「母親をね、どうしても面倒を見なくちゃいけなくなって。でもね、だからって夜の世界を泣く泣く諦めた訳じゃないんだよ。今度は海の太陽を浴びて、お客さんを待つ仕事もいいなあと思ってね」
それでも。道具も材料も肝心の酒も。なにもかもを手元に揃えて『いつでも作れる』体制にしていることを窺わせる手際よい準備。絶対に捨てていないと英児には感じられた。男が『これ』と思った仕事を捨てる。サバサバと未練はないというが、割り切るまでのマスターの苦悩が、それだけで英児には痛いほど伝わってくる。
「でもね。そんな僕の第二の人生を歩んできた店から、こうして夫妻が誕生してくれるなんて……。夜の仕事にも未練があったのも確かだけど、こんなことがあるなんて……。やってきて良かったと今日、嬉しくなっちゃったよ」
だから。僕にお祝いの一杯を是非つくらせて。そんなマスターの気持ち。
グラスも綺麗に磨かれている。カクテルグラスにひとまず、月色のカクテルができあがる。
マスターがそれを琴子の前に差し出した。
「真っ白な花嫁さんへ。ホワイトレディです。おめでとうございます」
琴子の感激の眼差し。
「ありがとうございます」
そして間をおかず、英児にも。同じくレモン、そしてオレンジ。一滴二滴の香りづけのリキュールのみで、アルコールはなし。それをシェイクしてくれる。
「ビター・カクテル。ノンアルコールです」
「ありがとう。マスター」
「おめでとう。滝田君。良かったね、一緒に生きていける人とやっと巡り会えたね」
長年の馴染みだけに。英児も涙ぐんでしまいそうだった。
「どうぞ。お幸せに。僕のお店で夫妻になったんだからずっと仲良くしてよ」
それだけいうと、マスターもなにか気持ちが高ぶっているのかそのまますっとカウンターに消えてしまった。
「ここにくると。ううん、英児さんと出会ってから思いがけない嬉しいことがいっぱい。全部、英児さん繋がりなんだもの」
「いや。ここは矢野じいが……」
そうして繋がっていくんだな。だから今日があるんだな。そう思えた。
「白い花嫁さんと言ってくれたけど、このレモンのカクテル。あの夜の月の光みたい」
「本当だな」
また琴子にとって、この店は思い出深いものになっていくのだろう。そして、それは英児も。
――乾杯。
婚姻届を挟み、二人は思いがけない祝いの一杯で乾杯をする。
「これ。酒は入っていないっていうけど、ちゃんとカクテルだ。名前の通り、ちょっと苦みがある」
「そうなの。私も飲みたい」
琴子にも味見をさせてみたりする。そうして二人で味わっていると、マスターが戻ってくる。
「お供にどうぞ。今日、港市場で見つけた鯛で作ったカルパッチョ。そしてご注文のピザ。珈琲は食後に淹れ直しますからね」
おまけのひと皿まで出てきて、二人でまた感激。そのカルパッチョがまた美味しいから、琴子が大喜び。
「マスターのお料理ってぜーんぶ美味しい」
上機嫌の琴子が、そこで妙なことを口走った。
「こんなお店で、結婚パーティーとか出来たらいいのに」
思わぬことを言い出したので、英児も、いや、マスターまでもが『え!』と驚き固まった。
「おい、琴子。それはいくらなんでも。食事はフルコースのレストランにするんじゃなかったのか」
「……そうだけど。私、マスターのお料理をみんなと一緒に食べたいって急に感じちゃって。そうよね。人数だって、内輪のみといってもマスター一人では大変だものね」
するとマスターが小声で言った。
「……したことはあるよ」
え。と、英児と琴子はテーブル側に立ちつくしているマスターを見上げた。
「結婚パーティーを引き受けたことはある。でも、この村民どうしの結婚で、」
ぼそぼそとこぼしたマスターの言葉に、琴子の目がこれ以上ないってくらい輝いた。それを見てしまった英児に、ドキッとした奇妙な予感が!
「あの、では、もし、お願いしたら……」
あの琴子がちょっと興奮しているので、英児はますますおののく。こいつ、まさかまさかここで? 本気?
「いや、その。店にあるような簡単な料理のみ。しかも村で結婚する若者もいなくなったし、するなら街中でするでしょう。僕が何件も引き受けていたのは十年とか十五年とかそんなずっと前で……」
「その時と同じで構いません。私、家族同士でわいわい出来るパーティーがしたいんです。かしこまらなくて、気取らないパーティー。でもなかなかそんなイメージが湧く、お店がみつからなくて」
プランナーとの相談でも、どんなプランも気が乗らない様子で話を進めなかった琴子が。ものすごい食らいつく姿に英児は驚愕。
そして……。そんな彼女が言い放った言葉を聞き、英児は琴子の本当の気持ちを知ってしまう。
探していたんだ。とことんこだわっていたんだ。俺の家族と琴子の家族が緊張せずに賑やかにうち解けられる場所を――と。
それを知ったら、英児も琴子が『ここだ』と決めたがる気持ちが通じてくる。
「おっさん。俺からもお願いできないかな。琴子がそれでいいなら、俺もかしこまったレストランより、店の者もよく知っている美味い店がいいや」
「え、英児君まで」
そして琴子が立ち上がる。いつものあの言葉をついに言い放った。
「私、パーティーを準備するお手伝いをしますから」
でた。お手伝いします――。
マスターも、迷いを見せている。でもマスター自らも、パーティー会場を探している花嫁に投げかけたのだ。それはつまり『それほどここを気に入ってくれているなら、僕のところでお祝いしてあげたいよ』という気持ちの表れだと英児は思った。
だから英児も立ち上がって、マスターに笑顔で言う。
「俺も手伝う。俺もここで、おっさんが作る地物の美味い料理で、家族と楽しみたいと思う」
夫になる英児も気持ちを一つにしてくれたので、琴子がとても嬉しそうな顔をみせてくれる。
そしてマスターは。
「わかった。引き受けるよ」
いつもの懐でっかい熊親父の笑みで、マスターが受け入れてくれた。
ではまた後日、相談――。
ということで、その日は漁村を後にした。
海辺の帰り道、スカイラインの助手席で琴子は急にやる気に燃えていた。
そのうえ、あんなに結婚式の計画を進めなかった琴子が次々と言い出す。
「私、教会をやめて神前にしようと思うの。ドレスはマスターのお店の披露宴で着ようかなって」
え、神前? 教会が憧れだったんじゃないのか。琴子と市内の教会をこれでもかというくらい見学した英児は、その心境の変化に唖然とさせられる。
だが……。ふと助手席の琴子を見ると、どこか寂しそうに俯いている。
「琴子?」
「ごめんね、勝手ばかり」
英児は溜め息をつく。
「そんな、俺だって今さっき、勝手に婚姻届を突きつけたのに。お前、気持ちよく受け取ってくれて。でもよ……、教会でするのが夢だったんじゃないのか。それでいいのか」
そして英児は、何故、彼女が計画を進められなかったのか。その真相を知る。
「……お父さんがいないから。お父さんとヴァージンロードを歩きたかったから。代役でもなくて一人で歩くのでもなくて、お父さんが良かったの。踏ん切りがつかなくて……。でもやっと諦めついた、かな」
振りしぼるように微かに呟いた琴子の気持ちに、英児の胸は激しく貫かれる。
スカイラインを晴れ渡る青い海辺の路肩へと英児は駐車する。
「琴子。お前……。なんだよ、そんなこと早く言えよ。なんだよ」
助手席で俯いている琴子を、英児は胸元へぎゅっと抱きしめ黒髪を優しく撫でる。
すると、やっと。琴子が声を詰まらせ涙を静かに流していた……。
「わりい、琴子。なんも気がついてやれなくて。だよな、それって女の子の夢、だったよな」
「……この歳になって、子供っぽいて……」
「言わねえよ、言うもんか。うん、わかった。そうしよう、俺と一緒に神さんの前に行こうな」
胸元で涙に濡れる彼女がこっくりこっくり何度も頷く。
そんな琴子を、英児は彼女の父親の分までと思いながら、強く何度も抱き返す。
―◆・◆・◆・◆・◆―
新年、あけましておめでとう。本年も龍星轟一同、この店を盛り立ていこう。社長の自分からもお願いします。えっと、最後に『琴子と入籍』しました。未熟な二人ですが、どうぞ今後もよろしくお願いします。
龍星轟仕事始め。今年最初のミーティングで報告すると、従業員一同が『なんだってー!』と驚きの顔と声を揃えた。
だが矢野専務だけは落ち着いて驚かず。でもむすっとした顔。
「ったくよう。大晦日のクソ忙しい晩によ、『今日の昼、琴子と入籍した』なんて報告してきやがって。おまえ、大人になってもどんだけ鉄砲玉のままなんだよ。琴子はもうお前の無鉄砲さに付き合うのはお手の物かもしれねえけどよ。琴子の母ちゃんとか滝田の親父さんを、あんまりびっくりさせてやるなよ」
矢野じいにだけは電話で報告。勿論、驚いていたが『お前らしいな。琴子も琴子らしいな。クソ英児のやることドンと受け止めてくれたんだろ』。見通されていてぐうの音も出ない。
だがやっぱりこの師匠親父は、こんな時でも英児の気持ちを見過ごさない。
『滝田の親父さんと喧嘩にならなかったか』
悪ガキ末っ子の無鉄砲。落ち着きのなさ。突拍子もない突っ走り。それを知ると実父が執拗に英児を責めて説教をすることを、矢野じいは良く知ってくれている。そして親子関係がこじれて、英児が実家に寄りつかなくなる。
だが――。
『大丈夫だった。琴子が親父に――どうしてもいま入籍したいのでお願い致します――と、俺が言いだしたことなのに自分が言いだしたみたいに頭を下げてくれた』
そうしたら。昔気質で石頭の父親が、それだけで『わかった』と笑顔で許してくれたのだ。
もちろん英児自身も『俺が言いだしたことを、琴子が受け入れてくれただけで。彼女を巻き込んだのは俺だから』と説明した。
『そんなのわかってるわい。こんなこと琴子さんからは絶対に言いださんことやからな。お前の仕業に決まっているだろ』
いつもの嫌味くさい物言いに、やっぱり腹が立つのだが。そこはやっぱり今までと違うのは彼女がいるから。
とにかく。父親は『琴子はきちんとしているお嬢さん』だと分かっているので、琴子が間に入ればそれだけで機嫌が良くなる。『お前にはもったいない、もったいない』と言って控えめな琴子を見ては、何が嬉しいのかにこにこになる。
だが、同居している長男嫁の義姉は言う。
『おとうさん。英ちゃんがやっと、きちんとしたお嫁さんを連れてきたから、あれでも嬉しいのよ。相変わらず素直じゃないよね。お義母さんも、あの性格に苦労していたもんね』
英ちゃん、琴子さん。おめでとう。お正月においでね。みんなでおめでとうのお祝いしよう。
義姉の言葉に、琴子も嬉しそうだった。
鈴子義母も『まったく。あなた達らしいったらねえ。いいわよ、いいわよ。好きにしなさい』と、最後にはもうけらけらと大笑いして許してくれた。
――晴れて夫妻になる。
彼女はもう英児の妻。『滝田琴子』。そして、龍星轟のオカミさん。
「もうー、ほんっとびっくりすんな。新年早々、滝田社長の挨拶が『入籍しました』だもんなー。休み明けにどんな爆弾投下するんだって、もう」
武智も呆れているが、最後には眼鏡の笑顔で『おめでとう』と言ってくれる。
「じゃあ、ついにあのゼットが琴子ちゃん名義になるってことだな」
「滝田琴子か。走り屋野郎共も、まだ見たことない男共は早く紹介しろと騒いでいたから、今度、ダム湖の集会に連れて行ってやれよ」
『やっとだな。おめでとう』。兵藤兄貴に清家兄貴も落ち着いて祝福してくれる。
英児もやっと実感、笑顔になれる。
最後。専務と目が合う。
「しっかりやれよ、クソガキ」
素直には祝ってくれない怖い目は、気合いを入れて嫁さんを守っていけよという……矢野じいだからこその激励だと英児は思う。
「ああ。ちゃんとするよ。クソ親父」
そこでやっと矢野じいが微笑み、バシッと英児の背を叩いて終わり。
言葉なんていらねえ。それが矢野じいの『おめでとう』だった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
仕事始めの一日。正月休暇中に車を走らせてばかりいた連中から早速、整備のオーダーが舞い込んでくる。
整備は矢野じいと兄貴達に任せ、英児はオーダー整理に没頭の一日。それだけじゃない。
『本年もよろしくお願いいたします。本日、そちらに伺ってもよろしいですか』
雅彦から連絡があった。さらなるサンプルが出来たので見て欲しいとのことだった。
昼下がり。その雅彦が、クーパーにのって龍星轟にやってきた。
「いらっしゃい。わざわざこちらまで来ていただいて、すみません」
「いいえ。室内にこもってデザインばかりしているので、たまには外の空気も吸いたいんですよ。程よいドライブも出来ますし」
気分転換に事務所を出られる良い口実だと、相変わらずの洒落たスタイルで爽やかな笑みを見せられる。だけれどもう、英児の心に揺れは襲ってこない。
「あ!」
雅彦が急に英児を指さした。
「びっくりしましたよ。今日、休暇が明けて仕事初めの事務所のミーティングで『大晦日に入籍しました』なんて、大内さんが、いや、滝田さん……が言い出したりして。社長もその時、初めて聞いたみたいで。もう余程驚いたのか興奮しちゃって、ちょっと騒然としたんですよ」
雅彦も、なんだか興奮しているように英児には見えてしまう。ものすごいニュースを持ってきたと言わんばかりの。でもそのものすごいニュースの張本人が目の前にいるわけで、英児も苦笑い。
「あー、俺も今朝。店の連中に報告したらそんなかんじで」
「いやー、彼女から聞いていたけど。本当にこうと決めたらまっしぐらなんですね。いやー、また滝田さんに度肝を抜かれちゃいましたよ。これで二度目」
元カレとは思えないさっぱりした笑顔で言われ、英児の方が戸惑ったのだが。そこでやっと、雅彦がふっと笑顔を曇らせる。
「俺だったら、ここまで彼女をリードはできなかっただろうなと……」
滝田さんだから、琴子をここまでひっぱって、ついに夫妻になった。
そう言われていると英児には伝わってきた。どう返せば? おめでとうなど言われても困るし、雅彦だって男の意地があるなら前カノの夫に祝いなど言いたくないだろう。
「サンプルを見せてください」
そう切り出すと、急に彼らしい目つきと笑顔に。
「そうでした。見てください、これ!」
彼は根っからデザイナー。まだ嫁は要らない、自分の世界を全うしたい生き方を選んだ男。それを本人も分かっているだろうし、英児も男だから分かる。そこはもう……。
白い革張りの応接ソファーに座り、ガラステーブルを挟んで二人で向き合う。
テーブルの上に仕上がったサンプルの原稿を並べる雅彦。
「今回は5点。俺がデザインしたものと、俺がイメージしてそのイメージを俺以上に描いてくれるデザイナーにも作らせてみました」
チーフとなったからなのか。琴子の話から『独りよがり』というイメージだった雅彦が、上手に人を使っていた。
確かに。前回、三好社長が『龍と星』をテーマにしたレディス向けサンプルとは明らかに雰囲気が変わっていた。
あれこれ試したことが窺える。だが、英児は顔をしかめる。
「どうですか、滝田さん」
「うん。正直、前よりばらつきがあって、イメージが遠のいた気がするな」
はっきり言ってみる。こちら龍星轟としても真剣にど真ん中のものが欲しい。依頼主なので譲るつもりはないから、はっきり言う。やはり途端に、雅彦も表情を硬くした。
「そうですか。いえ……なんとなく、そんな気がしたんです」
『だけれど』と、英児はその中の一枚を手にして雅彦に差し出した。
「これ。ちぐはぐしているけど、なんとなく……。俺と琴子が混じっている気がするかな」
雅彦がそれだけでハッとした顔に。
「これ。俺が描いたものです」
「やっぱり、本多君が描くものが一番理解してくれている気がする。これ前よりインパクトはないけど、でも、男と女が混じっている気がする」
前回、龍星轟の男共が選んだ艶やかで色香があるデザインと、琴子が選んだガーリーデザインを合わせたようなものだった。龍に色気がある、それに合わせている女性のシルエットは可愛いだけで色香はない。そういうちぐはぐ感。
「前回、こちらの従業員の男性陣と琴子さんが選んだものがまったく違うタイプだったとお聞きして。今度はそれを合わせてみたのですが」
そこで英児はこの男に『参った』と思わされたことをぶつけてみる。
「前回のサンプルは、あまりにも異なるデザインをワザと二種類、作ったみたいだけど。荒っぽい男の俺と女子いっぱいの琴子は同じものは選ばない。趣味がかけはなれすぎている。一発で気に入るのは『滝田はこのタイプ』、『琴子はこのタイプ』と書き分けた様にも見えたんだけれど……」
目を見張る雅彦。
「ええ、そうです。そうなんです、その通りなんです。あの時は、どうしても、二人を合わせたものが思い浮かばず描けず……。だから二種類」
「それだけ。俺と彼女がかけ離れていて、交わることはないと……」
そこで雅彦が黙ってしまう。本心はそう思っている。デザインがしにくい、やりにくい仕事だ。そう言いたいのだろうか? 英児は彼の静かな眼差しを見てそう感じもしたのだが。
「いえ、どこかになにかがあるはずなんです。そうでなければ、こんな短期間であっという間に夫妻にはなれないでしょう。どこかであるはずなんです。お二人だからこそ、融合したなにかが」
もう前カレの顔ではなかった。クライアントの希望に適うよう、手探りで答を必死に探しているデザイナーの顔だと思った。
「あの、そのチョーカー……」
雅彦が急に、英児の首元を指さした。そこには、黒い革ひものチョーカー。琴子が作ってくれたものだったが、雅彦の目に留まったのはペンダントトップに特徴があるからだろう。
「それ、琴子さんの指輪と同じですね」
「ええ。その、」
琴子が『整備仕事で指にはめられないなら、こうして首につけておくってどう?』と、革ひもに指輪を通して英児につけてくれたものだった。もうこれで琴子同様、肌身離さずつけていられる。それから毎日、英児の首元には龍の指輪チョーカー。
「彼女は婚約指輪だと言っていたんですけど」
龍の彫り物がしてある琴子らしくない指輪。とでも言いたいのだろうか。
「絶対に彼女が選ばないデザインで、ファッションにも合っていなくて、ものすごく指先が目立つんですよ。分かっていても目についてしまう」
やっぱり。琴子らしくない似合わないものを贈りやがった。とでもいいたのだろうか。英児も何故こうしてしまったか自身で良く分かっているつもりだが、この男にだけは言われたくないなと構えていると。
「なのに。彼女が事務仕事の合間に時折、その指輪を見つめて一人でにっこり嬉しそうに笑っているんですよ。本人は『人知れず』にっこりしているのかもしれないけど、三好社長を始め、事務所のデザイナー一同誰もが目撃をしていて、皆が『彼女らしくないごっつい婚約指輪なのに、あんな幸せそうに』と言っているぐらいで」
「え、彼女が……そんな顔を」
「そうですよ。『よほど、男っぽい滝田社長が好きなんだね』と口を揃えているほどですよ」
うわー。あの事務所のデザイナーの誰もが、琴子のそんな顔をこっそり知っていたなんて。英児の頬が熱くなってしまう。
だが、ふと見ると。雅彦は笑っていず、真顔だった。
「それを見て思ったんですよ。あんなに趣味が違う指輪を、あんなに愛おしそうに見つめているんだから。どんなに趣味が違う『厳つい龍』でも、彼女の中ではきっと、彼女なりの龍になっているはずだと」
その言葉に、急に。英児の身体にざわっとした胸騒ぎが駆け上がってくる。鳥肌……と言えばいいのか。
琴子の言葉で言えば『いま英児さん、ピカてビリて来たでしょ』というヤツ。
「それをいま、探しているんです。もう少し、デザインをさせていただけませんか。そこまでは俺も掴んでいるんですけど」
琴子の中の『龍』。そう聞いただけでぞくっとした。
「それ、俺も見てみたい。琴子の中の龍を――」
それを描き出せるのは、プロの仕事。雅彦だから成せるもの。
「勿論です」
依頼した男と、受けた男の意思疎通。今日はそれだけで終わってしまった。
却下になったサンプルを雅彦が片づけている。
「ところで。滝田社長はこのお店をつくるとき、龍と星をイメージに使ったわけですけど。琴子さんをイメージするシンボルがあれば、また良いかと思っているのですが」
「なるほど。俺が龍なら彼女はなにかということですか」
「それが彼女の龍を描く補助的なものになれるかと思うんですよね。たとえばですね、ご主人が奥さまを花に例えるなら何か。花でなくとも何か……というものがあれば」
「花ですかー」
なんだろう。と、英児は首をひねって考えてみるのだが。
「うーん。花なら鈴蘭?」
初めて出会った夜に感じた匂いが、清々しいイメージだったから。
「ああ、何となく分かりますよ。華やかじゃないけど白くて可憐で密やかに咲くってかんじ」
元カレゆえに同意してくれるのかと思うと複雑なのだが。それでも雅彦はそれを手帳にメモしつつも、難しい顔。
「龍と合わせるには、線が細くて儚い気がしますね。それに直ぐに走り去ってしまう車のステッカーに描くことを考慮すると、鈴蘭はあまりにもインパクトが薄く女性全般をイメージするにはちょっと個性的かな」
琴子限定なら鈴蘭もいいが……という。やっぱりもう元カレではなくデザイナーとしての意見。英児も納得。インパクトに欠ける気がした。
「滝田社長、お客様がいらっしゃったみたいですけど」
後ろで静かに事務仕事をしていた武智の知らせに、英児もガラス張りの事務所から外へと目線を向ける。店先に真っ赤なアウディが入ってきたところ。
見たことがない車、だと思う。しかも運転席には女性。
「社長、自分が出迎えてきましょうか」
「おう、頼むわ。武智」
客の前では、きっちり従業員の顔を保っている武智が、眼鏡の横顔で事務所を出ていた。
「では。また数日後に経過をご連絡しますね」
客が来たためか、雅彦の片づける手も忙しくなる。英児は初めての客を気にしながら頷くのだが、そこで雅彦が赤いアウディから降りてきた女性を見てハッとした顔になったのを見てしまう。
「うわ。……彼女、琴子さんの大学時代の後輩ですよ」
「え!」
雅彦が『やばい』と溜め息をついて目を覆った。
英児も驚き外を見ると、赤いアウディからショートボブヘアにパンツスーツ姿の颯爽とした女性が降りてきた。
彼女の後輩と言えば。地方新聞社でお勤めの、バリキャリ女子。年下でも頼りがいあるアグレッシブな後輩だと琴子が言っていた、あの?
「俺、彼女……苦手なんですよ。琴子があまり自己主張をしない分、彼女が代わりにガンガン物を言うといった感じで」
琴子を捨てた男として、琴子と仲が良い後輩の彼女にはよく思われていない。別れた後、しかも琴子が結婚した男と話している姿など見られた日には……。そんなところだろうか。
その彼女が武智のエスコートで事務所に向かってきている。
奥さんの知り合いなのに。奥さんが留守の間に、龍星轟でなにか起きそうな予感の旦那さん。
Update/2011.12.12