× ワイルドで行こう【ワイルド*Berry】 ×

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 6.いい仕事してますね。 

 

 
 岬ドライブから暫く――。
「琴子。今日は俺のスカイラインに乗っていってくれないか」
 彼女がそろそろ出勤する時間。英児は身支度を終えた琴子に、愛車のキーを差し出す。
「どうして?」
 彼女も不思議そうだった。
「岬に行った時、久しぶりにゼットを高速で走らせたら、ところどころひっかかりがあったんだよ。足回りのメンテナンスと、レスポンスが気になるからCPUチューンをしたいんだ。仕事の合間にやるから、数日間ガレージ入りな」
「そうなの。うん、わかりました」
 その日、琴子は英児の黒いスカイラインに乗って出かけていった。
 
 仕事の合間、ガレージで自分のフェアレディZのメンテナンスをする。
 英児自身が運転席に乗り込み、オリジナルのアプリケーションで調整をする。データーにアクセスしようと運転席にてノートパソコンを接続している時だった。
「滝田しゃちょうー。滝田社長ー。社長ーー。お客様ですよー」
 いつも口悪い矢野じいがバカ丁寧に英児を呼んだので、『気色悪りぃーッ。なんのつもりだよ』と運転席から顔を出してみると――。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
 英児はギョッとする。
 矢野じいが妙にニタニタした顔で連れてきたのは、スタイリッシュな身なりの男。ぶっとい黒ブチ眼鏡をかけた雅彦がそこにいた。
「あの、俺のデザインを気に入って頂いたようで、ありがとうございました」
 スタイリッシュなうえに、初めてこうして真向かうと、彼もけっこう背丈がある。そんな彼が礼儀正しく、英児に礼をしてくれている。
 英児も運転席から降り、彼と向き合った。
「いらっしゃいませ。いえ、サンプルをみて一発で気に入ったので三好さんに、このデザインがいいと伝えただけで」
「三好から『しっかりしたポリシーを持っている人気店だから、デザイナーもとことんこだわれ』と……言われまして」
「こだわって頂けることを、強く望んでいます。それで……本日は?」
 英児から切り出すと、その素早い切り替えに雅彦の方が我に返っている。
「龍星轟のサンプルをいまからデザイナー一同で提出する日が迫っているのですが、お恥ずかしながら『こだわれ』なんて初めて上から言ってもらえたのに、そうなると逆になにも思いつかなくなってしまって……」
 描けないほど、考えてくれている。英児はそう感じた。
「どのようなお店なのだろうと、気になって来てしまいました」
「そうでしたか。よかったら、店の中で暫く様子を眺めていきますか?」
「はい。ありがとうございます」
 最初からそのつもりだったようで、真顔だった雅彦が初めてホッとした微笑みを見せた。
「専務。店の中の、空いているデスクを彼に貸してあげて」
「かしこまりました、滝田社長」
 あの口悪い矢野じいが、いちいち丁寧なのが逆に癪に障る。意味深な笑みを残しつつ、親父が琴子の前カレを店の中に連れて行った。
 ――クソ親父。琴子の前カレと察知して、ワザと『いまの婚約者は、社長様だぞ』と必要以上に持ち上げてくれたな。
 英児はそう思った。店のトレードマークを造るに当たり、専務の矢野じいには『気にいったデザイナーが、琴子の元彼だった』という事情は告げている。そこは親父も『そこんとこ、琴子ときちんと話し合っておけ』とは言われたが『その問題は、彼女とはもうきちんと解決済み。三好ジュニアも了承済み』と伝えると、矢野じいも納得してくれた。
なので。矢野じいも、『三好堂のデザイナー』と聞いた時点で『琴子の前カレ』と察したことだろう。それで『英児を格好良くみせてやらにゃあ』と張り切ってくれたようだった。しかし、それは英児のためでもあり、ある意味コンプレックスを持っている英児を持ち上げて助けてやったんだぞ、という嫌味でもある。
なーにが。かしこまりました、だ。普段もそれぐらい、社長の俺を敬えっつーの。なんて、一度は師匠に言い放ってみたいなあと思うが、師匠にそんなことしたら、十倍意地悪い切り返しでやり返されるのは目に見えているので、いまは我慢の弟子のまま。
 それにしても――と、英児は再びフェアレディZの運転席に戻る。あの雅彦が自らやってくるだなんて……。運転席でひとり、既存データーをPCマシンに吸い出し中。ノートパソコンに打ち出される数値もぼんやり見流し、物思いにふけってしまう。
「これ。琴子が毎日乗ってくるゼットですよね」
 突然の声に英児は我に返る。運転席から見上げると店に案内されたはずの雅彦が、スケッチブックを小脇にガレージに戻ってきていた。
「そうです。この前、自分が久しぶりに運転をしたら気になったところがあったので、メンテナンスとチューンナップで暫くガレージ入りです」
「ああ、だから。今日はスカイラインで来たんだ」
 そして雅彦はゼットをぐるっとひと眺めすると、タイヤを触ってみたり、ホイールを眺めてみたり。
「俺、三十になる前はインテグラに乗っていたんですよ」
「ホンダの……。あ、もしかして、『本多さん』だから『ホンダ』だったりして」
 英児の閃きに、雅彦が笑った。
「そう。ホンダだから。子供の頃から大人になったら『ホンダ車に乗る』と決めていたんですよ。中古だったけれど、シビック、CR−X、プレリュード。最後にインテグラ。学生時代から次々に買い換えて制覇したりしましたよ」
「すっごい。ホンダ狂じゃないっすか」
 洒落た男だから、洒落た男の格好つけで『ミニクーパー』に乗っているのかと思っていたら。なんと、二十代は生粋のホンダ狂! 
「こういうのみると、男は多かれ少なかれ、『ときめく』のは当然だと思うんですよね」
 洒落たデザイナーの男が、車へのときめきを語ってくれるだなんて。英児はそれだけで、笑顔でうんうん頷いてしまっていた。
「やっぱり。車屋の社長さんの愛車だけあって、エアロパーツもマフラーもホイールもこだわっていそうですね」
「もちろんですよ。走り屋野郎共に『こんな車に乗りたい』と思わせる車でありたいんですよ」
「なるほど。あの、このフェアレディZをスケッチしてもいいですか」
 芸術肌の人間が側にくるのは初めての英児。作業姿を隈無く見つめられるのかと思うと、それはそれで面はゆいけれど。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 黒ブチ眼鏡姿の彼が、スケッチブックを開く。彼がパラパラとめくる途中に描かれているスケッチが英児の目に飛び込んできた。
「あの、そのスケッチ。見せてもらってもいいですか」
 今度は英児から頼んでみる。雅彦が一瞬だけ躊躇ったのがわかったのだが。
「いいですよ」
 すぐにスケッチブックを英児に差し出してくれる。それを受け取り、英児は描かれているものを眺める。
 すべて女性用小物のスケッチ。花、果物、リボン、洋服、靴、化粧コンパクト、口紅、香水瓶。などなど。優しい色合い、か細い線で描かれた小物達。それを眺めているとなんだかとても身近に感じられた。その中のひとつ、小鳥の絵を見て英児はやっとその親近感はなんなのかを知る。
「これ、もしかして全部……」
 雅彦もなにもかも分かっている顔で、英児が思っているとおりのことを言った。
「さすがですね。やっぱり……、琴子のことをよく見ていらっしゃるんですね。オーダーが『店長の奥さんのイメージで』と仰られたので……。彼女が好きそうな小物をスケッチしてイメージを膨らませていたんですよ」
 予想通りだった。しかし英児はそれを雅彦の口から知り、僅かな胸の痛みを覚える。
 『さすが婚約者の男。琴子のことをよく見ている』と言ってくれたが、それは雅彦だって同じだと感じた。英児だって一発で判った。すべてが『琴子っぽい小物』ばかりだったからだ。極めつけが『小鳥』。彼女が愛用している乙女チックな眼鏡ケースの模様に、とても似ていた。
 琴子は『雅彦君は自分の世界が大事だから、私のことなどあまり気にしていなかった』と言うことがあった。だが、彼女が毎日オフタイムで愛用しているものを覚えているということは『見ている部分もあった』ということ。
「彼女。生粋の女の子でしょ。目立つような子じゃないけど、いわゆる『女子』というものに溢れているというか」
 うわー。この男もしっかり今カレの俺と同じことをちゃんと感じていたんじゃないかと、英児の胸はますます締め付けられる。
「そんなガーリーな趣味の彼女と、ハードな旦那さんの感覚を融合させるところで、どうしても躓いてしまって」
 それって。俺と琴子が『まったく融合するはずもない違う世界にいるから、デザインしようにもまったく噛み合わない』とでも言いたいのか。なんて、前カレから言われると一瞬はそう感じてしまう英児。それはそれですぐに自己嫌悪に変わったりもする。
 しかしそこで、なにかを悟っているのか。スケッチブックを見つめたまま黙っている英児から、雅彦自らスケッチブックを取り去っていってしまう。
「……ですが。必ずオーダーに適うものを創ってみせますから」
 なのに。雅彦がそこで微かにため息を漏らしたのを英児は見逃さなかった。彼もどこか苦い顔、に見える? そこで英児も思い改める。彼にとっても……。別れた彼女と彼女が結婚しようとしている男を融合させるものをデザインする仕事なんて……。もう終わった関係と解っていても、やりにくいに決まっている。
 しかし。そこは男同士。各々が持っている『男の情熱』にプライドがあるなら、心に折り合いをつけ、摺り合わせ、ここを互いに乗り越えねばなにも生まれない。
「俺。本多さんの誰にもできない、俺しかできないと訴えかけてくるムードが気に入ったんですよ。頼みますよ」
「勿論です。俺も、いまの龍星轟のロゴと対等になれるものを作り出すことは、久しぶりのチャレンジですから。それに、これが街中の車に貼られる、対象者が多い、これだけの好条件のオーダーはデザイナーにとって願ってもなかなか無い仕事ですから」
 そこで英児はやっと知る。多少のわだかまりが残ってはいるが、雅彦が真向かっているのは『東京プロがデザインした今ある龍星轟ロゴ』なのだと。英児が頼み込んだ東京のプロ。いまはこの地方で車好きの男達がこぞって貼ってくれるステッカー。その対になるレディスステッカーを作るには、その中央にいるプロと並ぶものを作り出さなくてはならないと言うこと。しかも『多数の対象者』は、デザインものにはうるさい『女子』達。
 もうその気持ちなのか。雅彦はすぐに白いページを開くと、フェアレディZのスケッチを始めた。
 英児もその雅彦の気配を感じながら、ゼットのチューンナップの続きをする。
 眺めていると雅彦のスケッチは面白かった。ただホイールをスケッチしたり。ハンドルをスケッチしたり。全体ではなく、部分部分。暫くするとガレージを出て店のあちこちを眺めて、小物や部分スケッチに熱中していた。
 午前いっぱい、スケッチを終えると雅彦は『お邪魔いたしました』と従業員ひとりひとりに頭を下げて帰っていった。
 その帰り際。――『滝田さん、よろしかったらどうぞ』。雅彦が一枚のスケッチを手渡してくれた。
 ガレージの中にある、ドアが開かれたフェアレディZのスケッチ。ガレージに停車している構図なのに、今にも走り出しそうな躍動感あるくっきりした鉛筆線。そしてさっと簡易的に水彩で銀色ゼットとわかるような色塗りもしてくれている。
 さすが。と、思える一枚。できたら飾っておきたい。でも、複雑……。雅彦が描いたものでなければ、新婚の家に飾りたいぐらい、車好きの男にあわせた力強いスケッチだった。
 だがそれを受け取り、英児はますます思う。琴子をイメージした小物のスケッチはいかにも雅彦が描けそうな繊細さで溢れていた。なのに英児をイメージすると、こんなにも男っぽい荒っぽいスケッチもできる。そして琴子と英児はこれだけ世界が違うのだということを見せつけられた気がした。
 だからこそ。これだけイメージを掴んでくれる男だからこそ。任せたい思いが膨らむのも確かな気持ち。本当に……複雑。
「お、それ。前カレが描いてくれたのかよ。いい絵じゃねーか」
 社長デスクで雅彦のスケッチを悶々と眺めていると、矢野じいがのぞき込んできて大きな声。
「やっぱ、プロだなあー。俺のマジェスタも描いて欲しかったなあ」
「親父、黙れ」
 そっとしておいて欲しいのに。分かっているのか分かっていないのか、大きな声で英児のもの思いに割り込んできたので不機嫌に呟いた。
 どんな倍返しが来るかと構えていると、社長デスクに行儀悪に腰をかけている師匠がただ静かに英児を見下ろしていた。だが眼差しが強面――。その眼を見ると英児は今でも緊張してしまう。
「ま、向こうも男だったてことよ」
「わかっているよ」
 親父がなにを言いたいか、英児もそれだけで分かる。
「俺もあの洒落男、気に入ったわ。サンプルができたら、俺達にも見せろよ。トレードマークはお前ら新婚夫妻だけのものじゃないからよ」
 矢野じいが、この店の専務も認めてしまったら、もう英児だけの問題ではない。そう言われている気がした。
「わかった。サンプルがあがってきたら、この事務所で全員で見て選ぼうぜ」
「だな。その時、琴子も忘れるなよ」
 龍星轟全員で選ぶ。矢野じいのいいつけに、英児も強く頷いた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 

 それから暫くして、三好デザイン事務所からデザイナー一同のサンプルがあがってきた。
 英児の社長デスクを全員で取り囲み、琴子が持って帰ってきたサンプル画を拝見する。
 一発で気に入ったものがあった。
 だがその感覚は、パンサーサンプルの時と同じだった。何度見ても同じ。きっとこれは彼の作品に違いないと確信できる。
 『店長の奥さんになる琴子の前カレが混じっている』という先入観を、従業員にも漏れなく無くすようにしてくれたのか。ジュニア社長が再度、作者であるデザイナーの名がすぐには分からないよう作者名のところを白いシールで隠してくれている。それでも英児にはすぐに『彼の作品だ』と一目で分かってしまう。
 答も決まっていた。一発でそれを気に入り、そして、龍星轟の男共全員が迷いなく英児が選んだ作品と同じものを選んだ。
 その作品の作者名は誰か、作者名を隠してあった白いシールをめくると『本多雅彦』。やっぱり彼の作品。英児のイメージに近いものを、きっちり描いてくれていた。
 そして、琴子は……。
「私はこれがいい」
 なんと、彼女だけは男共とは違うものを選んだのだ。
 だがそれも作者名を開けてみると『本多雅彦』の作品。
 男達と彼女が選んだ二種の作品は、同じ雅彦が描いたものでも、かなりの違いがあった。
 男共が選んだのは、黒背景にぼんやりと優しくぼやける花の天の川の上を、同じように優しくぼやける紫の龍がゆったり昇っているもの。夜の優しい龍、色気があって華やかで男共は満場一致だった。
 しかし琴子が選んだのは、白地に花降る街の中を、黒シルエットのスタイリッシュなスカートスタイルの女性と、緑色の龍が彼女の横に寄り添うように並んで浮かび、颯爽と『ふたりで』散歩をしているようなもの。モダンでどこかレトロ、そしてメルヘンチックなものだった。
 それでも琴子は元彼の作品を、こだわりなく選んでいた。わざと避けたわけでもなさそうで、男共は唖然とさせられてしまったのだが。矢野じいが一番最初にため息をついた。
「やっぱ琴子がいて良かったな。男共と女の子の感覚の違いはここにあり。本多君もよ、そこを分かっていて二種類用意したんじゃないか。龍星轟の男共が気に入りそうなレディスイメージ。だが琴子のような女の子が根っから乙女の気持ちで選びたいものとの感覚のずれが、これってことだな。俺達だけ選んでいたら、絶対にこの感覚は分からなかっただろう」
 矢野じいの説明に、兄貴達も頷いた。そして英児も……。ここで琴子と食い違う感覚を目の当たりにしてしまう。
 いや、違う。琴子のために作ろうと思ったステッカーでもあるが、なによりも『女の子が欲しいと思ってくれるステッカー』が前提。琴子はそれを良く理解してくれている。だから敢えて、龍星轟の男共と共鳴はしなかったということなのだろう。
 しかし、これで決まったことがある。
「どちらにせよ。俺達も琴子も、本多君のデザインで一致ということでいいな」
 そこは龍星轟の誰もが揃って頷いた。
 課題は残しているが、デザイナーは決定。数日後、英児は三好デザイン事務所とステッカーオーダーの『本契約』を結んだ。
 もちろん。このオーダーを請け負ってくれる責任者、デザイナーチーフは本多雅彦だった。
 
 そして英児は最後、唸っていた。
 くっそー。前カレ。いい仕事すんな。
 敢えてまったく異なるスタイルのステッカーを用意していたところ。恋人としてはよく見てくれなかったと彼女に思われるほど仕事優先だった男が、デザインでは元カノの心を一発で掴んでいたのだから。
 これ、内心。畑違いの仕事をしていると分かっていても、英児は悔しくて仕方がなかった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 そろそろ新しい年の足音が聞こえてきそうな頃。英児は外回りの帰り道、彼女の実家に寄ってみた。
 同居をすぐに許してくれた琴子の母親が、不自由な足も厭わずに独りで暮らしているので、なるべく顔を見に行くよう、娘の琴子同様に気にかけている。
 愛車のスカイラインを、空っぽのカーポートにバックで駐車をする。黙ってこの家の駐車場に停められるのも、今は許されていることだった。
「英児君」
 スカイラインから降りると、もう玄関には琴子の母親『鈴子』が杖をつく姿で出迎えてくれていた。
「お母さん、こんにちは。外回りで側を通ったから、寄り道です。これ、お土産」
 外車持ちの大地主オヤジの依頼で、町はずれの自宅まで訪問した帰り。その帰りの田舎市場でみつけた『緋の蕪漬け』を義母に手渡す。
「あらー。もうこんな季節なのね。これ、琴子も大好きなのよ」
「え、そうなんだ。なんだ、もっとたくさん買ってくれば良かったなあ」
 すると鈴子がクスリと笑う。
「英児君もまだ知らない琴子がいるんだね」
 まだ出会って一年も経っていないし、ひと夏つきあっただけで婚約。ある意味『電撃婚』だったかもしれない。だからまだ本当の意味で彼女を知らないことも、いっぱいあるのだろう。
 だがそこで、鈴子が妙に疲れた顔で大きなため息をついた。
「ねえ、英児君。母親の私でもちょっと琴子のことが分からなくてねえ」
「どうかしたんですか。うちでは、とりあえずなにも変わったところは見られないですけど」
 まあ、中に入って――と促され、英児は大内の家に入る。
 入ってまずすることも決めていて、まずは一番に亡くなった彼女の父親に線香をあげるようにしている。
 英児がいつもの挨拶の儀式をしている間、鈴子がお茶の準備をしてくれるのも、もう毎度のことになっている。
「英児君、珈琲がいいよね」
「はい。お願いします」
「珈琲に緋の蕪漬けっておかしいかしらねえ」
「いえいえ。せっかく買ってきたので、俺にも味見させてください」
 リビングに行くと、対面式のキッチンで足と指先が不自由ながらも、鈴子は笑顔で準備してくれている。英児もこんな時は『手伝いましょう』と言わないことにしていた。
 鈴子が淹れてくれた珈琲と、英児の手みやげで、ちょっとだけお喋りも恒例になってきた。
 珈琲をひとくち。土産の漬物をかじって、英児は改めて聞き直す。
「琴子がどうかしたんですか」
 結局のところ、英児はまだつきあって日も浅い『男』。どんなに愛している彼女でも、生まれてから育ててきた母親の鈴子が娘を思う気持ちには勝てるはずもなく。そんな母親が何を心配しているのか尋ねてみると。
「どう。結婚式の準備、話は進んでいる?」
 英児はドキリとした。そしてやはり鈴子は彼女の母親だと感じずにいられなかった。
「それが……」
 英児が口ごもると、鈴子もどこか残念そうに俯いてしまう。
「貴方と婚約した時、あの子、本当に嬉しそうで幸せそうで。だから結婚式の話もとんとんと進むものだと思っていたのよね。そうしたら、まだなにも決めていないっていうじゃない」
 英児は男だし結婚事情に疎いから『そんなものなのか』と流していたが、心の中では鈴子と同じ事を感じていた。
 プランナーとの話し合いも、もう回数を重ねているのに、プランナーの提案に琴子が『しっくりしないわね』を繰り返し、『あの、よく考えて来ます』と言って、すべての話が保留になっている。
 慎重で堅実な彼女のことだから、英児と違ってじっくり考えてしっかり吟味しているのだろうかと思っていた。それに結婚式は女性が主役。英児は琴子が望むものになれば良いと思っているから、口出しをする気はまったくなかった。
 ただプランナーから『そろそろ式場だけでもお決めにならないと、予約が取れなくなりますから』と釘を刺されたところだった。
「私のところに、パンフレットを持ってきて『どう、お母さん』と聞いてはくるんだけどね。琴子の好きにしなさい――とだけ言うのよ」
 鈴子も英児と同じスタンスのようだった。
「もしかして、琴子。お母さんと俺にも『こんな式が良いのではないか』と言ってほしいのでしょうかね」
「そうなのかしらねえ。私も一瞬、そう思ったんだけど。でも、はっきり言って『式も披露宴』もやること一緒じゃない。どこでやっても。だからこそ、好きなところにしなさいと言っているんだけどね」
「逆に。似たり寄ったりで選べなかったりして……」
 英児がそう言うと、鈴子が首を振った。
「あの子。二十歳ぐらいの時からね、あのホテルでやりたい〜、あのガーデンでもいいわね〜、教会は白水台のあそこでやりたい〜て決めていたのよ。いまでも、この街の女の子達がこぞって選ぶ人気のスタイルなのに。てっきりそれで行くかと思ったら……なんなのかしらねえ」
 鈴子が心配そうに、再度ため息……。英児もそんなお母さんを見ると、ちょっと胸が痛む。
「今度ドレスの実物をみることになっているんですよ。お母さんも一緒に……なんて、どうでしょうかね。俺から、琴子にも言ってみますから」
「あら、そう。琴子が嫌だと言わなければ、それは見てみたいわね!」
 やっと笑顔になったお母さん。ご機嫌に珈琲を飲みながら、英児が買ってきた漬物をかじってくれる。
「今夜、うちでお夕食どう?」
「そうですね。いただいていこうかな。店も今日は俺がいなくても大丈夫だと思いますから連絡をしておきますね。あ、それなら琴子が帰ってくるまで、俺、買い物に一緒におつきあいしますよ。車を出しますから」
「そうね、そうしてもらおうかしらね。じゃあじゃあ、今日はお鍋にしよう。ねえねえ、英児君は何が食べたい?」
 元気いっぱいに張り切る鈴子を見て、英児も一安心。
 近頃はこうして、二人で琴子の帰りを待ってみたりする。その為に英児は寄り道ができる日は、鈴子から夕食を誘われても応えられるよう、夕方は仕事をいれないようにしていた。それは実のところ、矢野じいを始めとした龍星轟の男達も良く心得ていてくれて承知済み。後遺症を残す身体なのに、娘を嫁に出すために独り暮らしを決意した英児の義母になる鈴子の為にと、男達が協力してくれていた。
 琴子も鈴子も気にしないよう、それは男達の間でひっそりとやっていること。
 琴子にも連絡――。
『え、またお母さんと買い物をしているのー?』
「うん、そうなんだ。実家でお母さんと夕飯の支度をして待っているから。今日はこっちに帰って来いよ」
『うん、わかりました』
 そして娘の琴子も、実家に集うのはやはり嬉しいよう。この日の夕、英児は鈴子と夕食の支度をしながら彼女の帰りを待つ。

 

Update/2011.11.13
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