××× ワイルドで行こう ×××

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 14.こいつが最初の相棒だよ。 

 

 矢野さんが、スカイラインのルーフを『ぼん』と軽く拳で叩いた。
「車のことをよく知らないヤツには触らせられねえって、お前のその度量の狭さをいま見たぜ。お前の可愛い姉ちゃんが触るのもダメなら、お前以下の男にも触らすなんてとんでもねー話ってわけだよなあ。つーことは、お前がこの店で最後の整備士で終わっても良いってことだよなあ」
 言われ、英児が何かにおののき、ぐっと黙らされた顔を見せた。
 弟子が怯んだその隙を師匠は見逃さない。そこにすかさずねじ込む為か、矢野さんは自分より背が高い英児へと一歩ぐいっと詰め寄る。
「自分以下の部下がこの店にはいない。事務員の武智以外は、清家も兵藤もお前が気に入って引っこ抜いてきた先輩だもんなあ。こんなぬるい状態で、ゆったり余裕の社長様。お前、この安定感はお前の経営力だけじゃない、支えている整備士の安定感もある、或いはお前より大人だからよお、お前を泳がせ黙って我慢してくれることだってあるんだよ」
「そ、そんなのわかっている。でも、今はそんな時期じゃないと思っている。うちは大きくはないんだから、なるべくリスクは減らしたい。一人雇うのだって人件費が――」
 だが、矢野さんは『はあ?』と馬鹿にした眼差しを、英児の顎の下から上へとぐいっと差し向ける。ぞんざいな、その威厳の振りかざし方。琴子もどきどきはらはら怯えている。元祖ヤンキーのおじ様なら、ガンガンバシバシ、恐れずに英児をメッタメタにするのではないかと。
「よお、店長。もう一度言うぞ。よく聞けよ。『いいよな。彼女が車を触っても』。可愛い彼女が車を綺麗にしてくれると思えばいいだろうよ。お前の車だぞ。客の車の方がいいか?」
 英児の口答えは無視、皆無。彼が社長の顔で根本的な理由を述べたところで、師匠としては『それがどうした。それより、こっちが大事だろ!』とねじ伏せようとしている。琴子の額に滲んでいた汗がひんやりと別の汗へと変わっていく感触。そして俯く英児の苦渋の表情。
「いや、俺の車で」
 琴子はびっくり。矢野さんの一喝で、英児があっさりと琴子が車を磨くことを許してくれた。
「言っておくけどよ、英児。俺だってな。なーんにもできねえ、『鶏冠(トサカ)だけ立派なヤン坊』だったお前が、あれやったりこれやらかしたり。どんなに腹立って怒鳴り散らしても、お前にやらしてきたつもりだがねえ」
 ……なるほど! 琴子にも見えてきた。
 英児は店長だけれど、まだ『人材を育てる』という事をしたことがないのだと。それを矢野さんが『そろそろやれ』と言っている。
 だけれど英児の場合、車に対しては『完璧にしたい』という心構えは頑固で頑なすぎるから、ちょっとの失敗がある可能性は徹底して排除してきた。それがまだ仕事が出来ない自分より若い従業員の雇用を避けること、あるいは、育てる手間を避けてきたこと。客に引き渡す車は、徹底した整備で常にピカピカでパーフェクトでありたい。それが龍星轟のプライド。でも、新人を雇ってそれができなかったら? きっと英児はそれが我慢できないのだろう。
 この問題。矢野さんは『そろそろ考えろ』とアドバイスしていたのに対し、英児は『まだ今はいい』と流していたのかもしれない。
 そこで琴子が現れ――。車の運転も出来ない女が『車を触りたい』と言い出した。浮かれた気持なのかどうか、それを確かめ、矢野さんが琴子をこの作戦に引き込んだのは? ある程度は『まあ動機はともかく、使える』と認めてくれたのだろうか?
 ともかく――。琴子は再度認識する。『私は、矢野さんの作戦に利用された』のだと。
 だが、これは良いバランスが取れた『ギブアンドテイク』だと思った。矢野さんと琴子の利害が一致しているということ。
「店長。私、出来ないのはわかっているけど、一生懸命、覚えますから」
 『英児さん』ではなく、従業員でもないのに『店長』。
 流石に英児が面食らった顔。矢野さんには滑稽な茶番に見えたのか、必死に笑いを抑えている。
 だが、英児もキャップのつばをぐっと降ろして、師匠そっくりの仕草。目線を隠して、ぼそっと言った。
「矢野専務に教えてもらって。出来上がったら俺に見せて」
「わかりました」
 琴子の目は見てくれなかった。でも、任せてくれた……。
 矢野専務に背中を叩かれる。
「悪かったな。巻き込んで」
 でも琴子は首を振る。
「いいえ。私もやりたかったので、有り難うございました」
 だが、矢野専務はもう、琴子を上から冷たく見下ろしていた。
「この炎天下、私、やっぱりダメですとギブアップなんてしてみろ。英児の二階部屋に出入りできても龍星轟には出入り禁止。いっさい関わるな」
 女の琴子にも、車のこととなれば容赦なく恐ろしい目、ギラッとガンを飛ばしてくる矢野さん。……こ、怖い。やっぱり元ヤン親父だと琴子もおののいた。
 でも琴子も腹を据える。
「勿論です。やってみたいと言い出したのは私ですから」
「まあ、英児ががっかりする顔が今から浮かぶわ。車に関しては完璧主義のアイツがガタガタって崩れるところなー。いやー、楽しみだわー」
 矢野さんがニンマリ意地悪い笑みを見せる。琴子は密かにむっとした。綺麗に仕上げられなくても、英児は英児は。……どうなんだろう? やっぱりがっかりするのかしら? 琴子も不安になる。
 
 さあ、はじめるぞ。矢野さんの合図で、琴子も動き出す。
 
「まずは、洗車だ」
 店先にある業務用のジェットホース。それを持たされる。もう一本は矢野さんが。
「しっかり構えろよ」
 出てきた水圧にびっくりしながらも、琴子はなんとかホースを手に矢野さんと車に向かう。
「まず、埃を落とす。砂利みたいな小さな埃が残ったままスポンジでこすると、たとえ車に優しい『手洗いワックス洗車』でもボディに傷が付くことがあるからな」
「はい」
 ホースで水洗いを済ませると、今度はスポンジと業務用のウィッシュ液でボディを洗浄。半分は矢野さんがお手本がてらやってくれるが、その仕事がすごく速い……! 琴子は丁寧にしているつもりだけれど。
「遅い! 丁寧っていうのはな、綺麗に出来るまで、いつまでも頑張ることじゃねーんだよ! 勘違いするな!」
 店の敷地中に響く声で怒鳴られ、琴子は背筋が伸びる。
「はい、専務!」
 でもお腹から声を出して応えた。そして素早くスポンジを動かす。
「終わったら。ホースで洗浄」
「はい」
 泡に包まれたスカイラインを、ホースで洗い流す。半分は矢野専務、半分は琴子が。
 その時、矢野さんがふと呟いた。
「姉ちゃんを怒鳴りつけて、腹を立て整備を放ってまた出てくるかと思ったけど。あいつも肝据えたみたいだな。ガレージから出てこなかった」
 可愛い彼女の琴子を怒鳴りつけ、それに腹を立て庇おうと出てくるぐらいの男なら、また怒鳴りつけてやろうと思った。そう小声で囁いた矢野さん。つまり琴子を怒鳴ったのは、気持は指導する以上本気だが、半分は英児がちゃんとガレージでドンと構えていられる経営者かどうか、集中できるかどうかを試していたようだった。なんとか合格のよう。
「姉ちゃんも、案外めげないんだな」
 怒鳴っても泣かなかったなあと矢野さん。英児に似た男らしく目尻が優しい笑顔を見せたので、琴子はどっきり思わずときめきそうになった。
 ホースで足回りもちゃんと洗い流しながら、琴子も笑う。
「いまでこそ。好きな服でお洒落をして仕事をしていますが、それもデザイン会社社長のアシスタントにして頂いてからです。それまでは、私もどちらかというと、職人に近い手作業の生産業務だったんです。使っている道具には服に付いたら絶対に取れないインクをつかったり、真っ赤なペンをつかったり。汚れるからお洒落なんてできなかった。それに、その手業を教えてくれたのも職人堅気なおじさん達でした。厳しかったですよ」
 だから、おじさんの嫌味な言い方とか怒鳴る声は慣れている。そう告げると、矢野さんがちょっと驚いた顔をしていた。
「そっか。そうだったのか。なるほど――それで、三好ジュニアのアシスタントになれたってわけか」
 そして矢野さんが言った。
「見た目で決めたら駄目だな」
 その意味は、良い意味と取って良いのだろうか。  

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「よし、やるぞ」
「はい」
 ついに『憧れのケース』を琴子は手に持たせてもらう。
 手のひらサイズのスポンジを片手に、そのケースの蓋を開けた。粘土のような練り粉。独特の匂い。
 洗車後、濡れた車を綺麗に拭き、そして車内の清掃も教わった。英児の車は綺麗なので、車内清掃といってもほとんどやる意味がない程だったが、それでもひととおり教わった。そしてその後、ついに『念願のワックスがけ』へ。
「つけすぎると、塗った痕が残る。つける量が少ないと艶が出ない」
 矢野さんがスポンジにワックスを取り『これぐらいだ』と見せてくれ、琴子も頷く。そしてルーフに小さな円を描くように塗り始める。琴子もごくりと喉を鳴らしつつ目を凝らし、矢野さんの手つきに集中。だがそこで矢野さんがやめてしまう。
「やってみな。ここまでな」
「そこまで、ですか」
 ほんの三十センチ、くるくると円を描く列を五列ほど塗っただけ。だが琴子もそれを真似してみる。矢野さんがやっていたように。
「次、行くぞ。よく見てな」
「はい」
 今度は真っ直ぐ平面にすーっと塗る矢野さん。
「あとはこの塗り方でやるから、ルーフを隙間無くまんべんなく塗りな。半分は俺、半分は姉ちゃんな」
 はい。返事をして琴子も見よう見まねでやってみる。
 矢野さんも多くはアドバイスはしない。見て覚えろ的スタンスのよう。だから、ほぼ無言でお互いに神経集中。塗ってはワックスが乾く前に拭いてと、部分的にその繰り返し。
 最後、バンパーを仕上げ、矢野さんと磨き終わったスカイラインに向かった。
 だが、その時点で。英児に見てもらう前に琴子自身が『ガタガタ崩れそう』だった。
「この差は歴然だな」
 スカイラインの半分は見事にムラ無し、ピカピカ。対して琴子が手がけた半分はピカピカ光っても、いろいろな筋のムラが出来ていた。
 しかもルーフの上に一番最初にやった円を描いて塗ったところ。そこを矢野さんが指さした。
「以前はこのような塗り方が主流だったんでね。姉ちゃんみたいな初心者がやってこの円の塗りムラがでると、車が鱗みたいに光ってこりゃみられたもんじゃねーんだよ。特に黒は目立つ」
 確かに。矢野さんの円塗りのところは、ほかの平面塗りをしたところ同様、筋ひとつ残っていない。その境目もわからない。だが琴子が円を描いたところは、そこだけ見事に鱗の痕。ルーフに三十センチだけ鱗!
「こりゃあ。英児がひっくり返るぞ。覚悟できてるよな」
「はい……もう、しかたがないです……」
 無様なスカイラインにしてしまい、琴子もがっくり項垂れた。
「家庭で気軽にワックスをかけるならどうやってもいいんだよ。だけどな、俺達はこれで食っているから客が喜んで持って帰ってくれるように仕上げなくちゃいけないんだ。わかったな」
「はい、専務」
 琴子が頷くと、矢野さんはやっぱりあの目尻の微笑みを見せてガレージに向かった。
 整備をしていた英児が矢野さんと並んで出てくる。琴子はドキドキした。こんなムラ筋だらけになった車にしてしまい申し訳ない気持でいっぱいに。彼が常に綺麗にして乗っている車。特に、良く乗っているスカイライン。しかも龍星轟のステッカーを貼っている『龍星轟タキタ店長の車』を、こんな姿にしてしまって――。
 彼とドライブをしていると、よくクラクションを鳴らして挨拶をしてくれる車が多い。走り屋風の若者だったり、車が好きそうなおじさんだったり。中には外車に乗っているマダムもいた。そんな彼の助手席にいて琴子も感じた。英児が乗る車は『龍星轟の看板、宣伝カー』でもあるのだと。だからいつもピカピカ、そして格好良く、車屋らしく。でも、その車を彼の愛車を、琴子は――。
 怒るのか、呆れるのか。褒めてはくれないだろう。彼がスカイラインのボンネット前に立ち、琴子も覚悟する。
 彼が車をひと眺め――。
「マジかよ……。ここまでとは、」
 目を覆って、バンパー下までへなへなとしゃがみ込んでしまった。まさにガタガタ崩れていくように。作業着姿の英児が、ヤンキー座りで項垂れる。
「よりによって、矢野じいと右半分左半分でやったのかよ」
 半分はほんとうにワックスなんて塗ったのかという程、ピカピカで。半分はワックスがけやったんだなとわかるほど筋が残って光っていた。
「わかりやすいだろー。見ろ、このルーフでもちゃんと鱗塗りの悪い例もみせてやったんだ」
 どこか面白がっているにやり顔の矢野さんが、最初に円を描いて塗ったところを見せた。それを矢野さんが綺麗に仕上げたところ、琴子がやって鱗が出来ているところを見て、また英児が目を覆う。
「……あのなあ、もっと目立たないところでやれよ。暫く乗れないじゃないかよっ」
「これが新人ってやつよ。これを出来るようにする手間も時間も必要だし、客に迷惑をかけない方法も考えなくてはならない。お前もな、可愛い彼女がやったからまだ許せるだろうが、それでも嫌だろ。その気持ち、これから慣れて行かなくてはいけないからな」
 新人がどんなものか。どうすればよいか。それを琴子を使って矢野さんは英児に実感させたようだった。
「あの、英児さん。やっぱり私……」
 出過ぎた真似をしてごめんなさい。そう言おうと思ったのに。
「もうこれはこれでいいや。はあ、参った」
 そう言って、がっくりと肩を落として行ってしまった。事務所に去っていく彼。
「やっぱり私、謝ってきます」
 彼を追いかけようとしたが、矢野さんに止められる。
「まあ、待てよ」
 矢野さんが顎で、事務所にいる英児を見ろと促した。その英児が。矢野さんが勝手に触ったキーをぶら下げているボードに立っていた。そのまま事務所から出てきた英児はまたガレージへと行ってしまう。矢野さんに止められているが、琴子はやっぱりハラハラしている。『彼女だから』という傲りで大事な愛車に乗れない状況にさせたと怒っているのだろうか……。
 だが英児が入ったガレージは整備ピットではなく、車庫の方。そこからまたエンジン音。ギュンっと出てきた銀色の車がこちらに向かってきて琴子は驚く。
 バンと運転席のドアを閉め、英児が出てきた。
「次はこれでいいよな、親父」
「だな。最初だから黒なら分かり易いと思って使ったけどよ、次は薄い色でやらせてみるわ」
 二人の会話に琴子はびっくり――。
「琴子はどう。もう一台、やる気あるか」
 英児に聞かれる。その顔が、いつも琴子に可愛い可愛いと抱きついてくる恋人ではなかった。店長の顔。
「あります。このままじゃ、悔しいもの。私だって毎日、このスカイラインに乗せてもらってすごく愛着があるんだから」
「そっか。それならゼットも頼んでいいな」
 琴子はつい、笑顔で英児に言ってしまう。
「嬉しい。だって私、この車に乗って宇宙飛行士になったみたいにとっても興奮したんだもの。あんなの初めてだったの。私、この子も頑張って磨くから!」
 そして。あの月夜、私と英児を甘く熱い世界に連れて行ってくれたシャトルみたいな車!
 そんな琴子を見て、矢野さんがなんだか嬉しそうに英児の背中をばんばん叩いていた。
 英児も、どこか照れて。今度は笑ってくれている。
「じゃあ、よろしくな。琴子」
 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 今度は矢野さんが横について、あれこれ口うるさくいちいち指示をして教えてくれた。だが琴子も黙って従う。
 そして最後に出来たゼットを矢野さんとボンネットから眺めた。
 銀色のボディだから、日光に反射しても黒いスカイラインほど塗りムラは目立たなかった。それでもまだある。
「いや、でも、さっきよりマシになったな」
 矢野さんがいちいち『こうだ、ああだ。そうじゃない、こうやれ』と教えてくれたとおりにやったからだった。
「よし、店長に見てもらおう」
 今度は事務所の社長デスクでノートパソコンを眺めている英児を呼びに行く矢野さん。琴子も固唾を呑んで待つ。
 そしてやってきた滝田店長が、愛車のフェアレディZをひと眺め。今度は車を一周してあちこち眺めている。
「へえ。教えただけでこんなになるんだ」
「だろ。まあ、姉ちゃんのやる気もあるけどな」
「ふうん、なるほど」
 英児は琴子を見ず、ひたすら銀色のボディの仕上がり具合を眺めていた。
「もう一台、持ってくる」
 今度は英児が言い出し、矢野さんが驚いた顔。
「おいおい。車屋じゃない姉ちゃんにちょっと試しにやってもらっただけなんだから。もう今日はいいだろ。なあ、姉ちゃんも疲れたよなあ」
 勿論、疲れている。慣れない炎天下、全身は汗びっしょりだし、腕はだるくなった。だが英児が琴子をキャップのつばからちらりと見た。その目が、店長でもなく恋人でもなく。なんだか彼にも少し迷いがある目に見えてしまった琴子。なにか考えているのか。
「いえ、もう一台。頑張ってみます」
 答えると矢野さんはまた驚き、そして英児はすっとガレージに行ってしまった。
「無理すんなよ。英児のやつ、まだやる気あるか厳しく試しただけだと思うんだよ」
「一台目でワックスがけがどのようなものか驚いて、二台目でやっとワックスがけがどのようなものか知ったから。お手軽に覚える彼女としては二台目までということですか?」
 などと返してみると、またまた驚愕の顔に固まってしまった矢野さん。
「ふうん。なんだかなあ。俺もわかってきたわ。英児が姉ちゃんだけ平気でここに連れてきたのが」
「私だけ平気で?」
 ちょっと引っかかた。そして矢野さんが慌てた。
「まあまあ。いい大人だろ。琴子ちゃんもさあ」
 こんな時だけ『ちゃん付け名前』で呼ばれて、琴子はつい矢野さんにむっとした顔を見せてしまう。そうしたら、あの矢野さんがますます慌てたりして……。ちょっと可笑しいから、暫く不機嫌な顔を見せて困らせた。
 それなのに琴子に取り繕うためか、矢野さんがいろいろと教えてくれる。
「まあ、あのさ。出会いがあっても、続かなかったわけよ。英児の方が怖じ気づいちゃってな。それに社長社長と浮かれてたかる女もいたんでね、出会いがあってもかなり慎重だったみたいだぜ。ちょっとだけデートして終わりってやつばっかな。そこんとこは寛大に……」
 そこまで矢野さんが言ったところで、ガレージからまた車が一台出てきた。
「まさか、あれを」
 話していた途中の矢野さんが、呆然とした顔で固まってしまった。目を見開いて固まっている。
 英児がその車で再び、琴子の前に。紺色の、また日産車。乗ったことがない車。この前教えてもらったけど、琴子はスカイラインとゼットしか覚えていない。  紺色の車から英児が降りてきた。
「これ。琴子一人にやらせてくれよ」
 矢野さんに話しかけるのだが、その矢野さんがまだ車を見て放心状態。
「おい、矢野じい!」
 やっと矢野さんがはっと我に返る。
「英児、お前。いいのか」
 いいのか――なんて、どういうこと? 琴子も眉をひそめた。しかもあの矢野さんがびっくりするほどのこと?
「ああ。いいよ。琴子の気持がよくわかったから」
 そして英児が琴子を見た。
 車のルーフをぽんと叩いて、彼がいつもの英児の笑顔で琴子に告げた。
「日産シルビア、5代目 S13。こいつが最初の相棒だよ」
 驚いて、琴子も紺色の車を見た。これが彼が走り屋として乗り回していた車?
「けど、その時乗っていた車じゃない。峠で怖いもの知らずで飛ばしていた時、事故って廃車にしちまったんだ。俺な。あの時スゲーこいつと別れるのが悔しくて、」
 当時の悔しさが未だに忘れられないのか、彼が唇を噛みしめる。
「それから馬鹿な走りはやめた。安全運転で走りを楽しむ、車を大事にする車屋になるって決めたんだ。これは中古で買い直したヤツ。事故ったトラウマで滅多に乗らない。でも二度と失いたくないから傍に置いてはいるけど触らせない」
 日産シルビア。彼の原点、だった。
 その車を、琴子に磨かせてくれるという。
「いいよ。龍星轟の仕事ではなくて、俺の彼女として気楽に磨いてくれて。琴子がゼットを磨いているところも、タイヤにワックスをスプレーして艶出しをしてくれているところも事務所から見ていた」
「うん。楽しそうで触るのが嬉しそうで、下手っぴだけど大事にしてくれている可愛いにこにこ笑顔だったよな〜。俺の女だったら、嬉しいわ」
 矢野さんまで! そんな顔しながら車を磨いていたところ、事務所から英児にもじっと見られていたらしい……! そう思うと、かああっと頬が熱くなるほど琴子は照れてしまった。
 しかも英児まで。しっかり見つめていたことを知られ照れて照れて琴子を見てくれず、帽子のつばでまた顔を隠してしまう始末。
 それを見て、矢野さんが豪快に笑った。
「俺、監督だけするからよ。琴子、自分でやりな」
 名前で呼ばれた。
「では、専務頼んだよ」
「おう、任せておけや。タキ」
 どうやら、英児を店長と見ている時は『タキ』。弟子か息子のように見ている時は『英児』と呼んでいるようだった。
「ほれ、姉ちゃん。もう夕方になるぞ、早くしろ」
 姉ちゃんに逆戻り? 琴子は顔をしかめつつも、でももう笑ってホースを手にしていた。
 洗車をして、濡れた車をたった一人で拭いている間も、琴子は嬉しくて嬉しくてどうしようもなかった。
 そんな琴子を黙って眺めているせいか。矢野さんが途中でぽつりと言った。
「もう今までの女なんて関係ねーってわかっただろ。英児がシルビアを触らせてくれたんだから。あいつ、琴子のこと堪らなく好きだと、おっちゃんはそう思うなあ」
 そんな言葉も嬉しく。でも琴子は聞こえなかったふりで作業をする。でも矢野さんは独り言のように続ける。
「琴子のようなお育ちが良いお嬢ちゃんに似合いそうな大手にお勤めの高学歴な野郎じゃないけどよ。自動車専門の大学校を出て、国家試験の資格もいろいろ持っているし技術もあるしさ。こうして店ももっているしさ……」
 まるで。息子を庇っているかのように琴子には聞こえた。
 濡れた車を拭き終わり、琴子は座って独り言に懸命だった矢野さんに真っ直ぐに見つめて告げる。
「私、英児さんに出会う前、お見合いのお話いただいていたんです。『高学歴で、お家柄の良い、大手にお勤めの男性』。その男性が、男親も亡くなった上に後遺症を抱えている母親と二人だけで暮らしている女性は、母親の世話の為に実家にばかり帰るだろうからお断りと、向こうから話を持ってきたのに会う前に断られたんです」
 聞いた途端、矢野さんも『はあ? なんだって』と顔をしかめた。
「高学歴で、良いお家柄で、大手にお勤め。私にはその価値がどれだけ良いものかさっぱりわかりません。まったく魅力を感じません」
 だから。英児という男を愛している。その顔を向けると、矢野さんはもう黙ってしまった。
 最後、いよいよ琴子はワックスがけに入る。愛する男から託された車を、綺麗にするクライマックス。
「よろしく。英児シルビア」
 事務所前、アウトドア用の折りたたみ椅子に座って監督をしている矢野さんの死角になる影で、琴子は紺色のボディにそっとキスをしていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 シルビアのワックスがけも終わると、また店長チェック。でももう英児の眼差しも柔らかかった。
「まあ、最初はこんなものか。有り難う、琴子」
「でも。相談もせずに、今日は勝手にやりたがってごめんなさい」
 最初、嫌な思いをさせたことを謝った。でも英児もそっと優しい微笑みのまま首を振るだけ。
 矢野さんも椅子から立ち上がってひと眺め。
「最初のスカイラインに比べたら、だいぶマシになった」
「矢野さんのおかげです。有り難うございました」
 頭を下げる琴子に、矢野さんも照れてまた帽子のつばで顔を隠す。琴子はクスリと笑う。父子じゃないのに、本当に親子のように仕草も生き方もそっくりで不思議な師弟の二人。
 そんな矢野さんが、シルビアをじっくり眺めている英児を呼んだ。
「おい、英児」
 呼ばれて振り向いた英児へ、矢野さんが何かを投げた。
「もう今日は店長担当の仕事、終わったんだろ」
 英児が片手でパシリと受け取ったのは、シルビアのキーだった。
「お前達、休みが合わないんだろ。たまには彼女を週末ドライブにでもつれていってやんな。店閉め、俺がやっておくから」
「え、いいのかよ。矢野じい」
 戸惑う英児だったが、矢野さんがまたニンマリ、意味深な笑みを見せる。
「おう。俺、気に入ったわ」
 何が。と、英児。そして今度、矢野さんの視線が琴子へと向かってきた。
「この姉ちゃん、やる気あるわ。車屋のカミさんになれるぞ。英児、嫁にしな」
 『えー!』、英児と揃って飛び上がりそうになった。なんて大胆に直結を望む発言を! ある意味、英児には敏感なところなのに。彼の親父同然の男はそこへバシッと切り込んでくる。
 もう英児も琴子も呆然。しかも互いの顔を見ることが出来ないほど、なんだか照れ合ってしまい……。だが矢野さんは、そんな二人を置いて、ガレージへと行ってしまった。
 やっと二人で顔を見合わせる。
「せっかくだから、行くか」
「いいの? 英児さんは乗っても大丈夫なの」
 あの優しい目尻の笑みで、英児が助手席のドアを開けてくれる。
「琴子が綺麗にしてくれたから、走らせないと勿体ないだろ。車は走らせて車なんだから。琴子が一緒なら大丈夫だ、きっと」
 彼の最初の相棒。しかも曰く付きの相棒。その助手席に乗れる。琴子もにっこり微笑んで、その車に乗り込む。
 
 夏の夕暮れ、港町へと英児のシルビアが風を切って走り抜ける。
 空港を抜け、フェリーが停泊する港を抜け、夕の港町を英児は海沿いにずっと走る。
 その間。何故か二人は微笑み合いながらも無言だった。
 でも琴子にはこの嬉しさと、そしてもどかしさが混ざり合った奇妙なムードの根元をきちんと見つけていた。それは英児も。
「矢野じいが言ったことだけれど」
 ――嫁にしろ。二人の間で言葉にせずとも浮かんだだろう言葉。
「私、ずっと英児といる。貴方の部屋に通って、ずっと愛し合うの。これからもずっとよ」
 夕の海をまっすぐに見つめ、彼の顔を見なかった。彼が結婚を意識してしまっていたから、素知らぬふりをする。だけれど琴子は『ただ一緒にいれたらいいの』と、それだけはっきりと告げる。結婚なんて言葉は、私たちには関係ない。
 夕暮れの運転席、彼の黒髪もふわりと潮風になびいている。サングラスの奥の目は見えにくかった。でも彼は静かに笑っている。
 
 全開の窓には、琴子の黒髪を強くなびかせる潮風。隣には夕の日射し除けに茶色のサングラスをかけた作業着姿の英児。そして琴子も今日は龍星轟のワッペンがあるお揃いの上着を羽織ったまま、隣にいる。
 龍星轟のシルビア。運転席には龍星轟の店長。その隣の助手席にはお揃いの上着を羽織っている彼女。そこまで私たちは揃うことが出来た。
 今はそれでいいじゃない。

 

 

 

 

Update/2011.6.10
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