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 7.ブルー、ブルー、ブルー 

 

 鈴子と買い物を終え、今度は英児もそれなりに夕飯の支度を手伝う。すると、庭先には、またドルルンと重たいエンジン音。そんな時、鈴子が少し顔をしかめる。
「もう〜。また我が家に、厳ついスポーツカーが二台、庭を占領ね。ご近所さんもびっくりしているわよ。あの琴子ちゃんがすごい男っぽい車に乗って……とか」
「すみません。元ヤンの走り屋野郎が影響しちゃって」
 英児は冗談で茶化したつもりだったのに、鈴子がハッと申し訳ない顔をする。
「別に、お母さんは英児君のそんなこと気にしていないよ。ご近所さんだって、英児君がよく様子を見に来てくれる良いお婿さんだって言ってくれるし。男前で頼りがいがあって羨ましいって言われているんだから」
「マジですか、それ。えー、俺、そんな褒められたことないんですけど!」
「やだね、この子は。本当に男前で頼りがいあるんだから、自信を持ちなさい!」
 鈴子お母さんに、バシリと背中を叩かれる。だが英児は『いて』と思いながらも、嬉しかった。
 ここに、娘同様に俺のことを受け入れてくれるお母さんがいるんだなと――。今でもこの大内家にくると元気になれる。
 ここはそんな暖かいところ。英児のもう一つの家庭だった。
「ただいま〜」
 ゼットを駐車させた琴子がリビングに現れる。
「わー。もしかして、今夜はスキヤキ? やったー」
「英児君にいっぱい食べてもらうと思ってね」
「英児さんのおかげね。あ、緋の蕪漬けがある!!」
「それ、英児君のお土産。美味しかったよ。ね、英児君」
 対面式のキッチンで鈴子が仕上げた料理を盆に載せて運ぼうとしている英児も笑って頷く。
「いただきまーす」
 帰ってきて一番、琴子が側に準備済みの自分の箸をもって、緋色の蕪を一枚、ぽいっと口に放り込んだ。
「こら、琴子。行儀悪いわね。荷物を置いて、手を洗って、座って食べなさい」
「はーい」
 あの琴子がちょっと行儀悪になるのも実家だからだろう。そして今でも小さな娘のように母親に叱られるのも。
 この家に来ると、そんな彼女も見られる。
 
 冷え込んできた師走の夜。食卓が暖かに整う。
 鈴子の目の前に、琴子と英児が並んで座り食事をする光景ももうすっかりこの家で見られるものとなっている。
 やはり、母と娘の気兼ねない食事は会話も軽快で賑やか。間に英児もそれとなく入って冗談を言うと、母娘が楽しそうに笑い飛ばしてくれる。
 その良いムードを狙って、英児は鈴子と約束したことを弾む会話の中に滑り込ませる。
「なあ、琴子。今度、ドレスを見に行く時、お母さんも一緒にどうかな」
 楽しそうに箸を進ませていた彼女が『え』と表情を止めたので、一気にムードが壊れないよう英児は急ぐ。
「ほら。俺ってさあ。そういうファッションのこと良くわかんない男だからさ。上手い相談相手になれないかもしれないだろ」
 彼女がまだ黙っているので、英児はさらに慌てる。鈴子は素知らぬ顔で、スキヤキ鍋に野菜を継ぎ足している。
「俺に『どう』と聞かれても、たぶん、どれも『似合う、可愛い』て見えちゃってダメだと思うんだよー」
 なんて。咄嗟に言ってみたら、目の前の鈴子がぷっと吹き出していた。
「ちょっと、琴子。本当にここまで『可愛い、可愛い』なんて言ってくれる旦那さんは、そうそういないと思うわよ。貴女が、英児さんを大事にしないよ」
 彼女の母親がいるのに、ついいつもの調子で彼女を『可愛い』だなんて言っていたことに気がついて、英児はいつになく耳まで熱くなり逃げ出したくなった。
 だが。そんな英児と母親鈴子の娘を諭す言葉が効いたのか。
「そうね。なかなかイメージが湧かなかったんだけど。お母さんにも見てもらおうかな」
 なんだかんだ言って。そこで鈴子母もほっと表情が緩んだ。結婚式準備の進行具合も気になるし、娘に少し頼って欲しかったのだろう。
 次のプランナーと面会の日は、週末の土曜。彼女の母親も共に行くことに決定した。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ところが。そのドレスを母親と一緒に選んでみる――が、大失敗に終わる。
 一言で言えば。娘の気持ちと母親の気持ちが大衝突。英児は間でおろおろするだけで、割って入って仲裁なんてこともできなかった。
 とりあえず、琴子を宥め、鈴子義母を慰め――。母娘互いに相手が見えない場所で個々に対応し、その日もなにも決まらず、なんとか琴子を龍星轟に連れて帰る。
 琴子は休暇だったのでこの日は店の手伝いはさせず、二階自宅でゆっくり休むようにきつく言い渡し、英児は店を抜けさせてもらっての結婚準備なので、すぐに龍星轟事務室に戻った。
 
「どうだった?」
 いつも事務所で一人。黙々と仕事をこなしている武智が、にんまり興味津々な様子で帰ってきた英児を迎えてくれる。
 だが、英児はひとまず社長デスクに座り込んで、これまた気心知れた後輩だからこそ遠慮無くこぼしてみる。
「ダメだった。琴子とお母さんが大喧嘩したんだよ。まさか、こんなことになるなんて」
 良かれと思って英児が提案したことだったのだが、それがマイナスに転ぶなんて予想外だった。
 だがそこで、眼鏡の後輩が同情のため息をつきつつも、なにやら分かり切った顔で笑った。
「母と娘って、どうやらそんなもんらしいよ。俺の妹と母親も女同士だからなのかな、よく喧嘩している」
「そんなもんなのか?」
 そこで武智がまた要らぬことを口走った。
「香世ちゃんもそうみたいだけど。結婚式の相談で旦那と喧嘩、母親と喧嘩、もう結婚式なんて二度としたくない。でもドレスはもう一度着たいって言っていたなあ」
 また『香世』。英児は顔をしかめる。
「あのな。そこで香世を出すな。どーして最近、俺が結婚する時になってお前はいちいち香世のことを口にするんだよ」
 すると、武智が社長デスクに向かって、一枚の顧客シートをつきだしてきた。
「香世ちゃんの車、もうすぐ車検だから。ご案内の葉書を出しておいたら、電話で予約いれてくれたんだ。近いうちに来るよ。で、電話をくれたそんときに、タキ兄が結婚することを教えてあげたんだー」
「ばっか。なんでもかんでも、俺の結婚を報せるなよ。いつもの内輪の野郎共だけでいいだろ」
「その野郎共から、高校時代のあっちこっちに情報行きまくりみたいだよ。あの滝田君がついに結婚、とかね。香世ちゃんもびっくりしていた。『英児君、ついに車以外に好きになれた女の子を見つけたんだ、みてみたい』だってさあ」
 それを知った英児は、武智がこれ見よがしにピラピラさせている顧客シートを奪い取る。そして、その彼女がいつ店に来るか日付を確認した。
「良かった。平日だ」
 平日は仕事に出ている琴子と鉢合わせをすることはなさそうだと、英児は安堵した。だがそこで武智が白けた横目で英児を見ている。
「隠すことないじゃん。千絵里さんみたいな人じゃないんだから。香世ちゃんは」
「うるさいな。琴子がどう感じる……じゃねえーよ。香世が琴子を見てなにを言い出すか分からないだろが」
「まあね。悪気はないけどお喋りだよね。主婦になってから特に――。きっと香世ちゃんの口から、また同窓生女子軍団に広まっているかも。もうみんな、英児君のお嫁さんってどんな子かしらと見たくて見たくて、店に殺到してくれるかも」
「やめてくれ。彼女たち、店に来る『だけ』で終わるんだからな」
 一度、そんなことがあった。その時も先導してやってきたのは『車検』を申し込んでくれた香世。彼女が車検をするついでに、何人も同窓生女子軍を連れてきて、英児を冷やかしにやってくるのだ。
「一度、琴子さんを紹介すれば納得して帰ってくれるよ」
 そこで武智がまた呟く。
「いかにもタキ兄タイプの女の子だと誰だって納得するよ。だってさ、タキ兄が憧れていた眼鏡の真面目っ子『香世』ちゃん、初めての彼女のルーツそのまんまなんだから」
 他人事のように言い切ると、武智は淡々とした眼鏡の横顔に戻って書類に戻っていく。
「お前、ほんとのところ、おもしろがっているだろ」
 俯いて書類を書き込みながら『まさか』と淡泊な返事だけが聞こえた。だがこんな時、眼鏡の後輩が実は心の中ではくすくすと笑っているのだと、英児はよーく知っていた。
「はあ。香世のヤツ。また何を言い出すことやら」
 同級生の彼女。元クラスメイト、英児の初恋、初めての女。そんな過去の関係がある彼女。武智が『香世ちゃん、香世ちゃん』と親しげなのは実家が同じ校区で近所だから。英児はその武智のツテで告白をしたことがある経緯が……。
 でもそんな彼女も現在は三児の母。あの大人しかった眼鏡の真面目っ子ちゃんが、今では口も達者で立派なお母ちゃん。
 彼女が『英児君、英児君』とまた攻め込むように店にやってくる姿を想像すれば、つい英児も微笑んでしまいたくなる……。
「堂々と紹介した方がいいよー。琴子さんに変に思われないためにもねー」
 澄ました顔で事務処理をしているかと思えば、やっぱり英児の心を見透かして茶々を入れる武智。
「うっさいな。香世はもう俺の中では女じゃねえんだよ。同級生でダチってだけだろ。琴子とは全然違うんだからな。二人がばったり会ってもどうってことねえよ」
「当然でしょ。千絵里さんの時のような不手際はもう勘弁ね。合い鍵を回収していない上に、鍵穴もそのまんまってなんなんだよ。私生活ではガード緩すぎ」
 ああ、この後輩の生意気な口をどうしてやろうかと。英児は持っていた顧客シートの紙切れで、武智の頭をぺしぺし叩いてから返しておいた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 龍星轟閉店、店じまいを終えた英児は二階自宅に戻る。
 母娘が激しく衝突したところを初めて目にしてしまったこの日。英児はため息……。後輩の武智が『母娘とは……』と教えてくれても、やっぱり『いちばん傍にある家族』となる琴子と鈴子義母が喧嘩するのは、英児だって気分が沈む。しかも自分が『母娘でドレスを選んでみても』と提案したことが発端での喧嘩。
 しかし。英児はその母娘が何故衝突したか。良くわかっていた。だがきっと、義母の鈴子は『何故、この娘は私が言うことを解ってくれないの。どういうことなの? 何を考えているの』と思っていることだろう。
 
 玄関を開けると、夕飯のいい匂いがした。どんなことがあっても、たったこれだけでホッとしてしまう。
 琴子も母親と喧嘩をして落ち込んでも、こうしてちゃんと支度をして英児を待っていてくれたのだと思うだけで嬉しくなる。
「ただいま」
 だが、リビングの扉を開けても、キッチンにその支度をした気配があるだけで琴子はいなかった。
 油で汚れた手を洗ってから彼女がどこにいるか探すと、寝室にいた。ドアが少しだけ開いている。
「ごめんね、お母さん。ちょっと感情的になっちゃって……」
 琴子が……。ベッドに腰をかけ携帯電話片手に通話中。相手は喧嘩別れをしてしまった母親のよう。
「うん、うん。本当はね……。お母さんが言いたいこと、わかっていたの。でもね、私ね、あのドレスを選んだのはね……」
 彼女がそこで次の言葉を躊躇っている。英児もそれを知りドキリと心臓が動いた。『それを母親に言うのか』と。彼女が言おうとしていることには、英児も深く関わっていること――。
 それをついに。琴子が言ってしまう。
「あのね、その……。いつ、赤ちゃんが出来ても良いようにと思っているの。出来た時も着られるドレスを選んでいたの。本当はお母さんが私に似合うドレスを一発で選んでくれたこと、わかっていたよ。なのに、言えなくて。あそこでは言えなくて。まだ、お母さんには言えなくて……」
 言ってしまったか。英児の肩から力が抜けていく……。婚前だけれど、もうすっかりその気で彼女と子供が出来ても良いようなことを繰り返している。それを彼女の母親に知られてしまう。
 本日の母娘の喧嘩はまさにそれだった。娘が選んだドレスを母親が『なんだか琴子らしくない』と否定し、母親らしく娘にとても似合うドレスを勧めると娘は『それはダメ』と拒否する。そこで母娘が通じ合えず衝突――という経緯。
 鈴子母はそんな娘と婿の婚前交渉など知らないから、どうして娘が母親として一番のアドバイスをしているのに受け入れてくれないのか、通じないのか。非常にもどかしく思っていたことだろう。
「うん。わかってる。私の好きなようにするね。でも……お母さんが選んでくれたようなドレスのことも考えてみるから」
 母娘がどうやら互いの真意を知って、仲直りをしたようだった。
 それでも。英児は寝室のドアの前で一人。複雑な思い。鈴子はきっと、娘が早く子供を授かろうとしている気持ちを知って理解してくれたのだろう。義母の声が聞こえる。『琴子の好きにしなさい。そんなことだったなら、貴女の好きなドレスにしなさい』。娘が本当に似合うドレスがどれかわかっていながら……。でも娘の気持ちを第一にして、母親として選んだドレスのことなど綺麗さっぱり忘れてしまうことだろう。
 そして琴子も――。英児の為に早く賑やかな家族をつくってあげるんだというその気持ちもあるだろうが、もう一つ。『親が元気なうちに、孫の顔をみせてやらなくちゃ』と……それもあるのだろう。片親を、特に自分を案じてくれた母親を結婚のごたごたに巻き込んで傷つけたまま逝かせてしまった英児には痛いほど分かる。そんな母親だからこそ、英児も『孫の顔ぐらい見せたかったな』と思っている。救いは、亡母には既に孫がいたこと。しかし鈴子と琴子は違う。鈴子にとっては一人娘の琴子からしか孫を見ることが出来ない。それを琴子も良くわかっているのだろう。しかも彼女は父親を未婚で亡くしている。きっと父親にも見届けて欲しかったはず……。孫の顔を。その上、母親も生死をさまよい、後遺症を残しつつもなんとか娘の元に帰ってきてくれたのだから。両親を一度に失うような思いをしたことがある一人娘の琴子には、さぞかし怯えた日々だったに違いない。焦る気持ちは、夫になる英児のためだけじゃない。『親が元気なうちに。親はいついなくなってもおかしくない』。それを体験している琴子だからこその焦りが、英児には良くわかる。
 だからこその『早く授かりたい』。
 だが。英児はそこで強く拳を握って決意する。息を深く吸って、電話を切った琴子が俯く寝室へとドアを開ける。
「英児さん。帰っていたの。お疲れ様」
「おう。なに、お母さんに電話したのか」
 手に握りしめたままのピンク色の携帯電話。琴子もそれを見つめて、素直にこっくりと頷いた。
「英児さんも、ごめんなさい。あんなところで母と娘で喧嘩しちゃって、間に挟まれて嫌だったわよね。お母さんも英児さんに悪いことをしたと心配していた」
「俺は全然平気だよ。ただ、やっぱり……琴子とお母さんが喧嘩するのを見るのは哀しいだけだよ」
 琴子が申し訳なさそうに小さく微笑む。
「お母さんが、英児さんに気にしないように言っておいてと……」
「気にしていない。お母さんにも今度、そう言っておくし。琴子からも言っておいてくれ」
「うん。週明け、仕事の帰りに実家に寄ってみるわね」
「じゃあ、俺もその日に店を閉めたら行くよ」
 それだけで、やっと琴子がいつも通りに柔らかな微笑みを見せてくれる。
 いつもの彼女に戻ったところで、英児は彼女が毎朝座っているドレッサーのスツールを引き寄せ、ベッドに腰をかけている琴子の目の前にどっかりと座り込んだ。
「英児さん?」
 訝しそうな彼女の目の前、彼女の目線に合わせ、英児は彼女の顔をじいっと真っ直ぐに見つめる。
 もしかすると、ちょっと怖く彼女には見えるかも知れない。ただ真剣に眼力を込めると相手には『ガンとばして』と言われやすい目つきになってしまうだけ。だが琴子も黙って、英児の視線を静かに受け入れてくれている。
 落ち着いて聞いてくれそうだと判断した英児は、そのまま琴子に告げる。
「俺な。はっきり言うと、鈴子お母さんの意見に賛成だ」
 『え』と、琴子が目を見開いた。なんの話が始まるのだという戸惑い。だが英児はそんな彼女の反応もねじ伏せる。
「ファッションなんかわかんねー。どれもきっと琴子に似合うとか本気で思っていたけどよ。今日、お前が選ぼうとしていたドレスより、お母さんが選んだドレスの方がめちゃくちゃ似合っていたもんな。さすがお母さん、娘に何が似合うか、娘が何が好きか、よく知っているとびっくりしたんだよ」
「そ、そうなの。そんなふうに見えたの?」
「ああ。あんなに違いがあるんだな。お母さんが選んだドレス。本当は琴子も好みだっただろ。着たいと思っただろ」
 そこでやっと。琴子が英児から目を逸らした。図星だったらしい。
「俺も思った。俺、お母さんが選んでいたようなあんなドレスを着た琴子が見たい。これ以上ねえっていうくらい綺麗な花嫁をもらいたいもんな」
 ついに。琴子が黙り込み俯いてしまった。微かに見える黒いまつげにぽつんと小さな透明な雫が見えた。
「……もしかして。私、また……ひとりで張り切りすぎていた?」
「いや。俺は嬉しかったよ。五人も産みたいなんて。そこまで言ってくれて」
「お店のお手伝いを始めた時も、みんなに少しは休んで欲しいって心配かけちゃったこともあったし。ワックスがけを覚えたい時も、英児さんの気持ちを無視して愛車に手を出しちゃったし……」
「それは『よくしてくれる』ということがあった上で、『ちょっと頑張りすぎだから、ブレーキをかけろよ』と心配するだけのことで……。でも、まあ、うん。それって琴子らしいと思うから、俺は気にしていないんだけど」
 それでも琴子は急に何かに目が覚めたかのように、悔いるように涙をこぼしている。そんなふうに女の子に泣かれると英児はとても弱い。
「あのな、そんなところ惚れたんだからさ。琴子のさ、そんなところが俺を助けてくれたんだからさ。そこまで頑張ってくれたから、一人でいることに平気になっても、その、その……本当は寂しかった俺のことよく見てくれて知ってくれて、俺の傍にいてくれるようになったんだろ。俺、琴子には感謝しているんだよ」
 だが琴子はますます涙をこぼし、詰まるような声で言った。
「……違う。英児さんが、息苦しく暮らしていた私とお母さんを、ここまで明るくしてくれたの」
 感謝しているのは、私達、母娘だ――と琴子が言い切ってくれる。
「俺だって、琴子とお母さんがあったかいところに、すげえ癒されているんだからな」
 俯いている黒髪の小さな頭を英児は胸元に抱き寄せた。
 その身体を抱き寄せただけで、とても温かかった。この時期になるとピットでの仕事は身体が冷える。そこから帰ってきて汚れた指を洗うと、手はさらに冷たくなる。だから琴子がとても温かい。その身体をさらにぎゅっと傍に抱き寄せた。
「英児さん、冷えてる」
 琴子も気がついたようだった。胸元から顔を上げ、目の前にある英児の黒目をじっと……今度は琴子がみつめてくれる。
「このお仕事って、大変。夏は炎天下の外で、冬は冷え込むピット。なのにみんな黙々とお仕事をやっている」
 そうして琴子の温かい手が、英児の両頬を包み込んでくれる。その優しくて柔らかくて、あの匂いが微かにする温かい手を感じると、英児の身体の芯もじんわりと熱くなる。
 いつもそう。とろけていきそうな琴子の温かい肌。頬を包む彼女の手を掴み、英児はそっと手のひらに口づけてお礼をする。
 そうすると、琴子の黒い目が熱く溶けそうになっているのを英児は見つけてしまう。そんな目で見られると……。
「琴子――」
 ついに英児は琴子を、後ろのベッドに押し倒していた。彼女も驚いた顔。もう何度も英児の『いきなり』を体験しているはずなのに、いつもびっくりした顔をする。
 そんな彼女の隙をついて、英児はいつだって易々と彼女の身体を捕まえてしまう。
 今日のおでかけにと、彼女が選んだアーガイル模様のニットワンピース。その裾をまくり上げ、英児はいつもどおり彼女の肌を探す。
 柔らかいニットだけかと思ったら、その下に濃い茶色のスリップドレス。そんなものが一枚だけでも彼女の肌を英児から遠ざけているかと思うと、もどかしさいっぱいでニットと一緒に乱暴に引っ張り上げてしまう。
「え、英児さん……」
 ムキになって英児が肌をさがしていることを受け入れてくれたのか、琴子も英児の背中へときつく抱きついてくれる。冷えた身体に、柔らかくて温かな身体。琴子そのもの。それでも英児は『もっと熱いもん、こいつは持っているんだよ』とそれを探す。本当に触れたくて探していたものにやっと辿り着く。見るからに温かそうでふわふわふっくら、それでもまだ優しい花の刺繍と女らしいレエスでおおわれて隠れている。英児は果敢に障害物に挑むかのように即座に琴子の背に手を回し、指先だけでいとも簡単にホックを外す。そこからやっと……、柔らかにふるえる白い乳房が英児を迎えてくれる。
 冷えた両手で触れると、琴子がふるっと僅かな反応。彼女の乳房は男の大きな手にすこし余る。彼女を脱がしたことがある男なら、最初にその着痩せしている落差に悦んだに違いない。そんな男心をくすぐってくれる女らしい乳房で、英児はいつだって触らずにいられない。程よく手に吸いついてくれる柔らかさに熱い体温が、劣情を駆り立てるだけではなく、寂しさも癒してくれる。そんな優しさを持っていた。
 いつもそんな男のエロ感覚と癒しが紙一重。今もそう。彼女の温かな乳房に触れて安心している自分もいるし、触れているだけでどうにでも虐めてやりたい気持ちが激しく交差する。
 その手がいつしか、彼女の乳房をゆっくりとつまむように握っている。そのせいで赤い蕾のような胸先がいやらしくツンと起ち英児を見つめるているよう……。それを見て、なにもせずにいられるはずはない。赤い小さな胸先に、英児はそっと唇をよせ静かに吸った。
 『あ』と琴子が小さくうめき、悩ましげに眉根を寄せる艶ある顔に。
「英児さんの、手も、指も……口の中まで……冷たい」
 冷えた舌先に熱くて固い彼女の胸先。それを口で愛撫しているから琴子もその温度差に気がついてくれ、さらにぎゅっと英児を熱い肌に抱き寄せてくれた。
 彼女に抱きしめられると、いつも強く思う。
「これさえあれば。俺は……なにもいらない……」
 彼女の乳房を揉んで舌先で愛撫しながら、英児は囁く。もう濡れた吐息をしっとりとこぼす琴子が『え』と問い返してくる。
「あったかい琴子が傍にいるだけで充分だっていってんだよ。ずっと、こうして、お前の熱い身体が、俺の隣にいれば……それでいい」
 とろけそうな彼女の乳房と乳房の合間に包まれ、英児は恍惚とその肌を堪能する。そんな甘えるように離れない男を、やっぱり彼女が優しく抱きしめてくれる。
「でも。私も英児さんがいないと……あったかくないから」
 私の身体がいま熱いのは、英児さんが冷え切っていた私の肌を愛してくれたおかげなのよ――と、彼女が囁いた。そんな女っぽい顔で言われると、英児の胸も熱くなる。
 今度は、そんな琴子の唇を求める。彼女に抱きしめられて、冷えた手を乳房が柔らかく温めてくれて。最後、英児は彼女の唇に舌先と頬を温めてもらう。
 いつも強く吸い付いてしまうから、静かな寝室だと、英児が押しつけるように繰り返す口づけの小さな音が聞こえてしまう。
 琴子の体温で英児はやっと温まったところなのに。でももう琴子の額にはじんわりとした汗。英児はうっとりとした目で見つめてくれる彼女の顔をしっかりみようと、その湿った黒髪をかき上げ彼女の頬を包み込んだ。
「琴子。だから、さ。お前さえいてくれたらそれでいいんだから。子供はまだ急ぐことないだろ」
 鼻先と鼻先をくっつけて話し合う。でも、琴子はすぐには諦められない戸惑いをその瞳に見せていた。英児も怯まずにつづける。
「そこ、俺の枕の下にあるもん、取ってくれよ」

 それだけで琴子の表情が一瞬で強ばった。だが英児は強く繰り返す。
「いいから。取ってくれ」
 わざと彼女の手にさせようとした。ある意味『酷』だと分かっていても。
 それでも、琴子も英児が言わんとすることを理解してくれたからなのか。白い腕を伸ばし、英児の枕の下から白いビニールにパックされている四角いものを取り出した。
 希望したとおりに、彼女の手が目の前に持ってきてくれたので、英児はそれを犬のように口にくわえると、抱き合って密着していた琴子の身体から離れた。
 真四角のそれは、英児が暫く使わなかったもの。だが必ずそこに忍ばせていて、琴子もずっと前からよく知っている。
 それを口にくわえたまま起きあがった英児は、せっかくお洒落に着ていたものを乱されて横たわっている琴子を見下ろし呟く。
「琴子。子供は暫くお預けだ。式をきっちり終えてからだ。いいな。順番どーりに行こうぜ」
 くわえている白いビニールの小さなパックを噛んだまま、英児は片手でピッと開封する。
 口元で用意したそれは、『俺達のベビー』という望みを遠ざけるスキン。
「やっぱ母ちゃんになる前に、俺のカミさんになってくれなくちゃな。いちばん似合うドレスで綺麗になって、俺のところに嫁に来い」
 また英児は眼に力を込め、琴子を見下ろした。だが、琴子がそこで神妙にこっくりと頷いてくれる。
「はい。英児さん」
 それを見届け、英児はそっと微笑むと腰のベルトを外し、男の熱情満タンに待ちかまえているものを丸出しにする。そして琴子の素足を大きく開いた。素直に開いてくれた向こうには、同じく男に丸出しにされてしまった濡れる黒い茂み。そこへ英児は強く侵入する。
 彼女が着ているものをすべてとり払い、彼女の肌という肌を自分の身体に密着させる。こすり合う彼女の肌と英児の男の肌。そこにこもった熱から、あの甘酸っぱい匂いが微かに広がったのを英児は胸に吸い込んだ。
 なにもつけないで愛しあった方が皮膚と皮膚が溶けあってそれは目眩がするような熱愛に溺れることができる。
 でも、そんなもの。もしスキン一枚、彼女の皮膚と溶けあうことができなくても。それでもこんなに気持ちよく、そしてエロく愛しあえるんだと証明するよう英児は必死になった。
 そのせいか。普段は控えめな琴子もいつになく乱れてくれたように思えた。英児の指先の責めに、執拗な唇の責めに、濡れるだけ濡れる身体。頬も真っ赤にして琴子は泣いてくれた。
 愛し終えた後。濡れた瞳でじっと見つめられると、もう英児はそれだけで『ほんと、なにもいらねえ』と彼女だけいればいいと逃がさないようきつく抱きしめてしまう。
 ――しかし、英児の脳裏に少しだけ不安が残っている。
 夏からずっと。幾度も彼女の中に生々しい男の熱愛を注ぎ込んでも子供ができないのは何故か。
 いままでの、琴子以前の『彼女達』にも同様のことを幾度かしたことがある。だが、やはりそんなことにはならなかった。
 それって。もしかすると『俺が原因なのでは』と微かに思っている。
 それは流石にまだ。琴子にも言えずにいた。

 

 

 

 

Update/2011.11.24
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