だけど雅彦おじさんは、そこまで話が済むと、腕を組んでステッカーの原案画像を眺めたまま黙り込んでしまう。
―◆・◆・◆・◆・◆―
母も昔からお洒落だった。本多のおじさんと並ぶとお似合いだったのでは。
もう夏も目の前。白いブラウスの胸元には紺色白色ストライプのスカーフ、生成の麻スカートには赤い細ベルト。初夏を意識したマリンルック風の母。
その母の後をついて事務所の駐車場にある、銀色のフェアレディZまで。母の運転で途中のスーパーで一緒に買い物をして龍星轟まで帰宅する。
母のフェアレディZが店先に現れると、男達の『オカミさん、おかえりなさい』、『おつかれさま』という声が飛び交う。
ガレージには何台もの車。その中を母は片手でハンドルを操作しながら器用にバックして、狭い場所にいとも簡単に駐車してしまう。
父の運転も惚れ惚れだが、見かけが大人しそうな奥様な琴子母でもハンドルさばきはなかなかのもので、小鳥はそんな母のように早くなりたくてうずうずしてしまう。
「おう、おかえり。琴子」
龍星轟ジャケット姿の親父さんがガレージに姿を現す。
「ただいま。英児さん」
母の姿を見ただけで嬉しそうな父は、薄汚れている作業着姿でも白い歯を見せ爽やかに微笑む。こういう時、小鳥は父から『男』を感じる。
琴子母を見る時のその顔が、いつまでも彼女を愛おしむ彼氏のようで……。そして母も……。『英児さん』と呼ぶことが多い。
「ん? 小鳥も一緒だったのか」
「本多君のところに来ていたの。ステッカーの話をしていたみたいよ」
母には帰り道に『おじさんがステッカーを作ってくれる準備をしてくれていた』と報告してある。すると親父さんも驚いた顔をしたかと思うと、感慨深そうに表情を崩した。
「本多君。覚えていてくれたのか」
親父さんも、雅彦おじさんとのいつかの会話を思い出しているようだった。
「おじさん。何も言わなくても、私が望むデザインをもう考えて用意してくれていたんだよ」
「マジで……。どんなもんだった、それ」
うんと可愛いクールなガーリー、そして天使……だと思ったら、普段の自分とは違うのでちょっと小鳥は恥ずかしくなってきた。
「出来上がるまで内緒。まだ原案だから」
「なんだよ。気になるな」
親父さんが黒髪をかきながらむくれた。だけど、すぐにポケットから携帯電話を取り出して親父さんは呟く。
「俺からも礼を言っておくわ。そろそろ夏限定のステッカーのデザインも決めたいし」
即行動の親父さんは電話をかけると、そのままガレージを出て行ってしまった。
『ああ、本多君。今日はうちの娘が……。いやいや、いつもありがとう。ステッカーの話を聞いたんだけど。……うん、そうなんだ。あっという間だよな、ほんと、ガキがでかくなるのは……』
オヤジ同士の、良くある会話。でも親父さんも声を立てて笑って楽しそうだった。電話の向こう、雅彦おじさんはどんな顔で話しているのだろう。
『親父さんは、男の中の男だよ。あの人を嫌いになりたい人なんていないんじゃないか』。雅彦おじさんの言葉を思い出す。龍星轟の滝田社長はそういう人……。沢山の人がこの店に来る。オフでも父のかけ声で賑やかに集う。
そんな雅彦おじさんがデザインする龍星轟のステッカーは、季節限定で年に四回限定品を作る。整備してくれた人や商品を買ってくれた人にそのステッカーをプレゼントするが、小売りもしている。雅彦おじさんのデザインが気に入った人が、気に入ったデザインをその時の気分で選んだりしている。
事務所にはそのステッカーの販売棚も設置してあり、ちょっとしたアート展みたいになっている。小鳥が生まれる前から、もう二十年近く。そのデザインの数もかなりのものになっている。
「お母さん。今年の夏のステッカーの原案はもう見せてもらったの」
スーパーの袋を小鳥も一緒に持って、母とガレージを出る。
「ううん。全然。本多君たら、ほんと、ギリギリまで決定してくれないというか……。スケジュールに対してのらりくらりするからね」
琴子の管理で俺の仕事がまともに動く。いつかおじさんがそう言っていたことを思い出す。時間を忘れてしまう人だから、どうもそんな感じだなあと小鳥も思った。
「あら」
ガレージを出ると、母が立ち止まった。隣は整備をするピット。その入り口に、見慣れない女性が立っていた。
「お邪魔いたします」
品良く艶めく栗色ロングヘア。そして母と同じような上品なブラウスに大人っぽい上質そうなストールを首元に巻いているOL風の女性がそこにいた。
そして母が思わぬことを言った。
「いらっしゃいませ。桧垣君を待っているの」
桧垣君――、翔のことだった。そして小鳥は、しっとりしとやかなその大人の女性を見て悟った。
――お兄ちゃんの、彼女!?
「約束をしても、いつも時間を守ってもらえないので。今日はこちらから伺ってしまいました。業務中にお訪ねしてしまい、本当に本当に申し訳ないと思っております」
「いいえ。いつもこちらばかりに時間を割かせてしまって、ごめんなさいね」
どうやら母と彼女は顔見知りのよう……。ということは、翔兄は、上司である親父さんとオカミさんである母には『彼女』を紹介していたことになる。
「大丈夫です。いま、滝田社長が彼を今日はあがらせてくれると仰ってくださって。本当、そんなつもりはなかったのですけど……。いえ、その、ここに来てしまったら、社長さんがそこまで気遣ってくださると判っていたので今までも遠慮させて頂いていたのに……」
きちんとした佇まいからは、凛とした風をかんじたほど。とてもしっかりした女性だと一目で思ったのに。その彼女が急に取り乱したように、狼狽える姿。
「気にしないで。瞳子さん」
トウコさん。
初めて聞いた名前に、小鳥の心臓が締め上げられるようにぎゅっと固まり、息苦しくなってきた。
「桧垣君は? まだあがらないの?」
「彼、営業時間が終わるまであがらないと言い張っていて――。ですけど、私はそれで構いません。ただどうしても今日は彼に時間を作ってほしくて」
「わかりました。私からも桧垣君に言ってみるから」
「いえ。この近くで待っていますから。彼にそう伝えてください」
なにか切羽詰まった様子が窺えた。そうでなければ、恋人の職場に顔を出すことは禁じていたのに来てしまうことなどなかったのだろう。
そんな瞳子さんと目が合う。
「あの、そちらが小鳥さん……ですか」
「ええ。いちばん上の娘です」
そこで彼女が先ほど見せていたしっとりした艶やかな笑みを見せた。
「初めまして、小鳥さん。いつも社長さんや、こちらの皆様、そして桧垣君から聞いています」
「は、初めまして。娘の小鳥です」
小鳥も頭を下げた。でももう……頭が真っ白。
なに? 今までここに現れたこともなかった翔兄の恋人が今日ここにいきなり現れて。
しかも。『社長やここのみんなから聞いてる』と……、小鳥は初めて会ったのに、親父さんも琴子母も、従業員のみんなも、彼女と何度も会っているかのような口ぶり。
そして小鳥はしみじみと感じた。
『やっぱり私は子供なんだ。大人の世界と大人の関係、大人の事情は見せてももらえない。ただの職場の上司の子供に過ぎない』
いままでずっと、その囲いには存在していなかった。蚊帳の外、子供の枠。
翔兄と同じ世界にいなかった。だけど、このおしとやかなお姉さんは今も翔兄の傍にいる、ずっとずっと前から。
Update/2012.7.8