××× ワイルドで行こう ×××

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 7.助手席に乗せて、帰りたい。 

 

 あまりにも都合の良い話が続けば、逆に疑ってかかるもの。
 誰もがそうなのか、琴子だけなのかわからないけど。少なくとも琴子はそう。

 嫌いじゃない。むしろ好感度急上昇中。だから困っている。
 暗がりの部屋、窓際においている小さなソファーに寝そべって、琴子は今宵の月を見上げて悶々としている。
 
 母は『騙されても良い』なんて言っているけど、あの母はいつも猪突猛進タイプでぶつかって失敗して落ち込んで立ち直る、そんな人だから今はぶつかっている最中で周りが見えなくなっている状態といっても良い。こんな時、父がいたら『やめておけ』と言うに違いない。
 お父さんがいなくなったから、私がしっかりしなくちゃ。そう思うことも良くあった。それでも流石の母も自分が倒れて、身体が言うことをきかなくなったらものすごく大人しくなってしまったのだけれど。蛍の夜から、なにかが吹っ切れて『元のイノシシ母ちゃん全開』になってきたりして……。
(やっぱり。私がここは警戒しないと)
 財産を乗っ取ることを考えている人が『財産を乗っ取られたらどうするんですか』なんて自分から言わない――。母と一緒にあの時はそう思った。でも『詐欺師』なら、わざとそう言って逆に安心させるのかも?
 小さな家しか財産はないといっても、これを担保にしたらある程度のまとまったお金は用意できるかも。何かの手口で『お金がいるんだ』なんて困ったことを相談されて、用意しちゃう。いかにも詐欺師的パターンだって考えられる。
 名刺だって。それだけ人から集めただけかも知れない。仕事関係なのか、どのようにして集めたのか確かじゃない。
 疑い始めたら、きりがない。
 でも――。
 薄く透けている青み帯びた雲が月を隠した。
 でも。琴子もそんな人じゃないと思いたい。全てが彼の誠意に見えている。信じたい。
 疑っているのは『今までの自分』。彼を信じているのは『彼に出会った自分』。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 彼と母の方が割り切りも要領も良いので、庭の手入れの話は直ぐにまとまった。
 彼と母がファックスのやりとりまでするようになり、琴子が早く帰れる日の夕に、わざわざ彼が業者を連れてきてくれ、日程も決まった。
 もう梅雨明けも間近の晴天の土曜日。彼が知り合いの業者と一緒に、また大内家へやってきた。
「よろしくお願い致します」
 母と共に、先日初めて顔合わせを済ませた植木職人に挨拶をする。
「タキさんからの依頼だから、任せてください」
 『タキさん』。植木職人の彼はそう言う。なんでも高校生時代の後輩なんだとか。じゃあ、彼も元ヤンキー? とか思ってしまう琴子。でもうん、確かに。植木職人の彼もそれっぽい風貌……かな? なんと言っても『靴下』かしら。琴子は植木職人の彼が、紫の靴下を履いているのを確認。そして。
「頼んだぞ、篠原」
 『うっす』。後輩に声をかけるお兄さんの足下も見事に『紫』。この前は赤だったなあなんて、思い出す琴子。あまりにも二人とも『らしく』て如何にも元ヤン男子軍団。
「あれ、琴子さん。なに笑っているの」
 琴子は首を振って誤魔化す。今はさらさらの黒髪でも、靴下は嘘つかないわね――なんて言えなくて。
「さて。俺は草引きでもするな」
「私もやります」
 彼はいつもの半袖ティシャツにジーンズ。琴子もタンクトップに長袖綿シャツ、そしてジーンズ。日焼けよけの帽子にロングアーム手袋という完全防備。それを見た彼が笑う。
「女の子って大変だな」
 自分がかぶっている帽子の大きなひさしに彼が隠れてしまったので、ちょっとだけ見上げて彼の顔を確かめる。そんな彼はもう日に焼けて浅黒い。
「滝田さんは、外でお仕事しているの」
「車庫で整備しているけど。まあ外みたいなものだよ。整備が出来た車を外で洗車したりワックスがけをして引き渡すから夏はどうしても焼けるな」
 本当に車屋さんなんだろうと、思う。
「滝田さんがお勤めの車屋さんは、どこにあるの」
「え、ああ。こことは反対の郊外、空港の近く」
 ――会社の名前、なんていうの。喉元まで出かかって咄嗟にやめる琴子。こんな詮索、厭らしい。そう思ったから。彼から話してくれるまで、待っているべきなのではないか。『信じてるなら』。それでも不安が収まらない琴子はつい。
「その車屋さんの社長さんはどんな方なの? やっぱり滝田さんと一緒で走り屋さんなの?」
 その問いに、彼が意外なことに出くわしたように目を見張った。琴子をじいいっと凝視している。
「え。私、なにか変なこと聞きました?」
 下心を見透かされたのかと思い、琴子はどっきり固まった。
「いや、なにも。あー、そうだなあ。なんていうか……琴子さんはやっぱり女の子なんだなあと思っただけ」
「え、え。どういうことなの?」
 社長さんのことを尋ねて、『その質問、女の子だね』てどういうこと? わけわからない?
 だけど彼が笑い出してしまう。
「あはは。うちの店の社長だろ。うん、生粋の走り屋。俺と同じ独身、もう夜ブンブンいわして峠道を走るのが大好き」
「イメージ通り。車屋さんは車が好きじゃないと駄目なのね」
 でも、彼がもう笑って笑ってどうしようもなくなる。琴子はますます首を傾げた。なんでそんなに可笑しい話だった?
「いやー。やっぱ、琴子さんは可愛い女の子さんなんだな」
 え、なに。いきなり『可愛い』て!? 『女の子さん』てどういう意図で言っているの? 意識しているだけにかあっと顔が熱くなってしまった。
「は、早くしましょう。お昼になっちゃう」
 ぎこちなく庭の片隅へと急いだ。彼も直ぐに真剣になって地面へとしゃがみ込む。
 作業を始めた彼も帽子を被る。車好きらしくF1レーサーが被っているようなキャップ帽。軍手をして、浅黒く焼けた手には小振りの三角鎌。それで地面をひっかきながら雑草を根こそぎにする。やっぱり手慣れていると思った。
 あまり庭の手入れをしたことがない琴子も同じ道具で頑張ってみるのだが、彼のように器用には出来ず、そして早くもない。梅雨明けが近い直射日光はじりじりとし、必死になっている分だけ汗を滲ませる。
 気がつくと、彼は庭半分向こうに行ってしまった。琴子は追い越されたところ、彼が琴子用に残したスペースをのろのろと片づけているだけ。
 庭木には脚立を登って高い木も丁寧に剪定してくれる篠原さん。彼もシャキシャキと枝を切り落とし進んでいるというのに。
 ちょっと情けなくなって、手際がよい彼をじっと見つめてしまっていた。
「琴子さん」
 彼が止まっている琴子に気がつく。出来ない女、『さぼっていないで、しっかりやれよ』と、何か小言でも言われるのかと構えた。
「充分だよ。俺とシノは、外で仕事すること慣れているからいいけど。琴子さんは室内のオフィスで長時間働けても、外は無理だって。中に入ってお母さんと休んでいいたらいい」
「そうっすよ。今日の日射し、完全に真夏日。熱中症とか馬鹿に出来ないんですよ。外で働く俺達がそう思うから。ねえ、タキさん」
 篠原さんまで――。
「そうだ。シノはお母さんに依頼されて仕事でやっているんだから当然だし、俺の場合は俺から『手伝う』と勝手に言い出したんだから。依頼主はなにもしなくていいんだよ」
 確かに、お金を払って依頼したからビジネスとしてはそうだろうけど。でも、言い方がとても優しい。この人達、ほんと優しすぎる……。
「いいえ。あと少しでお昼だから。うん、無理と思ったら止めるから大丈夫」
 やろうと決めた以上、彼らの優しさにこれ以上甘えて投げ出したくなかった。かといって、倒れたりして迷惑もかけたくないから、手元を懸命に動かし早くこの熱気から逃れようと働く。
 そうして目の前の雑草たちに集中していると、片腕が少し熱く感じた。
「無理しなくても」
 彼が隣に来てくれていた。彼の体温が肌に伝わる――。でも南側、日射しが琴子に当たらないようぴったりと日陰になるよう。すぐにわかった。彼のさりげない気遣いだって……。そのせいか、顔のあたりが少しだけヒンヤリしてきた。
「ちょっとしか出来なくて情けない。滝田さんがほとんどしてくれているし」
「琴子さんって、疲れていても疲れていないと言ってしまう頑張り屋なんだろうな。だからあのときも『徹夜明け』。真面目だから投げ出さない。堅実なんだ。お父さんの雰囲気、お母さんの雰囲気、この家を見ただけでわかるよ」
 そんなこと、初めて言われた。いや、でも当たっているだろうし、たぶん、そう見られている。でも琴子一人のことを、しっかりと語ってくれた人は初めて。
「ただ。両親に教えられるまま生きてきただけです。そうしていれば、『皆と同じように、同じ道で同じ事が起きて普通に生きていける』。当たり前だと決めつけていたんだと……最近はつくづく思うの」
 地面から削いだ雑草を彼に負けないよう急いでかき集める。そして彼も手を休めない。もう彼の軍手は真っ黒だった。
「俺やシノのように、馬鹿みたいにひねくれた時期なんてなかっただろう」
「そうね……」
 でも、違った。ある時から少しずつ……。
「でもね。待っているだけの自分だから三十歳過ぎちゃったのかなあとも思っているのよ。真面目に生きていれば黙っていてもちゃんと普通どおりに生きていけるって」
 でも、違った。真面目にさえ生きていれば――きちんと手に入れられるものが手に入る、適齢期に起きることが起きる。たったそれだけを信じて『待つばかりのスタンス』、馬鹿だったなと思う。真面目に生きてきたのに、どうして私はまだ結婚していないんだろうとか、真っ直ぐに生きてきたのに、どうして三十になった途端、父と母が倒れたんだろうとか。思わぬ出来事に振り回されているうちに、恐れている三十歳なんていつのまにか超えていた。落ち着いて気がついたら三十二歳。仕事と家を行き来するだけ、最後の頼みだった彼氏には避けられて破局。見合い話だって。
 だけれど、琴子も母と同様。ちょっと違う考え方が芽生えてきていた。
 目の前の鎌を懸命に動かす、動かす。
「私ね、大人になるってこうしてお庭の手入れがちゃんと出来ることだと思うのよ」
「なにそれ」
 琴子が削いだ雑草を、今度は彼がまとめてゴミ袋に放り込んでいくコンビネーションがいつのまにか。
「お洒落な大人とか、仕事が出来る大人とか。男性に愛される女性になるとか……。それもすごい素敵なことかも知れないけど、基盤はやっぱり『家を守れること』だと思うのよ。父が死んで母と二人になってつくづく思っている」
 そしてついこの間まで、そこから母と一緒に目を逸らしてきた。だからこの庭が荒れていた。
「自分の身の回りをきちんと綺麗に出来る、快適に暮らせる。生活が出来る。それが出来てからお洒落で、仕事に打ち込んで……だと思うの」
「うん、そうかもしれない」
 日射しの中、立ち上がっても彼は決して琴子に日射しを当てまいと影になってくれている。
 彼のティシャツも既にしっとり濡れていて、肌に貼り付いているのがわかる。首元も額も大粒の汗。長めの前髪もべっとり濡れて額に貼り付いている。それを軍手で拭うから、顔中に土。汗びっしょりの男の人、汚れていて。そんな姿で彼は琴子の側にいるけれど、全然嫌じゃない。会った時の男っぽい嗅覚にも驚かされたけど、彼ってどこか野性的。今日の彼も、とっても逞しくて頼もしい。
 そんな彼に見とれていると、彼が雑草を掃除しながら急にニコリと琴子に微笑みかけてきたから、どっきり……。
「安心したよ、俺」
 『なにが?』と、琴子は焦る気持ちを誤魔化すために、自分も軍手で顎の汗を拭った。
「ついこの間まではさ、お父さんがいなくなった悲しみから抜け出せていなかっただけだよ。俺らの周りでも片親になった奴ら結構いるよ。三十過ぎると少しずつその境遇を食らう奴らがちょこちょこ出てくるんだよな。琴子さんもちょっと早かったな。そいつらが言うんだよ。肉親を亡くすと『三年は駄目だ』って」
「三年……」
 そろそろその三年が来ようとしているのは確かだった。
「それまではなにもしなくていいんだって、俺達は言い合う。いくつもそういう知り合い見てきたんだ。庭の世話していた主がいなくなった家は外観も荒れるよ。庭も荒れている。俺、琴子さんのこの家を見た時『一緒だ』って思ったわ。シノにもそれ話した。あいつも二十代で母親なくしてるからさ」
「そうなの」
 最後に酔芙蓉の枝を切っている篠原さんの植木職人姿を遠く見る。
「すぐにわかるんだって。主が亡くなって活気が無くなった庭だとか、何か事情があって庭まで気配りが出来なくなった家とかはあっという間に庭の相が変わるらしい。それはそれで仕方がないその家の歩みの途中、荒れる時期もあっておかしくないとシノは言うね。その時期が過ぎ去って、庭が再び生き返るのがまた嬉しいんだってさ。だから、今回も直ぐに引き受けてくれたよ」
 『そうだったんだ』、琴子は立ち上がりまた汗を拭う。篠原さん、自分とたぶん同世代。自分だけかと思っていた……。
「庭の手入れを始められたということは、琴子さんとお母さんがお父さんの死を受け入れて、前へ歩き出して、お父さんが残した家を今まで通りにして生きていこうと思えるようになったんだと。安心したよ」
「私の周りに同じような境遇の人がいなくて……。私一人だけみたいな気持になっていたけど。私、やっぱり甘ったれなのね」
 また泣きそうになったが。でも今の琴子は直ぐに微笑みに変えられる。目の前で汗だくの彼も笑ってくれていた。
「誰だってそんなもんだろ。気にすんなよ。わかってくれない人もいっぱいいるかもしれないけどさ。誰もが通る道、我が身になってわかってくれる時も来るよ」
 うん、と琴子も笑顔で応えられる。
「あの、本当に有り難う」
「もうさ、それ、ヤメねー?」
 また不満そうな顔。怒っているような顔をする。でもだんだん琴子も慣れてきた。これもきっと彼にとっては『普通の顔』なんだって。
「俺もシノも、家族亡くして乗り越えようとしている知り合いの家を何度か手伝ってきただけだから。同じように気になっただけだって」
 また。特別じゃない。いつもやってきたことだって彼は言う。でもそれって……。
「滝田さんも篠原さんも、友人を大切にしてきたんですね」
「ふつーじゃねーの、それって」
 貴方達にはね。その普通がなかなか手に入らないこと多いと琴子は思っているけど、彼らには『普通で当たり前』だなんて羨ましい。つっぱっても仲間は大切――という彼ら独特の精神なのだろうかと思ってしまった。
 庭、あと半分。まだ少しかかりそうだが、彼と並んで黙々と草引きに庭掃除に勤しむ。
 暫くすると、母が縁側に出てきた。
「ねえ、ねえ。ちょっと早めにお昼ご飯作っちゃったのよ〜。暑いし、少し早いけど休憩したらどうかしら」
 彼が笑顔で立ち上がる。
「いや、お母さん。グッドタイミング。今日は昼までは頑張れそうになかったんで。早めに休んで午後早く片づけます」
 頑張れないなんて、嘘。汗びっしょりでも彼の集中力も動きもまったく衰えてなかった。意地だけで頑張りそうな琴子が頑張りすぎないよう、彼が先へ先へと片づけてしまうのもわかっていた。タフそうな顔して、そんな『昼まで無理』なんて疲れた顔――。嘘つき、全部、琴子を休ませようとして。
「あらあら、汗びっしょり。これ冷たいおしぼり使ってね」
 お兄さんも、脚立から降りてきた篠原さんも嬉しそうにおしぼりで顔を拭い、首を拭く。オヤジくさいとか良く敬遠される行為なんだろうけど、今日の彼らはすっごく『男らしい』と思う。
「あ、お母さん。このホース使ってもいいですか」
「いいわよ」
 しかも庭用のホースを手に取ったかと思ったら――。そこから出てくる水を頭からかけている!
「はー、これが一番きくな!」
「いいなー、タキさんっ。お母さん、俺も借りて良いですか!」
 母もちょっとビックリしながらも、もう笑っている。
「いいわよ、いいわよ。バスタオル持ってくるわね。ほんと、男の子って豪快ねー、いいわー」
 そのうえ、二人でホースで水の掛け合いまでしてふざけ始めたりして!
「うっわ。兄貴、ひでーー」
「どーせ、直ぐに乾くんだろ」
「くっそ。俺だって」
「うわ、馬鹿。やめろよ!」
 ノリが……高校生みたい。いい大人になったはずの男二人がもう。と思ったのだが、やっぱり笑っちゃう。
 そして琴子も思った。
 ――私も、騙されても良い。
 ううん、違う。『彼には騙せない』。彼は嘘をつかないって自信がある。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 午後の作業に移って直ぐ、篠原さんの仕事が終わる。
 やはり彼らのスピリットなのか、『庭の他の掃除も手伝う』と篠原さんが言い出したのだが。
「お前んとこ、嫁さんがいま妊娠中だろ。自分の仕事終わったなら、もう帰れ」
 彼が急にきつく言う。それでも後輩の彼は手伝うと引かなかった。
 琴子と母もそれを知って、もう充分、有り難うと植木職人の彼をなんとか帰路につかせた。
 やっと後輩の篠原さんが帰って、彼もホッとした様子。お昼の作業再開、さらに日射しが強くなっているが、午前と同じく彼が日除けになってくれながらあと庭半分、二人で取りかかる。
「慣れてきたじゃん、琴子さん」
「慣れた頃に、もう終わりそうだったりして」
 二人で笑いあい、隣り合っている彼と顔を見合わせる。意外と近かったので互いにビックリしてしまう。
「俺……。新しいゴミ袋持ってくる……」
 梅雨の間に伸びに伸びた雑草もだいぶなくなった。琴子は照れて行ってしまった彼の背を見つめる。
 まさか。今日半日、雑草を片付けながら彼と語り合えるとは思わなかった――。変な気分だけれど、今日は彼といろいろ話せて良かったと……。
 あと僅かという時だった。空がふっと暗くなり、突然、大きな雨粒がぼつぼつと庭に黒い点を落とし始める。
「夕立だ」
 彼が慌ててビニール袋などを軒下に集める。琴子も手伝う。だが夕立というものは、あっという間に激しくなる。一分もしないうちに激しい水しぶきが散る大雨となって二人を襲った。
 それでも二人で道具など、散乱したままにしないよう片づける。あっという間にびしょ濡れになった。
「二人とも、戻ってきなさい」
 母の声を合図に、琴子も彼も一緒に玄関へ駆ける。
 その途端。空がピカリと光り同時に『ドドドドン!』と空を揺るがす雷鳴まで。
 玄関の軒下に辿り着いたものの、二人ともずぶ濡れだった。
「やだ、もう。だから夕立って嫌い」
「俺も。この季節の夕立はやっかいだよな。これで外でワックスがけしていたら最悪なんだ。俺の敵」
 激しい雷雨。この地方、夏の間に激しい夕立になることは良くあること。そんな季節が到来といったところだろう。
「あと少しで終わったのに。もう今日は駄目だな」
 目の前、すぐ側にいる彼を見て、琴子は急に言葉が出なくなった。だって……すっごいドキドキしているから。
 びしょ濡れの彼。すごい大人の男……の匂い? これが彼も言っていた『匂い』ってもの? 琴子もそれを嗅ぎ取っていた。
 汗だくで身体に貼り付いているティシャツが雨でますます彼の肌にぴったり貼り付いて身体の線を露わにして……その、胸先とか男っぽい体毛まで透けちゃって……。ずぶ濡れになった長めの前髪かき上げると、ちょっとワイルドなオールバックになって。それでいつもの怒った顔で空を睨んだりして。それに確かに、汗なのか体臭なのかトワレの香りなのか。そういう入り交じったものが濡れた途端に、琴子の鼻先にふわりと取り巻いてまとわりつくように……。これがまさか彼が琴子からも嗅ぎ取っていた『匂い』? 男性から鮮烈に感じた初めての匂い。ある意味初体験。ドキドキしないはずがない。
 もしかして、もしかしなくても。ああ、ダメだわ。きっと私、私……。
「もうーすっごい雨ね。ほらバスタオルよ。二人とも早く入りなさい。あったかいコーヒー入れてあげるから」
 母が玄関を開けて迎え入れてくれたところで、琴子ははっと我に返る。
「俺、汗だくになると思って着替え持ってきたので車に取りに行きますね」
 彼がスカイラインに走っていく。
「琴子。あんた頑張ったね。有り難うね」
 半日、庭の手入れをやった娘を見て母は喜んでくれた。
「うん。私、シャワー浴びてくる」
 でも今は。母の顔さえまともに見られそうになかった。

 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 シャワーで軽く汗を流す。もう作業も出来ないようだから、くつろげる楽な格好になろうとマキシ丈のゆったりした真っ青なワンピースに着替える。カーディガンを羽織ってリビングへ。
 その頃にはもう、雨も小降りになり雷鳴もかなり遠くで響いているだけだった。
 リビングへ行くと、何故か彼の姿がない。でも飲んだあとがわかる空のカップがテーブルにある。
「滝田さん。もしかして帰っちゃったの」
 琴子のコーヒーを淹れてくれる母が首を振る。
「雨が小降りになった途端、また外に行っちゃったのよ。片づけてくるって。もう今日はいいよって言ったのに」
 庭側の窓へと振り返ると、本当に着替えた彼が腰をかがめて集めきれなかった濡れた雑草を片づけている。
 母がほうっと息をついた。
「働き者だわ。それに責任感も強いわね」
 母はもうこれ以上褒める言葉も見つからないと、感嘆のため息しか出てこない様……。
 琴子も外へ出た。
 なのに庭にいない。どこにいるのかと雨上がりの庭を歩き、裏方へと回る。すると倉庫の脇にある紫陽花の植え込みのところで彼が立っていた。
「滝田さん。今日はもう……。貴方もせっかく着替えたのに、また汚れてしまう」
 彼が振り返る。着替えた琴子を見て、少しだけ目を見張ったが直ぐにいつもの微笑み。
「うん。ゴミ袋をこっちに片づけただけ。終わったから」
 庭先から目立たないところへと片づけてくれたようだった。本当に気が利きすぎて……。
「この紫陽花は咲いている真っ最中だからなにもしないでおくってシノが言っていたから。季節が終わったら、また綺麗に整えてやってくれだってさ。そうしたら来年はもっと沢山花をつけるだろうからと言っていた」
 その紫陽花も、伸び放題。花が一つだけ咲いている。雨に濡れ、風に揺れていた。
「助かりました。私もやっとやる気になったし」
 有り難うじゃない言葉ってなんだろうと思ったら、そう言っていた。有り難うばかり言うと彼が嫌がるから。彼も今度は素直に笑顔で琴子の言葉を受け取ってくれる。
「もう大丈夫そうだな。琴子さんもお母さんも」
 彼が琴子の目を、初めて真っ直ぐに長く見つめてくる。琴子の胸がぎゅっと固まった。
 ときめきじゃなくて。『この人、もう去ってしまう』という切なさだった。
 ――もう大丈夫。俺がいなくても。じゃあな。またいつか。これからも頑張れよ。
 そんな顔をしている。コートを届けるだけ届けて行ってしまったあの日のように。
 急に言葉が出なくなる琴子。彼のそんな顔をみたくなく、目を逸らしてしまう。あの日のように二度も見送るなんて嫌、もう嫌。
 それにちょっと腹立たしくもある。女心揺らすだけ揺らして平気な顔。俺、普通のことしているだけだからって顔。だから、もう必要なくなったなら俺は帰るなんて……。
 でもそんな琴子を彼がじっと静かな微笑みで見下ろしているのが伝わってきて、熱い……。
「なんか、女っぽいな。それ」
 夕が近い雨上がりの涼しい風が、紫陽花を揺らしている。琴子の湿っていたはずの毛先も軽くそよいだ。
 足首でゆるやかなに波打つワンピースの青い裾。サンダルの足を隠したりちらりと見せたり。そんなことを見下ろして、彼と目を合わせない。
「かっちり仕事姿のOLさん、お母さんを支えるしっかりお嬢さん。外仕事は肌を出さない慎ましく女の子らしく。いつもきちんとしているイメージがあるから」
「お休みの日は、ルーズな服でだらだらしているの。朝寝坊だってするし、母任せでなにもしないし」
「ふうん。少しは気を抜いたりするんだ。ルーズな琴子さんがいると思うとホッとする」
「そんな。私だって気を抜くわよ」
 彼が小さく笑ったのだが……。
「いや、しっかり者で気を抜かない。慎重な子かなと思っていたから」
 『思ったから、なに?』と、琴子。
「俺みたいな男が、大きな世話ばかりしたかもしれない。ちょっと強引だったかと反省もしているんだ。琴子さん、びっくりしているんじゃないかって」
 その通りではあった。だが。
「貴方のこと何も知らないから。本当は流されちゃいけないと警戒した時もあったけど。でも今はとっても感謝しています。本当よ。信じてくれたら嬉しい」
「信じるって……。俺が信じてほしいと思っていたのに……。シノにも注意されたよ。相変わらず強引だって言われた。特に女二人だけになった家に近づいて、一歩間違えたら相手に都合の良いことばかりいって気持ち良くさせて騙す詐欺師のやり口にそっくりだって」
 後輩の篠原さんが。先輩の彼がこんなに気にしてしまう大きな釘を刺してくれていただなんて。しかも琴子も一度は疑った『詐欺師』! 
「あはは! そうよなのよね。実は私も『口が上手い詐欺師かも』と少しだけ思っちゃったもの」
 正直に言って笑ったら、彼がまた仰天した顔に。
「さ、さ、詐欺師じゃねーよっ」
 ムキになって怖い顔で怒るんだけれど、でも見慣れてしまった琴子は笑う。
「うん。詐欺師じゃないって、もうわかっています」
 そして彼の目を見上げた。
「ちゃんと信じています。たとえ、本当に騙されていても。母も私も貴方になら騙されても良いわねて言っているの」
 『お母さんまで。マジかよ』――。彼が目元を手で覆い、すこしだけ足下をふらつかせた。それだけショックのよう。
「俺、馬鹿だな。そんなふうに疑われるだなんて、警戒されるかも嫌がられるかもなんて、全然思わなかった」
「だから。貴方が『馬鹿正直』だって通じたんです。貴方が本気で心から助けてくれているんだって……」
 彼も黙ってしまった。また紫陽花を見て、機嫌悪そうにむくれた顔になった。詐欺師と疑われたことがそれだけ不服らしい。
「気にしないで。私たち母娘が立ち直ろうとしているのだから。本当に感謝しているの」
「だから、礼はもういいって何度言えば……」
「最後にもう一度だけ言わせてね。有り難うって。怒らないでね」
 琴子に気持があっても、彼はいつも通りにお世話してくれただけ。行かないでと言ったら……困った顔をするのだろうか。
「怒ってねーよ」
 気がつくと、彼の長い逞しい腕が琴子の肩を抱いていた。
 ぐっと彼の白い長袖シャツの胸元に引き寄せられる。
 しかも。あっという間に彼の唇が琴子の唇と重なりそうに……。あまりの素早さに身動きも出来ずに目を見開いているだけだった。
 でも、唇に甘い味はまだこない。琴子の唇をふさごうと身をかがめた彼が、唇の側で熱い息を吐いて止まっているだけ……。
「……俺、どうかしている」
 離れてしまう。衝動的になったが、やはりそれは衝動的であって琴子の為じゃないと思ってくれたのだろうか。
 だから……。今度は……。琴子から彼の側に寄った。ほんの少しだけ。彼の白いボタンシャツの胸元にそっと額をつけただけ。
「俺なんかで――」
 寄り添った琴子の耳元で、彼が自信なさそうに囁いた。そして琴子は僅かに頷く――。『いいの』と。
 すると。首筋に熱い感触。唇じゃない……。彼の最初の口づけは、琴子の耳たぶの下、首筋。
「今日もする。あの匂いが」
「シャワー浴びちゃったのに?」
「うん。動きまくって汗をかいてくたくたに力尽きる前の女の匂い、そして今日は石鹸の匂い……」
 そういって首筋に鼻先をこする彼。それだけで、琴子の肌は痺れが走るように震えた。
 だが琴子も負けずに、彼の首筋に唇を寄せた。
「私も……。男っぽい動物のような匂い、感じている。初めてよ。こんなに男の匂いを感じるのは」
 本当だった。汗と体臭と微かなトワレの匂い。動物的な男の匂い。こんな匂いをこんなに鮮烈に感じたことなんてない。
 互いに分け合う『本能の匂い』。それを嗅ぎ合ったことを確認するように見つめ合う。互いの匂いを分け合った同志――。そんな気がした。
 だからもう、躊躇いはなかった。もう優しいキスは必要ない。互いの唇を奪って吸ってこじ開け、その奥の奥まで貪る口づけ。
 それだけじゃなかった。琴子を抱きしめながら唇を吸い続ける彼の腕は、琴子の素肌を探すようにして背中を撫で回している。だが、それだけでは気が済まなくなった男の手は、今すぐにでも女を裸にでもするような手つきで琴子の肩を丸出しにする。カーディガンもワンピース紐も、肩の丸みに沿ってするりと……。
 ちょっぴり強引で熱い彼の手。肌を求められたのだと思うと『あ……』と、喘ぐような声が漏れ出てしまった。
 その露わになった白い肩先を彼がじいっと見つめている。
「このまま、助手席に乗せて連れて帰りたい。遠く連れて行って……もっと……」
 剥き出しになった白い肩に、彼が吸いつく。何度も吸って唇で愛撫して離してくれない。もうそれは既に男に脱がされ、素肌を撫で回されている錯覚に陥るほど……。
 熱く灼けて身体の奥からとろけたものが溢れてくるのがわかる。そして甘い疼きに突き抜かれて漏れた吐息が雨上がりの風にさらわれる。
 少しだけ赤く染まり始めた青い紫陽花の花びらのように。琴子の肩先に赤い痕が残った夕。

 

 

 

 

Update/2011.5.11
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