××× ワイルドで行こう ×××

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 20.ほんとうに、ごめんな。 

 

 いい加減に、起きなさいよ。
 二階の部屋でぐったり横になっていると、急にドアが開いて琴子はびくっと飛び起きる。
「お、お、お母さんっ」
 足が悪い母が、一人で階段をあがってくるのは余程のこと。いつもは電話子機の内線を使っているのに。ううん、そうではなくて……。
「なに。そんな驚いた顔で。もうお昼になるんだけど」
 だが母は琴子の異変に気がついた。
「……顔色悪いね。琴子、具合悪かったの? だから今日は英児君のところに行かないの?」
 青ざめた顔でもしていたのだろう。母の顔色も途端に曇ったので、琴子は慌てて繕う。
「う、うん。昨日、大橋と島まで回って……。ランチも食べて、帰り際にも善通寺で頑張ってうどんも食べちゃったから。胃の調子が……」
「英児君は」
「うーん。ゆっくり休んで、明日からの仕事に備えろって言ってくれたわよ」
「ふうん……。今夜、うちに誘う? 夕食」
「だめ。彼も今夜は実家で送り火だって」
 とことん嘘をつく。でも母は見透かしたように、じっと琴子を見ている。
「明日から仕事でしょ。いま寝ると、夜寝られなくなるからね」
「はあい」
 訝しそうな母が出て行き、琴子は震える息をやっとはいていた。
 ――駄目だ。まだ生々しすぎる。
 すっかり安心しきっているところへ、急にドアが開いて人がやってくる。
 昨夜のあの暗がりの中のことを思い返すと、こんなに暑く茹だるほどの部屋なのに、ぞっと寒気がした。
 でもこのままだらけていても、なんだか惨めだった。
 起きて、シャワーを浴びて。これでもかというほど、スペシャルに肌のお手入れをして。部屋の中なのにお気に入りのワンピースを着て、わざとお洒落をする。
 それだけで気分が良くなってくる。暑いけれど、外の空は快晴。青い夏空。でもちょっと向こうに厚みのある雲。もしかして……夕立?
 ……夕立。
 この家の庭だった。男の艶っぽい匂いに目覚めたのは。
 部屋の窓辺で琴子はため息をこぼす……。
 駄目だ。やっぱり……。一時も忘れられない。英児が寂しがり屋? 私だってこんなに寂しい。彼のこと言えない。琴子は自分で自分を抱きしめる。離れていても感じることができた『英児の温度』がいまはない。夏なのに寒い、隣をすがる空気が冷たく思える。
 今になって後悔している。英児を置いてきてしまった。どんなことがあっても傍にいると何度も言ったのに。喜んでくれたのに。
 昨夜だって『お前と暮らしたい』と言ってくれたのに。それまで彼に何があったかも、なにが彼に結婚を決意させ後押ししたかももう関係ない。結婚をほのめかされると困った顔をしていた彼が、本当は琴子以上に重いものを持ったままだった彼が、やっと琴子を隣に歩こうとしてくれていたのに。
 だけれど。琴子と英児の意志を貫いたら、進めない人がいる。自分より先に英児の傍にいた人が進めないと英児も進めない。それは『先に愛し合っていた者同士』でやらねばならないこと、居場所がないのに無理に入り込んではやはり前に進まない。彼女が今いる場所は、本当は琴子の居場所。でも前は彼女の居場所。たったひとつしかない場所を押したり押し返したりして奪い合っても……。なにが生まれるというのだろう。女同士憎みあって奪い合っている間に時間だけが無駄に過ぎていくだけになるだろう。
 数年前に戻らなくては英児が進まないなら、琴子はそこにいてはいけない。『いないはずの、後から来た女』だから。
 それなら。英児を信じて待っている。退いて、その場所を彼女に一時返して、数年前に戻ってもう一度向き合ってもらう。
 大丈夫……。英児はあんなに愛してくれたんだから。そして琴子も、愛された痕をたくさん感じている。
 でも……。やはり涙が溢れてきた。
 夏空の窓辺で、琴子は探している。あの匂いとか、あの目とか、そして体温。頼りがいある兄貴なのに、時々とってもイタズラな笑顔。そして寂しそうな横顔、遠い黒い目。
 山間の空が暗くなっている。まだここは青空だけれど、そのうちに本当に夕立がくるだろう。
 もう既に遠くから雷鳴が聞こえてきていた。

 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 思った通り。母と昼食をすませたら、どしゃぶりの雷雨。
「やだねえ。夕方までになんとか止んで欲しいわね。送り火ができないじゃない」
「止むわよ。いつもそうじゃない」
 ほんとうに嫌な夕立。あの日と同じ……。思い出さずにいられない。
「部屋にいるね」
 少しでも母に気づかれてはいけないとおもい、琴子は二階の部屋に戻る。
 でも少し自分も落ち着いてきた気がした。そこでやっと、電源を切ったままの携帯電話をバッグから取り出した。
 電源を入れたら……。着信履歴がどうなっているのか。メールもどれだけ着信しているのか。それとも直ぐにかかってくるのだろうか。
 怖かった。どうしてだろう。それでも彼と連絡が取りたいのに。また彼と会いたくなるから? いや、会うと……あの女の人にまた関わらなくてはいけないから?
 でもそれって……。既に琴子も逃げている。英児に『貴方がお片づけしてよ。私、知らない』と丸投げして逃げてきただけになる。ただでさえ、傍にいるね――という言葉を裏切ってきたのに。
 だから、思い切って電源を入れてみる。
 メールなし、着信一件、留守電あり……だった。
 思ったより『あっさり』していて、何度も何度も連絡をしてくれただろうと思っていた自分が『思い上がっている』ように感じてしまったほど恥ずかしくなった。そして、すごく拍子抜け。
 だけれど、何を言い残してくれたのか。たった一件の着信と留守電。それを琴子は再生してみる。
『琴子、ごめんな。ほんとうに、ごめんな』
 苦しそうで泣きそうに震えている英児の声に、琴子の心は痛む。こんな苦しんでいる人をたった一人置いてきてしまった……のだと……。胸が締め付けられた。
『矢野じいから聞いた。琴子が言いたいこと、うん、……わかった。……あのな……』
 どうしたんだろう。彼らしくない歯切れの悪さに、琴子は違和感を持つ。
 しかも沈黙が暫し。様子がおかしかった。
『言うとおり、一筋縄ではいかないかもしれない。でも心配するな。また連絡する』
 それだけ言うと、ぷっつりと切れてしまった。
 英児はなんでもすっぱりしているはずだから、何度も着信を残すような連絡をするぐらいなら、たった一度の連絡で。でも、そのたった一度できっちり伝える。そんな気がする『たった一件の着信』。それに伝言も短い。でも琴子は『心配するな。また連絡する』の一言だけで締め付けられていた胸が、ふわっと緩んだ気がした。
 ――ごめんな。ほんとうに、ごめんな。
 たった一言。それをもう一度再生して、琴子はひとり頷いた。そこに彼がいるかのように、頷いた。
 それだけで。昨夜の嫌なことが少しだけ薄れていくような気がした。
 ――心配するな。また連絡をする。
 短い伝言。彼らしい……。
 でもそれだけで、離れていても繋がっているように感じられた。
 やっと、隣の空気が暖まってきたように思えた……。
 電話を返したいけれど。『一筋縄ではいかない』と言っていた。まだ、千絵里さんと向き合っている最中。そこへ琴子が連絡をしたら……。
 なんでだろう。まるで自分が彼を寝取った愛人みたいな……。でも琴子はその悔しさを、『後に愛された女』の悔しさをかみしめ、何とか堪えた。
 大丈夫、私も。待っている。
 もう一度言いたかった……。
 置いてきて、ごめんね。傍にいられなくて。許して。嘘を言ったこと。
 そう伝言に残したい。
 だけれど。やはりいまはそっとしておくのがいい気がした。
 鍵を使って侵入してきたほどの女性。触ればまた何が起きるか恐ろしくて……。
 雷の音が真上で響く。いま、どしゃぶりの中にいる、私たち。でも隣は暖かい。
 そっとそっと思い出す。夕立の彼の匂いを――。
 
 予想通り、夕方になると雨が止み、雷鳴は遠のき、雲間から夏の光が差し込んできた。
 庭の木に止まった蝉がまた鳴き始め、徐々に外は晴天の活気を取り戻す。
 その時には琴子はもう。机の上にあるパソコンを立ち上げ、あるものを調べることに没頭していた。
 ――決めた。英児が頑張っている間。私も頑張ろう。
「お母さん、雨あがったでしょう。送り火を焚こう」
 琴子から声をかける。母のほっとした顔に、琴子も微笑む。
 そして。厳かながらも賑やかに飾られた盆棚にある父の遺影にも。
 もう二度と。あんな落ち込んだ暗い日々に戻りたくない。
 お父さん。彼のお陰でせっかく立ち直ったから。お母さんと元気にやっていくからね。
 だから。安心して帰っていいよ。また来年。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 あることを心に決めていた琴子は、それからいつも通りの日常を過ごしていた。
 ただ、毎日会うようになっていた彼がいないだけ。それだけを思うと、別れたわけでもないのに大きな喪失感。その苦しさが心を雁字搦めにしてしまう前に琴子は首を振った。『それだけじゃない』と。
 心に決めたことが琴子を支えようとしていた。
 盆明け。会社も業務再開。しかし盆前の忙しさが嘘のように、受注ががくんと減る。しかしこれは毎年恒例のこと。業界の『二八』(二月と八月は売り上げが落ちる)の余波がこちらにもくる。本当に忙しい時はとことん詰めに詰め込まれるスケジュールに忙殺されるが、ない時はとことん何もやることがない業界でもあった。
 だけれど。ここが琴子にとってもチャンス。仕事ではない自分のことを何かするなら、この時期だった。毎年ここでまとめて有給休暇を取っては旅行をしたりなどをしてきた。
 ここで動こうと決めていた。その想いだけが、英児がいない日々を支えている。だって……これは英児にも繋がっていることだから。
 この日も会社は定時で終わった。空が明るいうちに、琴子は郊外電車の駅を目指す。
 ――いつもだったら。英児が待ち合わせはここと決めていたカフェで待ってくれているか、この駅の近くで車を止めて待ってくれているか。
 でも……。やっぱり。いつもの場所に、黒い車はなかった。
 あれから、数日。そんなに千絵里さんとこじれているのか。それとも……。琴子は考えたくないことを考えてしまう。目をつむり、そんなことは絶対にないと言い聞かせる。
「おい、琴子」
 え? 彼はいないはずなのに呼ばれて琴子は振り返る。
「こっちだよ、琴子」
 声がするそこに、白い車。でもその車をよく知っているので、琴子はびっくりして立ち止まった。
「矢野さん」
 トヨタのクラウン・マジェスタ。それが矢野さんの今の愛車。やっぱりいつもピカピカの白い車。その運転席から作業着姿のおじ様が手を振っていた。
「乗ってけよ。っていうか、乗れ」
 あの目がぐっとこちらを促すような威圧を見せたので、琴子は二つ返事で車へ向かう。
 助手席に乗り、シートベルトをすると直ぐに車が走り出した。
「元気に通勤しているみたいで、安心したわ」
 緩く笑った矢野さんに、琴子もそっと微笑む。
「会えないのは苦しいけど。でも、私から突き放してしまったわけですから」
「ったく。おめえは本当に馬鹿だな」
 千絵里さんと英児が思わず再会したことを報告した時も言われた。そんなことよりお前、遠慮するなよと言ってくれた。
「そうですね。馬鹿だったなあ……と後になってじわじわ。困っている彼を一人きりにしてしまいました。私、一人にしないと約束していたんです。なのに」
「ああ、もう英児のやつ。すげえ落ち込んでいるぞ」
 そう聞けば、置き去りにしてしまった恋人としてはドキリとする。そこでやっと琴子は、笑む余裕をなくし唇を噛みしめ俯いてしまう。
 駅界隈の住宅地を抜け、白いマジェスタが夕暮れのバイパスをどこともなく走っていく。暫し言葉を失った琴子は、そっと聞いてみる。
「あの……」
 『落ち込んでいる』の一言が思いの外ショックだったのか、声が掠れていた。自分でも驚いたが矢野さんは見知らぬふりで運転をしながら『なんだ』と返してくれる。
「英児さん……。私のこと……」
 最初の留守電を聞いた時は安心していたが、それっきり。本当に連絡がこない。それはそれで、さらなる不安とあらぬ妄想を生んだ。やはり裏切ったと思い始めているのではないだろうか、とか。信じているんだから、そんなこと気にしなければいいのに――。でも大丈夫、きっと大丈夫。その繰り返し。そのぐらぐらと揺れる心をはね除けるために、琴子はあることを始めたところだったのだが……。
 そんな琴子をちらりと確かめて、やはり矢野さんは呆れたため息をこぼした。
 夕暮れのバイパス、目の前に見える山の端に夕日がさしかかるところ。マジェスタはフェリーが着岸する港町へと向かっていた。
 暫くして、矢野さんが教えてくれる。
「ほんと、英児のやつイライラしているわ。琴子は英児が千絵里と鉢合わせてしまったから、動揺して仕事でミスしないよう俺に見ていてくれといったけどよお。お前がいない方がよっぽど危なっかしいわ」
 え、そうなの。と、琴子はまた申し訳なくなって矢野さんと目が合わせられなくなる。
 矢野さんがクーラーを切って、ウィンドウを空かした。潮の香がする。港町間近の川縁の道。仕事帰りの車が行き交い、二車線の狭い道、郊外の港町はもう渋滞寸前。それでも矢野さんは港へと向かっていた。
 渋滞しそうな狭い道の運転に気を取られていた矢野さんだったが、黙っている琴子をみて堪りかねたのか、やっと話し始める。
「千絵里なんだけどよ。あれからずっと英児の自宅に通っているわ」
 もしかして……と思ったが。
 何かが崩れ落ちていきそうな思い。今すぐにでも泣いてしまいたい。でも……置き去りにしたのは琴子だから堪える。
「おっと。ちょっと意地悪な言い方だったな」
 港町の駅が目の前。そこで踏切の赤いランプが二つ交互に光りカンカンと鳴り始める。黄色と黒の遮断棒が降りてきて、矢野さんのマジェスタも停車。
「おっちゃんはな。琴子に傍にいて欲しかったんだよな」
 なのに。引き留めたのに置いていった、だから矢野さんは怒っている? ちくりと『英児の自宅に元カノが居着いた』と意地悪な報告をしにきた? 琴子は俯いた。
「……でも。それはおっちゃんの独りよがりだったな。今でもなにがなんでも傍にいて欲しかったとは思っているよ。でもな、それは琴子も重々分かって英児を一人にしたんだなあと。ちょっと分かってきたわ」
 理解ある言葉に変わったので、琴子はそっと顔を上げた。
「安心しな。千絵里は夜には帰るし、英児ととことんやりあっているわ。それから、おっちゃんが英児の自宅でいま寝泊まりして傍にいるから安心しな」
 図々しく矢野さんにお願いしたこと。そして願っていた状況になんとか収まっているようで、やっと琴子は安心する。そうすると、涙がじわっと滲んだが、慌ててハンカチで押さえる。
「……すみません。あの、一方的にお願いしたことを」
「いや。案外、効果があってびっくりだわ」
 目の前を橙色の郊外電車がゆっくりと通り過ぎ、踏切が開く。矢野さんのマジェスタが走り出す。
 やがて矢野さんの車は、大型フェリーが着岸する観光港についた。そこの大きな駐車場に車を停める。水面がオレンジ色に煌めく夕凪が見渡せる静かなところだった。
「今日、琴子を待ち伏せしていたのもな。英児は今なかなか動けない状態だから、おっちゃんが来たんだ」
 後部座席を矢野さんが指さした。そこには紙袋がいくつか。それはあの日、英児と遠出をした時に琴子があれこれ買った土産の紙袋だった。
「英児に届けてくれと言われて持ってきた」
 二人で楽しんで買ったものだった。雑貨を選ぶ琴子を、あの目尻の皺が優しく滲む笑顔でとことん付き合ってくれた英児。彼が琴子にと買ってくれたアクセサリーもある。
 だが、そんなことより。それを彼自身が届けたいと望みながらも、それが出来ず信頼できる親父さんに頼んだ――その状況に絶句した。それだけ『こじれている』ということだった。琴子は青ざめる。覚悟をしていたつもりだったが、今ここで『時間がかかる』と予感したのだ。
 そんな琴子の様子に気がついたのか、矢野さんもそんな『女の子』の顔は見ていられないとばかりに、目線を正面の港へと移してしまう。だがそこで突然告げた。
「千絵里な、百貨店の仕事を辞めていたんだわ」
「えっ」
 まさか。百貨店で花形の婦人服フロア、しかもプレタポルテ。そこで一番売り上げを持っているだろう大手有名メーカーのブランドショップ。そこの店長なのに!?
 また、琴子は驚きで言葉が出なくなる。
「ここ数日で、少しずつ『事情』が見えてきたところだよ。しかも、千絵里のおふくろさんが闘病生活しているらしく、娘の千絵里に看病の負担がかかっているらしくてな」
 またまた琴子は絶句。まさか。彼女まで、英児や琴子と同じような、両親を病魔に襲われるという苦難に遭っていたなんて。
 矢野さんも、やるせないため息を落としている。
「英児と琴子が市駅の百貨店で千絵里と会った時には、もう決まっていたそうなんだ」
 あの頃に彼女は退職を? きっと頑張ってきた仕事、それを辞めることになった。なのにそんなときに……。もう本当に痛々しくて、琴子はなにも言えなくなる。
「英児との結婚が破談になって、その後は女一人肩肘はってのキャリアを目指すことに没頭した千絵里なんだけどよ。やっと手に入れた念願の店長の座を、母親の看病で維持できなくなって退職を決意したんだと。意にそぐわない状況を強いられての退職決意。そんな時まさかな、昔の男がさ、新しい恋人連れていたら、そりゃ……辛いよな」
「そうだったのですか……」
「千絵里の父ちゃんは、ちょっとした事業をしている社長なんだけどよ。ワンマンで気性が激しくて、昔気質な男尊女卑の固まりでな。母親が病気になっても会社が第一で、あんまり看病をしてくれなかったそうなんだよ。だから見かねて千絵里がこっちに帰ってきたらしくてな」
 そこまで聞いて、琴子にもうっすらと彼女があんな狂気に陥ったのが何故か透けて見えてきた。
 琴子が思い浮かべたことをそのまま、矢野さんが語り始める。
 元より『店長』に昇格したのも、母親の看病に偏るようになってから神戸の第一線での戦力が落ちてしまったから、こちらの地方への転属を言い渡されとのことだった。阪神という都心での活躍の場から退くことになっても、そこは地方であれど『店長』という肩書きをもらっての転属だったという。だが千絵里さんにしてみれば、第一線から退くための引き替え条件でもらったようなポジション。有名ショップの店長でも、地方に転属。第一線から脱落。それは結婚を諦め、仕事で邁進してきた女性には辛い通告だったことだろう。
 だけれど、家族に冷たい父親に任せておけず、なおかつ、一人娘の彼女にはその母親だけが自分の味方。その母を放っておけないから、第一線脱落を甘んじた。それならば、地方でも。神戸のショップより売り上げを叩き出して、トップになってやろうと決意をしてこの街に戻ってきた。
 しかし。そう甘くはなかった。母の看病をしやすくなったが、今度は店長としての仕事が上手くいかない。阪神というショップでのシビアさが、こののんびりした地方の百貨店では通じず、次第に孤立する日々。その影響が売り上げを落とす。八方塞がりになる。
 母の病状も一進一退。彼女一人の力では、もうどうにも回らなくなる。売り上げを落とし、今度は店長降格か。そんなの耐えられない。だから自主退職を決めた。
 この苦しい日々に思い出すのは『彼』。どうしてあんなことになったのだろう。この苦難は、あのとき、彼を理解できなかった自分への罰なのだろうか――。千絵里さんはそう思ったそうだと、矢野さんが話す。
「英児なら、分かってくれるだろうという頼りたい気持ちと。自分の母親も看病が必要な状態になって同じ状況におかれ、初めて『あのとき、悪かった』と己を責める気持ちがあって、すぐには会えなかったそうだ。仕事を辞めたら、今度こそ英児に会いに行ってせめて『謝るだけでも』と決めていたんだそうだ」
「なのに……。英児さんの隣に、私がいたから……?」
 ああ、と矢野さんが頷く。
「あのとき、なにもかも千絵里の中から崩れていったんだろうな。八方塞がりの女が少しだけ拠り所にしていたそこも塞がれて、とどめを刺されたってところかね」
 そして苦悩する中、千絵里さんがたどり着いたのは、『自分が掴むはずだった幸せ』。何故それを、別れた後特定の恋人も持たなかった元婚約者の男がいとも簡単に、新しい女にあげてしまったのか。
 文句を言わずにはいられなかった。行かずにいられなかった。その裏側に『私の話を聞いて欲しかった』。それを分かってくれるのは、英児しかいない。その思いがあの日の夜、吹き荒れた。盆ならば、新しい彼女も実家にいるのでは。そして千絵里さんも知っていたのだろう。実家に帰ると英児も孤独を募らせて自宅に戻ってくる。その日に会いに行こう……。そう思ったのではないか。
 なのに。新しい彼女が一緒にいた。しかも寝室に。
 そしてあの、ドアが開く。
 思い出すと今でもぞっとする。あの時の人影。ぼんやりと見えた彼女の青い影は、時節柄『亡霊』にさえ見えた。
 でも、琴子の胸がキリキリ痛み出す。
「……三十過ぎて、どうしていいかわからなくなることって……あるんです……。先が見えなくて、時が経つほど、このまま女一人で生きていくのだろうかと不安になる。男の人には分からないかもしれないけど」
 三十後半を迎えた千絵里さんの気持ちは、まだ若輩の琴子に『判る』だなんて言ってはいけないかもしれない。店長になるまで頑張り抜いてきた彼女の、孤独感とか焦燥感など、琴子に比べたらとてつもない大変さだったと思う。
 でも、そう思う。自分も英児がいなければ、そうなりかけていたから。
「わかんねえよ、おっちゃんにも。けどよ、千絵里を見ていたら。おっちゃんも泣きたくなったわ」
 あの矢野さんが。英児のような遠い目を停泊しているフェリーの向こうにある水平線へと馳せていた。
 そうですね。痛いです。矢野さん。
 小さくつぶやくと、琴子にも一粒の涙が目尻に。
「だけどよ。琴子も、よく堪えてくれたな。お前が思いきって英児を千絵里に向かわせたから、なんとなく二人の様子も変わってきたんだわ」
 どのように変わったのだろうかと、琴子は矢野に問い返す。
「琴子が帰えっちまった晩は、朝まで二人で言い合っていたわ。もうとにかく、千絵里の怒りが収まらなくてさ。そこらへん散らかしまくって大変だったわ。朝になってへとへとになると英児は寝室で眠ったし、千絵里はあっさり帰った。それが意外だったんで俺も英児も『納得したのか』と思っていたんだけどな。やっぱり昼になってまた千絵里がやってきて。……ああ、でも。今度は鍵は使わず、ちゃんと訪ねてきたわ」
「そうでしたか」
「そこからまた言い合いが延々と続いてさ……。だけどな。その夜も千絵里が帰るって言うんで『なんだかおかしくないか』と英児とおっちゃんも気がついてな。でもまた、朝一に英児を訪ねてくる。その繰り返し」
 彼女が……通っている。それを聞いたら、やっぱり琴子も心穏やかではない。そんな『いつ諦めてくれるのか』と、自分で仕掛けておきながら琴子だって焦りが生じるのだが。
「でも、そうして。千絵里がしたかったことをさせているうちにな。えっと、『したかったこと』っていうのは、英児に飯を作って食べさせるとか。あのキッチンも自分が使うはずだったものだろ。とにかく、そうさせることにしたんだよ。だから英児も、腹は立っているようだけれど、そこはぐっと堪えて千絵里とちゃんと向き合っている」
 ご飯まで作って……。自分が使うはずだったキッチンに立って。夫になるはずだった彼に、今になって食事をこしらえている。空しくないのだろうかと、琴子は思ってしまう。ますます痛々しいばかり。だけれど、それが文句を言い合うより『前に少し進んだ証拠』なのだろうか? そう思いたい。
「でも。それをやらせているうちに、千絵里がやっと夜帰るのは『母を一人に出来ないからだ』とか『母はいま闘病してる、自分が看病している、仕事を辞めた』と告白してくれて――。それでやっと、英児も『だから、あんなになったのか』と理解できるようになったみたいだな。そもそも英児は、千絵里がガタ崩れになると、歯止めがきかないほど暴走するのを身に染みて体験しているからさ……」
 歯止めがきかなくなる彼女の暴走を、体験している? 今度、琴子はそこが気になったが、そんな答えをほしがる目線に気がついた矢野さんが、ちょっと申し訳なく笑った。
「わりい、琴子。流石に俺でも、英児をさしおいてそこんとこだけは語れねーわ。ごめんな」
 英児本人から聞いてくれ。矢野さんがこっそりと教えるのも憚るほどのなにがあったというのだろうか。
 だが、それからだという。英児が千絵里さんと冷静に向き合えるようになったのは。今になってようやっと、『これから』千絵里さんにどうしてやればよいのか、英児から考えられるようになったらしい。『これから、どうするか』を英児から投げかけるうちに千絵里さんも徐々に冷静になり、二人で過去にあったことも現在のことも年相応の顔つきで話し合うようになってきたとのこと。
 そこまで聞いて、やっと琴子は涙が流れた。良かった。大丈夫だった。二人揃って『時が流れ始めている』。そう感じられたから。
「もうちょっと、英児を待っていてやってくれや」
 琴子が頷くと、矢野さんもやっとほっとした顔に。
 夜の出航待ちのフェリーに、夕日がさしかかった。それを暫く矢野さんと無言で眺める。
「私、本当に英児さんに出逢ったことで、母と一緒に前を向けるようになったんです」
「……らしいな。聞いたよ。でもすげえ一生懸命に見えたってアイツ言っていたわ。いい加減に出来ない真面目そうな子だと伝わったから放っておけなかったってさ」
 あんな最低なところで最低の思いを抱いてもがいていたのに? そんな琴子を見つけてくれて、声をかけてくれた。琴子だけじゃない、立ち上がれない母も抱き上げて、英児はスカイラインに乗せて連れ出してくれた。そこで見た夢のような幻想的な蛍の夜。あれがなかったら……。
「私も母も、またあんな立ち止まるだけの日々には戻りたくないと思っているんです。英児さんに助けてもらって、それを無駄にしたくない。だからもう一度、英児さんに伝えてください。待っているって」
 矢野さんが大きく一息ついた。
「わかった。伝えておく」
 前を見据えた矢野さんの眼差しが変わる。標準を定め、真っ直ぐに突き進もうと決意するような……。そう、英二に似た目。その横顔で、マジェスタにエンジンをかける。
 そのまま矢野さんが自宅まで送ってくれた。
 あの古い煙草店の店先で降ろしてもらう。そのとき、小さなメモを手渡された。
「これおっちゃんの携帯の番号。英児に伝えたいことがあったり、なにかあったら、今はこっちに伝言してくれるか」
 それは『英児に今は連絡するな』と言われている……。
「悪いけどよ。それでも今の千絵里は琴子が見えないから落ち着いていると思うんだよ。英児の携帯、一度ぶっ壊されてな」
 最後になってそんなことを教えられ、琴子はまた驚き目を丸くした。何故壊されたのか、考えたくないが、だいたい判ってしまう。『だから連絡がなかったのだ』とやっと理解した。
 英児が琴子に連絡をしようとしていたのを見たのか。あるいは、何かを見てしまったのか。それとも『怒りまくって、散らかしまくった』時にそうなったのだろうか。ともかく、携帯電話を使うことはタブーだということだった。
「武智の番号もメモしてあるから、おっちゃんに言いにくかったら、武智にいってくれ。店の奴らも、落ち着きないわ。店長の英児は仕事に身が入っていないし、琴子じゃない女が出入りしているわで。おっちゃんもそう長引かせるつもりはないから、後少し我慢してくれ」
 琴子はそのメモを受け取る。
「大丈夫です。待っています。また会える日を」
 今度こそ、今度こそ。琴子は心から告げた。
「おっちゃんも、また琴子が車を磨きに来る日を楽しみに待ってるな」
 そっくりだった。英児の目尻に皺が寄る笑顔と。途端に涙が溢れてしまう。
 じゃあな。矢野さんの白いマジェスタが宵闇に去っていく。
 
 いま、琴子はあの道を歩いている。
 桜が咲きそうだった道、泥を跳ねられた道、彼がコートを届けに来てくれた花びらが舞っていた道を――。
 彼がくれたもの、幸せな恋、きっとこれ以上の恋にはもう出逢わないと思う。それまで付き合っていた男性もいたのに。一通りの恋愛はしてきたのに。
 彼との恋は、それまでの恋と全く違った。条件も釣り合いも、どれも私たちを縛らなかった『本物の恋』。
 愛されることを待っている恋じゃない。自分から一生懸命に愛せる恋に出逢えたこと。その恋心を彼が愛してくれたこと。そんな幸せに出逢ったこと。
 だから二度と琴子は戻らない。彼にもらった前に向ける気持ちを無駄にしたくないから。
 今はなにもいらない。愛されたことを忘れない。貴方がいないから愛せないなんて、絶対に言わない。
 たとえ、別れたとしても。貴方をずっと愛していると思う。胸の奥に秘めてずっと。幸せだったことが一時でもあったことを思い返して、前を向いていける。そんな恋。

 

 

 

 

Update/2011.7.26
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