盆を過ぎれば少しは涼しくなるだろうが、それはもう少し先のこと。
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暑い真夏日だけれど、天気がよいから洗濯をする。ベッドのシーツを洗濯する。今日の一番のお楽しみはそれだった。
キッチンに昼食の材料とエスプレッソマシンの箱を置くと、琴子はリビングを横切って奥にある扉を開ける。そこにはヒンヤリと影になっている廊下がある。そこにもう二部屋ある。ひとつは英児が書斎代わりに使っていて、もう一室はほとんど倉庫状態だった奥部屋。琴子はそこのドアを開ける。
開けた途端、ざざっと夏の風が琴子を包んだ。もうちゃんと窓を開けてあり換気済みで、空気も爽やか。グリーンのシーツの上に英児が脱いだティシャツと短パン。そして部屋いっぱいに大きなベッド。
初めてこの自宅で愛し合ったあの後直ぐ、数日後。二人で家具店に行ってベッドを買った。注文後、搬入まで少し待ち時間があったのだが、そのベッドが少し前この部屋にやってきたところ。倉庫だった部屋は、今はとても落ち着いたシックな寝室に様変わりしていた。
やることが早い英児が、あっという間に倉庫状態だった部屋を整理整頓片づけてしまい、しかも仕事帰りの琴子を迎えに来ると真っ先に家具店に連れて行き、『琴子、どれにする。どれがいいか。デザインは琴子が選べよ。俺はすっげえでっかいベッドが欲しい』と言って、即決購入してくれたのだ。そのお店で、シーツも一緒に選んでこちらは琴子がこだわった。
部屋いっぱいにクイーンサイズのベッド。『大きすぎない?』と琴子は案じたのだが『ちゃんと部屋に入るサイズ、計測済み』という程の手際で、とにかく英児は『でっかいのが欲しい』の一点張り。お望み通り、見事にそれを敢行したのだった。
北欧風の落ち着いたローベッド。そこで今は二人で過ごし、英児が寝起きをする寝室になった。
勿論、あのベッドはなくなった……。
寝室は二人で相談しながらコーディネイトした。ベッドヘッドにはあのクッションにもなりそうな枕を、今度は四つも並べている。そして足下には英児が楽しむ小型テレビとDVDプレイヤーのラックも設置。暗がりの中、彼は眠る琴子の隣で、よく録画撮りしたレース番組をみて楽しんでいる。
今日は、このベッドのシーツをまた新しく替える。だから、それを楽しみにしてきたのだった。
英児と琴子は仕事が終わる時間に合わせ、カフェなどで落ち合う。その後、あちこち買い物に出かけたりもする。その買い物で、英児と一緒に洗い替えのシーツを選んだ。たいていは琴子が『これ良いわね』と手にとって眺め、英児がよほどに嫌でなければ『うん、いいな。この色も良い』と一緒に眺めてくれる。今日の夜は、英児と選んだ新しいシーツで過ごす。今度は熱帯夜を少しでも涼しく感じられるようにと、深いロイヤルブルーで揃えた。薄いジョーゼットのベッドカバーにアップシーツ、そしてさらりとした白いコットンシーツ。寝室が深海になるイメージだった。
もう幾度も共にした新しいベッドのシーツをはいで、琴子は洗濯を始める。洗濯の物干場になるベランダがあるのは、あの団栗と百日紅の風がある裏側。洗濯ランドリーと直結していて使いやすいけど、日当たりは店舗側にあるため、生活感を見せてしまうベランダは裏側にあつらえてしまい、ちょっと日陰。それでも夏なのであっという間に乾くし、とても涼しい。
シーツを洗い、新しいシーツに替え、また寝室が爽やかになる。琴子も自分のもう一つの場所になりそうな部屋を見て、どこかほっとする。
この寝室のクローゼットにも琴子のお洒落着も数着、家事用のラフな服、そしてランジェリーもサンダルも。徐々に置いていくようになって増えている。洗面所には琴子の化粧品や、コンタクトの手入れ用品、歯ブラシに、お気に入りのタオルまで……。本当に、セカンドハウスのように自分の物が増えていた。
――『琴子が帰っても、琴子がいなくても。琴子がどこかにいる空気を感じている』。
英児がそう言って満足そうに、新しくした寝室のベッドでくつろいでいる。奥部屋の寝室からは海は見えない。でも、団栗の葉がさざめく音と涼しい風が入ってくる。窓にはよく星と月も見える。淡いライトの中、あるいは外からの青い夜明かりだけで、大きなベッドで素肌になった二人は奔放に愛し合う。
今日もその寝室で、琴子はポロシャツに七分丈のデニムスキニーパンツに着替え、家事を始める。
お昼の時間になると、順次二階に冷やし中華を取りに来る整備員達。矢野さんもご機嫌で平らげてくれ、休憩室で食べ終わった食器もきちんと二階に返しに来てくれる。
「なあなあ、琴子。あれでアイスコーヒーとか作れるのか」
「出来ますよ。また休憩する時に教えてください」
また喜んで仕事に戻っていく矢野さん。英児も続いて二階の自宅で食事を済ませ、ひととおり従業員の昼休みが落ち着いた頃。琴子は武智さんと一緒に事務所の隅にあるパーテーションで仕切られているだけの小さな休憩室にそのエスプレッソマシンを設置してみる。
「コーヒーの豆代がかかりそうだね」
いざ使ってみて、それは美味しいが、業務用としてどうかという冷静な意見の武智さん。
「そこよね。カップにワンタッチセットができるお手軽なドリップコーヒーも浸透してきているものね。いま契約している業務用レンタルサーバーの月額の方がお手頃かもしれないわね」
「でも。この本物感はちょっと気分いいよね」
「そこは流石に、気分良くなるわよ。だけど家庭用でも同じなの。結局、コーヒー豆を揃えなくちゃならないし、一人で飲むには多すぎるし……」
「事務所用か、お客さん用にするか。豆を買ってきてある程度使ってみてから、コストの計算してみる」
「じゃあ、私が豆を適当に選んできてもいい?」
「うん。じゃあ、琴子さんに頼むよ。そこのあたり俺達、ちょっと疎いから」
武智さんと事務所での接客用品などについて、最近はよく話し合う。車に夢中な男達が気にしない部分は、今まで武智さんが気を配ってきたとのこと。
彼とは話しやすい。ほんのちょっとだけ年上で、この武智さんも『元ヤン』だったとか。つまり英児の後輩。そしてあの植木職人篠原さんと同級生だという。きちんと事務職を身につけたので、英児が店を開く時に手伝って欲しいと他でお勤めしていたところを引き抜いたとのこと。
眼鏡をかけて、彼だけワイシャツとネクタイに作業着。英児や篠原さんと違って、そういう元ヤンの名残が見られなかったので、琴子はそれを知って驚いたほど。接し方もソフトでおおらかなので、とっても話しやすい。それに結構理数系らしく頭の回転も速そう――と琴子は感じていた。
武智さんとそんな話し合いをしていると、店先で顧客の車を洗車していた英児が事務所に戻ってきて琴子を呼んだ。
「琴子、簡単なチェック教えてやるから」
店長自ら? 琴子は驚きながらも、英児から借りている龍星轟の上着を羽織り店先に出てみる。
シルビアをワックスがけさせてくれたあの後も、琴子は店の代車を使ってワックスがけを練習させてもらったりした。矢野さんが指導につくことが多い。どうしても『彼女、恋人』という先入観が働くので――という滝田店長からの要望だった。
それなのに。この日は店長の彼自ら手ほどきしてくれるという。
練習はなんと英児が洗車していた顧客の車。だが英児は黙ってボンネットを開け、ボンネット・ステイで支えエンジンルームを琴子に見せる。
二人で並んで立つと、英児がエンジンルームを指さす。
「これがエンジン。そしてラジエーター、バッテリー、エンジンオイル……」
各部位を教えてくれ、やがて彼の手がエンジンルームの端っこにある指ひとつぶんだけ入るリングに指を差し込んだ。それを引きあげると、とても長い鉄の平たい棒が出てくる。
「これは『オイルレベルゲージ』と言って、エンジンオイルの残量をチェックするものなんだ」
鉄のゲージには、ぎらぎらと油がついている。それを琴子の目の前へと手を添えて見せてくる。
「正しい高位を計測するため、車体を水平に停車させている状態で計測。これは水平時の高位ではないので、ついてるオイルは一度拭き取る」
彼の手にはペーパータオル。オイルがついたゲージを拭き取ると、また元の差し込み口へとギュッと戻した。
「計測前にゲージについている油は走行後のもので、水平時の物ではないので、拭き取ってもう一度ゲージをタンクへ戻す。これをしないで、最初引き抜いた状態の物で計測しないように」
そしてもう一度、ゲージを引き抜く。
「この目盛りが上限、下限。この下限ライン付近を示していたら残量が僅かということ。それをチェックするゲージなんだ」
琴子も頷く。
「だいたいがディーラー点検でオイル交換など一手にやってもらっている人がほとんどだと思う。でもそれ以上に車を気にかける車好きの男達がどうやって大事にしているかを、琴子には知っていてもらいたいんだ」
何故、英児が自ら教えてくれたのか。やっとわかって琴子は嬉しくなる。『心臓のエンジンまで大事にする、車好きの男達』。細かな点検に、様々なカー用品を駆使する。女にはわからないかもしれない。でも知っていて欲しい――。車屋の女だから。そういう意味にとっても良いのだろうか? だとしたら、とても嬉しかった。琴子が知りたかったことを、店長の英児から教えてくれたから。
「次、ラジエーター。これはエンジンを冷やす冷却水が入っている。圧があるのでエンジンが熱いうちにこのキャップを開けるのは注意。これも交換する目安があって……」
そんなエンジンルームの管理や部位、そして手入れの方法や交換の目安などを教えてくれる。
龍星轟のキャップの影から覗く真剣な眼差し、紺色作業着で真摯に車に向かう男。滝田店長。
その顔で教えてくれる英児の言葉にひとつひとつ頷き、琴子も真剣に聞いて覚える。
これが英児の、車への気持、姿なのだと――。
こうして琴子も徐々に龍星轟の空気に溶け込んでいける感触を噛みしめていた。
従業員ではないけれど、このお店が好き。この店に彼の自宅に来たら、ちょっとだけお手伝い。出来る分だけ。そして出しゃばらない程度に。それを従業員も受け入れてくれていた。
そしてなによりも、愛する男の精神に寄り添っていける実感があった。
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そんな店長自らの、ちょっとした手ほどきを受けた夕だった。
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店を閉めた後、今夜の夕食は英児と車でドライブがてら出かけて外で楽しんだ。
そしてまた、この二階自宅でふたり――。
夜風にざざざっと団栗の葉のさざめく音が、昼間よりずっと近くに聞こえる。
静かな郊外の空港町。ジェット機の飛行音もない、営業中の喧騒もない。風と葉と、そして時折夜鳥の鳴き声も遠く聞こえる。
涼しい風が入るバスルーム傍の洗面所。風呂上がりの琴子はバスローブ姿で、あの寝室で彼とくつろぐ準備。
『琴子、まだなのか』
廊下の向こうから、そんな彼の声。
綺麗に汗を流したはずだけど、ぬるい湯船でゆったり暖めた身体は火照っている。少しだけ湿り気が残っている黒髪、しっとり柔らかくなった素肌。今夜も琴子は火照った肌にほんの少しの香りをまとって彼のもとへ。
寝室に入ると、もう素肌になっている英児が新しいシーツの中、煙草片手にカーレースの録画を見ていた。暗がりの部屋にチカチカと光るテレビ画面。だが琴子が来ると、英児がすぐにぱちりと消してしまう。
途端に暗くなる部屋。
それを合図のようにして、琴子は暗がりのベッドサイドでバスローブを脱ぎ、ぱさりと床に落とす。窓からの青い夜明かりに、綺麗になったばかりの身体が白く浮かび上がる。
「ほんっとに長いな。女の子の風呂は」
「でも、そろそろ慣れたでしょう」
「まあな。それが俺も楽しみなんだから」
暗がりの中、あの大きな枕に背を預けている英児が煙草を吸いながら笑う。
半同棲のような日々。当然ながら、ふたりで愛しながら入浴を楽しむこともあった。だがある時、琴子が一人でゆったり入って念入りに『女の準備』をしてから英児の元へ行くと、彼が『全然、違う』と喜んでくれた時があった。肌の温度から、匂いから、柔らかさ。全てが違うと彼は言う。週末の念入りなお風呂なんて、女の子はよくすること。『今まで通りの入浴』をしただけなのに、また英児特有の感覚触覚なのか彼は『すごく違う』と繰り返し琴子の肌をいっそう愛してくれる。『待っている時間もいいな。琴子が俺のために綺麗にして、こんな身体になって来てくれると思うとスゲーそそられる』。そう言ってこのごろは『俺、待っている』と寝室で大人しく待っていてくれる。
「こっち、来いよ」
ナイトテーブルにある灰皿に煙草を消した手を、裸になった琴子にさしのべる英児。
いつもならここで、裸でも厭わずに彼のところへ抱きついてしまう琴子だけれど。今日はちょっと違う気持――。
「琴子?」
ベッドサイドで、琴子は素肌に一枚の上着を羽織る。今日贈ってもらったばかりの『龍星轟の半袖ジャケット』。
裸になった身体にこれ一枚。それを羽織った姿で、大きなベッドで待っている彼のもとへ琴子は向かう。
今夜の琴子は英児の傍に寝そべらず、枕に背をもたれくつろいでいる彼を大胆にまたぐ。英児の身体の上、膝の上に座り込んだ。
「なんだよ。どうしたんだよ、こんなこと」
白い身体に紺色のジャケットを羽織っただけの女が、自分の身体に大胆にまたがっている。そしてその女が英児を見下ろし微笑んでいる。
どうして――と問いながらも、英児はもう嬉しそうに琴子を見つめてくれる。
「これで愛して。これを着たまま愛されたい」
そう言うと、英児はまたがっている琴子の胸元へと抱きついてきた。
窓からの青い夜明かりだけの部屋では、白い裸体と紺色ジャケットのコントラストは強く、ジャケットの開いている身ごろからは、琴子の白い乳房がつんと真っ白く際だつ妖艶な姿。そこに英児は頬を寄せて笑っている。
彼が胸元から離れ、上になっている琴子を見上げ頬に触れる。その手が指先がゆっくりと降りて琴子の唇に触れた。日々車を愛している指先が、ちょっと試すかのように琴子の唇を割り開こうとしている。いつもはキスで唇で舌先で、女の唇を奪う男。今夜は指先で琴子の唇を侵そうとする。そんな男の指先を、今夜は琴子がゆっくりと口に含んで甘噛みをする。まるでいつも奪われる仕返しをするかのように下になっている男を見下ろしながら噛んだ。男のどこか満足した悦びを滲ませる目元、それを見てさらに女は男の長くて太い煙草の匂いがする指をゆっくり吸って舐めた。
ふうっと英児がひと息。指先を愛撫される男のもう一つの手が、ゆっくりと琴子の乳房を包んで揉んだ。
「負けない女になってきたなあ……」
そう言いながら、英児の唇が今度は琴子の薄紅色の胸先を吸った。彼からの優しい反撃。切ない痺れに襲われ、琴子も堪らなく目をつむったが彼の指を離さなかった。
英児も負けない琴子が嬉しいのか、そのまま乳房を愛撫して離れなくなる。
英児は言う。可愛く愛されるだけの女じゃなくなってきた。少し前、彼が琴子を抱きながら狂おしい声でそう耳元で囁いたのを、しっかり覚えている。
タキタの女だもの。車だけじゃない。貴方にも乗り上げて、私、貴方のこと愛していく。
言葉にしないでそう見つめて心で唱える。それが、やっぱり英児の目にはちゃんと伝わる。
自分に乗り上げている、龍星轟のジャケットを羽織った白い裸体。英児はそんな女の肌を乳房からするりとなめらかに下へゆっくり撫でると、最後にジャケットの裾をまくり上げ、丸出しになっている白い小さな尻を両手で柔らかに掴んで笑った。
「間違いなく、これで完全に俺の女。龍星轟タキタの女ってわけだな」
「ほんとに?」
「ああ、車屋タキタの女だって、俺の女だって誰に言ってもいい」
僅かに潤んだ彼の漆黒の瞳。それを見て、琴子から英児の首元にきつく抱きついた。
熱く見つめあう一瞬、でもすぐにふたりは激しく深い口づけを繰り返した。
窓から木々のさざめきの風、僅かな夜明かりに忍びながら、裸の男とジャケットを羽織った女は熱く繋がって愛し合う。
遠く不如帰の鳴き声が聞こえる頃には、龍星轟のジャケットはベッドの片隅に。その傍で白い裸体だけになった女を胸の下に抱いた男が激しく絡んで、女を愛に鳴く声に変えていた。
Update/2011.6.15