× ワイルドで行こう【ファミリア;シリーズ】 ×

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 5.リトルバード・アクセス《2》 

 

 授業が終わるまで、気が気じゃなかった。
 やっと終わって急いで教室を出ようとしたら、先生から『一緒に行くか』と声をかけてくれる。
「なんで、おまえ達までついてくるんだよ」
 小鳥と先生の後ろを、数名のクラスメイトがなんだかおもしろがってついてくる。その中には花梨ちゃんと、隣を一緒に歩く竜太も。
「先生も龍星轟は知っているけど、店長の車ってやっぱり格別だな。男心になんかこうくるわ」
 父親よりもうすこし若い世代の日本史先生も、親父さん仕様の新GT−Rを見てなにか感じてくれたようで、小鳥もそれは嬉しい。
「滝田はどんな車に乗りたいんだ」
 先生に聞かれ、小鳥は迷わず答える。
「父が愛蔵しているトヨタのレビン、AE86を譲ってもらうのが夢です」
「80年式のハチロクも持ってるのか、親父さん!」
「しかも、赤なんです」
「赤かー! レビンってかんじだなあ」
 父親世代の男性は車の話が好きな人が多い。車に夢があったんだろうなと小鳥は思う。
 だが和気藹々と和んだのはここまで。
「さて。親父さんはなんで来たのかなー」
 先生もちょっと億劫そう……。小鳥も苦笑い。たぶん、先生達も『元ヤン親父』と知っているだろうから、きちんとしている琴子母が抑えられなかった突撃がどのようなものになるのか。そう考えるだけで心穏やかではなくなることだろう。娘の小鳥がこれほど構えているのだから、他人様だったら余程のことだ――と思ったりする。
「お前達。こんなところで固まっていないで、教室に戻れよ」
 先生がひとまず、ついてきたクラスメイトを追い払うが、彼等もそれなりにしか散らない。
「小鳥ちゃんー。お父さんに怒られたら私も呼んでね」
 元々は花梨ちゃんの気持ちに感情移入したことから始まったこと。花梨ちゃんは龍星轟にもよく遊びに来ているので、父の英児もよく知ってくれている。逆に花梨ちゃんも『元ヤン親父』の気性を肌で感じているので、『怒ったら怖い人』と分かったうえで、こうしてついてきてくれたのだろう。
「滝田、俺も。俺が感情的になったから」
 喧嘩相手の竜太も申し訳なさそうだった。
 だが小鳥は真顔で返す。
「うちの親父さんを知らないんだったら、会わない方がいいよ」
 『元ヤン親父』だからね。
 平気な振りで笑って見せたが、小鳥の心臓は徐々にばくばく脈を打ち始めていた。
 先生ががらっと職員室の戸を開けた時、すぐに『父、英児』の姿が見えてしまった。
 先生達の机が並ぶ向こう、窓際の明るいところにある応接ソファー。そこにグレーのスーツを着込んだ父が大股開きでどっかり座っていて、でも膝に両手をついてぐったり項垂れている。
 正面には既に教頭先生が向き合ってくれていて、でもそんな父の様子はまるで『先生、申し訳ありませんでした』と頭を下げたきりあげようとしない姿にも見えた。
 それは本当なのか。項垂れている父と向き合っている教頭先生が困り果てた顔をしている。
「あ、勝浦くん。小鳥さんを連れてきてくれたんだね」
 日本史の先生と一緒にいる小鳥を見て、何故か教頭先生がほっとした顔に。
 だが父はまだ項垂れたまま。
「小鳥さんもこちらに来てくれるかな」
 教頭先生に手招きをされ、小鳥も『はい』と返事をして窓際のソファーへ向かう。
 そこへ辿り着いても、親父さんは小鳥にも顔を上げてくれない。
「先日のことを詳しく聞きたいといらしてくださったので、お母さんにお伝えしたことと同様にお話しをしたのだけれどね……」
 先生が困っている顔を見て、小鳥もわかった。母が『承知しました』と納得した事情を、父は同じように納得することができなかったのだと。
「お父さん。お母さんから聞いてきたの」
 そう声をかけた途端だった。うつむいていた父がやっと頭を上げたかと思うと、幼い時から『この時だけは』という『ガン』を飛ばしてきた。
 小鳥だけじゃない、隣にいる教頭先生もビクッとしたのが伝わってきた。つまりそういう眼。元ヤン男特有の、眉間にバリバリのしわを寄せ、この上ない眼力で下から睨み付けてくる!
「おい、オメエ。ずいぶんと清々しい顔してんじゃねえか」
 さらに小鳥の全身にぞわっとした冷気が駆け上がってくる。
 いつもガハハと笑い飛ばしているおおらかな父ちゃんが、本気で怒るとどれだけ怖いか。娘の小鳥は父親に対して『それだけは』避けていきたいと気をつけている。
 今回のことも、琴子母が収めてくれたから、信用している母親のところでなんとか鎮まったなら『俺の出番はナシ』で流すだろうと思っていた。
 だけれど小鳥の心の奥でこうした問題を起こした時、『俺の出番はナシ』で済むか済まないかを確かめてからではないと『すっきり終われない』ところもある。それでもほとんどの場合は、琴子母の段階で収まったら『オメエ、気をつけろや』とか『人様に迷惑ばかりかけんなや』など、やや強面でも軽い一言で締めくくってくれていた。
 今回も最後はその程度と――。
 だけど。違った。今回の父ちゃんはけっこうキテる。マジギレしてる!?
 『お父さんが本気で怒っている』! それを悟った小鳥が一気に強ばり言葉を失った様子を察知した教頭先生が割って入ってくる。
「あのお父さん。小鳥さんは反省をしておりますし、小鳥さんのお母さんも先方のご自宅まで足を運んで、そちらの親御さんも了承してくださいまして、子供同士でも解決しているんですよ」
 だが。そこでスーツ姿の父がすっと立ち上がった。
 小鳥の前に立ちはだかっている教頭先生の真ん前まで迫ってくる。
 普段は油とか泥埃で薄汚れている親父さんだけれど、今日のようにスーツを着てきちんとすると、その佇まいにグッと威厳と男の格を醸し出す。そんな親父さんは、『いいとこのお嬢さん』と言われていた品良い琴子母の隣に並ぶと本当にお似合いの夫になる……と皆が言うし娘でも密かにそう思っている。その雰囲気を、いまここで一気に放った。
「先生、誠に申し訳ありません。親父、娘共々、ご迷惑かけます」
 小鳥の前にいる教頭先生に深々と頭を下げた。だけどその次だった。
「おら、オメエ、こっちに来いや」
 背丈のある父親の手先が、自分より小柄な教頭先生の肩をすり抜け、ガシッと小鳥の胸元を掴みあげてきた。
 もう小鳥は停止状態。もちろん、言い返したいこと沢山ある。でも、でも、親父さんのこの眼、この顔、そしてこの怒り方をされたら、娘の小鳥に対しての雛のすり込みと言えばいいのか、この状態に追い込まれると幼い頃から何も出来ない状態に追いやられる。
「わ、お父さん。待って、待って!」
 噂の『元ヤン親父』の襲撃。やっと一筋縄でいかないことに気がついた教頭先生の青ざめた顔。娘の襟元を締め付けんばかりの親父の大きな手に、今度は先生が掴みかかってきた。
 だけど、父・英児の勢いは止まらないし、そんな制止など聞こえていない。
「オメエ、余所様の大事な可愛いお嬢さんにどんな不幸を起こすところだったのかわかっているんだろうなあ!」
 うわー、お父さん。落ち着いて!
 滝田さん、せめて、そのお嬢さんと掴んでいる手、離してあげて。
 そんなお父さん。小鳥さんだって……。
 教頭先生だけじゃない。一緒に来てくれた日本史の先生も、職員室にいた女の先生も『これはただことじゃない。教頭だけでは無理』と集まってくる。
 そこで父・英児を制しようとよってたかって声をかけるのだが、父の目線は娘の小鳥から一切ぶれない。
 小鳥が見る限り、父にとって、いまここは『職員室』ではなく、『俺と娘がここいちばん向き合う大事な瞬間』になっているよう。そうなったらこの親父さんは後先構わず、まっしぐらに向かってくる。娘だからわかる、似ているからすごくわかる。だから一気に小鳥の額に汗が滲んだ。
「澄ました顔してねえで、言いたいことあるなら、言ってみんかい!」
「わ、わかっているよ。ほんとに悪かったと思ったから、彼女のお母さんにも会って謝った。こんな騒ぎを起こした自分の落ち着きなさも情けなく思っているし……、高校に入ったらお母さんに迷惑かけないようにしようと思っていたのに、こんなになって。お母さんにも悪かったと思ってる!」
「それ、マジで心底から言っているんだろうな?」
 眉間に深い皺を刻み込み、この上ない鬼父の眼力で睨まれた小鳥はコクコクと無言で頷く。
 だけど、そこで親父さんが小鳥の本心をあぶり出すようなことを言いだした。
「だったら。オマエの『落とし前』は、運転免許の取得は来年の五月以降だ。わかったか!」
 やっと、そこで父が手を離してくれた。だけれど、小鳥はよろめいた。力が抜けて、ついソファーの背に手をついて項垂れてしまう。それだけ『愕然』とする通告だった。
 小鳥は早生まれの二月生。卒業間近にやっと免許を取りに行くことが出来る。それを心待ちにしていた。大学に合格したらすぐに教習所にいく。ずっとずっと夢見てきたことのひとつだったのに――。
 それを、大学に入学してから? 同級生が次々と免許を取って車に乗り始めても、誰よりも車が好きな車屋の娘である小鳥はまだ乗れない? しかも四月じゃなくて、五月って……! 誰よりも先に車で飛び出したいと思っていたのに!?
 そしてそれは、そこにいた日本史の先生がすぐに理解してくれた。
「お父さん。お言葉ですが、小鳥さんは車屋であるお父さんの娘さんらしく、車がとても好きですよ。そしてもうすぐ運転が出来るとどれだけ楽しみにしているか」
 だが今度の親父さんは、静かに入ってきた勝浦先生にはとても落ち着いた大人の顔で向き合う。
「だからですよ。先生。こいつがいちばん好きなものだから、そこでケジメをつけて欲しいんですよ」
「ですが。小鳥さんは直ぐに相手の生徒を保健室に連れて行きましたし、当人にも懸命に詫びましたし……」
 勝浦先生も小鳥の真摯な姿を留守だった父親に伝えようとしてくれている。
 だけど。先生達の助け船はとても心強いけれど、なにも助けにならないことを小鳥にはわかっていた。親父さんは一度言いだしたら絶対に譲らない。
 そして『希望を取り上げられて』、小鳥自身、やっとやっと親父さんが何を言いたいか解ってしまったから……。
「ごめん、父ちゃん……」
 ついに涙がこぼれてしまった。
「ずっと大事にしてきたこと、無くしちゃったら。ほんとにこんなに哀しいんだね」
 普段はキッパリ強気な女生徒である小鳥が涙をぼろぼろとこぼすのを先生達は気の毒そうに眺めているだけに。
「やっとわかったか。バカヤロウ。あちらのお嬢さん、三歳からずっとピアノをしてきたそうじゃねえか。今回は『大事にならなかっただけ』じゃねーよ、もしかしたら、大好きなピアノが出来なくなる手に『なったかもしれない』じゃなくてよ、『なるところだった』んだよ。何事もなかったから、向こうのお母ちゃんも穏便に済ませてくれただけで、『なっていたら』こんなもんじゃ済むはずないだろ。オメエ、もし彼女に決定的な傷を負わせていたら、一生、オメエが背負って生きていくことになったんだぞ。それでテメエは好きな車を楽しい気持ちで乗り回せるのかってことだ。手だけじゃねえよ、顔とか身体に一生残る傷でもついたらどーするんだよ。嫁入り前だぞ。俺だったら発狂するわ」
 ――俺の娘がそうなったら、発狂する。
 そこに父の大きな愛があることを、そして、同じようにピアノの彼女の親御さんもそれだけ本当は心配して発狂したかったんだと染みいってくる。
 親父さんが、あちらのお嬢さんを『大事な可愛いお嬢さん』という言い方をしたのは、かえせば、自分の娘もそう思っているという、そういう言い方だったんだと気がついた。
「……わかった。五月まで免許取得は待つ」
 納得したからそう返事をしたのに、周りにいる先生達が一斉に息を呑んだのが伝わってきた。
「お、お父さん。もういいでしょう。小鳥さん自身がここまで反省をして、なにがいけなかったのか、お父さんが伝えたい真意もここまで理解できたんですから」
 日本史の勝浦先生が『考え直してください』と父に訴えてくれるが、父は首を振る。
「学校でお騒がせしておいて申し訳ないのですが、これが『俺のやり方』なんです。娘の気持ちを大切にしてくださる先生のお気持ちは父親としても嬉しいです。有り難うございます」
 娘には元ヤン親父風情バリバリに追及しても、先生達には毅然とした父親の落ち着きを見せるので、ついに先生も口をつぐんでしまった。
「小鳥。父ちゃん、その子に父ちゃんから謝りたいんだよ。俺にもケジメつけさせろや。そうじゃなきゃ、車の整備なんて出来ねえんだよ。もやもやしたまんま、客の大事な車なんて触れねえ」
 小鳥も頷き、涙を拭いた。
「わかった。彼女のクラスまで一緒に行く」
「頼むわ」
 父娘が一体になったのを見た教頭先生がホウと大きな息を吐き、構えていた肩をすっと落とした。
「では。私もご案内しますので」
 教頭先生自ら、父の先を笑顔で歩き始める。
 日本史の先生と、間に入ってくれた先生達に親父さんが一礼すると、こちらの先生達はまだまだ戸惑いを滲ませたまま送り出してくれた。
 
 職員室を出ると、そこにはクラスメイト……だけじゃない、なんだか来た時より多い人だかりが出来ていてびっくり。
 その一番前にもう涙で濡れている花梨ちゃんが立っていた。
「あの、お父さん。小鳥ちゃんがガラスを割ることになったのは、言いたいことが言えなかった私のせいなんです」
 だけど、スーツ姿の父は、顔なじみの花梨ちゃんにはいつもの白い歯を見せる笑顔を見せた。
「花梨ちゃん。もし花梨ちゃんがキッカケでもよ、その後のこいつの行動の取り方がいけねえ。花梨ちゃんのことと、小鳥がやっちまったことは別問題な」
「でも。聞こえました。小鳥ちゃん、お誕生日を迎えたら免許を取りに行くことすっごくすごくずっと前から楽しみにしていたんですよ。お願いです。それだけは許してあげてください」
 花梨ちゃんが深々と頭を下げても、彼女には気の良い親父さんだが首を振った。
「悪いな、花梨ちゃん。だけどケジメはつけさせたいんだわ。これはおっちゃんと小鳥の問題で、小鳥も納得したしよ」
 父が意志を確かめるように見下ろしてきたので、小鳥もきっぱりとした顔で花梨ちゃんに頷いた。
「いいよ。花梨ちゃん。私もそうしないと、すっきりしなくなったから。私がそう決めたと言えば、花梨ちゃんならわかってくれるよね」
「小鳥ちゃん……」
 親友の彼女だから、花梨ちゃんもそこで黙ってしまう。
「お父さん。小鳥さんは悪くないんです。俺が、女子の彼女にムキになって。彼女の手を弾いたせいで割れただけなんです」
 竜太も前に出て英児父に訴えてくれる。でも親父さんの返答は一緒。しかし、小鳥と共犯である男子には、あの元ヤン親父の目つきをみせた。
「男も女も関係あるか。喧嘩するなら場所選べ。ガキ臭い喧嘩すんな」
 あの竜太が親父さんに睨まれただけで、ビクッと固まったのもわかった。
「でも。車屋の娘だから、彼女は、だから、免許……」
 それでも竜太は、元ヤン親父の威勢に恐れながらも進言してくれる。
「うちの娘のことよりもよ、まずは母ちゃんだろ。母ちゃんを心配させんなや」
 その一言を言っただけで、竜太が項垂れた。そして……小鳥は見てしまう。そんな親父さんがあんな怖い顔をしていたのに、ちょっと哀しそうに口を曲げた顔を。
 ――『お父さんはね、病気だったお祖母ちゃんになにもしてやれなかったと今でも悔いているのよ』。
 会えなかった父方のお祖母ちゃんと親父さんのことを、琴子母がそう教えてくれた。だから親父さんは鈴子お祖母ちゃんをとても大事にして、同居するために二世帯住宅へと増築したぐらい。
 ――『お祖母ちゃんはいつもお父さんのことを心配してくれていたそうよ。だから、お父さんはお母さんを心配させたこと、とっても申し訳なかったと今でも思っているの』。
 竜太が母子家庭だということも既に知っていて、だからそんな顔になっちゃって『母ちゃんを大事にしろよ』と言っているんだなと小鳥もわかった。
 小鳥のケジメを、クラスメイトが気の毒そうに思っている顔が並んでいるのをみちゃうと、また涙が出そうになったが小鳥は堪えた。
「いくぞ、小鳥」
 ジャケットの裾と青いネクタイを翻す父が教頭先生の後ろを颯爽と歩き出す。
 小鳥も父の背を追う。同級生達はもう、ついてこなかった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 でも。なんとなく、小鳥もわかっていた。
 学校に、突然、知らない親父が教室までスーツ姿で謝罪に来ても、戸惑いしかないだろうって。
 
 ピアノの彼女は二年生。教室の廊下で眼鏡の彼女に向かって深々と頭を下げる『どこかの親父』を、今度は二年生達が廊下に出てきて眺めている。
 そして彼女も唖然としていた。
「うちの娘が、本当に申し訳ありませんでした」
「あの……」
「野田さん、ごめんなさい。もう一度、しっかり謝らせて。ピアノが出来なくなるところだったよね。本当にごめんなさい」
 父と一緒に並んで頭を下げた。
「えっと……」
 眼鏡の彼女がすごく困っている。
 さらに教頭先生が密かに苦笑いをしているのも小鳥の目の端に見えた。
 たぶん『大袈裟な親父さんだな』と思っているんだろうなと。小鳥だって本当のところは『恥ずかしい』……はずなのだけれど、親父さんの気持ちがわかりすぎてしまいそんな気になれなかった。
「親御さんにも午後、お詫びにいきます。ですけど、親御さんじゃなくて。ご本人にどうしても親父から詫びておきたかったので、押しかけてしまって申し訳ない」
「ほんとに、もう良かったんです。でも……その、有り難うございます」
 艶々した肩先までの黒髪、前髪はきちんとヘアピンでポンパドール風にしている眼鏡の彼女。地味だけど品がある、やっぱりピアノをずっとやってきた『お嬢様』だなと小鳥は感じていた。
「お父さん、ほんと、私も困りますし。母のところまで来て頂かなくて結構ですから」
「いえ。そういう訳にはいきません」
 彼女の困り果てた顔。周りには二年生が何事かと集まってくるし、注目の的になってちょっと頬が赤くなっていた。
「ええと。お父さん、そろそろ授業が始まりますので」
 教頭先生のかけ声で、父もやっと気が済んだようだった。
 だけど最後。眼鏡の彼女をじいっと見下ろしている。
 彼女もそれに気がついて、背が高い親父にじろじろ見られて恥ずかしそうにうつむいてしまった。
「お嬢さん。将来、絶対いい女になると、おっちゃんは思うな」
「は?」
 この親父、なにを言い出すの! 小鳥もびっくりして、父の黒い革靴を踏みつけたくなった。だけど親父さんはすっごい真顔。さらにちょっと頬を染めているのはなんなの?
「の、野田さん。ごめんなさいね。父ちゃん、なに言い出すのよ」
「あ、わりい……」
 そして親父さんがこそっと小鳥にだけ聞こえるように言った。
「だってよ。写真で見た高校生の時の琴子と似ているんだもんな、彼女。俺が高校んときに彼女がクラスにいたら、絶対に気になっていたわ」
 もう小鳥はぶっと噴き出しそうになった。しかも極めつけ。
「母ちゃんと同じ匂いがする。彼女、大人になったらいい女になるぜー」
 出た、『母ちゃんの匂い、大好き』。また匂い? しかも、女子高生にそれを感じるなんてサイテー! 
「お母さんに女子高生に反応したって言いつけてやる」
 だけど親父さんは落ち着いて笑っていた。
「おう、言ってもいいぜ。母ちゃんと同じ匂いがする女はみんないい女ってことだからよ」
 はあー、ぬけぬけと。この親父さんは女房に惚れてますってことをほんとあっけらかんと言い放つから困ったもの。
「滝田さんも、授業が始まるよ。お父さんは先生がお見送りするから」
 先生に言われ、小鳥は教室へ向かう階段で父と別れる。
「じゃあね。父ちゃん……。あ、お母さんから聞いてきたの? お母さん、止めなかったんだ」
 だがそこで父がさっと娘から目を逸らしてしまったので、思わぬ父の反応に小鳥は『え』と驚いた。
「えっと、まあ、そのだな」
 困ったように親父さんが頭をかく。それで小鳥はさらに驚いた。
「まさか。お母さんに何も言わずに、来ちゃったの」
「そのよう、空港から帰ってきて直ぐ、矢野じいから何があったか聞いてカッとなっちまって」
 うわー。『矢野じい』が犯人だったのか。小鳥は目元を覆って少しよろめきそうになる。
 父ちゃんの『親父さん』でもある矢野じい。今は龍星轟の『相談役』として現場監督みたいなことをしているけど、整備からはほぼ引退。だけど日々、事務所で龍星轟を見守っている。
 そんな龍星轟にとっても大事な存在だけれど、最近かなり『おじいちゃん』になってきてしまい、なにかあると直ぐに英児父に話してしまう。逆に英児父になにかあると、琴子母にすぐ報告とか。
 そっか。父英児を止められる人が誰もいなかったのか――と小鳥も親父さんがすっとんできてしまったこと納得。
 矢野じいもだめ、専務の武ちゃんも親父さんには最後には勝てないし――。今となってはこの『ロケット親父』を止められるのは琴子母だけ。
「もう、どうすんの。お母さんが帰ってきて知ったらどうなるか」
 そこでやっと、英児父が我に返った顔でビクッと背筋を伸ばした。
 それを見ていた教頭先生が、ついに我慢しきれなくなったのか笑い出していた。
「あはは、そうなんですね。いえね、私も嫁さんの尻にしかれていますから。わかります、わかります」
 だけど教頭先生は思っただろうな。『今度は絶対にお母さんの方にしっかり報告をして、お父さんを抑えてもらう歯止めになってもらおう』と。二度と元ヤン親父が襲撃してこない方法を知ったことだろう。
 ――今夜、まだ、荒れそうだな。
 ふと思った小鳥は、またため息をついた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 そして。娘の小鳥が思ったとおりになる。
 夕方。琴子母が二階自宅に帰ってきた時にはもう不機嫌だった。
 小鳥が思うに、龍星轟の事務所を通った時に『矢野じい』が報告したんだろうなと予測。
 むすっとした顔でキッチンでエプロンをすると、無言で夕飯の支度を始めている。
「お母さん、あのね」
 小鳥から学校であったことを話そうとしたのだが、そこで琴子母がキッチンでにっこり。
「小鳥ちゃんは何も心配しなくていいからね」
 この上ない微笑み。だけど娘の小鳥にはわかった。優しいママの笑顔じゃなかった。怒ってる、怒ってる。
 ひとまず、自分の部屋に戻ろうとすると、向かい部屋にいる弟の聖児が顔を出した。
「学校に父ちゃんが突撃したんだって? 二年の先輩に聞いた」
 聖児は同じ高校に通う一年生になっていた。
 しかも入学して暫くすると茶髪にしたので、これまた家族でひと騒動あったばかり。この時は琴子母が『やめなさい、やめなさい』と口うるさかったのだが、親父さんが『まあまあまあ』と緩和する側になった。当然、『茶髪、赤髪、金髪、メッシュ、剃り込み、リーゼント』なんて、一通りやった元ヤン親父の味方など通用するはずもなく――。
 いまはひとまず、一度好きにさせてみる――という方向性で父と母の間では収まったばかり。この時は親父さんが生真面目な琴子母をだいぶ宥めてくれたようだったが。
 そういうことがあった後の、親父さんの学校への勝手な襲撃事件。さて、今夜はどうなる?
「おう、帰ったぜ」
 龍星轟が閉店、父が二階に作業服姿で帰ってきた。
 小鳥が幼い頃から変わらぬ姿。薄汚れた整備手袋をテーブルに放って、真っ黒になった指先を眺めている父。この後、直ぐに手を洗いに行くのが父の習慣。
 だけど今日の父は、ちらっとキッチンにいる母を見た。
「あのな、琴子」
 そこでまた、琴子母があの怖いにっこり笑顔を浮かべた。
 流していた水道をキュッと止める母。
「英児さん。ちょっといいかしら」
「お、おう」
 手も洗わず、父は琴子母について夫妻の寝室へと連れて行かれてしまう。
 そこで弟たちが一斉に部屋から出てきて、小鳥がいるリビングまで集まってきた。
「うわ、どーなるの」
 末っ子の玲児がそわそわする。
「でもよ。父ちゃんは一度言いだしたことは母ちゃんにも譲らないから。姉ちゃんの免許取得延期は覆せないと思うな」
 茶髪の聖児は割と落ち着いた顔。
 そして小鳥は――。
 同じだった。琴子母が助けてくれても『自分で決めたこと』だから、母には『五月でいいよ』と言うつもりだった。
 でも。どうなる? 今夜の父ちゃんと母ちゃん。

 

 

 

 

Update/2012.6.12
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