××× ワイルドで行こう ×××

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 15.これで完全に、俺の女。 

 

 盆を過ぎれば少しは涼しくなるだろうが、それはもう少し先のこと。
 朝から一生懸命な蝉にせかされるようにして、琴子は今日もここにやってくる。
「おはようございます。お疲れ様でーす」
 店の裏から、事務所後ろ二階行きの階段がある通路から挨拶をする。
 仕事をしている彼等から、返事がある時もあれば、ない時もある。そして土曜の午前中、滝田店長の彼女がやってくるのはもう恒例。
 二階自宅への階段を上がろうとしたその時、事務所ドアから矢野さんが顔を出した。
「おっす、琴子」
「はい。おはようございます」
 琴子はにっこり。おじ様に笑顔を返す。この土曜の午前中に琴子が来たと知ったら、すっ飛んでくるのも恒例?
「今日の昼飯なに」
「暑いから、冷やし中華です」
 やった。と、ガッツポーズの矢野さん。
「今日も頼むわ〜、琴子ちゃん」
「琴子さーん、俺も食べたーい」
 ドアの向こうから姿見えない武智さんの声も届いた。
「はーい、了解です」
 琴子の返答に『お願いしますー』と声だけの返事。
「整備の清家さんと兵藤さんにも聞いておいてください。矢野さん、食費の集金をお願いしても良いですか」
「おう、任せろや。希望者のシフトも持っていくな」
 いつの間にか、こんな事も恒例に。毎回作るようになっているが、食べる食べないはそれぞれ。でもそれで何週かやってきた。
 英児も最初は『無理しなくて良いから』と言ってくれたが、それでなんとか店の雰囲気が良くなっているらしく、今はやってくれともやるなとも言わない。
「なあなあ、琴子。それはなんだ」
 話がまとまって、さあやっと二階へと思ったのに、まだ矢野さんに呼び止められる。矢野さんが気にしているのは、琴子が手に提げている箱。
「これですか。エスプレッソマシンです。自分で買ったはいいけれど、案外自分一人自宅ではあんまり使わなかったので、こちらならどうかなと思って」
『えー、俺、それ使ってみたい!』
 またドアの向こうから武智さんの声だけが届いた。
「あとで事務所休憩室に設置してみますね」
「それ、難しいのか? なあ、なあ、琴子。どうやって使うんだよ、なあなあ」
「ええっと。簡単ですから」
 エスプレッソマシンの箱を食い入るように見る矢野さんに苦笑い。もう二階に上がってもいいですか。そう言おうとした時だった。
「おい、じじい専務。なにダベってんだよ」
 ドアから、作業着の男性が現れる。矢野さんの作業着の襟首がぐいっと引っ張られた。
「おう、店長。彼女が来たぞ」
 誤魔化し笑顔の矢野さんだが、英児はキャップつばの影から矢野さんを睨んでいる。
「もうすぐ専務の客がくる時間だろ。あっちで準備」
「はいはいはい」
「おい、おっさん。俺がガキの時になんて叱ってくれたっけなあ。返事は?」
「はい、すみませんでした。社長さん」
 ぶすっとして矢野さんが行ってしまった。帽子のつばを降ろし睨んだ目元を隠すと、ふうっと英児が溜息。でも、次につばが上がると琴子をにっこり見つめてくれた。
「おはよう。悪いな、今日も」
「ううん、大丈夫。今日は冷やし中華。頑張ってね」
「美味そうだな。うん、行ってくる」
 ここが二階の自宅なら、すぐに飛びついてくる彼だけど。今は仕事中。きっぱりした背中でドアを出て……。ううん、やっぱり来てしまう。英児が事務所へのドアをパタリと閉め、琴子がいる階段の上がり口までやってきた。いつも通り……。階段の壁に腕を付いて琴子を囲って、強い押しのキスをしてくれる英児。琴子もそっと目をつむる。荷物で両手が塞がっているから、なにもかも英児にお任せにして。
「じゃあな。あとで」
 彼の唇が少しだけ離れる。
「うん。待っているね」
 それだけ聞き届けた英児に、また唇を塞がれてしまう。いつまでも一緒に唇から奥の奥まで愛し合う、短時間でも濃厚な。そろそろ火照ってきて、胸元から二人だけが知っているいつもの匂いが立ちのぼりそうな……。
 ねえ、きりがない。だって、私もいつまでもこうしていたくなるから。
 そう言わなくちゃ……と思った途端に、またそれが通じて聞こえたかのようにして、英児から離れていった。ドアを開けて事務所へ、滝田店長の真っ直ぐな背が消えていく。
 琴子が一人だけ。ちょっと火照った頬と身体の芯をじんわり熱くした余韻を堪能する。小さく甘い吐息をそっとこぼす。
「さあ、私も」
 ここは彼の職場であって自宅。上手く切り替えて過ごすことも、慣れてきた近頃。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 暑い真夏日だけれど、天気がよいから洗濯をする。ベッドのシーツを洗濯する。今日の一番のお楽しみはそれだった。
 キッチンに昼食の材料とエスプレッソマシンの箱を置くと、琴子はリビングを横切って奥にある扉を開ける。そこにはヒンヤリと影になっている廊下がある。そこにもう二部屋ある。ひとつは英児が書斎代わりに使っていて、もう一室はほとんど倉庫状態だった奥部屋。琴子はそこのドアを開ける。
 開けた途端、ざざっと夏の風が琴子を包んだ。もうちゃんと窓を開けてあり換気済みで、空気も爽やか。グリーンのシーツの上に英児が脱いだティシャツと短パン。そして部屋いっぱいに大きなベッド。
 初めてこの自宅で愛し合ったあの後直ぐ、数日後。二人で家具店に行ってベッドを買った。注文後、搬入まで少し待ち時間があったのだが、そのベッドが少し前この部屋にやってきたところ。倉庫だった部屋は、今はとても落ち着いたシックな寝室に様変わりしていた。
 やることが早い英児が、あっという間に倉庫状態だった部屋を整理整頓片づけてしまい、しかも仕事帰りの琴子を迎えに来ると真っ先に家具店に連れて行き、『琴子、どれにする。どれがいいか。デザインは琴子が選べよ。俺はすっげえでっかいベッドが欲しい』と言って、即決購入してくれたのだ。そのお店で、シーツも一緒に選んでこちらは琴子がこだわった。
 部屋いっぱいにクイーンサイズのベッド。『大きすぎない?』と琴子は案じたのだが『ちゃんと部屋に入るサイズ、計測済み』という程の手際で、とにかく英児は『でっかいのが欲しい』の一点張り。お望み通り、見事にそれを敢行したのだった。
 北欧風の落ち着いたローベッド。そこで今は二人で過ごし、英児が寝起きをする寝室になった。
 勿論、あのベッドはなくなった……。
 寝室は二人で相談しながらコーディネイトした。ベッドヘッドにはあのクッションにもなりそうな枕を、今度は四つも並べている。そして足下には英児が楽しむ小型テレビとDVDプレイヤーのラックも設置。暗がりの中、彼は眠る琴子の隣で、よく録画撮りしたレース番組をみて楽しんでいる。
 今日は、このベッドのシーツをまた新しく替える。だから、それを楽しみにしてきたのだった。
 英児と琴子は仕事が終わる時間に合わせ、カフェなどで落ち合う。その後、あちこち買い物に出かけたりもする。その買い物で、英児と一緒に洗い替えのシーツを選んだ。たいていは琴子が『これ良いわね』と手にとって眺め、英児がよほどに嫌でなければ『うん、いいな。この色も良い』と一緒に眺めてくれる。今日の夜は、英児と選んだ新しいシーツで過ごす。今度は熱帯夜を少しでも涼しく感じられるようにと、深いロイヤルブルーで揃えた。薄いジョーゼットのベッドカバーにアップシーツ、そしてさらりとした白いコットンシーツ。寝室が深海になるイメージだった。
 もう幾度も共にした新しいベッドのシーツをはいで、琴子は洗濯を始める。洗濯の物干場になるベランダがあるのは、あの団栗と百日紅の風がある裏側。洗濯ランドリーと直結していて使いやすいけど、日当たりは店舗側にあるため、生活感を見せてしまうベランダは裏側にあつらえてしまい、ちょっと日陰。それでも夏なのであっという間に乾くし、とても涼しい。
 シーツを洗い、新しいシーツに替え、また寝室が爽やかになる。琴子も自分のもう一つの場所になりそうな部屋を見て、どこかほっとする。
 この寝室のクローゼットにも琴子のお洒落着も数着、家事用のラフな服、そしてランジェリーもサンダルも。徐々に置いていくようになって増えている。洗面所には琴子の化粧品や、コンタクトの手入れ用品、歯ブラシに、お気に入りのタオルまで……。本当に、セカンドハウスのように自分の物が増えていた。
 ――『琴子が帰っても、琴子がいなくても。琴子がどこかにいる空気を感じている』。
 英児がそう言って満足そうに、新しくした寝室のベッドでくつろいでいる。奥部屋の寝室からは海は見えない。でも、団栗の葉がさざめく音と涼しい風が入ってくる。窓にはよく星と月も見える。淡いライトの中、あるいは外からの青い夜明かりだけで、大きなベッドで素肌になった二人は奔放に愛し合う。
 今日もその寝室で、琴子はポロシャツに七分丈のデニムスキニーパンツに着替え、家事を始める。
 
 お昼の時間になると、順次二階に冷やし中華を取りに来る整備員達。矢野さんもご機嫌で平らげてくれ、休憩室で食べ終わった食器もきちんと二階に返しに来てくれる。
「なあなあ、琴子。あれでアイスコーヒーとか作れるのか」
「出来ますよ。また休憩する時に教えてください」
 また喜んで仕事に戻っていく矢野さん。英児も続いて二階の自宅で食事を済ませ、ひととおり従業員の昼休みが落ち着いた頃。琴子は武智さんと一緒に事務所の隅にあるパーテーションで仕切られているだけの小さな休憩室にそのエスプレッソマシンを設置してみる。
「コーヒーの豆代がかかりそうだね」
 いざ使ってみて、それは美味しいが、業務用としてどうかという冷静な意見の武智さん。
「そこよね。カップにワンタッチセットができるお手軽なドリップコーヒーも浸透してきているものね。いま契約している業務用レンタルサーバーの月額の方がお手頃かもしれないわね」
「でも。この本物感はちょっと気分いいよね」
「そこは流石に、気分良くなるわよ。だけど家庭用でも同じなの。結局、コーヒー豆を揃えなくちゃならないし、一人で飲むには多すぎるし……」
「事務所用か、お客さん用にするか。豆を買ってきてある程度使ってみてから、コストの計算してみる」
「じゃあ、私が豆を適当に選んできてもいい?」
「うん。じゃあ、琴子さんに頼むよ。そこのあたり俺達、ちょっと疎いから」
 武智さんと事務所での接客用品などについて、最近はよく話し合う。車に夢中な男達が気にしない部分は、今まで武智さんが気を配ってきたとのこと。
 彼とは話しやすい。ほんのちょっとだけ年上で、この武智さんも『元ヤン』だったとか。つまり英児の後輩。そしてあの植木職人篠原さんと同級生だという。きちんと事務職を身につけたので、英児が店を開く時に手伝って欲しいと他でお勤めしていたところを引き抜いたとのこと。
 眼鏡をかけて、彼だけワイシャツとネクタイに作業着。英児や篠原さんと違って、そういう元ヤンの名残が見られなかったので、琴子はそれを知って驚いたほど。接し方もソフトでおおらかなので、とっても話しやすい。それに結構理数系らしく頭の回転も速そう――と琴子は感じていた。
 武智さんとそんな話し合いをしていると、店先で顧客の車を洗車していた英児が事務所に戻ってきて琴子を呼んだ。
「琴子、簡単なチェック教えてやるから」
 店長自ら? 琴子は驚きながらも、英児から借りている龍星轟の上着を羽織り店先に出てみる。
 シルビアをワックスがけさせてくれたあの後も、琴子は店の代車を使ってワックスがけを練習させてもらったりした。矢野さんが指導につくことが多い。どうしても『彼女、恋人』という先入観が働くので――という滝田店長からの要望だった。
 それなのに。この日は店長の彼自ら手ほどきしてくれるという。
 練習はなんと英児が洗車していた顧客の車。だが英児は黙ってボンネットを開け、ボンネット・ステイで支えエンジンルームを琴子に見せる。
 二人で並んで立つと、英児がエンジンルームを指さす。
「これがエンジン。そしてラジエーター、バッテリー、エンジンオイル……」
 各部位を教えてくれ、やがて彼の手がエンジンルームの端っこにある指ひとつぶんだけ入るリングに指を差し込んだ。それを引きあげると、とても長い鉄の平たい棒が出てくる。
「これは『オイルレベルゲージ』と言って、エンジンオイルの残量をチェックするものなんだ」
 鉄のゲージには、ぎらぎらと油がついている。それを琴子の目の前へと手を添えて見せてくる。
「正しい高位を計測するため、車体を水平に停車させている状態で計測。これは水平時の高位ではないので、ついてるオイルは一度拭き取る」
 彼の手にはペーパータオル。オイルがついたゲージを拭き取ると、また元の差し込み口へとギュッと戻した。
「計測前にゲージについている油は走行後のもので、水平時の物ではないので、拭き取ってもう一度ゲージをタンクへ戻す。これをしないで、最初引き抜いた状態の物で計測しないように」
 そしてもう一度、ゲージを引き抜く。
「この目盛りが上限、下限。この下限ライン付近を示していたら残量が僅かということ。それをチェックするゲージなんだ」
 琴子も頷く。
「だいたいがディーラー点検でオイル交換など一手にやってもらっている人がほとんどだと思う。でもそれ以上に車を気にかける車好きの男達がどうやって大事にしているかを、琴子には知っていてもらいたいんだ」
 何故、英児が自ら教えてくれたのか。やっとわかって琴子は嬉しくなる。『心臓のエンジンまで大事にする、車好きの男達』。細かな点検に、様々なカー用品を駆使する。女にはわからないかもしれない。でも知っていて欲しい――。車屋の女だから。そういう意味にとっても良いのだろうか? だとしたら、とても嬉しかった。琴子が知りたかったことを、店長の英児から教えてくれたから。
「次、ラジエーター。これはエンジンを冷やす冷却水が入っている。圧があるのでエンジンが熱いうちにこのキャップを開けるのは注意。これも交換する目安があって……」
 そんなエンジンルームの管理や部位、そして手入れの方法や交換の目安などを教えてくれる。
 龍星轟のキャップの影から覗く真剣な眼差し、紺色作業着で真摯に車に向かう男。滝田店長。
 その顔で教えてくれる英児の言葉にひとつひとつ頷き、琴子も真剣に聞いて覚える。
 これが英児の、車への気持、姿なのだと――。
 こうして琴子も徐々に龍星轟の空気に溶け込んでいける感触を噛みしめていた。
 従業員ではないけれど、このお店が好き。この店に彼の自宅に来たら、ちょっとだけお手伝い。出来る分だけ。そして出しゃばらない程度に。それを従業員も受け入れてくれていた。
 そしてなによりも、愛する男の精神に寄り添っていける実感があった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 そんな店長自らの、ちょっとした手ほどきを受けた夕だった。
 もうすぐ店を閉める時間。整備士がピットを片づけたり、武智さんが事務所を掃除したり。琴子も手伝っていると、外仕事の整備士達が事務所に続々と戻ってくる。
 最後は滝田店長を筆頭とする店じまいの挨拶を兼ねたミーティングがある。売り上げに、その日の注意点に反省点などなど。一日を皆でまとめるべく話し合う時間だった。
 それが始まると、琴子はすっと事務所裏のドアへと消えていくことにしている。そこは従業員の時間だから、首はつっこまない。そして二階自宅で英児の帰宅を待つ。そのパターンだった。
 なのにこの日。琴子が二階自宅へのドアノブに手をかけた途端、滝田店長に呼び止められた。
「琴子、ちょっといいかな」
 何事かと不可解に思いながら、でも琴子は滝田店長に呼ばれたそのまま、従業員が店長に向かって一列になっているところへ。一番端に武智さんがいる隣に並んでみたのだが、何故か皆が笑い出してしまう。
「あ、従業員じゃないのに。私、ここに立っちゃ駄目……だった?」
「従業員じゃないんだから。店長の隣でいいんだってば。もう店長が店先では冷たい顔をするから、琴子さんすっかり遠慮しちゃって」
 笑う武智さん。そして矢野さんまで。
「そうだ。琴子はさ。タキの嫁さんみたいに構えていたらいいんだからよー」
 また出た。矢野さんの、結婚を急かす親父みたいな嫁さん扱いが。でも、それも最近はよくからかわれることで、整備員の清家さんも兵藤さんも笑っている。
 しかしそこで何故か、矢野さんがとても落ち着きなくうずうずしていた。
「英児、早く。琴子にみせてやれよ」
 そしてそれは琴子の隣にいる武智さんも同じで。そして目の前にいる店長の、英児まで。
 やがて英児が、机の上に置いていた紙袋から何かを取り出した。それを机の上に広げ、琴子に見せた。
「これ。俺達、龍星轟メンバーから琴子へのプレゼント」
 それが何かわかった琴子は――。驚きすぎて息が止まったほど。滝田店長の彼を見上げて固まってしまう。
 『プレゼント』。それは、龍星轟の作業ジャケット一式とキャップ帽だった。袖にはちゃんとあのワッペンがついている。
「レディスサイズで初めて注文した。長袖、半袖。そしてポロシャツも特注してみた。キャップも琴子の小さな頭に合うはずだから」
 龍星轟の男達だけが着られるジャケット。今までは矢野さんや英児から借りて、ぶかぶかのジャケットを羽織り店先に出ていた。でも、これは琴子サイズ。琴子用!
「うそ、どうして。いいの? だって、これ……私みたいな素人……」
 英児はちょっと恥ずかしそうにして琴子と目を合わせてくれなかった。でも、武智さんも矢野さんも、清家さんも兵藤さんもにっこり琴子に微笑んでくれる。
「琴子。遠慮するな。おっちゃん達全員で相談して決めたことなんだからよ。受け取ってくれよ。お前が龍星轟を好きになって大事にしてくれる気持、おっちゃん達にも充分伝わってきたからさ」
 矢野さんの言葉にも、琴子は呆然とするばかり。それでも今度は英児から、龍星轟の制服一式を差し出してくれる。
「べつに従業員になってほしいわけじゃないんだよ、俺達。ただのお洒落で着てくれても嬉しいし、ただ、琴子の気持も俺達と一緒にこの店にある印というか」
 琴子もやっと、英児のデスクへと歩み寄り、ワッペンがついている上着を手に触れてみる。
 初めて見たのは、あの桜の夜。薄汚れた英児の上着に嫌悪を抱いたほどだった。でもそれは、男の汗と信念をしみこませた上着だと知った。車好きの男達が憧れるワッペンがそこにあると後で知った。でも、今は琴子の目の前にも……。
 その上着を英児が手に取った。半袖の上着。襟を持って広げる。
「着てみろよ」
 言われて。まだ戸惑うけど、琴子はこっくりと頷き、店長の前へ。彼の胸元、そこで彼の長い腕が琴子を囲いながら袖を通させてくれる。
「お、ピッタリだな!」
 矢野さんの笑顔。本当にピッタリだった。丈も、身ごろも、襟周りも。どこもぶかぶかじゃない。
「有り難うございます。すごく、嬉しい。大事にしますね」
 礼をすると、 武智さんが拍手までしてくれて。すると矢野さんや、清家さんに兵藤さんまで。
「いやー、ますます。タキタの女っぽくなってきたねえ」
「最近、聞かれるよなあ。店長の助手席に乗っている女性は彼女なのかって」
「めんどくせーなー。もうカミさん候補だって宣伝しておけや」
 矢野さんらしい物言いに、『急かすなよ。大事にしてあげてよ』、『そうだよ。急がなくてもいいじゃないか』などと整備士の兄貴二人。こちらは英児をよく見て、暴走する矢野さんを止めてくれる役目をわかっているようだった。
 確かに。嬉しいけれど、あまりにも入り込みすぎるのも良くないかもしれない。ふとそう思うこともある。なによりも――。琴子はそっと英児を見た。やっぱりちょっと困った顔をしている。でも、琴子と目が合うと嬉しそうに微笑んでくれる。
「よかったな。琴子」
「英児さん、有り難う。あの、本当にいいの? 迷惑じゃないの」
「うん。似合っている。一緒に着てくれるようになって嬉しいよ、俺」
 その笑顔に嘘は感じない。彼のそんな笑顔に歓迎されると、琴子もちょっぴり涙が滲んでしまうほど感動のプレゼント。
 でも戸惑う顔を見せていたのは何故か。琴子にはちゃんとわかっている。
 恋人の彼女が歓迎されて嬉しい彼氏としての気持ちは本物。でも、もし今の幸せな日々がある日突然なくなったら……? その落差は以前の苦い思い出以上になることだろう。英児はそれを恐れているから、全開で喜べないでいる。
 そんなことになりたくないと琴子も思っている。なるものかと。でも、そこは男と女。何が起きるかわからないことを、この歳になると苦いほど知り尽くしているから。だから最後の大きな一歩がなかなか踏み出せない警戒してしまうものなのだ。
 もう若さという勢いがないからこそ。私達は思いっきり喜べないでいる。どこかで冷めた心を保って。そうして今ある愛を守ろうとしているのだって。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 店を閉めた後、今夜の夕食は英児と車でドライブがてら出かけて外で楽しんだ。
 そしてまた、この二階自宅でふたり――。

 夜風にざざざっと団栗の葉のさざめく音が、昼間よりずっと近くに聞こえる。
 静かな郊外の空港町。ジェット機の飛行音もない、営業中の喧騒もない。風と葉と、そして時折夜鳥の鳴き声も遠く聞こえる。
 涼しい風が入るバスルーム傍の洗面所。風呂上がりの琴子はバスローブ姿で、あの寝室で彼とくつろぐ準備。
『琴子、まだなのか』
 廊下の向こうから、そんな彼の声。
 綺麗に汗を流したはずだけど、ぬるい湯船でゆったり暖めた身体は火照っている。少しだけ湿り気が残っている黒髪、しっとり柔らかくなった素肌。今夜も琴子は火照った肌にほんの少しの香りをまとって彼のもとへ。
 寝室に入ると、もう素肌になっている英児が新しいシーツの中、煙草片手にカーレースの録画を見ていた。暗がりの部屋にチカチカと光るテレビ画面。だが琴子が来ると、英児がすぐにぱちりと消してしまう。
 途端に暗くなる部屋。
 それを合図のようにして、琴子は暗がりのベッドサイドでバスローブを脱ぎ、ぱさりと床に落とす。窓からの青い夜明かりに、綺麗になったばかりの身体が白く浮かび上がる。
「ほんっとに長いな。女の子の風呂は」
「でも、そろそろ慣れたでしょう」
「まあな。それが俺も楽しみなんだから」
 暗がりの中、あの大きな枕に背を預けている英児が煙草を吸いながら笑う。
 半同棲のような日々。当然ながら、ふたりで愛しながら入浴を楽しむこともあった。だがある時、琴子が一人でゆったり入って念入りに『女の準備』をしてから英児の元へ行くと、彼が『全然、違う』と喜んでくれた時があった。肌の温度から、匂いから、柔らかさ。全てが違うと彼は言う。週末の念入りなお風呂なんて、女の子はよくすること。『今まで通りの入浴』をしただけなのに、また英児特有の感覚触覚なのか彼は『すごく違う』と繰り返し琴子の肌をいっそう愛してくれる。『待っている時間もいいな。琴子が俺のために綺麗にして、こんな身体になって来てくれると思うとスゲーそそられる』。そう言ってこのごろは『俺、待っている』と寝室で大人しく待っていてくれる。
「こっち、来いよ」
 ナイトテーブルにある灰皿に煙草を消した手を、裸になった琴子にさしのべる英児。
 いつもならここで、裸でも厭わずに彼のところへ抱きついてしまう琴子だけれど。今日はちょっと違う気持――。
「琴子?」
 ベッドサイドで、琴子は素肌に一枚の上着を羽織る。今日贈ってもらったばかりの『龍星轟の半袖ジャケット』。
 裸になった身体にこれ一枚。それを羽織った姿で、大きなベッドで待っている彼のもとへ琴子は向かう。
 今夜の琴子は英児の傍に寝そべらず、枕に背をもたれくつろいでいる彼を大胆にまたぐ。英児の身体の上、膝の上に座り込んだ。
「なんだよ。どうしたんだよ、こんなこと」
 白い身体に紺色のジャケットを羽織っただけの女が、自分の身体に大胆にまたがっている。そしてその女が英児を見下ろし微笑んでいる。
 どうして――と問いながらも、英児はもう嬉しそうに琴子を見つめてくれる。
「これで愛して。これを着たまま愛されたい」
 そう言うと、英児はまたがっている琴子の胸元へと抱きついてきた。
 窓からの青い夜明かりだけの部屋では、白い裸体と紺色ジャケットのコントラストは強く、ジャケットの開いている身ごろからは、琴子の白い乳房がつんと真っ白く際だつ妖艶な姿。そこに英児は頬を寄せて笑っている。
 彼が胸元から離れ、上になっている琴子を見上げ頬に触れる。その手が指先がゆっくりと降りて琴子の唇に触れた。日々車を愛している指先が、ちょっと試すかのように琴子の唇を割り開こうとしている。いつもはキスで唇で舌先で、女の唇を奪う男。今夜は指先で琴子の唇を侵そうとする。そんな男の指先を、今夜は琴子がゆっくりと口に含んで甘噛みをする。まるでいつも奪われる仕返しをするかのように下になっている男を見下ろしながら噛んだ。男のどこか満足した悦びを滲ませる目元、それを見てさらに女は男の長くて太い煙草の匂いがする指をゆっくり吸って舐めた。
 ふうっと英児がひと息。指先を愛撫される男のもう一つの手が、ゆっくりと琴子の乳房を包んで揉んだ。
「負けない女になってきたなあ……」
 そう言いながら、英児の唇が今度は琴子の薄紅色の胸先を吸った。彼からの優しい反撃。切ない痺れに襲われ、琴子も堪らなく目をつむったが彼の指を離さなかった。
 英児も負けない琴子が嬉しいのか、そのまま乳房を愛撫して離れなくなる。
 英児は言う。可愛く愛されるだけの女じゃなくなってきた。少し前、彼が琴子を抱きながら狂おしい声でそう耳元で囁いたのを、しっかり覚えている。
 タキタの女だもの。車だけじゃない。貴方にも乗り上げて、私、貴方のこと愛していく。
 言葉にしないでそう見つめて心で唱える。それが、やっぱり英児の目にはちゃんと伝わる。
 自分に乗り上げている、龍星轟のジャケットを羽織った白い裸体。英児はそんな女の肌を乳房からするりとなめらかに下へゆっくり撫でると、最後にジャケットの裾をまくり上げ、丸出しになっている白い小さな尻を両手で柔らかに掴んで笑った。
「間違いなく、これで完全に俺の女。龍星轟タキタの女ってわけだな」
「ほんとに?」
「ああ、車屋タキタの女だって、俺の女だって誰に言ってもいい」
 僅かに潤んだ彼の漆黒の瞳。それを見て、琴子から英児の首元にきつく抱きついた。
 熱く見つめあう一瞬、でもすぐにふたりは激しく深い口づけを繰り返した。

 窓から木々のさざめきの風、僅かな夜明かりに忍びながら、裸の男とジャケットを羽織った女は熱く繋がって愛し合う。
 遠く不如帰の鳴き声が聞こえる頃には、龍星轟のジャケットはベッドの片隅に。その傍で白い裸体だけになった女を胸の下に抱いた男が激しく絡んで、女を愛に鳴く声に変えていた。

 

 

 

 

Update/2011.6.15
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