××× ワイルドで行こう ×××

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 12.もう、昔のことだろ。 

 

『こっち来いよ』
 灯りを消した暗い部屋の中、あのダブルベッドへと連れて行かれる。
 白いアップシーツに紺のベッドカバー、水色のシーツ。色彩が彼らしくないように感じた。
 しかもベッドヘッドにクッションにもなりそうな大きな枕が三つも立てかけてある。
 一人暮らしなのにダブルベッド、一人なのに枕が三つ? ダブルなら二人で寝るのに枕が三つ? 困惑しているうちに、腕を大きく広げた英児にがっしりと抱きしめられ、胸に抱きかかえられたままボンとベッドに倒される。
 また彼の胸の下。彼の体重任せに強く押し倒されたので、乱れた黒髪が頬を覆い、琴子の視界を遮った。見下ろしても琴子の目が見つからないからなのか、英児の長い指先が優しく黒髪をのけてくれる。やっと合う瞳と眼。見つめると暗がりなんだけど……、オニキス玉のような妖しくも強い意志を持っていそうな彼の黒目に、きちんと琴子が映っていた。思っていたより、窓辺にあるベッドは明るかった。窓の外から入ってくる街の灯りに店先の照明。ベッドはほんのり明るく、琴子の瞳と英児の眼をはっきりと映して。
 でも、甘く見つめあっていたのは一時。
「やっと琴子に触れる」
 英児の手が琴子の腰の下に入り込んだかと思うと、するすると琴子の足を滑っていく白いスカート。ホックをいつ外されたのかわからないから、足からスカートを外されるのもあっという間。
 本当にやること迷いがなくて早くって……。
 ほのあかるいベッドの上に、黒いシフォンブラウスに白いショーツ姿になった女を男がひと眺め。
「琴子っぽい」
 満足そうに微笑む英児の指先が、腰をちらりと見せている黒い紐をひっかけてひっぱった。
「下着まで『水玉模様』、お揃いにして、ほんとうに女の子らしいな」
 琴子がアウターに合わせて選んだショーツは、白無地だけど、リボンがブラウスと同じ黒地に白い水玉。しかもちょっぴり大胆に腰だけ水玉リボンの紐という。
 それをじっくり眺めてくれるのかと思ったら、彼の大きな手がまたまた小さな白いショーツを琴子の足に沿って滑らし、さらっと脱がそうとしている。
 『やること早い』と解っているけど。そんないつもの英児を凌駕している。え、え、なんか今日の英児さん、この前とちょっと違う? 戸惑っているうちに、琴子のつま先から白いショーツがぴんと弾けるよう飛んでなくなってしまった。英児がどこかに無造作に放っていた。
 それだけじゃない。英児は不適な笑みを唇の端に僅かに湛えたかと思うと、すぐに琴子の両膝を開いて、割って入ってくる。そして英児は、また迷い無い長い指でゆっくりと琴子の黒い茂みに触れ、かき分ける。目的は決まっていて、英児はそれを探している。
 英児が探しているもの。そこを愛されたら琴子が泣いて泣いてどうしようもなくなるところを探しているがわかった。
 彼の指先を許している琴子は、そんな彼の指先を見つめている。ふんわりとしていた黒いシフォンのブラウスも、英児になぎ倒されたかのようにふくらみを無くして琴子の身体の線を醸し出している。そのブラウスの裾のすぐ下、窓からの明かりにくっきりと浮かび上がっている白い肌と黒い毛と、そして開いている足。淫らに。明かりを頼りにして、彼が絶対に直視して欲しくない女の秘密を剥き出しにしようとしていた。
 本当なら、ここで顔を覆ってしまいたい。『貴方に任せるから。私がいま、こんな格好をしているだなんて、私に教えないで。目をつむっているから、気持ちよい感覚だけ私に与えて』とばかりに。でも、琴子はそれを自ら直視する。明かりに浮かび上がる自分の卑猥に艶めく黒毛と、剥き出しにされた秘密を欲しがっている彼の顔を見つめている。
 そんな淫らな自分を冷めた目線で観察しているかのような琴子の目と、夢中になって女の秘密を探索していた英児の目が合った。彼が琴子のそこでふっと笑った息がかかった。
「琴子も……この前みたいに、手伝えよ」
 それにはちょっとばかり抵抗を感じ、琴子は恥じらって今度は目を閉じた。
 彼はわかっている。『この女、この前のセックスである程度肝が据わった。それならもっとすごいことしようじゃないか』。冷めた女の目に負けん気の男的挑発。男の思うつぼ、女はそこには恥じらいを見せる。
 淫らな格好より、淫らな行為の方がいまは恥ずかしい。『この前みたいに』。初めて彼と愛し合ったというのに、あの夜、野生じみた交わりに没頭してしまった琴子がしたこと――。琴子が泣いて悦ぶそこを彼が懸命に探すから、琴子自ら『ここよ』と白い指先で教えた。
 その互いに探し合う行為は、琴子が恥じらいを捨てたから他ならない。だがそれも慣れた英児の上手いリードがあったから、『ここ?』『どこ?』『琴子のとろけそうな顔をみたいんだよ』『可愛い声で泣くんだな』『ほら、教えて』。英児の巧みなリードはやがて『欲しい、ここをいじって』と女の口先と指先に自白させる。『ここと、ここと、ここ、だな。わかった』。そうとは願っていないのに、彼が一度にいっぺんに懸命に愛してくれる。巧みに使い分ける何本もの男の指、それを教える女の指が絡みに絡み合って、泣きたくなるところを一緒に責めた。唇でも舌でも、交わる行為でも。それを共に重ねていくうちに、琴子は月の光の中に自分が消えていくのではないかというほどに、空に向かって儚く崩れていった。
 あれを今、同じように。琴子の白い指先が自ら、艶めく黒毛をかき分け剥き出しにして英児に差し出した。
 恥じらいで目を閉じても、うっすらとそんな自分を確かめ、そして彼の満足そうな笑みを淫らな光景の向こうに見つける。
「いい匂いがしてきた」
 くんと英児の鼻先が得意げに動く。ついに英児の唇がそこに。ただ吸い付くのではなく、くっと唇の吸う角度を傾けて静かにそこを吸った。それが『知っている』という仕草……。
「っんく」
 ぴくんと震える琴子。
 琴子が泣いた場所を彼はちゃんと覚えていてくれた。
 でも、秘密を暴かれて責め立てられているような……。甘い毒を隠していただろう。ここにほら、こんなに。見つけたからには、吸い尽くしておかないと。また溜まって疼いておかしくなるだろ。そうなる前に、俺が……。そんな英児の声が聞こえてくるような気がした。実際には彼はただ甘い毒をゆっくり吸いながら、琴子の秘密を優しく責めているだけなのに。
 すっかり暗くなった夜空。彼のこの部屋の窓にも小さな星が灯る。それでも琴子の甘い毒は尽きるはずもなく、とめどもなく溢れてくるだけ……。
 それをある程度悟った英児が戻ってくる。喘ぐ声が漏れないようきゅっと唇を閉じて堪えている琴子の顔をのぞき込む。
 何も言わず、英児は胸の下にいる琴子の髪をかき上げながら、今度は優しくソフトに唇を重ねてくれた。だけど、琴子はそこでまたこの野性的な男からの官能的な責めを知る。英児の唇が熱く濡れている。その匂いは琴子の匂い……。
 やんわりとしたキスの意味は、意地悪い報告。琴子の白蜜でこれだけ濡れたと蜜蜂のように彼が運んできてしまった。
 ん、……。あ、はあ。彼と唇で愛し合うには、その蜜を互いに味わわないといけない。彼がそうするように、琴子もそっと柔らかに彼の唇を舌先で撫で、とろりとした蜜を舐めてしまう。
 互いの吐息で混じり合うそこに、濃密な女の匂い。もう、その行為に引きずり込まれているだけで、琴子はまた、入り江の夜のように、自分が自分でなくなっていく感覚に痺れ始めていた。
 ああ、あられもない牝になってしまう。
 でもそれは琴子だけではない。英児も……。
「もう、だめだ。待てない」
 彼はそういうと、口づけていた琴子の背をぐっと逞しい腕で起こし上げ、あのクッションのような大きな枕へと背をもたらせ座らせた。
 ブラウスもまだ脱いでいない、そしてどうしてここに座らされたのだろうかと戸惑っている目の前で、英児が急ぐように短パンと下着をいっぺんに脱いだところ。琴子が濃密に零していたなら、彼は熱く硬くなっていた。
 彼もまだ上は着たままなのに、待ちきれないとばかりに枕を背に座らせた琴子の膝裏を持ち上げぐっと両足を開いてしまう。
 あ、来る。
 いつものちょっと一方的で強引な彼の気持ちが、一直線に琴子に向かってくるその瞬間。
「はあっ。あっあっ、あ、」
 もう声を堪えることは出来ない。迷い無く琴子を貫いた英児が激しく入り込んで突き上げてくる。
 琴子の両足を開いて、果敢にそこに攻め込んでくる。
 うっうっう、んっん、んっんっん。動く彼の胸元で、琴子は黒髪を振り乱して首を振る。この前と違った。愛し合うまでひとつになるまで、英児はじっくりと愛撫を施して愛してくれた。なのに今日は、今日は。
「ごめんな。すげえ我慢していたんだ」
 ううん。いいの、いいの。声にならなくても、琴子は彼を見つめてそれを伝えた。それを英児もわかってくれたかのように微笑み返してくれる。
「……お前も……おなじ、みたいだな」
 言葉を返す気もなくなるほど。琴子の身体がもう隠しようもない返事を彼に伝えている。
 そう同じよ。英児と同じ。私もこうなるの、待っていた。
 残業を終えた琴子を迎えに来た英児は、帰りは遠回り。人のいない河原沿いの道に車を止めて、すぐに琴子の肌を探る。熱くて甘いキスを交わしながら、そして肌を愛されながら、でも……二人でいろいろ話してから帰った。それでもほんの短い時間だから、名残惜しい切なさがいつまでも二人を離さなかった。挙げ句に、本当に『ホテルに行こうか』と二人揃ってその気になりかけた日もあった。
 でもそこを堪えたのは英児自身。『俺の部屋でゆっくり抱きたいから』。時間を気にしないでじっくり。琴子も仕事で疲れた身体で急いで愛し合って帰るよりかはそれがいいと、琴子自身も自分に『言い聞かせた』。
 つまりそれは琴子も、『非常に我慢していた』。
「俺もだけど。琴子もすごいな」
 初めて抱き合った夜は、英児も琴子を大事に扱ってじっくりと肌を愛してくれた。だから琴子も、じんわりゆっくりと、そしてたくさん感じて濡れた。
 でも今日は――。
 彼もふうと荒い息を吐いて腰を動かしながら、琴子を見下ろしティシャツを脱いでいる。そんな片手間のように腰だけで貫かれても、彼の熱い塊はするすると琴子の中へ簡単に吸い込まれている。『琴子もすごい』。それだけ琴子も、いとも簡単に蜜で男を絡め取っているということ。そのとろんとした蜜が優しく熱く、彼の大きな塊を包み込みどれだけ溢れているのか琴子の耳にも届いた。
 それはきっと英児の耳にも。
「はあ、琴子。この前より、すごい、」
 身体を揺らされながら愛され、その律動で琴子は震える。自分が全裸になったからとばかりに、今度の英児は琴子を愛しながら、ついに水玉ブラウスのボタンを手早く開け始める。開かれたブラウスから、白いランジェリーに包まれた柔らかな乳房が現れる。それもじっくり眺めないまま、英児が両手を滑り込ませめくり上げてしまう。
 『あったかいな』『柔らかいな』。英児の両手が狂おしく乳房を柔らかに掴んで楽しんでいる。だがそれも一時で、今夜の英児は先へ先へとめまぐるしく移っていくから、もう次にはその胸先を口に含んでいた。それも……この前は優しかったのに、今日は痛いくらい激しくて。
 でも琴子は痛いとは言わなかった。痛いどころか、強く吸われては甘い声を突き上げていた。
「あっ。え、英児、英児、えいじ、えい・・じ、え……」
 うわごとのように彼の名を呼んだ。
 今夜の彼は優しくない。女を逃げ場のない奥に据え置いて、窮屈な格好をさせて、自分の胸元に小さく収まるよう両腕の中に押し込んで、力一杯激しく琴子の身体の中に食い込んでくる。
 片足は担がれ、でも大きく開くためにもう片方の足はベッドのシーツの上にしっかり押さえつけられていた。
 脱ぎかけのブラウス、めくり上げられたランジェリーの下で揺れている乳房。淫らに大きく開かれた足。その間に露わにされている黒毛が、また窓からの明かりに隠しようもなく艶やかに映し出されて。そこに浅黒く日焼けしている裸の男が容赦なく割り込む。
 優しくない。今夜の彼は野獣――。
 まるで食いつかれて襲われているようだった。
 なのにその野獣の眼差しが優しく、熱っぽく、とろけるように琴子を見つめて離さない。そして琴子も離さない。
 琴子を小さなところに閉じこめて愛してくれる彼の唇を、琴子から求めて愛した。
 英児、英児。好きよ、大好き。ほんとよ。
 そう呟きながら、彼と熱い吐息を分け合う。
 琴子との長い口づけに合わせるように、彼の動きがゆっくりになる。なのに、その愛し方が激しくない分、巧みで意地悪で。
「いや……」
 急にじんわりと肌が熱く湿ってきた気がした。
「どうした、琴子」
 わかっているくせに。
 英児は琴子がなにも言わなくても、この前の『自白通り』の責めをする。いくつもの指先に舌先に、愛撫、熱く繋がるそこに隠れている秘密も英児は知っている。
 このベッドに来てから、そんなに時間は経っていない。
 じっくり肌を隈無く愛してくれた男もいない。今日は急速に襲ってきた野獣と愛し合っている。そして琴子は野獣の責め苦に甘くもだえている。
 もうだめだった。わかる、もうだめだって。彼にぴったり抱きついていたのに、琴子はその瞬間、英児をおしのけるようにして儚く呟いた。
「……ご、ごめんな、さい」
 ゆっくりじっくり愛し合うと思っていたのに。英児のせい。それとも、淫らな私が悪いの? この前、初めて女として突き抜けたあれ。初めてだったのに、こんなに簡単に感じてしまうなんて。今夜はもっとじっくり長く彼と甘い息を分け合って、じんわりと。この前の夜以上に長く愛し合って果てたかったのに。あっという間に墜ちてしまうなんて。
 吐息荒く、震えながら力無く果てていく琴子を、やっと彼が優しく胸の中に抱きしめる。愛おしそうに抱いた琴子の黒髪を狂おしい手つきで混ぜている。
「なんで、謝ってんだよ」
 抱き寄せられた英児の胸元、彼の心臓もどくどくと早く脈打っているのは聞こえる。
 だって。もっと、ゆっくり……もっとじっくり……って……。なのに待てずに……。
 ぐったり、力が入らなくて、声も出ない。でも息だけの声でそう言っていた。
「これで終わりだと思っているのかよ」
 ふっくらとした枕を背にだらりと果てている琴子から、まだ羽織ったままの水玉ブラウスを英児は容赦なくはぎ取ってしまう。
 標的の女を全裸にした野獣が、今度は琴子をベッドの上へと押し倒す。
 でももう、琴子は力も入らないし、声も出ない。ただ息絶える前の獲物のように、彼の胸の下に従うだけ。
「ゆっくり、じっくりだろ。それ今からだから」
 勝ち誇った笑みを見せながら、熱い息で耳元に囁く野獣。
 琴子は目をつむった。心臓が持つか、本気で心配した。ほんとうに果てる時、心臓が大きく脈打つことを知ってしまったから。
 でも意地悪な野獣は、まだ自分が満足していないから許してくれない。本当に容赦なく、琴子の身体を裏返しうつぶせにすると無抵抗なのを良いことに勝手に腰を抱き上げ、膝を立たされる。本当に獣の姿にされて望まれる。
 だから余計に。シーツに頬を埋め握りしめ琴子は覚悟して目をつむる。
 もう彼の思うままに、琴子は与えるだけ。なのに後ろから強く貫れて、身体が甘く熱く悦んでいるのは自分も女獣になっているからなのだろうか。

       

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ぐったりと横たわる琴子の上にも、息荒く果てた男が重なっていた。
 くたくたに果てた女がご馳走のはずの男が、今日は自分がくたくたになって琴子の胸元で休んでいる。
 それでもその手は乳房を離さず、口先はまったく動かない琴子の唇を時折吸う。
 幾分かしても動かない女が眠ったのかと心配する眼差し。
「おい、琴子」
 頬を軽くはたかれ、ぼんやり薄目だった琴子は、ぱっちりと目を開ける。
「びっくりさせるなよ」
 ほっとした彼の顔。それだけ責めたくせに。その文句ももう言えない。
 やっと動いた男がのっそりとベッドサイドのナイトテーブルへ手を伸ばす。そこに置いてある煙草を取ると、口にくわえライターで火をつけた。
 暗がりにぽっと灯る赤い火、そして立ち上る煙。新しい煙草の匂いを嗅いで、琴子もやっと起きあがる。
 英児が枕を背にくつろいだ隣に、琴子も寄り添う。煙草を吸う彼にもたれると、彼が長い腕で琴子の肩を抱いて寄せてくれる。
 ふっと煙を吐いて一息吐く彼が、暗がりの部屋で恋人を片腕に急に話し始めた。
「この店。俺の母親がもう長くないとわかった頃、建てたんだ。俺が三十になった頃な」
 琴子の目を見ず、やはり英児は空港がある海へと遠く視線を馳せている。
「俺さ。母ちゃんがけっこう歳いってから生まれたから、やっぱ、母ちゃんが末っ子末っ子てすごく可愛がってくれたんだよ」
「末っ子てそうらしいわね」
「兄貴二人は地道で真面目なリーマンで、ちゃんと嫁さんに子供がいたから安心していたけどさ。俺のことは残していくの心配だって。そんな時、俺、店を持とうとしていたから、母ちゃんがけっこうな金を出してくれてさ……」
 それがこの龍星轟とのこと。
「あんたは組織で上手く立ち回るのは無理だから、一人でちゃんと生計たてて、自分の場所をしっかり確立させておきなさいってね。遺産だっていわれた。だから俺、この店のここに住処もくっつけた。俺が帰る場所を作ったと知ったら安心するようにして逝っちまったよ」
 煙を吐くと、煙草を灰皿にもみ消し、英児はまた窓辺遠くの海を探している。
「で……さ、その時なんだけどさ……」
 急に歯切れ悪くなる英児。彼の抱き寄せる腕の力が少し緩んだ気がして、琴子も不思議に思い彼を見上げた。やはり琴子を見ず、彼は遠くを見ているだけ。
「言いたくないなら、いいんだけど」
 彼の隣で、琴子は静かに返した。なんとなく、言いたいこと解ってしまった。
「やっぱ。このベッド、俺の部屋には不自然だったか」
 気がついていた。それとも琴子が気にしている顔を見せてしまっていたのだろうか。彼が抱き寄せる腕の中、今度は琴子が固まった。
「母ちゃんが死ぬ前、俺、婚約していた女がいたんだよ」
 やっぱり、いた……! しかも婚約までしていた!
 琴子の勘が、いや、女の勘が当たっていた。では、やはりこのベッドは彼女と? 龍星轟が出来て、彼女と愛し合ったベッド? 彼女と選んだベッド?
 言葉にしなくても、琴子の見開いた目がそれを物語っていたのだろう。英児が慌てる。
「いや、その。そうじゃなくて」
 それを琴子に悟られたと察知した英児が、琴子を捕まえるようにきつく抱き寄せる。
「いいのよ。だって、私だってこの前まで彼がいたんだもの。貴方にだって恋人ぐらいいてもおかしくないじゃない」
 互いにいい歳。互いの過去を気にしてどうするのか。
 だけど琴子の半年前に別れた彼とは違うものを感じた。英児にとっては、何年も忘れられなかった婚約者ということになる。しかも未だにその時のダブルベッドを使っていて……。
「気分悪くしたなら謝る。でも、ここで女と寝たのは琴子が初めてだから。その女以来、俺、マジでつき合った女いないから。ほんとなんだよ。だから俺も五年ぶりぐらい。だから琴子にちょっと食らいつき過ぎちゃってさ」
「そんな、気を遣ってそんなこと言わなくてもいいのよ。だって彼女の匂いなんてもうないでしょ」
「ねえよ。もう昔のことだろ。忘れた」
 でも、英児の中では残っているのかもしれない。きっとその女性は『自分と似た匂いの女』のような気がした。だって英児の嗅覚がとらえた女性なら……。
「ていうか。その女とここに住む前に、しかも母ちゃんが死ぬ前に、いろいろあって別れたんだよ。だからベッドも未使用。式場も結納の予定も予約も全てキャンセル。破談ってやつ」
 今度はもっと驚いて、琴子は英児を見た。
「どうして」
 式場も結納も? そこまで予定が決まっていて何故? 思わず聞いてしまい、はっと我に返る。
 そしてあのはっきりきっぱりしている英児がなにやら口ごもって、また目を逸らしてしまった。
「なんだろ。男と女で惹かれ合うのと、家族が関わる結婚は違うってやつだよ」
「反対されたってこと?」
 彼が、元ヤンキーの、まだ店も軌道に乗っていない自営業者だから?
 でも英児が力無く呟いた。
「俺の母ちゃんと、上手くいかなかったんだ。いや、その、婚約したほどだから、元々母ちゃんも彼女を気に入ってくれて仲良かったんだけど。その、いろいろ、あって」
 はっきりとした原因があるはずなのに、それが言えないようだった。
 それがとても言いにくそうで。きっとそれだけ口にしたくないことなのだろう。
 なんでも堂々としている彼の、そんな思い出すのも苦しそうな姿が痛々しくみえてしまう。
 そんな英児が最後にはっきり言った。
「俺が最後に選んだのは、彼女じゃなく母ちゃんだった。女は去って、母ちゃんは逝った。兄貴と親父はもう既に出来上がった家族で暮らしていて、母ちゃん子だった俺には入る隙はもうなかった」
 ――だから俺は独りぼっち。
 やっと彼が言った一言の真意を知った琴子。
「もう言わないで。私、貴方といる。これからも」
 琴子から彼の首に抱きついて、彼の黒髪の頭を抱き寄せた。琴子の乳房の胸元へ。そこにぎゅっと琴子は英児を抱きしめる。
 そこで、彼がふっと笑ったのを見た。
「ベッド、新しく変えるから」
 彼から琴子を抱き返してきた。胸元の彼を見下ろし、琴子は驚く。でも英児は笑っていた。
「一人で暮らしてきたから、ワンルームのようにしてリビングにベッドを置いてしまったんだけど。琴子とのベッドが来たら、そっちの寝室にちゃんと置くようにする」
「いいのよ。ここでも。貴方がそれで暮らしやすいなら」
「いや、だってさ。琴子のお母さんにも、いつかここに遊びに来て欲しいから。娘をあんあんさせているベッドは隠すようにしたほうがいいだろ」
「なに、それっ」
 母にそんな目で見られるのは、流石に琴子も耳が熱くなるほど恥ずかしい。でも、そんな。いつか母をここにと考えてくれているだなんて。
 嬉しくて、今度は彼の胸に抱きついた。
「俺も琴子と一緒で、前のこと忘れてなにもかも新しくするな」
「……うん」
 微笑み返したが、少しだけ躊躇った琴子。
 本当に忘れてしまって良いことだったのだろうか。そう感じたから。
 でも英児はとっても安らいだ顔で微笑んでくれる。ホッとした顔で。
 
 そして琴子は知ってしまう。
 リビングにベッドがあったのは、一人きりの寝室で眠るのが寂しかったから。枕がたくさんあるのはひとつだと寂しい、ふたつだと彼女と暮らすはずだったことを思い出してしまうから。だから、ベッドヘッドが埋まるぐらいにわからないぐらい増やした。それが丁度三つで埋まる個数。そして。
 ――私の肌をすぐに探すのは、あたたかみを求めているからかも。
 初めてそう思った。
 人肌恋しくて。やっと俺を暖めてくれる体温。だから琴子が目の前にいると、つい肌を探してしまう。
 触りまくりたいんじゃない。人肌に触れて、安心したいだけ。俺は独りぼっちじゃないって。
 そんな彼を一人きりにしたくない。
「英児、英児」
「なんだよ、琴子。もういいから」
 あの英児が困るぐらいに抱きついて、琴子は暫く彼を離さなかった。

 

 

 

 

Update/2011.6.1
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