お椿さんが過ぎると、瀬戸内は少しずつ春の気配。
春めくなか、彼女と新婚生活を堪能中。
そして、初めてのあのイベントの日がやってきた!
けど――。
おかしい。今年は絶対にもらえると思っていたのに、もらえなかった。
いい歳して、もらえなかったことで拗ねたり落ち込んだりしてはみっともないと思って、英児はここ数日、表面上は明るくしている。
なのに、武智に気がつかれた。
「タキさん。琴子さんからチョコレートもらえなかったんだ」
社長デスクでうだうだと事務処理をしていたら、突然、眼鏡の後輩が投げつけてきた。
「はあ? なんのことだよ」
「バレンタインのことだってば」
触って欲しくないところ、触ってきやがったな。長年の付き合いから、どうもこの観察力抜群の後輩だけは誤魔化せない。
英児はとうとう、折れてしまう。いや、もしかすると後輩の彼に気がついて欲しかったのかもしれないと思いながら……。
「気遣い細やかで、いかにも女の子っていう琴子がなにもしないっていう驚きってやつ?」
「ほんとにもらえなかったんだ。なんにも?」
なんにも――と、英児は首を振る。やっと眼鏡の後輩が、レンズの奥で驚きの眼になる。
「それが本当なら、俺も意外だな。だってバレンタインて、女の子が素敵なものを探して買うというのも含まれているよね。化粧品だってクリスマス限定のコフレとか、琴子さんいっぱい買いそろえていたもんな。なのにバレンタインはしないだなんて」
「別によう、絶対にもらいたかったでわけでもねえんだけどさあ」
「女の子らしい琴子さんなら、このイベントは絶対に外さないて、ちょっと期待しちゃったんだ」
そうです、そうなんです。と、英児はしょぼくれてみた。
「俺なんか、あんまりもらったことないもんなー」
「香世ちゃんの時も? 千絵里さんの時も?」
英児は黙った。もらわなかったわけではない。ただ、琴子ならどんなふうにしてくれるのかなという期待があったのは本当のこと。
「やっと結婚式が終わって夫婦になったばかりじゃん。その上、年度末で印刷業界も忙殺される時期だよね。琴子さん、新婚旅行も返上で結婚式を終えたらまた残業続き。それどころじゃなかったんじゃない。来年までゆっくり待ってあげたらいいじゃん」
「言われてみれば、そうだな。バカだな、俺ったら」
「来年はきっと、琴子さんらしく準備してくれているよ。兄貴なんだから、そんなことで拗ねない拗ねない」
「拗ねてないだろ。意外すぎて拍子抜けしていただけだ」
わかった、わかった――と、ニンマリとからかう笑みを見せる眼鏡の後輩の頭に、また英児は経理行きの書類で頭をはたいておく。
―◆・◆・◆・◆・◆―
瀬戸内の海の色が、少しずつ春らしくなっていく。
だが今夜も英児は一人で食事を済ませていた。彼女がいないと、途端に独身時代のように外食になってしまう。
店を閉めて、車でよく知っている店に行って、一人で食べて帰ってくる。それでもまだ二階の自宅に彼女が帰ってきていなかった。
もう十一時――。以前なら『俺が迎えに行く』とスカイランで三好堂印刷まですっ飛んでいったのに、今の彼女は自らがフェアレディゼットを運転して通勤をしているので、それに乗って帰ってこなくてはならないから、英児の出番がない。
「相変わらず、時間に容赦ない仕事だな」
ひとり煙草をくわえ、英児はふっと溜め息と共に煙を吹いた。
嫌だな。彼女がいないベッドに一人で寝転がるのが嫌だな。彼女がいつ戻ってきたかわからないだなんて嫌だな。
しかしまともに待っていると、本当に午前の一時や二時に帰ってくることもあって、英児も待ちきれないことがある。
待っていると琴子もびっくりして『駄目じゃない。明日もお仕事でしょ。ちゃんと寝ていて』と怒ったりすることもあった。
仕方ない。先に横になっているか――。
カーレースの録画を見ていたテレビを消して、リビングの灯りを落とそうとした時だった。鍵が開く音――。
英児はすぐにリビングの扉を開け、玄関へと急ぐ。
「おかえり、琴子」
眼鏡をかけた彼女がそこにいた。
「ああ、英児さん。まだ起きていたの」
とても疲れている声、それに、日に日に髪も乱れているような気がしてきた。
いつもきちんとお洒落な彼女が、本当に余裕をなくしていく時。そう、煙草の自販機で疲れ切った彼女に出会った時と同じように廃れた姿になりつつある。
「大丈夫か。すごく疲れているだろ」
「う……ん、大丈夫。いつものことなの〜。しかも何年もやってきたから、大丈夫」
あくびをしながら、琴子がやっと玄関をあがる。
「メシ、食ったのか」
「うん、適当にー。はあ、このまま眠っちゃいたい……」
「そうしろよ」
「でも、昨夜、お風呂に入れなかったんだよね。朝にしようと思ったら起きられなかったし。さすがに二日も入らないで仕事に行くのは嫌なの。お風呂に行ってきます」
リビングのソファーにバッグを置くと、琴子はふらっとしながらバスルームへと消えていった。
英児は溜め息……。いつものことながら、年度年始の忙殺は大変なものらしく、わかってはいるけれど見ていられない。
「こりゃ、チョコレートを見繕うどころではなくて当然だったかもな」
腑に落ちた。そして思い出している。桜が咲く四月初め。今夜と同じようにきちんとした雰囲気が漂っているのに、ぼさっとした油っぽい髪の毛でやつれ気味だった琴子と初めて会った時のこと。
あれもいまから始まっている繁忙期の終わりぐらいだったのだろう。あの時、あの姿の、疲れていた琴子がいたから、煙草の自販機なんて似合わない場所で出会えた。
もとより憧れのOLさんだったが、それよりも匂いにノックアウトさせられていたことも思い出す。
そっか。あの匂いがこれからしばらくかげるのかもしれない? 妙な男の期待が膨らんだが、英児は首を振りながら寝室に戻った。
ベッドに戻って横になり、それなら琴子が風呂から出てきたら、寄り添うだけでもいいから肌を触れ合って眠ろうと英児は待つことにした。
ベッドルームの小型テレビをつけて、暇つぶしにお笑いの深夜番組を見流す。時々笑って、奥さんを待つ。
彼女は女の子らしく長風呂。まあ、少しぐらいは待っていなくちゃな。……と思っている内に、ものすごい時間が経っていることに気がつく。
まさか! 嫌な予感がして英児はすぐにベッドを降りて、バスルームへと向かった。
「おい、琴子」
ドア前で声をかけたが、返事がない。これはもう間違いない! 英児は迷わずドアを開けた。
やっぱり! 英児は湯気いっぱいのバスルームに入って、バスタブへ。
「琴子!」
琴子は眠ったままバスタブのへりに頭をもたれて眠っていた。溺れてはいなかったが、身体が滑ったら、そのまま湯船に沈むような体勢!
彼女の腕をひっぱりあげる。湯の中で、彼女の大きなバストがふわりと揺れたが、英児は目もくれずに彼女の身体を抱き起こす。
「え?」
身体が動いたせいか、やっと琴子が英児の腕の中で目を覚ました。英児は湯で濡れた妻の裸体をぎゅっと抱きしめている状態。彼女が英児の胸元できょとんとしている。
「この、バカヤロウ! もうすぐで溺れるところだったんだぞ!」
「え、そ、そうなの?」
「おまえ、眠っていただろ」
やっと自分の現状況を把握したのか、琴子が申し訳なさそうに英児を見上げた。
「すごく気持ちが良くて……、二日ぶりのお風呂だったからつい……」
濡れた身体で彼女からもぎゅっと英児に抱きついてきた。
うっ。それは反則だろう。本当は毎日、おまえの肌に触って眠りたいのに。いまは忙しそうだから、眠らせてやろうと、俺は俺は毎晩我慢しているんだ――と、英児は心の中でなんとか自制を努めるのに。
「英児さん。気がついてくれて、ありがとう」
裸の彼女がさらに英児に抱きついてきて、しかも英児の口元にチュッと御礼のキスをしてくれた。
ああ、もうダメだと英児は真っ白になる。
濡れた裸体の琴子を抱きしめたまま、英児はあろうことか着衣のままざぶっとバスタブに片足を突っ込んでいた。
「英児さん?」
「おまえな、ほんっと悪いヤツだな」
「え?」
いつもなら、自分が着ている服がどんなに濡れたって、思いたったその場所で惚れた女の裸体に一直線。だが、英児は片足を突っ込んだまま、なんとか思い止まる。ぐっと思い止まる。
そっとバスタブから一歩踏み出してしまった濡れた片足を外へと出した。
いい匂いがする彼女の濡れた黒髪をそっと撫でて、今度は英児からそっと彼女の耳元へとキスをする。
「もう眠るなよ」
「うん。ごめんなさい、英児さん」
また素肌でぎゅっと抱きつかれる。見慣れたはずの彼女の大きな胸の谷間が、ほんとうにもう今夜はどうにもこうにも誘惑してきて我慢できないのに、我慢しなくちゃいけない。
結婚したはずなのに。なんだろう、この生殺し状態!
うー、このヤロウ! 大好きな彼女の裸を自分からつっぱねて、英児はベッドルームになんとか戻った。
―◆・◆・◆・◆・◆―
チョコレートなんてもうどうでもいいし、ただ、ただ、結婚して妻になったばかりの彼女をそばにゆっくりできればそれだけでいいのに。それがままならない時期。ただそれだけ。
溜め息をつきながらベッドルームに戻った英児は、独りブランケットにくるまった。
さすがに夜も深くなってきて、眠気が襲ってきた。遠くから彼女がドライヤーをかけている音が聞こえてきて、安心する。ちゃんと目を覚まして風呂から出たんだなあと。
安心するとうとうとしてしまった。ああ、今夜も俺は先に眠って、琴子の匂いを抱きしめられるのはまた明日の朝、慌ただしい一時だけか――と思いながら。
英児さん。琴子の声をかすかに感じて、英児はようやっと眠りそうだった眼を力無く開ける。
眠っている英児を琴子が覗き込んでいるところ。
「おう、お疲れ」
英児がくるまっていたブランケットの中へと、彼女が潜り込んできた。
英児のまわりにふわっとした香りが広がって、そして、心地よい肌の体温がそっと寄り添ってくる。
「英児さん。起こしてごめんね、眠っていたのに」
寝そべっていた英児の背に、琴子がそっと寄り添って抱きついてきた。
「いや、俺は、琴子とこうして話して眠りたかったから、今夜は眠る前に話せてよかった」
「寝ていていいよって、いつもお願いしているのに。でも、いつも待っていてくれて、英児さんの声を聞けて、私もほっとしているよ。ほんとうよ」
背中から聞こえてくる甘い声。疲れていてかすれているのに、でも優しくて甘い声。そして抱きついてくるやわらかいさとあたたかさ。
本当に、俺はもう独りではないんだなあと実感する幸せな瞬間だった。
「いつもこの時期はほんとうにくたくたになってしまうんだけれど。今年は英児さんと眠れるだけでしあわせ」
俺とおなじことを感じてくれると知ると、また彼女への愛しさは倍増してしまう。ついに英児は寝返って、背中に寄り添っていた琴子と向きあった。
一緒にベッドに寝そべって寄り添って、そうしていま、見つめ合っている。英児は琴子の黒髪をそっと指にすかして撫でる。琴子も気持ちよさそうにそっと目を閉じてくれる。
「俺もよ、おまえの肌がそばにないと眠れなくなっちまったよ。寂しいんだよ。夜遅くなっても、隣があったかくないと」
そして英児は琴子の首筋にそっとキスをする。
「おまえのこの匂いも。そばにないと落ち着かねえ」
「英児さん。私も……。龍星轟のこの家がもう私には心地よくて。だから帰ってきたらほっとするの。どんなにくたくたでも。お風呂も英児さんが温めておいてくれているから、すごく気持ちよかったの」
そうして今度は、琴子から英児のくちびるへとキスをくれる。
そんなことをされて『今夜はだめだ』なんて退ける英児ではない。でも我慢、我慢。でもキスだけはいいだろう? と、英児は琴子に覆い被さって彼女の上から唇を押しつける。強く押して、彼女より強い力でくちびるをこじ開けて、彼女よりずっと強く奥まで深く愛してしまうキスをする。
「ん、英児……さん」
少し苦しそうに呻く彼女のそれだけで、やっぱりどうにかなりそうなほど色めく顔をする。
いつも通りに英児は即刻、彼女が着ているキャミソールをめくって素肌へと手を這わす。その先にある大きくてふわっとした乳房をすぐさま握りしめていた。
琴子、琴子――。自制していたぶん、その心地よさは格別だった。だから英児は我を忘れてしまいそうになる。でもこの手は、今夜はもうどけなくてはいけない。
彼女を少しでも眠らせないと、明日も明後日も彼女は今夜のように夜遅くまで働かなくてはいけないのだから。
と、やっとの思いで英児は手を離したのに。
なのに、胸の下に抱いている琴子が思わぬ姿になろうとしていた。
「いいの、英児さん。今夜は、そんな気分なのは私なんだから」
いつも楚々としている彼女からの欲情に、英児は驚いて目を見開いた。
彼女からキャミソールを頭へと脱いで、大きな胸を英児の前に晒した。
「は? 琴子……?」
いつだって、速攻ロケットの英児が戸惑う彼女を瞬速素肌にしておっぱいを触るのが挨拶。そこから一気に『俺のもの』にして彼女を連れ去るように抱くのがいつものパターン。
「いいの。私も英児さんが恋しい……」
素肌になった琴子から抱きついてきた。
風呂上がりの匂いに、英児が大好きな彼女の熱い肌、我慢していたやわらかい乳房。それで琴子がぎゅっと英児の首元に抱きついてきた。
「いや、琴子……。あのな……」
「あ……、英児さん、眠いよね、もう」
琴子が我に返ったようにして頬を染め、恥じた顔になる。そして抱きついてきた細腕から力が抜けて、英児から離れてしまいそうになる。
「いや、眠くねえよ」
力を抜いて離れていく琴子を、今度は英児から自分の胸元へと抱きしめる。それだけで、素肌になった彼女の体温が熱く伝わって、そしてそばにあのイチゴのような匂いに包まれる。
「そんな気分ってなんだよ。俺なんかいつだって、そんな気分で、ずうっと我慢していたんだからな」
「いつだってそんな気分って、やだ、英児さんったら、もう」
いつだってエッチな気分でおまえをどうやって抱いてやろうか考えているんだと、夫のエロスイッチがいつでもどこでも遠慮なく入ることをよく知っている彼女が呆れながら笑った。
その笑顔がまた英児の胸をかき乱す。ここのところ疲れて帰ってくる顔しかみていなかったから――。
「琴子。俺、我慢しねえぞ。おまえが疲れていたって、夜中だって、いつも通りだ」
すぐそばにいるのに、そんな彼女の顎を掴んで英児は上を向かせる。すこし乱暴な男の手に、琴子がちょっと驚いた目。それでも英児はかまわず、誘ってきた妻のくちびるへと自分の唇を押しつけた。
そうなったらもう止まらない。いつもと同じ、妻になった女に遠慮なんかしない。しないどころか、毎日だって抱いてやりたい女を待ちこがれていた男の身体はもう止まらない。
英児もすぐにシャツを脱ぎ、スウェットパンツを脱いで裸になる。彼女が楚々と最後に残ったショーツを降ろそうとしていたが、そのおしとやかさがまどろっこしくて、英児がそれを掴む。そして、力任せに下へとひっぱろうろすると、逆に彼女の足が上へと跳ねる。その勢いのまま、彼女のつま先からショーツをどこかへと弾き飛ばしてしまう。
「も、もう。英児さんったら」
弾丸ロケット的ないつもの荒っぽさで脱がされた琴子が戸惑う。それでも英児はさらに一直線、奥さんが恥ずかしがろうがなんだろうが、かまうものか。こっちはもう走り出しているんだ。エンジン全開、たまっていたエネルギーも満タン! それをいまから! おまえのなかに!
「つっこんでやる」
「え?」
きっとものすごい男の顔をしていたのだと思う。彼女がいうところの『真剣勝負になったときほど、ヤンキーみたいな怖い顔をしてるの、でも目がとても綺麗なの』というヤンキーガンとばしみたいな顔をして、妻の足首を掴んでいるのだと思う。
だから琴子がギョッとして、どうしたことか彼女が後ずさった。が、英児がもう両足の足首を捕まえているので、それも敵わず。
しかももう走り出している英児は琴子の両足を思いっきり開いていた。
「え、英児さん」
開いた足の間に攻め込んで、なんの準備もなくもうすっかりその気になった男の尖端を妻のそこにあてがった。
ほんとうだったら、ゆっくり始まりのキスをして、空気も気分もほぐして、彼女の肌のあちこちを隈無く愛撫して、もう琴子の顔も身体もとろとろになったところをおいっきしいただく、抱き倒す。でも今夜はもう我慢できない。瞬速起動エレクト、それを妻に押しつける。
「や、あ、あんっ。も、も、英児さ……」
押しつけられた琴子がシーツの上で悶えた。それでも英児の堅くなった先っぽはつるつると気持ちよく滑って、腰をつかったらすぐに彼女の熱い肉体の中へと吸い込まれていく。
「は、はあん」
琴子の頬が一気に染まって、気持ちよさそうに背を反ってさらに深く夫を飲み込んでくれる。おもわぬ射し込み方になって、逆に英児が『うっ』と呻いてしまう。
彼女が『そんな気分』と甘い眼差しをしていたのも納得する。疲れているだろうに、でも彼女もストレスを溜めて、俺と一緒、もうそこに男を欲しがる蜜を溜めて耐えていたんだって――。
彼女の中に入った英児は、そのまま悶えた妻の身体の上におおいかぶさり、また肌の愛撫なんかそっちのけで腰を動かした。
「琴子。すげえな……。すげえいい」
下から力強く突きあげるだけの、男が溜めた我慢を女の中で解き放つだけの愛し方。なのに琴子は英児のすぐ下で『あ、あっ、ああん』と泣きそうな顔で首を振って喘いでいる。ほんとうに目尻に涙がちょんとこぼれてきて、そんなにいいのかと英児の胸もあつくなって、そこにキスする。
「ああん、英児――、ああん……えいじ……さ、ん」
シーツを鷲づかみにして、英児の真下でふっくらした乳房をいやらしく揺らして。なのに頬を染めたかわいい顔で英児英児となんども呼んでくれている。今度はその唇をふさいで、英児は腰を激しくグラインドさせる。口元もふさがれて『ん、ん、んんっ』とくぐもりながらも琴子は喘ぎ続けている。
「はあ、は……、あん、もっと……よ、」
これだけ、男の性を容赦なくぶつけているのに、俺の女房はそれだけでは物足りないらしい。
あんなに楚々としていた彼女なのに、俺の女房になるとこんなになって――。
でも英児は満足げに笑う。獰猛な龍の嫁なら、そう、いたぶられるほど妖艶になってくれなくちゃな――と。
仕事でくたくたになって、力尽きる前の女もものすごい色っぽくて好み。
だがいまは、仕事でくたくたになった妻が、そのストレスを発散するために夜中にこうして厭らしく淫らな女になるのも大好物になりそうだ。
最後は力任せに彼女をよつんばいにさせて、後ろから力いっぱいに押し込む。そういう荒っぽさだったのに、琴子はすごく気持ちよさそうな顔で甘い声をこぼしていた。
もう、だから。いつもはおしとやかな奥さんなのに。もう、ほんとうおまえってすげえな。
英児も気が遠くなりそうだった。車で峠をぶっとばしている時の爽快感に匹敵するほどの快感がここにある。
―◆・◆・◆・◆・◆―
程よい疲れがこんなに心地いいだなんて。翌朝、英児は珈琲を飲みながら、なんだかうっとりしていた。
琴子は大丈夫だったのだろうか。彼女も堪能してくれたようだけれど、それでも英児の溜まり溜まったエネルギーをぶち込んでしまったので余計に疲れていないか気になる。
「おはよう、英児さん。もう時間がないから行くね」
朝食もとらず、睡眠を優先したのか、今朝の琴子はもう出掛けようとしていた。
「いいのか、腹が減るだろ」
「うん。会社が始まる時間までに事務所で簡単にとるね。この時期はいつも眠るの優先でこんなになっちゃうの。心配しないで」
思ったより爽やかそう。でも……と、英児は珈琲カップを置いて椅子から立ち上がる。テーブルにいつものお洒落なバッグを置いて、英児の目の前で荷物を準備する彼女のそばへと近づいた。
「あの、さ。大丈夫か、カラダ……とか」
あんだけぶっとばしたので、自分の身体はまだ甘さを継続中で心地よいけれど、ぶつけられた彼女はどうかと一応心配してみる。
だけれど琴子は、英児の直ぐ下から見上げてくれて、にっこりと爽やかな笑顔。
「全然。……それどころか、逆にちょっと元気になれたかも」
少し恥ずかしそうに頬を染め、こんな時に、『いいところのお嬢さん』のしとやかな微笑みをみせやがる。また英児の身体の中で、なにかがびくんと反応してしまう。
「琴子、なんか今朝はかわいいな」
「え、なに」
テーブルに手をついて、英児は自分より小柄な彼女を両腕で囲ってしまう。
「いや、いつもかわいいけどよ。なんだよ、もっとかわいい顔しやがって」
いまにもテーブルに押し倒されそうになりながらも、琴子も英児をじっと見つめてくれる。そんな彼女がそっと英児の頬に優しい手で触れてくれる。
「あんなに愛してくれたから、こんなに素敵な朝なんじゃない。くたくたにしてくれたおかげで、ちょっとの時間でもぐっすりよ。それに……」
甘い声の余韻を残しながら、琴子から英児の唇にチュッとキスをしてくれる。
「今日はずうっと身体の奥に、英児さんが残ってくれそう……。そこがずうっと甘くて気持ちいいままよ」
英児の身体の血がぐわっと沸き立った。この彼女はいつから、いつから、こんなえろくなったんだよ。はあ? 俺のせいか、俺のせい!?
「琴子、俺もだ。俺もだから、もう一回おまえをもらう!」
本気でにテーブルに押し倒して、ブラウスの裾をスカートから抜き出そうとしてしまう。だけれど今回は琴子の止められる、抵抗される。
「やん、だめだってば。だめ。もう仕事に行く時間だもの。また今夜!」
「今夜って、今夜こそおまえは眠った方がいい。だからこれで最後、あとはおまえの残業期間が終わるまで俺ぜっええったいに我慢するからよ」
絶対にだめ! と、琴子が必死に抵抗していた。さすがに英児も今回はそこで退いた。
「ていうか、琴子、おまえさ……、すげえこと言うな。時々、ガツンてくるやつ」
「そう? 私だって英児さんのロケットにいっつもガツンってされてるよ」
ちょっとふて腐れながら、英児が乱した裾を琴子は綺麗に直している。
「英児さん、お願いがあるんだけれど」
もうお仕事モードになってしまった奥さんに諦めをつけて、英児は朝食の席に戻る。
「なんだよ」
「金曜日と土曜日の週末、スカイラインに乗って仕事に行ってもいい?」
彼女が時々望むことだった。
「ああ、いいけどよ。どうした急に」
「気分転換。土曜も休日出勤になってめげそうなの。でもスカイラインに乗っていると英児さんの匂いがいっぱいで嬉しいから。いま疲れているからちょっと一緒にいたいの」
そんなふうにいわれてしまうと、英児もなし崩して、『ああ、それならいいぞ』と微笑んで許可をした。
「ありがとう。久しぶりのスカイライン、楽しみ。お仕事の書類とかちゃんと降ろしておいてね。行ってきます」
「わかった。行ってこいや。無理すんなや」
『はい』と、いつもの奥さんの笑顔になって琴子が出掛けていった。
もう、なんなんだよ。朝から嬉しいことばっかりいいやがって。
ああ、もう俺は琴子には敵わねえんだな――。
情けないと思うどころか、ひとりでニマニマしている顔が珈琲の水面に映っていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
それから数日後。土曜日。
土曜も彼女は休日出勤。英児も土曜は龍星轟で仕事。
「武智。西条の顧客のところまで行って来るな。帰りに南雲君に会うからよ、ちょっと遅くなる。夕方には帰れると思うからよろしくな」
「うん、気をつけて。いってらっしゃい」
自宅まで来て欲しいと頼まれた顧客宅をまわりながらの営業に出る。その帰りに常連上客の車マニアの御曹司、南雲氏と次のオフ会の話し合いをする約束をしていた。
「おう、社長さん。ゆっくりしてこいやー」
ガレージへと向かうと、ピットで整備作業をしている矢野じいから、からかう声。
「仕事だっつってんだろ。ゆっくりしにいくんじゃねえよ」
『へいへい』といつものクソ親父的な反応が返ってくるだけなので、英児もそれ以上はムキにならずにガレージに急いだ。
今日はそこに相棒のスカイラインがない。休日出勤の琴子が嬉しそうにして乗っていったから。
「おう、ひさしぶりだな。おまえ」
妻に捧げた銀色のフェアレディZのルーフを英児は撫でる。元愛車だが、これを結婚の記念にと妻にあげた車。いまは琴子の愛車。
その運転席に乗り込むと、やっぱり甘酸っぱい女の子の匂いで充満していた。
「おー、もう俺の車じゃねえな」
琴子が言うとおり。英児も同じ。いつもの相棒でないことはしっくりとしないが、それでも元愛車であって、惚れてる女の匂いに包まれるドライブも悪くはない。
そんな気分上々で、英児は銀色のスポーツカーで龍星轟を飛び出した。
予定より少し早く。英児は顧客廻りと営業と南雲氏との話し合いを終えて、港の城下町へと戻ってくる。
龍星轟に帰ってきてガレージにゼットを駐車させる。ガレージにスカイラインはまだいない。土曜だから早めに帰れそうと言っていたが、琴子の帰宅はまだのようだった。
ガレージを出て、ピットを通り過ぎて事務所へ――。と、目指していたのだが、英児はピットを通り過ぎようとした時、ギョッとして立ち止まった。
「うわ、な、なんだ。どういうことだ、これ!」
英児は思わずピットに駆け込んで叫んだ。
そこには持ち上げられて宙に浮いている黒のスカイラインGTR、R32! 俺の愛車!
「おー、帰ってきたか。ちょっと間に合わなかったなあ」
しかもその車をいじっているのは、矢野じい。なんだか人を喰って楽しむ時の顔をしている。嫌な予感しかしない!
「なんでタイヤをとっちまっているんだよ!」
「依頼どおりにしてるだけだ」
仕事をきっちりとするときの親父の顔で言われ、英児はますます困惑した。
その親父がすることを見ていると、矢野じいが真新しいピカピカのタイヤを転がしてきた。
そのタイヤのメーカーと品名を見て、英児はまた卒倒しそうになった。
「ど、どうしてそのタイヤ!」
「ちなみに、これからこのホイールもはめることになっている」
矢野じいの足下にあるピカピカで渋いイカしたホイールをみても、英児は卒倒しそうになった。
「な、なんで。それがここにある。それは、俺が俺が、これから買おうと思っていたけれど、いろいろあってずっと先送りにして我慢していたやつじゃないか」
すると矢野じいがまたなにかを企んでいるような、人を弄ぶ時のような嫌な笑みを浮かべ、ホイールを手に持った。しかもそれの匂いをくんくん嗅いでいる。
「だよな。俺にはチョコレートの匂いがしねえんだけどよ。琴子がこれがチョコレートだって言い張るんだわ。おかしいよな」
また、ガツン――としたのが来た。
タイヤとホイールがチョコレートだとお!
つまり、それが琴子からのバレンタインの贈り物!?
はあ? いきなりスケールでかすぎのバレンタインが俺にぶっこまれた。と、英児はくらくらしてきた。
「見られちまったから言っちまったけどよ。琴子も仕事から帰ってきて、事務所で仕上がるの待ってるからよ。行ってやれよ。琴子に頼まれた時の発注ではバレンタイン当日までに間に合わなかったもんで、当日にプレゼントできないって琴子もかなりしょげていたんだからな。英児のやつきっと後でよろこぶから、素知らぬ顔で我慢しろって言ってやっていたんだよ」
「じゃあ、矢野じい……」
「まあな、琴子のお願いなら、おっちゃんなんでもゆうこと聞いちゃうんだわ。協力してくださいってかわいく言われちまったからよ。社長のおまえと経理の武智にばれないような発注をしちまったけどよ、怒んなよ、クソガキ」
「うるせい、クソ親父。びっくりさせんなや!」
もう驚くばかりで、英児はどうしてこうなったと混乱しながら、琴子がいる事務所へ――。
「英児さん――」
だが、振り返ったそこ、ピットの入り口にもう彼女が立っていた。
白いレーシーブラウスに紺のスカートというオフィススタイルのまま。仕事から帰ってきて、すぐに矢野じいにスカイラインのドレスアップのためにピットへと渡したのだろう。夕方、英児が帰ってくる頃に引き渡せるように……。しかしそれも間に合わず、驚かす前に見られてしまってバツが悪そうな顔で突っ立っている。
「琴子……、こういうことだったのか」
英児も驚きすぎて、どうすればいいかまだわからない状態。
ほんとうに、琴子らしい女の子が選ぶようなちっちゃなプレゼントで充分だったのに。それがどうぶっとんだのか、英児が買おうと思ってなかなか手が出せなかったものを彼女がこっそりと注文してくれていたなんて。チョコレートどころの話じゃない。
「いつも、カタログを見ていたのを知っていたから。プレゼントといったらこれかなって。クリスマスは結婚前で忙しかったからできなかったし……」
「つうか、琴子……、つうか……その、なあ……。てか、これいくらすると思ってんだよ」
値段を知っているだけに、どれだけ彼女が奮発して頑張ってくれたかわかってしまうから、余計に複雑だった。
手放しで喜ばない英児を見て、琴子も戸惑っている。なんだか空気が、バレンタインのほんわかした空気ではなかった。
「あー、いいよなあ。俺なんか嫁さんに、車のもん欲しいと言ったら夕飯抜きにされたのによお。一緒に車を飾ってくれるだなんていい嫁さんだよなあ。なあ、英児」
「そ、そりゃ。そうだけれどよ……」
「なあ、琴子も一生懸命働いているからできるんだよな。フェアレディZをまるまるプレゼントしてくれた太っ腹の旦那にお返ししたかったんだよな」
そういうことか――と、英児も思い至り、琴子へと振り返る。
「そうなのか。琴子」
やりすぎたのかと琴子はうつむいたまま。
「琴子」
英児に呼ばれ、琴子がやっと顔を上げる。
「私また、へんに頑張りすぎたのかな……」
その通りだった。ほんと、この子は頑張りすぎてその度にびっくりさせられる。だから、英児もようやっと彼女らしいという嬉しさが湧き上がってきた。
「たっくよう、またガツンって来たじゃねえかよ。俺の嫁さん、強烈すぎるわ」
やっと笑って、OL姿の奥さんを英児は嬉しさいっぱいに抱きしめる。
「ありがとな、琴子。スカイラインをかっこよくしてくれてありがとな」
龍星轟のジャケットの胸元に、英児が大好きなOL姿の彼女を抱きしめる。琴子もやっとほっとした微笑みを浮かべてくれている。
「はあ、毎度あほらし。もうおっちゃんはやめた。英児、おまえ、自分でやれや」
タイヤ交換途中の作業を放って、矢野じいがピットを出て行った。呆れていたけれどあれでも親父も気を遣ってくれたんだと英児もわかっている。
それでも、英児はまだ琴子を胸元に抱きしめたまま……。しばらく彼女の黒髪にずっとキスをしていた。
「ごめんね、英児さん。バレンタインの当日に間に合わなくて――。知らない顔するのすごく辛かった」
「気ぃつかわせたな。そんな俺がゼットをおまえにあげたからって、気にすることなかったんだよ」
「気を遣ったわけじゃないけれど――。英児さん、みんなのお給与優先にして我慢していたみたいだし。私もスカイラインを格好良くしたかったの。私も欲しかったの、ほんとうは。それに英児さん、チョコレートなんて甘いもの苦手でしょう」
嬉しいよ、マジで――。今度は琴子の耳元にキスをする。空港からの冬の潮風が、ピットに吹き込んできたが、ぜんぜん寒さも感じずに、二人はそこで抱き合っていた。
でもほんとうは。英児の憧れは『女の子らしいちょっとしたものを選んでくれたカノジョのかわいい姿』だった。
「あのな、来年は普通でいいからな。俺だってよう、年に一度はチョコを食べたいんだよ」
そう来年。来年は女子的チョコをもらえるように祈っていよう。今年は斜め上にぶっとんだものがガツンと来たけれど、それもまたいい思い出になるだろう。
すると琴子がカーディガンのポケットからなにかを取りだした。
「あの、とってつけたようで……出しづらくなっちゃったんだけれど……。チョコは食べないと思っていたから。でも、そんなに甘くないのを選んだつもり」
琴子の手に、ハート形の銀缶がちょこんと乗っている。缶の横には青い石のチャームがキラキラ揺れている。
「これ、俺の、チョコなのか」
「うん。……あの、私の趣味みたいでまたごめんね。でもね、ここのチョコレート話題でおいしいの。チョコは英児さんでも食べられそうなビターなの」
うわあ、これだよ。これ! これこそ俺が憧れていた『いかにも女子チョコ』!
「琴子! ありがとうな! 俺、こういうのめちゃくちゃ憧れていたんだよ!」
小さなハート銀缶が乗っている琴子の手を、英児はぎゅっと握りしめた。
英児があんまり喜んでいるので、今度は琴子がきょとんとしている。
「え、嬉しいの? 英児さんの趣味じゃないでしょ」
「はあ? 趣味とかで喜ぶわけじゃねえよ。まるでその子そのものみたいなのが嬉しいんだよ。いかにも『琴子!』って感じじゃねえかよーー! これ俺大事にするからよ。スカイラインにずっと乗せておくな!」
俺の憧れ女子チョコレート。やっともらえた――と感激していたら、琴子もやっと笑ってくれている。
「ごめんね、私、的を外しちゃっていたみたいで」
「そんなことねえよ。よしタイヤとホイールを履かせたらよ、今夜はスカイラインでどこか行こうぜ」
「ほんと、ドライブに連れて行ってくれるの?」
「明日は休みなんだろ」
「うん」
どこがいいかと聞くと、琴子は迷わずに『長浜』と答える。俺達が恋人になった時の海岸線。
夜の海辺で、ハートの銀缶を開けてチョコレートを一粒。琴子がつまんで、英児に食べさせてくれる。
入り江には冬の月。波間に輝く光の道が、ふたりがいるスカイラインまでのびている。
普段は甘ったるくて『食えるかこんなもの』と思っている英児も、今夜は極上のキスの媚薬にしてしまう。
それからスカイラインの助手席に銀のハートが同乗するように。中にはライターを入れているから、車が跳ねるとカランと音が鳴る。
走り屋の旦那よりかっ飛ばす奥さんがいるから、侮ってはいけない『車屋さんのバレンタイン』。
Update/2016.2.16