× ワイルドで行こう【ファミリア;シリーズ】 ×

TOP BACK NEXT

 5.リトルバード・アクセス《7》 

 

 彼女が見えるところにいた時は、姿も見せなかったくせに。彼女が龍星轟から出て近くのカフェへと消えてしまうと、そこでやっと翔が事務室にやってきた。
「お前も頑固だな」
 英児父が話しかけても、翔兄は黙っていた。
「はやく行ってあげなさい。今まで一度もここを訪ねてこなかったのに、来てしまったのよ。わかるわよね、彼女の気持ち」
 琴子母も女性側に立って、翔兄を諭そうとしている。
 膝が汚れている作業ズボン、首筋には泥やオイルなどで汚れた手で触った跡がついている。そんな汚れた姿で手袋を取り去る翔兄の顔は不機嫌だった。
 
 龍星轟事務室から自宅玄関へ向かう通路のドア越し、『先に上にあがっていなさい』と母に言われても、小鳥はそこでこっそり聞かずにいられなかった。
 でも。もう涙が出そうだった。どうにも覆せない決定的なものが小鳥に衝突してきた気分……だった。
「まだ営業中なのに、申し訳ありません。彼女が訪ねてきてしまって」
 二人揃って生真面目そうだな。小鳥はそう思った。彼女は彼女で『彼の職場にはいかない』と禁じていて、そして翔兄は『職場に恋人が訪ねてきても、どんな理由であれ、職務が優先』という強固な態度。
 だけど、煙草をくわえている英児父が、面倒くさそうに黒髪をかいて重そうに煙を吐いた。
「いますぐ行ってこいや。瞳子さんが自分からここまで来たってよっぽどだって、オメエの方が良く理解できるだろ。ここで意地張って、大事なもん逃してみろよ。ぜってえ後悔するからよ。付き合いが長いから、なんでも理解してもらえると思ったら大間違い。俺の目の前で、そういう大きなすれ違い見せつけるな。今日はもう仕事はいいから、行け」
「ですが」
 渋る翔兄を、親父さんがあのガン眼で上からギロッと睨み降ろす。翔兄の顔が凍り付いたのを小鳥も見てしまう。
「行けと聞こえなかったんかい。いいか、もう一度言うぞ……」
 親父さんが吠えると察知した翔兄が、そこで深々と頭を下げる。
「いえ、……。ありがとうございます。今回だけお言葉に甘えさせて頂きます」
 そのままデスクにある荷物を手にして事務室を出て行ってしまった。
 翔兄のMR2が出て行くのを確認した両親が事務室で揃って溜め息をついた。
「長すぎた春――ってこんなもんなんか」
「そうね。でも、大丈夫でしょう。そうでなければ、瞳子さんだってあんな切羽詰まった様子で訪ねては来ないわよ」
 母の言葉に、父がほっとした顔になり、小さくなった煙草を灰皿につぶした。
 だが二人の会話を黙って聞いていた武智専務がいつものごとく、容赦ない意見を挟み込んできた。
「どーかな。俺はそうは思わないな。とっとと結婚できたはずなのに、どうしてここまで来て結婚をしなかったのか」
 つねに現実的な物言いをする専務の意見に、またまた両親揃って不安そうな表情に戻ってしまった。でも専務は続ける。
「俺が見る限り。彼女は翔のことは愛しているけど、この職種が気に入らないんじゃないかな」
 それを耳にした途端、親父さんが『なにぃっ!』といきり立った。
「武智、お前……もう一度言ってみろ! 俺の、この店の、この仕事の、どこがいけないっていうんだよ! 翔ももう下っ端じゃねえしよっ。人並みの給料を与えているつもりだぜ!!」
 カッとなる親父さんに対して、眼鏡専務の武ちゃんは今日も涼やかな眼差しで向かう。
「だから。翔が行きそうだった企業のキャリアと給与のデーター割り出して、タキさんも俺も矢野じいもそれぐらいの評価はしていいと判断してそうしているでしょう。でも、翔も金云々で気持ちが動くような男じゃないよ。タキさんだってそれぐらい判っているでしょう」
「そりゃ、翔はこの店を大事にしてくれているとわかっている。だから、なんで瞳子さんは俺の店で働く男では認めてくれないのかってことだよ」
 そこで一時、武智専務が黙り込んでしまう。小鳥も遠くから覗いていても、武ちゃんがとても言いにくそうに唸っているのがわかる。たぶん、それは小鳥が思っていることと同じだと感じた。それを武智専務も言い出しそう。そして、それはきっと親父さん自身もよく知っていること。
「勿論。この不景気でいまどき将来安泰を約束してくれる企業は、大企業でもなくなったよ。うちのような個人経営の中小企業でも、大企業でも潰れる時は潰れる。そんな中、うちの店は本当に恵まれている方だと思う。タキさんの長年の積み重ねで顧客はついているし、若い人材も育っている。中堅の技術者も確保して、どんな車にも対応できる。稼ぎも安泰とは言い切れないけど、もうずうっと良い線を翔がここに来る前から何年も維持している。従業員をまだ増やしてもいいぐらいだし、そこらへんの大手地方企業並の給与に賞与も出している。それでも尚、彼女が納得しないのは、やっぱり職種なんだよ」
「職種……って。車ってことか」
 親父さんがショックを受けた顔に。実力がない企業というレッテル以上に言われたくないことだろう。そしてそれは小鳥も一緒。一家と従業員一同が愛している車を拒否されたら、瞳子さんと付き合っていける訳がない。
「彼氏のちょっと困った趣味、程度だったんじゃない。学生の頃は。その程度なら許していたんだよ。なのに大学を卒業したら、何を思ったのか行けそうな就職先を蹴って、なんだか良くわからない個人経営の車屋に就職しちゃった。でも、ちょっとチャレンジしてみて、彼が目を覚まして、大手の安定した企業に転職をしてスーツのビジネスマンになってくれると待っていたんじゃないかな」
「それ、マジ……。武智、お前、そういうのどこから……」
「女の子が考えそうなことだよ。瞳子さんの雰囲気見ていたらわかるじゃん。『いいとこのお嬢さん』、タキさんがいちばん近づきたくて近づけなくて、避けられちゃう種の女性だね」
 うわー、武ちゃん。きっつう……。さすがに小鳥も唖然とした。そして父も口を開けて茫然としていた。たぶん父のコンプレックスなのだろう? 翔はそうではないが、父は元ヤン。その風情からお嬢様風の女性からは避けられてきたのではないかと、娘として思っちゃったりもする。
 だからこそ。琴子母のような女性と良く結婚できたなとも思うし、だから琴子母を宝物みたいに大事にして愛して離したくなくて必死になっちゃうんだろうな……とか。
 そのとおりなのか、武智専務が眼鏡の縁を光らせ、これまた冷めた眼差しで琴子母を見た。
「そうでしょ、琴子さん。瞳子さんは、独身時代の琴子さんとよく似ているよ。きちんとした佇まいの良いところのお嬢さん。タキさんを初めて見た時どうだった? 車屋の男って考えたことあった?」
 急に振られて戸惑う琴子母も、口ごもって直ぐには言えない様子。
「……まあねえ、その。初めて見た時はもう車を見ただけで『怖い』と思ったし、」
 武ちゃんが『ほらね』と英児父を見た。
「でもそれは英児さんが怖い顔をしていたのもあるし、そこは桧垣君とは違うでしょう。それにここに来る前から二人は付き合っていたんだから」
「だけど琴子さんはタキさんの人柄を知るまで、出会うまで、結婚対象に『車屋』とか考えたことある?」
 また琴子母が一時黙って、『ないわね』と小さく呟いた。
「それでも桧垣君は車屋であろうと、スーツのビジネスマンであろうと、瞳子さんを大事にする一人の男性としてはなんにも変わらないと思うのよ」
「そうかな〜。翔はここに来てから、結構、車をいじるのに金を使っているんだよね。たとえしっかり貯金をしていても、『車に使わなければ、もっと貯められるじゃない。もっと良いことに使えるじゃない』と堅実な女性には我慢できないかもしれない。男から見た時の、女性が稼いだ金をブランドもんのバッグとか洋服とか海外旅行とか趣味につぎ込むのを我慢してみているのと一緒だと思うなあ」
 ついに両親が揃って絶句。なにも言わなくなった。そして小鳥も『大人の男と女って、そういうことを考えて、付き合っているんだ』と目を回していた。
 だけどそこで小鳥も気を取り直して考えてみる。そうだ。翔兄のMR2は結構、お金をかけている。エンジンのチューンはしかり、エアロパーツ諸々、足回りも、整備も。でもそれは車屋の男達は皆していることで……と、ここまで考えついて小鳥は思った。
 そうかー。瞳子さんにとって、ここの連中はある意味『お金を使わす悪い連中』にもなっちゃうのかー、と。武ちゃん専務の見解が正しければの話だが。
「それに。タキさんは知らなかったかもしれないけど。ここ二年ぐらい、翔は瞳子さんと逢う間隔がどんどん空いちゃっているみたいなんだよね」
「それ……ほんとうか……」
 たぶん父ってこういうところあまり目を配っていないんだなと小鳥も思った。だからこんなふうに観察力抜群の武ちゃんがいないと龍星轟はダメなんだと。
「東京出張に行く前。『彼女が寂しがるねえ』と俺がちょっとカマをかけてみたら……『彼女も忙しいから。二ヶ月ぐらい会わないなんて最近は普通ですよ』なんて、かーるく返答した時点で『危ないな』と」
「ななな、なんだって。俺と半月も留守にする出張前に、彼女に会いもしなかったということかっ」
「そうだよ。普通なら彼女もすっごい怒ると思うんだよねー。なのに彼女も会いたいとか言わないみたいだし。お互いに冷めてるつーの? それで出張から帰ってきたら、翔がスープラを買うとか、なんとか。今まで来なかった職場にまで会いに来たと言うことは、そりゃあ我慢の限界で来たってことでしょう」
 それを聞いた父の顔が青ざめる。そして琴子母も無言になる。どうやら母は女として瞳子さんの気持ちが通じてしまったようだった。
「ど、どうするか。俺、上司としてどうするべきか」
 そして親父さんが落ち着きなく武ちゃんの前をうろうろし始める。
「落ち着いてよ、タキさん。タキさんのせいじゃないでしょう。彼等も大人で自分たちがやってきたことなんだから。俺達だって、大人である部下のプライベートなんて、いちいち介入できないんだから。翔が選んでやってきたことだよ、もっといえば、瞳子さんもだ」
 武ちゃんのこういうところ、きっぱりしているなと小鳥は思う。
 だけど小鳥の中にまた、訳のわからないものが渦巻いた。
 ――『じゃあ。お兄ちゃんは、もしかすると、瞳子さんと上手くいっていなくて? もしかして別れ話??』
 複雑だった。もし翔が独り身になれば、それは小鳥にとってチャンス。でもそれって……『長い付き合いにピリオドを打った悲しみの向こうにあるチャンスだよね』? あの翔兄がすぐに瞳子さんを忘れて、すぐに他の女性を好きになるとか考えられない。
「つ、疲れた」
 もう小鳥にはキャパシティオーバーだった。父がまだ狼狽えている姿が見えるが、静かにそっと覗いていたドアから離れ、二階自宅に向かった。
 
 翌日、翔兄はいつも通りに出勤していた。
 だから、上手く仲直りすることができたのだと小鳥は思った。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 大人って。自由に愛しあえているようで、そうでもなく……。いろんなことの中で生きているんだなあ。
 
翌朝、いつも通りに営業の準備に勤しむ龍星轟を横目に登校した小鳥は思った。
 そしてこの日、学校でも小鳥を揺さぶる出来事が起きた。
「竜太と別れたから」
 朝、花梨ちゃんの第一声に小鳥は目を丸くした。
「な、なんで!」
「ケジメ……もあるけど、前々から感じていたの。アイツ、私のこと心底から好きじゃあないんだなあって」
「ま、待って。花梨ちゃん。私に合わせて、ガラスを割ることになった原因のケジメなんていらないから。あれはもうあれで終わったの。親父さんも言っていたでしょう。花梨ちゃんのせいじゃなくて、その後に私が取った行動が問題だって。ちょっと、まって。竜太ともっと話し合おう」
 小鳥は席を立ち、廊下で他の男子生徒と笑っている竜太を見つけて、そこへ駆けようとした。思ったら身体が動いてしまう、いつもどおりの。
「やめて。小鳥ちゃん」
 即刻すっとんでいくロケット娘を良く理解している親友も、即刻その腕を掴んで止めてくれる。
「だって……花梨ちゃん……」
 花梨ちゃんの頬がものすごく強ばっていた。それ以上に、小鳥に対して怒っているような顔。
「花梨ちゃん……?」
 なにかを堪えるように唇をぎゅっと噛みしめると、彼女がやっと小鳥の腕を離してくれる。でも、そこから目を合わせてくれなくなった。
 やるせなさそうな薄笑いを浮かべ、花梨ちゃんは教室窓の向こうに広がる青空を遠く見た。
「竜太はね。私と付き合う前に好きな女の子がいたんだよね。私、その相談に乗っていたの。それがキッカケだったから」
「え。じゃあ、竜太はその女の子のことを、もう一度よく考えることにしたってこと!?」
 それなら、最初から花梨ちゃんと付き合わなければ良かったじゃない。小鳥はそう叫ぼうと思った。だけれど、それを悟ったように花梨ちゃんがさっと先に入り込んでくる。
「その女の子、別の人が好きなんだよね。竜太もそれを知って、諦めて……それで、仲良くなった私とね……。でも、やっぱりわかっちゃうんだよね。その子の前で無理しているっていうのが」
「その子の前? 誰、その女の子。この学校の子ってことだよね。同じ三年生?」
 そして花梨ちゃんがやっと目を合わせてくれる。でも、その目が何故か小鳥を睨んでいる?
「そうだよ。同じ学校、三年生。その子ね、小学生の時からずうっと好きな人がいるの。ずっと年上の、もう働いている男の人。ずっとまっすぐその人のことだけ好きなの」
 そこで小鳥の胸がズキッと痛んだ。
「よく知っているんだ。その子のこと。諦めるとかそんなんじゃないの。本当に好きだから、ずっとそのまま好きなの。たぶん、その人が他の女の人と結婚しちゃっても好きでいて、諦めるのに時間がかかりそう。その人が結婚でもしない限り、きっとその子はそのお兄さんのことが好きだと思うんだよね――と、竜太に教えたら、『そいつ、らしい』とガッカリして諦めたんだよ」
 もう疑う余地がなかった。
「花梨ちゃん、それって……わた……し……?」
「……その子だから、平気でいられた。その子が竜太には絶対に振り向かないとわかっていたから。竜太がどんなに彼女を好きでも、竜太の想いはこれからもずっと叶わないだろうから、だから……大丈夫だって思っていた。でも、竜太も同じなんだよね。彼女と一緒で本当はまっすぐで、なかなか想いが消せないタイプ。だから彼女のことがわかりすぎて、それで気になってしようがないんじゃないかな……」
 唇を噛みしめていた彼女の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと落ちてきた。
 ごめん、花梨ちゃん。そう言いたい。でも何がごめんなのだろう? 何も知らなかった小鳥が安易にごめんというのも失礼すぎる気がする。でも、ただ彼女の涙を見ているのも辛い。
「あの、花梨ちゃん。抱きしめてもいい?」
 背丈がある小鳥は、自分より小柄な彼女をそっと見つめた。そして彼女もちょっと驚いた顔。
「いつも小鳥ちゃんは、そうして傍にいてくれたね」
「私も同じだよ。花梨ちゃんにそうして傍にいてもらった。でも、今日は……、勝手に抱きしめちゃいけない気がする」
 高校に入学して直ぐに仲良くなった彼女。クラスもずっと一緒で『絶対に縁があるね』と毎年騒いだ。でも、今日は。
「抱きしめないで。と言ったら……私、根性悪の女になるかな」
「ううん。それが花梨ちゃんの本当の気持ちなら、私、大丈夫」
「……だったら。暫く、私のこと。一人にしてくれる?」
 『大丈夫』なんて大きく出たけれど、親友の彼女に『暫くそっとしておいて』と言われると、さすがに胸に突き刺すものがある。
 だけれど。大好きな彼氏の気持ちを奪っていた相手に笑顔を見せろなんて、小鳥には言えない。
「わかった。花梨ちゃんのこと、待ってる」
 小鳥がそういうと、花梨ちゃんは逃げるようにして教室を出て行ってしまった。
 仕方がない。暫くはじっと待っているしかない。自分は何もしていないけれど、知らないうちに、花梨ちゃんを傷つけるようなこともしていたかもしれない。
 廊下を見ると、竜太もこちらを見ていた。
 そして小鳥はすぐに目を逸らしてしまう。
 知らなかった。竜太が、自分のことを好きに想ってくれていただなんて。知らなかった。
 だからこそ、小鳥はやっと知る。
 彼が小鳥の目の前でお弁当を渡す花梨ちゃんに不機嫌だったことも。花梨ちゃんをかばって喧嘩腰になった小鳥に対して、彼が必要以上に感情的になっていたのも。
『男は素直になれない生き物』
 あの反省文も。――『素直になれないのは、自分の女にじゃなくて』。何を言っているのか分からなかったあの言葉も。
 すべて、小鳥に繋がっていたなんて。
 
 自分一人だけ、たった一人でも楽しそうにしてるだけのことが、罪になっていることも、傷つけてしまっていることもある。
 それを小鳥は噛みしめた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 最悪だ。
 ずっと憧れてきたお兄さんの彼女はやってくるし。その彼女とこれを機に仲直りでもするだろうし。
 親友の彼氏に好かれていたことが判っちゃったり、それが原因で、別れてしまうし。
 
 何もかも最悪だ。
 
 その極めつけが、龍星轟に帰宅すると待っていた。
 
 いつものバス停から龍星轟へ。店先にまた翔兄の青いMR2が停めてある。
 しかも、事務所にはスーツ姿の翔がいた。
 硬い面持ちで、銀色の時計を腕にはめているところ。
 いつもは大きなダイバーウォッチなのに。そんなビジネスマンがするようなお堅い時計をして、どこへ行くの?
 なにやら違和感を小鳥は持った。
「では。行って参ります」
 薄いグレー色の夏スーツ、白襟青ストライプのクレリックシャツ、そして白のネクタイ。爽やかな装いで、翔兄が事務室から出てきた。
「おう。頑張ってこいや」
「……はい」
「くらいついていけよ」
「はい」
 作業服姿で見送る親父さんの方が切羽詰まったように強ばった顔。
 翔兄が颯爽と、MR2の運転席ドアを開ける。
「お兄ちゃん。どこかへ行くの」
 大事な商談や交渉を一人でしにいくのかな。
 ついに親父さんの手を離れて、単身営業を任されることになったのかな。
 それぐらいにしか思っていなかった。そして翔兄も。
「うん、まあな。また明日」
「え、帰ってこないの」
「このまま直帰。じゃあな」
 ぎこちない笑みを見せて、翔兄は運転席に乗り込んでしまう。
 そして小鳥は見てしまう。運転席に、小さなペーパーバッグ。中にはリボンの小さな箱が入っている。
 なにかピンと直感が走った。でもそれを直ぐには受け入れたくなかった。
「おう、小鳥。お帰り」
 煙草をくわえている英児父がMR2を見送りながら、小鳥を見下ろしていた。
「父ちゃん。翔兄ちゃんはどこへ仕事に行くの」
 だが親父さんは直ぐには応えてくれず。煙草の煙をふいっと吹くと、また黙って小鳥を見下ろしていた。
「祖母ちゃんが、新しい編み糸を買ってきたから、小鳥が帰ったら伝えてくれと言っていた」
 それだけいうと背を向け、事務所に入ってしまう。
 え、会話になっていないんだけど? お兄ちゃんがどこへ行ったのか聞いたのに。なんで教えてくれないの? 首を傾げながら、事務所裏の勝手口に向かう。
 二階自宅に戻ると、聖児が先に帰宅していた。茶髪のままで毎日のらりくらりしている。自動車愛好会にも誘ったけれど『姉貴がいるなんてやりづれえ』と言って寄りつかない。
「聖児。帰っていたんだ」
「おう。俺、今からコンビニに行くけどよ。姉ちゃんもなんかいるかー?」
「なにも」
 じゃあ、行ってくるわ。
 ジャージと白いティシャツをだらっと着込んで、気怠そうに歩く弟の後ろ姿が。もう……時々親父さんと重なるから困る。
 ヤンキー素質、親父さん譲りになりそうだなあと思っている。実際に聖児自身も、学校では既に目立っていた。小鳥の弟というのもあるが、『弟はマジ、ヤンキーチルドレン』と囁かれている。
 そんな弟にふと尋ねていた。
「ねえ、聖児。翔兄はどこか仕事に行くの。父ちゃんと一緒じゃないのにスーツで一人で出かけていったみたいだけど」
 気怠そうな背中が急にピンとまっすぐになった。そして弟が振り返る。
 小鳥の様子を窺うように、ジッと見つめて黙っている。あれ、その目……。さっきの親父さんとそっくりなんだけど?
「店で聞かなかったのかよ」
「仕事中だもん」
「兄ちゃんがどこへ行こうが関係ねえじゃん」
 妙につっけんどんな弟の返答に、小鳥はむっとした。
「もういいよ。早く、行っておいでよ」
 なのに弟はまだ睨むような目で姉の小鳥を見ている。でも小鳥には、父にそっくりなそのガンつけ目線が、密かに何かを悲しんでいるから怒っているようにも見えた。
「聖児?」
「まあ、いずれ。姉ちゃんも聞いちゃうだろうしな」
 ふうっと溜め息を落とした聖児の肩から、なにかを諦めたように力が抜けていく。
「翔兄。彼女にプロポーズをしに行ったんだよ」
 え……。
 言ったつもりで、声になっていなかった。
 そして聖児も、姉を反応を黙って見ている。そう、聖児には密かにばれていること判っていた。幼い頃から傍にいたその人を、姉が憧れていることぐらい。毎日いる姉弟だから知ってしまっている。
 だけれど。それは聖児だけじゃない。特に琴子母には遠回しに何度もはち切れそうな想いを口にして聞いてもらっていた。
 それでも『誰も』。小鳥本人には明確にはしなかった。『小鳥ちゃん、桧垣君のことが好きなのね』なんて母は言わない。弟も『姉ちゃん、翔兄のことが好きだろ』と小さな頃は何度か言われたが、今はからかいもしなくなった。他にも武ちゃん専務も矢野じいも。きっと雅彦おじさんも。みんな知っているのだと思う。でも知らない振りをしてくれている。
 英児父だけが良く判らない反応をしていた。さっきのように。でも、『翔がついにプロポーズに行くんだってよ』と明るく笑い飛ばして娘に言わなかったということは、英児父も気がついている?
「でもよ。どうも慌ててプロポーズに行くことになったみたいなんだよ。父ちゃんも仕事中に慌てて許可したみたいだな。スーツに着替える前に、翔兄、MR2をピカピカに磨いていたからさ。本気モードなんじゃね」
「慌てて? どうして」
「さあ。なんだろう。俺達子供には関係ないと思って教えてくれないからな」
 じゃあな行ってくると、聖児が逃げるように出かけていく。
 だけど……。小鳥はもう……。
 すぐに部屋に駆けこんだ。鞄を放ると、着替えもせず、小鳥はベッドに倒れ込む。
 もうお終いだ。お兄ちゃんが本気を出した。
 ずっとずっと長く付き合ってきた恋人。長く付き合いすぎて、最近はちょっとした倦怠期だったみたいだけれど、きっと昨日の話し合いで仲直りをしたんだ。
 お兄ちゃんも瞳子さんのことを考え直して、あんなにかっこよくきめて、車もピカピカにして。助手席にあったのはきっと『婚約指輪』!
 終わった。私の恋、初めての恋。やっと……終わった。
 胸に押し迫るものがあった。それはママが時々買ってくる大人のチョコレートのような、胸がキュッと締め付けられる甘いリキュールの香りを嗅いだ時みたいに。甘いけど苦かったり、馴染まないリキュールの大人な匂いに酔ったり。でもすぐに溶けてなくなっちゃう。楽しいこといっぱいあった。届かないものとわかっていて泣きたいこともいっぱいあった。
 わかっていた。いつか終わりがくるって。
 だって……。彼は小鳥よりもずっとずっと先の道を歩いている人。その先々に、まだ小鳥が辿り着くことができない沢山の出来事を経験して、先に経験して、誰もが手に入れていくものを、どんどん先に獲得していく。
 ついに。結婚までも。
 シーツを握りしめて、小鳥は声を殺して泣いた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「小鳥ちゃん」
 琴子母が部屋のドアを開けた。暗がりの部屋に、廊下の温かい光が一筋だけ入ってきて小鳥の目に当たり、さっと顔を背けた。
 空が真っ暗になっても、小鳥は帰った時のまま制服姿でベッドに横たわっていた。本当に何もする気が湧かない。
 聖児がなにか伝えたのか。それとも小鳥が一切姿を見せないからなのか。いや、母はもうなにもかも判っているだろう。翔が彼女にプロポーズをしに行ったことを知れば、『彼にずっと憧れてきた娘が落ち込む』と察してくれたのだろう。
「お母さん。大丈夫だから、一人にして」
 直ぐに返答はなかったが、暫くして。
「わかりました。夕飯はテーブルに残しておくから、お腹が空いたら食べてね」
 いつもの優しい声に、また涙が滲みそうになった。
 そこでやっと小鳥は起きあがる。暗がりの中、制服を脱いでようやく私服に着替える。夏らしい絵柄がついているティシャツにスウェットのショートパンツ。楽な格好になってまた横になった。
 カーテンを閉めていない窓には小さな星がひとつ。うるさいジャンボ機ももう飛ばない時間帯になった。静かになった龍星轟宅。
 また暫くするとドアからノックの音。
「おい。小鳥、どうしたんだ」
 英児父だった。
 今にもドアを開けられそうな気配を感じたが、父が勝手に開けることはないので小鳥は押し黙ってやり過ごそうとした。
 『お父さん。そっとしておいてあげて』。母が諫める声も聞こえてくる。
「おい。小鳥。お前がいないと寂しいだろ。一人でもいないと父ちゃん落ち着いて飯が食えねえし、美味くねえんだよ」
 だから一緒にこっちに来いよ。と、誘ってくれている。
 そんな父の声にも、小鳥は涙を滲ませた。行きたいけど、行けないんだよ。泣いちゃったら、父ちゃんだって困るでしょう。私だって嫌だよ。泣いて『どうした、オメエ、どうした』なんて、父ちゃんの方が泣きそうな顔で狼狽えるんだから。
 『英児さん! そっとしておいてあげて、お願い』
 今度はきつく言い放った母の声に、やっとドアから親父さんの気配が消えた。
 一人でもいないと、飯が美味くねえ。英児父らしいな……と、小鳥は枕を抱えて、やっと少しだけ笑っていた。
 父は寂しがり屋で、だから琴子母を手放さない。そして子供達も俺の大事な一部――とも言ってくれる。我が家は三姉弟が騒ぐと父ちゃんが『うるさい!』と鎮めようとする、その後すぐにお母さんが『うるさいのは幸せな証拠』と言うのがお決まりになっている。
 『そうだな。琴子と一緒になる前は、この家はもの凄く静かだった。そこの小さな山の夜鳥の声が聞こえるほど。そう言えば、いつのまにか聞かなくなったな』
 たった一人で龍星轟を建て、たった一人で暮らしていたという。今は改築して部屋数も増えたから、リビングしか面影はなくなったらしいが、恋人時代ここに通っていた琴子母も『それでも広く感じたわね』と話していたことがある。
 両親の結婚は遅かった方らしい。父は三十六歳、母は三十二歳。出会って一年もしないうちに婚約をして結婚。電撃だったと聞いている。それだけ、『出会ってすぐ、結婚を考えられた相手』ということらしい。
 それまで母は雅彦おじさんとか他の恋人もいたのだろう。父も三十六歳で琴子母と出会うまで何もなかったなんてことはないだろう。それまで付き合ってきた恋人とはどうにもならなかったのに、母とは出会って直ぐに結婚できた。そういう相手はすんなり行くもの。
 結婚って。そういうものなのかもしれない。
 星を見つめたまま枕を抱えた小鳥の心が静かになってくる。
 ――じゃあ。翔兄と瞳子さんは。もしかして? すぐには結婚できなかった、運命? 
 いや。と、首を振る。
 そんなことになったら。あそこまで頑張っているお兄ちゃんには、哀しい結果になる。そんなこと考えちゃいけない。
 小鳥は懸命に首を振る。でもやっぱりダメ……。哀しいよ。苦しいよ。涙が滲む。でも泣き疲れた。
 そんなことを行ったり来たり考えているうちに、どれぐらい時間が経ったのだろう。
 いい加減、お腹が空いたなと。再び起きあがった時だった。
 時間は23時。静かな空港町にある龍星轟の店先で『ドウンッ』と唸る音が響いた。
 そのエンジン音を聞いただけで驚いて、小鳥は窓辺に寄る。
 もう夜、看板を照らす常夜灯だけになった龍星轟の淡い照明の店先に、青いMR2が現れた。
「お、お兄ちゃん」
 こんな夜遅く。MR2でやってくることなんて……。
 まさか。プロポーズが成功して、嬉しくて、親父さんに報告に来た?
『なんだ。翔の野郎。こんな時間に』
 廊下から慌ただしく歩く英児父の声が聞こえてきた。親父さんも寝室から覗いて知って驚いたのだろう。そしてきっと送り出した上司として心配して。
 その後、すぐだった。翔兄が運転席から降りてくると、ネクタイも緩めきった砕けた格好で、事務所裏の二階自宅通路へと向かっていく姿。その後暫くすると、この家の玄関チャイムが鳴った。
 やっと小鳥はドアを開けて、部屋を出た。リビングに出ると、母と聖児が玄関先が見えるドアの前で息を潜めて佇んでいる。
「どうした。翔。瞳子さんは」
 そんな親父さんの声が玄関から。小鳥が覗こうとすると母に肩を引っ張られそこから遠ざけられた。でも、もう『あっちに行っていなさい』とは言わない。小鳥の肩を優しく抱いて、ドアから離れたところにいさせてくれる。
「社長。スープラに履かせようと取りよせていたタイヤ。あれを今からMR2に履かせたいんですよ。ガレージとピットを開けさせてください」
「待てよ。なんで今なんだよ」
「履かせて今から走りに行くんですよ」
 いつも涼やかに落ち着いている翔兄の声ではなかった。明らかに怒りを含め、冷静さを失った声。
 小鳥の肩先で母の落胆した溜め息が聞こえた。それだけで『結果』を悟ったのだろう。そして小鳥は……。信じられなかった。願っていなかったわけでもないけれど、絶対に『長く付き合った二人だから、きっと結婚する』と覚悟するほど、絶対に翔のプロポーズは届くと思ったから。
「ダメだ。今日は走りに行くな」
 親父さんが止めた。自暴自棄になって事故になると困るからだろう。
「タイヤは明日、履かせろ。それなら許す」
「わかりました。もういいです。今から走りに行きます」
 同じことだった。タイヤなんてどれだって関係ない。でも、翔兄はここに来てしまった。それは何故。そして親父さんも本当はわかっていた。
「わかった。今から履かせろ。それでお前の気が済むなら。俺がガレージを開ける。閉めるのも俺だ。勝手に出て行くな。出て行ったらクビだ」
「ありがとうございます」
 着崩れたワイシャツのネクタイを、翔兄がそこで取り去った。そして親父さんもそのまま玄関を出て行ってしまう。やがて、夜中の龍星轟に燦々とした照明がつき、ガレージとピットのシャッターが開く音が響いた。
「聖児、お部屋にいなさい。玲児を起こさないでね」
「わかった」
 いつもおちゃらけている聖児も、やるせない溜め息をついて、すんなり母に従った。
「小鳥ちゃん。お茶を淹れるから、座りなさい」
 そして小鳥は部屋に返されず、リビングのソファーに座らされた。
 琴子母もすっかりくつろいだ部屋着姿。その格好で熱い紅茶を入れてくれた。母もカップを持って小鳥の直ぐ隣に寄り添ってくれる。
「瞳子さんね。二ヶ月も前にご両親に勧められてお見合いをしていたんですって」
 それを聞いて、小鳥は『え』と目を見開き、熱いカップを持ったまま母を見る。
「そのお話が上手くいきそうなんですって。最後だったのよ。この前、瞳子さんが龍星轟まで桧垣君を訪ねてきたのは。最後の賭けだったの」
「え……。最後の賭けって……」
「もう一度、自分と一緒に生きていけるよう、お互いが望むことをよく話し合ってから決めたかったのでしょう。それで桧垣君も目が覚めたのね。やっと腰を上げてプロポーズをする決心をして、昨日……。お父さんも仕事を切り上げさせて送り出したのよ」
 そして母が哀しそうに俯き、呟いた。
「でも。駄目だったみたいね。手遅れだったんだわ」
 嘘。なにそれ。
 まだ口も付けていないカップを置いて、小鳥は立ち上がっていた。思い立ったら身体が動いている。だから小鳥はリビングを飛び出していた。
「小鳥!」
 母も止められないほどの素早さだったのだろう、小鳥はその時にはもう玄関も飛び出していた。
 翔兄ちゃん。嘘。長く好きだった人を失っちゃったの?
 あんな怖いお兄ちゃんの顔、初めて見たよ。あんなに狼狽えているお兄ちゃんを初めて見たよ。そんな不安定なお兄ちゃんなんて信じられない。そのまま行かないで。そのまま走りに行かないで――!
 その不安が小鳥を駆り立てるように走らせる。小鳥は階段を駆け下り、事務所に飛び込んでいた。外に出てピットへ。それしか見えていない。
「待てや」
 気がつくと、事務所を出るところで英児父に腕をひっつかまえられ、ぎゅっと力いっぱい止められていた。
 振り向くと、煙草をくわえて眉間にしわを寄せた怖い顔で小鳥を見下ろしている。
「そっとしておけ。お前だってそうだろ。そっとしておいて欲しかっただろ」
 ……親父さんも、……判っていた。小鳥の気持ち。恋する気持ち。
 もうぐちゃぐちゃだった。この恋とあの恋とか誰かの恋とか、いくつもの『恋』がぐるぐる回って、今まで変わらないと思っていた皆の姿が急激に変えられていくよう。
「父ちゃんっ」
 その胸にドンと小鳥は抱きついてしまっていた。そこで涙を一杯流して、今度は声を出して泣いた。
 父の大きな手が小鳥の黒髪を撫でた。煙草の匂いが降りてくる父の胸の中、いつも頼ってきた腕が小鳥を大きく抱いてくれていた。

 

 

 

 

Update/2012.7.10
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2012 marie morii All rights reserved.