え、琴子の……?
やっと状況を理解した雅彦のつぶやきに、琴子は大きく頷く。でも『いま愛している人』と堂々と言ってしまったので、隣にいる薄汚れた兄貴の方が茫然としていた。
久しぶりに会えたのに。そんな兄貴に、琴子は真顔で返す。
「英児さん。悪いけど、いま私、この彼と話しているところなの。私と彼の問題なの。二人きりにしてくれる」
言われた英児は『納得できねえ』と言わんばかりに、むくれた顔になった。だが本人も思うところ当然あるだろう。なにせ自分も『別れた女との後始末を二人だけでしている』ところなのだから。琴子の場合でも同じ。別れた男との話し合いは、琴子の問題だった。
「わかった」
とりあえず、承知してくれた英児が席を立つ。でも移動した席がすぐ隣の席。椅子を一個分移っただけの。琴子は苦笑いをこぼす。
「英児さん。そこじゃなくて」
『ばれた』みたいな子供っぽい顔をして、渋々といった感じで、なんとかテーブルをひとつ超えた向こうの席に移ってくれた。それでも近い。でももういいかと琴子は諦める。
英児の視線を感じつつも、琴子は改めて雅彦に向き合う。
英児が突き返した指輪のケースを見つめ、琴子は雅彦に告げる。
「分かっていたのよ。今日、どうして貴方が私に連絡をしてきたのか。そろそろ仕事が本当に行き詰まって、私をツテに長くお世話になった三好社長に会わせて欲しいと頼んでくるんじゃないかって。きっとそうだろうと思って、だから会ったんだけど」
「だから、違うって言っているだろ」
語気を強めた雅彦だったが、だからこそ『図星』だったのだと琴子は俯く。付き合っていた彼氏のその心根が残念で仕方がなかった。
「そんな高価な指輪なんて持ってこなくても、正直に『仲介してほしい』と言ってくれたら良かったのに」
そうしたら、琴子がいるせいで契約を辞退してしまったのだから、ジュニア社長に繋ぐぐらい手伝おうと思ったのに。たとえ雅彦の弱い心根が招いた結果だったとしても、元恋人として関わっていた琴子にはそこが多少の心残りだった。だから別れても琴子しかいないと頼ってきてくれたのなら、これが最後、社長に繋いであげようと思って会った――。なのにそこまで頭を下げたくなかった雅彦が思いついたのが、琴子も良い気分にさせて思い通りの方向へ運ぼうとしたくだらない作戦。本当に琴子と結婚する心積もりも本物だろうが、そんなキッカケで復縁されても全然嬉しくない。そんな女心を踏みにじるのも許せなかった。
今度こそ。琴子もきっぱり切り捨てよう。
「決めて、雅彦君。私は貴方とは結婚しない。それでも三好社長に会いたいなら、社長に言っておく。もしまた契約が成立しても私も以前通り三好社長のアシスタントとしてあの事務所にいる。それが我慢できる? それとも我慢できない? 決めて。私は結婚しない。事務所も辞めない。この状態で、紹介する、しない。どっち!」
らしくなく――。琴子はテーブルをバンと叩いた。びくっとのけぞる雅彦。コップの水面も揺れた。
そんな雅彦がふと、向こうのテーブルへ移動した英児を見た。煙草を吸って背を向けているが、きっと聞き耳を立てていることだろう。
「変わったな、お前」
あの男と付き合ったからだろうな――。元ヤンの名残を見せるふてぶてしい座り方、大股で片足を大きく片膝に乗せて、それで少し猫背で煙草を吸っている後ろ姿。そんな男の女になった琴子。大人しくて従順で文句も言わず良い子だった琴子じゃないとでも言いたそうな。
それだけ言うと、雅彦は指輪のケースを閉じ立ち上がる。何も言わずに背を向け去っていこうとしていた。……別れた時と一緒。肝心の最後を締めくくる言葉は言わず、うやむやにして無言で切り捨てる。
「それでいいの。格好いいプライドを持つのは、格好悪いことを経験した後に得られるものだと思うのよね。私もそうだったから。その気になったらいつでも言って。社長に話すから」
雅彦が立ち止まる。だが一時だった。まだ自分を変えるにはいま暫し時間がいることだろう。カフェの外へと出て行った彼は、どしゃぶりの雨の中、ミニクーパーへと走っていった。
「なんだ。そういうことだったのか」
雅彦を見納める琴子がいるテーブル傍、そこにもう英児が来て立っていた。
「やっぱ、許さねえ。琴子をいいように利用しようとしていただなんて」
そういってくれる人が、一人でもいれば……充分。琴子はそっと微笑んで彼に言う。
「終わりました。どうぞ、そちらへ」
雅彦が座っていた席、正面へと促した。なのに英児は先ほどと同じ、琴子の隣にどっかりと座り込んだ。
直ぐ傍に、熱い肌の温度。とても久しぶりで琴子は泣きそうになるが堪えた。
「すごく会いたかった。お前がいなくて寒かったんだからな」
泣きそうな目を琴子は見開いた。またとっても驚く。身体がひとつになった時も『溶けるみたい』と二人一緒に感じたように。琴子も寒かった。離れて直ぐの日、そう思っていたのに、彼もまた同じように『寒かった』と言ってくれているから……。それほど、互いの体温を密着させて感じていた証拠。
そんなことも言えず、ただ涙を堪えていると、やっと英児の長い腕が琴子の肩を抱き寄せた。
「ここでよう。車の中で話そう」
それが私達らしい、きっと……。だから琴子もすぐに頷き、揃って直ぐにカフェを出た。
カフェのドアを出たはいいが、まだ雷鳴が轟くどしゃぶりのままだった。
「待ってな。車、ここまで持ってくるから」
決断素早い英児らしく、琴子が『あ、私も……』と言う前に飛び出していってしまう。
アスファルトを叩きつける大粒の雨の飛沫が煙る中、英児が走っていく。やがて、あのエンジン音。琴子の胸がときめいた……。そっと目をつむる。あの勇ましい……。目を開けるとドルンと唸るエンジン、キュッと雨の中停車した真っ黒な車がそこにいた。
待っていた。この車が自分の前に迎えに来てくれることを。
運転席から英児が出てきて、雨に濡れながら助手席のドアを開けようとしてくれている。だけどドアが開く前、英児がそこに辿り着く前に琴子はどしゃ降りの中、スカイラインに向かって駆けていた。
ずぶ濡れの黒いボディはそれでも夜明かりにキラキラと勇ましく光り輝いていた。その車体に琴子は額をつけてすがった。
「スカイライン、会いたかった。乗りたかった……。貴方が運転するこの車に、とっても乗りたかった」
「琴子……」
彼の相棒、分身にすがる彼女を見たためか。英児が後ろから抱きすくめてくれる。
「悪かった。お前に……すごく嫌な思いさせた」
そして英児が濡れる琴子の耳元ではっきりと言ってくれる。
「もう離さねえ。どんな状態でも、お前を龍星轟に連れて帰る」
スカイラインにすがる琴子を、英児が力強く自分へと振り向かせる。雨が伝う頬に彼の薄汚れた指先が触れる。とても熱かった……。
「わかったな。なんも遠慮することなんてなかったんだ。俺がそうさせてやるべきだったんだ」
険しい目が琴子を貫いた。固い決意と強い意志の眼から、動揺や躊躇いが消えてる。でもそんな英児の表情が急に歪む。唇を噛みしめ、今度は彼が泣きそうな顔になる。
「お前が優しい女だと知っていたはずなのに、必要以上に甘えてしまった。俺も、お前を、離さなければ良かった……」
だから、戻ってきてくれよ。
正面から英児が抱きついてくる。彼の長い前髪から落ちてくる滴がぽたぽたと琴子の首筋を伝っていく。
どしゃぶりの雨が濡らしていく中、琴子は首を振って英児を抱き返す。彼の背中にしがみつくのではない、彼の大きな背中を足りない腕で思い切り抱きしめる気持ちで。
「私も嘘ついた。一人にしない、何があってもずっと貴方の傍にいるって約束したのに……!」
ごめんなさい。
もう離さない、私も離さない。彼の背中のシャツを鷲づかみにして抱きついた。
「濡れる。とりあえず、乗れよ」
もう濡れてしまって遅いけれど、英児が急いでドアを開けて助手席に琴子を座らせた。
運転席に戻った英児もすっかり濡れていた。ダッシュボードから出してくれたタオルを渡されるが、英児は直ぐにシートベルトを締めスカイラインを発進させた。
ワイパーがせわしく動くどしゃぶりの国道。そこを英児は黙って運転していた。
「濡れたな。自宅に一度寄るか」
琴子は首を振る。こんな姿を見たら、また母が心配するから。
「……俺のところ、……来るか……?」
躊躇った言い方。それが何故か判るから、また琴子は首を振る。
「だよな。あんなことがあった俺の家なんか」
すこしばかりがっかりした英児の横顔を見ると、まだその気になれない琴子だって胸が痛む。
「千絵里さん……。まだ来ているんでしょう」
彼女が心の底から出て行かなければ、琴子は戻りたくない。それに二度とあの人に会いたくない。今日、彼女が詫びようとしていたけれど、顔を合わせた途端彼女の気が済むような『ごめんなさい』もいまは聞く気にもならない。
雷が追いかけてくるように響く中、運転する英児がため息をついた。まだ決着はついていないようで……。でも今日、彼女と琴子は密かに鉢合わせをしている。彼女はそれからどうしたのだろうか。そして英児はどうして雅彦と一緒にいるところに突然現れたのだろうか。
「それが千絵里のやつ、ここ四日ほど来ないんだよ」
「え!」
じゃあ、今日見た彼女は……? もう既に英児から離れていた……の? 琴子は絶句する。
「琴子が出て行って最初の三日は、もう互いを傷つけあうことしかできない言い合いばっかで。でも俺もこのままじゃあ、時間をくれた琴子のためにならないと思って千絵里に腹立つこといっぱいあるけどよ。それは、ひとまず横に置いて『だったら、これからどうするんだ』ということを考えてみたんだよ」
矢野さんが言っていた『ちょっと様子が変わってきた』という頃のことだろうか。濡れた前髪をかき上げながら運転をする英児は続ける。
「まず。千絵里に神戸に戻ったらどうかと提案してみたんだ。元のショップには帰れないかもしれないけどよ、キャリアがあるんだから他の会社でもいいじゃねえかって言ってみた。あいつの天職なんだから、こんな地方での仕事はお前も満足しないし性分に合わないだろと勧めてみた。それから、お母さんもこの街から連れ出して、向こうの病院や施設を使って看病したらどうかとも提案した。向こうにもいい病院あるし、こっちより有効に活用できる施設もあるからさ」
それから英児は、インターネットや電話問い合わせなどをして、とにかく施設や病院の資料を集め出したとのこと。
「勿論。いまは余裕がない女だからさ。そんなこと出来るかって突き返されたんだけどな。というのも、親父さんが一人にさせられること、女房を連れ出すことを許さないだろうから。俺も向こうの親父さんの気難しさを知っているから、親父の前では萎縮してしまう千絵里が親父さんに逆らうことが難しいのもわかっているんだけどよ」
「そうだったの。千絵里さん、お父様には逆らえないの……」
「逆らえないとかじゃなくて、あの親父さんが誰の言うこともきかねえの。女房や娘の気持ちなんてこれっぽっちも考えてくれねえ親父なんだよ。親父の指示以外に提案をするなんて皆無に等しいんだよ」
ワンマン経営者だと矢野さんが言っていたことを、琴子は思い出す……。
「俺と結婚を決めた時も、まあ、仕方がないって顔だったよ。何故、一人娘の結婚を許してくれたかと言えば、俺が経営者を目指す三男坊だったからみたいだな。後々、婿養子だとかなんとか考えていたんじゃねえかな。まあ、俺も同じだけど、千絵里も解消後はさんざん親父に『恥をかかされた』とかなんとかこっぴどく言われたみたいなんだよな。それで神戸に逃げたというのもあったのかもしれない……」
一時黙った英児が、ため息をつく。
「俺も悪かったと思っている。俺も家族に婚約解消をした時は特に親父にさんざん小言を言われて、余裕がなかったのもあるけど。男としてもぜんぜんなってなかった。俺もな、いまでも実家に帰ると年取った親父がつい昨日のことのように何度も何度も当時の文句を言うんだよ。兄ちゃんと義姉ちゃん達が慰めてはくれるんだけどよ。やっぱ耳痛いし古傷えぐられるんで、実家に帰るのはすげえ気構えがいるんだよな」
だから。矢野さんが帰省後の英児の様子見に来る――ということになっていたようだった。
「それで、千絵里さんはどうしてこなくなったの?」
「俺が集めた資料がいつのまにかなくなっていた」
「それって……」
英児が頷く。
「それから。俺の家に通っては来るんだけれど、癇癪が収まってきた頃を見計らって玄関の鍵穴を変えたんだよ。ちょうど業者が鍵穴を交換しているところに、千絵里が自宅からやってきてさ。黙って静かに見ているから、もう解ってくれたと思って『今度こそ、鍵を返してくれ』と言ったら、すんなり返してくれたわ」
そして英児がその時の千絵里さんを語る。
『馬鹿じゃないの。もっと早く変えればいいのに。もっと早く私から鍵を奪い取ればいいのに。彼女だって連れ戻さないでほったらかしで。馬鹿じゃない』
淡々としたあの顔に戻って、すんなりと返してくれたとのことだった。
「そしたらすぐに帰っちまって。それから来ないんだよ」
じゃあ。今日会った千絵里さんは……。もう彼女の中では怒りの炎も鎮火して、終わっていた彼女だったんだと……。琴子は泣きそうに頭を下げてくれた彼女をまた思い出していた。
「資料がなくなったって。その気になったってことよね」
「わかんねえ。でもそう思いたいところだな。でも確かでもない。それでも、アイツが勝手に入ってくることはもうないし、訪ねてきても二度と会う気はない」
でも琴子にはもう……。彼女は二度と龍星轟に来ないと感じた。その英児の提案を最後の想いとして受け取って、去っていったのではないだろうか。
いままでの彼女には考えられない提案だったかもしれない。でも、八方塞がりで目が見えなくなった彼女には、第三者が見せてくれた思わぬ目から、何かが見えたのかもしれない。
まだ気になっていることも聞いてみる。
「どうして、あのカフェにいたの」
「千絵里がもう来ないと判断したんで、やっと琴子を迎えに行こうと思って。仕事が終わってからあの煙草屋で待ち合わせようとしたら、先客にあのクーパーが停車していたんだよ。仕方がないから煙草屋を曲がった路地で駐車した途端に琴子がやってきて、そのクーパーに乗っていってしまったから……」
そこで英児が口ごもる。琴子も唖然とした。つまり『慌てて後をつけてきた』ということらしい。それであのカフェで離れて様子を見ていたら、琴子がプロポーズをされたと判るような指輪を手にして眺めていたので、どうにも我慢が出来なくて割って入った――ということらしい。
「やだ。本当に私が受け取ると思ったの?」
「だってよー。俺、お前に嫌な思いさせたし……それに……前カレ? なんか洒落た男じゃん。俺より若そうだったし、琴子に似合ってるっつーかさあ。俺なんか、なあ……」
ちょっとムカッとした。
「やめてよ! 私が知っている滝田英児はそんなくよくよした男じゃないもの」
バリバリと夜空を駆け抜ける雷鳴の中でも、琴子の声が車内で響いた。
英児は目を見開いて、茫然とし絶句している。
「どうして。私は洒落た男に惚れたいわけじゃないし、これからだって貴方と一緒にいたいって気持ち、全然変わっていないんだから! むしろ、前よりずっとずっと、今度こそ、貴方の傍から離れたくない!」
また涙が溢れだす――。
「英児さんは、そのままが一番素敵なのに、愛しているのに。どうしてそんなこと言うの? 私、そのままの貴方が大好き。その作業着を着ている指先が汚れている、煙草の匂いがする、汗の匂いのする……」
「琴子……」
ついに泣き崩れた琴子を知り、英児はこのスカイラインを道路の脇に停めてしまう。
暫く俯いている英児が、何かを言おうとしている。でも、躊躇っているようでやめてしまう。
「なに、どうしたの」
涙を拭う琴子と目が合うと、どこか降参したように英児が笑う。
「だってさ。それが俺のコンプレックスなんだよ」
「……ヤンキーで走り屋だったことが?」
「そう。学歴がなくて薄汚れた車屋だってことが」
また琴子の頭に血が上る!
「どうして! 貴方は立派な経営者だし、車好きの人達だけじゃなくて、いろいろな人たちに信頼されているじゃない。うちのジュニア社長だって、貴方なら私を任せて安心、『いい男だ』と言ってくれているのよ。判断力だってあって、私と母がそれでどれだけ貴方に助けられ……」
「言われたんだよ! 元ヤンみたいな男のくせにって!」
あの眉間に深い皺が刻まれる怖い顔で英児が怒鳴った。琴子も卑下する彼が情けなくて、そうじゃないと安心してほしくて興奮していたが、それを遮る迫力に口をつぐんでしまう。だが暫くして、運転席で項垂れている英児に尋ねる。
「だ、誰に。そんなこと……」
「……千絵里に決まってんだろ。婚約が解消になった時に。元ヤンキーのくせにって言われたんだよ。しかも母ちゃんの目の前で。『そういう育ちだ』って言われたんだよ。母ちゃん後で泣いていたもんな。私が悪かったてさあ」
……言葉を失う。結婚を決意するほど愛した人から、そんな傷を負わされていただなんて。
それでやっとやっと、英児が常々『俺みたいな男でいいのか』と琴子に確かめていたことを思い出した。だから結婚をほのめかされると、とても躊躇っていたことも。やっと分かった気がする!
「琴子だってそうだろ。初めて煙草屋で会った時、俺から走って逃げた」
ドキリと琴子は硬直する。確かにそうだった。一目見た時、嫌悪を持っていた。
「それは……。付き合ったことがなかったし、それまでヤンキーの人て怖いと思っていたから」
「だから。コートを渡した時も、一歩踏み込めなかった。蛍を見に行った夜も電話番号を聞くのが精一杯だった。でもお前から、また誘ってくれると絶対にもう一度会いたいと言ってくれてすげえ舞い上がっていたんだよ」
「そ、そうだったの」
「でも。思った通り、優しくてしっかり者で、生真面目すぎて一生懸命すぎて。だから俺、本当にお前に触りたくて触りたくて」
それで、あの紫陽花の夕……。
「……私。あの後、自分のことすごく嫌な人間だって思ったことがあるのよ。人を見かけで判断しちゃいけないって。貴方が教えてくれたんだから。貴方、とっても格好良くて素敵で、私も蛍の夜の時、このまま家に送られるだけで終わったらもう二度と会えない、もう一度会いたいと思っていた人と二度と会えなくなるのは嫌だと思って。だから……絶対に次も会いましょうって食事に誘う約束をしたんだから」
え、そうだったのかよ?
英児も驚いた顔。
「そうよ。いままで私が貴方のこと好きって言ったことも、愛しているって言ったことも、信じてくれるなら二度と『俺なんか』と思わないで。そうじゃないと今度は私が怒るからっ」
彼みたいに迫力ある顔で食らいつけないけど。でも琴子も眉間にしわを寄せて英児を睨んでみたのだが――。
まだ雷鳴が止まない豪雨。運転席から英児の手が伸びて、琴子の頬に触れた。
「雨に濡れて冷えているかと思ったけど。熱いんだな、俺が怒らせたからかな」
確かに。濡れて最初は震えていたが、いまは驚きも怒りも泣きたい気持ちもいっぺんに溢れているので、琴子の頬は熱かった。
「怒ってこんなほっぺた真っ赤にして」
大きな手が琴子の頬を撫でながら、そして目の前に、あの笑顔が現れる。あの優しい目尻のしわが寄る、柔らかな……。
「怒っても。可愛いんだもんな、琴子はさ」
笑っているけど。気のせいか、英児の綺麗な黒目が潤んでいるように見えた。その目に見とれていたら……、もう英児に唇を塞がれていた。
冷たい舌先だった。雨に濡れて彼の身体は冷えている。なのに、琴子の身体と唇は熱い……。
「ん……エイジ……」
琴子も彼の黒髪の頭を抱き寄せ、その冷えている唇を暖めるように忙しく愛した。
「熱いんだな、琴子って。ほんとうは……」
徐々に二人の温度が溶けあうのがわかるまで、長く唇を愛し合った。
膝の上では、英児の長い指と琴子の小さな指がきつく絡み合っている。
「貴方を抱きたい」
琴子からいうと、また英児が一瞬、面食らった顔をしたが。すぐにクスリと笑い出す。
「俺なんか。琴子を素っ裸にしたい。今すぐ」
琴子も笑ってしまう。もう、いつもの悪ガキ兄貴に戻ってくれていたから。
「どこか連れて行って」
彼の黒い目を見た。まだ龍星轟に帰るには少し躊躇いがあるから……どこかと言った。それでも英児がどうしても龍星轟というなら、覚悟をして帰ろうと思った。
英児の目が、また――野性的にきらめいた。あのイタズラな兄貴の顔で言った。
「わかった」
すぐに運転席に戻った英児が、再び雨の中、スカイラインを発進させる。
まだやまないどしゃぶりの雷雨。時たま夜空を激しく走る稲妻が目の前に。轟く雷鳴の中、英児は国道から峠の手前で真っ暗な林道へスカイラインを走らせ始めた。
緑の木々が鬱蒼としている山の奥へと入っていく。街灯も少なく、民家もない。伸びきった夏草ばかりの林道。そこをさらに脇の小道へと英児が入っていく。
月も星もない雨の夜だから、本当に闇夜へと忍んでいく感覚。
琴子の胸がドキドキとしている。暗くて怖いのもある、でも、英児が考えていることが判ってしまい……。そしてそれはいままでの琴子なら躊躇うことだけれど、でも、いまは『まさにそれだ』とでも言いたくなる心境だった。
こんな雨の夜、誰も通りもしない真っ暗な林道。その片隅にスカイラインが停車する。
「嫌なら、他に行く」
エンジンを切った英児が、少し心配そうに琴子を見た。でも琴子は首を振る。
「大丈夫。誰にも邪魔をされたくないし、まだ……龍星轟は……。でも他の部屋も嫌。ここがいい」
スカイラインの中でいい。
そう微笑み、琴子からサンダルを脱いだ。デニムのショートパンツのベルトを自ら外し助手席で脱いでしまう。それを確かめた英児も腰のベルトを外す音。
湿った服を躊躇わずに脱ぎ合う。ショーツも、ロングのダンガリーシャツも、ブラジャーもなにもかも取り払い琴子は自ら全裸になった。
「シャツくらい羽織っても……」
ティシャツを脱いでいる英児がそう気遣ってくれたが首を振り、琴子から運転席へと向かう。
まだ脱ぎ終わらない男の身体の上に、女の白い裸体が乗る。
雨ばかりの暗闇とはいえ……。一糸まとわぬ姿で自ら男の身体の上に乗ることには、まだ恥じらいが残る。でもいまは、なにもかもを英児に投げ出したい。
運転席のシートに身を沈めている英児の目の前は、差し出されるように乗っている女の裸体。だからなのか、男の目、とても満足そうに輝いていた。暗闇でも判る。
「琴子……」
彼の大きな手太い指が、琴子の白い太股を掴んだ。柔らかな女の肌に逞しい腕が伸び、その手が白い皮膚をすべらかに辿り、最後につんと露わになっている乳房をゆっくりと揉んだ。英児の太い指先が柔らかに食い込んでいく感触を知り、琴子は甘い息を小さく吐いた。
「琴子、もう待てねえ」
雨で湿った琴子の黒髪を英児の手がかき上げる。頬に沿っていくその手に琴子はそっと口づける。目の前の彼へと眼差しを戻すと、暗闇のはずなのに本当に天然石のように黒々と光ってみえた。
「今すぐ、」
彼の頬も温まって火照り始めているのが判る。唇も、手も。その手が琴子の乳房を撫でながら、その唇が琴子の白い乳房から誘っている赤い蕾を狂おしそうに吸い上げた。
彼の熱い手先が、琴子の肌を滑っていく。乳房から、なめらかな腰、そして後ろに回って背中も。狂おしそうに撫でてくれる。そして英児は琴子の胸元に頬を寄せ掠れた声で繰り返した。
「もう我慢できねえよ。今すぐ、今すぐ、俺のところに来いよ」
俺のところに来い。もう二度と離さない。琴子はずっと俺の傍にいるんだ。そう繰り返す。
彼から『躊躇い』という重荷が下りた証拠。重荷がとれたらいつもの彼らしく直ぐに決断。『すぐ俺のところに来い』。
そして琴子は満ち足りた微笑みで、そんな彼の黒髪の頭を胸元で抱きしめる。きつく。
「うん。行く、貴方のところに……行く。私もずっとずっと貴方の傍にいる。もう、一人にしないから」
ゴロゴロと響く雷鳴、時折、窓の向こうで雲間が青白く光る。その瞬間だけ二人の姿が映し出される。その時、互いの黒い瞳と眼がとても近くで絡み合っていた。
琴子。
英児……。
裸の女を上にして、素肌になった男と女がきつく腕と腕を絡めあい、肌を寄せ合い、そして激しい口づけを何度も何度も繰り返す。むしろ離れなかった。口づけが会話のように途切れず、でも互いの欲しいものを探り合っている。
男の指先が女の蜜を探して、女は男の硬くなる情熱を探る。その渇望に突き動かされ見つけたものを確かめ合って、そして二人は自然にそれを共に引き寄せて、生物のすべてがそうするようにこの暗闇の木々の中、言葉で確かめ合わずそのままひとつになる。
あ、あっ。エ、エイジ……。
ずっと離れていた灼けるような甘い痛みに、はしたない声を突き上げてしまう。
でも琴子の身体が勝手に動く。窓に手をついて、もう片手は後ろにあるハンドルに掴まって揺らしていた。その女の責めに、英児も息を弾ませている。でもこちらも負けるはずもない。琴子の柔肌に指先を食い込ませ、強く打ち込んでくる。
うっ……あん、あんっ
「我慢すんなよ。雨も、雷も、緑が……お前を隠してくれている。見えてるの俺だけだ。だからもっと……」
だから。そんな堪えていないで。唇を噛みしめていないで、もっともっと……。俺に琴子を見せてくれよ。
英児の声も掠れて、時々裏返るほど喘いでくれている。
熱く繋がるそこにいつもの感覚が蘇る。皮膚と皮膚が琴子の身体の中でひとつに溶けあってくっついてしまうような……。ああ、あの時の。あの夜の続きだと琴子は思った。素肌で繋がっている。しかも今夜は森の中。雨の中。とろけるように英児に愛されているのに、琴子はふと思った。この森の生き物も。雨の夜でも愛し合うのだろうかと。いまの私達のように……。雨の中でも、愛し合いたくなったら。すぐに愛し合うのだろうか。
車の窓に蕩々と流れる雨が、まるでカーテンのよう。暗闇と、雨と、雷鳴が、こんな動物みたいに愛し合う人間の私達を隠してくれる。そっと愛し合うことを許してくれる。
あの時、無くしてしまった、止まってしまった時が動き出すかのようだった。
切り取られてしまったあの瞬間が、いまここに舞い降りてきた。戻ってきた……。
――いくぞ。
あの時の声なのか、いま彼が再び囁いてくれたのかは分からなかった。
ただ雨の音の中、鬱蒼とした緑と闇に忍んでいる中。ただただ本能で熱愛を身体中で感じている琴子は、自分が『琴子』ではなくて、ただこの男の為に共に傍にいる女なのだと思った。それは唯一無二の『つがい』。彼等と同じ営みで私達もまた身体を繋げて、愛しいものへと継いでいく。その唯一無二の――。
今夜、堪らなくて爪を立てているのは女の琴子ではなくて、男の指先。琴子の柔らかな尻に指を食い込ませ、力を注ぎ込んでくれて……。
……あっ。
奥に感じた。男が力の限り注いでくれた熱いものを。あの時得るはずだった英児の思いがじんわりと琴子の身体中に広がっていく――。
絶頂にたどりつき、琴子は途端に力が抜けてしまい果てた英児へと崩れる。彼の方が力尽きているはずなのに、そのままがっしりと抱き留めてくれる。
「琴子」
英児の声も息切れている。どっさりと彼の肩先に崩れた琴子だったが、そのまま力無くとも英児の首に肩に抱きついた。
「……私、もう大丈夫」
あの瞬間を取り戻せたから。英児の熱い素肌を抱きしめ、琴子はそっと肩先で静かに微笑む。
「本当にお前だけだからな。もうどこにも行くなよ。俺も行かせない」
熱い腕の中にいる琴子の黒髪を、優しく何度も何度も英児は撫でてくれる。そのまま、抱きついて動かない琴子の耳元で言った。
「お母さんに、挨拶しに行くな」
熱い唇が、耳たぶに口づけてくれる……。
「うん」
素肌のまま彼にぎゅっと抱きつく琴子の目尻に小さな涙が零れていた。
「でもさ。俺、実は週末から年に数回の出張にいくんだよ。東京に」
「え、そうなの」
でも大丈夫とばかりに、琴子を胸の中に強く抱きしめてくれた。
「モーターショーを見たり、メーカー商品の展示会や、買い付けをする時期なんだ。東京に半月ほど滞在して情報を収集しないと、こんな地方だからこそ、地域のユーザーの為に最新情報を肌で感じてこないとだめなんだ」
なるほど。と、琴子も納得。だからこのようなローカルではあるが『ここらの車好きがまず行く店』と言われるのだと。
「うん、待ってる」
「帰ってきたら、琴子とお母さんのところに真っ先に行くからな」
彼の肩先で頷いた。
外は、さらさらと優しい小雨。空にも雲の切れ間、緑の木々の上に小さな星が見えてきた。
Update/2011.8.6