× ワイルドで行こう【ワイルド*Berry】 ×

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 2.俺達、最強。 

 

「英児さん――!」
 婚約者の彼女が、英児の訪問に気がついた。
「滝田君、どうしたんだよ」
 そして彼女の上司も、英児の訪問に驚きの顔。
「こんにちは、三好さん。仕事中に申し訳ありません。ちょっと手違いがあったので、お邪魔いたします」
 だが。英児が一番気になった琴子の前カレは、ふいっと何ともなさそうな顔で別部屋へのドアを開け消えてしまった。
「どうしたの、なにかあったの?」
 気にはなるが、目の前にはもう彼女が出迎えに来てくれている。婚約者の男がわざわざ職場に来るほど。『なにかあったの』ととても案じる顔。
「いや。仕事中にごめんな。実は、今日の外回りでいつもの車に乗っていくつもりだったんで、必要な書類とかいれっぱなしにしていたんだよ」
 そう言っただけで気の優しい彼女は『えー、そうだったの!』と驚き、申し訳ない顔に変貌する。だが、英児は彼女が何かを言いそうなるその口を急いで制す。
「ああ、いいんだよ。俺もうっかりしていたんだ。琴子も車に乗ってでかけるんだという感覚が未だ身に付いていないのに『乗ってもいいぞ』と言ってそれっきりで」
 すれ違った原因はきっと、それ。つい先日、二人で夜のドライブに出かけた時のこと。婚約したこと、同居を始めたこと、いつでも二人で出かけられること、夜のドライブも一人ではないこと。なによりも実生活だけじゃなく、助手席に可愛い相棒がいること。それが嬉しくなってしまい……。彼女がふいに『いつかスカイラインも運転してみたい』と言ったので、浮かれた気分のままつい『いいぞ。来週、乗ってもいいぞ』なんて言ってしまったのだ。
 それでも『すぐに』なんてがっつくように飛びつかず、『彼の愛車だから』と遠慮をしてちょっと様子を見て……という慎重さが彼女らしい。なので、暫くは『琴子ゼット』に乗って出勤をしていたので、英児もそうは言っておきながらすっかり油断してしまい、今日ついに彼女が旦那からの特権を信じて、旦那の日常車に乗っていってしまったということに。
「ごめんな。俺も自分で言っておいて、うっかりしていた。明日はこの車に乗るから――と打ち合わせておく感覚がまだなかったからさ」
「やだ、私こそ。英児さんが『乗ってもいい』て言ってくれたから嬉しくなっちゃってつい……貴方がいつも乗っている車を選んでしまって。許してくれても、毎日乗っているスカイラインだけはちゃんと聞くべきだったわね。気が利かなくて、ごめんなさい」
 これからずっと共に生きていく約束をした相棒同士のはずなのに。それでも彼女がきちんと頭を下げて謝ってくるので、英児は今でもその丁寧さにびっくりしてしまう。
「もうさ、気にすんな。俺もうっかりだったんだから。ゼット持ってきたから、帰りはそれで頼むよ。外回り行くから、キーを交換してくんね」
「わかりました。待っていてね」
 『わかりました』って、ほんときちんとしているお嬢さんだよなあと感心してしまう。でも英児は『そーいうとこ、すげえイイ。すげえお気に入り』とついつい口元が緩んでしまいそうになり必死に堪えた。
 事務所奥にあるロッカーまで行く彼女。入れ替わりで三好ジュニア社長が、英児の目の前にやってきた。
「なあ。滝田君。琴子にあれはないだろ」
「え、彼女がなにか」
 三好ジュニアの背中の向こう、事務所片隅のロッカーからお気に入りの洒落たバッグを取り出す彼女を、三好ジュニアがちらりと肩越しに見ながら喋り始める。
「ゼットに若葉とか、スカイラインに若葉とかさ。いきなり乗せるんだもんな。よく許したな」
 いえ、それだけ彼女が運転できるようになって俺も嬉しいんです。とは、流石に言えず、ただにっこりと返すだけの英児。
「それに、うちの印刷所の男共もすげえびっくりしているんだよ。みんな、琴子が慎ましく大人しい女の子だって知っているからさ。今朝だって琴子がぶっといマフラーふかしてスカイラインでやってきたもんだから、従業員が駐車場に集まる集まる」
 あ〜、そうなんですかあ。と、英児もそこは苦笑い。男達の気持ち、わからないでもない。英児のような車屋の男ではなく、運転席から降りてくるのはお洒落なOL姉ちゃん。この会社に長く勤めている彼女が走り屋旦那の車で出勤してくる姿を目にして、工場にいる顔見知りの兄貴や親父達が黙っていられずに車を囲む様子が目に浮かぶ。
「上司の俺よりぶっとんだ車に乗ってくる若葉ちゃんってなんだよ。思わずセリカを出してしまっただろ」
 ああ、やっぱり。と、英児は笑う。
「お子さんも大きくなられてきたようですし、大事にとっておいたほどの愛着なのですから、そろそろ乗られた方が車にもいいかもしれないですよ」
「だよな。そう思ってさ。なんか、琴子が楽しそうに乗ってくるのを見ていたら、俺も学生時代に乗り始めた頃のわくわくした気持ちを思いだしてしまったもんな」
 そんな言葉を聞くと、車屋の男としてはとっても嬉しい。しかも顧客の、自分が良く整備している車がまたオーナーの手によって走り出し、またオーナー自身が楽しんでくれることが。その上、その気持ちを思い出させたのが、車屋の嫁さんになる彼女を見て……と知ると、本当に車屋冥利に尽きるというもの。
「自分もまさか。彼女がここまで車を好きになってくれるとは思っていなくて……」
 英児自身もそれは予想外の宝物が手に落ちてきた気分でいる。
「でもさ。琴子、明るくなったわ。それに仕事をしていても判断力とか、思い切りがついてきたな。視野も広がっている。自分が知らない範囲へ自分から一歩出ていく思い切りも、やっていけるという自信がついたのもあるんだろうな。違う世界観を持っている滝田店長と出会った影響かな」
「はあ、いや。俺なんて。彼女は元々いいもん持っていましたよ」
 自分はたいしたことないと謙遜したつもりが、惚れた女とのことを惚気ている言い方になってしまい、英児はハッとする。だが既に遅し。三好ジュニアがにったりとした笑みで英児を見ている。
「――『惚れているんです。俺に任せてくれませんか』だったよな〜。ゼットで琴子を迎えに来た夜。あれは俺もガツンと来たなあ〜」
 うわー、あの時の。三好ジュニアに面と向かって言われ、英児はますます照れて顔が熱くなってどうしようもなくなってくる。
 琴子と再会した初夏。それっきりにしたくなくて思い切って食事に誘ったら、彼女が残業期間中で上手く予定が合わなかった。だけれどその晩は『絶好の月夜』。どうしても彼女に見せたくて、会いたくて。その夜、英児はなりふりかまわずこの三好堂印刷まで彼女をゼットで迎えに行った。
 あの時、本当に英児自身も必死だったと振り返る。女性と関係を持つのが面倒くさくなっていたのに、どうしてか琴子のことを想うと落ち着かなくて。勝手に身体が動いて車に乗っていた。
 その時、この彼女の上司に言った言葉が『惚れているから任せてくれ』だった。思い返せば、彼女の上司に随分と大胆なことを告げていたわけだ。どれだけ必死だったことか。
 それでも今度の三好社長は、微笑ましいと言わんばかりの穏やかな眼差しでデスクにいる琴子を見つめている。
「まあ、滝田君らしいよ。思った通りそのまんま。裏表なくて気持ちのまま、相方にぶつかっていけるから。大人しい琴子にはぴったりだったかもな」
 いやいや――と、照れつつも、やはり今の英児はそう言われたなら、もう心よりの笑顔になってしまう。だがそこで三好社長が一転、ため息をこぼし英児に急に頭を下げた。
「ごめん。なのに、琴子の側に前の男……」
 三好社長がぐっと言葉を飲み込むようにして、急に黙ってしまった。
「英児さん、これ。スカイラインの」
 三好社長が黙ったのは、琴子がすぐ後ろに来たからだと英児には分かっていた。そして三好ジュニアがなにを英児に謝ったのかも……。
「おう、サンキュ。じゃあ、これゼットのキーな」
 ――琴子の側に前の男。雇ってごめんな。
 そう言いたかったのだろう。分かったので、英児は琴子のしとやかな指先が差し出すキーを何気ない笑顔で交換した。
「琴子。見送ってやんな」
 三好ジュニアの気遣い。
「ですけど。デジ版の色指定チェック……」
 琴子が躊躇っている。
「見送りたって数分だろ。お前、トランクの若葉マークをゼットに貼り替えておけよ。滝田君が貼ったまま走ったら、それはそれで面白そうだけどさ」
「そんな、とんでもないです。若葉マークは店長の運転ではなくて、私が乗っている時だとお客さん達に教えておかなくちゃ!」
「だったら。乗ってきたお前がちゃんと貼り直してこいよ」
 そう言って三好社長は、躊躇う琴子を上手く英児と共に外に出そうとしている。
 それも英児には伝わってきた。二人きりにして、前カレと共に働いていることちゃんと聞いておけ……とか、話しておけ……という気遣いなんだろうなと。
 お邪魔いたしましたと、英児は琴子を伴って事務所前の駐車場に向かう。
「本当にごめんなさい。でも、スカイラインの運転も楽しかった」
 秋らしい深紅のカットソーに、小花柄の黒いスカートの彼女がにっこりと英児を見上げている。お気に入りの優しく女らしい匂いが、秋晴れのそよ風にのって英児の鼻先をかすめていく。
「スカイラインは、英児さんの匂いが他の車よりずっとずっとするの。一緒に乗っているみたいで、朝から『今日も琴子と一緒にいくぞ』と英児さんが言ってくれているようで、なんだか元気が出るかんじ」
「琴子……」
 そんないじらしいこと言われたら、もう直ぐに抱きつきたいところ。だが彼女の職場だから、当然、英児はぐっと堪える。ここが車の中だったり、自宅だったら、もう抱きつくどころか彼女を胸の下に押し倒しているだろう?
 それにしても。琴子も英児と同じように、相棒の車の匂いを感じてくれていたなんて……。
「俺も。ゼットに乗って来る途中、車の中がすっかり琴子の匂いになっていて、もったいなくて煙草が吸えなかったんだよ。俺のゼットだったのに、もうすっかり琴子の愛車になっていて、琴子が一緒に乗っているような感覚だった」
「本当に! 同じ感覚、嬉しい」
「うん、俺も」
 真っ青な空の昼下がり。ほんの一瞬、英児と琴子の眼差しが熱く交わる。その時、英児の脳裏にはあの月夜。入り江と灯台が見えた部屋で、こんなに生きてきた道が異なる女性と今までにない一体感を得た夜。あの時の熱っぽさが瞬時に蘇ってしまうから、大好きな彼女との視線の交わりだけでも熱愛に囚われてしまう。だから、その指先がついに。彼女の頬に触れていた。
「琴子。いま二人きりじゃないのが残念」
「私も……」
 英児には分かる。彼女もきっと同じようにこの眼差しの交わりだけで、裸で抱き合っているような熱愛を感じ取ってくれていると――。
 彼女らしくない、ビビットな赤い服。でもとても似合っている。彼女の白い肌の色をとても際だたせ、許されるなら今すぐ、その頬に、首筋や胸元に吸い付いて激しく愛してあげたくなる。
「はあ。参ったな。昼間の仕事中だなんて『クソくらえ』って投げ出したい気分だ、今の俺」
 だけど彼女が笑う。
「でも。滝田店長は今日も格好良くスカイラインに乗って、車が大好きな人のところへ飛んでいくんでしょう」
「いま乗りたいのは琴子の身体の上だけどな。ぐいぐい運転したい衝動に駆られています、俺」
 平然として言うと、流石に琴子が面食らった。
「やだ、もうっ。英児さんったら。本当に、もうっ。いつも急に平気で言い出すんだから」
 彼女に背中をばしばし叩かれる。それでも英児は、そんな照れる琴子をからかうのが楽しくてにたにたしてしまうだけ。
「待ってて。若葉マークを外してくるから」
「おう」
 スカイラインの運転席に乗り込み、交換したキーを差し込む。バックミラーに若葉マーク片手の彼女が映っている。そんな琴子を眺めながら英児は思う。
 ――前カレ、なんでいるんだよ。
 そう思うが。せっかくいい雰囲気で彼女が笑顔で見送ってくれるので、その一言を英児は胸の奥にしまい込んだ。
「貼り替えたわよ。じゃあ、ゼットに乗って帰ってくるわね」
「だんだん日が短くなってきたからよ。早めにライトを点けるのを忘れるなよ。夕方の薄暗い交差点は要注意だからな。運転、気をつけて帰って来いよ」
 初心者の彼女を案じて、ついつい口うるさくなってしまうこの頃。でも彼女はやっぱり優しい笑みでうんうんと可愛らしく頷いて聞いてくれている。
「英児さんも、外回り気をつけて」
「ああ」
 シートベルトをしてエンジンをかけ、見送ってくれるドアを閉めようとした時だった。
「彼……。先週から、この事務所の正社員になったの。フリーランスで仕事をするのはやめたみたい」
 琴子から急に言いだした……。英児は琴子を見上げる。ちょっとばかり申し訳ない顔をしていた。
「そうなんだ」
 先ほどまで、英児が大好きな微笑みをみせてくれていた琴子だが。英児同様、琴子自身も『いま言うべきかどうか』を思いあぐねていたようだった。
 少し前。あの男は結婚をダシにして、自分から切り捨てたはずの元恋人である琴子に近づいてきた。しかも琴子がたった一人で英児を待ってくれている、女心も心許ない時期に。元恋人である琴子の上司、三好社長とのコンタクトを計るためのプロポーズという作戦。一人で寂しく過ごしているだろう琴子の心根を利用するように、うまくいっていない仕事の窮地から抜け出そうとしていた。勿論、彼女はそんな別れた男の思うところなど既にお見通しではね除けてそれっきり。だが最後に彼女は言ったのだ。『私は貴方とは結婚しない。結婚しても事務所は辞めない。それでもいいなら……別れた女がいても平気なら、いつでも三好社長に取り次いでもいい』と。
 あの男。やはり、琴子に甘えてきたのだろうか。そう思うと、密かに腹立たしくなる。気の優しい彼女を傷つけるような接触を試みて、断られて高価な結婚指輪を無駄にして男としてのプライドも砕かれたはずなのに。それでも琴子を頼ったのかと。
「彼ね。自分から三好社長に交渉しに来たの」
「え、そうなんだ」
 琴子もそこはきちんと婚約者の英児に言っておこうと気にしていたのか。先ほどまで愛らしい笑顔だったのに、とても思い詰めたものに変わっていると英児は感じる。
「いいんじゃねえの。仕事するために、瀬戸際で踏ん張ろうとしたんだろ」
 お前のこと、信じている。あの男がいたって、どうってことねえよ。そう言いたいから、平気な顔を英児から見せた。するとやっと彼女がホッとした顔になる。
「……なんかね。彼、変わったみたい。無愛想なのは相変わらずなんだけれど。変なプライドがなくなったみたいで」
 『本物の男』ならば、そうなるはず。英児は思う。別れた女を利用しようとしたが、逆に彼女から強烈なカウンタアタックを喰らって撃沈した男。それでもKO負けした別れた女がいる事務所に敢えて、自分から挑んだ。もうその時点で、自分を雁字搦めにしていた変なプライドを捨ててゼロからスタートをしたのだろう。英児はそう感じた。
 案外、男じゃねえかよ。
 本気でそう思った。それと同時に、やっぱり英児が惚れた女がずっと前に惚れて選んだ男だったのではないかと認めたくなってくる。
「三好社長も以前の契約を平気で断ってきたのも彼自身だから、最初から信用していなかったんだけど。プライドが高い雅彦君が何度も頭を下げたから、試しに一ヶ月ほど外注の仕事をさせてみたのよね。そうしたらクライアントからとてもいい反応が続いたり、リピート受注があったりしたものだから。社長も彼の変わりように驚いたみたい。『ずっと前の波に乗っていた時のあいつに戻っている』と判断して、フリーランスじゃなくて正社員でどうだと社長から――」
「……そうだったんだ」
 ああ、それで。先ほど『ごめん』とジュニア社長自ら頭を下げてくれたんだと、やっと理解した。琴子じゃない、三好社長がビジネスとして判断したことだったのだ。英児だって経営者のはしくれ。三好ジュニアの判断と感覚に共感を持ってしまったから、それが解れば何も言えない。
「いい仕事をする男を、経営者は放っておかないもんだよ。それでこの事務所のプラスになるなら琴子にもプラスだろ」
 でもまだ彼女がしょんぼりしている。
「正式に雇用する前に、社長が私に『別れた男が側に来ても大丈夫か』と聞いてきたの。私『大丈夫です』と答えた……」
 だから三好ジュニアが雇ってしまったとでも言いたそうな琴子。秋風に切りそろえたばかりの柔らかい毛先を揺らす彼女が眼差しを伏せる。だが運転席に座っている英児は笑って、目の前ある彼女の白い指先をそっと握った。
「当然の返答だろ。お前、間違ってねえよ」
 陰っていた瞳がそっと開いて、静かに英児を見つめてくれる。
「もうどうってことない男だろ。仕事だろ。彼も、社長も琴子も、仕事だったら互いに上手くいくと思ったんだろ。それに社長を甘く見るなよ。部下である姉ちゃんの一存だけで判断なんてしねえよ。琴子に尋ねた時点で、三好社長は既に雇おうと腹を決めていたんじゃないか。だからお前の様子も確かめておいたんだろ。じゃなきゃ、お前になにも聞かずに不採用にしているよ」
 琴子の意志で決まったんじゃない。三好社長が部下の異性関係を抜きに決めたこと。だから気にするなと伝えると、やっと彼女が少しだけ口元を緩めた。それを見て、英児はさらに彼女に微笑んだ。
「俺達、結婚するんだ。どんなことよりも最強だろ」
 いま握っている指先、薬指。そこに少し前、英児が自らはめてあげた婚約指輪がある。彼女の趣味に似つかない、龍の彫り物が施してあるハードなデザインのもの。それをいま琴子は喜んで指にはめてくれている。そして英児の指にもお揃いの指輪がある。『結婚まで待てねえよ』と、自分用の『ペア婚約指輪』を作ってしまった。だから、すっかり英児の趣味。整備仕事中は外さなくてはならないが、それ以外では英児も忘れずに指にはめている。そんな男の趣味独りよがりの指輪なのに、琴子は嫌がるどころか笑って指にはめてくれた。『ここだけ私らしくない英児さんらしいものがあって、如何にも龍星轟店長の女ってかんじ』。自分の趣味じゃない指輪なのに、琴子はそこに英児を伴っているようだと喜んでくれた。
 揃いの婚約指輪をしている指と指が静かな青い空の下、絡み合う。
「そう思ったから。私も『大丈夫です』と答えたの。……でも、どう報告していいか分からなくて。今日になって」
「そのうちに話してくれるつもりだったんだろ。気にすんなよ。な、」
 そう言うと彼女がこっくり頷いてくれたが、自分が決意しない内に婚約者の英児に思いがけない形で知らせることになったので気に病んでいるようだった。
「時間ないからさ、俺もう行くな」
 夜、帰宅したらちゃんと抱きしめてあげようと思った。そんなに気にするな。俺達、こんなに愛し合っているだろうと。俺はこんなにお前を愛しているから平気だよと。そうすれば……。
 だが英児から握った彼女の指を離そうとしたのに。今度は琴子から握り返してきて離してくれなくなった。
「琴子……」
 いや。離したくない。そんな泣きそうな顔をしていたので、英児は驚く。
「私も、午後の仕事なんてクソくらえ……」
 一緒にスカイラインに乗って行ってしまいたい。貴方の隣にいたい。
 英児の指先をぎゅっと握りしめたままの琴子が、小さな声でそう言った。
「ばっか。お前、いいとこのお嬢ちゃんが『クソくらえ』なんて真似すんなよ」
「また、いいとこのお嬢ちゃんじゃないもの」
「大内のお母さんに俺が叱られるよ。『英児君、ちゃんとしっかり琴子を見てやってくれなきゃダメじゃないの』って俺が言われるんだからな」
「お母さん。英児さんのこと、私の面倒を見るお兄さんみたいに思っているから」
「お兄さんじゃねーよ。旦那になるんだよ」
 英児から笑い飛ばすと、やっと琴子も笑顔になる。
「いってらっしゃい」
「おう。行ってくる」
 ドアを閉めハンドルを握り、手を振る彼女に見送られながらスカイラインのアクセルを踏んだ。
 大丈夫。俺達は出会ってまだ一年も経っていないけれど、ひと夏中、離れている間が惜しいほどに愛し合った。この女、絶対に手放したくない。だから自然に『この子と生きていこう。結婚しよう』と思えた。あんなに、恋人を持つことや結婚を恐れていたのに――。
 握るハンドル。左手に龍の指輪。一方的に選んだデザインの意図は、彼女が言うとおり。『そんな趣味の男がこの女を捕まえている』と示したい独りよがり。でもそれをすんなり受け取ってくれた彼女。今度、結婚指輪は彼女と選ぼうと思っている。
 バックミラーを見ると、深紅のカットソー姿の琴子がまだ見送ってくれていた。青空の下、秋のそよ風の中。まだこちらを見て……。
 だが。その横にふいっと洒落たあの男が並んだのを英児は見た。
 一言二言、言葉を交わし二人が肩を並べて事務所へと去っていく。バックミラーから二人並んだ姿で消えてしまった。
 いつかあっただろう彼等の並ぶ姿を英児は完全に否定することが出来なかった。
「だから、どうした。もう俺の女房になる女だぞ」
 仕事の話に決まっているだろ。いつまでも外にいるから、彼が呼び戻しに来たんだろ。それだけのことだろ。英児は一人自分に言い聞かせる。
 龍の指輪をはめさせた男。あの印刷会社の誰もが『信じられない』と言うぐらい、不似合いな車に乗ってくるようになった彼女。それぐらい英児と琴子のそれまでは、あまりにも馴染んでいた空気感が異なる世界にいた。
 それまでの琴子は……。あの洒落た男と同じ世界にいた。誰が見ても、同じ世界にいる男女。
 買ったこともない深紅の服を一発でお洒落に着こなす彼女と、如何にもデザイナーというに相応しい洒落た男が並ぶと確かに『お似合い』だった。
 わかっているが。英児には未だに琴子という婚約者は『高嶺の花』。そんな女をやっと手に入れた気分でいる。
  
 たぶん、今夜は帰宅してきた彼女を見たら直ぐに抱きついてしまうだろう。あの真っ赤な服を直ぐに剥ぎ取って……。龍の指輪ひとつだけ身につけさせて、腕の中に抱いて気が済むまで離さないだろう。

 

 

 

 

Update/2011.10.8
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