが解ったのか、ふっと弾いていた指を止めた。

 

「──?」

葉月が、肩越しに振り返る……。

 

「……どうしたんだよ……。続きを聴かせて欲しいな……」

隼人がそっと微笑みかけると、葉月が驚いた顔をして……

やっぱり……さっと視線を逸らしてピアノと向き合ってしまった。

だけど……彼女は俯いたまま続きは弾こうとはしてくれなかった……。

 

隼人はそっと……ピアノの和室に足を踏み入れる。

葉月は鍵盤から指を離したまま、ずっと俯いていた。

 

葉月が座る黒塗りのピアノ椅子。

淡い小花柄のワンピースを着た彼女が俯いているうなじ……。

制服を着ているときとは違ってほっそりと色白に栗毛の隙間から覗いている。

それを隼人は側に来て見下ろした。

 

「……な、さい……」

「え?」

葉月が俯いたまま、小さく何かを呟いた。

隼人は耳を傾けるようにそっと腰を曲げてみる。

 

「……ごめんなさい……」

「──!?」

 

隼人は驚いて、曲げていた腰を真っ直ぐにしてしまった。

 

「……それ、俺のセリフ……。俺、昨夜……」

隼人にも言いたいこと、聞いて欲しいことは沢山ある。

言わないと『気が済まない』のは自分の方だと思っている。

だから……

「……昨夜、変なところ、見たんだろ? だから、悪かったと……おも・・・っ」

すると葉月がふっと隼人を見上げるように振り向いた!

 

その瞳が泣きそうに潤んでいるようにも見えたのだが!?

眼差しは『制服』を着ているときと一緒!

『少年』の様に輝いたから、隼人は再び驚いて、言葉を止めてしまう──。

 

「だから……! 私が一番悪いの!!」

「は? どこが??」

隼人が眉をひそめると、葉月が焦れったそうに顔をしかめる。

「だって! あんなの見て、逃げるなんておかしいじゃない!?」

「…………」

(なんで怒ってるの? こいつ??)

と……、今度は隼人が顔をしかめる。

「隼人さんの……あの姿は……15歳の頃置いてきた姿であって……

別に……女の人と抱き合っていたわけじゃないわよ!」

「やっぱ。見ちゃったんだ……」

隼人はなんだか、情けないところを見られたと改めて確認して俯いた。

なのに……葉月の『逆切れ』の様な勢いは止まらない。

「ただ、仲良かったお姉様と久し振りにお話して抱き合っただけじゃない!!」

「……と、見てくれると助かるけど?」

『だったら、何故? 逃げた??』と、隼人は困惑。

「それに……『俺を信じて!』って私に言ってくれたのに……

私……私……」

葉月はそこまでは勢い良く怒ったように隼人に言葉を投げつけていたのに……

急に輝かせていた瞳の輝きを弱めて……柔らかく瞳を崩して涙を一粒こぼしたのだ。

「……なんでなの? どうしてなの? 別に泣くことなんかじゃないし……。

哀しいことでもないし……。隼人さんがいなくなるわけじゃないし……。

なのに……昨夜から私は『変』!!」

そういって……白い手で顔を覆ってむずがる子供のようにすすり泣き始めたのだ。

 

「…………」

 

そんな葉月を隼人は暫く見下ろしていた。

隼人だって、『困惑』するしかない。

確かに……葉月の心は『幼い部分』があるのは解っていたのだが……。

それを隠すように軍服の時、彼女は至って『無感情』で

出来過ぎるほどの『セルフコントロール』を基地では使いこなしている。

『幼い部分』を垣間見せても、その『姿』は

『ちらっ』と覗いたかと思うと、すぐにロボットのような鎧の中に隠れてしまう。

今までがそうだった。

だけど……ここに来て、彼女がそんな『幼い自分』と初めて対面して

持て余しているのだと初めて解ったし……

隼人もそんな『変化』を持った気難しい恋人の、新たな一面に直面して戸惑うばかり……。

 

だけど──

 

隼人はそっと……ピアノ椅子の横に跪いた。

そして……

葉月の腕、七分袖の袖口をつまんでみる。

遠慮がちに『ウサギ』を手元に引き寄せようとしている隼人の小さな行為に……

葉月はそっと反応して隼人を見下ろした。

 

「……葉月。逃げたなんて……『当然だ』と思っているよ。責めないよ。

勿論、『待っていてくれ』という約束を『させた』つもりもない……。

『一緒に眠ろう』と約束したのに、俺はその隙をついてお前を置いていったんだから……」

隼人はそっと微笑んだが──

「……それでも、信じて待つべきだったと私は思っているの」

葉月はまた視線を逸らして、黒い鍵盤を指で紛らわすようになで始める。

 

「そんな『上手』が出来る『ウサギ』とは、最初から思っていないよ」

 

隼人がいつもの如く『ニヤリ』と微笑むと……

葉月はおののくようにやっと隼人を見つめてくれた。

そして……これもお決まり、すぐに『むくれ顔』

「……失礼ね! 私の事、子供みたいに!」

そこまでは笑っていた隼人だったが──

 

「子供じゃないか」

「……!!」

 

そこはかなり真剣に真顔で葉月を見上げた。

まるで……先生に『真実』を突きつけられたが如く……

葉月がおののいて、動かなくなってしまった。

 

「葉月、お前はね……『頭』で解りすぎていて、『心』がついてこないから……

『笑う』、『泣く』、『怒る』が上手に出来ないんだよ」

「……!!」

また、葉月が真剣に言葉を含める隼人に……

今度は何かに貫かれたかのように息まで止めてしまった。

だが……隼人は続ける。

「その『頭で理解する事』の訓練を幼い頃繰り返してきたんだろうね?

だから……それが『仕事』で大いに役に立っていることは俺も認めるし……

それだからこそ……お前は『大佐』になって、その得てきた物は、これからも役立てて欲しい」

何かに貫かれてしまったのだろうか?

葉月の茶色の瞳の視線の先は、まるで何処を見つめているのか解らないように

真っ直ぐなまま動こうとしない。

「それで、心がついてこないのが自分で解っていて『辛い』から逃げる。

フランスでも……俺を置いて本当は『逃げた』のじゃないか?

『物わかりの良い選択だ』と、今まで思っていたけど……ね?

俺に深入りして……『気持ちがついて行かなくなるのがいずれ辛くなる』

だから……お前は、俺に限らず、『海野中佐』も『ロベルト』とも──」

葉月はそこで、認めるかのように俯いた。

そして──隼人は葉月の顔を覗き込んだ。

 

「いいか? 俺からも……同じように『逃げるなよ』?

逃げてもこうして捕まえに来るからな……これからだって……!」

隼人はそっと……つまんでいた葉月の袖を引っ張った。

 

「…………でも、……こんな私」

それでもまだ、メソメソを始めるなんて……

今までの『じゃじゃ馬ウサギ』からは考えられない女々しさで

隼人はかえって、呆れてしまい、疲れたため息をこぼすだけ……。

「また、始まったな」

「……だって……」

 

「この前、中庭でお前、メソメソ泣いただろ?

あの時、俺が言ったこと思い出せ!」

そういって隼人は葉月の背中を『パン!』と、強く叩いた。

葉月がビックリして背筋を『しゃん!』と伸ばしたのだが……。

 

「何するのよ! 痛いじゃないの!!」

「あー。そう? それはそれは、ご無礼致しました」

シラっと呟いて隼人はそっと立ち上がる。

葉月は背中をさすって、隼人をまたふてくされて見上げたのだ。

だけど……その内に葉月が急にいつもの笑顔をこぼし始めた。

「なによ……本当に偉そうなんだから……」

「……まぁね、同じ事何度も言わそうとする『小ウサギ』に一番効くかもね?」

「なんなのよ! もう!!」

いつもの調子で葉月が怒りだした所で……隼人もやっと笑っていた。

 

「葉月……帰ろう?」

「え?」

ピアノ椅子に座ったままの葉月が急な一言に驚いたのか隼人を見上げた。

 

「もう、小笠原に帰ろう……」

「……どうしたの? 昨日、来たばかりじゃない??

おやすみだって……明日までもらったのに……??」

葉月が驚くのも無理はない……。

予定通り行けば、もう一泊……横浜の家に泊まる予定だったのだ。

 

「いや……もう、今回はいいんだ……。

おふくろの墓参りして……帰ろう。なるべく早い便で……。

今からなら、夕方の便があいていると思うし……」

「でも……横浜のお父様が……」

「……あっちはあっちで解決しなきゃいけないことがあるんだ。

今回は俺の方は『カタ』ついた。

出来れば……俺がいない家族でまとめさせたいんだ。

葉月に付き合わせたこと……少し、後悔した……」

「……そんな事、ない! 私は最後まで見守れなかったけど……

隼人さんが一緒に……来てくれって言ってくれて……」

葉月が、『隼人さんは悪くはない』と一生懸命に言い放って……

そして……『自分が悪い』と訴えようとして隼人に謝らせようとさせてくれない。

『葉月は……逃げたかもしれないけど……』

隼人は『それで……今は充分だ』と、ふっと目を閉じた。

 

「私は、まだ隼人さんに何もしてあげられない子供かもしれないけど……」

葉月が一生懸命、自分の気持ちを隼人に伝えようとしているのを

隼人はジッと目を閉じて聞いていた……。

「それで……今回も逃げちゃったけど……『一緒に来てくれ』って言ってくれたこと……

凄く、うれしか……」

『……った!?』

だから……そこで……葉月の口を手のひらで塞いだ。

葉月が驚いたのか、やっと喋るのをやめた。

最後の一言を聞いて……隼人の方が泣きたくなったぐらい。

 

「俺ね……『横浜に行こう』って言ったとき。どんな時だったか覚えているか?」

隼人は黙った葉月の口からそっと手のひらをのけた。

「……中庭……」

葉月がそっと返事を返す。

「……そう。それまでは、『行く』と決めていてもまだ、何処かしら躊躇っていたんだけど……

『行く』って決めさせたのもやっぱり……『葉月』なんだよ」

「……え? 私??」

 

隼人は、首を傾げる葉月に一時微笑んで……そして、また眼差しを伏せる。

 

「お前がね……俺の為に、『今までの自分』となんとかケリつけようと

自分を『憎い、壊れたい』なんて、あんなに追い込んでくれたから……。

いつもは冷たい顔で大人で、しっかり者の『御園大佐』なのに……

俺が……お前をそんなに追い込んでいたのかもしれないのに……

『受けて立つ』って言ったよな?

今まで向かおうとしない事に向かう……。そういう事だったんだと解って……。

それならば……俺だって同じ事……。

避けていた実家とは『ケリ』つけないなんて、そんなお前の前に俺、いられないよ」

 

「……そんな……隼人さんは……!

それに……私の方が……もっと……」

葉月がそこでまた……自分を責めようとするので隼人は首を振った。

「いや──! かえって、お前に礼を言いたいぐらいだ。

逃げた、逃げなかった。信じていた、信じていなかったなんてどうでも良いんだよ!

俺は……お前がいてくれたお陰で美沙さんが俺と向き合ってくれる『キッカケ』

結局、お前が作っていたんだ。

お前は頭では良く理解してくれた。

昨夜、見たくない物見ても……俺と彼女をそっとしておいてくれただろ?

それで『正解』……あそこでお前に乱入されたら、上手くまとまらなかったと思うし……。

そこを我慢して……『逃げた』のなら……それが『葉月の正解』

お前らしいじゃないか……ちょっと肝を冷やしたけどね」

『そんな……』

葉月はそこでまた、瞳を濡らし始めた。

 

「ああ。もう、終わり! 帰るぞ!」

「…………あの……」

「なに? 親父の事なら気に病まなくていいぞ?

あの親父、今朝から女房にべったりだったから……」

「え!? どう言うこと???」

 

葉月が驚くのも無理ないし……

隼人も『妙な変化』を朝、目にして鎌倉に出向いてきたところなのだ。

 

「さぁね。ガキの俺が首突っ込む事じゃないし

俺はお前の事で頭、いっぱいだったから放って出てきたよ」

葉月が益々、驚いた顔で隼人を見つめた。

「昨夜……夫婦でどうにかなんとかやったんじゃないの?」

シラっと遠回しに呟く隼人の言いたいところ……は、

『小ウサギ状態』のクセして葉月にも解ったらしく、急に頬を赤くした。

「俺達もそうじゃないか? 夜、そういう仲直りもしたことあったり」

隼人がいつもの『ニヤリ』を浮かべると……

「バカ! お父様に対して失礼じゃないの!!」

「どこが? 『男女の常』じゃないか?」

「もう!!」

葉月はムキになって否定したそうだったが……

次には可笑しそうに笑いだした。

 

『これで……親父の方も何とかなるだろうな……』

 

朝……隼人が起きるとリビングでは父親が珈琲を一人で入れていたのだ。

 

『……おっす……伯父さんは?』

『沙也加の仏間で、ゆっくり眠っているよ……』

『美沙さんは……?』

『ゆっくりさせている。昨夜、結構、ショックだったようだから』

『……そう……』

和之はそうも言いながら、妙に優しくて父親らしからぬ笑顔を浮かべて

カップ二つに珈琲を入れていた。

そこに隼人の為の珈琲カップはなかった。

だけど……気にしなかったし、気にならないし。

そんな『男』である父親の姿を、隼人は妙に『格好いいなぁ?』と眺めてしまったのだ。

美沙は隼人が出かける時間に気だるそうにやっと起きあがってきた。

白い正装姿で黒い革靴を履いているところ……

美沙が丁度、階段を降りてきて

隼人の姿を眩しそうに見つめて立ち止まったのだ。

 

『彼女に謝ってね……』

 

ガウンを羽織った就寝義姿の彼女。

妙に艶っぽく白い肌を輝かせて、頬には赤味が差していた。

少しばかり『歳を取った』と思っていた彼女に急に『色気』を感じたのだが……。

『謝ると、彼女は気にする質だから……何もなかった顔をしていればいいよ。

後は……俺がどうにかすることだし……』

もう……『女性』としては、何も感じなかった。

むしろ……昨夜、父親に愛されただろう彼女を見て心が安らいだ。

『でも──』

『……彼女、俺の言うことしか聞かないと思うよ』

隼人は悪戯げに微笑むと、美沙が呆れた顔で笑った。

『ま。自信家ね……』

『誰かさんだって……和之とか言う男の言う事なら良く聞くのと一緒じゃないの?』

そういうと……美沙はそっと緩やかに眼差しを伏せて幸せそうに微笑んだのだ。

『……そうね……一緒ね……。頑張って、捕まえるのよ』

『メルシー。姉貴さん』

白い正装姿の隼人の最後の一言に……美沙は一瞬驚いて……

『行ってらっしゃい……お兄ちゃん……』

この家の『女主人』として隼人を……子供のように送り出してくれたのだ。

 

そんな話を葉月に、報告する。

 

「そうなの……。じゃぁ……今夜、私達がいたら……お邪魔って事?」

「そう言うこと……」

「そう……そうなったの……」

葉月はピアノ椅子に座ったままだったが……

急に鍵盤を愛おしそうになで始める。

 

「今度、ゆっくり……そして次回こそ家族団らんを思いっきり取るとして……

今回はこれで良かったんだよ……だから、帰ろう?」

「……うん、そうね……」

 

葉月が、やっと横浜家が落ち着いた事に安心したのか……

輝く笑顔をこぼしてくれて隼人もホッとした。

 

「俺達もさ……気兼ねない小笠原で一日ぐらい羽伸ばそうじゃないか?」

「……それも、悪くないかもね?」

「……だろ?」

葉月がいつもの笑顔で微笑んだので、隼人もそっと微笑み返してみる。

やっと……いつもの『意志疎通』が戻ってきたような気がした。

 

 

「これ? お兄さんが?」

柔らかい綿生地のスミレ柄をそっと微笑みながら眺めてみた。

 

「こんな可愛い服なのに……お前にすごく似合っているね……。

こんなロマンティックな柄は葉月には似合わないと思っていたけど……

流石だね……右京さん……。本当によく似合っている」

「…………」

この服は『皐月の為』に置いている服でないことは隼人にもすぐ解った。

右京は、葉月の洋服もちゃんと鎌倉に用意していることが伺える一着だった。

 

「たぶん、子供の頃からのお前を良く知っているからだろうね?

俺は……このたった一年しか葉月を見ていないけど……

そういう服は……たぶん、選ばないだろうし……似合うようにも選んであげられないだろうね?」

「……勝手にお兄ちゃまが着せただけよ。着替えがないから……」

 

「驚いたよ。凄く……ピアノが上手くて……感動した」

「……あの……黙っていた訳じゃ」

「何も言わなくて良いよ……」

隼人は葉月の前から歩き出して、入り口の障子口に立ってみる。

廊下に射し込む日差しをそっと手でかざして空を見上げてみた。

「……いいね。ここは葉月が生まれた家……。

なんだか……皆が言うところの『リトルレイ』に初めて会えた気分……。

会えて良かったな……」

隼人が振り返って微笑みかけると……葉月も嬉しそうに微笑み返してくれた。

 

そこにいるのは『リトルレイ』

 

『初めまして、こんにちは……リトルレイ』

隼人の心の奥で……そんな言葉が浮かんでいたのだ……。

 

そして──

葉月がそっとまた鍵盤の上に指を乗せた。

隼人も葉月の側に、もう一度寄って肩越しから見守るように見下ろして見る。

 

葉月が弾き始めたのは……『カノン』

 

「良い音色だね……惚れ直したかも?」

「……『かも』? なの? 相変わらずね……」

葉月の両肩をそっと包むと、葉月が指の動きは止めずに、隼人に振り返って笑ってくれた。

『本当なら……こういう女性だったはずなんだ』

隼人は……葉月自身が捨てただろう『幻の姿』が……

本当は目の前に『存在できる姿』であることに、なんだか感極まったほど。

(フロリダのお父さんに見せてあげたいな……)

『幻なんだよ』

『幻なんだが……でも、私はいつか……葉月だけでも元に戻ってくれると信じているんだ』

亮介が皐月・葉月姉妹の写真を見せてくれたときの『パパ顔』を隼人は思いだした。

『きっと……昔の姿今からだって取り戻せると僕だって信じています』

隼人は亮介にそう答えた。

それが……少しだけ手に入った気持ちになって……

隼人はやっぱり……。

 

『壊れた時間は元に戻らないだろうけど……きっと、少しは戻せる』

と……僅かながらに『確信』が持てたのだ。

 

そっと微笑みながら優雅にピアノを弾く葉月を

隼人はいつまでも見守っていたい気持ちで聞き惚れていると……。

 

廊下から足音が聞こえてきた。

 

「……おい! カノンを演奏するなら付き合えよ!」

 

なんと……先程、あれだけ『ラフ』なジーンズ姿だった右京が……!

白いスラックスに、水色ストライプ生地の白襟クレリックシャツ。

紺碧のネクタイを締めた恰好で現れたので隼人はビックリして固まってしまった。

 

「なぁに? 兄様ったら、そんな恰好して……」

もの凄い『優雅』な大人の恰好をしている栗毛の従兄に対しても

葉月は見慣れているのか? 全然、驚きやしなかった。

「いいだろ? せっかくお前が音楽と向き合っているんだ。

『最高仕立て』にしなくちゃ勿体ないじゃないか??」

「…………」

葉月はなんだか冷めた目つきで従兄を見つめていた。

『余計なお世話よ』

というような? なんだか素直じゃない相変わらずの顔に戻ったので

隼人は苦笑いをこぼすだけ……。

 

それにしても……右京の『気品』にも隼人は唸った。

(おいおい……こりゃ、もてるはずだ)

……と思わざる得ない輝かしい『男ぶり』なのだ。

 

だが、右京は畳の上に、手にしていたケースを二つ置いた。

『ヴァイオリン』だとすぐに解った。

何故なら……一つは葉月が持っているヴァイオリンのケースと同様

ジュラルミンケースで……

もう一つは、ヴァイオリンの形をしたよく見る黒いケースだった。

 

「俺はこっちを使う。葉月、お前にはこっち貸してやるよ」

右京は、ジュラルミンのケースを開け、

葉月には黒いケースを差し出した。

葉月が気だるそうに……ピアノ椅子から立ち上がって……

右京が開けたジュラルミンケースの中の『ヴァイオリン』を

妙に『シゲシゲ』と眺め始めた。

「私が持っているのより……凄そうね?」

すると、なんだか不機嫌になった葉月に向かって右京は『勝ち誇った笑み』

「あったりまえだ。お前にはまだまだ十年早い代物だ。

『贈り主』に認めてもらいたいなら……精進するんだな」

「あっそ……」

葉月がそこでプイッとそっぽを向けたのだが……

『贈り主がいたのか??』

隼人は、葉月と右京の『ヴァイオリン』は『同じ贈り主』だと解って少し、驚き……。

かなりの『財力者』と知り合いであるところは『さすが御園家』と唸ってしまったほど。

その内に葉月がおもむろに黒いケースを開けた。

 

隼人は胸が『ドキドキ』としてくる。

そんな清楚なお嬢様姿の葉月が……そう何度と手にしなかったヴァイオリンを……

とうとうケースから出して構えようとしているのだから!

 

「瑠花! 薫!!」

右京が廊下に出て叫ぶ。

右京の手には重厚でピカピカの美しいヴァイオリン……。

その優雅なネクタイ姿で手にされると『貴公子』そのもので

隼人はなんだか、絶句するばかりで言葉がかけられないまま……。

 

『はぁい』

 

先程の『栗毛姉妹』の声が揃ってして……まず、薫がピアノ部屋にやって来た。

 

「なぁに? 兄様? あ!」

右京がヴァイオリンを構えているのを目にしても、悠長な口調だった薫が

葉月がヴァイオリンを手にしているのを見てもの凄く『驚いた顔』

 

「姉様ぁーー! 葉月がヴァイオリンを弾くわよ! 早くーー!」

薫が叫ぶと……廊下からまたバタバタと走ってくる音!

あの落ち着いている女性と隼人が位置づけた眼鏡の瑠花が

慌てるように走ってきたので、隼人も驚いた。

 

「まぁ……葉月」

瑠花は葉月がヴァイオリンを手にしているのを見て……

とても嬉しそうに微笑んだのだ。

 

「じゃ、兄様。『あれ』でしょ?」

薫が『解っているわよ』とばかりに得意気に微笑んだ。

「当然だ。お前達、ピアノで頼むよ」

『いいわよ♪』

鎌倉姉妹の二人は、即、快い返事。

 

瑠花が障子を目一杯開けた。

右京は縁側のガラス戸を思いっきり開け放す。

 

少しばかり暗かった和室に燦々とした五月の光と、風が舞い込んできた。

その日差しの行く先で……

 

「左肩……全快じゃないから」

 

愛らしいワンピースを着た隼人のウサギが

栗毛を輝かせて……少し自信なさそうに立っていた。

 

瑠花と薫が並んでいる二台のピアノにそろって座った。

 

『み、御園カルテット!?』

 

隼人は益々……胸の鼓動が早くなる!