《ワイルドで行こう;オールアップ》

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 3.ワイルドで行こう《Born to Be Wild》 

 

 やっぱり雨が降ったり、やんだり。
 勤め先の三好堂印刷近くにある小さなカフェ。そこがつきあい始めた時から、彼との待ち合わせ場所。大きなバイパス車道の通りにある。
 小さいけれど二階建てなので、テーブル数はまあまあある。静かで混まないので、待ち合わせをするにはゆったり過ごせるカフェだった。
『ちょっと俺の方が時間かかる。外回りにでているんだ。三十分ぐらい遅れる』
 仕事を終えて徒歩でこのカフェに着くころ。そんなメールが携帯に入った。
 この雨の中、スカイラインに乗って外回り。龍星轟に帰ってゼットに乗り換えて、そうして来てくれるのかしら?
 スカイラインのままなら、直行でここにこられたのかもしれない。ちょっと我が侭だったかなと、琴子はいつもの二階席へとカフェの階段をあがった。
 お馴染みの席で紅茶を飲みながら、雨に濡れるバイパスを窓から眺めた。ちょうど目の前が交差点。雨に濡れているけど、車道も車も、信号もどれもきらきら光っている。
 それに雨もあがったよう。暗かった空に、薄明るい夜空と月が見えてきた。
 それだけで『綺麗』と琴子の心もなごむ。
「スカイラインでもいいわよ――て、伝えておこうかな」
 携帯電話を片手に、琴子は『行ったり来たり大変だから、スカイラインでもいいですよ』とメールを送信してみた。
 だけど。数分経っても音沙汰ナシ。運転中なのかなと首を傾げた。
 読みかけの文庫本を久しぶりに開いて、ちょっと長い待ち時間。冷めた紅茶がなくなるころ、琴子はちょっと心配になって、雨上がりの交差点を眺める。
 携帯電話も再度確認したけれど、なにもなし。
 その間に、周りの席の客が二組ほど入れ替わる。長く一人で座っているのは琴子だけ。
 背中合わせの席から煙草の煙が漂ってくる。夫が喫煙家だから、琴子もいつのまにかそんな席に一人でも座るようになってしまった。
 ついたての向こうは、残業あがりのサラリーマン二人連れ。ささやかに聞こえてくる会話、何を話しているかわからない。なのに突然その彼等が声高に言った。
「お、あれ。交差点の、見ろよ」
「うわ。ここらでは珍しいな」
 彼等の興奮気味の声に、琴子もそっと二階から見える交差点へと目を馳せた。
「本州から来たんじゃね。でもこんな雨の季節に、あんな真っ白な車体を汚すなんてもったいないな」
 そして琴子もその白い車を見て『本当だ。この地方では珍しい』と目を見張った。
 交差点で信号待ちをしているのは真っ白なイタリア車。フェラーリ! 微かに空かしている窓の隙間から、そのエンジン音まで届いてくる。
 信号が青に変わろうとしている。どんな発進をするのかしら、どんな人が運転しているのかしら。やっぱり琴子も羨望の眼差しを送ってしまう。
 信号が青になる。でも、その車がぐんとこのカフェの駐車場に入ってきた。
「この店にきちゃったな。ここフェラーリのオーナーがドライブ中に入るような店じゃないだろ」
 そんな男性達の声。そして琴子も。こんな道端の、ここらへんのサラリーマン相手の小さなカフェにどんな人がなにを思って? でもその運転席から降りてくるだろう人も気になる。
 すぐ真下に停まった白いフェラーリの運転席ドアが開き、そこから出てきた男性を見て琴子は仰天する。
 龍のワッペンが着いた紺色の作業ジャケットを来た男、普段着そのままの旦那さんがフェラーリから降りてきた!
 しかも。二階を見上げた彼が『いつもの席にいる妻』を見つけて笑顔で手を振ってきた。
「……手、振ってるな」
「え、この店の誰かを迎えに来たってことか?」
 すぐ傍の彼等があちこち見渡している気配がして、琴子はバッグ片手にさっと立ち上がる。
 階段を下りて直ぐそこにあるレジカウンターで精算も急いで外に出た。
「琴子!」
 白いイタリア車に、普段着の夫。
 なのにそのレーサー服を思わせるワッペンつきのジャケットのせいか、そんなに見劣りしていないところがすごい。
 車の仕事をしている男が、その車に携わっているというしっくりとしたオーラにまとまっている。
「え、英児さん。ど、どうしたの。この車」
 戸惑う琴子を見ても、英児はいつもの如く、こともなげに告げた。
「琴子の誕生日だから、盛大にこれででかけようと思ってさ」
 私のために!?
 今夜のためにどこかから持ってきたと判っても、それが自分のためだとはっきりと聞いて、また琴子はびっくり仰天する。
「こ、こ、こんな高級車……どこから」
 レンタル? まさか、まさか……貴方のことだから『思い切って買った!』とか言わないわよね!? 思い切りの良い彼なら、本当にやってしまいそうで。だから琴子はドキドキ、ヒヤヒヤ。
 だけど。彼はそこもおおらかに笑い飛ばした。
「あはは。買うわけねーだろ。さすがに何台も持っている俺でも、どんなに欲しくても買えねえって。それにフェラーリ買うなら、その前に日産のGT-Rを買うって」
 夫は国産車愛が強いことでも有名。特に日産車愛好者。常々、フェラーリよりもGTRと言っている。
 では、これ。どうやって? その真相をやっと教えてくれる。
「南雲君から借りてきたんだよ」
「あの、南雲さんが……」
 『南雲 誠』。その人の名が出たら、琴子もすとんと納得、落ち着いてしまう。
 その人は龍星轟の常連様でもあり、夫の英児とは車を通して仲の良いマニア仲間で走り仲間で『御曹司』。
 本社はこの地方にあるが、その業界では全国区規模での勢力を持つ大企業の御曹司だった。
 そこの次男坊である彼が、車好きで何台も持っている。当然、フェラーリも、そしてクラシックな国産車も、その他の海外車も、所有は様々。龍星轟でも所有台数はピカ一の顧客。地方でままならないところ、困ったことがあれば龍星轟を頼ってくれるとのこと。
 英児と婚約してから二度ほど龍星轟を訪ねてきて、琴子も既に顔見知り。琴子もその企業を知っていたので、それを聞いた時はとても緊張したもの。だけれど、夫の英児と南雲氏が、まるで同級生のように茶化しあい、どつきあい、気さくな関係を眺めてるうちに、琴子も御曹司ではなく『夫の親しい友人』として接することが出来るようになった。
 だからこその、『さっとフェラーリを貸してくれた』は納得。
 きっと……。琴子の誕生日だから、初めてフェラーリに乗せてやろうと思って借りてきてくれたのだろう? なんて思ったら大間違い。この夫、琴子が思うよりちょっと大きなことを考える人。その夫が唐突に言いだしたこと。
「琴子の誕生日だからさ。『嫁さんに運転させてあげたい』と言ったら、南雲君も喜んで貸してくれた。きっと奥さん、喜ぶよってさ!」
 私が、う ん て ん!?
 嫁さんを乗せてあげたい。じゃない! 嫁さんに運転させてあげたい。と来た!
 琴子は慌てて首を振った。
「む、無理っ。だって、私、まだ若葉マークだし! 左ハンドルのミッションなんて無理!」
 速攻拒否する妻に、何故か夫が『待ってました』とばかりにニヤリとした笑みを見せたので、琴子はその余裕はなんなのかと固まった。
「大丈夫。だから、F430を借りてきたんだから」
 そんな車種を言われても、琴子にとってはフェラーリは高嶺の花というイメージしか湧かない車。
「まあ、いいや。まず俺が運転をして見せてやるからよ。助手席に乗りな」
 即決の男は琴子のその後の反応など構わず、いつもの龍星轟ジャケット、デニムパンツスタイルでさっと運転席に乗り込んでしまう。
 赤い革張りのシート、そこにすっぽりと身体を沈め、既にシートベルトを締めているところ。
 琴子は助手席を見たって、ドキドキ。嘘、本物のフェラーリに、乗れちゃう!?
 真っ白でピカピカのフェラーリ、大きな車体が優雅に輝いている。だけれど、カフェの男性客が言ったとおり、足回りは雨のせいで泥を跳ね白い車体を汚していた。それでも! 素敵に見えてしまう車だと琴子はその神々しさに震える。いつもメディアで見かける飾り物みたいな手に届かない車なんかじゃない、泥がついているからこそ『公道を走ってきた本物のフェラーリ』という重厚さを見せてつけている。汚して走ってこそ、フェラーリのオーナー。そういう悠然としたムードに、琴子はもう気圧されっぱなしだった。
「どうしたんだよ。大丈夫だって」
 あんまり物怖じしているのがもどかしいのか、ついに夫があのキッとしたガンとばしの眼つきを見せる。それを見たら、琴子も四の五の言わず、とにかく彼を信じて乗り込むだけ。
 おずおずと赤いシートに身を沈める。それだけでなんだか違う! シートベルトをして整えると、やっと英児が運転席で微笑んでいる。
「誕生日、おめでとう。さあ、行こうぜ」
 琴子の頭を大きな手でくしゃっと撫でると、すぐにハンドルを握って前を見据えた。
 エンジンがブオンと吠える。本当に馬みたい? そして運転席にはいつも通りの旦那さん。琴子の誕生日だからと気取った格好もせず、本当にいつも通り。ただ車が車があまりにもすごすぎるっ。
「よっしゃ。行くぜ」
 彼がハンドルを回し、アクセルを踏んだ。ぐんっと軽やかに白い馬が走り出す。
 そして英児もいつもの車と変わらず、フェラーリだろうがなんだろうが、まるで『俺の車』とばかりに慣れたスムーズな運転。
 あっという間にバイパスに出る。真っ白なサラブレッドがエンジンを高らかに唸らせながらもスマートに滑らかに、でも低い姿勢でアスファルトを駆けていく感覚!
「違う、やっぱりゼットとは違う」
 ゼットも視線が低くスピードを出すほど地面を這っているような感覚になり、それを感じる時は重力がかかっているのか運転してる自分の身体も重く感じたりする。
 それがこのフェラーリでも同じ感覚におちいったが、これはこれでまた違う感触。エンジンの音も全然違う。
 こんな滅多に乗れないはずのイタリア車でも軽快に左シートで運転をする英児を見て、琴子はやっと気がついた。
「え、それなに?」
 そこで英児がニコリと笑った。丁度、信号が赤になり白いフェラーリが停車する。
「気がついたか」
 握っているハンドルのすぐ裏。そこを英児はハンドルと一緒に握って、カチカチと軽く鳴らした。
 ハンドルと二重になっているレバーが左右にひとつずつ。
「F1マチックっていうんだ。この手元のパドル操作でクラッチの操縦をマシンが自動でしてくれるんだよ」
 まだ車のことがわからない琴子は目を見張った。
「え、手で出来るの? それってオートマチックなの?」
「んー、厳密にはMTにはいるけど、セミオートマかな」
 それで琴子もやっと理解する。だから、『嫁さんも運転できる』とこれを借りてきてくれたのか、と
 その前に信号が青に変わる。その途端、また英児の目線がフロントへ、あのキッとした怖い眼に変わる。
「見てろ。そうしたら、琴子もこれを運転できるからよ」
 俺が今から見本を見せる。だからよく見ておけ。そんな彼の怖い眼、でも琴子も神妙にこっくり頷く。
「右がシフトアップ、左がシフトダウン。ニュートラルは両方共に握る。ただしブレーキを踏んでいないとギアがはいらない」
 彼の説明に、琴子も英児のハンドルを握る手を見て頷く。
 彼がアクセルを踏んで発進。夜空に沈んでいくバイパスが、オレンジ色の街灯に淡く浮かび上がっていく中、白いフェラーリが軽やかにまっすぐ走り出す。
「1速、」
 英児がハンドルを握ったまま、その下にある右のパドルをカチッと操作していく。
 本当に握るだけ――。琴子はまたドキドキしてくる。
「2速、3速……」
 ハンドルの下、指先だけで軽く切り替えられていく。
 微かにピリピリとした振動が伝わってくる。それは走行からくる振動ではない。まさに高らかに響くエンジン音からの振動。まるでサーキットでレースに参戦しているかのような錯覚に、初めてゾクッとした興奮を覚える。ぐんぐんエンジン音が軽く伸びていく感覚を琴子もしっかり体感する。だけれどそれはまた『初めての体験』。
「切り替えている繋ぎ目で振動とかショックがない。でも走りはすっごく軽やかに伸びて、エンジンの回転数の音で切り替わっているのがわかる……すごい」
「だろ。これなら左ハンドルでも運転できそうだろ。南雲君、今持っているフェラーリはこのF430と80年代のテスタロッサと二台なんだけど、テスタロッサはまだF1マチックは導入していなかったし、一年前に手放したF360モデナの時は完全ミッションだったし、このF430に買い換える時、今度はF1マチックにしたんだよ。彼も女性も運転できるフェラーリだからって、これを貸してくれたんだ」
 でも、それでもこんな大きな車体の高級車。本当に運転できるのだろうかとまだそんな気になれない。
「まあ、暫くは身体で感じてな。俺がいじりまわした『じゃじゃ馬ゼット』を乗りこなしているんだからよ。絶対に出来るって」
 それまで体感して、旦那の運転を見て目で覚えて、心の準備でもしておきな。そんな夫の言葉。ひとまず琴子もせっかくのフェラーリだからと言われたとおりにしてみた。
 やがてその白いサラブレッドは、夫の運転で56号線の狭い夜の国道を走り抜け、今治へと走り抜けていた。
 そしてあるところで、高速のインターチェンジへと入ってしまいそのまま高速に乗ってしまう。
「どこへ行くつもりなの」
 この夫がなにかをやり出すと、なるべく予定通りに生きていこうとしている琴子が思い付かないことをするから、いつだって胸騒ぎ。信じているけど、何が起きるか予測できなくて。
 しかし高速に乗って直ぐ。英児はとあるサービスエリアに入ってしまう。すっかり日が落ちた駐車場。そこを降りた英児がそこから見える向こうを指さした。
「あそこ、走ってみようぜ」
 彼が指したそこには、瀬戸内海の上に雄大に光り輝く大橋。しまなみ海道一番目の吊り橋『来島海峡大橋』があった。
 橋の存在を示すための数々の光が吊り橋を縁取って煌めいている。そしてその下には夜の蒼い瀬戸内海。漁り火を湛えた漁船が行き交い、大きなタンカーに、密かに輝くフェリーも航行している。
「琴子が運転するんだ」
 そして琴子も……。徐々にその心構えを整え……。でも激しい緊張。
 そんな時。そっと隣に英児が寄り添ってくれた。
「怖いのか。琴子らしいな」
 そして夜空の下、煙草の匂いが染みついている龍星轟ジャケットの胸にそっと抱き寄せてくれた。
「車を運転するのだって……。いままでの私にはあり得ないって思っていた。ただ必要に迫られて免許を取っただけならば、フェアレディZのようなスポーツカーなんか乗りこなせないと、以前の私なら、きっとそう思っていた。でも……」
 そして琴子は優しく抱いてくれている夫の腕から、夜海に煌めく瀬戸内の海を見つめる。
「なのに。貴方と出会ったら、信じられないことがいっぱい起きている。そして私、それが出来るようになっている」
 まるで自分に言い聞かせているよう。そして英児は黙って、琴子の頭の傍で静かに頷き、そして黒髪を柔らかに撫でてくれている。
「出来るさ。俺が知らないうちに免許を取って、俺が知らないうちにフェアレディZを運転したいと公道に飛び出していったのは琴子自身だぞ」
 そうだった。あの時、夢中だった。車が好きでその車でどこまでも駆けていく彼のようになりたくて、すっかり車に魅せられて。それまでまったく見向きもしなかった車に、スポーツカーに、しかも車屋の彼がチューニングした走り屋仕様の車をいまは当たり前のように乗り回している。
 そして、この温かみ。心強さ。大きな胸にいつだって優しく抱きしめてくれて、そして大事に包んでくれる旦那さんがいる。
 一年前の雨模様の日々。ただ打ちひしがれていただけの自分は、一年経った今日、こんなに変わっている。
「私、行く」
 真上から見下ろしてくれている夫の眼を見て、琴子は決断する。
「よっしゃ。行こうぜ」
 琴子自ら左側の運転席に乗り込む。そして隣には夫の英児が乗る。
 共にシートベルトを締め、ドアを閉め、琴子はハンドルを握る。
 ヒールがあるミュールのままアクセルペダルを踏んだ。
 馬のエンブレムが埋め込まれているハンドルを握りしめ、琴子はついにエンジンをかける。
 アクセルをひと踏みすると、ブオンと夫がしたようにこの車が大きく吠えた。
「す、すごいっ」
 どの車からも感じたことがないエンジン音と振動。それを自分が吠えさせたのだと思うと、あれほど怖じ気づいていたのに瞬時に身体中の血が滾ったのがわかった。
 そうなるともう、嘘のように『いつも通り』の気持ちでアクセルを踏み、ハンドルを回していた。
 大橋が展望できるサービスエリアを出て、フェラーリが高速道路を走り出す。やがて、琴子の目の前に、光をまとった大きな吊り橋が現れる。
「琴子。俺が隣についているからよ、思いっきり行け」
 もうこの車の運転席に溶け込み、その魅力に囚われた琴子も迷わずに頷く。
 そして。助手席で見守ってくれている夫がいるから……。
 アクセルを踏み、見て覚えたF1マチックのパドルを指先で弾く。
 3速、4速――。
「まだだ、行け、琴子」
 正直、体感ではこのあたりのスピード感覚が今までの琴子の限界。
 だけど琴子は頷き、5速……。
 すごいエンジン音! まるで轟音、爆音! 
「行け、6速!」
 けたたましいエンジン音の中、声がかき消されないよう英児が叫んでいる。
 怖い、けど、すごい! 目の前は橋を走っているというより、海の上、空を飛んでいるような感覚! 海のきらめき、船の輝き、橋の光、そして星と月、夜空と夜海がひとつになって。
 車じゃない。やっぱりこれは琴子には『ロケット』。知らない世界を見せてくれる『空へ飛んでいくロケット』だった。
 そして琴子は初めて身体で知った。
 これが。龍星轟なのね。
 滑走路のような橋から夜空に飛んでいく、龍の気分。けたたましい轟音を響かせて、星に向かって飛んでいくよう……。
 彼が、その名を自分の生き甲斐の場所として名付けたことが良くわかった気がした。そしてこれは彼がどう生きたいか望んで名付けたのだって。
 またひとつ。琴子は知る。そして自分に出来たことがまたひとつ増える。この日、この時、夫が与えてくれたこの日の出来事はきっとずっと忘れない。瞳に映るなにもかも、耳に届いたなにもかも、そして身体中で感じた何もかも。
「すげえっ。俺は日産のGT-Rもブランド力さえあればフェラーリにだって負けてねえと思っているけどよ。悔しいけど、やっぱフェラーリもすげえや!」
 そして隣で少年のように無邪気になってしまう、私の龍さんも。いつだって一緒、いつまでも一緒。
 いくつもの島を橋で繋ぐしまなみ海道を走り続ける。来島海峡大橋で繋がっていた島々と大島を抜け、また伯方大島大橋を渡り伯方島に渡る。そして琴子はここでフェラーリから降りた。だけどそれは『一度、ここで休もう』という英児からの指示だった。
 もう真っ暗な瀬戸内の小さな島。橋が出来て人々がたくさん訪れるようになったと言っても、夜は閑散としている漁村だった。
 白いフェラーリを海辺に停め、海上に光る伯方島の大橋を二人で眺めて、醒めやらぬ興奮を宥めるように潮風の中ひと息。
「飯食ってねえよ、俺達」
 琴子もはたと思い出す。
「ほんとうよ。もう夜遅くなったし……、どうする」
 そうしたら、彼がけろっと言いだした。
「んじゃ。せっかくだから尾道まで行ってしまおうぜ。泊まるところ、どこかあるだろ」
 そういう無計画を、夫は時々平気で言い出すから琴子はびっくりとびあがってしまう。
「ほ、本気なの? でも英児さん、明日もお店があるじゃない」
「ああ。俺、明日一日分の有給を取ったから、一日、琴子とゆっくり出来るんだよ」
「えー、そうなの!」
 うんと夫が平然と頷く。
「俺達、仕事もあったから新婚旅行も行っていねえし。琴子の誕生日だからなんとかならねえかなあと思っていたんだよ。矢野じいも武智も兄貴達も一日ぐらいなんとかなるから行ってこいって言ってくれたんだけど。俺の仕事もどうなるかわからないから、確実に休めるまでお前には期待させないよう黙っていたんだよ」
 そして。今日の夕方。なんとか無事に片づいたから、休めることになったとのこと。
「だから。どこも予約してねえんだよなあ……。うん。やっぱ、俺、馬鹿だな。車だけ捕まえてきて、お前とゆっくり過ごせる美味い店とかホテルとか旅館ぐらい、ダメモトで予約して準備すべきだったよな。琴子だって一泊するなら、女の子として必要な準備だってあるよな」
 わりい。俺、また自分勝手だった。と、あの英児がしゅんとしてうつむいてしまった。
 でも。琴子は……。そんな彼の大きな手をそっと握った。
「ううん。もう、なんにもいらない」
 だって。貴方と海の上、空まで飛んでしまったから。
「え、琴子。ど、どうしたんだよ」
 彼を見上げる琴子の顔を見て、英児が困惑している。その時、琴子の目は熱く潤んでしまっていたから。
「美味しい夕ご飯も、素敵なホテルも、今日はいらない。明日着る服もなんだっていい。お化粧だってしなくていい。つれていって。英児さんが私を連れて行こうと思ったところに、つれていって!」
 そのまま琴子は、もうすっかり慣れた夫の胸に飛び込み、きつく彼に抱きついていた。
「好き、大好き。愛してる。英児、愛してる」
「琴子……」
 素敵な瞬間をありがとう。忘れられない貴方との時間をありがとう。知らない世界につれていってくれて、ありがとう。
 そして貴方を、本当の貴方を知れて、嬉しかった。これから奥さんとして、私、貴方の生き方、一緒に見つめていく、走っていく、飛んでいくから。
 気持ちばかりが溢れてきて、声にならない。あんまりにも幸せで涙がでちゃって、伝えられない。
「なんだよ。今夜は俺がそういいたかったのに。いつも琴子に先を越されるな」
 ちょっと不満そうに口元を曲げた彼が微笑みながら、琴子の顔を覗き込む。
 両手で頬をつつんでくれた英児を、琴子も見上げる。
「俺、マジでお前と一緒になって良かった。車だけでいいなんて言ってくれるの、お前だけだよ」
「だって。とってもすごいロケットなんだもの、英児さんは」
 なんでロケットなんだよと、英児はまだ馴染めないらしい。
「本当に。いつもびっくりするの。今夜だってまさか白い馬を運転できるなんて思わなかった。でも私、海の上、空を飛んでいるみたいだった。つれていってくれたのは英児さんよ」
 きっとこれからも。こんなふうに。動物みたいに思い付いたことをすぐさま次々と実行していく彼に抱かれて、琴子は連れ去られていくのだろう。
 なにごとも野性的で、そして瞬発ロケットの旦那さん。いつまでも、いつまでも、そんな彼とそのままありのまま、思いついたままにすっとんでいってしまいたい。
「だったら。これからも覚悟しておけよ。俺、堪え性ねえから、欲しいと思ったら、やりたいと思ったら、すぐにかっ飛ばしてしまうから」
 そういって彼が真上からきつく、琴子の唇をふさいだ。そして強く、隙間無く、奥まで熱く愛してくれる。
 今日も、彼のキスは潮の香と一緒。海の匂い。野性的に琴子を奪っていく、愛してくれる。
 このロケットに乗って……。いつか、小さな乗員も一緒に乗せてあげたい。小さな乗員をたくさん乗せたい。琴子は愛されながらそう思い描いていた。
 
 静かな島の夜、橋のたもとの潮風。
 瀬戸内の夜の灯りに輝く白いフェラーリの運転席に、今度は英児が乗り込む。
「尾道か〜。なんかあるかな。以前行った時のあそことか、今はどうかな」
 ひとまず、スマートフォンで彼があれこれ探し始める。しかしすぐには見つけられないようだった。
 でも。無計画でも平気な彼だけれど、いつもの頼もしい手際で、まるで計画していたかのように美味しい店を見つけ、今夜の宿を探し当てるだろう。
 きっと今夜も大丈夫。彼と安らかに抱き合って眠れるはず。いつも龍星轟でそうしているように。普段着のままでフェラーリに乗ってきた彼のように。
 いつもと同じ夜を彼は見つけてくれるだろう。
「とりあえず、行くか。なんとかなるだろ」
 そして。知らない街に、彼は本能だけで駆けていこうとする。
「うん。行きましょう」
 琴子も赤い助手席でシートベルトを締めて、発進準備完了。あとは風に乗るだけ。
 
 龍と星のワッペンを腕に掲げる彼が、馬のハンドルを握る。
 今夜のロケットにエンジンがかかる。
 アクセルを踏むと、勇ましいエンジンが吠える。
 マフラーに火花が飛び散ったら、黒いタイヤがアスファルトを強く蹴飛ばし、私たちのロケットが真っ直ぐに走り出す。
 
 潮風に乗って、夜空の向こう、どこへ行くか見えなくても貴方は駆けだす。
 海から生まれたような潮の匂いがする貴方の隣で。
 《Born to Be Wild》 ワイルドで行こう!

 

 ※ ワイルドで行こう 完 ※

 

● ありがとうございました ●
2011年4月末日より始まりました『ワイルドで行こう』。たくさんの応援とお声を戴きまして、続編、番外編と繋いでいくことができました。皆様の支えがあればこその、1年半の連載でした。お読みくださった全ての皆様に、感謝と御礼を申し上げます。
そしてお届けする側の私自身も、とても楽しい時間を皆様と過ごすことが出来ました。(毎度とっても遅くなる)コメントレスを含めまして、皆様との一年半は本当に楽しく、連載を繋ぐ励みでもあり、またオフ生活での支えにもなりました。
それだけにとても名残惜しく、私もいつまでも二人に触れていた気持ちもありながら、でも新しい一歩をここから踏み出そうと思います。他作品でもご縁があれば嬉しく思います。
現役の琴子と英児はひとまずここで引退しますが、今後は父親母親として、娘が活躍するステージで頑張ってもらおうと思います^^
ワイルド関係の今後の予定は、またこちら『ワイルドで行こう・目次』か『茉莉花ドラッグBLOG』でお知らせして参りますので、確認して頂けたらと思います。
それでは! 来年、『小鳥・大人編』でお会いできたらと思います♪
これからの皆様の日々が、素敵なものでありますように(。-人-。)  茉莉恵
 

 

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Update/2012.11.2
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