こんなに落ち込んだ日だからこそ、静かな漁村の小さな店がいいのかも知れない。
「盆休み、どこか遠出するか。日帰りがいいよな」
「県外の島にいきたい。大橋をゼットで渡るの。フェリーにも乗りたい。それで島一周ドライブもいいわね」
「遠出をするならスカイラインがいいな。ゼットは思いっきり走れる道じゃないと重くてストレスを感じるんだ。広大な海外かサーキット向けで、日本の公道向けじゃないとも言われている」
「ええっ、そうなの」
琴子が驚くと、英児が笑う。
「でも俺が好きで、良い車だと思っているから手放せなくて」
「あの重厚な走行を感じると、私はエキサイトしちゃうんだけど。確かにそこからぐっと直線で伸びるとどうなるか感じることができる道は少なそうね」
「あ、琴子。だんだん車にはまってきたな」
この前と同じテーブル。今日はどこまでも青く広がる夏空と青い海を傍に、彼と微笑みあう。
元婚約者との突然の再会。そして、思わぬ動揺。
しかし、このお店に着いたときにはもう、いつもの彼に戻って琴子を笑わせてくれていた。そんな切り替えは流石早い……と思う。大人だから、ある程度は心と折り合いをつける術も持っているのだろう。
でも、琴子は思う。このきっぱり迷いない一直線の男があれだけ動揺したならば、『簡単に忘れられることではない』のだと。
それでも表面上、英児は元通りになって琴子の目の前で笑っている。
「おまたせ。ランチの、サンドセットね」
白髪のマスターがやってきて、二人揃って頼んだサンドセットのお皿を置いてくれる。
本日は、白身魚のフライサンドと、キャベツとにんじんのコールスロー。白いランチディッシュに盛られ、小さなココットの桃ゼリーもちょこんと乗せられていた。すべてマスター吟味の地元の食材、そしてマスターの手作り。
「ごゆっくり。食後にコーヒーをもってくるからね」
物静かなマスターは、その微笑みだけで語りかけてくれるような白髪の男性。だけれど背が高く身体もがっしりしている。もしかして元漁師なのかと思ってしまう。でも動きもゆっくりで、優しい熊さんという感じだった。
そのマスターが背を向けたとき、琴子はあることを思い出し呼び止めた。白髪のマスターがトレイを小脇に振り向く。
「あの、これ。お土産にできませんか」
矢野さんとの約束を忘れていなかった。だけれど突然の出来事があって『どこでお土産を買おうか』と考える間も余裕もなかった。
マスターがにっこり優しく笑う。
「出来るよ。同じものでいいんだね。ひとつかな」
図々しく、琴子はさらにお願いしてしまう。
「出来ましたら、四人分……」
ダメもとで頼み承知してもらったら、図々しくも多く注文するという……。でも琴子の脳裏には、一人事務所で黙々と数字とにらめっこしている眼鏡のお兄さんに、蒸し暑いピットで作業をしているおじ様にお兄さん二人。
でもそこで、マスターがはっと何かに気がついた顔に。
「もしかしてお店の彼等へお土産?」
こっくりと頷くと、マスターが英児を見た。店長の彼にスタッフにそれをしても良いのかと確認をとっているようだった。そして彼はちょっと困った顔をしている。
「こういう彼女なんだ。店の奴らともすっかり馴染んでくれて」
「へえ。そうなんだ」
今度はマスターが意外とでも言いたそうにして、琴子を見る。でもすぐにいつもの穏やかなにっこり笑顔に。
「いいよ。それなら僕からのご馳走ね」
琴子だけではなく英児もびっくりしたようで、二人揃って慌てる。
「ダメだよ、おっさん。ちゃんと商売しろよ。うちにきたってサービスなんかしないからな」
「そんなんじゃないよ」
「あの、私が余計なことを。本当にお土産として買っていきますから!」
「いいよ。どうせ『矢野君』が駄々をこねたんでしょ」
あの矢野さんを『矢野君』? 矢野さんが急に男の子に思えるような呼び方。琴子はその方が気になって言葉が続かなくなってしまう。
「休ませてやるから何か買ってこいって。相変わらず、気持ちが良い気遣いしてくれても表向きぶっきらぼうなんだよね。目に浮かぶよ。でも矢野君なら、フィッシュサンドよりホットドッグだよ」
矢野さんのこともよく知っているようで、琴子はますます驚いた。
そこで英児がちょっと笑った。
「あはは。だって、このマスターから見たら、矢野じいなんて『ガキ』だもんな」
「失礼な。そんなに年は離れていないよ。僕だけ年寄り扱いしないでくれる」
あの穏和なマスターが、ぷっと頬をふくらませる。なのに、それが愛らしく見えてしまい琴子はそっと笑ってしまった。
「俺から見たら、どっちも『じい』だよ」
「あーそう。やっぱり英児君に買っていってもらうことにしよう」
「だから、『買う』と言ってるだろ。親父も最初からそう言えよっ」
『はいはい』と、いつもの静かなお父さんの顔になってマスターが去っていった。
やっと二人で向き合って『いただきます』。サクッと頬張った音も、一緒に揃った。
「おいしー。もう隠れた名店ね」
この前は『焼きうどん』だったけれど、ランチは洒落ていてびっくり。それでも一発で気に入ってしまった。
琴子の喜ぶ顔に、英児の頬もほころぶ。やっと彼らしく砕けてきた気がする。やはりこのお店に無理に来て正解だったかもしれない。英児自身もわかっていたのだろうか。あのまま龍星轟に戻ってもつまらぬ事を考えるだけだと――。いつも通り、美味しいものは大口を開けて豪快に頬張る彼の姿が目の前にあって、琴子もほっとすることができる。
「俺がこの店を知ったのは、ずっと昔に矢野じいが連れてきてくれたからなんだ」
「そうだったの。じゃあ、元々、矢野さんの行きつけだったのね」
「矢野じいも走ってばかりいたらしいから、それでこの店を見つけたみたいで。開店当初からの客みたいなんだよな。いつも『不味い店』て言っていた」
こんな美味しいお店を『いつも不味い』と言うだなんて。流石に琴子も心外だが、でも……そこでおじ様のあの顔を思い浮かべると、なんだか『らしい』というか。
「でも今は『不味いけど、美味くなった店』と言うらしい。マスターの話では、矢野じい世代の走り屋やドライバー達の口コミで客が増えたらしいから、本当は最初から『美味かった』ということ。お互いに『悪い冗談』の意味をよくわかっていたんだろうな」
「じゃあ。ここは『おじさん達が繋いできたお店』なのね」
英児が見つけた店ではなかった。彼もまた『教えてもらって常連になった店』だった。
「矢野じい、きっと喜ぶな」
「じゃあ。最適のお土産だったということね」
途中で何故、土産も用意できなかったのか。そんなことさえも忘れ、もう二人で笑えた。
「おっさん、『買ってもらう』とは言っていたけど。きっと矢野じいへのご馳走として持たせると思うな。俺も時々『しばらく矢野君の顔を見ていないから渡して』――と持たされるから」
「えー。やっぱりそうなっちゃうの? なのに、私ったら……。矢野さんだけじゃなくて、他のスタッフさんの分まで頼んじゃって」
ああ、それで。琴子がお土産を頼んだとき、ちょっと困った顔をしたのは何故か理解した。あのマスターに頼むと『いいよ』と気前よく引き受けてしまうと英児はわかっていたのだと。
琴子は急いでランチを食べ始める。ようやく重苦しい空気をこのお店が払ってくれ、恋人同士『日曜ランチ』らしいムードになったのに。だから英児が眉をひそめ、琴子を眺めている。
「なんだよ、急に」
「うん、ちょっとね」
サンドを一つとサラダを食べ、季節の桃ゼリーだけはじっくりと味わって終わりにすることに。残りは琴子もお土産で包んでもらおうと思う。
「私、手伝ってくる」
席を立つと英児がぎょっとした顔で『ちょっと待て』と慌てて止めたのだが、琴子はそのままカウンターへと向かった。
レジがあるカウンターの内部をひょいとのぞくと、エプロン姿のマスターはパンをたくさん並べてせっせとサンド作りに励んでいた。
「あの、手伝います」
声をかけると、マスターまでぎょっとした顔に。
だけれど、入り口近くの席には壮年の夫妻がオーダー待ちをしているところ。どんなに客の出入りが緩やかでも、あれだけの美味しい料理をマスターが一人でじっくり作っているのだから暇というわけでもない。
マスターは戸惑った顔をしている。龍星轟にお土産を持たせたい気持ちも本物だけれど、やはり日曜の昼時、休日にこの店に来てくれる他の常連様もおろそかに出来ないから本心はアシスタントがあったら助かる――という迷いを見せているようにもみえた。
「おっさん。彼女、手伝わせてあげて」
頭の上から、英児の声。琴子の後ろに一緒に立って、でも致し方ない困った笑みを浮かべてマスターに頼んでくれる。
「彼女。俺の店でも『手伝う』と言い出してきかなかったんだよ。俺の車も店の代車も全部ワックスがけやったほど。彼女の師匠も矢野じい。師匠もお墨付きなんだ」
そんな紹介に、マスターも『それ、ほんとう?』とびっくりした顔。
でも、なに。そのちょっと扱いにくい子で困っているみたいな紹介。密かにむくれてみるだが、後ろにいる英児の両手が琴子の両肩を包んでいた。
「彼女、料理も上手いから手慣れていると思う。店の男共の飯も作ってくれるぐらいだから」
最後の一押し。今度はきちんと推薦してくれる。
「……爪、短くしているかな。マニキュアは塗っていないよね」
その問いの意味に驚き、でも琴子は慌ててマスターに手を差し出した。爪はちゃんと切っているし、マニキュアはあまりしないから塗っていない。その手を見せる。
するとマスターがにっこりと笑ってくれる。
「そこの棚に少し大きいかもしれないけど僕のエプロンがあるから使って。そしてそこの手洗い場の専用の石鹸で、手首までしっかり洗って」
「はい」
言われたとおりに古びた木棚に揃えられているエプロンを借り、綺麗に手を洗い、マスターの隣に並んだ。
「矢野君と清家君はホットドック。兵藤君はフィッシュサンド。武智君はクラブハウスサンドが好きだから」
その人それぞれの好物を、本当にその人のためのお土産として作ってくれようとしていたことに琴子は驚く。こんなの大変、無償でなんてとんでもない。もう何が何でも手伝う! 琴子は気合いを入れた。
「最初の一つ目を僕が作るから見ていて」
こっくりと頷くと、マスターがバターを塗り終えた食パンの上に、サニーレタス、オニオンスライスとトマト、ベーコンを手早く乗せて挟んでいく。次はフィッシュサンド。キャベツの千切り、魚のフライを乗せるとオーロラソースをかけ……。そうして一種一種の盛りつけを見せてくれる。
「お願いね」
それだけ言うと、パンの前から離れ奥の厨房へと行ってしまう。ようやっと他の客のオーダーに取りかかれたようだった。
無言でせっせと作っていると、コーヒーカップと琴子が残した皿を持って英児がカウンター席に移ってきた。
「これ。自分のも忘れずに持って帰れよ」
「うん」
なるべくマスターの手を煩わせないうちに終わらせて、他の客のために動いてもらおうと琴子も集中する。
だけれど、そんな琴子を英児がカウンター席からじっと見つめていることに気がついた。コーヒーを傍らに、そして穏やかな微笑み。
「本当に、琴子ってかんじだな」
すぐに『手伝う』とじっとしていない。そのことを言っているのだろう。
「三好親子が二代で手放さないはずだ。琴子はいろいろな部署に回されたと思っているかもしれないけど、俺は違うと思うな。琴子なら、なんでも真っ正面から真面目に取り組んでくれるとわかっていたんだよ」
「……なにも取り柄がないもの。与えられたこと、やっていかないと仕事なくなっちゃうもの。私なんて、特徴がないから辞めてもどこでも雇ってくれないだろうし」
でも英児は琴子を真顔で見ていった。
「俺なら。大内琴子さんが面接に来たら、一発で雇う。俺ならね」
調理をしている琴子の手が止まる……。女としてだけじゃない、生きている姿勢も彼は認めてくれている。匂いという動物的な勘で惹かれあったところもあるけれど、今度は恋人としてつきあってからの言葉。
嬉しかった。今日みたいな衝撃があった日だからこそ、嬉しかった。でも彼を見ると怖いくらい真剣な顔をしている。
「俺も、お前の傍にいるからな」
「……英児さん」
その裏に『もう過去は関係ない。気にするな』とほのめかしてくれているのが、琴子にも伝わってくる。
「うん。いてもらうんだから」
そう返すと、英児の方がほっとした顔になっている。
琴子の手で出来上がったお土産を、マスターが綺麗にペーパーボックスに詰めてくれる。
「ありがとう、手伝ってくれて。みんなによろしくね」
「こっちこそ。うちのスタッフが喜ぶものを持たせてくれてありがとな。また彼女と来る」
「うん。待っているよ。また英児君が楽しそうに彼女と来てくれて、おじさんも安心した。この前は『どーなのかなあ』という感じだったから」
恋人になる直前だった。まだここでは。マスターはちゃんと感じ取っていて、そして今日は正真正銘の『彼と彼女』に見えたよう。急に二人で照れくさくなってしまう。
「うっさいな。いつも余計なんだよ、見送りがっ」
「やんちゃだけど、大目に見てあげて」
また言われて、琴子は笑いながら今度は『はい』と答えた。
レジで見送ってくれる優しい笑顔は、月夜に初めてこの店に来たときと変わらない暖かさ。
英児もすっかり落ち着いて、リラックス出来たよう。この店はそんな店なのかもしれない。
真夏の青空が広がる海辺の駐車場にある銀色のフェアレディZに乗り込む。
ドアをバタンと閉め、ハンドルを握った英児がフロントに広がる漁村の海を見てつぶやいた。
「今日は、この店に来て正解だった。よっし、午後から仕事やるぞ」
その横顔はいつもの真っ直ぐで迷いなく突っ走る、英児らしさを見せていた。
それでも胸にある一抹の不安は消えず、龍星轟に戻ると琴子は『お土産』を手渡すふりをしてピットにいる矢野さんのところに向かう。
「漁村の親父のやつか。久しぶりだな!」
やっぱり喜んでくれて、琴子も嬉しい。
蒸し暑いピットには矢野さんと清家さんがいた。でも清家さんは奥にいたので、琴子は小さな声で矢野さんに耳打ちをする。
「あの、市駅のデパートで……その、」
英児に内緒で告げ口をしているみたいで躊躇った。でも、やはり心配だったのだ。意を決して琴子は告げる。
「千絵里さん、という方と会いました」
そう言っただけで、ご機嫌だった矢野さんの横顔がみるみる間に厳しく固まった。そしていつもの強面に。
「それで」
緊迫したその目に、琴子はやはり尋常ではない『過去の重さ』を感じ取った。
「漁村に行く途中、英児さんとても動揺していて。マスターに会って、少し落ち着いていつもの彼に戻ってくれたんだけれど。私、そんなに簡単なことではないのではと心配で……」
「そうか。わかった」
きりっと矢野さんの顔つきが変わった。これは気合いを入れていかねば……。そんな決意にも見える。
「琴子。大丈夫だからしっかりしな。本当に終わったことだし、元に戻れるような別れ方じゃなかったんだよ。元になんて戻ることないからよ。おっちゃんが保証する」
矢野さんの励ましはとても心強い。でもそんなことじゃなくて……。
「彼が動揺して、ピットで事故を起こしたり、お客様の車に不備がでないか……心配で。私より矢野さんだったら、英児さんをよく知っているだろうから……」
運転にはぬかりないはずの英児が、青信号に気がつかないほどぼうっとしていた。それがもし仕事場でもあったならば。それを心配している。
すると矢野さんが『お前、馬鹿だな』と口元を曲げ呆れた顔をした。でも、琴子を労るように肩を優しく撫でてくれた。
「ありがとな。英児を心配してくれて。わかったよ。店をやっている時は、おっちゃんがよく見ておくな」
琴子はほっと胸をなで下ろす。だが矢野さんはそんな琴子をどこか厳しく見ている。
「いいか。琴子も遠慮なんかすんなよ。絶対に遠慮なんかすんな。わかったな!」
どこか鬼気迫っていたので、琴子は無言でとにかく頷くことしかできなかった。
やはりこの『父親代わり』でもある矢野さんも、英児と千絵里さんの過去を目の当たりにしてきたのだと、琴子も肌でピリピリと感じ取る。
この矢野さんが、気を引き締めて向かおうとしているほどの『その過去』は、どれほどのものなのか。
「矢野じい。ただいま。俺がここに入るから、それ食ってこいよ」
作業着に着替えた英児がピットにやってきた。
「おお、そうか。じゃあ、馳走になるわ」
「えっと。私はお夕食のお買い物に、そこのスーパーに行って来るわね」
琴子と矢野さんは揃って、繕うような微笑みをなんとか見せてしまう。
「夕飯は、さっぱりがいいな。昼飯にフライを食ったから」
遠慮ない希望も、今では英児と琴子の間では当たり前。そんなところは『いつも通り』であってくれ、琴子も今度は心より微笑み返せる。
それから英児は。思ったほど、動揺を引きずることなく、いつも通りの彼に戻って『滝田店長』としての日々を邁進していた。
幾日か経って、神経を尖らせていた矢野さんが警戒を解くように言った。
――『琴子が傍にいることが、一番の薬だったのかもしれないな。これからも頼むな』。絶対に離れるなよ。念を押された。
そうであればいいのだけれど。ひとまず安心はしたが、琴子自身も決して『忘れはしない』だろう。
それはまだ終わっていないのだと。いちばん目の当たりにしたのは琴子なのだから。
―◆・◆・◆・◆・◆―
以来、『千絵里』という女性の影は薄れていく一方。
英児自身も一切ちらつかせないし匂わせない。矢野さんも警戒を解いてしまった。そして琴子も『もう私も気にしない方がよい。これからの二人のことだけを考えていけば……』と、密かに警戒していた心が緩みそうになっていた。
盆の迎え火をついに迎えていた。
毎年、両親と共にオガラに火をつける『迎え火』は必ず行っていた。今では『父を迎える』という気持ちが強く、そこは新盆を迎えた時から琴子にとっては大事な行事。
この日だけは母と一緒に一日を過ごし、父のことを語らう。英児もひとまず実家に帰ることにしているようだったが、やはり詳しくは彼からも話してはくれない。
家族とどれだけ上手くいっているのか。琴子はまだ知らない。だけれど矢野さんが案じている琴子を見抜いてくれたのか『大丈夫。あれでいて兄ちゃん二人と、義姉ちゃん達が助けてくれたり、案外可愛がってもらっているんだよ』と、そっと教えくれた。それならとりあえずは大丈夫なのだろうかと、琴子はひとまず安心して英児自身に過剰に触れないように努めた。
龍星轟でいつも抱き合って愛し合って夢中になる日々はひとまずお休み。互いの家族の元に戻り、亡き親を弔ってから会うことにした。
送り火を前に、二人で遠出をする約束。その日にやっと英児と琴子は再会。以前話し合った通りに、県外の大橋と島を目指してドライブに出かけた。
恋人になって初めての遠出。一日中二人きりで、作業着を着ていない英児と一緒に風を切るドライブを楽しんだ。琴子の希望通り、フェリーに乗って小島を一周。オリーブの丘を一緒に歩き、地元出身の元ホテルシェフが経営している小さなレストランでちょっと贅沢なランチコースを食べたり、土産店であれこれ選んだり。本当に恋人らしい一日を過ごした。
帰ってきたのは日が暮れてから。やはり二人が帰ってきたのは、龍星轟。英児の二階自宅。
彼の自宅に来たのも、泊まるつもりだった。盆休みで誰も出勤してこないし、明日一日お休み。遠出をした翌日は送り火をする夕まで、彼と過ごすことに決めていた。
互いに、この日まで家族とじっくりと向き合う盆を過ごしたので、今から本当に『二人きり』。
静かな郊外にある龍星轟の二階自宅。そこで琴子はいつもの週末のように、じっくりと入浴をして、遠出の疲れを癒す。
今夜はゆっくり、彼と眠ろう。
「お風呂、お先に」
寝室に戻ると、英児が窓辺で煙草を吸っていた。
いつもの遠い目をしていたので、琴子はドキリとする。
――何を考えているのだろう。
あの目の時は、いつも胸騒ぎが起こる。
「ああ、俺も入ってくる」
ガラスの灰皿に煙草を消し、いつになく神妙な彼が静かに寝室を出て行った。
ちょっと彼らしくないような気がした。いつもなら、風呂上がりの琴子を見たら悪ガキになって、茶化したり悪戯をして楽しみそうなのに。
でも、この時。英児の中で、彼が一人で真剣に何を思っていたのか。琴子はこのあとすぐ、知ることになる。
だから、それは琴子にとっては唐突だった。
先に入浴を済ませた琴子は、すっかり二人きりで過ごす部屋になった寝室で既に横になっていた。もう眠気が……。英二を待っている間に寝ないようにと、側にあるライトをつけていたものの、その柔らかで優しい灯りが余計に眠気を誘う。
ついにうとうとしていたのだろう。英児がいつこの寝室に戻ってきたのか判らなかった。
「琴子、琴子……」
耳元が熱くなる感覚と、身体に重みを感じて、琴子はうっすらと目覚める。
仄明るいライトが消され、部屋は青い薄闇の中。
そこにはもう、熱い肌で覆い被さる英児がいた。ぼんやりと目覚めたばかりの琴子の身体を既に上に向け、ショーツもキャミソールも脱がされている。胸元には柔らかい彼の黒髪がさわさわと触れてる。乳房にはきゅんと広がる甘い痛み。もう彼に愛されていた。
だが、何をされているのか気がついても、琴子はそのまま力がこもらない両腕を彼の背に回して抱きついた。
「ごめんなさい。いつの間にか眠っていたの……」
寝起きの掠れた声で囁くと、また熱い息を吐く英児の唇が琴子の耳をくすぐった。
「そのままにしてあげたかったけどな。でも俺……」
判っている。いつものようにそっと眠らせてはおけなかった、そんな彼が待ちきれずにいてくれた熱い気持ち。それが今、琴子の身体と肌にぶつけられている。乳房の先を強く愛される痺れに、吸い付くような彼の大きな手が肌を撫で回している。その狂おしくなる目覚めに、琴子は彼の胸の下で気怠くもがいた。
いつもの少し強引なキス。まだ気怠い琴子には、刺激の強い目覚ましだった。
「英児……」
彼の背に抱きついて、琴子も英児の肌に頬を寄せる。熱い肌と、そして……シャワーで汗を流してきたはずの男の身体から、あの匂い。その匂いを知って、琴子も徐々に覚醒する。
まだつきあって数ヶ月。でももう何度も何度も何度も、この彼と愛し合った。それこそもう何年も愛し合ってきたのだと思えるほどに。琴子自身、こんなに頻繁に肌を求め合う付き合い方は初めてだった。それまでの性生活は、あからさまにならないようどこか本心を隠して。女の本心を隠して慎ましく、最低限にを心得てきたと思う。厭らしい貪欲な女にみられないよう、でも愛してほしい気持ちを少しだけ匂わせて彼に気がついてもらう。……なんて。そんなもの、この動物的で素直な生き方をしている英児の前ではあっという間に砕け散った。会えばキスをして、会えばすぐに彼が琴子の服をめくる。乳房に触れて愛して愛されて。ベッドへたどり着くまでの駆け引きもない。だって英児がどこでも琴子に抱きついて、すぐに素肌を探して触ってしまうから。琴子も場所も厭わず、そんな彼の手を許して委ねて、自分も一緒に溶ける。
男と女が求め合うのに、時間をかける必要があるの? 欲しいから欲しいって求め合う。それが自然なんじゃないの?
今までが馬鹿馬鹿しくなるほど、頭や身体の奥に秘めていた女の性がこんなに恥じらいもなく覚醒していくのが、こんなにもキラキラ煌めいて思えるものだなんて。思わなかった……。煌めいても良いものなんだって。思わなかった。
「あっ、え、英児……っ」
何度愛されても。彼がどう愛してくれるか知り尽くしても。いつも通りの手順で愛されても。琴子の肌は湿り気を帯びいくらでも濡れていく。そしてきっと英児も、琴子の肌から上気するあの匂いを嗅ぎ分けて、もっと狂ってくれるはず。
琴子、すごいな。ほら、もう……。いつもの意地悪な囁き、そして意地悪な指先。とろとろに淫らに零れてきた琴子の甘い蜜をかき回して、英児は耳元で何度も囁く。
そんな彼ももう、琴子の蜜が溢れているそこで硬くして待ちかまえている。跳ねるようにそそり立つ男の情熱が、ちらちらと琴子の柔らかな肌に何度も触れた。
その男の情熱を片手に、男の愛撫にとろけて恍惚としている女に迫りながら、英児は喘ぐ琴子の耳元で聞いた。
「今日は危ない?」
熱い吐息を弾ませながら、英児が耳元でそっと聞いたこと。でも琴子は驚かない。たまに英児が尋ねることだったから、正直に告げる。
「うん……。どちらかというと危ない時期」
いつも通りに答えた。そうすれば気持ちがどんなに盛り上がっていても、英児は諦めてきちんとしてくれる。今までそうだった。
「琴子――」
『あっ』。琴子の中に、吸い付くような熱い感覚――。肌の暖かみ。
不意をつかれ、琴子はしばし茫然としてしまった。
この日は危ないのかどうか。英児は尋ねて答えをきちんと聞いた上で、琴子の中に素肌で入り込んできた。
琴子をすべてを奪う気迫を見せてはいるけれど、英児は乱暴にはしなかった。ただ、そのまま入ってきただけで止まっている。そして琴子の乱れている黒髪を頬からのけて、しっかりと瞳を見つめてくれている。
「嫌だった……?」
どう答えて良いかわからなかった。でも……嫌じゃない。だって初めてじゃない。初めて抱き合ったあの月夜だって、こうして皮膚と皮膚が溶けあって一つになるような感覚に二人で燃えて熱く愛し合ったのだから。
許されるなら、いつだってこうしてなんの邪魔もなくベールもなく、彼の熱い皮膚とくっついて愛し合いたい。本当の体温で愛し合いたい。でも、それは……。
戸惑っている琴子に、英児が今夜はとても優しい口づけをしてくれた。
「お前とずっとこうしてひとつになって、それで家族になりたい」
琴子はもっと驚いて、目を見開き英児をまじまじと見返した。
「どうしちゃったの」
でも。唇を塞がれる。そして英児がついに奥へ奥へと入り込んでしまう。
そのまま最後まで愛され抜かれたら……。その先に、確かに『家族』が見えてくる。
怯むことなく、でもじっくりと琴子を愛し続ける英児が囁き続ける。
「俺は今すぐでも構わない」
それは紛れもないプロポーズなのではないか。不確かだけれど、琴子にはそう感じた。
彼らしい。世に言われる女が喜ぶようなムードを作らず、こんな、こんな、本能的な愛を分かち合っているときに投げかけるだなんて。でも確かに男と女が何故結ばれるのか、その本質を目の前にして彼女と共に生きていくことを申し込んでいる。本当になんて動物的で野性的で、でも確かに本質通りで……。
「俺はお前と暮らしたい」
まだ琴子の答えなど気持ちなど確かめていないのに、英児はいつも琴子を泣かせるような激しさで愛し始めている。
でも琴子はもう泣いていた。涙がぽろりとこぼれて、やっと英児が我に返ってくれる。
「俺、また。勝手に……」
本当に彼らしい。琴子の気持ちも聞かないで、俺の気持ちをぶつけてしまうところ。そして琴子も……どうしようもない、琴子も同じ。いつもと同じ。こんな一方的で強引な男の首に抱きついて、今度は琴子から口づける。
「英児、来て。そのままいつも通りに。愛して」
それが琴子の答え。いつも通りに愛して。でも今夜、私も覚悟できているから。
――家族になろう。
そっと囁きあい、いつも以上に互いの身体を強く抱き寄せる。
その寄せ合う強さも、ただ情熱的に愛し合っている恋人同士とはどこか違った。
繋がるそこを押し付け合い擦りつけあい、どうすれば男と女の本当の目的が果たされるのか。二人でそんな途方もない見えない何かを掴みに挑むようなそんな意志を貫くような愛し方だった。
ぐんぐんと押し込んでくる英児の背中を強く抱き寄せ、琴子は爪を立てて喘いだ。
英児の息づかいもいつもと違う。歯を食いしばって、身体中から溢れ出てくるあらん限りの男の力をすべて、琴子の中に注ぎ込もうとしている。そんな激しさ。
「あ、ああ……ああっん。英児、英児……もうっ」
ただ涙をこぼして、琴子も首を振る。
「琴子、いくぞ」
はあはあと息も絶え絶えになってきた英児の額には玉汗が浮かんでいた。琴子も涙ぐんだ目で彼を見つめ、こっくりと頷く。
――これで本当に、私たち。一緒になる。そして、もしかしたら。
琴子の首元に顔を埋め、ただひたすら男の行為に集中する英児を抱きしめる。耳元に我を忘れた男の喘ぎ声が、琴子の胸を熱く貫く――。
「はあ、琴子、琴……」
琴子も目をつむった。奥に熱く注ぎ込まれるその感触を待って……。そうしたら私と貴方の家族が……。とてもドキドキした。
『カチャリ』。
微かな異音? 男と女の湿った空気が二人きりの部屋いっぱいに取り巻く中、なんだか小さく乾いた音。
それは気のせいではなく、英児も気がついたよう。あんなに夢中になっていたのにピタリと彼の動きが止まる。こんな暗闇の中でも英児は何かを察知した夜行性の生き物のよう。素早くタオルケットを引き寄せ琴子の裸体を隠した。
その尋常じゃない警戒した目線が、この寝室のドアへと向けられる。
嘘――。二人だけしかいないはずの彼の自宅に、もう一人誰かがいる!?
恐ろしく警戒した英児の眼差しの先、そこに『人影』。琴子の心臓が止まりそうになる。確かにドアのそこに人がいるのを見たから。
そして英児がもっと信じられないことを薄闇でつぶやいた。
「……千絵里?」
もう琴子は息が止まる! 彼とこんなにも裸で愛し合っている今、彼の自宅の寝室に、どうして彼の元婚約者がいるの!?
その人影がさっと気配を消した。
「待て……!」
混乱している琴子の目の前で、英児はとりあえずパンツを履いて飛び出していった。
『待て、千絵里!』
英児が大声を張り上げて彼女を捕まえようとしているのが、ここまで響いてきた。
一人ベッドに取り残された琴子はまだ良く飲み込めず、震えていた。
つい先ほどまで、あんなに彼と今まで以上に……。これからだった。もうすぐだった。『一緒になろう。これからずっと一緒に暮らしていこう』と約束の印を得ようと愛し合っていたのに。
息が激しく乱れて気が遠くなりそうだった。でも琴子も胸を荒げながらも、徐々に冷静になる。どうして彼女がここにいたのか。どうしてこの家に入ることが出来たのか。
とにかく。琴子も側にあったブラウスを羽織って、ようやくベッドから降りる。寝室を出て、灯りがついているリビングのドアの前でそっとのぞいた。
そこには本当に、あの彼女がいた。そして英児がそんな彼女の腕を掴んで睨んでいるところ。
「まだ持っていたのか」
何故、彼女がこの家にいたのか。琴子がやっと思いついたことを英児が言った。
「鍵、返してくれ」
英児はすぐに思いついて、だから彼女を逃がさないよう必死で追いかけて捕まえた。
このまま帰しては、またいつその鍵で無断侵入してくるかわからないだろうから、英児も必死に彼女をひっつかまえている。
だが彼女の方は項垂れながらも、暴れたりなどしなかった。むしろ琴子には『英児に捕まえて欲しかった』ように見えてしまった。
そして彼女も叫んだ。
「ここは、私が暮らすはずだった家よ! 私のベッドもあったはずよ! あの彼女とあのベッドで愛し合っていたの? あのベッドは私が選んだのに!」
思った。どこも終わってなんかいない。
彼女の中では、彼の新しい自宅も、鍵も、ベッドも。すべて別れたときのまま生きている。
そんな彼女が英児に抱きついて泣きわめいた。
「ここは私の家なのよ。貴方が私と暮らすために作ってくれた家なのよ! 彼女と愛し合うなら、この家を壊して余所でやって!」
「千絵里」
彼が少しだけ。泣き崩れた元婚約者の身体を支えた。それだけでも、琴子の胸は張り裂けそうになる。
踏み込めなかった。わんわんと泣いている彼女を胸にしている彼。そこはずっと何年も前に引き戻された二人がいる。その時、琴子はいない。そして今も琴子はそこに行けない、入れない。
Update/2011.7.11