××× ワイルドで行こう ×××

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 16.いつ、帰ってきた。 

 

 とりとめなく愛し合った翌朝は気怠い。
 さらに、真夏の朝は日射しも蝉の鳴き声も、そして肌にまとわりつく汗が浅い眠りを妨げる。
「う……ん」
 気持がよいのはサラサラしている新しいシーツと。そして甘い疼きが鈍く続く、昨夜愛された痕――。
 寝返りをうつと、ちょうどそこが日射しが入っているところ。まどろむ瞼に突き刺す真っ白い光。琴子は余計に唸ってしまう。うっすらと目を開けると、隣で寝ているはずの彼がいなかった。
 それでもここは彼の自宅だからどこかにいるのだろうと思い、日陰に寝返りまたうとうと。
 そのうちに近くで鳴いていた蝉がどこかに飛んでいった。その代わり、遠くシャワーの音が聞こえてくる。
 ああ、シャワーを浴びていたのね。……私も、浴びたいな。汗だらけ。それに、昨夜愛されて濡れたまま。
 それでもうとうと。シャワーの音がやみ、奥のバスルームからこの寝室前の廊下をリビングへと向かう足音。彼はもう起きて動いている。
 じっとりと湿気た黒髪をかきあげ、琴子はやっともっさりと起きあがる。
 素肌のままだし、髪も乱れている。こんな寝起きの顔、誰にも見せられない……はず。
「起きたか、琴子」
 寝室のドアが開き、そこでパンツ一枚、上半身裸で濡れ髪の彼が現れる。
「……起きた」
 英児が笑う。初めての寝起き……見られた。でも琴子も笑っていた。この野性的な彼にとっては、むちゃくちゃでぼさぼさになっている姿ですら『自然』なんだと愛してくれると知っているから。
「これ。食べるだろ」
 上半身裸のシャワー後の男。その男の片手に白い皿とグラス。それを彼がベッドテーブルを出して琴子の目の前に置く。
 白い皿にきちんと切り分けたオレンジと、琴子が好きなアイスティー。
「ありがとう……」
 独身の男が事足りる程度の家事で暮らしてきた彼だったから、彼女の幅広い家事を喜んでくれるこの頃。それでも、彼女が泊まった朝は男の彼からこんなことしてくれるなんて……。ちょっと感激の琴子。
 もさっとしたまま、裸のまま、琴子は手を伸ばしひとまずグラスのアイスティーを飲んだ。
 冷たくてすっきりして目が覚める。この家に通うようになって『自分用』に作り置いているドリンク。それを彼が目覚めの一杯として持ってきてくれる。
 そして英児は、そんな琴子を見つめて笑っている。まだ寝ぼけている琴子の傍、ベッドの縁に腰をかけた。英児の手が、起きあがったまま丸裸でベッドでグラスを傾けている琴子の黒髪を撫でる。くしゃっと乱れてもつれている黒髪を優しくなおしてくれる手つきに、琴子は胸が熱くなってしまう。
 寝起きの恋人を、愛猫のように撫でてくれるけれど。英児の笑みが、どうしてか申し訳なさそうに少しだけ曇ったのを見る。
「結局、お母さんに甘えちゃったな」
 その一言に、琴子も少しだけ黙ってしまう。
「大丈夫よ。母から『好きにしなさい』と言ってくれたんだから」
「うん。まあな、そうなんだけど……」
 娘を預けてもらえた男として、でも複雑な心境のよう。わからないでもない……。琴子も同じ心境でもあるから。
 少し前。週末も頑張って反対方面郊外の空港町まで通う娘を見て、母がついに『週末ぐらい、好きにしなさい』と言ってくれた。
 土日は必ず琴子から、英児の自宅へと通う。そして彼のお店を手伝ったり、自分も車に触ってみたいと頑張って磨いてみたり。そして夜はやっと彼とデート。夜遅く帰ってきて、せっかくの土曜日なのに疲れ果て、でも翌日日曜も同じように出かけて同じ事をして疲れて帰ってくる。そして月曜日……自分の仕事に出勤。
 そんな娘のハードスケジュールを暫く眺めていた母が『あんた。無理しないで少し休みなさいよ』と案じた。でも娘は行ってしまう。だけれど平日は恋人と会っても必ず帰ってくる。その内に『週末ぐらい、ゆっくり出来るよう好きにしなさい。平日帰ってくるなら、お母さん一晩ぐらい平気だから』と言い出したのだ。それしか言わなかったが、『一晩ぐらい平気。好きにしなさい』の裏の意味は琴子にもすぐに通じた。
 それを英児に知らせると、やはり『悪いなあ……』と戸惑っていたが。『でも。食事が終わって、俺の家でくつろいだ後、琴子すぐに眠ってしまうだろ。せっかくぐっすり眠っているのに、帰る時間だぞ――と、起こすのが可哀想でもあるんだよな。俺だってお前と朝まで眠りたい』。それも俺の気持ち、本心でもあると英児は言った。これまで英児は、どんなに夜中でも大内宅まできちんと琴子を送ってくれていた。だが、英児も琴子と同じ。母を独りにすまいと案じながらも、母の遠回しの許可を免罪符にしてしまったよう。昨夜は琴子を起こさずにそのままそっと眠らせてくれたようだった。
 オレンジをつまみ頬張りながら思う。それは琴子も同じ。このままずっと一緒にいたい、眠ってしまいたい。彼と朝を迎えたい。しかも気怠くぐったりとした朝を。それがいま、叶っている。
 英児も熱いコーヒーを一杯、自分で作って持ってくる。そして一緒に冷えたオレンジを頬張って笑顔を交わし合う。
 複雑な心境ではあっても、やはり『二人で迎えた初めての朝』は幸せ。英児もその気持には敵わないようで、もう何も言わなくなる。
 気持が切り替わったのか、英児はもう違うことを考えているとばかりに、琴子の傍で飲んでいたコーヒーカップをことりとベッドテーブルに置いた。
「琴子、いま、残業がきつそうだな。いつまで続くんだよ」
「うーん、お盆まで。夏商戦のラストスパートでいろいろ受注が多い時期なの。そろそろ静かになるはずなんだけど」
 月初めからまた残業続き。英児が迎えに来てくれるが、すぐに家に帰してもらっていた。だからこそ。この週末は二人とも離れがたかった――。だから泊まる気持に、泊める気持に傾いてしまったのだろう。
「あのさ。その盆が終わるまで、俺の店を手伝わなくていいから。もう今日はここに居てもいいから、ゆっくりしてろ」
 途端に神妙な顔つきになる英児。
「でも」
「盆休みはどうなっているんだよ」
 でも。『待っているだけでは退屈なんだもの』。彼女がそう言い出しそうであるのを察知してたのか、英児は琴子の次の言葉を強く遮った。
「俺、琴子の休みに合わせて、この店も盆休暇にするつもりだから。店の奴等にもそろそろスケジュールを教えてくれよと、せっつかれているんだけど。わかっている予定だけでも教えてくんねえかな」
 お店のみんなに関わる――と聞いて、琴子はすぐに枕元に置いていた白いハンドバッグを手に取った。
「そんな……。お店のお休みまで私に合わせてくれなくても……」
「納期期日に管理されている琴子より、俺の方がこの場合は調整がきくだろ。そろそろ聞いておこうと思ったんだ」
 慌ててスケジュール帳を取り出す。それをさっとベッドテーブルに開いて、八月の予定を眺める。
「ううんとね……」
 目を凝らした。コンタクトをしていないので、自分で書いた細かい文字がぼんやり。今度はバッグから眼鏡ケース。可愛い花柄と小鳥のお気に入りのケース。そこから眼鏡を取り出してかける。
「うん、大丈夫。暦通りに迎えられそう。迎え火から送り火まで」
 答えると、英児がじいっと琴子を見て黙っている。
「なに……」
「前から思っていたんだけどな」
 すごく真剣な顔。なにを言うのだろう。何を言われるのだろう。手伝いすぎだって、今日はなにもしないで俺を待っていろと今日こそなにかきつく言われるのかと琴子は構えた。
 英児が、やってくれともやるなとも、どちらとも言わなかったことを琴子も気にしていた。まるで本当に店長の目で、矢野さんに教わったとおり、新人の琴子がすることを『ひとまず眺めて様子見。判断はそれから』というスタンスで黙ってみている――そう感じていた。
 もしや。今日がその『判定の日』? でも昨日は、『琴子も龍星轟の仲間だ』とジャケットをプレゼントしてくれたばかり。それに、ジャケットを着たままの琴子を愛してくれたし、彼も嬉しそうにして『タキタの女だって誰に言っても良い』と言ってくれたのに?
 どうして。なにを言うの? 琴子はドキドキしながら、真剣な眼差しの英児を見つめ返すだけ……。それでも英児はずっと琴子をじいいっと穴が開くほど見ているから、間が持たなくなった琴子は、最後の一個になったオレンジをつまんでみる。
 やっと英児が口を開いた。
「エロいんだよな。それ」
「は?」
 英児が琴子を指さす。頭から丸裸の琴子をなぞるように。そして最後、琴子がかけてる眼鏡を指した。
「俺が憧れているOLのお姉ちゃんが、エレガントな手帳を広げて、乙女チックな眼鏡ケースから眼鏡をかけて。手帳を眺めて予定を言う。なのに、丸裸」
 やっと琴子もはっとする。確かに。裸で眼鏡。ぼさぼさの黒髪で、汗ばんだ素肌で淫らなまま。彼が大好きなOLのお姉ちゃんが、OLのような仕草をして、でも実は裸。琴子は見た、愛する彼の目がきらっと野性的に輝いたのを……。
「琴子」
「きゃっ」
 気がついた時にはもう遅い――。手早い野獣が、ベッドにあがると琴子に抱きついてそのまま押し倒していた。
「絶対に、俺になにかしろって誘っているだろ」
 押し倒されてすぐ、頬に耳元に首筋とあちこち吸い付かれる。
「もう、……英児っ」
 琴子の手には、最後のオレンジ。それを食べたいのに。愛されるならどこかに置きたいのに。でもここで手放したら新しく替えたばかりの白いシーツを汚してしまう。でも握っていると彼に抵抗が出来ない。
 琴子、琴子。そういって彼が、起きてからずっと露わにしたままだった乳房をいつものように両手で寄せ、その頂をちゅっと吸って遊び始める。
「ん、ん。もうっ……もう……負けないから」
 胸元で愛撫する彼にまた溶かされる前に、このオレンジをなんとかしてやろうと思った琴子は胸先からやってくる甘い痺れを堪えながら、眼鏡の目の前でオレンジの皮を剥く。
 はあはあと息が荒くなりながら、甘い快感で震えている指先で堪えながら、瑞々しい太陽色の果汁が滴る果肉を取り出しやっと口を開けて頬張った。
「俺が一生懸命やっているのに、なに他のことしているんだよ」
 そっちがいきなり抱きついてきて、よく言うわよ――と言い返したいが、いま、琴子の口は芳しいオレンジに独占されていてもぐもぐするだけ。口元を手で押さえて、とりあえずごっくんと飲み込んだ。
「どうしていつもいきなりなの、よ」
 だが英児もにっこり言い返してくる。
「どうしていつも、俺をその気にさせるんだよ」
 オレンジの香りがまだ漂っている唇を、いつも通りぐっと力強く塞がれる。
 英児の有無を言わせない激しい侵入。熱い舌があっというまに琴子の奥の奥まで愛してくれる……。ん、ん、と呻きながらも、やがて琴子も目をつむってうっとり、彼と一緒に舌先を絡めて愛し合ってしまう。
「いい匂いだ。オレンジの味も、する」
 うっすら瞼を開けると、愛する彼のうっとりした顔。琴子の唇をいつまでも愛して、そしてその大きな手が乱れている黒髪をまた愛おしそうに額でかき分け、眼鏡の瞳を見つめてくれている。
「眼鏡の琴子、すげえいい」
「そう……?」
「うん。すげえ、いい……」
 初めて眼鏡をかけた顔を見せた時もそうだった。残業が続く時はコンタクトではなく眼鏡にしているので、夜になって迎えに来てくれた英児がそんな眼鏡琴子に遭遇して、興奮してしまい困ったほど。『琴子、眼鏡かけるんだ。嘘だろ。俺、眼鏡の子大好き』と。なんでも高校生時代に好きだった子が眼鏡の女の子だったとか。元々、タイプらしい。それが今朝は丸裸で現れたので、もうどうしようもなく狼になってしまったよう。
 朝なのに突如として出現した狼さん。ついに彼の手がすっと足へと降りていく……。そこにはもう、熱く硬くしている彼の塊も目覚めていたのを、琴子の肌も気がついていた。
 彼の情熱の鉾先が、まだ昨夜の潤いを残している琴子の窪みに押し当てられる。彼がひとたび腰をくっとついただけで、琴子の中にするんと入ってきてしまう。結局のところ、英児をすっかり迎えられる身体になってしまっていたということ……。だからそこで、琴子も観念してしまう。
 朝の気怠い目覚めに、とりとめない交わり。夜の灼けるような激しさではなく、どこまでもゆるゆるとスローで、ある意味惰性的なゆるやかさ。
「あん、……いいの? 事務所、開ける時間……じゃないの?」
「大丈夫」
 ゆっくり腰を動かす英児の首に抱きついて、小さく柔らかに喘いで。
「でも、もう……こんな時間。みんなが、来ちゃう、でしょ」
「……今日はさ……、俺、半休もらって遅出……午後から」
「え、そうなの?」
「そう。だから琴子とゆっくり、こうして、」
 ゆっくりだけれど英児の腰が大きく弧を描いて入り込んでくるので、琴子も日射しの中、ゆっくり背を反り熱い息でそっとうめく。
 真っ白なシーツに日射しが照り返し、同じように、琴子の肌も今まで以上に真っ白に晒されていた。それを英児が狂おしい眼差しで見下ろし、そしてべたついている夏の肌をそれでも愛おしく撫でてくれる。
「琴子の、肌、こんなに、白かった、んだな」
 英児の吐息も熱い……。
 初めての朝。琴子も恥じらいもなく、燦々とした日射しのシーツの上で、身体を開く。英児にだけ、よ。英児だから。そっと心でそう呟いて、大きく開いた足に、腕に、胸元に、口元に、彼の全てを奥深く受け入れる。そのたびに、琴子は心の中で『愛してる、愛しているの、愛しているから』と囁いている。でもそれは、彼に愛される猫には鳴き声にしかなっていない。
 熱くて、蒸し暑くて。火照りすぎて目眩がしそうで。じっとりと目に見えない汗が肌に滲みはじめる。愛してくれる男の肉体が触れたらべったりと貼り付いて離さない肌になっている。
 朝のセックスは、あくまでゆっくり。英児も緩やかに琴子の中を出入りして、そしてじっくりと乳房を愛撫して、つんとしたままの胸先を優しく何度も吸ってくれる。
「日曜の恋人ってやつ、やろうぜ。外で昼飯食って、ドライブに行こう」
 明るい夏の日射しの中、いつまでも続く緩い愛撫に琴子もこっくりと頷く。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 気怠い朝の睦み合いの後、琴子もしっかり汗を流して、いつもの自分に戻る。
 黒髪を綺麗に整え、メイクをして、休日用のお洒落をする。今日は真っ白なシフォンブラウスに、ベージュのショートパンツ。それにヒール高めのエスニック風サンダル。
 寝室で身支度を終えリビングに行くと、煙草片手に新聞を読んでいる英児が待っている。
「支度できたか」
「うん。お待たせ」
 彼も、襟と袖口を紺色ラインで縁取っている白いポロシャツにデニムパンツと、いつもの姿だけど夏らしく爽やか。トワレをつけたばかりなのか、英児が動くだけで男っぽい香りが窓から入ってくる風にのって広がる。
 二人で一緒に、既に開店している龍星轟事務所へと降りる。英児からドアを開けた。でも事務所には武智さんだけ。
「うっす、武智。おはようさん。午後までよろしく頼むな」
「了解。いってらっしゃい店長。おはよう、琴子さん」
 英児宅に初めて泊まった女、その女の朝の顔。それを見られた気がして琴子はわずかに躊躇したものの、武智さんの眼鏡の笑顔があんまりにも爽やかなので自然に微笑んだ。
「おはようございます。店長をちょっとだけお借りしますね」
「あはは。土日に半休取るのは、俺も他のおじさん達もよくやっているから気にしないで。せっかくの日曜休暇だから楽しんできてたらいいよ」
 こういう人なんだなあと、いつものさりげない気遣いが武智さんらしい。
 英児はデスク後ろの壁に備えているキーを眺めている。
「今日はどの車にするか。琴子はどれに乗っていきたい」
 迷わずに答える。
「ゼット!」
「よし」
 英児がフェアレディZのキーを手にする。
 店先に銀色の車が出てきてから、琴子も事務所を飛び出す。
「おう、琴子。おっちゃんになんか美味いもん買ってきてくれよ」
「はーい、わかりました。店長をお借りしますね。行ってきます」
 ガレージから叫ぶ矢野さんに手を振って琴子は助手席へ。
 シートベルトをしている時に、英児がガレージにいる矢野さんを見ながらふと溜息をついた。
「親父なんだよ。琴子が頑張りすぎるから、一緒に休んでやれって半休を勧めたのは」
 それを聞いて、琴子はとてつもなく驚き固まった。
「そうなの。だから英児さん、私に『休め』と言い出したの?」
「いや、俺もそろそろ『力抜こうぜ』と言おうとは思っていたんだよ。でもさ、俺も琴子がどう考えているか、わかっちゃうんだよな。琴子がすげえ頑張り屋で頑張っちゃう女だって。ひとまず気が済むまでやらせてから、タイミングを見て息抜いてもらおうと思っていたんだよ」
 琴子の胸を、なにかが貫いていく――。それはやっぱり恋するまま大好きになってしまった彼と一緒にいたいと年甲斐もなく周りが見えなくなっている自分に気付かされたことや、そんな自分を穏やかに見守ってくれていたおじ様にお兄さん達が遠回しに気遣ってくれていたことや。そして何よりも、まだ付き合って間もないはずの恋人が既に『私のこと、よく知っている、見ている理解している男性』であったこと。それが涙が出るほど嬉しくもあって……。
「あの、そんな気を遣われるほど頑張っていたつもりなくて。でも、ごめんなさい」
 だけれど、英児もシートベルトを装着しながら笑っている。
「ごめんなさい、なんて言う程のことか? つーか、それが琴子だろ。初めて見た時だって疲れ切った顔で徹夜明け、慣れない暑さの中無理すんなと止めても、草引きやり遂げて。そんでもって最後は、俺の車を全部磨くと言い出してきかなくて。あの頑固な矢野じいまで巻き込みやがって」
 ゼットにエンジンがかかる。
「それが琴子だって。そんな琴子に俺は惚れたんだと思っているから」
 ハンドルを握った英児がアクセルを踏む。日曜の午前、龍星轟から銀色のゼットが青空の下飛び出した。
「……でも、反省。これからは店長を休ませてしまうような、行きすぎた頑張りはしません」
 嬉しさ反面、どうしようもない申し訳なさも。
「まあ、これからはたまには休む姿を見せた方がいいかもな。良い意味で『適当にやっている』ところを、琴子だからこそやってもいいと思うんだよ。店のヤツらも琴子はやる気になったらとことんやる女だって充分理解してくれてるみたいで。俺もさ、嬉しいんだけど。頑張り屋の彼女だって言ってもらえて」
「うん、わかりました。皆さんが安心してくれるようにやることにするわね」
「そっか。安心した。琴子だって自分の仕事を持っているんだからさ。平日の仕事中に倒れたとかされちゃあ、俺が三好さんに怒られてしまうもんな。それ困る。龍星轟には行くなとか言われそうで。三好さんにとっても、琴子は大事な戦力なんだからさ。力使うところ間違えるなよ」
「はい」
 やっぱり、彼はずっと大人だなと琴子は痛感。どんなにプライベートで悪ガキみたいに琴子にふざけてばかりいても、大人としてどうするべきか、押さえるところちゃんと押さえて。彼女が道筋を逸れそうになったらちゃんと見守って軌道修正のアドバイス。青空の国道を行くゼットの助手席で、琴子もほっと一息。
 ローからハイへ、英児の手がギアを軽やかに動かす。空港沿いの国道を唸るゼットが真っ直ぐ走る。
 彼と一緒にいるのは、この力強く走る車のがっしりとしたシートに座っているのと同じような気持になる安心感。
 そして今日はこの素晴らしい夏晴れの中、どこへ連れて行ってくれるのだろう。いつも知らないところへ連れて行ってくれる彼の運転に任せて、琴子の期待もふくらむ。
「さって。昼飯はあそこで食うか」
 いつもは郊外へ遠い町へと向かう傾向がある英児のドライブコース。なのにゼットがウィンカーを出したのは、この中心街のデパート駐車場。
 あら? なんだか英児らしくないんだけど?
 そう思ったけれど、銀色のフェアレディZは大手百貨店の立体駐車場へと入ってしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 すっごい拍子抜け。日曜の昼前、人が多い百貨店の中を彼と歩く。こんなふうに街中を英児と歩くのは初めて。……らしくない、絶対にらしくない。
 ああ、でも久しぶり。と琴子は辿り着いた百貨店内を見渡す。英児と出会ってから、こうした街中に出かけなくなったし、買い物もしなくなった気がする。
「実は、昼飯が目的ではないんだ」
 え。それなら、どうしてここに連れてきたのよ。
 そう言おうとしたら。この人混みの中、英児からぎゅっと手を繋いできたので、ぎょっとする琴子。嬉しいと言うより『なにをする気』という気持。真顔で黙っている英児の目が、琴子と手を繋いでデートなんて浮かれ眼差しではなかったから。
 案の定、強く手を引かれてどこかに連れて行かれる。
「え、なに。なに」
 英児はエスカレーターにさっさと乗って降りていく。人々の隙間をぬって迷いなく進む英児が、琴子の手を引いて辿り着いた場所。そこを知り、琴子は唖然とする。
 そこは、琴子いきつけのショップ。英児と初めて出会ったときに汚されてしまったパステルグリーンのコートを買ったところ。そして英児が替わりのトレンチコートを買い直してくれたお店。
「え、どうして」
 本当に何をしにきたの? 琴子はまだ飲み込めない。
 でも男の英児から堂々とショップへと入っていってしまった。
 見慣れたショップのスタッフが笑顔で『いらっしゃいませ』と言った途端、英児と琴子を見て驚いた顔。
 もう、それだけで琴子は逃げ出したくなった。大好きなお店だけれど、でも『いきさつ』を知られるのも説明するのも、たとえただの客でもそれはちょっと気恥ずかしいし、照れてしまうから。
 それなのに、英児は。
「その節はどうも」
「いらっしゃいませ。え、やはりコートを汚してしまった女性というのは琴子さんだったということですか。では、あれから……?」
 お洒落に決めている顔見知りのスタッフが、もうそれだけで察してくれた様子。
「おかげさまで。こちらのコートのおかげで、ね」
 全ては言わずとも、英児が意味深に笑っただけで、ショップのスタッフが『ええー、でも素敵!』と騒いだ。
「琴子さん、おひさしぶりですね。うちの商品がご縁を結んでくれたなんて嬉しい。どうぞご覧になっていってください」
 この時期、既にバーゲンで琴子もたくさん買い漁りに来るところなのに。今年はまったくその気になれず、そのままだった。
 それにしても。英児は何故、急にこのお店に来たのだろうか。
 いちいち店先で躊躇していると、男の英児の方がショップの中をうろうろ。奥の壁に並べられているワンピースを彼自らが眺めている。しかもそのうちの二、三着をハンガーごと取り出して、店の接客用ガラステーブルへと置いてしまう。
「これ、琴子が好きそうだな。それから、あれもかな」
 そう言って、彼からどんどん、棚にたたまれているカットソーからブラウス、そしてブティックハンガーに吊されているスカートまで次々にテーブルへと持っていく。
「すごい。あの、本当に琴子さんが選んでいるみたい……で……」
 琴子もびっくり。もし、これ全部買えるなら本当に全部欲しいというデザインの、琴子好みの服ばかり。
 そして英児が選ぶだけ選んで琴子に言った。
「だろ。俺、わかるんだ。琴子がどんなものが好きか。これ俺が買うから、琴子も好きなもの選べよ」
 全部俺が買ってやると言い出して、琴子は飛び上がる。
「ま、ま。待って。服ぐらい自分で買うから!」
「言うと思った。だから黙ってお前を無理矢理ここに連れてきたんだよ」
「どうして急に。こんなにいらないわよ。他にもたくさん持っているんだから」
「だってさ。お前、俺と付き合うようになってから、服を買っていないだろ」
「いつだってちゃんと欲しいときに買っています。ただ、今は、ちょっとだけ……」
 貴方といる時間に夢中だったから……。
 とてもじゃないけど、こんな人目があるところでは言えない。
「だってな、本当に俺が好きな服を琴子が好きなんだもんな。ちょっと試してみたかったんだよ。どれだけ俺と琴子の好みが合っているかってこと」
「それだけのために?」
 これは一種の遊びでやったのかと琴子はますます唖然とさせられる。
 でも少し違ったようで。英児はあの優しく滲む目尻の微笑みを静かに琴子に見せた。
「ジャケットは龍星轟スタッフから。これは、事務所の接客用品を改善してくれたり、店の代車とか俺の車を磨いてくれた彼女へのボーナス、バイト代。それでいいだろ。これぐらいはお前、働いてくれたよ」
「え、そんな。そんなつもりでやったんじゃないもの。好きでやったのに」
 それでも即決の男が、自分が選んだ服から何点か選り抜きスタッフに差し出す。接客する隙もない決断に、スタッフの彼女も口を開けて呆けている。
「琴子が選べないなら、これは絶対に着て欲しい服を俺が勝手に買うからな。これだけちょうだい。俺が彼女に着て欲しいから」
「あ、はい。えっと、お包みいたしますね。こちらにお座りになってお待ちください」
 そのガラステーブルにある猫足の椅子へと促され、英児は満足そうに座り、琴子は腑に落ちないまま隣に座った。
 スタッフの彼女がタグの半券をちぎり、電卓で会計をする。英児は財布からクレジットカードを差し出してそのまま支払ってしまう。
 スタッフの彼女が、ショップ外にあるフロア共通のレジへと向かっていった。ショップの中、二人きりになる。
「あの、有り難う。本当に着たい服ばかりでびっくりしちゃった」
 急に座っているソファーでわざとらしくふんぞり返った英児がニヤリと笑う。
「まあ、なんていうの。作業着で油まみれの俺だけど、洒落た店で男の甲斐性もやってみたいわけよ。ちょっとだけ良い気分にさせてくれよ」
 また、嘘。洒落た店で男の甲斐性を格好良くやってみたかったなんて。貴方はそんな男じゃない。甲斐性をここで感じる男じゃない。でもそう言えば、琴子が受け取ってくれると思っているのだろう。今度は琴子がわかりすぎてしまう。そんな彼の優しさとか嘘のつき方が……。
「明日から日替わりで着て、会いに行きます」
「よっしゃ。楽しみ。脱がすの」
「ほら。すぐにそういうこと言うの。本当はそれが目的なんじゃないのっ」
「あはは。そうです。それも目的です」
 開き直ったので、琴子は思わず彼をどつきたくなった。でも英児はケラケラと笑って楽しそう。結局そうして、悪ガキの英児に茶化されたままお終い、琴子も笑ってしまっている。
「買い終わったら、海まで走って外で昼飯食うか。やっぱここの店より、俺は外の店がいい」
「私も。外の風と緑の中に行きたい。時間が大丈夫なら、漁村のマスターのピザが食べたいな」
「大丈夫だろ。間に合う。じゃあ、そこで決まり」
 初めて一緒に食事をしたお店、そして……その夜、初めて。それを思い出したのか、二人の眼差しが熱っぽく見つめあう。賑わいの中だけれど、そっとテーブルの下で手と手を繋ぎ合う。
「お待たせ致しました。こちらにサインをお願いします」
 スタッフの彼女が帰ってきて、英児がボールペンでサインをしていた時だった。
「お忙しいところ、失礼致します」
 黒い制服のワンピースを着込んでいる他ブランドショップの店員が入っていた。
「あ、お疲れ様です。海藤店長」
 すっとした涼やかな佇まい、きりっとした横顔。一目で一階下のプレタポルテにあるショップスタッフだと判る凛々しい女性。所作から雰囲気からハイブランドスタッフの品格を感じさせた。
 だがそこで英児のサインをするペン先が止まったのを琴子は見た。彼がその女性を座っているソファーから見上げる。
「当店に来店されているお客様に同伴されていたお嬢様が、こちらでお母様と見られていたフリルのスカートと、当店のブラウスを合わせたいと仰っているので、お借りしたいのですが」
「どちらのお客様ですか」
 黒いワンピースの女性がその名を呟くと、ヤングブランドのスタッフである彼女もすぐに判った顔でスカートを取りに行く。
「ちえり、じゃないか」
 英児が呟いた言葉に、琴子ははっとする。彼が女性の名を言ったから。
 そして呼ばれた女性も、やっとそこにいる男性を見下ろした。そして、彼女もゆっくりと驚きの顔に変わっていく。
「英児……」
「いつ、帰ってきたんだ。神戸はどうした」
 英児の問いに、彼女が目を逸らした。
 そして英児も、そっと彼女から目線を外した。目が合うこと見つめることは耐え難そうにしている二人を見て、琴子もすぐに判った。
 ――この女性が、英児の元婚約者なのね。

 

 

 

 

Update/2011.6.23
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