× ワイルドで行こう【ワイルド*Berry】 ×

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 12.あの日の、潮風ベール 

 

 春を告げる『お椿さん』の祭りが終わり、風がゆるりとふんわり温くなる。
 真っ白な『綿帽子』に、初々しい花嫁の恥ずかしげな表情を隠されて。でも、ぽつんと咲いている真っ赤な唇。
 その彼女を見て、英児は感動していた。お前、和装の方がめちゃくちゃ似合うんじゃねえか。
 元より、優しい日本人らしい顔つきの琴子。可愛らしいまるい頬と可愛い小さな唇の撫子。真っ白な着物の花嫁衣装が似合って当然なのかもしれない。こんな花嫁らしい琴子を拝めて良かったと英児は感動しっぱなし。
「琴子、着物似合うなあ」
「有り難う」
 和装の試着は時間がかかるからと琴子と鈴子母に任せていたので、英児はこの日、初めてお目にかかったのだ。
「英児さんも、紋付き袴、とても格好いい」
「そっか?」
 照れてみるが。つい先ほど、英児の花婿姿を見た龍星轟一同が、矢野じいを筆頭に『元ヤン男に似合いすぎて、今からどこの成人式にいくのかと思ったわー』『式場ではおりこうにしていないといけないんだぞー』『大人しくできるのか、暴れるなよー』と集中攻撃をしてきた。
 当然、英児はこんな日にも口が悪い従業員達におかんむり。だが、真っ白な花嫁姿の奥さんを見て、そんな胸くそ悪い気分はあっというまに霧散する。彼女のその姿通り、心が真っ白に清められていくようだった。
「琴子、英児君。おめでとう」
 傍に控えていた留め袖姿の鈴子母も、娘と花婿が揃う姿を見て嬉しそう。
「お時間ですよ」
 介添人の一声に、琴子が椅子から立ち上がる。なのに……。
「お母さん、大丈夫。無理して留め袖を着たから、歩きにくいでしょう」
 杖をつく留め袖姿の母親を気遣って、それより着込んでいる娘が手を添える。
 そんな姿に英児の方が胸を締め付けられる。
「いいよ。琴子。お母さん、一緒に行きましょう」
 歩きにくそうな妻に代わり、英児が義母の手を取った。『ありがとう、英児君』。これまで、英児も鈴子母の通院に何度か付き添った。だから、もう。義母も遠慮なく英児の手を取ってくれた。
 親子と婿の三人で、控え室を出る。親族が待つ式場へ。
 
 厳かな神前式。神主の前に白無垢綿帽子の彼女と紋付き袴姿の英児が並ぶ。
 真っ赤な杯で、三三九度――。
 琴子の小さな唇が、婚姻の杯を交わしてくれる。その唇がまた妙に艶めかく見とれてしまった、なんて言うと不謹慎なのだろうか。神さんに怒られるんだろうかなんて思ってしまった英児。
 指輪の交換も、英児が緊張していた。
 ぴったりの結婚指輪を用意したのに。小さな手、細い指なのに節でひっかかってなかなかはめられない。
 楚々とすましている琴子が、綿帽子の中で密かにくすっと笑ったのが見えた。
「悪い……」
 こんなことがぶきっちょで――。
「大丈夫よ」
 ひっかかっている節を琴子が上手に曲げ、銀の指輪がすっと最後まで入るように、さりげなく動かしてくれる。
「これからも助け合って。よろしくお願いします」
 はめられた指輪じゃない。二人の意志ではめた。琴子もそれを手伝った。これからも、こうしてやっていきましょう。妻になった彼女からの言葉が、英児にもじんと伝わってきた。
「ああ、そうだな」
 今度は琴子から、英児の指に銀のリングを通してくれる。英児も琴子を見習って、はめられるのを待つだけではなく、自分も指を動かしてみる。
 杯を交わし、これにて晴れて夫妻となる。
 神社の境内での記念撮影。後にその写真を眺めるたびに、英児は頬がほころんでしまうことに。この日、たった一度だけ白無垢姿になった琴子がずっと忘れられないほど、お気に入りになる。
 後にも先にも一度だけしか着ることが出来ない彼女に似合っている白無垢。そして可愛い真っ赤な唇。本当に綺麗だったと、何年も――。ずっと。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 挙式を無事に終えても、慌ただしい。今度はモーニングに着替え、移動。
 この時、英児は琴子と引き離される。
 勿論、モーニング、ドレスへとお色直しのために。そして、その後、それぞれで漁村へ向かうことになっていた。
 何故、着替えた後も誓い合ったばかりの花嫁と仲良く一緒に移動ではないのか? 実はこれ、武智の仕業だった。
 
 琴子が結婚式のイメージを固めると、どんどん準備が進んでいった。
 挙式をする神社の予約さえ決まれば、あとは親族と勤め先の関係者のみの披露宴。会場は漁村マスターの喫茶レストラン。大々的な準備ではないので、招待状も僅か、あっという間に整っていく。
 そんな結婚式の経過を聞いていた武智が、『琴子は教会でやりたかったが、父親がいないので……神前にした』と話したところ、急に武智が『それなら、俺がちょっとしたヴァージンロードを用意してあげるよ』と言いだしたのだ。
 用意するってなんだ。と、英児は目を丸くしたのだが。武智は笑顔ながら真剣で『マスターのお店でしようよ。教会じゃないから、タキさんと琴子さんで並んで歩いたらいいじゃないか』なんて。
 それを琴子に告げると、彼女も困るかと思ったら『嬉しい』と喜んでくれた。
 本物の教会なら代役を立てても、英児が並んでも、どうあっても『お父さんじゃなかった』と思う寂しさが募ったところだろうが、そこはざっくばらんと砕けた喫茶店で気心知れた身内のみに見守られての、入場をかねたヴァージンロードなら歩いてみたい――と。
 琴子の嬉しそうな返答に、何故か武智がニンマリ。『任せて』。フラワーシャワーがいいかな、ライスシャワーがいいかな。なんて、そこまで聞いてくる。そして琴子も『フラワーシャワー』と笑顔で答えると、また武智がニンマリ。『任せて』と。
 琴子はもう、それだけで幸せそうだった。
 親族を乗せたワゴン数台と共に、英児は一足先に漁村に到着。店先に降りるなり、英児は驚く。
 店の横、海が見える駐車場に、鉢植えを並べた道が出来ている。武智が作ってくれたヴァージンロードだった。
 その花の道は晴れた海に向かっていて、行き着く先には白いクロスで整えられた店のテーブル。そこにも赤いリボンが結ばれている小さなグラス、鉢植えと同じ紫や黄色桃色など、とりどりの花が生けられている。
 そのテーブルの側には、デキャンタのガラス容器を準備しているマスター。到着した英児を見つけてくれ目が合う。
「英児君。本日はおめでとうございます」
 マスターも今日はタキシードを着ていたので、英児はびっくり。それでもエプロンはいつものエプロン。かつてはそのタキシードを着て、仕事をしていたのだろうかと思わせる慣れた着こなしを感じるほど。
「おっさん、いや、マスター。今日はお世話になります」
 引き受けたからには――と、琴子から依頼されてからのマスターの準備は想像以上の手際とサービスだった。
 琴子も『手伝う』と、何度もこの店に自分から通ってメニューの相談に食材選びに出かけていた。なのに――。
『せっかくだから、ウェディングケーキは僕に任せてくれないかな。僕からのお祝いプレゼント。ちょうど、ツテはあるんだよね』
 琴子も戸惑っていたが、必要以上には踏み込んでこない距離感を保つあのマスターが『是非是非』と押してきたほど。それは琴子も英児も嬉しい。だから結局、お任せして甘えることにしてしまう。
 それに琴子曰く。『やっぱりマスターって。元は凄腕のバーテンダーさんだったんじゃないかしら。なんだか顔が広いの。手伝うと約束していたのに、手伝わなくてもいいほどのアシスタントを連れて来ちゃうんだもの』
 それが何事にも『手伝う』と言い出す琴子の性分を知って『わざと手伝いをさせない』ように持っていってくれているのだと、英児は感じた。
『当日のお手伝いも、いつも村の仕出しを一緒にするおばあさん達とか漁村の奥さん達に頼んでくれていたの。マスターがお願いすれば、いつも手伝ってくれるんだって』
 しかも、ウェディングケーキを作ってくれるパティシエとも琴子は喫茶で対面したらしく、そのパティシエがこの街でいま一番噂のカフェ洋菓子を一手に引き受けている女性だと知って、琴子がまた絶句して帰ってきた。
『すっごく小さなお店なんだけど。いま、この街の女の子の間ではとっても話題のカフェで……。私も時々行っていたお店』
 毎日限定量しか作らない丁寧なドルチェ。その丁寧さを求めて、ここ二、三年で口コミで広がっていったカフェ。そこの女性パティシエだったとのこと。それがあの漁村喫茶マスターの知り合い?
 今日は手伝いの中に、マスターと同じくタキシードにソムリエエプロンをしている青年と、ワンピース姿にエプロンをしている綺麗な女性も混じっている。
「彼、腕は確かだから。今日は僕と一緒にお酒のお世話をさせてもらうよ。彼女は島の果樹園のお嫁さん。いつも彼女の所から果物をもらっているんだ。彼女の所に通っているお陰でね『カフェ・ミーチャ』のパティシエを捕まえられたんだ」
 ――とのこと。琴子はそれを知ってからとても感激していた。たぶん、飛び込みで申し込んでもこんなツテがない限り、予約で一杯か、そもそも予約も取ってくれないほどのパティシエ。お店の製菓に精神を注いでいるパティシエさんだから。と。
 これも、英児さんがマスターと知り合いだったおかげ。ありがとう。
 本当に琴子が幸せそうで。英児は自分に感謝されるのが申し訳なく、紹介してくれた矢野じいにも報告し、そしてマスターには何度も礼を述べておいた。そして、今日も。
「おっさん。ほんとに有り難う。俺、まさか、おっさんのところでこんなになるとは思わなかったし、でも、おっさんのところにお願いできてどこよりも正解だったと思っているんだ」
「もう、いいよ。何度もそんな。今度は親子でおいで。僕、独身で終わりそうだから、賑やかなチビちゃん達が遊びに来るのを待っているよ」
 そこまで言われ、英児はついに目頭が熱くなってしまう。
「うん、わかった。それなら、おっさんもいつまでも元気でここで頑張ってくれよ」
 マスターもいつもの穏やかな笑みで頷いてくれる。
「そういえば。武智君から聞いたよ。突然、矢野君が琴子さんのお父さん代わりをすることになったんだと」
 到着する英児の親族と龍星轟のメンバー、そして琴子の親族。マスターが見渡し、矢野じいがいないことを確かめている。
「うん。そうなんだ。三日前ぐらいかな? 龍星轟で式当日の最終確認をした時に……」
 その時の状況を英児は伝える。
 
 いよいよ日曜日は滝田夫妻の挙式披露宴。親族がこれだけきて、三好堂印刷からは父親の三好社長と、琴子の上司であるジュニア社長と、琴子が入社当時から親しんできた製版課の男性先輩数名が出席する。場所、集合時間、移動経緯、漁村披露宴での段取り……などなどを、龍星轟一同も間違いがないよう確認。
 琴子も式前とあって、数日の休暇をもらい、その最終確認の場に事務所にいた。
 ――どうぞ、皆様、よろしくお願い致します。
 英児と琴子が、出席してくれる従業員にそろって礼をした後だった。
「琴子、英児。おめでとうな」
 入籍した時にも言わなかった言葉を、こんなときに矢野じいが呟いたので、英児と琴子は揃って顔を見合わせてしまう。だが矢野じいの顔は『しっかりやれよ、クソガキ』と言った時同様、怖いほど真顔だった。
 その矢野じいがこう言いだした。
「琴子。母ちゃんと二人で心細かったかもしれないが、これからは英児もいる、英児の父ちゃん兄ちゃん、義理の姉ちゃんもいる。それに、わすれんな。龍星轟という家族がいることを。俺も出来る限り、協力するし、兄貴も三人いるだろ。一人で困っていないで、ちゃんと言えよ」
 兄弟もなく、片親になり、鈴子母と二人きりだった琴子へ。矢野じいからまだまだお前の側に人はいるぞと安心させる言葉――。
 何故か、いつも穏やかで陽気な兄貴も、明るい武智もしんみり俯いていたりして。そして英児も、矢野じいの言葉が、どれだけ琴子を安心させるかわかっていたので、感謝の気持ちで溢れそうになった。
 そして琴子は、英児の隣でもう、静かに涙を流していた。
「有り難うございます。矢野さん」
 彼女の心に微かな不安もあったのだろう。夫と家庭が持てたことは素晴らしい幸せかもしれない。だけれど、最後の最後、強みは実家。その実家には体が不自由な母だけが待っているのみ。いつどうなるかわからないことも、彼女だから身に染みているはず。
 そこを矢野じいがしっかり見抜いて、支えようとしてくれている。その気持ちが琴子に通じ、だからこそ涙が止まらなくなってしまったようだ。
 涙が収まると、琴子がまた急に言いだした。
「あの……お願いが……」
 矢野じいも早速、頼られ『おう、なんだ。なんでも言ってみい』と胸を張って受け止めようと構える格好。
「私、もう父がいないから。英児さん同様、私も矢野さんに親父さんになってほしい。だから一緒に歩いてくれませんか」
 歩く? 龍星轟の男共一同、一瞬なんのことだと揃って首をかしげた。だが、矢野じい以外の男共と英児はすぐになんのことか解って、急に『うんうん。それいいんじゃないか』と口を揃えた。
 矢野じいだけがきょとんとしているので、隣にいた武智が矢野じいを肘で小突く。
「ほら。ヴァージンロードのことだよ。お父さんの代わりに、歩いてくれと言っているんだよ。教会では親族が適役だけど、お手製ロードだから矢野じいでも出来るだろ」
 それを聞いた矢野じいが『なにー!』と、途端に仰天した顔。
「いや、ほら。なあ」
 なあ。じゃないだろ。こういう時こそ、協力してやれよ! 武智と兄貴二人がここぞとばかりに、戸惑っている矢野じいのお尻を叩いてくれた。
 すると、矢野じいも。『琴子のためだ。おう、やってやらあっ』と、最後にはドンと引き受けてくれた。
 
 それを聞いたマスターが、くすりと笑っている。
「そうか。琴子さんのお父さん代わりか。英児君の親父同然の彼だから、それは当然なことかもね」
 照れて引き受ける様が目に浮かんだよ――と、マスター。
「緊張して、矢野君が転ばないといいけどねえ。麗子さんの話では、お嬢さんの教会式の時もガチガチだったらしいよ」
「それ。俺も麗子さんから聞いているんで、ちょっと心配。いや、あのクソ親父のそんなところ、見てみたかったりして」
「言えてる」
 マスターと笑っていると、武智から『花嫁さん、到着です』との一声。
 親族に、既に到着していた三好堂印刷の社長親子に従業員が、武智の案内で海辺に向かう花の道を取り囲むように並んだ。
「新郎はテーブル前で待っていてよ」
 きびきびとした武智の『進行』。英児も従って、白いテーブル前に立ち待機。店先に止まった白いワゴン車。そこから留め袖姿の鈴子母が降りてくる。
 そして、矢野じいの手添えで、後部座席から白い手袋の手が見えた。そして、ふわりとした白いベールが風に誘われ舞いながら空へと流れるのが見えた。それだけで、花道にいる親族知人が『わあ』と歓喜の声と拍手で湧いた。
 その中、ふんわりとした白いドレス姿の花嫁が楚々と降りてくる。琴子が母親鈴子と一緒に見立てた『いまの私に一番似合うドレス』姿だった。
 彼女の雰囲気にぴったりの、ふわふわした優しい白いドレス。
 白無垢は綺麗だったが、ドレスは可愛い彼女だったので、英児はまた惚けてしまう。
 皆様、拍手でお迎えください――。武智の声に皆が到着した花嫁を迎えてくれる。
 鈴子母が親族と合流し、ついに武智が作ってくれた花のヴァージンロードの向こうに、矢野じいと腕を組む白い彼女が立った。
「綺麗だよ、琴子。おめでとう!」
 直ぐ側にいる三好ジュニア社長のかけ声に、琴子はもう泣きそうな顔になっている。
「泣くな、琴ちゃん。化粧が落ちるぞ!」
 三好堂印刷の兄貴達のかけ声で、琴子もグッと堪えて、幸福の微笑みを見せている。
 矢野じいも、そんな琴子の隣で今日はカチカチではなく『俺が支えてやらにゃあ』みたいな意気込みなのか、落ち着いて琴子をエスコートして歩き出す。
 春の可憐な花に囲まれた道を、琴子がゆっくり歩いてくる。
「琴子、おめでとう」
「琴子ちゃん、おめでとう」
「琴子さん、綺麗よ。おめでとう」
 大内滝田両家の親族や龍星轟の兄貴二人にも声をかけてもらい、琴子が笑顔を返している。
 そして最後。英児のすぐ側に立っている頑固な顔つきの男の前で、琴子から立ち止まった。
「滝田のお義父様」
 英児の目の前にいたのは、滝田の父だった。英児へと辿り着く前に、琴子はちゃんと英児の父親の所に頭を下げてくれる。
「なにも持っていない私ですが、精一杯やっていきますので。どうぞ、よろしくお願い致します」
 矢野じいまで一緒に頭を下げてくれる姿は、知らない人が見れば本当に父娘に見えてしまうほどだった。
 黒い礼服姿の父も、今日はにっこり。
「こちらこそ。堪え性なく聞き分けのない悪ガキに育てましたが、どうぞせがれを頼みます」
 いちいち気に障る言い方をする実父だが、琴子や矢野じいよりも深く深く一礼をしてくれる姿に……。甘やかしてはくれない父親ではあったけれど、やはり自分の父親。今日の日を今か今かと待っていたと、兄と義姉から聞かされていただけに。英児も滝田の父と共にこちらも歴とした父子として一礼をする。
 そしてついに。矢野じいの手が琴子の白い手袋の手を、新郎の英児へと差し出す。
「この日を、二人とも忘れんなよ。いいな」
 娘をお願いします――は、この日はない。それはいつまで経っても、琴子の父親のもの。そこまで父親気取りをしない矢野じいからの言葉に、二人は揃って頷いた。
 矢野じいの手から、英児の手に。その小さな白い手がふわりと乗った。
「英児さん」
 潮風にベールが舞う中、琴子がきらりとした眼差しで英児を見上げた。白無垢では楚々と隠された顔に色気を感じたが、今度は英児がいつだって見てきた愛らしい笑顔がそこにある。
 その手を、英児は迷わずに自分へと引き寄せる。
 しかも、そこにテーブルがあって。マスターがなにか飲み物の準備をしていることを解っていても。英児はそんな琴子を、いつもそうであるように、もう……胸の中に抱きしめてしまっていた。
 黒いモーニングの男が、後先考えずに、花嫁に触れるなりぎゅっと抱きしめる姿。参列している皆が『わあ』と笑い声で湧いた。
「こらー、滝田社長。順番が違うぞ!」
「なにやってんだよ。それじゃあ、いつも通りじゃないか!」
 堪えしょうがなく、溺愛している琴子に触れずにいられない性分をよく知っている龍星轟の兄貴達の野次に、また参列者達が笑い出す。
「流石、速攻の滝田君。そのまま、誓いのキスいっちゃえ」
 三好ジュニアからもそんな野次が飛んでくる。
「そうだそうだ。もういっちゃえ、誓いのキッス、誓いのキッス!」
 ついに武智まで、進行を投げてしまう始末。
 武智とジュニア社長の調子の良い音頭に、参列者にマスターまでもが催促の拍手を揃えてくる。
「英児、いけ!」
 側にいる矢野じいも大きく手を叩いて煽ってくる。
 しかも英児の父親まで。
「まったく。それほど琴子さんが好きなら、お前、絶対に彼女を困らせたりするんじゃないぞ」
 といって、やっぱり矢野じいと一緒になって手を叩いている。
 皆に煽られ、英児はやっと胸元から琴子を離す。ベールをまとう琴子の顔を見下ろした。今日も彼女の口紅は淡い色。いつもと変わらない。
 キスをする前に、英児は琴子の瞳をみつめる。この日に言おうと決めていた言葉がある。
「琴子、俺、すげえ、お前のこと――」
 あい、愛、愛し……。
 言ったことがない言葉だった。言ったことがあると思っていたのに、言っていなかったことに婚約してから気がついた。
 言いそびれると、いつ言えばいいか判らなくなり。それなら、結婚式で言ってやろうと思っていた。それが今。
「これからもずっと、お前を、愛し、愛」
 どうした。言えるはずなのに言えない?
 琴子がじっと英児を見つめている。
『どーしたのー、英児おじちゃん。誓いのキッスまだあ!?』
 英児の甥っ子と姪っ子まで、楽しそうに急かしてくる声。
 琴子がそこで、にっこりと英児を見て笑った。
「言わなくても……。もう沢山、『愛している』て、聞いてるから」
 え、俺。そんなこと、いつの間にか言っていたか? 思い当たらないと英児は目を丸くしたのだが。
「言葉なんて、貴方には似合わない。強いキス、いつも肌に触れる手、毎日、いつも。その一回一回、いつも英児さんから『すげえ愛している』て聞こえていたもの」
「そ、そうなのか?」
 確かに。英児の愛し方はそれだった。彼女を見ると抱きしめずにいられない。キスをしたくなる。素肌に触れずにはいられない。彼女に触れること、肌を愛でることが、英児のお前が欲しい愛している――だった。
「そうよ。だから、もう、その言葉はいいの」
 言えないのは、英児さんが動物的に愛してくれるからよ。そう言って、今度は白いドレス姿の琴子から英児の首に抱きついてきた。
 しかもあろうことか。琴子は飛びついてきたそのままの勢いで、愛しているが上手く言えずにいる英児の唇をぎゅっと塞いでしまう。
「わー、嘘だろ! タキさん、なにやってんだよ。琴子さんからキスをしてもらうだなんて!!」
「英児叔父ちゃん、ちゃんとやれよー!」
 武智と甥っ子の声が遠く聞こえるほど。英児は花嫁からのキスに茫然となっていた。参列者もますますからかいの歓喜で湧いている。
 キスをくれた琴子がそっと囁く。『ずっと一緒よ』と。それを聞いて、英児もやっと我に返り、花嫁の彼女をまたぎゅっと抱きしめる。
 彼女の頬に触れ、塞がれている唇を今度は彼女へと押しつける。今日は濃密なキスは人目を憚るので、英児もグッと堪える。それでも琴子の唇を吸って噛んで、なんどもキスを繰り返す。やっと琴子が『ん』と困った顔になる。
 いつまでも続く英児の長いキスに、ついに龍星轟の兄貴達が『いい加減にしろ』と、一足早く花びらを投げつけてきた。
 もう進行もめちゃくちゃ。決まりきったヴァージンロードの段取りを無視した、でも、賑やかな祝福。
 唇を解放された琴子が、また英児を見つめて、ふんわり優しい微笑みを見せてくれる。それを見て、英児はまた琴子の頬を捕まえてキスをしてしまう。
「さあ、皆さんも一緒に『この野郎!』と叫びながら、花を投げてください!」
 武智のかけ声で、帰りの道で投げてもらうはずだったフラワーシャワーが、海辺でキスを繰り返す二人に一斉に投げられる。
 花びらが降る中、潮風にふわりと海辺に流れていく白いベール。そこに花嫁の微笑み。愛して止まない唇。
 俺、ジジイになってもずっと思い出すよ。今日のお前を。
 それが、彼女にやっと言えた言葉だった。

 

 

 

 

Update/2011.12.25
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