《ワイルドで行こう;オールアップ》

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 1.さあ、帰ろう。 

 

 雨の季節。あんなに辛かったのに。今年の私……、まさか『奥さん』になっているなんてね?

 まだ真っ白な原稿を目にして、琴子は目をつり上げる。
「本多君、私、伝えたわよね。明日の朝までに仕上がっていないと、ジュニア社長がクライアントに頭を下げなくちゃいけない。そうなったら、ジュニア社長も他のデザイナーと交代させる決意だって。しかも先方様が交代デザイナーを気に入らなかったら、契約解除になって損害が出るって」
 ここ半年で急に頭角を現した元恋人のデザイナーである雅彦に食ってかかった。これでも声を抑え、いや『相変わらずな元カレの態度への苛立ち』を抑えている方……。
 なのに当の元カレは、デスクに向かって唸っているだけ。
 しかも『はあ』なんて、お前うるさいと言わんばかりの嫌味な溜め息の返答。再度、琴子の頭に血が上りそうになる。
 普段、職場でこんなにいきりたったりしない。ううん、今までそんなことなかった。他のデザイナーもギリギリになってもスケジュールは守ってくれるから、琴子もこんな『イライラ女の姿』なんて見せたこともない。
 なのに。この手に負えない扱いにくいデザイナーには、ものすごくイライラさせられる。どうしてこの人にイライラするのか判りきっているから、琴子はこんなになってしまう情けない自分にもイライラしてしまう。
 もう、やんなっちゃう。この人、こういう人。『自分のペースだけで生きている人』。それに噛み合わせることが出来ず、また彼も歩み寄ることも摺り合わせてくれることもしてくれず、琴子に災難が降りかかったら面倒くさがって避け、あっという間に破局に至ったのだから。
 だけど、琴子はそこで何故か、愛する夫の顔を思い浮かべてしまう……。
 にぱっと白い歯と見せて、おおらかに笑う彼の声が聞こえる。『んなこと、放っておけよ。やらなきゃやらないで、いちばん困るのは本多君だろ』なんて……言い出しそう。この元カレのデザインを気に入って自分が経営している店のステッカーデザインの担当にしてしまったほど、懐がおっきい人。
「……もう。今日も徹夜? 明日の朝には出来てるわよね」
 デザイナーのスケジュール管理を任されている琴子から折れてみる。すると、面倒くさそうな憎たらしい溜め息を返されるのかと思ったら、椅子を反転させ、琴子の真っ正面に向いたのでびっくりする。
 しかも、あのプライドが高い彼が頭を下げている。
「悪い。ほんとに悪い。でも納得できる雰囲気で描き上がらないんだ」
 こんな人じゃなかった、はず?
 だけど。それだけで琴子もすっと熱がひいた。
「この前のサンプルで充分、先方様も『サンプルのままで充分いい』と喜んでいたのに。どうしてサンプル上がりのままの仕上げではだめなの。オーダーが立て込んでいる時は、ともかく『喜んで頂けれる形であれば良い』ぐらいの要領の良さも、妥協も必要だって。本多君ももうよく知っているでしょ」
 管理的な仕事を任されていると、どうしてもこのようにドライにならざる得ない時もある。琴子だって、理想あるデザイナーにこんなことは言いたくない。
「喜んでもらえたから、サンプル以上のものを受け取ってもらいたいだけだろ。そういうのが次の仕事にも繋がるんじゃないのか」
 そう言われ、琴子はその気高いデザイナー精神に胸打たれてしまった。
「そ、そうよね。うん、そうだわ」
「いや……そっちが言っていることも間違っていない。だから。朝までに絶対に仕上げる。図案も使う画材も決まってる。あとは描き方、描き出す雰囲気」
 そこまで高まっているなら、琴子も一安心する。そんな落ち着いた琴子を見て、どうしたことか雅彦が静かに笑っていた。
「馬鹿だな、俺達。もっと前にこうして話していれば……」
 そうね。琴子もそう思った。だけれど、元カレの雅彦が今の状態に落ち着いたのは、琴子一人ではどうにもならなかったことだと思っている。
 彼を変えたのは琴子じゃない。きっと……『英児』。私の夫。
「いや、もっと馬鹿なこと、いま言った。忘れてくれ」
 そんなこと、俺達には絶対にあり得なかった。もう少し歩み寄っていれば上手くいっていたかも、なんて。絶対に、二人だけの間ではなかった。いまそう思えるようになったのは、互いに『新しい出会い』と『お互いに違う道を歩み始めたから』だ。彼がそう言いたそうにして、その言葉すら飲み込んだのが琴子にも伝わってきた。
 だから、琴子は彼の言葉に一切反応はせず、聞こえていたのに聞こえてなかったような残酷な態度しか取れなかった。
「ちゃんと食べてね。本多君、ここ二晩ほど、あまり食べていないし、寝ていないでしょ」
「それぐらい。俺には当たり前だって知っているだろ」
 そうよ、元カノだからよく知っている。そんな彼によく放っておかれた。だからよく知っているからこそ、それぐらいは心配させてよ――と、思ったのだけれど。そこは会話の途中で無反応を示した元カノへ、同等のお返しをしてくれたようだった。つまり『もうお互いに気遣い無用』という決着。
 だけど、それで琴子の心は少し軽くなる。元カレ、元カノの状態で、どうしてか小さなデザイン事務所の同僚になってしまったが、恋人としてはあんなに上手くいかなかったのに、仕事相手としてはこのうえなく上手くいっている。不思議だった。
「そうだ。これは出来たんだよ」
 一枚の画用紙を手渡される。
 そこにはジャムのラベルが数枚。
「素敵。これ、二宮果樹園の新商品、ハチミツ夏みかんの瓶ラベルね」
「そう。カネコおばあちゃんが俺が作ったヴァレンタインのギフトボックスを気に入ってくれ、またデザインして欲しいと指名してくれただろ」
「私たちの地方だと、すぐに伊予の国とか、坊ちゃん、明治大正レトロとか、そんなデザインやイメージに流れがちなんだけれど」
「そうそう。瀬戸内の島、おばあちゃんが作った……とくればね。でも。カネコさんが洒落た気風を持っているおばあちゃんだと知って、俺もいろいろな冒険が出来て楽しかった」
 そこには、レトロ風ではあっても地中海カントリーを思わせるデザインに仕上がっていた。だからと言って、欧風に頼らず、この瀬戸内のおおらかさを現すためか、優しい水彩画で仕上げている。
「これ。キッチンにちょこっと置いていてもお洒落。私も欲しい。真田珈琲さんの店頭に並べても、とっても馴染むわね」
 だけど……と、琴子は渋い顔になる。
「これって。明日〆切のその仕事より、ずっとずっと後の〆切なのに」
 そこで雅彦が、またあの面倒くさそうな溜め息をあからさまに落とした。
「順番に上手く浮かぶ訳じゃないんだよ」
「そうね、そうよね。いつも、そうだものね」
 琴子もつっけんどんに返したので、また雅彦が不機嫌に背を向けてしまった。
 それっきり、一言も言わなくなったので、琴子は『いつもの彼』をよく知っているからそこでちょっとした会話も終了と背を向けたのだが。
「あのさ。……」
 小さく聞こえたその声に、琴子も振り返る。
「あのさ。やっぱり俺一人では無理だった。仕事を取ってきてくれる社長のおかげ。こんな自分のやり方じゃないと仕事が出来ない管理能力がない俺のスケジュールを、厳しく管理してくれる琴子のおかげ……。だから俺……、琴子が右腕になってくれるなら……独立できると思ったんだ」
 だけどそこで琴子は、苦い思いを噛みしめていた。
 それを『結婚しよう』に結びつけてきた彼がしたこと、いまも許していない。男として許していない。それでも、この半年で彼はあまりにも変わった。しかも今や飛ぶ鳥落とす勢いの『人気デザイナー』に変貌していた。職で男を見せてくれたから、『仕事』は一緒に頑張れる。
「それから。お前の旦那……。滝田社長が俺のデザインを生き返らせてくれた。変えてくれた。息を吹き込んでくれた。クライアントを見て、なおかつ、俺のデザインを生かすって本質……」
 そして雅彦は再度、繰り返した。
「俺、一人じゃ出来なかった。なにもかも。それを教えてくれたのは、お前の旦那だから」
 琴子も判っている。デザインの仕事が第一だった気難しい元カレが、こんなにも変貌したのは、夫の英児が『嫁さんの元カレ? それがどうした。いい仕事をする男だってビビッと来たんだよ!』と、これまたロケットのように一本筋ですっ飛んでいって、周りを引き連れ、ひとつの仕事としてまとめてしまったからだ。
 それから雅彦には沢山の仕事が舞い込むようになった。口コミもあるし、龍星轟のステッカーを目にして、三好デザイン事務所への問い合わせが増えたり。つまり、三好デザイン事務所はいまや、『本多雅彦』というスターデザイナーを抱え、大繁盛だった。
 しかも。つい最近、爆発的に大ヒットした同郷発の『島レモンマーマレード』の作り手である二宮果樹園のカネコおばあちゃんから名指しの依頼を戴き、果樹園が提携している真田珈琲と全国大手メーカーのカメリア珈琲からも依頼が舞い込むようになって、日々、打ち合わせに琴子も追われていた。
 それもこれ。あの時、夫の英児が『嫁さんの元カレ? んなヤツのデザインなんかいらねえ』なんて、小さなことをいう男ではなかったから。
 そのおかげで、琴子の勤め先にも恩恵がまわってきた。この事務所の誰もが思っている。『あの時、滝田社長が本多のデザインを採用したから……』と。
「シーズン限定のステッカーデザインの話、受けるからと旦那に返事をしておいてくれ」
「ありがとう」
「結婚、おめでとう」
 仕事の会話のどさくさに紛れこませたような最後の一言に、琴子はハッと顔を上げる。
 この事務所で誰もが琴子の結婚を祝ってくれても、彼からは一言も……、当然だけれどなかった。それは琴子も求めていない。そしてそんな一言……やっぱり一度は愛した男性に言わせたくなかった……。そんな一言を。
 なのに。結婚して三ヶ月。もう新婚生活といっても、既に龍星轟での夫との生活も日常に馴染んできた今になって……。
「……ありがとう、雅彦君」
 背を向けたままの彼に。もう二度と言わないと決めた呼び名を。でもこれで絶対最後。
「ありがとう」
 俺とはだめだったけど。これでよかったよ。あの旦那なら、琴子、お前、幸せになれるよ。
 手前勝手かもしれないけれど、そう聞こえた。  琴子も背を向け、そして涙がこぼれそうになった顔を上げ、そこを去る。
 
 さあ、帰ろう。夫が待つところへ。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ガルガルとワザと吠えているようなエンジン音も、だいぶ聞き慣れた。
 この車ではないと物足りなく思ったりする。
 アクセルを踏んで、ハンドルを切って、駐車場へ。
 帰宅途中のいつものスーパーマーケットに到着。

 駐車した銀色のフェアレディZから降り、ハンドバッグ片手に店内へ向かう。その時ふと振り返って、琴子はちょっと笑ってしまう。
 夕方、主婦が多い時間帯に、あんな厳つい男の車が停まっている。かなり目立ち違和感。だけど、琴子はやっぱり笑ってしまう。そして幸せを噛みしめる。
 自分一人では絶対に選ばなかっただろう厳つい車が愛車になっている。それはまるで、正反対である夫が毎日傍についてくれているような、送り迎えをしてくれているような、そんな気持ちになる。
 夫が手入れをしてくれている愛車。夫が『婚約の記念に。結婚したらお前の車』と譲ってくれた愛車。車好きの夫が手放してくれたのだから、余程のことと琴子は受け止めている。
 あの車は琴子にとっては『婚約指輪』に等しい。一生大事に乗ると決めていた。
 
「今夜はどうしようかな」
 店内、食品売り場を巡る。
 忙しさにかまけて、ついつい簡単な手料理になっているここ数日を反省し、琴子の頭の中は何を作ろうかぐるぐる。
 実はもうすぐ琴子の誕生日。次の土曜日がその日にあたる。しかも『彼と一緒に初めて迎える誕生日』。付き合って一年もしないうちに結婚した。昨年の今頃はまだ出会ったばかりで、彼とは恋人同士にもなっていなかったから……。
「その日にたくさん作ろう。いまからメニューを考えておかなくちゃ」
 彼が好きになってくれたメニューが浮かび、それが新しい住まいの新しいテーブルにいっぱい並べている自分を琴子は思い描いていた。
「じゃなくて……。今夜のご飯よね、まずは」
 冷蔵庫に足りなくなった野菜をカゴに入れ、次は精肉売り場。
 けっこう食べるのよね。と、琴子は精肉パックもひとまわり大きいものを手に取るようになっていた。
 同居当初、母と二人だけの生活をしていた時の感覚で食材を揃えたら、ぜんぜん足りなかったことを思い出す。
 徐々に材料もこしらえる量も増え、そして自分の今までの生活では選ばなかったものも探すようになる。つまり英児がそれまでに好んでいた商品など。最初は彼と一緒に買い物に行かないと、何を好んでいるのか判らなくて困ったりした。
『琴子が選んだならそれでいいよ』
 おおらかな彼だから、そういってこだわりなく笑って流してくれるのが目に見えて、だから、琴子から英児の腕を引っ張って『これとこれ、どっちがいいかな』と聞いて選んでもらったりした。
 珈琲売り場に来て、琴子は足を止める。
『コーヒーはさあ。琴子が選んできてくれたのが、うまかった。だからお前に任せるな』
 一緒に住み始めたころ、そこだけは琴子に気遣う様子もなく、はっきりと言ってくれた。
 先日。気候も暑くなってきたので、アイスコーヒーを入れてあげたら、大絶賛。それを思い出して、琴子は微笑みながら珈琲豆を手に取った。
 つい肉料理になってしまうので、最後に鮮魚売り場も眺めてみることに。すると『太刀魚』が目についた。そのパックを手に取って眺める……。
『この前の太刀魚の天ぷら、すごい美味かったよ』
 母のやり方を真似して作った天ぷら。彼が初めて食べてくれて、とても気に入ってくれた料理。
「あれから、一年なのね」
 出会ってまだ一年しか経っていない。去年の今頃、桜の季節に別れてそれっきりだった彼と再会したのも、こんな梅雨の時期だった。
 なのにもう。いままでの誰よりも長く一緒に過ごしてきたように感じている。男の人と暮らすのが初めてだから? 初めて毎日毎日一緒にいられるから? でも、もう彼は琴子の日常。すぐそこにいて、いてくれないと心と身体の半分を無くしたように恐ろしくなる。
「天ぷらにしよう」
 また巡ってきた季節を思い、その食材をカゴに入れた。
 
 買い物を終え、フェアレディZに乗り込んだ途端に、夏特有の大粒雨の夕立が襲来。
 激しい雨が跳ね飛ぶバイパスを龍星轟へ向かって走るのだが、琴子はハンドルを握りしめてため息をついた。
「あー、もう。せっかくワックスがけをしたばかりだったのに」
 週末、自分で丁寧に磨き上げたばかりだった。ワックスがけは楽しいしけれど、楽しい分、一手間かけている。その手間をあっという間に台無しにしてくれるのが、この雨。手間を思い出すとほんとうにがっくりする。  そしてまた思い出している。
『夕立はやっかいだよな。これで外でワックスがけしていたら最悪なんだ。俺の敵』
 あの時、彼が本気で雨雲を睨んでいた顔を思い出す。そして、一年経ち、今は琴子もまったく同じ気持ち!
「本当に敵なんだから。ピカピカになったゼットが汚れちゃうし」
 ため息をついた。どんな時もピカピカでキラキラ煌めく愛車にしておきたい。そんな気持ちになっている。
 大好きな車がキラキラ綺麗になっていくのは、自分がメイクをして嬉しい気分になる時と同じだと琴子は感じている。
 だから車が大好きな男性達が、あのワックスじゃないこのワックスがいい。あの商品も試してみるか。と、あれこれ夢中になってしまう気持ちが良く判る。
 いまや琴子も、そんな車好きな男達の仲間入り。お店に新しいワックスが入ってきたら使いかけをほうって試してみたくなるし、水アカ取りにウィンドウ撥水コーティング剤にタイヤワックスなどなど、入荷品はひとつひとつ手にとって眺めてしまう。最近はタイヤとかホイールまで『こんなの履かせてみたいな』とか本気でカタログから物色したりしてしまう。それは化粧品をあれこれ試したり、お気に入りを探し当てるあの気持ちと一緒だった。
 結婚後も、土曜日曜はお店の手伝いもよくする。滝田店長からもらったあの龍星轟のジャケットをはおって、彼と一緒に接客もしたりする。そうしてお店に顔を出すことで、まだ見知らぬ顧客さん達と顔見知りになれる。
 そしていつも、店長の彼が『女房になった琴子』と紹介してくれる。そして顧客さんと知り合いになり、その人それぞれの車への愛情を知る度に、『龍星轟のオカミさん』になっていく実感をすることが出来た。
「この雨だと、英児さんも怒っているかもね〜」
 ボンネットに、止まぬ雨と激しく散る飛沫。店先で顧客の車を磨いていたなら、彼も同じ気持ちになっていることだろう。
 
 空港近くになると、道路はびっしょり濡れているが既に小雨になっていた。
 龍星轟の店先も水溜まりが出来るほど濡れていたが、龍星轟から見える海空には晴れた夕空がひろがっていた。こちらはもう夕立も通過済みで、そろそろ雨も上がりそうだった。
 ガレージへと向かう。隣のピットには整備士兄貴コンビの清家さんに兵藤さん、そして矢野さんが車を整備している姿が見える中、琴子はガレージへ、ゼットを駐車させる。
 まだ初心者マークだけれど、もう夫の監督なしで車庫入れ駐車が出来るようになった。
 これも一年前には考えられない自分の姿。
 車を運転する自分など想像もしていなかったし、ましてや、新しい恋人が一年後にはいるのかしらと思い悩む以上に、大きく通り越して『結婚』している。
 ほんとうに、こんなに変われるとは思ってもみなかった。
 しかもこんな銀色のスポーツカーに乗って、車屋のオカミさんになっている。
 車のエンジンを切っても、琴子はハンドルをもう一度握りしめ、感慨深い溜め息を吐いていた。まだ夢を見ているようだと。住む自宅も自分が生まれ育った実家とはまったく違う会社兼自宅で、本当に車に囲まれた暮らし。
 望んでいた世界ではなかっただけに、いや、思いつきもしなかった『男の世界』にいつのまにか馴染んでいる。
 運転席を降りドアを閉めると、ガレージの入り口に傘をさしている人影が現れる。
「おう、おかえり。琴子」
 いつもの作業着姿の彼が出迎えてくれる。
「ただいま、英児さん」
 あのにぱっとした笑みをみせてくれる彼。英児は毎日ちゃんと、このガレージまで琴子を出迎えに来てくれる。
 そんな彼が傘を閉じながら水に汚れたゼットを見て、やっぱり同じようにため息をついた。
「雨、残念だったな。週末、自分で綺麗に磨いたばかりだったのに」
「ほんと敵ね、あの雨は。ゼットが濡れていく瞬間のあの脱力感ったらもう……」
 英児も笑う。
「これからの季節、しょっちゅうこんなんだよ」
「英児さんは。お仕事中、大丈夫だったの」
「おう。俺はセーフだった」
 良かったと笑うと、英児は嬉しそうに琴子の傍にやってくる。
「おかえり」
 ハンドバッグや買い物袋を両手に持っている琴子をそのまま、英児が大きく腕を広げて抱きしめてしまう。しかもぎゅっと力を込められ、逆に琴子の身体から力が抜けそうになる。
「た、ただいま」
 毎日ではないけれど彼は時々、『おかえり』と出迎える時にぎゅっと強く抱きついてくる。まるで『お前が帰ってこないかと思った』とか『お前が帰ってくるまで、待ち遠しかったよ。寂しかったよ』とでも言いたそうな、そんな寂しがり屋の英児らしい抱擁。たぶん、そういう気持ちが素直に行動に出てしまう彼だからこそ。そう思うと、こうして帰りを待っていてくれる彼を知るたびに、琴子の胸はきゅんとしめつけられる。
「おかえり、琴子。おかえり」
 自宅が職場である彼、私の夫。そして彼の会社があるここが、私たち夫妻が暮らす家。
 毎朝、彼が『おう、気をつけて行ってこいや』と見送ってくれ、そして毎日、彼が『おかえり』と迎えてくれる。
 夫が送り出してくれて、夫が待っていてくれる。いま琴子が帰る場所。
「お、太刀魚を買ってきたな。絶対に、あの天ぷらな!」
 買い物袋の中身を知った彼がそういいながらも、琴子の手から、その買い物袋を取り去って、代わりに持ってくれる。そういうさり気ない気遣いも相変わらず。
 しかもガレージを出ると、荷物片手の英児が傘をさして、それを琴子の上にかざしてくれる。
「ありがとう、英児さん」
 こんな時、普段は元ヤンの名残を感じさせる怖い目つきばかりする彼が、本当に穏やかに優しく微笑んでくれるので、今度は琴子が思いっきり彼に抱きついてしまいたくなる。待っていてくれた彼に、琴子を大事にしてくれるお返しに抱きしめてあげたくなる。
『おう、お疲れぃ。琴子』
『おかえり、琴子ちゃん』
 だけどそこで、ピットで仕事をしている矢野さんと、整備士コンビの兄貴ふたり清家さんと兵藤さんの声も届くのも毎日のことで、英児に抱きつきたくなった琴子はグッと堪える。
 ピット内でワックスがけを仕上げていた矢野さんが、この時間になると見られる夫妻の姿を見て、これまたお馴染みの呆れた溜め息をこぼしている。しかも今日は夫が妻に傘をかざしてという……。
「おい、クソ旦那。毎日毎日、待ちくたびれたワンコみたいに迎えに行くと、嫁さんにウザイって嫌われるぞー」
「うっせーな。嫁の帰りを待っていて、どこが悪いんだ。このクソジジイ!」
 いつもの師弟のどつきあいも相変わらずで、琴子も整備士兄貴達と一緒に笑ってしまう。
 いつの間にか雨上がり。初夏の夕。すこしだけ茜色に染まっている雲が海から近づいてきている。今年も龍星轟の夕空には、小さなコウモリがぱたくた。二人の頭上を飛んでいる。
 
 良いことも悪いことも、たくさんのことが降ってきても、ちいさな傘の中、肩を寄せ合って一生懸命歩いていく。いま、そんな気分。

 

 

 

Update/2012.10.10
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