× ワイルドで行こう【ワイルド*Berry】 ×

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 4.プリティ・ドラゴン? 

 

 特に朝。空気が変わったと思う。
 今朝も晴天。買いそろえたばかりのダイニングテーブルで、彼女が作ってくれた朝食を目の前に朝刊を広げる。
 もう見慣れた窓の風景はずっと同じなのに、タンカーが航行する瀬戸内の海や空の色が少し違うように思えるのも気のせいなのだろうかと、英児は一人自問する。
「見て見て、英児さん」
 朝のゴミ捨てから帰ってきた彼女が、英児の目の前にやってきて手を開いた。そこには『ドングリ』が。
「お店の裏にドングリの木があるでしょう。地面にころころ落ちていたのを見つけたの。いつ落ちてくるか楽しみにしていたんだけど」
 とっても嬉しそうな彼女をつい、英児は見上げてしまう。ずっと前から居着いている自分でも、そんなことはまったく気がつかなかったのに、彼女は見つけてきた。
「そういえば、ドングリ……あったよなあ」
「毎年、実は落ちていたんでしょ」
 もう何年も前にこの土地に自宅兼の店を建て住んでいる貴方なら知っているのでしょう――と言いたげな彼女には申し訳ないが、英児は首をかしげる。
「落ちていた……んだろうな、毎年。あまり気にしなかったな」
 案の定、彼女がちょっと残念な顔をする。
「あれは立派な木よ。元地主さんも土地を買った不動産屋さんもよく残したなあと思っていたんだけど」
 自分が買った土地ながら、あまり気にしたことがなかった。だから、英児はドングリを握ってきた彼女の手のひらに触れてみる。秋も深まり、朝方の空気も冷たくなってきた。外へ出ていた琴子の手もひんやりしている。英児はさらにその手を握りしめ、ドングリごと包み込む。
「住み慣れているのに気がつかなかったこと。琴子と一緒だから気がつけるのかもしれないな」
 琴子の目線もプラスされたから、今までの生活も新鮮。そう伝えると、彼女がにっこり笑顔を見せてくれる。
「これ、飾っておくね」
「おう」
 どこから持ってきたのか。洒落た小皿に数個のドングリを置いた彼女が、テーブルにある花瓶の傍に置いた。
 女らしい彼女のコーディネイトで、徐々に質素だった英児の二階自宅に彩りが生まれている。そして季節感も。
 彼女らしい爽やかな色合いのテーブルクロスとランチョンマット。そして小さなフラワーベースには、ちょっとした季節の花もかかさずに。そして、今朝は小さな皿にドングリ。
 だからだろうな、と英児はまた窓に煌めく瀬戸内の海を見る。その色合いが今まで違って見えるのはそのせいなのだと――。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その後も、彼女だけが慌ただしく出勤の身支度。英児は自宅が職場なのでいつものんびりしているのが、やや申し訳ないほど。
 寝室に入れた彼女専用のドレッサー。そこで琴子はメイクアップ中。英児も着替えながらそれを密かに眺めていた。こうして傍に『女の子らしい日常』とやらを当たり前のように覗けるのも、なんだか新鮮。
 最後に淡いピンクの口紅を塗ったところで、鏡に映っている英児を見ながら言った。
「今夜は、大学時代の友人達と食事をする日だから。夕食はないから、ごめんなさい」
「ああ、気にすんなよ。ゆっくりしてきな」
 うん。と嬉しそうに鏡の中の彼女が頷く。この日、琴子は『婚約報告』として、大学時代の同級生や後輩に久しぶりに会うとのこと。
「みーんな、びっくりして。私が走り屋で車屋の男性と結婚すると教えたら、『どうやって出会ったの』て。今日はいろいろ聞かれそう」
「あはは。女子会らしいな」
「同級生の友達はもうみんな主婦で子供もいる子ばかりだから、二次会もなしですぐに終わると思うから」
「車で行っても大丈夫か? 一番町やら二番町あたりだと夜はすごい混むぞ。中心街なのに、城下町特有の古くて狭い道をタクシーやヤン車が何台も行き交う夜の街に変貌するからな。なんなら送り迎えしてもいいんだけど、俺」
 でも琴子は首を振った。
「ううん。紹介がてら、英児さんの車をみてもらうの。それで無免許だった私が運転しているところも見せちゃう。みんな郊外電車で来る主婦なんだけど、一人だけお勤めしている後輩がいて。彼女は運転慣れているから今日は助手席に乗ってくれる約束なの。夕方、彼女の会社まで迎えに行って、食事が終わったら自宅まで送って。そうすれば、彼女もお酒が飲めるからちょうど良いねという話になったの」
 それを聞いて英児もホッとする。
「あれか。地方新聞社でバリキャリになったとかいう後輩の子」
「うん。大学のサークルで、彼女が一番しっかり者のやり手だったから。それに、今日の食事会も彼女が提案してくれて幹事もしてくれたのよ」
 おお、それは頼もしそうだと、英児も安心。なのだが。英児は着替えを始めた琴子を見届けて最後、顔をしかめる。
「今日、それ着ていくのか」
「え、うん。そうだけど、おかしい?」
「おかしくないけどよぅ……」
 英児の目の前で彼女がさっと着たのは、シックで大人ぽい黒色ベルベットのワンピース。襟ぐりをキラキラとしたビーズの刺繍がさり気なく縁取っているのだが、その胸元がけっこう開いている。
 琴子も自分で気がついたようで、そこをじいっと見つめている男の視線を気にするかのようにさっと手で隠してしまう。
「すっごく気に入ったから買ったんだけど。でも、私もちょっと胸元が開いているかなーと気にはなるのよね。でも今日は女の子ばかりだからいいかなって。あ、仕事中は胸元が隠れるカーディガン着ているから」
 だが、英児はグッと彼女の目の前に詰め寄る。琴子もまだ胸元から強い目線を外さない英児にたじろぎながら、クローゼットへと後ずさった。
 琴子の背中がクローゼットの扉にこつんと当たるのと同時に、英児は両腕で彼女を囲って迫った。
「あのな、琴子。お前ってさ……」
「な、なに」
 開いた胸元を英児の目線から見下ろすと、わずかに谷間が見えるから困る。
「お前ってさ。見た目より、けっこう胸あるんだよな」
 いわゆる着やせするタイプ。いつもお嬢さん風でしっかりきっちり肌や身体のラインをあまり見せない服装をしているので、彼女が脱ぐと急に艶ぽい女になることを誰よりもこの英児が知っている。それを今日は、そんなドレス風のワンピースで夜の街へ行くというのだから。そりゃ婚約者として心配になるのは当然のところ。
「こう覗くと谷間がみえる」
 上から見下ろされている琴子がまたハッと胸元を手のひらで隠す。
「そ、そんな近くに寄ってくる男の人なんて、英児さん以外いないわよ」
「わかんねーよ。すれ違う時に、こうやって覗く男がいるかもしれないだろー」
 英児の目線から胸の真上でじろじろ見下ろしてみた。許している男でも流石に琴子も恥じ入るのか、今度は両手で隠して英児の腕の中で背を向けてしまった。
 間近でふっと背を向けた彼女の黒髪が英児のあご先をくすぐる。クローゼットの扉で胸元を隠して俯いている琴子が『着替える』とノブに手をかけてしまう。
「冗談だよ。すげえ色っぽいからさ、心配しただけだよ」
 その手を止め、英児は背中から琴子を抱きしめる。
「あの、もうすぐ出かける時間……」
 腰をがっしり抱きしめて緩めてくれない男の力を、琴子が気にしている。だが英児はさらに両腕に力を込め、背中から抱きしめる彼女を解放しない。
「ちょっとだけな。あとちょっとだけ、琴子の匂いをかいでおく」
 後ろ姿も程よく肌を見せる黒いワンピース。麗しい大人の後ろ姿を英児も見下ろし堪能する。いつものフレッシュな朝の匂いも髪や首筋から……。その首筋を隠す黒髪を英児は指先でのけ、琴子の白い肌を露わにする。
 黒髪に白い首筋。さらに英児はあるものを探す。『あった』。そこに静かに唇を押しあてると、琴子が腕の中で小さく震えた。
 英児が探していたのは、首筋、耳の少し後ろにある『小さな黒子』。そこは英児が必ずキスをする場所。彼女と初めて抱き合った時に見つけ、それからずっと彼女を愛す時の印にしている。
「く、くすぐったいんだけど……」
 だが英児は『いつも通り』に愛撫する。琴子はここに黒子があると知っているだろうか? 自分だったら気がつかないかもしれないと英児は思う。そんな場所。こんな耳たぶをめくらないとわからないような首筋の小さな黒子なんて、本人が一番わからないところではないだろうか。
「ん、そこ……いつも、」
 しかし琴子も、英児がここを好んでいることをもう気がついている。だけれど、どうして好んでいるのかは、まだ判っていないようだった。
 その黒子を目印に彼女の首筋にキスをして、ちょっとだけ舌先で愛撫して最後にチュッと吸う。そこからいつも彼女の濃厚な匂いがする英児お気に入りの場所。そして彼女を見つけた夜、英児が色香を感じた白い首筋。だから初めて抱いた時も、その首筋を愛したいと黒髪をかき上げたら耳元にこの印を見つけた。
「あん、もう……。い、いかなくちゃ」
「あと少しな」
 彼女の耳の下、小さな黒子を彼女に見立てて最後に小さく舌先で舐めると、彼女が背筋をびくっと強ばらせる。
「あの、英児さん……いつもそこ、どうして」
 彼女と挨拶代わりのキスをする時も、二人でただたわむれる時も、そしてベッドタイムでも。英児が必ずそこをしつこく愛撫するので、琴子も気になるようだった。だが英児はまだ言わない。
「んー、ここ好きなんだよ。お前の匂いがするから」
「そ、そんなに?」
 本当の意味はもう暫く秘密にしておく。これは英児のマーキング。他の男に獲られないよう、俺の女に残しておく男の跡。
「気をつけて行ってこいよ。何かあったらすぐに連絡しろよ。俺、すっとんでいくから」
 背中から抱きしめている琴子の顎に触れ、強引に肩越し上へと振り向かせる。そして最後はこちらにもキッチリ刻印しておく。琴子が『んっ……』と漏らした声も唇の奥に英児は閉じこめてしまう。
 女らしい黒い彼女を抱きしめ、強いキスをして……。そして英児の男の手が、いつもどおり彼女の柔らかな胸をゆっくり揉んだ。唇を塞がれている琴子が僅かに喘ぐ声が漏れ聞こえた。
「く、くちべに……ついちゃ……」
 英児の口に塗ったばかりの口紅が付いてしまう――と言いたいようだが。
「お前の口紅、淡い色ばかりだからついたってどうってことねえよ」
 さらに濡れる声を儚くこぼす琴子の唇を強く吸う。
 きっと今夜も。こんな可愛い彼女が帰ってきたら好きなように襲ってしまうんだろうな……なんて。既に頭の中で黒い服を脱がして白い裸にしようとしている邪な妄想をしながら、彼女の淡いピンクの唇をご馳走になっているのも男の秘密。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 そんな女子会も無事に終わり、その日の夜、琴子は一人できちんと無事に帰ってきた。
 女友達にどのように婚約者となった英児のことを報告したのか、または友人達の反応などを、嬉しそうに教えてくれた。
 そして二人で結婚式の準備をするため、プランナーとの話し合いも開始した頃――。
 
「おう、タキ。今日のご新規さんなんだけどよ」
 外回りから帰ってくると、留守を任せている矢野専務が報告をしてくれる。
 留守の間の来客に、連絡、などなど。その専務が新しい顧客シートを社長デスクに落ち着いた英児に差し出してくれる。
「あれ。また女性の新規が来たのか」
「そうなんだよ。若いOLさんだな」
 近頃、根っから車好きの男ばかりが集まるこの店に女性客が増えた。女性だけではなく、ちょっと違う層の男性客も。最初は不思議に思っていたが、徐々にその訳も判明。そして今回も――。
「今回も同じだ。この彼女と話していたら、三好デザイン事務所の取引先の社員さんだってよ。どうして店に来たのか知ったのかと尋ねたら、やっぱり琴子が取引先にお前のゼットに乗って訪問してきたのを見たのがキッカケだって言うんだよ」
「またか」
「ちっと今までと違う客層だなと思ったら、琴子か三好ジュニア経由だもんな。俺達が走らない、行かない、訪ねない。今まで開拓しなかったところから来ているのはそういうことだが、お前の車を走らせることも、あのステッカーも、まだまだ宣伝効果があるんだと改めて実感するな。琴子が店長の車で今まで店長が走らなかったところを走らせる、取引先に乗っていく。または愛蔵のセリカ乗車を復活させた三好ジュニアも、龍星轟ステッカーを貼った車であちこち取引先へ乗り回してくれているのもあるんだろうな。このご新規の女の子も琴子が乗り始めた『滝田ゼット』を見る前から、街中のスポーツカーに貼られている龍のステッカーはよく目について気になった――と言っていたしよ」
 それで、この新規の若い女性は車検を依頼することになったらしい。本当に龍星轟にとっては、新しい客層。ここで出来れば今までにない客層を捕まえておきたいところ。
「この子も言っていたぜ。『あの静かな琴子さんが、かっこよくフェアレディZに乗ってきたもんだから、すごく刺激されちゃった』ってさ。車検のついでに、ちょっとでもお洒落な車にするにはどうすればいいかって相談も持ちかけられて、とりあえずイメージを作ってきてくださいと女性車用アクセのパンフレットを渡しておいたからよ。若い者同士、次回はお前が相談にのってやれよ」
「うん、わかった」
 矢野じいから顧客担当としての引き継ぎも終了。すると矢野じいが目の前で『むふふ』となんだか得意げに顎をさすり、ご満悦の顔のままそこにいる。
「なんだよ。じじい。気持ち悪いな」
 いつもの口悪に、途端に矢野じいが『あんだと?』と眉をつり上げたのだが、またすぐに頬を緩めた。
「だってよ。まさかこうして若い姉ちゃんが客に来るなんて、今までなかったからよ。嬉しいじゃねーか。女の子でも『ちょっとでも素敵な車にしたい』と相談に来てくれることが」
 どんな客でも車を可愛がってくれるその気持ちに出会うと、この親父は嬉しくなってしまうらしい。矢野じいのこんなところ、『本当の車好きの愛て、でけえな』と英児は尊敬してしまう。『車を格好良くさせる男共のこだわりばかりが車好きではない。お気に入りの車と長く気分良くつきあえるお手伝い。それこそ車屋の使命だ』というスタンスを見せつけられると、英児はこの親父が師匠でよかったといつも思っている。
「これって琴子が運んできくれた客層だぞ。感謝しろよ、英児」
「うん、わかってるよ。冗談抜きで俺もそう思う」
「まあ、でも。英児、お前も思いきったからだな。まさか琴子が運転をするとは思わなかったけどよ、英児自身もいきなり琴子に大事にしている車の運転を許したからな。あれで琴子が普通の女性専用車に乗っていたら、ここまで新規開拓にはなっていなかっただろうしな」
 確かに。大好きな彼女が『フェアレディZ』をとても気に入ってくれたから、プレゼントした。『いつか運転できればいいな』と思っていたのに、プレゼントしたその日その時に運転されたのは本当に度肝を抜かれたことを思い出す。しかし、それが今になって英児の仕事へよい影響を与えてくれることになるなんて、まったく予想していなかった。嬉しい予想外である。
「それから三好ジュニアにも。機会があったらそれとなく礼を言っておけよ。先日やってきた中年の男性客も三好ジュニアと一緒で『ファミリーカーに変えてしまったけれど、昔はマツダのRX−7に乗っていたのを思い出した。今の車でもちょっとでも三好さんみたいに格好良く出来るかな』――と持ってきたしな。走ることを趣味にまでしていない、実用で走らせている客層の『ちょこっとでもなにかしてみたい』というリクエストもあるんだなあと知った気分だ」
 英児も矢野専務同様に感じているところだった。今までは本当に根っから車好きのヘビーユーザーだけが集う男臭い店だった。オーダーもヘビーで、まあ、車好きの龍星轟メンバーからすれば『ヘビーなオーダー』ほど燃えるわけだが、経営的にはそれだけでは立ちゆかず。英児があちこちの経営者の集いなどに顔を出して、そこでパイプを作って小さな仕事を獲ってくる。という繰り返しだった。新規開拓はずっと課題ではあったが、まさか『嫁さんをもらう』ことになって、その嫁さんが引っ張ってきてくれただなんて――本当に予想外。
 だが、そこで矢野じいがちょっとだけため息をついて、腕を組み俯いた。
「ただよ。ちこっと気になっているのが。その女の子達が『リピーター』になってくれるかどうかということだ」
「だよなー。琴子を見て『私も』と思って来てくれるのも、一度だけの物珍しさってところはあるかもな」
「それだけじゃねえよ。俺が気になっているのはよ……」
 そこで親父が長袖になった龍星轟ジャケットの袖を指さした。そこには龍星轟トレードマークのワッペンが。
「女の子は、こんなハードなデザインのステッカーは貼ってくれねえってこと。少し前に来てくれた女性も『ステッカーはいらない』ともらわずに帰っていったもんなあ」
 この店で整備やチューニングをしてくれたら車を返す時にステッカーを手渡す。しかし矢野じいが言うように、女の子が車に貼るには確かにハードなデザインではある。
「店のイメージはこのハードな龍星轟だと固執すると、新しい客層をこちらから追い出してしまうことになるんじゃないかと懸念している」
「しかしよ。そこは『貼る、貼らない』の自由があるわけだし――」
 だが矢野じいが食ってかかってくる。
「バカ野郎。ステッカーが宣伝になる効果を実感しているだろ。興味がなかった女の子でも、町中でよく見かけると記憶してくれているほどだぞ。うちで手入れした車は全部貼って欲しいぐらいの意気込みをみせろや!」
 師匠に怒鳴りとばされ、流石に英児はたじろいだ。しかし、である。
「今までこの店の名を広めてくれた車好きの男達のトレードマークでもあるしよ。変えることなんてできねえし、スタンスも変えるんじゃなくて、そこは絶対に残しておきたいだろ。車好きの男が支えてくれた店だぞ」
「俺だって理想はそうしたいに決まっているだろが。それだけでは立ちゆかないから、経営者のお前にどうにかしようぜと言っているだけだ」
「……それは、俺もわかってるよ」
 『理想だけ』なら矢野じいも同じだろう。このトレードマークの龍を貼りたいから来てくれる男達、そこまで広めてくれた古参の顧客達の気持ちも無視は出来ない。しかし店は維持して行かねばならない。さて、どうするか。いまそこにいる。
「難しいな。男達の気持ちを尊重させつつ、新規の女の子達の心も掴みたいとなるとな」
 ため息をついた矢野じいだが、急にふっと何かがひらめいたのか、ぱっと明るい顔に。
「おおう、そうだ。こんな時の可愛い奥さんがいるじゃねえかよ」
 『可愛い奥さん?』と英児は一瞬、矢野じいの美人な奥さん『麗子さん』を思い浮かべてしまい首をかしげる。
「麗子さんに聞いてどーすんだよ」
 するとスパンと頭を叩かれた。
「いってーな。なんだよっ」
「うちのカミさんじゃねーよ。お前の可愛い奥さんに決まってるだろが! まあ、まだ可愛い彼女かもしれないがな」
「……あーっ、なるほど!」
 いまどきの女の子のことは『可愛い奥さん』になる琴子に聞けということだと、英児もやっと理解した。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その晩、親父との話し合ったことを、夕食後の珈琲を共に味わう琴子にも話してみると――。
「女の子にも貼って欲しいけれど、龍星轟のイメージは崩したくないステッカーを作りたいってことなの?」
「矢野じいとも話したけど、ステッカーでなければ、たとえば……ストラップとか、なにか女の子が使いやすいノベルティだとか。とにかく目について『それどこの』と聞かれるようなもの」
「ノベルティて、予算はどれぐらいかかるものなの? 英児さんが私に新しい合い鍵を作ってくれた時につけてくれた龍星轟のキーホルダーはどれぐらいしたの?」
 だがそこで英児は唸ってしまう。
「あれは。今思えば、格好つけた企画で終わったという苦い経験だけが残った。けどモノはいいもん作ったんで、希少もんではあるんだけどな」
「つまりお金はかけたけど、続けられなかったということなのね」
「うん、金はかけたなー。他にも、ありきたりな小物にネームを入れるだけとか、すげえ安い小物を数揃えて配るとかいう選択もあったんだけどな。それはやりたくなかったんだよ」
 こだわったノベルティを予算をかけて作ったが、効果があったのかどうかもわからないまま終わった。しかし手に入れた顧客の中には愛用してくれる者もいるにはいる。英児自身も記念にと大切に保管していたのだが、琴子用の合い鍵につけてあげたりしたこだわりの一品ではあった。
「確かにあのキーホルダーは『龍星轟』らしいわね。私もお気に入り。だけどあれを多数の顧客には無理ね……。しかも使ってくれないままお部屋の引き出しにという可能性も大きそう。宣伝になるかどうか」
 彼女との話し合いの結果、二人の意見は一致。『やはりステッカーが手軽で気軽』ということに。
「今の龍星轟のデザインは、どこでやってもらったの」
「これぞ、と気に入ったデザイナーが東京にいたんで、頭を下げてこれだけはと金をかけて作ってもらったんだよ。だからすげえ納得で愛着湧くもんが出来たんだよな」
「本当に、英児さんのお店へのこだわりなのね。そのデザイナーさんにもう一度、龍星轟にも合う女の子用の『可愛いドラゴン』を依頼できないの?」
 英児はすぐさま首を振る。
「いや。店を開く準備ということで俺もすごいこだわったんだ。マジでこれでもかってくらい金かけたんだよ。それに頼み込むのにすげえ時間かかった。頭を下げるのはもう一度出来るけど、あの予算はいまは組めないな」
「それほど……? でもなんだかわかる。確かに龍星轟のデザインて、このあたりの地方では垢抜けているていうのかな……」
 デザイン事務所にいるだけあって、やはり琴子にもそう見えるらしい。
 しかし。デザイン、デザイン――と話している内に、英児はやっと気がついた。
「あのさ。こういう依頼って。三好さんのところでもやってくれるのかな」
 『え!』と琴子が驚いた。
「龍星轟のステッカー制作を、うちの事務所に依頼してくれるってこと?」
「ああ。どちらにせよ、どこかのデザイン事務所を探さなくちゃいけないわけだし。ひとまず見積もりだけでも出してもらうかな。そうだ。そうしよう。ジュニアさんの事務所がダメでも、この依頼に合いそうな他の事務所を紹介してもらいたいな」
「本当に女の子用のステッカーを作る気なの」
 英児の素早い決断と提案に、琴子は呆気にとられている。
 だが英児は、目の前にいる『可愛い奥さん』になる予定の彼女を見て、ますます気持ちを強めた。
「作るぞ。琴子のような女の子が乗る車にも貼れる龍星轟らしいステッカーをな」
 これも結婚記念だ――。彼女のものになるゼットに似合う『可愛いドラゴン』のステッカーを。琴子に一番に貼ってもらおうと決めた。

 

 

 

 

Update/2011.10.29
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