× ワイルドで行こう【ファミリア;シリーズ】 ×

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 4.ガールズ*シークレット 

 

 潮騒が近いキッチンで、琴子は沢山の食材に囲まれていた。
「マスター。こちらの野菜の下準備OKです」
「出来た? それじゃあ、ピザの具材を盛りつけしてもらうかな」
 白髪のマスターのキッチン、漁村喫茶の厨房で琴子は一緒に食事の準備をしている。
「すみません、マスター。お店を開けて頂いて……」
 本日は土曜なのだが。マスターがにっこり笑う。
「いいんだよ。たまに開けないとね。キッカケを作ってくれて有り難う」
「でも、あの。無理なさらないでくださいね。キッチンを貸して頂ければ、私がやりますし」
 と気遣ったつもりで言ったのに、マスターが少し寂しそうに表情を曇らせてしまう。
「僕もね。本当は毎日、店を開けていたいんだよ。でも、もう前みたいにお客さんに対して完全な対応が出来ないから」
 特に動作に問題はないけれど、『疲れやすくなって、物忘れもちょっと酷い』という近頃。少し前、誰もが通る道を年相応に通ってしまったマスター。その後、お店を週に三日……二日……と出来る分だけ開けているうちに、とうとうリタイアをしてしまったのだ。
『あの店はおっちゃんの生き甲斐だぞ』
 マスターが店を閉めると決断して直ぐだった。夫の英児がそんなことを怒るような顔で言いだしたのは。
『集会をする!』
 集会? 妻の琴子がちょっとの感情を抱く前に、夫は即決して動き出してしまう。
 それってなにをしようとしているの? 琴子が尋ねる前に、英児はもう携帯電話片手にあちこちに連絡を取り始めていた。
『土日に走る集会をしようぜー』
『マスターの店に集合』
『おっちゃんが店を開ける口実があればいいと思うんだ。ちょっとでもキッチンに立って、好きな料理をして誰かに食べてもらうってことをしてもらおうぜ』
『馴染みが揃うとおっちゃんがご馳走するっていいだすからさ。少しは商売になるようにもっていきたいんだよ。会場を貸してもらったという名目で代金を渡すってどうかな』
 走り屋仲間や、仲の良い顧客それぞれに連絡。相談できる有志に話している内容を聞いて、琴子もやっと夫がなにを始めようとしているか理解する。
『パパ、私も賛成です。私、マスターと一緒にお料理を作る係になる。そうしてマスターと子供達と一緒に、走り屋さん達が帰ってくるのを待っています』
 直ぐに趣旨を飲み込んでくれた妻を見て、英児も喜んでくれる。
『ありがとうな、琴子』
 走りに行っている間、マスターと待っていてくれる人間がいれば、なお心強い。そう言って、彼が琴子をいつもと変わらず、腕の中、胸の中へ深くきつく抱きしめてくれた。
 
「ミモザサラダも作っておこう」
 やはりマスターはこの磯が見える海辺のキッチンで料理をしている時が、一番生き生きしていると琴子も思う。
「私、マスターのミモザサラダ大好き。特製のドレッシングも美味しい」
 にっこりと微笑むマスター。いつもの穏やかで静かな笑みに琴子もホッとする。
「見ていて」
 そう言うと、マスターはボウルにオリーブオイルを注ぎ、レモンを搾る。
「塩、胡椒、ちょっとの砂糖、そしてダシ醤油を少々。これが隠し味」
「フレンチドレッシングだと思っていたけれど、お醤油も入っていたのね」
 こうして手伝いをしているうちに、マスターが少しずつレシピを琴子に伝授してくれるようになっていた。
 帰りにはそれを記したメモも渡してくれるように。
 口では言わないマスターが、そのメモに記していること。『これから先、琴子さんが野郎共に食べさせてあげられるようになってね』。
 その『PS』追伸メモを見た時、涙が溢れて止まらなかった。勿論、夫の英児にもそのメモを見せた。琴子より感情表現がはっきりしている英児も涙ぐんだのは言うまでもなく。
『なんだよ。寂しいこといいやがるな。俺がジジイになるまで、意地でも生きていてもらうぞ』
 そうして『意地になった』夫が、隔週土曜の日中は走り屋を集めて近場を男達だけでドライブ。夕方になると漁村喫茶に男達が帰ってきて、賑やかな食事をする――という習慣がここ半年ほど。
 だけれど、喜んでいるのはマスターだけではないことを琴子は後に知る。
 結婚後、独身時代と違って愛車で気ままに走りに行けなくなったパパ。でも子供達も大きくなり、これを機会に昔馴染みの走り屋仲間や、新たな店の顧客を誘って『龍星轟・走る会』を結成。それが楽しいらしい。
 そしてパパだけではない。子供達も――。
「ただいま!」
「じいちゃん、見て!」
 浮きが付いた釣り竿片手の男の子が二人、磯側の勝手口からキッチンに駆け込んできた。
「セイ、レイジ。お帰り。どれ、今日は何が釣れたのかな」
 白髪のマスターがこの上ない笑みで、息子二人の元へ跪く。
 十歳になった聖児、八歳になった玲児。共に遊び盛りでやんちゃ盛り。もういつだって元気いっぱい。
「じいちゃん、これ食べられるかな」
 お兄ちゃんの聖児から、青いバケツの中で泳いでいる小魚を見せる。
「うん。食べられるよ。何をして食べようかな。天ぷらか、フライ。ピザにも乗せても美味しいね」
「フライ!」
「僕もフライ!」
「よし、じいちゃんが料理するから待っていて。タルタルかな、オーロラソースかな、シンプルにソースかな」
「全部!」
「じいちゃんのタルタル大好き!」
 男の子ふたりの黒髪を撫でるマスター。生まれた時からこうして可愛がってもらってきた。琴子の父が他界している分、子供達はこちらのマスターを本当のお祖父ちゃんのように思っている。そして子供がいないマスターも同じく、孫のように可愛がってきてくれた。
「あれ。小鳥はどうしたのかな」
 いつも弟たちをビシビシまとめているお姉ちゃんがいないので、マスターが心配そうに勝手口から磯辺に沿う小道を覗いた。
 その道は、地元漁師の小さな漁船が繋がれている桟橋や、テトラポットが続く道。琴子にとっては決して忘れられない小道――。
 英児と恋を結んだ夜の磯辺。入り江の月夜。その道を今は子供達が来るたびに行き来して、あの階段がある渚や防波堤で釣りや磯遊びを楽しむようになった。
 その道を、弟たちから遅れて歩いている黒髪ポニーテールの女の子。でも彼女は一人で歩いているわけではなかった。
 その傍らに、杖をつている老女。そして後ろを守るように歩いているのは白髪になった矢野さんだった。
 娘の小鳥がその老女を支えるように歩いて、喫茶厨房の勝手口に帰ってきた。
「お祖母ちゃん、大丈夫?」
 小鳥が支えているのは、琴子の母、鈴子。
「ありがとう、小鳥ちゃん。いいお天気で気持ちよかったよ」
「よかった。私もお祖母ちゃんが一緒で楽しかった」
 すっかり祖母の背丈を超した娘はもう十二歳。来年、中学生になる。
 思った以上に背丈が伸びたのは、顔つきに同じく、父親譲りだからだろうかと琴子は思っている。
 幼い時から元気いっぱいの娘だけれど、女らしいこだわりも持っていて、それが真っ直ぐ長く伸ばしている黒髪。いつもポニーテールにしてきらきらしている少女の髪は、母親の琴子でも羨ましくなってしまうほど。
 来年はきっと、ママの背丈も超えてしまう。それほど女らしく成長していた。
 そんな娘が、いつかの琴子のように母を支えて歩く姿。母はいつも気遣ってくれる孫に嬉しそうに目を細めている。
「小鳥はしっかりしているね」
 マスターもそんな小鳥のやんちゃを知りつつも、放っておけずに世話好きなところも『小鳥は本当に英児君に似たんだね』と言ってくれる。
 子供の磯遊びにつきあってくれた矢野さんも到着。
「やー、俺も夢中になってしまったわ。親父、俺もこれだけ釣ったわ」
「矢野君は投げ釣りしたんだ。おっきいのが一尾いるね。刺身に出来そうだな」
「いいねえ。それやってくれよ」
 走る会にひとまず参加してくれている矢野さん。だけれど『俺も歳だわ』と言って、目的地によって参加したりしなかったり。今日は愛南町まで行きたいと英児達がはりきっていたので『県境までは勘弁』と辞退。琴子と子供達と留守番をすることに。琴子が料理をしている間、矢野さんが子供達を見てくれることも多い。子供達の『釣り』はそんな『矢野じいが教えてくれた遊び』でもあった。
 帰ってきた小鳥が、ちょっと疲れている様子の母にさらに気遣う。
「お母さん。紅茶とか珈琲、お祖母ちゃんに」
「そうね」
「任せて。僕の本職だから」
 珈琲と来れば、マスターがはりきる。
「私、じいちゃんのストロベリーティーが飲みたいな」
「いいよ。そう思って、苺の蜂蜜漬けを作っておいたからね」
「やった。私、じいちゃんのお茶、大好き!」
「苺が好きだね、ほんとうに」
 小さな時はイチゴ牛乳がお気に入り、そして今はちょっぴりお姉さんになってマスターのストロベリーティーが好きな小鳥。
「お祖母ちゃん、またかぎ針編み教えて」
「うん、いいよ」
 小鳥は本当にお祖母ちゃん子と言ってもいい。母から手芸を教わり、料理を教えてもらい。琴子がそうして母に育ててもらったように『女の子らしく』の手ほどきは、お祖母ちゃんなら素直になって教えてもらっている。
 マスターの特製紅茶をお供に、白いゆったりしたソファーでお祖母ちゃんと孫娘がかぎ針編みをする午後。
「じいちゃん。魚をさばくなら、俺も見たいな」
「僕も手伝う。母さんみたいに」
「うん、じゃあ男の子は厨房に集合だ」
 聖児は男らしくあろうとするところがあり、末っ子の玲児はどうしたことか琴子のまねごとをしたがる。いつも料理の手伝いをしたがり、マスターの厨房が大好きだった。
 娘は祖母と、息子達はお祖父ちゃん代わりの、マスターと矢野さんとわいわいと釣った魚を下準備。

 そんな週末の賑やかな集いがいまはある。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 開けっ放しにしている厨房勝手口から見える海が凪いで、夕日に染まる頃。
「流石に県境まで半日で行って帰ってくるのは無茶だろ。あの無鉄砲男め」
 息子達につられて不慣れな手つきでフライを揚げている矢野さんが、夕なずむ海を見て溜め息。頬に小麦粉をつけた顔をしかめた。
「でも高速を使えるとろこは飛ばして帰ってくると思うんですよね」
 夕の色が鮮やかになると、あっという間に薄闇が訪れるので、琴子も少し心配になってくる。
 そろそろ夕食の食卓も整ってきたし、子供達もめいっぱい遊んだ後で、退屈そうに店の窓に貼りついて関係のない車が通りすぎる国道を眺めている。
「今日のメンバーの車が高速を走っていたら、すごい目立ちそうだね」
 マスターが笑う。そして琴子の母も。
「本当に好きな男性は、いくつになって好きなんだね」
 いくつになっても若い青年のまま飛び出していく『走り屋野郎共』。
「かもしれないですよね。近頃は若い常連さんの参加も多くなってきて。従業員の桧垣君も、愛車でお父さんの後をついて行くみたいだし」
 『桧垣君』――と口にした途端、弟たちと窓辺に貼り付いていた小鳥がふっと振り返った。ママと目が合うとすぐに逸らしてしまう。
 だが琴子はそんな娘を見て、ここのところ母親としてぼんやり予想していたことが確信に変わりそうになっていた。
 桧垣君とは、龍星轟の従業員募集で彼自ら面談にやってきた青年だった。四大卒の、しかもまったく無関係の学部を専攻していた彼が来た時は、英児自身がびっくりしていた。だけれど『車が好きで諦めきれませんでした。子供の頃から龍星轟のステッカーに憧れていました』という情熱にやられたのは、英児自身。
 それまでにも若い男の子を何度か雇ったけれど長続きせず。英児が厳しいのか、矢野専務が厳しいのかはわからないけれど、琴子の年代でも『普通のこと』と思っていることが、どうも若い子には通じないジレンマがあったらしい。
 だけれど、この桧垣君だけは、それまでの青少年達とは雰囲気が違う。きちんとしたお坊ちゃんと言えばいいのだろうか。
 そんな彼の名を聞いただけで気にする娘……。
 ついにさざ波が黄金色に輝き始める。『遅いね』と母と共にぼやいていた時だった。
 ブウーンと遠くから他の車の走行音もかき消すような極太なエンジン音?
 窓辺の子供達がぴくっと揃って顔を見合わせる。
 最初に口にしたのは長男の聖児。
「父ちゃんが先頭だ。R32GT−Rのエンジン音だ」
 そして小鳥も耳を澄まし……。
「次はきっと南雲さんのF430」
「じゃあ、三番目は高橋おじさんのランエボぽいね。三好おじちゃんのセリカも一緒だよ」
 末っ子の玲児も置いて行かれまいとお姉ちゃんとお兄ちゃんの会話についていく。
 琴子もたまに『それってほんとにわかっているの?』と思うほど、子供達はまるで車と一体になっているかのような感覚を見せる時がある。
 それを見て矢野さんは満足そうに顎をさすり、マスターと母はこの光景を何度見ても『ほんとにわかっているの?』と琴子同様、不思議そうな顔をする。
「来た――!」
 様々なエンジン音が、この漁村海辺のまっすぐな国道に響き渡る。そしてそれが徐々にこの小さなお店に迫ってきている。
 子供達の笑顔が輝く。そのエンジンを聞いて育ってきたせい? 三姉弟が揃って店のドアを飛び出していく。
 海辺の小さな店の駐車場、ついにそこに真っ黒なスカイラインがざっとドリフトを効かせ現れる。
「やっぱ父ちゃんが先頭だった!」
 予想が当たり長男の聖児は飛び跳ねる。その見慣れた黒い車の運転席のドアが開く。龍星轟のジャケットを羽織った男がすっと降りてきた。
「父ちゃん、お帰り!」
 子供三人がパパの帰還とばかりに、すぐさま駆けていく。
「おう。帰ってきたぞ」
 龍星轟の紺色ジャケット、変わらぬ佇まい。細長いパパの身体に子供三人が一斉に抱きついた。
「父ちゃん、県境までいけたのかよ」
「あったりめえだろ。ちょっぴり超えて高知に入ったところで帰ってきた」
「矢野じいが、無茶だって言っていたわよ」
「はあ? 年寄りの言うことなど真に受けるなよ」
「父ちゃん、お帰り。今日、僕たち釣りしたんだ。おかずの魚、釣ったんだ」
「おお、すげえな。父ちゃん、腹減ってるからいっぱい食うな」
 子供達それぞれに受け答えをした後、英児が店先に佇む琴子に笑顔で手を振ってくれる。
「帰ったぞ、琴子」
「お帰りなさい」
 無事に帰ってくれてホッとする。どんなに走り慣れていると言っても、やはり待っているのは、彼と離れている間はなんとなく落ち着かない。
 それから次々と後続車が到着――。
 悪ガキらしくやんちゃに帰ってきたスカイラインとは対照的に、次にお行儀良くスマートに停車したのは、なんと真っ白なフェラーリ『F430』! 小鳥の予想も当たっていた。
「南雲さん、お帰りー!」
 今度、子供達はその真っ白な高級車へまっしぐら。
「ただいま。龍星轟ジュニア」
 そこから、この走る会では珍しいスマートな身のこなしの、品の良い男性が運転席から降りてくる。
 龍星轟の中でも上得意様である地方有名企業のご子息。といっても、英児と同世代の中年男性ではあるが、その温厚そうな佇まいと仕草はいつもエレガントで『元悪ガキ』である夫とは対極している。それでも車ひとつで仲の良い二人。
 そんなまだお兄様にも見える『素敵なおじ様』は、子供達の憧れでもある。憧れというのは『いいところのご子息、エレガントな大人の男』という意味ではなく。『フェラーリに乗っている大人』という意味で。
「南雲さん、乗ってもいい?」
 長男の聖児が真っ先に運転席に乗り込もうとしている。そこも寛大な男性。『いいよ』といつも子供達を『憧れのフェラーリ』に乗せてくれる。
「F1マチックのフェラーリ、早く免許をとって運転してみてー」
 まだ子供の聖児でも夢見てしまう、男の夢がつまった車。それを子供の時に直に触れられることなんて幸運だと琴子は微笑ましく見守っている。
 フェラーリに続いて到着したのは、これまた末っ子の予想が大当たり。長年の常連さんである、三菱の赤いランサーエボリューションを乗り続けている高橋さん。そして琴子の勤め先の上司である『三好ジュニア社長』も愛車のセリカで到着。夫の『走る会結成』を話すと『俺も仲間に入れろ』と参加してくれるように。
 まだまだ。マツダのRX−7サバンナ、日産の180SX、スバルのインプレッサ、ホンダのNSX、トヨタのスープラ。英児と同年代である男達が青春時代から大事にしていた車もあれば、日産GT−Rのような新種を愛車にしているおじ様に、そんなお父さん達に憧れて状態がよい中古を探し当て憧れの車種を愛車にしている青年達も。
 海辺の小さな喫茶の小さな駐車場は、年代も車種も様々な野郎共の愛車十数台であっという間にいっぱいになる。
「いやー、やっぱり目立つんだろうねえ。年代物の国産車の中に、真っ白なフェラーリって光景がまたねえ」
 マスターも毎回圧巻されている。自分の店の前を通り過ぎていく普通車から物珍しそうに眺める人々の顔もよく目に付くからなのだろう。
 そして。そんな琴子も胸がドキドキしている。身体もちょっと熱くなる。こんなに沢山の車が大集合するのは、自宅の龍星轟でもなかなかない。自分も既に車好き、これだけ集まるとわくわくしてしまう。そして車好きの男達の熱いムードにも。
 そんな男達がちょっと羨ましい。自分も一緒に愛車のフェアレディZでついていきたかったな、走りたかったな――なんて思いを抱いても、でもここは男同士だからこその楽しみ方があるだろうと、琴子はこの『走る会』につていは一歩引くことに決めている。
 なによりも。そんな車に走り屋野郎共のど真ん中にいて『楽しかったな!』と、皆の笑顔までもリードしている夫の英児を見ると、いまでも琴子は彼にときめいている。
 いつか、彼が真顔でワックスがけをしていたあの格好いい姿同様、車が好きで好きで堪らなくて、そしてそんな男達のために店を経営し、以上にこうして楽しむリクリエーションまで走り屋のために尽くす姿。いつまでも車を愛する夫の姿に――。
 そんな笑顔だった英児がふと何かに気がつき、眉をひそめた。
「翔はどうした」
 一台、戻ってきていない。それに気がついたようだ。
 そして『翔』と聞いただけで、娘が弟たちと夢中になって眺めていたフェラーリから離れ辺りを心配そうに見渡したのを琴子は見てしまう。
「翔なら、一番後ろを任せていたから、少し間をおいて走っていたんじゃないかな」
 後尾にいた青年がそう答えた途端、また海辺の西側から、高く響くエンジン音。親父チームに青年チームが揃って国道の向こうに目を懲らす。それも一瞬で、あっという間にこの店先にトヨタの青いMR2が滑り込んできた。
「すみません。遅れました」
 礼儀正しい生真面目そうな青年が運転席から降りてくる。
「おう、翔。後尾を引き受けてくれて有り難うな」
「いえ、社長。俺は店のもんですから」
 お客さんを置き去りにしないよう、後ろを走る。英児もたまにその役を引き受けるが、常連客は滝田社長とも爽快な走りを楽しみたいという要望もあり、先頭を走ることが多くなる。そこをたまに走る矢野さんや、龍星轟従業員の若い彼が引き受けてくれることが多い。
「お疲れ、翔」
「ありがとうな、翔君」
 顧客にねぎらわれ、やっと彼がはにかむ微笑みを見せる。
 全員揃ったところで、これも毎度で互いの車を見せ合ったり、店長の英児や矢野さんにエンジンルームを見てもらったり。子供達も好きな車、気になる車、これだけ揃っていたら見放題。お父さんの英児にひっついてエンジンルームを覗いたり、矢野じいの後をくっついたり。または長年可愛がってくれている常連さんの運転席に乗せてもらったり。
 そのうちに、琴子は気になる光景を目にしてしまう。
「翔兄ちゃん、お疲れ様。長かったでしょ、大丈夫」
「小鳥。うん、大丈夫」
 ポニーテールの小鳥が神妙な面持ちで、翔に声をかける姿。
「エンジン。父ちゃんにチューンしてもらったんでしょ」
「社長の手ほどきで、自分でやってみたよ」
「そうだったんだ。どうだった? 走り」
「爽快。憧れのタキタのチューンで、やっと走れたからな」
 年の差十歳。お兄さんの翔は『雇い主のお嬢さん』と思って優しく接してくれているのだろうけれど、お年頃の女の子の気持ち、琴子はわかってしまう。
「運転席乗って、エンジンだけかけてもいい? 兄ちゃん」
「いいよ。サイドブレーキ触るなよ」
 笑顔になった娘が、嬉しそうにお兄さんの青い車に乗る。
 いまはまだ。心に秘めたときめき。それはいつまで黙ってみていればいいのだろうかと、琴子も胸に秘めている。
 パパが知ったら『なんだとー!』と怒るというか、あまりにもびっくりして、娘より翔を意識しそうで顔に出しそうで。そっちの方が心配だから、ママは黙っている。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 すっかり日暮れ、店から見える海に夜のとばり。
 店の中は男達の熱気で賑やか。そんな活気あるこの店を眺めていると、白いドレスを着た日を思い出す琴子。
 やはりこのお店。なくなって欲しくないな……。そう思う。あまりにも思い出がありすぎる。今日だって、きっと思い出に。
 母とマスターも矢野さんと一緒になって、走り屋男達の賑わいにちゃんと馴染んで笑っている。
 その間、琴子は隙を見て厨房で給仕に励む。
 おかわりのお皿に料理を補給するため厨房にいると、そこに英児がやってきた。
「子供達が釣った魚のフライ、うまかった」
 からっぽになった大皿を持ってきてくれる。
「ありがとう、英児さん」
「そこで煙草を吸ってくる」
 出たら直ぐそこが磯になっている厨房勝手口を出て行く。漁り火が滲む水平線を遠く眺めながら、紫煙が揺れる後ろ姿。その変わらない頼りがいある背中を琴子はじっと見つめてしまう。
「なあ、琴子。ちょっと」
 呼ばれて、琴子は『なに』と勝手口ドアの側にいる英児へと歩み寄る。
 だが夫の背中に辿り着いた途端、手首を大きな手に掴まれ力一杯ドアの外に引っ張り出された。
「え、エイジ……」
 勝手口、ドアの側の壁。そこにいつものように彼の両腕に囲まれ閉じこめられている。そして彼の唇が……。
 でも触れるか触れないかで今日は止まった。いつも琴子の反応などおかまいなしに奪ってしまう男が、今日は鼻先で止まっている。
「わりい、煙草を吸ったばっかで」
 ううん。大丈夫。だって、いつも……
 そう伝えようとしたのに、そこはいつも通りの英児のまま、すぐさま強く唇を塞がれていた。
 煙の匂い、でも、彼の匂い。ずっとずっとこの匂いと一緒に生きてきた。いまさら……。
 開けているドアから店の灯り。でも一歩外に出たここは、磯辺の優しい宵闇の中。賑やかな男達の笑い声がすぐそこで響くのに、ふたりは闇に紛れてそっと熱愛を交わしている。
「……あの日みたい」
 ふと呟くと、英児が目の前でふっと笑う。
「ここに来ると、俺も思い出してしまって、どうしようもない」
 あの時の琴子の優しい匂いも、可愛い目も。そしてお前が着ていたフリルのブラウスも覚えている。忘れられないよ。
 いつになく耳元でそう囁かれ、琴子は気が遠くなりそうになった。
「俺の匂いが、海の匂い。お前がそう言うのが何故か、少し解った気がする」
 そうよ。英児は海の匂い。海で恋人になって愛しあった男の人。愛しあう人間は海から生まれた野生そのもの。そんな原始のまま貴方に愛されて――。
 だから海の匂い。
 そこに私たちの始まりがあるんだもの。
 そう伝えたいけれど、野生的な男との交わりに言葉が入る隙はいつも皆無。
 やがて、煙草を持っていない英児の手が、柔らかに琴子の腰を柔らかに掴んだ。その先、夫がいつもやってしまうことを察知した琴子は、長い口づけから離してくれない英児のその腕を掴んで止める。
 ――だめよ。ここじゃだめ。
 妻にキスをしたら、いつも必ずその手が乳房を探して触れてしまうから。
 でも奥さんに止められたら、今日は場所が場所だけに、英児もちゃんと心得てその手を止めてくれる。琴子の胸元まで這い上がってくることはなかった。
『お母さん? どこ?』
 厨房から娘の声が聞こえ、やっとそこで英児が唇を離してくれた。
 慌てることなく、彼は琴子の目の前で落ち着いた様子で吸いかけの煙草を口の端にくわえる。
「今夜。俺より先に寝るなよ」
 大きな手が琴子の黒髪を撫でてくれる。『続きはベッドで』というお誘い……。琴子が静かに頷くと、颯爽とした身のこなしで滝田社長の顔で厨房に消えてしまう。
「おう、小鳥。母ちゃんならここにいるぞ」
 そういって娘とすれ違い、男の顔で英児は野郎共の賑わいに戻っていった。
 琴子もそっと気持ちを切り替え、母親の顔で厨房に戻る。
「なに。小鳥ちゃん」
「あのね……」
 娘の不審そうな眼差し。彼女はもう年頃の女の子、しかも男の子よりずっと敏感な。だから今度は琴子が目を逸らしたくなる。
「お祖母ちゃんとマスターじいちゃんが、熱い日本茶が飲みたいて。じいちゃんが動きそうになったから、お母さんにお願いしてくるから座って待っていてもらったの」
 十二歳なのに。自分を可愛がってくれた年老いた者を労る心に、我が子ながら感心してしまう。
「わかった。有り難う、小鳥ちゃん」
「手伝うね。もうお腹いっぱいだし、おじちゃんたち、車の話じゃなくて仕事の話になっちゃって難しくてわからなくなっちゃったし」
 ああ、そこはまだ子供なんだな――とも思ったりもする。
 それでも娘は父親似だけあって、ジッとしているのが嫌な性分。てきぱきと母親の隣に湯飲みを並べてくれる。
 そんな時、娘に言われる。
「お母さん。また父ちゃんがぎゅって抱きついていたでしょ。こっそり二人きりの時ってすっごく怪しんだもん」
 ああ、やっぱり娘はもう誤魔化せなくなってきたな――と琴子は苦笑い。
 でも娘は平然とした横顔で続ける。
「別にいいけどね。うちらが小さい時から、父ちゃんったら本当にお母さん大好きで、なにかっていうとぎゅって抱きついたりしていたもん。でもほんっとにどこでもするんだもん」
「えーっと、そうなんだけれど。ほら、お父さんは言葉より動いちゃう人だから」
 なるべく子供達には、肌をまさぐるような瞬間は見られないよう英児自身も気遣っていたはず。それでも小鳥はもう誤魔化せないようで、『パパはすぐにママにちゅっちゅするし、ぎゅって抱きつくし』と分かり切っているようだった。
 先ほども、訳もなく暗い外に二人きりでいた――。それだけで娘は、また父ちゃんがこっそりお母さんに抱きついて熱くなっていたと察してしまったよう。
 だけれど。そんな大人びてきた娘を見て、今夜は琴子も腹をくくる。
「じゃあね。小鳥にはこっそり教えてあげるね。女の子同士のヒミツよ」
 『ヒミツ?』 娘が首をかしげる。琴子はそっと小鳥の耳元に囁いた。
「このお店に初めてお父さんがつれてきてくれた日に、そこの磯辺でパパとママは恋人同士になりましょうって約束をしたの」
 聞き届けた娘が『え、そうだったの!』と目を見開いてびっくりした顔。
「あ、だから。記念のお店だからここで結婚披露宴をしたの?」
「うん、そう。お母さんから無理にお願いしたの。どうしてもここでやりたいって」
「そうだったんだー」
「だから。ここが、お母さんもお父さんも大好きなの。思い出の場所だから。時々、恋人気分に戻っちゃうの」
「そっか、そうなんだ」
 娘が嬉しそうに笑ってくれる。
「聖児や玲児にはヒミツよ」
「うん。ヒミツ」
 女の子同士だから話せる『恋の話』。それが小鳥には、大人のママと対等に女の子との話を分け合えたと、なお嬉しいようだった。
「小鳥ちゃんも、素敵な恋をしてね」
 そう言うと、娘の目線があっという間に『新入り整備士のお兄さん』へ向かっていってしまう。そんな人目も気にする間もない、素直な乙女心。
 でもその娘がそっと琴子に呟いた。
「父ちゃんのハチロクにすぐには乗せてもらえないかもしれないから、私、それまではMR2に乗ってみようかなー、なんて」
 そう教えてくれる娘。
 この瞬間。琴子は娘があの生真面目な青年に恋心を抱いていると、確信してしまう。
 そして娘がさらに付け加えた。
「私がMR2に乗りたいって話もヒミツなんだ。お母さん、お父さんには私が言うまで絶対に教えないでね」
 思春期を迎えたばかりの少女らしさが伝わってきた。MR2を乗ることで、あのお兄さんを気にしていることを、小鳥は遠回しに琴子に伝えてくれている。
 まだはっきり恋をしていると言えないお年頃だからこそ……。
「わかりました。女の子同士のヒミツ、ね」
 女の子同士のヒミツ。それを娘と分け合う。母娘でも『女心』は一緒。だからこその『ヒミツの約束』。
「あ、オカミさん。ノンアルコールのビールが切れちゃったんですよ」
 女の子同士のヒミツの空気にそっと切り込んできたのは、MR2の翔兄さん。
 すぐに娘が緊張した顔になった。
「もうないなら、俺がそこのコンビニまで買いに行ってきますけど」
「ううん。ちゃんとストックがあるわよ。小鳥、冷蔵庫にあるから教えてあげて」
「……わかった」
 気後れした様子で、娘が厨房の大きな冷蔵庫へと彼を案内する。
「あ、いいぞ。小鳥。俺が持っていくから」
「ううん。手伝う」
 両手にノンアルコールのビール缶を抱え、娘は翔と微笑みながら行ってしまった。
 ――初恋、なのかしら?
 そこは母でも不明。おませな女の子はもっと前から、お気に入りの男の子がいそうなものだから。
 でも。この恋心はずっと大人に近い気持ちで、娘の胸を熱くしているのがわかってしまう。
 
 女の子同士の、ガールズ・シークレット。
 この日のヒミツのまま、数年後、小鳥は翔から譲り受けた青いMR2に乗って外に飛び出していくことになる。
 それをじっとどこまで見守れるのか、琴子ママは今からドキドキしている。

 

 

 

 

Update/2012.2.17
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