××× ワイルドで行こう ×××

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 8.もう、何度も抱いた。 

 

 ひと月の内ある時期を迎えると、また残業続きになる。
 地方誌の発行が近づいていてくる月下旬から、新刊を準備するための印刷が立て込んでくるからだった。あるいは、月初めに企画的キャンペーンを控えている企業の広告やパンフレット等々。
 この頃になると、琴子はデザイン事務所からパパ社長の印刷会社製版課に手伝いに回されることが多い。
「琴ちゃん、これマックで間に合わないから。レタッチしてくれる」
 製版課長から、ダイレクトメールや挨拶状などの小物を回される。
 デジタルじゃない。昔ながらの製版をする。下に蛍光灯をつけているガラス張りのライトテーブルのスイッチを入れ、ネガフィルムを置く。琴子は眼鏡をかけ、カッターナイフ片手に作業開始。
 ああ、今日も夜の十時を越えそう。琴子は覚悟する。夜食をオーダーするか、帰って母が作ってくれた食事をするか。選択を迫られる。でも……ここの出前夜食は油っこいものが多く、下手すると翌日胃もたれする。まだまだ続く月末の山場、ここは空腹を我慢し、帰宅してゆっくり食べようかと考えながら……。
 一人ぽつんと作業をしている中、ライトテーブルの上に置いていた携帯が鳴る。表示が『滝田英児』。琴子は持っていたカッターナイフを放り、すぐさま手に取る。
『こんばんは。元気?』
 彼の声に、つい頬を緩めてしまう琴子。はっと辺りを見回し、誰もいないのを確認。
「ええ、元気ですよ。先日はお疲れ様」
 庭を手入れした日から三日ほど経っていた。だけど、あれから琴子の身体は熱いまま。特に肩先の……。
『あのさ、食事でもどうかと思って』
 彼から初めて誘ってくれ、琴子はまた一人でにやけそうになって思いとどまる。
「ごめんなさい。いま、月末の締め切りで残業続きで」
『そうなんだ。またあれぐらいの時間になりそうなのかな』
「そうですね……。十時、もしかしたら十一時」
『そんな遅く?』
「うん。ですから……残念ですけど。また今度」
 ほんと残念。せっかく誘ってくれたのに。デザイン事務所自体の仕事はとっくに片づいているのに、古巣での腕前があるだけに手伝いをすることになっていて……。本当なら帰っても良いはずなのに。無理を言えば、帰らせてくれるかもしれない。いや。どちらの仕事も捌けることが、琴子がこの会社に勤め続けている意義でもあると思い直す。
「あの、私から連絡しますね。私も一緒に食事したいので……」
『うん、わかった。忙しい時に、ごめん。じゃあな』
 それだけ言うと、ぷっつりと彼から電話を切ってしまった。
 きっぱりしている人だってわかっていたつもりだけれど――。そんなあっさり。しかもぶっきらぼうな言い方。
 残念だと思ってくれたから? 機嫌悪くなっちゃったの? 嬉しいような、ちょっと心配のような。
 ノースリーブの白いフリルブラウス。なんとか隠れている肩先をそっと見つめる。あの夕の熱い痕が薄くなっても、熱は籠もったまま。
 ブラウスの袖口をめくったら直ぐに見えてしまいそうな、秘密の痕。
 それだけを感じ取って、琴子は甘い誘惑を断ち切ろうとする。
「仕事、仕事」
 どんなに今ときめいて会いたくても。働き者と母も認めている彼に、仕事をおろそかにした女と思われたくないから堪えた。それに……『やりつくした女は色っぽい』と言ってくれた彼の言葉を無にしたくない。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 まだ納期まで少し日があるからと、製版課のメンバーが夜の九時で作業を切り上げた。琴子も一緒に終わりデザイン事務所に戻る。
 デザイナーも帰った後だったが、ジュニア社長だけが自分のデスクでノートパソコンに向かっていた。
「遅くなったな。送ってやるよ」
 社長が待っているとしたら、それだった。製版の兄貴達やパートのおばさんの車に乗せてもらって帰ることも多いが、その約束がつけられなかった場合を考えて、上司として社長が製版の手伝いを終える琴子を待ってくれていることも多い。
「申し訳ありません。いつも」
 そろそろ本気で運転免許でも取ろうかと思っている。気持が前向きになってきて、やっとそう思えるようになった。
「外で待っているな」
 社長から外に出て行く。
 事務所片隅のロッカーから、夏用にと衝動買いしてしまった白いハンドバッグを肩にかけ、事務所の外へ出る。
 事務所に鍵をかけた社長が車へと向かう。琴子もいつもどおり、助手席側に向かいドア側へと立った時だった。
 事務所の小さな駐車場、社長のオデッセイがぱあっと明るい光で照らされた。まぶしくて、琴子は社長と一緒に手をかざし、光がやってくる方へと振り返る。
「なんだあの車。急にこっちを照らしたりして」
 銀色の、また車高が低い……。ん? でもスカイラインじゃないし。でも車から感じる妙に身近に思えるこのオーラはなに。
 ジュニア社長も興味深そうに銀の車へと目を凝らす。
「ゼット、フェアレディZ。しかもZ34じゃないか」
 『うわ、格好いいなあ』と急に社長がうっとり。きらりと夜灯りに浮かぶ走る鎧のようなボディの車、そのドアが開いて運転手が降りてきた。
 だがその車から現れたのが、紺色作業着ジャケット姿で煙草をくわえた男の人。琴子はギョッとした。
「こんばんは」
 えーっ! 『彼』!
 『滝田さん、どうして!』と叫びたくなった。だってまだ勤め先なんて話し合ったことがないのに!?
「え、琴子。お前の知り合い?」
 社長に聞かれて、琴子はどう説明すればよいかと混乱する。
 まだ恋人とかそんなんじゃないし、どう言えばいいの? 迷っている琴子に構わず、彼がこちらへと手を振ってくれる。
「琴子さん、お疲れ。迎えに来た」
 というか、滝田さん、『嬉しいけど』いつも驚かせすぎ!
 向こうがはっきりと『彼女を迎えに来た』と言ったので、社長も唖然とした顔で琴子を見た。
「あの……。そう、知り合いなんです。彼に送ってもらいます。お、お疲れ様でした!」
 なんの説明もせず、琴子は上司を放って駆けだしてしまう。
 今は今は。まだそっとしておいて。あとで明日でもなんとでも事情を説明するから。『ごめんなさい、社長』。きっと心配するだろうから――。まるで心配性の年が離れた兄から逃げ出すような感覚。
 白い夏のミュールで琴子は銀色の日産車まで走る――。
 最初は社長から逃げ出した心苦しさいっぱいだったのに。煙草をくわえて笑っている彼の顔を見たら、もう……。琴子の気持は、彼の煙草の匂いがする胸の中に飛び込む、そんな気持で走っている。
「どうして私の会社がわかったの?」
「どうしてかな」
 彼の目の前にたどり着くと、すぐさまノースリーブの肩に腕を回して抱き寄せてくれた。
 そしてそのまま琴子を助手席へとエスコートしてくれる。
「これも滝田さんの車?」
「そう。日産車が好きなんだ。乗って」
 開けてくれた銀色のドア。琴子は迷わずに助手席のシートへと乗り込んだ。
 ドアを静かに彼が閉めてくれる。今度、彼は車の後ろへと回って運転席ドアへ移動……するのかと思ったら。どうしたことか彼はジュニア社長が佇んでいるところへ行ってしまった。
 『私の上司になにを言うつもりなんだろう?』。琴子は思わず助手席を降りたくなる。やはり大人のきちんとした説明を社長にするべきだったかと――。
 彼とジュニア社長が言葉を交わしている。でも? あら? ジュニア社長がなんだか笑っているんだけど? しかも親しそうに彼と手を振り合って、ジュニア社長もオデッセイに乗り込んで納得した様子。
 彼が戻ってきて運転席に乗り込んだ。
「うちの社長と……顔見知りだったの?」
 彼が煙草を車の灰皿に押しつぶして笑う。
「うん。親父さんの車も社長ジュニアさんの車も、奥さんのも。うちで車検してくれたり、整備に出してくれるんでね。それから今のオデッセイは社用みたいだけど、他にジュニアさんのプライベート愛車を頼まれることもあるんで」
「社長がお客さんだったってこと?」
 『そう』と彼が笑った。
「私がここに勤めているのはいつ判ったの?」
 でも彼は意味深にふと笑っただけ。直ぐには教えてくれず、車のエンジンをかけた。
 スカイライン同様、アクセルを踏み込むとブウンとエンジンが高く唸り始める。ハンドルを切ると、銀色の車がぐうんっと力強く走り出した。
 会社がある小道から、大きな国道へと出る。夜の十時前、少し車が減ってきた夜の街を銀色ゼットが走り抜ける。
 真っ直ぐな走りに落ち着くと、彼がやっと教えてくれた。
「何故、琴子さんの勤め先が判ったか。気がついてないんだな。俺がコートを渡した日に抱えていた茶封筒に、『三好堂印刷』と書いてあったんだけど」
 はっと気がつく。あの『見合い写真』を入れて持って帰った封筒。確かにあのとき、抱えていた――と。
「すっごい観察力」
「かもしれない。だってさ。こんなお嬢さんを徹夜させる会社ってどんな会社だよってちょっと気になったもんで」
「そうなの。この仕事って、時間容赦ない時があるの」
「だよな。そういう業種らしいのは聞いたことがあるんで。だから納得したんだけど」
 また高いエンジン音を響かせ、彼の車がバイパスを快走する。しかも琴子の家とは反対方向へ――。
 でも、オレンジの外灯に浮かぶ夜のバイパスを走り抜けるこの車に乗っていると、力強く彼にどこかへと手を引かれているようでそのまま身を任せてしまいたくなる……。
「飯、食った?」
「ううん。まだ。帰ってゆっくり食べようと思って」
「お母さん、待っているんだ」
「大丈夫。月中から残業期間と心得てくれていて、食事だけ準備して先に寝るようにしてもらっているから」
 『そっか』と、彼がホッとした顔。
「あと一時間、腹減っているの我慢できる?」
 どうしてと聞きたかったけど。このまま任せて彼ならどうするか。そんな期待感。
「うん、出来る」
 助手席から微笑むと、やっと彼と目が合う。でも運転中なので直ぐに視線はフロントへ戻っていく。
「待ってな。いいとこ連れて行ってやるよ」
 さらにアクセルを踏み込む彼。銀色の車がぐんっと夜の国道を突き進む。
 車高が低い車の目線は普通の車より下なので、道路が直ぐ下、アスファルトを這うように感じてしまう。走り方がちょっと重い? シートベルトで固定している身体にちょっとした重力を感じ、シートに押しつけられる感覚も。
 でも。こんなスピード感、初めて。まるでロケットに乗り込んだ宇宙飛行士の気分――。琴子の心が高揚していく。
 唸るエンジン音、がっしりとした深いシートに乗っている琴子はぐんぐん引っ張られ連れ去られるような感覚に、また胸踊らせていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ねえ、どうして迎えに来てくれたの?
 どうしてか、後でわかるから。
 
 銀色のフェアレディZは、市街を飛び出し静かな海沿いの町をゆく。窓を開けると、潮の香り。
 長い長い海岸沿い。このまま行けばかなり田舎の漁村へ行く細い国道。静かな二車線の国道だけれど、潮騒と穏やかな海に癒される色合いに溢れている。
 それに今夜は月明かり。海に反射して、外灯が少ない国道もとても明るく感じた。
「大きな月」
 まだ昇ったばかりのよう。こんな拓けた海で見るととても大きい。
「ちょっと遅かったか。まあ、仕方がないな」
「遅かったってなに」
「それもあとで」
 ひたすら続く海の国道を走るが、彼は面白そうに笑うだけで教えてくれない。でもそれも楽しい琴子。彼はいつも驚かせて、そして……最後は笑顔にしてくれるから。
 『着いた』と言って彼が車を止めたのは、海岸国道沿いにぽつんとある小さな喫茶店。あまり明るくはない道筋にほんわりとした明かりを灯してこの時間も営業中。
 銀色の車を降り、彼と一緒にその店に入った。
 本当にこじんまりとしたカウンターに、奥まったフローリング部屋にテーブル席がいくつかあるだけの。それにこの時間、もう客はいなかった。本当にここで食事が出来るのかと思ってしまった琴子だが。
「いらっしゃいませ」
「まだ食える?」
「まだ大丈夫ですよ」
 カウンターにいるマスターが静かに微笑み返しただけ。顔見知りなのようだけれど、店主と客という関係に徹しているのか二人にそれ以上の会話はなかった。
「こっちの席に行こう」
 奥の窓際席へと連れて行かれる。だがカウンターやレジ棚でよく見えなかった奥部屋の窓がやっと見えた時、琴子は息を呑んだ。
「すごい。海と月」
 窓が一枚の絵画のよう。穏やかな夜の海と空に昇っている途中の大きな月。絶好のロケーション。月が映る海面には、ゆらゆらとした檸檬色のリボンのような道がこちらの店へと向かっている。
 彼が笑う。
「そう。今日はこの時間帯に月が昇るってことを新聞の暦を見て気がついたんだ。だから琴子さんに見せたかったんだよ。でも残念。月が出てくる時間に連れてきてあげられなかった」
「それで、電話をしてくれたの?」
「うん。でも仕事じゃあ仕方ないって諦めたんだけどさ。でも、どうしても見せたくて。ダメ元で迎えに行って、月が昇りきってしまう十時を過ぎても会社から出てこなかったら帰ろうと決めて、あそこで……」
 やっぱり。彼ってとっても素敵なものを届けてくれる。コートも蛍も、そして今日は月。
「ほんと、滝田さんって。その日その時一番素敵な場所を知っているのね」
「そのかわり。洒落たレストランじゃないけどな」
 琴子は首を振る。こんな素敵で嬉しいサプライズはなかなかないと、彼に微笑む。
 それに『琴子さんにどうしても見せたくて連絡した。仕事中でダメだったけど、どうしても連れて行きたくて待っていた』なんて……嬉しくないはずない。
 彼と向き合って席に座る。月夜の演出なのか、店の灯りは最小限。二人のテーブルは青白い月明かりに照らされていた。
「うーん。でもおすすめの一品が『焼きうどん』というのは、お洒落なOLの琴子さんには言いにくかったりする」
 向かいの席で彼が困ったように唸ってしまう。
「ううん。美味しそう。オススメならそれ食べたい。お腹すっごい空いている」
 それならと、彼がマスターを呼んだ。
「焼きうどん二つ、それから今日のピザなに」
「ホウタレイワシ(カタクチイワシ)のピザ。一夜塩漬けにしただけのアンチョビ風」
「それももらうわ」
「かしこまりました。あ、また車見て欲しいから、近いうちに連絡するよ」
 やはり知り合いだったよう。ジュニア社長と同じ顧客という様子だった。
「うん、わかった。店に連絡してくれよ」
「はいはい。それでは失礼しますね」
 だけれど、マスターは最後にニンマリとした意味深な笑みを彼に向けて去っていった。どうやら『女連れで来た』という密かなる笑みのよう。その途端に彼が照れてぶすっとした顔になる。
「マスターもお客様なのね」
「まあね。でも今は俺が客だから」
 そこのあたりの線引き、きっちりしているということらしい。
 やがてオーダーが揃い、彼と食事を始める。静かな漁村の古い喫茶店。客は二人だけ。月明かりのテーブルで向き合う。
「ピザ、美味しい」
「その日の仕入れで、マスターがトッピングを変えるんだ。漁港が近いからシーフードが多い」
「地元の美味しいものが一番ね。それをピザで食べられるなんて」
 月夜の海辺のピザ。海辺の異国に来た気持になるピザだった。
 彼も美味しそうに焼きうどんを平らげる。
「食事、していなかったの?」
「軽くしただけ。……断られたのに、諦めきれなくて。行こうか行くまいかって考えている内に俺の食事時間も過ぎていた」
 最後にやってきたコーヒーを、彼が一足先に口に付ける。カップを置くと、まだ食事をしている琴子をじっと見つめてきた。
 彼に任せて連れて行かれる勢いにただ乗ってきたけれど。ここに来てやっと、琴子は彼の目を見てこの前の熱く湿った夕を思い出す。
「やっぱ、いいわ。琴子さんのきっちり女らしく決めているOLさん姿」
 ノースリーブの白いフリルブラウス、アクアマリン色のタイトスカート。そして白いミュールに白いバッグ。いまどきの女の子なら誰もがやっていそうな夏のお洒落。それを彼が満足そうに眺めている。
「OLの女の子は皆、私みたいなもの。誰でも同じだと思うけど」
「俺みたいなむさい元ヤン、薄汚れた車屋の男なんて、OLさんと縁遠いから。華やかな彼女たちが街中で働いている姿って、俺にとってきらきら見えて、すごく遠いもんな」
 それが目の前にいるということらしい。
「特に、如何にも『きちんと女子をしてきました』というお堅い女の子は、さらに縁遠いから。嘘みたいだって思っている」
 あの夕のように微笑み、琴子を熱っぽく静かに見つめるばかり。また琴子の肌も熱くなってくる。真っ直ぐ見つめ返せなくて、つい月の光へと目線を逸らしてしまう。
「それなら、私だって同じよ。走り屋さんなんて遠い人だったから」
「でも、今は一緒にいるんだ」
 まるで琴子の気持を確かめるみたいに彼がクスクス笑う。今夜は余裕のお兄さんでいられるらしい。
 あまり琴子を困らすのは止めてくれたのか、彼が姿勢を崩し、椅子を横座り。足を大きく組んで煙草を口にくわえた。そういうスタイルの作り方が、やっぱりまだ元ヤンの名残ぽい。長く彼に染みついている仕草のようだった。
 銀色のジッポーライターでカチリと火をつけて煙をひと吹き。琴子を避けて吐いてくれたが、その煙の匂いはこちらにやってくる。
 食事の手を止め、琴子は暫くその煙の匂いに思わず囚われる。
「あ、わりい。煙草、ダメだったか。だよな。その綺麗なブラウスに匂いがついてしまうな」
 はっとした彼が慌てて灰皿へと手を伸ばした。琴子が食事の手を止めてしまったのは何故かも直ぐに気がついてくれて。だが慌ててとめた。
「い、いいの。慣れているから。うちの社長も吸うし、かれも……」
 『彼も吸っていた』。そう言いそうになって琴子は慌てて口を閉ざす。だが遅かった。
「もしかして。いま彼氏が……いる……とか」
 殊の外、彼が青ざめてしまったので琴子もびっくりしてすかさず告げる。
「ち、ちがう。とっくに別れました。……半年前だけど……」
 ホッとした顔になる彼。そして煙草も消さず、続けて吸ってくれる。
「……ほんっと俺って馬鹿だな。ほんと琴子さんに男がいないなんて決めつけていただなんて」
「あのまま彼と今もつき合っていたら、絶対に貴方とは出会うことなかったと思う」
「どうして?」
 彼が真顔で聞き返し、琴子を見ている。知りたいという目。
 琴子は小さく笑い、ある日のことを彼に教える。
「だって。貴方と出会ったあの煙草屋の自販機に何故立っていたか。別れた彼が吸っていた煙草が欲しかったから」
「買って吸うつもりだったのか。吸ったことないのに」
 急に嫌な顔をした。何を言いたいか直ぐにわかる。なぜなら、あの行動が如何に幼稚で情けないことだったかと、今の琴子もそう思うから。でも痛い自分を思い出しても怖じけず琴子は彼に話す。
「そうよ。吸ってね、その甘い煙の匂いを嗅いで、ちょっとでも……彼が優しくしてくれた日に浸りたかったの。浸りたかったの。どこにも逃げ場がなかったから。せめて思い出に癒してもらおうと思って」
 彼が黙ってしまった。
「彼と三年つき合ったけど、うちがゴタゴタしはじめたら疎遠になってしまったの。たぶん……彼もどうして良いかわからなかったんだと思う。だから責められなかった」
 最初はいちいち泣いていた。お父さんが死んじゃうかもとか、お母さんが元気ないとか、お父さんが機嫌悪い――とか。でもやがて彼がそれを疲れた顔で聞いていると気付いてから、琴子も口を閉ざすようになった。彼だけを見てあげられない集中できない日々は、琴子の女の身体を冷え込ませる。それを優しく受け入れてくれたのも最初だけで、徐々に彼は面倒くさそうにして何もかもを避けてくるようになった。
「だいたい察しつくけどな。それで、なに。『甘い匂い』って、もしかして今、俺が吸っている奴、元カレと同じ煙草とか言わないだろうな」
 彼の手元に置かれている煙草の箱は『ピース』。煙が甘い香りがする煙草。
「箱の色が違うけど、同じピース。私もあの夜、ピースを買おうとしていたの」
「……なんだよ。それ」
 どうしたことか、彼が愕然とした顔になる。
「くっそ」
 しかもいきなり、まだ沢山の煙草が残っている箱をギュッと片手で潰したかと思うとテーブルに叩きつけたので、琴子はビクリと固まってしまった。
 だけれど。彼は潰れた青いピースの箱を手にすると、席を立ち上がり行ってしまう。
 なに。なに怒り出したの? 呆然とすることしかできない琴子はただカウンターへと行ってしまった彼を目で追うだけ。
「おっさん。ショッポある?」
「ホープだね。あるよ」
「わるい。これ、捨てておいて」
 レジで小銭を出し、煙草を買っている。そして潰れた箱をマスターに渡している。新しい煙草を片手にぶすっとした顔の彼が琴子の向かいに戻ってきた。どっかりと椅子に座り、小さな箱の煙草を改めて口にくわえた。
「あの、それに変えてしまっていいの?」
 もう、彼が煙草の箱を潰して新しい煙草に買い換えた意味を琴子は気がついてしまっていた。
 新しい煙草の煙の匂いは、もう甘くない。
「思い出にまでなっている煙の匂いをいつまでも目の前でちらつかせているわけにいかないだろ」
 やっぱり。琴子が元カレとの辛い別れを思い出さないようにしてくれたよう……。
「それにさ。いちいちあの煙の匂い嗅いで、元カレと一緒ーとか、あのとき辛かったーとか。そんなのちょっとでも思って欲しくないからなっ。しかも琴子さんを自販機に立たせた奴が吸っていたかと思うと腹立つわ」
 ぶっきらぼうに言い放った彼の、眉間にしわを寄せる怒った顔。見慣れてきたその『本当は優しい怒り顔』。また琴子の胸が熱くなる。
「いいのに……。ピースを吸っている男の人なんて幾らでもいるのに」
「俺が嫌だって言ってんのっ。いいんだよ。昔、暫く吸っていた奴だし、ちょうどピースにも飽きてきていたんだ」
 嘘つき。また嘘。
 でも嬉しい……。
「はやく食えよ」
 いつまでも彼を見つめているから。またそんな怒った言い方。照れ隠し。
 でも月明かりはそんな彼もくっきり琴子に映し出してくれる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 食事を終え、彼がカウンターのレジで精算をしてくれる。
 白髪の静かなマスターが、黙ってレジを打っていたのに急にクスリと笑い出す。
「相変わらず、熱いね。全然、衰えていないじゃないか。安心した」
 そんなマスターが、彼の背にいる琴子をちらりと見る。優しい眼差しで微笑むマスター。
「やんちゃだけど。大目に見てあげて」
 やんちゃ……って。琴子から見たら、ちゃんとしたお兄さんなんだけれど。でもなんとなく解る? 若い時はそうだったのだろうなと。
「うっさいな。余計なこと言うなよ、おっさん」
 静かだったのに、マスターが笑い出す。
 また車、持っていくから。いいよ、店があるだろ、俺がここまで来るから。『連絡して』。整備の約束をしてマスターと彼が手を振り合う。
 店の外に出た途端、マスターが看板や店内の灯りを落とした。閉店。彼と琴子が最後の客。
 暗くなってしまった店先。すっかり高く昇った月が照らしてくれる。優しい潮騒と涼しい夜風。
 銀色のフェアレディゼットへと向かうのかと思ったけれど、彼に急に肩を抱き寄せられる。
 暗くなった海辺。どきりと琴子は彼を見上げた。
「そこまで、散歩しないか」
 胸騒ぎが止まらない。でも琴子は迷わずに頷いていた。
 小さな喫茶店の裏はテトラポットの波打ち際。古い堤防沿い、地元の小さな漁船がつながれて揺れている海辺の小道。そこを月明かりだけで歩いている。
 でも気持ちよい風。やがて空高く昇った月と入り江からぱあっと海が一望できる階段に出た。大きな階段だけれど、満ち潮でもうすぐそこまで小波が打ち付けられている。
 だけれど、彼がそこに平気で座ってしまう。そして優しく琴子の手を引いてくれた。そのままに、琴子もすぐ足下に波が寄せる階段へ彼の隣へと座った。
「潮が引くと、階段がもっと続いていて小さな渚になるんだ」
「こんなところまで、あがってくるのね」
 そして彼が入り江の向こう、遠い対岸を指さした。
「あの一番光っているところが、空港の隣にある工業地帯な」
「綺麗」
「嫌なことあっても、俺は走って夜の沢山の光を見て忘れる。俺はね……」
 琴子さんはどう? とは言わないけど、隣で肩を寄せ合っている彼がそう言って見つめてくれている気がした。だから琴子も微笑み返す。
「私ね。誰もが知っている場所しか行ったことがないの。こんな夜中に誰も知らない場所に来たこともない。どこか行くなら前もって決めて、突然出かけるとかないの。こんなの初めて」
 彼が笑う。
「琴子さんらしいね」
 そして潮風にそのまま身を任せ、琴子も対岸の街灯りを遠く見つめる。
「私も忘れる。だから、もう、ピースでもホープでもどっちでもいいのよ。もう関係ないの。だから……貴方も忘れて……」
「なにを忘れたらいいの、俺……」
「辛かった私がいたこと、忘れて。いまここにいる私だけ知って……」
 今度は琴子から彼を見つめた。いつも優しく滲んでいる目尻のしわが消える。彼が思い詰めた目で琴子を見つめ返す。
 そして彼の腕が、琴子をさらに傍へと抱き寄せてくれる。そよぐ夜の潮風の中、琴子もそのまま彼の腕の中へと身を任せた。
 彼が上から琴子の顔を見下ろしている。
「このまえ、俺……ちょっと一方的で荒っぽかったかと……後になって気になって……」
 彼の長い指先が、琴子の肩へと触れた。勢いに任せて肌を求めたこと触れたこと痕を残したことを気にしているようだった。
「ううん。あれから……ずっと、ここが熱くて。私、ここを見て貴方を思い出していた」
「ほんとに」
「まだ、少しだけ残っているのよ。消えちゃうって……寂しく思っていたところ」
「まだ、残ってんの」
 見てみたいとばかりに、彼の手がブラウスのボタンへ。首元の最初のボタンを開けてしまう。そして二つ目のボタンも……。
 それでも琴子は静かにそれを見届けていた。嫌じゃないから。でも、彼の手がそこで止まり、琴子の耳元にはため息。
「俺って……。ほんと、駄目な男だな」
 琴子の気持ちを無視して、自分が思ったとおりに女に触れてしまう。そう言いたいらしい。そこまで大事にしてくれたら充分だった。
「見て……。英児さん」
 彼の名を呼び、彼を見つめ、琴子は微笑む。琴子の指先はブラウスの三つ目のボタン。そこを自分からゆっくり外した。
 かすかに開く胸元、潮風に揺れる小さな白いフリル。そして彼の目線なら、ちらりと琴子の乳房の隙間が見えるはず。そしてランジェリーのレエスも。
 まるで誘惑――。ううん、伝えたいだけ。私の匂いと熱くなってしまった肌を。
「貴方がわたしに触れた日に、もう私はとっくに脱いでいるの。もう……裸よ」
「嘘だ」
 素直な気持ちだけれど、こんなに大胆に気持を伝えたことなんてない。受け入れてもらっていないのかと琴子は不安な面持ちで彼を見てしまう。
 だが彼がなんだか泣きそうな顔をしている? 意外で琴子は戸惑うのだが。そんな彼も思いあまったのか、大きな手が頬に触れすぐさま唇をふさがれた。
『んっ』
 この前のように、荒っぽい口づけ。でも彼が琴子の唇を狂ったように吸いながら、琴子の髪を撫でながら吐息混じりに囁く――。
「俺も、俺もだ。もう琴子を脱がして、勝手に何度も抱いた。もう何度も抱いた」
 また胸が灼けそうに焦がれる。琴子も彼の首に抱きついて、自分から彼の唇を吸う。
「抱いて。裸にして」
 すると彼が琴子の手をひいて、立ち上がる。
「行こう」
 月明かりを背に、彼の黒い前髪も夜風にふわりとそよぐ。あの匂いが彼からも立ちこめている。そして怖いくらい夜灯りに煌めく黒目。
 行こう――が何かわかって、琴子も頷いて立ち上がる。ボタンを開けたままのブラウスの首元を押さえて。
 
 英児の銀の車は長くは走らなかった。同じ漁村の片隅にある古ぼけた白いモーテルに迷わず入っていった。
 古くても開けた窓には、先ほどと同じ月と入り江と遠い街灯り。赤い小さな灯台の光がくるりと回っては、前置きもなく窓辺で抱き合い口づけ合う二人を照らす……そんな部屋。
 もう時計の針なんて気にならなかった。今が何時で今どこにいてなんて。ただ、今夜はこの人と一緒にいる。裸になる。琴子の止まらない気持のままに……。

 

 

 

 

Update/2011.5.14
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