× ワイルドで行こう【ワイルド*Berry】 ×

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 9.夫妻になろう。 

 

 幾日かが経ち、香世が車を取りに来る日がやってくる。
「今日、香世ちゃんが来る日だなあ……」
 実家近所の幼馴染みだからこそ、気心知れたつもりで過去ある男性の結婚報告も平気でした武智だったが、あれから溜息が多い。
 なんでもサバサバと笑顔で受け流す武智が、元気がないのは余程のこと。そして香世の名を聞いただけで、英児も顔をしかめてしまう。
「ったく。一緒に過ごす家族がずっと側にあるっていうのによー。なんかあれからずっとムカムカすんだよ、俺」
 むすっとすると、武智は逆に事務デスクで頭を抱え項垂れてしまう。
「はあ、俺。矢野じいみたいに気がつかなかったからさあ。十五年も前のことじゃん。しかもふったのは香世ちゃんのほうだったのに。もう笑い話レベルだと思ってたんだよね。まさかのまさかだよ。もう。馬鹿みたいにタキ兄が結婚すること言わない方が良かったかも」
 いつもの『おふざけ』のはずだったのに、笑い話で終われなかったことを武智が悔いている。
「いや。お前は悪くないよ。矢野じいが言うように、笑い飛ばせないなら、ここに来ちゃいけなかったんだ……」
 気にしないように言ってみると、だからこそ、普段はムードメーカーとして冗談を上手く言えるはずの男が上手くできなかったことで、武智はしょんぼりしていた。彼が笑い飛ばさない方が、英児は焦ってしまう。香世とは近所の幼馴染みで気易く付き合ってきた分、思いもよらない『女心』に触れショックだったようだ。
「まあ。気にすんなよ。俺からも、なんとかやっておくからよ」
 タキ兄らしく。そういうと、彼がやっといつもの眼鏡の笑顔になってくれた。
「女ってわかんないねえ」
「武智でわかんないなら、俺はもっとわかんねえよ」
「琴子さんには、話していないんだよね」
「話すかよ。あっちが同級生の気分で笑い飛ばしてくれるなら、紹介するけどよ」
 だよね。と武智も『女の気持ち』が表面化した以上、二人は会わせない方が無難と同意してくれる。
 だけれど――と、英児は続ける。
「でもよ。たぶん、琴子……なんとなーく気がついてるぽいな」
「マジで? どーして。あ、タキ兄が見送る時、ちょっと雰囲気が暗かったのを二階から見ていたとか?」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもよ『知り合いか』と聞かれたから、『同級生』とだけ答えておいたんだよな」
「うわーうわー。琴子さん、絶対に何か感じているはずっ」
 英児もそう思っている。
「俺もだんだん解ってきた。琴子が黙ってなにかを感じ取って、でも、『話題にしない方がいい』と様子を見て俺に気遣っている時の表情とか、仕草とか、態度ってやつ」
 もっと聞かねえのかよ? と構えていると『そう。久しぶりに会えたの? 良かったね』と笑顔で流された時に、そう感じたのだが。
「へえー。やっぱり同居すると、そんなことがわかってくるんだ。だんだん夫妻らしくなってくるんだなあ」
「お。そうかな」
 なんて。琴子と夫と妻ぽく見えると思うと、英児もなんだか照れるし嬉しかったりする。
「まあ、とにかく。どうせ今日、会うわけだから。その時な」
「いやー。香世ちゃんもいい歳した人妻なんだからさ。笑い飛ばしてお終いって気もする」
 『そうだといいな』――と武智が再びため息。
 しかし英児も『笑い飛ばしてくれるといいんだけどな』と思っている。ただそれで流して終わって良いのかどうか――とも、思っている。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 昼下がり。ピットで顧客の車をチューンナップしているところ。
「英児君」
 その声が聞こえ、タイヤ交換をしていた英児はその手を止め彼女を見る。
「おう、来たか。車、外にあっただろ。綺麗に磨いておいたからな」
「うん、見た。ありがとう。英児君が磨いてくれたの」
「ああ。水アカ取りもしておいた。これ、サービスな」
「ありがとう……」
「ちょっとかかるからよ。中で待ってろよ」
 だが香世からピットに入って英児に近づいてきた。
「あれ。ボウズは」
 今日は髪を束ねず、サラサラと肩先で黒髪がなびいている。綺麗にメイクをしていることにも気がついてしまう英児。そしてこの前より大人っぽい黒いフリルのブラウスをデニムパンツに合わせていた。
「うん。実家に預けてきた。帰りに街に出てクリスマスの買い物をしようと思って」
「子供のプレゼントかよ」
「そんなところ」
 ちょっと寂しそうな顔に見えるので、困ってしまう。
「なんだよ。言いたいことあるなら、言っておけよ。……この前みたいに」
 整備の手を止め、英児は持っていたスパナを道具箱に置いた。
 香世も英児の目の前で、俯いている。眼鏡の奥の目が見えないほどに。
「……この前。勝手なことばっかり口走っちゃって、ごめんね。あの後、すごく後悔した」
 それだけ言うと、香世が黙り込む。まだなにか言いたいことはないのか、英児もじっと待ってみるのだが。もうないようだった。
 どうやら、『案外、笑い飛ばすだろ』という武智と英児の期待も見事に砕け散ったようだった。もう香世の中から溢れ出た女の気持ちは『無かったことに』とは出来ないようで……。それなら英児も受け止めねばならぬだろう。
 英児は、香世に向けあからさまに溜息をついてから、彼女の正面に向かう。
「あのな。お前も子育てをしている母ちゃんでカミさんで、だからこその『大変さ』があると思うけどよ。俺のことをいい逃げ道にするのは、これっきりにしておけよ」
「うん。逃げ道……だったね。でも、だからこそ逃げ場所があったから我慢できていたこともいっぱいあるんだよ」
「それなら。俺じゃなくてもいいだろ、もう……。言っておくけどよ。お前、やっぱり俺のことなーんにもわかってないわ」
 香世は黙っていたが、暫くして。
「……だよね。一年に一度会えるか会えないか。ただの同級生だというだけで、毎日の英児君を知っている訳じゃないしね」
「つーかよ。お前、俺のこと、これっぽっちも見ようとしなかったじゃねえかよ。なのに後になって、てめえの都合のいいように『英児君』を書き換えて、勝手に文句を言って本人の前で泣くってなんだよ。はあ? 俺はお前に二度も拒否られたんだぜ。その後の俺の気持ち、どれだけ長く引きずったか知らねえだろ。だよな。とっとと黒髪の真面目なリーマンと結婚したんだからよ」
 英児の口も止まらなかった。いや、英児も今日は覚悟していた。香世が本心でぶつかってきたなら、俺も酷い男と言われても嫌われても、こっちも本心でぶつかってやろうと。
 そこにはある種の『賭け』もある。男と女でこれっきりで終わるのか。それとも……。英児がそう信じていた『終わったから、同級生として友人でいられる』のか。
 しかし。だめなのか。目の前で眼鏡の女性がフレームの下から涙をぽろぽろこぼしている。
「わ、わかってる、よ……。ただ、それに、気付きながらも気付かないふりの、そういうの……。たった一人だけの秘密の楽しみぐらい……」
 ぐずぐず泣き出した女には弱い、困り果てる。だが英児もここは『けじめ』だ。自分にとっても『けじめ』。心を鬼にして言い返す。
「だったら、口に出すな。永遠にてめえの中に閉じこめておけば良かっただろ。俺が知らないとこで、俺にも俺の彼女にも旦那にも知られずにずっと……! 勝手な夢を作っちまったなら、墓まで持っていくぐらいの想いにしておけ。二度も俺を拒否しておいて、今更、『どうして私じゃないの』なんて気分悪いだろ」
 言いたいだけ言ってしまった。やっぱり彼女がわっと泣き出してしまう。
「なにも知らないくせに。結婚して、旦那が好きでも家族が一番でも、女の気持ちがどうなるか何も知らないくせに。英児君の彼女だって、きっとなるんだから」
 いや。英児は眼力を込め、そこは立ち向かう。
「ならねえよ。琴子はならねえ」
 香世の前で、はっきり嫁になる女の名前を口にしたので、涙の顔がさらに歪んだ。
「新婚でなにもかもが素敵に見えるから、そう言えるのよ」
 結婚の現実も知らないくせに――。と、言いたいらしい。それは英児も経験者に言われると何も言い返せない。だけれど、言い切るには信じているのには揺るがない訳がある。
「お前は俺とつきあっても拒否したけどよ。カミさんになる琴子は、最初は元ヤンの俺にビビっていたけど、すぐに真っ直ぐに俺のことを受け入れてくれたよ」
「だって、もう大人じゃない。金髪じゃないし、茶髪じゃないし。社長で経済力も人脈もあって」
「――バレるまで、隠していたんだよ。それ。社長たって小さな事業所、それをとっちまった本当の俺は、ただの整備士で元ヤンキーで走り屋。それで付き合ってくれるかどうか、というのが俺にとっては重要だったからよ。でも彼女は、それだけの男だとしか知らなくても充分に俺を受け入れてくれたよ」
 やっと、香世が黙った。涙も止まったようだ。
「俺が持っている寂しさがどんなものなのか、お前は知らなかっただろ。俺がそんな寂しがり屋で、家族に飢えているだなんて。そんな惨めな男だなんて思っていなかっただろ。それを知らずに、俺と別れて、旦那と子供と笑って暮らして、それでも小さな隙間に勝手に書き換えた俺をはめ込んで不満を凌いでいたんだろ。俺のことなんて、どこにもないじゃねえか。最初から」
 涙も止まった濡れた目が、黙って英児を見つめている。茫然とした香世の顔には、もう、香世なりの答が出ているように英児には見えた。
「琴子は。すぐに俺の欠けている心を知ってくれて、常に俺の傍にいようと心がけてくれたんだよ。今でも。この前だって熱が出て実家に帰したのに。俺が一人で寂しくしているんじゃないかと、帰ってきてくれた。甘えているのは、手放せないのは、俺のほう。俺が琴子を選んだんだ。誰でもない、琴子を。他の女は俺を置いてどこかに行っちまったから『忘れた』よ」
「そっか……。私は、そんな英児君を二度も捨てたってことなんだね。気がつかなかったということなんだね。昔も今も自分のことばっかり……なんだね……」
「お前は、とにかく俺じゃなくて、理想の男と結婚したかったんだろ。俺なんかとはどうあっても、結ばれなかったと言うことだよ。それを考えると『どうして私じゃないの』なんて言葉はぜってえ出てこねえと俺は思うけどな」
「……うん、そうだね。そうだった」
 また香世の目から、涙が溢れていた。
「みっともないね、私。醜い秘密を英児君に叩きつけたりして……」
 そんな香世に――。もうこれで終わりかもしれない香世に、英児は最後に言っておきたいことを伝えようと思う。
「慣れちまったのかもしれないけどよ。もう一度、旦那と向き合えよ。子供、ちょっとだけでも預けて二人きりになってみたらどうなんだよ」
 きっとそんなことなのだろう。結婚十年以上。男と女ではなくなって、彼女の頭の中にちょっとだけ生々しい匂いが漂う身近な男にトキメキ役を任せていただけ――。
「うん……。そうだね」
 やっと香世が涙を拭いた。頭の中にいた英児が知らない『英児君』が出て行ってしまったのだろう。そうすれば、彼女には夫しかいないのだから。
「なあ、香世。マジで独り身は寂しいぜ、侘びしいもんだぜ。家族がいるならなおさら。もう一人にはなれないぜ。だから……なあなあにしないで大事にしろよ」
 また、香世の頬に涙が流れた。でも今度は一筋だけ。でも溢れた涙より、そのたった一筋の涙が香世の本当の想いからこぼれた涙に見えた。
「ありがとう、英児君。帰るね」
「おう。気をつけてな」
 車まで見送らなかった。そのまま作業を続けようとした。そして香世もそのまま背を向けて去っていこうとしている。
 もう、この店にはこないかもしれない。やはり男と女だった関係は、ただの同級生にはもどれないのかもしれない。
 だが。香世がピットを出る前に、英児に振り返る。
「次、このお店に来た時。その時に奥さんを紹介してもらうね。その時に離婚していたら大笑いしてあげる」
 眼鏡の彼女が笑った顔はもう。英児が恋した大人しい可愛い女の子ではなく、どこか逞しい主婦になった腐れ縁の同窓生。
「うっさいな。お前も今日ぐらい小綺麗になれるなら、普段も頑張って旦那に振り向いてもらえよ」
「うるさいなー。普段もこれぐらいお洒落しているわよっ」
 『じゃあ、またな』
 『うん、またね。結婚おめでとう』
 『ありがとうな、香世』
 『バイバイ』
 ――終わった。と、英児は思った。
 香世がピットを出て、マーチに乗り込んで出て行ったかどうかは見えなくても。終わった。俺の胸に刻みつけられていた初恋も失恋も。そして変に残っていた男と女も。もうからっぽ。
 次、本当に来てくれるのかは解らない。でも、もし来てくれたら……。その時は本当に、腐れ縁の同級生になれるのだろう。英児はそう思う。
 その答はまた数年後――。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その日の夜。英児はいつも通り、残業で帰りが遅い琴子を二階自宅で待っている。
 琴子も風邪が治り、仕事に復帰。年末商戦の受注に追われていた。
「ただいま」
 ダイニングテーブルで中古車雑誌を眺めていた英児は、その声を聞き、すぐさま玄関に向かう。
「お疲れ、琴子」
「ただいま、英児さん。もしかして……。またご飯を食べないで待っていた?」
 残業が続くと琴子は目を使う業務が増えるとのことで、コンタクトをやめて眼鏡にしてしまう。今夜も眼鏡の笑顔で帰ってきた。
 だけれどもう。英児にとって『眼鏡の可愛い女の子』は琴子しか思いつかない。
 そんな琴子が靴を脱いであがるなり、英児はぎゅっと腕の中いっぱいに抱きしめてしまっていた。
「英児さん、どうしたの」
 琴子の声はとても落ち着いていた。そして、そんな時の英児の無言の気持ちを思いやるように、すぐに抱き返してくれる。
「メシ、食ってない」
「やっぱり……。今夜もお母さんに頼めば良かったかな」
「いいや。もう鈴子お母さんもここのところずっと俺達のメシを作ってくれていたからさ」
「そう思って……」
 琴子が両手になにかを持って、英児に見せた。
「簡単で申し訳ないけど。帰りに会社の近くで評判のお惣菜屋さんで見繕ってきちゃった」
「うん。それでもいい」
 そういいながら、もう一度琴子を抱きしめる。
「……なにか、あったの? 英児さん」
「うん。いいことがあった」
「本当にそれは、いいことなの?」
 ばれているなあと思う。本当はどこか胸が痛い。香世と真っ正面からやりあった痛い感覚が残っている。でも、それは……。
「俺。元ヤンで走り屋で、学歴無くて、いいとこのお嬢さんに相応しくない男だなんて――」
 いつもの卑下する元ヤンコンプレックスの男の呟きを聞いた琴子が、胸元から心配そうにして英児を見上げた。だが英児は言う。
「もう二度と思わないことにした」
 いつもと違う割り切りに、琴子が驚いた顔。
「やっぱり俺とお前は出会うべくして出会ったんだ。きっと俺はお前と出会うために、傷ついてきたんだ。琴子だってそうだろ」
 今日、英児は『初めての女』だった香世とやりあって思った。本当にそう思った。俺を二度も拒否した女が『いい男』として認めてくれていたことも、その女に拒否されて始まった『元ヤンコンプレックス』も。それはもう琴子という女にはなーんにも関係ないこと、故に、これからも英児が気にするほどのものではなくなったのだと、グッと実感することが出来た。
 それまでお互いに付き合ってきた異性もいた。結婚のチャンスもあった。でも、どれもこれも自分の存在を否定するかのように上手くいかず弾かれ続け……。でもその最後。互いに傷ついていたからこそ、引き合った。
 匂いだけじゃない。匂いに惹かれてその後は、互いが重ねてきた生き方を知って惹かれたんだ。引き合ったんだ。分かり合えたんだ。
 そこに、いいとこのお嬢さんも学歴なしの元ヤン男も関係ない。
「だから。私は最初から、英児さんがどんな男性でも好きよ――と、言ったわよね。忘れちゃったの?」
「忘れていねえよ。でも……俺が俺自身が納得できた。もう琴子には俺だけ、俺には琴子だけ。琴子だったから俺の傍にいてくれるんだって。もう絶対に譲らない」
 今度の琴子は笑っていない。じっと英児を見つめ、真顔。怖いくらいの真顔。
 そんな琴子がぎゅっと英児の背を抱いた。
「そんなこと。もうずっと前からそうじゃない。忘れたなら、思い出させてあげる」
 ずっとずっと、英児さんが好き。これからも、これからも英児さんを愛している。
 今夜は彼女からのキス。くっと胸元から背伸びをする彼女に唇を塞がれていた。
 もう……それだけで、英児は目眩がして倒れそうだった。彼女に抱きついた時、それは彼女を逞しく抱く男ではなく、支えてくれる彼女にしがみつく寂しがり屋の男だった。
「琴子……。今夜も、俺と、眠ってくれよ」
 あったかい素肌で隣にいてくれ。柔らかい肌で俺を安心させてくれ。ぬくもりを、ずっと俺の傍に――。
 やはりもう、俺のもの。これは俺のもの。待てない。
 彼女の頬を包み、くれた口づけを英児からも熱く返す。
 英児の中に強い衝動が生まれていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その決意は、英児のポケットに忍ばせて。
「いいお天気で、よかった」
 スカイラインの助手席でご機嫌の彼女を乗せ、今日は南部地方へと出かけた帰り。
 後部座席には『日吉村の田舎蕎麦』。彼女の父親が好きで良く買っていたという田舎の市場まで行ってきたところ。晴れ渡る海岸線を伝って、市街へ帰るところだった。
 英児も琴子も無事に仕事納めを終え、年末年始休暇にはいったところ。英児はいま、大内家の正月準備の手伝いをしている。
 大内家では英児がいるだけで『久しぶりに賑やかなお正月になりそう』と、母娘が言ってくれる。
 女二人だけでは手が届かない外回りの大掃除をすれば喜んでくれ、琴子と鈴子母と一緒に正月料理の買い物にでかけたりしている。
 そして明日はついに大晦日。その前に、日吉村へ年越しのための蕎麦を買いに出かけたところだった。
「お仏壇のお父さんにも、これで食べてもらえる。お婿さんからって、私から言っておくね」
「会いたかったな、琴子のお父さんに」
「そうね。私も、お父さんに英児さんを会わせてやりたかったな」
 そこで急に琴子が俯いて黙ってしまった。あんなに上機嫌だったのに。やはり、結婚するにあたり父親がいないことを今まで以上に強く感じているのかもしれない。
 そんな彼女の頭を、英児は運転席からそっと撫でてやる。すると彼女も直ぐに笑顔に戻る。
「年が明けたら、英児さんのお父さんに新年のご挨拶に行こうね」
「そうだな」
 いつもなら大晦日の夜にギリギリに帰って、正月の挨拶が一通り終わったら龍星轟に逃げ帰っていた英児だったが……。
「実家の親父から『琴子さんと一緒に来い』と、店に電話してきてびっくりしたもんなー」
「やっぱり英児さんのこと、気にしているのね。お父さん」
 それは琴子が間に入ってくれるようになったからだよ――。そう言いたい。きっと親父も意地を張って口悪く言う性分が止められなかったのだろう。以前ならそこに死んだ母が間に入ってくれていたから。
 今度はそれを琴子が……。
「もうすぐ、マスターのお店ね。さすがに今日は閉まっているのかな」
 長い海岸線を走っていると、いつのまにか漁村まで帰ってきていた。
「いや、毎年、大晦日でも開けている」
 なるべく家族を避けて一人で過ごしてきた英児はよく知っている。漁村の店にくれば開いているから、そこでマスターの穏やかな顔を見て、晴れた瀬戸内の海を傍にゆったりと食事をする。年末年始それが出来る数少ない場所だと知っている。
「閉まっているのは、正月二日ぐらいじゃねえかな。盆もやっているし」
「英児さんも運転疲れたでしょう。私もちょっとお腹空いちゃった」
「そうだな。寄ってみるか」
 冬の薄い空色の下、穏やかな海の側にある店へとスカイラインを向かわせる。
 
「いらっしゃい」
 どんな時もいつも通り。カウンターにどっしりとエプロン姿のマスターがいた。
 そして、いつも通り。にこやかに迎えてくれるが、揃ってきた二人にあれこれと話しかけては来ない。
 初めて琴子を連れて来た時のように、英児は奥のフロアにある海辺の席へと向かう。琴子もそれが当たり前のようについてくる。
 もうそこは二人にとっても『いつものテーブル』だった。同居を始めてからも、幾度か来た。マスターにも結婚は報告済み。『おめでとう』の言葉ももらっている。
 店も静かだった。いつもは二組、三組くらいはいるのだが。やはり年の瀬か。この日は英児と琴子の一組だけ。
 マスターがオーダーを取りに来る。
「俺、コーヒー。ホットで」
「私も。同じものをお願いします」
「琴子、ピザでいいよな」
「うん」
 慣れたやり取りをマスターも微笑ましく見守ってくれている。
「今日はシラスの釜揚げ。今朝の獲れたて、茹でたて。ガーリック醤油仕立て」
「美味しそう」
 琴子のお気に入りだった。なにがトッピングされるかその日によって違うところが楽しみだという。
 いつもの和やかさに包まれ、オーダーも終了。大きな身体の白髪マスターがのっそりとカウンターに消えていく。
 ほっと一息のテーブル。冬でも瀬戸内の海はどこまでも青く静か。そんな穏やかさに包まれるひととき。二人は黙って海を眺めていた。
 だがここで英児は密かに胸をドキドキさせていた――。
 静かな青い海を見つめて優しく微笑む琴子を目の前に。この前から『いつ言おう、いつ』と思っていたこと。それはもしかして『今』なのではないかと。
「こ、琴子」
 いつかの大人っぽい黒いワンピースの上に、白いふわふわのカーディガンを羽織っている琴子。そんなふんわり優しい彼女の眼差しが英児と合う。
「これ」
 英児はネルシャツの胸ポケットから、ここ数日ずっと忍ばせていたものを彼女に差し出した。
 茶色の罫線で整えられている白い用紙。それをテーブルに広げると、琴子が驚き英児を見上げた。
「ここに、お前の名前、書いてくれねえ?」
 一番上の枠を英児は指さす。もう琴子は絶句していた。
「ど、どうしたの、英児さん。これ……婚姻届」
 テーブルに広げた用紙は、数日前に英児が市役所まで取りに行った『婚姻届』。
 突然だとわかっている。『何故、急に』と驚かれても仕方がないとわかっている。でも!
「とことん、俺の感覚で悪い。きっと『今』なんだと思う。これから式をしてその時にサインしてとか、その日に市役所に持っていくとか……。それは確実にやってくる瞬間だと俺もわかっている。でも、なんか。『今』、お前と一緒になりてえって俺が叫んでいるんだよ。感覚つうか、その……」
 どう説明すればいいのだろう。『俺なんか』と思っていたものがなくなった。この女と出会うべくして出会った。それをグッと感じた今だからこそ、すべてを委ね、彼女を俺の妻に、そして俺は胸を張って夫になりたい。
「だからよ……。その、グッと来ちゃったんだよ」
「グッと、来たの?」
 琴子も訝しそうだった。『待っていれば、いずれその日は来るのに? 急にどうしたの』とか言いたいのだろう?
 しかし、琴子がじっと。微笑まずにじっと英児を見ている。そして。
「うん。わかりました」
 午後の日も傾いてきた海の窓辺。やんわりとした冬の日が射しこむテーブルの上、琴子はバッグからペンを取り出すと、その用紙の上にすらすらと名前を書き始めた。
 今度は英児が唖然としている。唐突な申し込み、彼女の気持ちも聞かず、自分の感覚だけで説明も上手く言えなかったのに。琴子のほうが決断早くすらすらと……。
 英児が愛している優しい眼差しと柔らかい微笑みで、しとやかな指先で、遠いさざ波の中、彼女が妻になる誓いを綴っている。
「はい」
 彼女らしく丁寧に、英児が書ける向きに用紙を反転してペンも差し出してくれている。英児もそれを受け取る。
 でも茫然としていた。
「あのさ。『どうしていきなり』とかさ。『どうして今なんだ』とかさ。『なんでそっちの勝手で』とかさ。反論はないのかよ」
 慎重な性格の彼女だから『まだ早い』と戸惑うのではないかと構えていたのに。こんなあっさり……?
 でも琴子は目の前で、おかしそうに笑い出す。
「だって。英児さんは理屈もなにも関係なくて『感覚』が多いんだもの。本当に動物みたい。その時に『キラ』とか『ピカ』とか『ビリ』と感じたら、それが英児さんを迷わず動かして、そしてそれが貴方にとっては『大事な今』。そしてその時の英児さんは、いつも誠実で間違っていない。これも、そんな感覚なのでしょう」
 今度は英児が絶句する。説明なんていらなかった。……言えば、この嫁さんになる彼女は、直ぐに通じてくれるのだと。……忘れていたのは英児の方。
「私、英児さんのそんな動物的なところが大好き。だから。今日がその『グッと来た時』なら、私も一緒に連れていって」
 だって。妻になるのだから。
 瀬戸内の青い海の側で、彼女が笑っている。
 たったいま、この瞬間。本当に彼女と通じて結ばれた気になる。
「よし。俺も書くぞ」
 彼女の花柄のペンを手に取り、『滝田英児』と力強く記す。書きながら英児は言う。
「明日、市役所に持っていくぞ」
 大晦日なのに。
「はい。英児さん」
 俺達には関係ない。グッと来た時、ビリッとした時、彼女とピタッとした時。その瞬間を逃がさず、一緒に行こう。
 明日、俺達は『夫と妻』になる――。
 書き終えると、マスターがひとまずお先の珈琲を運んできた。カップを乗せたソーサーを手に取り、まず琴子の前に置こうとテーブルに視線を落とし……。彼も気がついた。
「え、それ。婚姻届じゃないか」
 白髪のマスターが面食らった顔。書き込みほやほやの、人生の上で大事な紙切れが客のテーブルに。
「明日。彼女と持っていって入籍するんだ」
 告げると、今度は仰天するマスター。
「ちょ、ちょっと。うちの店に来て、そんな大事なものを二人で書いていたのかい」
 今度は琴子が笑って告げる。
「英児さんが急に言いだして。でも、彼らしいから私も書きました。それに……」
 そのまま彼女の優しい目線が窓の外の海へと馳せる。
「私、このお店にすごく思い入れがあるんです。英児さんが初めてこのお店に連れてきてくれた夜から、私はそれまでの小さな囲いにいた重い毎日から解き放たれたようで……。このお店で、大事なことを二人で決められたこともまた、ずっと心に残って、支えになっていくと思います」
 彼女を連れてきた夜は、この店は月明かりで溢れていて、まだ出会ったばかりの英児と琴子を優しく包み込んでくれた。その夜、この漁村で結ばれた。英児にもその思い入れはある。
 そこまで言われたせいか、マスターは一時茫然としていたのだが。やっといつもの穏やかな熊親父の笑みを見せてくれた。
「ありがとう。僕のお店をそんなふうに思ってくれて。嬉しいよ。そして、おめでとう。お幸せに」
 琴子はここのマスターが大好きだ。熊親父からの祝福に頬を染めてとても嬉しそう。だが、英児も思う。きっと琴子の亡くなった親父さんは、ここのマスターのように静かで穏やかで懐のでっかい男だったのだろうと。
「そういうことなら。お二人さん、ちょっと待っていて」
 珈琲を頼んだのに、マスターはそのまま持って帰ってしまった。
 何事かと、英児は琴子と顔を見合わせる。暫く待っていると、マスターがキャスター付きのワゴンを押して戻ってきた。ワゴン台の上には、喫茶店とは思えないものが。
 そこには銀色のシェイカーが。他には柄がとても長いマドラス(バー・スプーン)に、ガラスの容器(ミキシンググラス)が並べられている。つまり『カクテル』を作る道具がそこにある。
「今日はどっちが運転しているのかな。やはり英児君?」
 マスターの言葉に、英児もただ頷く。
「じゃあ。琴子さんにはアルコールを飲ませてもいいね。英児君にはちゃんとノンアルコールで作るから」
 そういってマスターはナイフ片手にレモンをスライス。琴子もどうしてマスターがそんな道具を急に出してきたのかと目をしばしばはためかせ戸惑っている。
 不思議そうな二人を傍目に、マスターはとても手慣れた綺麗な仕草でリキュールをメジャーカップで計り、シェイカーに注ぐ。搾ったレモンの果汁も混ぜると、シェイカーを肩先で軽やかに降り始める。
 その手つきを見て、英児は思い切って尋ねた。
「おっさん……。もしかして、それ本職だったんじゃ」
 シェイカーを振る白髪の親父さんがふっと緩く笑った。
「この店を始めるまではね。若い時、数年だけ東京で頑張って、あとは阪神をうろうろ。最後はここ、お城山が目の前に見える一番町ホテルのラウンジでやらせてもらって早々に引退。故郷のこの漁村に戻ってこの店をつくったんだ」
 思わぬ経歴に、英児は琴子と共に驚きの顔を揃えた。

 

Update/2011.12.3
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