× ワイルドで行こう【ファミリア;シリーズ】 ×

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 5.リトルバード・アクセス《4》 

 

 学校での休み時間。クラブ活動で使っている視聴覚教室にひとりで行って、こっそり東京土産のショップバッグを開けてみた。
 
 ほんとうに大人っぽい、でも小鳥でも抵抗感のないシンプルなワンピースが入っていてますます驚いた。
 黒くてシャープな、シャツ襟のワンピース。両胸のポケットがサファリ風で甘くないクールテイスト。これなら着たいと思った。でも仕立てから素材から、ほんとうの大人が着こなすものだと小鳥でもわかった。もしかするとママが着た方が似合うんじゃないか、と。
 でも、嬉しい。小鳥はそっとそのワンピースを頬に寄せた。だが、すぐに花梨ちゃんと竜太が険しい言い合いをしながら入ってきたので、小鳥は慌ててワンピースをバッグにしまった。
「なんだよ、先客がいるよ」
 竜太のチッという舌打ちに、小鳥もさっそく眉をひそめヤツを睨んでしまう。ああいう態度がいちいち気に入らないから、この前みたいな喧嘩に即発展しやすい。でも今日は我慢我慢。
「もういいよ。誰もいない静かなところで、ゆっくり話し合いなんていらないからっ」
 今度は花梨ちゃんがかなり怒っている。どうやら二人は誰もいない、でも馴染みのある部屋で二人きりで話し合うつもりで来たようだった。
 小鳥のクラブは『自動車愛好クラブ』。小鳥が立ち上げたものだった。これが結構、男子女子問わずにそれなりに部員が集まったので、週に一度、車の話を好きなだけする会になっている。そこで好きな車の画像を見るため視聴覚教室を使わせてもらっている。
 花梨ちゃんは興味はないけど、小鳥と一緒ということで部員になってくれた。竜太はこれまた花梨ちゃんが無理矢理に部員にさせたものだった。
「あ、いいよ。私、もう行くから。デジカメのファイルを持ってきただけだし」
 それなりの理由をつけて、二人きりにさせてあげようと思った。
 だけどそこで花梨ちゃんがいきなり言い放った。
「いいの、小鳥ちゃん。私、竜太と別れるってもう決めたの。なんといわれても決めたの」
 はあ? 別れる!? 
 小鳥はびっくりして、むくれている花梨ちゃんと不機嫌そうな竜太を交互に見た。
「小鳥ちゃんが、あんなに楽しみにしていた免許取得を延期にしたんだもん。私だってケジメつける!」
「わ、ちょっと待って、花梨ちゃん。だからって大好きな竜太と別れることないじゃん!」
 わけわかんない!? あんなに竜太が好き好き言っていたのに、ケジメで別れるってなに? 彼氏なんていたことがない小鳥には理解不能!
 でもそこで、やっと……花梨ちゃんが泣き顔に崩れた。
「だって。竜太……本当は私のことなんか好きじゃないもん」
「だから、そうじゃねえっていってんだろ。わりい、滝田。花梨と二人きりにしてくれ」
「う、うん。わかった」
 竜太は別れる気がないようなので、小鳥もひとまずほっとし二人きりにした。
 でも。その後も二人はぎくしゃくしていてそのまま放課後に――。それでも二人で下校する姿も見たので、その日は小鳥もそっとしておくことにした。
 
 今日、帰ってきたらいいことがあるからな。
 
 ひとりで帰宅途中、バスの中。上空を横切っていく東京行きのジャンボ機を眺めながら、小鳥は今朝のことを思い出していた。
「なんだろ。このお土産だけで、いいことだったのに。まだなにかあるのかな」
 このワンピース、どうしよう。着こなせるかな。お母さんに見てもらおうかな。弟たちにからかわれそう。似合わないって。父ちゃんも『高校生のくせに、まだそんな格好せんでええわ』とか言いそう。
 大学生になったら着ようかな?
 嬉しいのに、どうして良いかわからない、大人のお土産にひとりで戸惑っている帰り道。
 心はくすぐったくて、でも、ちょっと困っていて。だけどドキドキ。これを着て、お兄ちゃんのMR2の助手席に乗って、ドライブに連れて行ってもらいたいな。そんなささやかな願望を抱いて。
 それでも、いいことってなんだろう?
 いつものバス停で降り、少し先にある龍と星が壁面に描かれている店先へ向かって歩く。
「ただいまー」
「おかえり、小鳥」
「おかえりなさい、嬢ちゃん」
「おかえりなさい! 小鳥ちゃん」
 様々な男達の声が小鳥に届く。
 いつもの龍星轟。子供の時より、従業員が増えた。もう超ベテランの清家おじさんと兵藤おじさんは健在。矢野じいが引退してから引き抜かれてきた中堅のおじさん二人と、すっかり馴染んだ翔兄。そして近頃入ってきた若い男の子二人。
 そのスタッフ一同が、今日も龍星轟のガレージと店先で、龍星轟ワッペンのジャケット姿で整備に勤しんでいる。
 だけど、今日は事務所の正面に、真っ青なMR2が駐車してある。翔兄の車だった。
 いつもピカピカだけれど、磨いたばかりなのかもっと光り輝いてそこに置かれている。
 従業員の車が営業中に堂々と店舗敷地に停めてあるのは珍しいことだった。
 事務所の社長デスクには、親父さんの姿。今日もパソコンモニターを眺めて、あれこれ考えている眉間にしわを寄せている顔。その親父さんと目があった。
 その途端、親父さんがデスクから立ち上がり、事務所のドアを開けて出てきた。
「おう、小鳥。おかえり。ちょっとこっちに来いや」
 またまたそんな強面で真剣な顔つきで呼ばれると、小鳥はまた硬直する。
 なになに。今日はお騒がせなんてしてないよー?
 しかも仕事中の事務室に呼ばれるのも珍しい。
 事務室には武智専務と矢野じいがいた。そして翔兄も。
「おう、小鳥! 帰ったか! 聞いてくれよ、聞いてくれよ。小鳥、お前、良かったなー、良かったなー」
 入るなり矢野じいが小鳥に飛びついてきた。
「な、なに。矢野じい」
「あのな、あのな。お前さ、前からさあ」
 すっかり気の良いお爺ちゃんになっちゃった矢野じいが、これまたすぐに何かを喋ろうとしているからなのか、親父さんがそこで割って入ってきた。
「おい、クソジジイ! なんでもかんでもジジイが報告すんな! ここはジジイじゃなくて、翔だろが」
 親父さんの低い声が事務室に響くと、今でも翔兄も武ちゃんもびくっとした顔になる。だけれど、矢野じいを止めるのはこれぐらいの気迫がないと親父さんでも敵わない時がいまでもあるから、こうなってしまう。
 その効き目があったようで、矢野じいもハッとした顔になる。
「そうだった。わるい、わるい。じいちゃん、ちょっと嬉しくなっちまってよお。よっしゃ、善は急げ。翔、言ってやれ!」
 矢野じいの調子の良い『行け!』の手合図に、翔兄がちょっと苦笑い。だけど直ぐに小鳥を見てくれる。朝と同じ、それまで従業員として涼やかに保っていたクールな目元が優しく緩む。
「俺、車を乗り換えることにしたんだ。あのMR2、小鳥が継いでくれたらいいなと思って。滝田社長に引き取ってもらうことにしたんだ。つまり――」
 そこまで聞いただけで、もう小鳥の心はこのうえなく震えていた。
「つまり。あのMR2は、小鳥の車になるってことなんだ。いつか俺が乗らなくなったら、私が乗りたいって言っていただろう」
「あの車が、翔兄ちゃんの車が。私の車になるの?」
「そうだ。大事に乗ってくれよ」
 ほんとうだ、本当にいいことがあった! 
 言葉にならないほど茫然としている小鳥のこの上ない喜び。それを矢野じいも武ちゃんも、そして親父さんも。今日はおなじように笑顔で感じ取ってくれている。
 その親父さんがさらに付け加えた。
「お前が成人するまでは俺の名義な。けどよ、今日からお前に任せるわ。業務の妨げにならない程度に、矢野じいと翔から手入れに整備を叩き込んでもらえ。もうお前の車だ」
「ほんと、父ちゃん――。ほんとにいいの」
「ハチロクは譲れねえけどよ。それ以外にお前が乗りたいと望んでいた車だろ。お前は車屋の娘だ。龍星轟のステッカーを背負って走ることもわすれんなよ」
 だから、どの車よりもマジピカにしてばっちり手入れしておけ。親父さんからの本気のお達しに、小鳥はやっと笑顔になる!
「ありがとう! お父さん!」
 昨日は、夢の免許取得の延期を言い渡した親父さんが、今日は小鳥にパパの微笑みを見せてくれる。
「礼は俺じゃねえだろ。翔に言えよ」
 勿論と、小鳥は翔に深々と頭を下げる。
「翔兄ちゃん、ありがとう! 私、大事に手入れして、大事に走るからね!」
「俺も小鳥なら安心して、次に乗り換えられるよ」
 そして翔兄はそこでちょっと寂しそうにMR2を見た。
「この龍星轟に来てから乗った車だから、思い入れが強いんですけどね……」
「そうだろ。一度乗った車はやっぱ手放せねえな」
 親父さんもそんな翔の気持ちに同調しているように、どこか切なそうにMR2を見た。
「ありがとうな、翔。大事に乗っていたもん、うちの娘の為に」
「いいえ。そろそろ乗り換えようとしていたことは、社長もご存じでしたでしょう。ちょうど状態が良いスープラが見つかったので、この機を逃さないでおこうと思います。俺は社長みたいにまだ二台、三台と所有する甲斐性ないですから」
「次はスープラか。アイツ、けっこう重量型だからよ、コーナリングが鈍くなる。正直、峠向きじゃないぞ」
「重いスカイラインで峠を走ってきた社長がそれをいうんですか。いいんです。俺の場合は高速の直線が好きなんで。来月にはそのスープラが来るので、それまでにMR2引き渡しの準備をお願いします」
「おう、それまでしっかりアイツと走っておきな」
「はい」
 車好きな男達の愛ある会話。小鳥は幼い時からそんな男達の姿を見て育ってきたから、その気持ち、とても伝わってくる。
「翔、小鳥を乗せて走ってきたらどうだい」
 そう提案してきたのは武ちゃん。いつもどおり眼鏡のにこにこ笑顔で、とんでもないことを言い出すから小鳥もびっくりする。
「そうだな。小鳥、翔に運転してもらって、相棒がどんなヤツか確かめてこい。翔、頼むわ。二時間ほど時間やるからよ」
 親父さんまでそんなことを言いだしたので、小鳥は唖然としてそこに突っ立っているだけ。
「わかりました。自分の車だと体感するしないでは、整備する時のイメージも違いますからね」
「おう、そりゃいいな。じいちゃんもそう思うわ。行ってこいや。小鳥」
 翔兄も矢野じいも。そこには男と女が二人で出かける――という感覚を持っている人はいないよう。MR2の先輩オーナーと後輩オーナーの、引き継ぎ儀式に行って来いと言ってるようなかんじだった。
「小鳥、行こう」
 大好きなお兄ちゃんからそんな誘い。しかも助手席――。
 そうだ、あのワンピースを着て乗りたいな――と、一瞬だけ思ったけど。
「うん。行く!」
 鞄とバッグを親父さんに渡し、小鳥は制服姿のまま翔と一緒に事務室を出た。
 青いトヨタ車に乗り込んで、親父さんの見送りで龍星轟を飛び出す。
「ついにコイツと別れる時が来たか」
 ステアリングを握る大きな手、指先が親父さんと一緒で汚れている。そして来た時より逞しく太くなった腕がギアをローからハイに切り替え、長い足がクラッチとアクセルを巧みに踏み込む。
 空港海沿いの国道をぐんっとMR2がエンジン音をあげて、軽やかなのびで風のように走り抜けていく――。
「スカイラインGTRより軽快なかんじがする」
「あはは。親父さんのR32GTRは剛力な装甲車だもんな。大きめの車体を馬力で動かすタイプ。マツダのRX−7の軽さとは対極。あれはあれですっごい憧れ」
 運転席で爽やかに八重歯の笑みを見せる大人のお兄さんを眺めているうちに、小鳥は気がついてしまう。
「お兄ちゃん。本当は、まだ乗り換える気なんてなかったんじゃないの。私が免許をすぐに取れなくなっちゃったから、その替わりになるように、もしかして……」
 小鳥の問いに、彼の笑みが少しだけ消え、神妙な横顔になる。
「いや。小鳥が大学生になったら譲ろうと思っていたんだ。その為に次の車を探していたところだし」
「これでよかったのかな。本当はまだMR2に乗っていたかったんじゃないの」
「車屋として、他に乗りたい車だっていっぱいある。愛着あって離れたくないのは小鳥だって親父さんや整備部長達を見て知っているだろ。親父さんのように何台も所有できるのは希なんだから」
「そうだけど」
「もうスープラを買い取る契約は進めているから、この車は小鳥の車。わかったな」
「はい」
「だから。免許取得延期でも、大学受験とか整備とか頑張ってくださいよ」
 ちょっとふざけたお兄ちゃん的な言い方に、小鳥ももう笑っていた。
「うん。大丈夫。来年、この車に笑って乗れるように頑張る」
 やがて、翔が運転する窓には長々と続く海岸線。潮の香がふわっとMR2の中に広がる。そして……翔兄の髪の匂いも。男らしいスッとしたミントのような匂い。その匂いに小鳥はまたときめいている。
 小鳥も、そっとポニーテールに結っているヘアゴムを取ってしまう。小鳥の胸の下から腰まですとんと落ちる黒髪が、すぐに潮風になびいて窓から出て行きそうになったので慌てて手で押さえた。
 がっちりとしたダイバーウォッチをつけている逞しい腕でステアリングを握り、ひたすら前を見据えている翔兄が静かに呟いた。
「また伸びているな、小鳥の髪」
「うん……。いつ切ろう」
「そのまんまでいいだろ」
 そうかな。お兄ちゃんがそういうなら。私の唯一女らしいと思っているところだから、そのままにしておこうかな。小鳥は胸の中でそっと呟く。
 さらに、店で保っているような涼やかな目元になった翔兄は、海辺の道を遠く見つめて言った。
「……オカミさんに似てきたな、小鳥」
 お母さんに似てきた? 小鳥は言われたこともない、でも言われてみたいことを言ってくれる男の人をそっと見上げる。
 耳元で外に軽く跳ねているくせのある彼の毛先が潮風に揺れている。一重の目元はそうしていると少し鋭いけれど、男らしい眼差しで、もうずっとずっと前から小鳥はこの眼に恋をしてきた。
「俺が龍星轟に来た時は、そんな匂いなんてしなかった。お前、もう子供じゃなくなるんだな。きっとオカミさんみたいな女になれるよ」
 もう、小鳥の身体は熱くなっていた。匂い。小鳥にとって『匂い』は男女を意味する。両親が常にそれを間に挟んで愛しあっている姿を見せられてきたから。
 いつか、好きな人に言って欲しい。『女のいい匂い』だと、言って欲しい。そう思っていた。
 お前、女の匂いがするようになってきたな。
 好きな人がそれに近いことを言ってくれた。まだ制服姿の、お転婆な、子供のような女の子に。
 でも小鳥も感じている。ちょっと前まで大学を卒業したばかりの爽やかな好青年だと思っていたお兄ちゃん。いつのまにか大人の男の匂いをすぐ側で放っている。それはどこかで感じた匂いに似ている。
 お兄ちゃんは、気がついてるのだろうか。自分も男の強い匂いを、いつだってふりまいていることを。
 でも。お兄ちゃんのこの匂いは、他の女性のもの。

 

 

 

 

Update/2012.6.27
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