-- A to Z;ero -- * 朱花は散る *

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2.清らかな夜

 いつもと変わらずに庭に立っている。
 あの男、黒猫は追い詰めることが出来なかったと……。そんな報告が先ほど。

 美波はまたショックを受けてしまったようで、今日は翼が連れて帰った。
 葉月は今、椿の木の側に立ち、もうすぐ咲き終わりそうな真っ赤な花を眺める。
 触れるその花びらの、ふっくらと、そしてビロードのように滑らかな手触り──。
 少しだけうっとりしていると、近くから『ぼと』と言う音……。そう、今はもう……この花が咲き終わる時期に来て、儚くその花ごと地面に落ちていくのだ。
 葉月はそれを哀しく見つめていた。

「あの、お嬢様……。そろそろ……」

 側に付き添っているカルロが、ただじいっとそこで花を眺めている葉月に付き添ってくれているのだが、瀬川がまたいつくるか分からないからと気が気でない様子。葉月も頷いて、杖をつきながら家の中に戻ろうとした時だった。

「葉月……!」

 その声に驚いて、葉月は振り返る。
 そこにはいつかのように、また、紺色の軍コートを翻し、息を切らしている『夫』がいた。

「は、隼人さん?」

 驚きながらも、直ぐに分かった。
 純一か誰かが連絡をして、またナタリーが迎えに行ってくれたのだと。
 隼人は真っ青な顔で、今にも何かを失いそうな顔をしている。その顔のまま、葉月の下に真っ直ぐに走ってきたかと思うと、有無も言わさずに葉月をその腕に抱きしめた。
 あまりの勢いに、流石の葉月も驚き──。ついていた杖は地面から離れ、身体は背中の方に倒れ、地面に落ちるかと思う勢いに抱きつかれ、でも、隼人の腕が力強く葉月を抱き留めている。
 今日は、彼もすごく驚いたのだろう。葉月の胸への加減も忘れたかのように抱きしめるので、すこしばっかり葉月の胸に痛みが走り、顔を歪めてしまった。

 だけれど、葉月には嬉しい痛み。

「貴方、来てくれたの?」
「当たり前だろ! 目の前にあの男が現れて、義兄さんが撃たれたなんて聞いて、仕事なんかしていられるか!!」
「すごいわ。すぐに飛んでくるなんて……信じられない」

 まるでスーパーマンだと葉月が言っても、隼人には呑気にしか聞こえないのか、今日は笑ってくれなかった。
 彼はそうして葉月をずっと抱きしめたまま、離してくれなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 黒猫のいつも以上の警戒は夜になっても続いていた。
 そして葉月も、帰ってきた隼人と共に寝室でいつもの夜を過ごす。夕食を終えた後、寝室で一休みのお茶をして、落ち着いたら入浴を手伝ってもらい、寝る支度をしてベッドに潜る。
 隼人も一通りの準備を終えたら、いつものように葉月が寝付くのを見守るようにデスクに向かうかと思ったのに……。

「葉月──」
「貴方?」

 部屋の灯りを消され、手元のライトも消される。
 隼人は何かに追い立てられているように……。葉月をベッドに寝かせ、覆い被さり、その勢いを妻に知られるものかと制しているようなもどかしい手つきで、着たばかりのネグリジェに触れる。時には、その手が脱がそうかどうか迷っているようにも思えた。

 結婚して、一ヶ月は経っている。
 だけれど、言うほど肌は合わせていない。
 この夫がまるで単身赴任のように仕事に復帰したというのもあるけれど、お互いに『心』が落ち着かないから……。葉月はそうだと分かっていた。

 隼人は、夫は、それほどに葉月を欲する心を制していたのだろうか?

「う、あっ……」
「ご、ごめん……つい……」

 いつもと違い、胸の先になんの前触れも無しに吸い付かれ、葉月は思わず声を上げた。
 それは急激な性感と共に、それと同じぐらいの傷への痛みが発したから……。
 だけれど、きっとその隼人の口先の力加減は、負傷する前に隼人が当たり前のようにそうして葉月の乳房を愛撫してきてくれた強さと同じはずなのだ。

 それほどの、隼人のもどかしさが、今日はとても現れている気がする。

 はだけたネグリジェの胸元の、やんわりとしている乳房から、隼人は長いこと離れなかった。
 あまりにもそうして執着されると、どんなに傷の痛みが伴うと言っても、徐々に甘く広がってくる痺れが身体中を支配し始めた。
 途端に、冷えていた肌はしんなりと熱く香り、そして茂みの奥が疼き、つま先の指にさえ痺れは届き、葉月すらもどかしく身をよじった。

「あ、あ・・あな、た」

 耳元に熱い彼の吐息。さらに羽の柔らかさを保った彼の唇があちこちを愛撫していく……。
 今夜は横向きに寝かされ、背中から伸びてくる彼の腕。隼人の唇はうなじや背中を這い、そして二本の腕は乳房に茂みの奥を代わる代わる交互に巧みに愛している。

「葉月、俺を……俺を見てくれ」
「み、見ている……わ」
「嘘だ。俺だけ、頼むから、俺だけを見てくれ。──『今だけでいい』から!」

 葉月は思わず、背中から伸びて我を忘れたように妻を愛している隼人の両手を止めた。
 肩越しに振り返り、夫の顔を見ようとしたが、隼人は俯き、しかもそれを見られたくないかのように葉月の肩に額をつけて隠してしまう。
 葉月が止めた両手が、肌を愛撫するのをやめ、葉月の身体をぎゅっと背中から抱きしめてきた。

「隼人さん……どうしたの? 今の私は駄目なの?」
「駄目じゃない。愛されていると分かっている、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」

 すると隼人は、急に葉月をその腕から離してしまい、起きあがってしまった。
 月明かりに浮かぶ、夫の背、その肌が艶やかに光っている。だけれど、そのうなだれている黒髪の横顔は見えなかった。

「……悪い。ちょっと頭を冷やしてくる」

 葉月が戸惑っているうちに、隼人は素肌にガウンを羽織り『シャワーを浴びてくる』と部屋を出て行ってしまった。

 一人になり、葉月は枕に頬を埋め、溜息をついた。
 そう……分かっている。今の自分の頭の中にはあの『幽霊』ばかりがいるのだ。
 そして葉月は、自分の指先を、ふっと栗色の茂みの奥に忍ばせてみる。そこで顔をしかめた。ちっとも潤っていないのだから……。これでは、隼人だって……。葉月は唇を噛みしめる。

 起きあがり、葉月はベッドのふちに全裸のまま、腰をかけた。
 窓には、明るい月がくっきりと。夜空に煌々とその姿を堂々と映している。
 まだ、葉月の心の中の『月』は朧気で、その光は弱々しい……。

 でも、と、葉月は降り注ぐ月の光を受けるように、手のひらを空に向ける。
 顔は照らされ、肌を綺麗に写し出し、そして栗毛を輝かせてくれるほのかな光。
 ……どこかで、このような光景を見たような?
 ふと『デジャヴゥ』に襲われた感覚に、葉月はぼうっとしていた。
 それを探るかのように、葉月は立ち上がり、その光に吸い寄せられるように窓辺へ……。

 そこで隼人が帰ってきた。

「どうした。窓は危ないだろ」

 少し驚いた顔で、急いでこちらに向かってきたが、葉月は目の前に来た隼人に笑った。

「見て。綺麗な光」
「え? あ、ああ……。今日の月は大きいな」
「こんなに……見えちゃう」

 葉月は灯りがない部屋でも、自分の裸体がくっきりと浮かび上がっていることを、何故か今夜は尊く思えて仕方がない。
 いつもは自分の身体のすべてを、なるべく明かりの中に晒されないように、暗がりに閉じこめてきたのに。
 今夜はとても綺麗な月明かりの中、葉月は両手を広げ、なにもかもを受け入れたい気持ちになっていた。

 そんな葉月を、隼人は最初は訝しい顔で戸惑っていたけれど、やがて、両手を広げて月明かりの中に全裸で微笑む葉月を見て、同じように笑ってくれていた。

「綺麗だ……。身体じゃない。葉月の今のその姿、そのものが。笑顔が……」

 前なら、その言葉だって……。隼人が言ってくれても、直ぐには心には届かなかった。
 今は、届く。そして今、葉月の身体中、心の中に『月の光』が染みこんでいくように、夫の心よりの言葉もじんわりと心に染みこんでいく。
 そして、心は温まり、やがて熱く火照っていく。

「貴方、愛しているのよ」
「知っている」

 壁に手をついて全裸で月明かりの中立っている葉月の下に、隼人がやってくる。
 そして彼も、やっと笑顔で抱きしめてくれた。

 夫の手の中には、『月光』と『光を吸い込んだ私』、そして『愛』。
 彼の手の中にいっぱいに、栗毛がきらきらと溢れこぼれていく……。

 先ほどはちっとも波長が合わなかった夫妻の睦み合い。
 だけれど、二人は今──熱く見つめ合っていた。
 それはまるで、月の光に浄化されたかのように。
 もう、二人の間にあった邪魔物はなにもかも綺麗に消え去ったように。

「俺も愛している」
「知っているわ」

 二人で鼻先を合わせ、笑い合った。
 その後には、もう、迷いのない口づけを共に──。

 貴方──。
 葉月の脳裏で、何故か……この口づけが何かの誓いの口づけに思えた夜。
 うっすらと瞼と開けても、そこにも清らかに愛してくれる夫の綺麗な顔があった。

 その後、先ほどとは打って変わったベッドでの睦み合いを取り戻す。
 隼人はこの夜は、先ほどの気持ちを取り戻したようにして、葉月の身体に遠慮無い……以前通りの変わらぬ優しさと激しさと熱さと落ち着いた巧みな指先で愛してくれる。そして、葉月はもう夫しか見えない光の中で、今度は存分に白い肌を濡らすだけ濡らしていた。
 そこは小笠原での日々を取り戻したかのような激しさがあった。
 時折、葉月が胸の痛みで顔を歪めても、もう隼人は妻自身が『痛い、やめて』と言わない限りは、以前通りの力加減で向かってくる。
 葉月はその痛みに耐えつつ、でもその痛みに耐えたご褒美のような久しぶりの灼けてしまいそうな性感に、瞳を濡らしていた。
 今までもそうだったように、彼がつま先から口元までの道順を辿った後も、彼の葉月を求める貪欲さは今日はひときわ激しい気がしたけれど、葉月はそれすらももう、なにがどうだか考えられないままに、なにもかもを受け入れていた。

 やがてその時が来て、やっと隼人が一呼吸置き、葉月を胸の下に覆い被さる。
 息を切らしている夫を、葉月は濡れた瞳でただ見つめる。
 今夜は言葉もなく。本当に肌で愛を囁き合っているよう……。
 そして今、葉月を見下ろしている彼の黒い瞳も月明かりに綺麗に煌めき、なにかを言いたそうだけれど、葉月はただ目をつむる。

 ……聞かなくても、分かる。
 隼人がちょっとだけ、『迷って』いるその訳も。
 それはきっと『夫だけの決意』では駄目なもの。
 昔、よく見たハートのペアペンダントのように……。彼が持ち合わせているハートの片割れだけでは成り立たない。
 葉月もその心を、夫の傍に寄り添わせ、そして届けなくてはならない。

 迷っている隼人の目の前へと、葉月は起きあがった。
 波打ち、乱れてしまっている白いシーツの上に『ふたり』。
 月明かりの中、見つめ合っている『ふたり』。

 葉月のいつも冷えているその指先で、目の前で見つめ合っているだけの夫の顎に触れ、唇に触れ、そこに静かに葉月から柔らかに口づける。
 そして胸の痛みを厭わず、葉月は隼人の首に両手を絡め抱きついた。

「葉月。今日はとても綺麗だ」

 隼人の腕も、柔らかに葉月の背に回り、そこで揺れている栗毛を優しく撫でてくれ、肌も愛撫してくれ、最後に柔らかに抱きしめてくれる。

「綺麗だ。本当に……」

 その綺麗が、妻の姿だけじゃないことを葉月も感じていた。
 それはこの夜のこと、私達のこと、そして私達の心も愛も、『なにもかも』──今夜は、綺麗。
 夫はそのなにもかも美しいことに、今夜は幸せを噛みしめてくれているのだ。
 葉月は抱きしめている夫の顔をもう一度、確かめる。
 柔らかに穏やかに瞳を煌めかせ微笑んでくれている夫。
 ──やっとね。貴方にそんな笑顔を贈れるようになったのは。
 葉月の胸もいっぱいになる。夫の幸せをこうして我が事のように幸せに思えるだなんて……。

 葉月も、隼人に返すように囁いた。

「今夜は、とても清らかだわ」

 そう言うと、隼人がまたこの上なく幸せそうに、その目尻に喜びを滲ませてくれた。
 そして、急に表情を引き締め、意を決したようだ。葉月も、胸を高鳴らせながら待ちわびる。

 それが何かは、お互いに問わなかったし……。
 そして隼人は迷いなく、今夜はいつもと違い、そのまま葉月の中に入ってくる。
 そして葉月も、何も言わず、何事もないかのように、『それがあって当たり前』のように隼人を迎え入れた。

 再び、シーツの上に寝かされる。
 既に繋がっているその部分は、もうすっかり感じやすくなっているのか、ちょっとの振動でも葉月は甘い吐息を漏らしてしまう。
 そして急に、熱くなって──はしたないことに『早く、早く』と心の中では、隼人から注がれる男の熱愛を欲しがっていた。
 だけれど、隼人は焦らすかのように、繋がったまま暫くはそんな葉月を見下ろしている。『意地悪』と言おうとしたのだが、殊の外、隼人の顔があんまりにも真剣で、また何かを思い詰めているかのような顔で、葉月はふと我に返りそうになった。
 しかし、隼人はちらりと隣にある自分のベッドサイドにある『天使』へと見やった。葉月もそれに気がついて、『天使』へと目をやった途端──。
 隼人がまた有無も言わせない形で、激しく愛し始めたので、葉月は思わず大きな濡声をあげてしまった。

「あ・・・! ああっ・・」
「は、はづ・・きっ」

 凄い力──! 葉月の胸が裂けそうで、でも、葉月は『これほどじゃなくちゃ嫌!』と、真っ直ぐに向かってくる夫を大きく開いて奥へ奥へと受け入れる。

「あんっ……あ、なた──。貴方……。隼人さん」

 もう隼人は必死のようで、返事はしてくれない。
 でも、葉月だってもう目も開けられない。
 涙がぼろぼろとこぼれ続け、そしてただただ注がれる全てを一滴も漏らすものかと、夫を深く深く受け入れる。
 隼人の歯を食いしばっているその懸命さも、もう、葉月にはぼやけて遠く見える。
 だけれど、その懸命に愛してくれるその力を……絶対に忘れないと葉月は心に誓う。

 愛する彼に抱かれる中、葉月は涙を流しながら、彼の背をすりぬけ空へと手を伸ばした。
 手に落ちる月光、指先の爪にぽうっと灯った光。

 まるで、そこに何かが舞い降りたようだった。

 

 やっと本当の夫妻になれた気がした夜。
 熱い睦み合いの後も、二人は月明かりの中で、肌を寄り添わせ微笑み合っていた。
 ベッドの背に腰をかけ、寄り添わす腕の先は、指を絡ませ合い離れなかった。

「痛み止め、もらってこようか?」
「平気よ。もう、夜中だから……いいわ」

 反動が、そのまま胸に来ていたが、一時期に比べればだいぶ耐えられる痛みになっている。
 痛みはあれど『回復してきてる』という実感が、葉月の中で広がっていた。

「最近ね、早く小笠原に帰りたいと思っているの……。早く、海が見たい」

 隼人の素肌に、葉月はしっとりと抱きつき、その胸に頬を寄せた。
 彼も微笑みながら、葉月の肩を抱いてくれる。

「そうだな。俺も、早く見たいな。奥さんの大佐姿」

 栗毛のつむじを頬ずりをしてくれる隼人。
 彼の熱い息が、そのまま耳元をくすぐった。

「あそこに、私の『蒼』があるの」
「──『あお』? 青色ということか?」
「そう。私の『世界』なの。あそこは……。空も海も、潮風も。私の世界なの。青色の、私を救ってくれた蒼色の……」

 すると隼人が何故か、嬉しそうな笑みを浮かべ、急に何かを思い立ったかのように起きあがる。
 そしてまだくったりと枕のクッションにもたれている裸の葉月の正面に向き合い、がっしりと両手を握りしめられ、何かを懇願されるように持ち上げられた。

「良かった。聞きたかったんだ。お前が、俺の嫁さんが『小笠原』をどう思っているのかを」

 葉月は『え?』と、首を傾げた。
 ただ単に、心に有るままに今までも、ずっと愛してきたあの島への愛着を口にしただけなのだが……。それでも隼人は今度は何かを始めようとしている少年の様な顔で葉月に言った。

「これからもずっと、小笠原に住むつもりはあるか?」
「どうして? 私はそこで空軍を支えるつもりなのに」
「俺も同じだ。たとえ、今後、何かで転属があっても、『帰る場所』を、『俺達が作った俺達の帰る場所』が欲しいと思わないか?」

 葉月はまだ良く呑み込めなくて、ただ、首を傾げるばかり。
 隼人はもどかしそう顔をしかめたのだが、それでも葉月の両手をぎゅうっと握りしめ言った。

「俺達の『家』を建てないか?」
「家を……?」
「そう。俺達の家だ。丘のマンションも俺達には良い場所なんだけれど──」
「ええ。良いわね! いいわ、とっても素敵ね」

 隼人の急な提案に、最初は葉月は面食らったが、それでもそんな思考まで及ばなかった葉月には、心の湖に急に投げ込まれた『煌めく宝石』が舞い込んできた気持ち!

 そう、あの丘のマンションは、葉月にとっては『籠城の部屋』でもあった。
 人を寄せ付けないシステムに、自分を守ってくれる管理人。それで精神をも安定させてもらう。そうしてくれた親族に管理人夫妻に大きな感謝の気持ちは忘れない。だが、それが仕方がないことであったとしても、異常な城であったと思う。

 そこを出よう!
 この人と一緒に、青い空の下に、日の光の下で暮らすのだ!

 素敵な思い出をあの丘の城に閉じこめて、私達は新しい思い出を紡いでいけるだろう。

 葉月は嬉しさのあまり、また隼人に抱きついて、終いにはちょっと大胆に彼の唇を塞いでいた。
 隼人は驚いていたが、それでもその口づけへのお返しをすぐにくれる。
 いつまでも離れない唇と唇。その熱い唇の囁き合いをそのままに、二人は再びシーツの上に飛び込んだ。

 そう──、また二人は『海』の中。
 一緒に寄り添って真っ白な世界を、月明かりの中、どこまでも泳ぐ。
 肌をピッタリと合わせ、身体と身体を繋ぎあい、唇はいつまでも囁き合い、睦み合い──。
 腕を絡め、指先も絡めて、隙間がないほどに今夜は、何度も愛し合う。

 葉月の指先がまた強く光った気がした。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その日の夜も、安ホテルの一室で簡単な夕食を済ませる。
 便利な時代になったものだ。今はコンビニエンスストアに行けば、大抵は手に入るし、金さえ有ればいつなにを欲しても手に入るようになった。

 こういうネオンの煌びやかな夜を過ごしている奴らは何も知らないのだろうな。
 暗闇の世界があって、そこで当たり前のように殺しがあることも。以上にまともな生活も出来ない人間もいるし、信じられない豪勢な人生を当たり前のように送っている者もいるし──。
 様々だ。だけれど、どれだけ悲惨か過ぎ足る幸運か。そのどちらとも結構無縁なのだ。このネオンの街にあるものは……。光の下で、何を彷徨っているのだろう。美味いものを食うためか、煌めく恋を探すためか、あるいは笑いたい場所を探すためか、逆に泣きたい場所を探すためか。悲惨という名を司る類の事件が少々起きても、もっと計り知れない事を人間が平気でやっていることを、同じ人間であるこの街の者は知っているのだろうか?
 まあ、俺には関係がないか。と思いながら、つけっぱなしにしているテレビ前のテーブルに、瀬川アルドは読んだ新聞を放った。

 新聞は毎日読む習慣だ。
 日本にいる間は日本の。そして何処の国にいても有名所の英字モノは必ず目を通す。
 その新聞が読みづらくなってきたなあと、アルドは目元を押さえた。

 こんな界隈にある安ホテル。
 アルドは慣れてはいるが、こういう場所を隈無く探すとなると、あの黒猫でも数日かかるだろう。
 まだ、大丈夫だ。今夜は──。

 それでも新聞を読むのが辛くなってきたほどに、今日は疲れたと思った。
 アルドは深い溜息を落としながら、テーブルに散らかしている私物を整理する。
 先ほど読み捨てた新聞の下から、薄い冊子が数冊──。

 預金通帳だ。
 自分の名にしているものは、一冊のみ。
 あとは全て『美波』の名義にしてあり、そのうちの一冊のカードは美波に『生活費』として渡していた。
 室蘭を出る前に、その口座にどっさりと振り込んで置いたから、さぞかしあの娘は驚いたことだろう。
 こちら関東に呼び寄せた時に、再会した娘がまずアルドに突っかかってきたのは『なんだよ、この大金!』だった。しかし、アルドには分かっていた。あの娘はまだ金の使い方も知らないし、知らないが使える分というのをきっちりとわきまえている。そこはあの娘の母親が、そうアルドが昔一時期だけ愛した女がきっちりとしつけた賜だと思っていた。
 だが、今年に入って、その大金の一部が、あの娘らしからぬ金額で引き下ろされているのを知った。
 なにをしたかなんて、まだ小娘のすること。直ぐに判った。娘は一丁前に『プロの情報屋』をひっつかまえて、鎌倉の一族のことを調べ始めていた。
 それだけが、驚いたことで。しかし、娘からはいずれ離れねばならないと思っていたアルドには、ある意味『好都合な展開』とも言えたのだ。

 亡くなった美波の母親は『千鶴』と言う。
 その千鶴にしか頼めないだろうからと思い、ふとしたことで訪ねていけば、そこにはやせ細った女と昔の自分の面影をそっくりに映す高校生の娘がいたのだ。

『黙っていたの。貴方の子です』

 控えめでおっとりしていた彼女の変わらぬ口調。でも、彼女が十七年もアルドに『隠し通した』というその思い切りに、潔さに、これはとても驚かされた。

『何故、黙っていた!?』
『そんな。貴方だってどうなの? あの時、私が結婚してと言っても……』
『ああ、しなかった』
『でしょう? 貴方は優秀だけれど、とても危険な仕事をしていたもの。付き合っていた私にすら、普通ではなかったわ。だから私は貴方でなく、子供を取りました。それだけです』
『なるほど』

 なんとも。彼女らしいと言えば彼女らしいが、アルドの中でその認めた女の潔さと芯有る強さに感服させられたのだった。
 そんな女だから、アルドは突然、捜し出し訪ねたと言っても良い。とにかくアルドの中で個人的に信頼できるのがこの女だったからだ。

 それにしても、彼女は苦労したのか痩せていた。
 『子育ては辛かったか』と問うと、両親が助けてくれた時期もあったし、自分が選んだことだから構わないのだと彼女は言った。
 そして彼女はアルドの労いの言葉も、欲してもいず、さらに必要もないと言った顔をしていた。

『ごめんね、美波。今まで黙っていて。この人が貴女のお父さんよ』
『お、おとうさん?』

 娘は突然に現れた男を見て、父親だといきなり言われ、とても驚愕していた。
 無理もないだろうし、アルドもピンと来ない。
 だけれど、不思議だった。
 二人はその初対面のその時、同じ色の眼と瞳を合わせただけで『娘だ』『父親だ』と通じ合ってしまった何かを感じたのだ。
 最初は遠巻きにしていた美波。そしてアルドも必要以上は言葉を交わさなかった。今更に父親面をする気もないし、娘がいたからとて驚きはあれど戸惑いも喜びも湧かなかった。アルドの中では『母親が若い時に一時だけ付き合った恋人が、忘れた頃に会いに来た』という心積もりで、一介の『昔馴染みの男』の姿勢で過ごしてきた。だが徐々に、あちらから言葉をかけてくる。何の仕事をしているのかとか、今も一人なのかとか。その度に、アルドは美波の目を見るだけで黙っていたが、その度に千鶴が美波を手招きし、アルドには都合の良いように……いや、彼女が信じて疑わない『アルド』を娘に教えていた。それはどこか誇らしげに。
 そう千鶴はアルドを良く知っていて、それでいて一番大事なところを知らずに逝ったのだ。

 痩せていた千鶴はアルドが来たせいか、急に力尽きたようにして倒れたのだ。
 過労かと思い病院に連れて行くと『末期癌』で施しようのない時期にまで来ていたことを知り、これには流石にアルドも驚いた。
 これでは、アルドの思惑が崩れていく。だが、この女は今まで良くやってきたのだ。最後にせめて、何も知らずに子供を任せてしまった償いはしようとアルドは思った。

『やだよ、やだよ! 母さんが死んじゃうなんていやだよ』
『泣いても良い。泣きたければ、泣け。だが、千鶴の前では笑っていろ! いいか、お前のおふくろは間違いなく死ぬんだ。死んでいく母親が望むものを最後に見せてやれ』

 ──ミーナ、笑え!

 厳しい現実を突きつけ、アルドはミーナの背を無理押しする。
 だがミーナは、アルドの厳しさに幻滅はせずに、最愛の母の死に向かい合い、そしていつでも母の前では変わらぬ娘の愛らしさを見せていた。
 そして家に帰ると一人でメソメソと泣いている。

『不思議ね。こんな時になって、貴方が現れるだなんて』

 病室の青空をベッドの上で仰ぎながら、千鶴が微笑む。
 アルドはその時、何故か、彼女の手を握りしめていた。

『神様が引き寄せてくれたのかしら? 私はいいの。昔、貴方と出会った素敵な思い出があるからそれだけで。でもね、美波には……一度だってなかったから。私の死と引き替えに、貴方を連れてきてくれたんだわ』

 千鶴、神なんているものか。
 いつものアルドなら、そう言った。
 だけれど、本当になんと言うべきか。この女に頼もうと思ってきた途端に、その女がこれだ。
 そしてこの女。やっぱりアルドを良く知っていた。

『でも、そう思いたいけれど。貴方が神に言われたって、来ない時は来ないわ』

 そして初めて問われる。『何をしに来たのか』と。
 そしてアルドは答えた。『余計なものを、お前にならと……』。

 その時、アルドはその通帳を見せた。
 千鶴は驚き、何のためにと言ったが、アルドにとっては『不要なものだから』とそれだけ。
 そして命短い女は言った。

『美波に、お願いします』
『分かった。そうしよう』
『あの子、大学に行きたいのに、行こうとしないんです。いろいろあって……』
『まあ、使い道などどうでもよい。とにかく俺には重くなりすぎた。どう捨てても良かったのだがね』
『頑張られたのですね』

 『正義の男』として稼いだ金。
 それを千鶴は『頑張ったのだ。貴方も苦労したのだ』と言ってくれるのだが……。

 違う。アルドの中では『正義で得た金』が、ただ単に『鬱陶しい』だけだったのだ。
 それもまた、『捨てる』為に訪ねてきたと言うのに。
 だがまあ、死に行く女にそこまで言っても酷というもの。
 それにアルドとしては、なんと思われても、目的が達成すればいいのだ。

 千鶴が逝った後、彼女に『娘を頼む』とは言われたが、実際のところこれは新しい『荷物』ではあった。
 荷物のはずなのに、何故か放っておけず、それはアルドが必要最低限で持ち歩いていた荷物のように、必ず持ち歩かねばならない感覚に染まらされていた。

 非道のアルドが、堕ちたものだ。
 そう思った。
 今まで何事にも『割り切り』の確実な実線を見極めてきたアルドではあるが、こればっかりがどうしてか解らない。
 もし、アルドに悩みがあるというなら『この訳の分からない娘』だった。
 ──『もしや、これが父娘』?
 このままでは、非道のアルドが廃れる。なんとかせねばならない。
 そう思った。

 

 とりあえず、手元にある大金は全て美波行きとなる手続きは済ませた。
 もし、自分に何かあっても全て美波のものになるように。

 アルドはその通帳を束ね、机の隅に寄せ、再び新聞を手に取った。近いうちにこの通帳もアルドの持ち歩く荷物ではなくなる。代理人の手に渡る。
 まただ。目を細めないと読みづらい。俺もいい歳に来たのかも知れない。と、アルドは目の間を指でつまんだ。
 もう、こう言った仕事をするには現役としては限界が近いのだろう。アルドももう四十半ばだ。昔のようなキレも自分の中でも『なくなった』と思うことが多くなった。
 単独行動の鉄則は『リスク有ることには、決して、手を出さない』だ。
 まさにその年齢的なラインが目の前に迫ってきているのをひしひしと感じていた。

 その後、だらだらと生きようとは思っていない。
 だから今のうちに、身辺整理を整えておくのだ。

 生きるだなんて。どれほどのことか。
 なのに、どんなに虐げられても生き抜こうとしている人間がいる。

 また、テレビだけがチカチカと光っている暗がりの部屋、アルドの影、その頭の先に女が現れる。
 今度は、水色の小さな少女。彼女がいつも血塗れで泣いている。時には、儚く消えそうになるのに、彼女は途端に燃え上がるような眼を見せ、また蘇るのだ。
 それがアルドには、不思議で堪らない。
 そこまで辛い思いをして、どうして生きていられるのか?

 その時、新聞を持っているアルドの手がブルブルと震え始める。
 病気とかそんなものではない。近頃、頻繁に起きるようになったのだ。

 そして持っていた新聞をグシャリと激しく握りつぶした。

「何故だ。何故、お前は、生き返るんだ!!」

 この女だけ。この少女だけ。
 ある意味ではアルドの願いを叶えてくれ、ある意味ではアルドを楽しませてくれ、ある意味ではその結果、アルドの中で受け入れられない『不純物』を生み出してきた。
 彼女はアルドの中で『希望であって、絶望』。
 そんな彼女が空へ極めようとしている。このアルドの思惑からはみ出し、殻を破り、飛んでいこうとしている!
 そんなこと、一度も見たこともなく、誰もいなかった。
 お前の姉ですら、そうだった! あれだけの希望と純粋さを貫いたあの姉ですら!

 しかしその妹には、その姉の執念が乗り移ったかのように、アルドには思えて仕方がない。
 だから、だから──『必ず』このアルドが勝たねばならないのだ!

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