-- A to Z;ero -- * 朱花は散る *

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1.赤い花

 濃紺の洒落たスーツを着込んでいる男は、不敵な微笑みを浮かべ、義兄に『銃口』を向けている──!

 二階にいる葉月と美波の叫び声に気がついたのか、ジュールがもの凄い勢いで家から庭に飛び出してきたのが見えた。
 そしてジュールも既に拳銃を手にしている──!

 だが、葉月の耳に『プシュ』と言う、聞き覚えのある鈍い音が聞こえた。

「兄様ーーっ!」

 叫んでも遅い!
 その鈍い音は、サイレンサーを付けている銃が発砲した音。
 幽霊は真っ正面から、再会した若き頃の後輩である純一に向け、躊躇うことなく発砲。
 一介の不審者を徐々に疑いそろそろと警戒していた黒猫達。
 彼等の隊長であるボスが目の前で倒れ込んだ!

  庭を取り巻く空気が一変する。
 彼等の驚愕──。庭は一瞬、警戒もなにもなく、カルロの横で地面に倒れ込んだボスを見たまま、誰もが動きを止めてしまっていた。
 そして、それは発砲をした幽霊さえも──。

『ボ、ボス──!!』

 純一の隣にいるカルロが、倒れた純一の飛びつき叫んだ。

『幽霊だ。追え! 逃がすな──。傷つけてでも、生け捕りにしろ!!』

 見下ろしている庭の時間が動き出す。
 一番に冷徹に動いているのは、ジュール。彼の一声で、庭に散らばっていた男達が一斉に、垣根の外にいる不敵に微笑む『瀬川』へと向かっていく。
 だが、幽霊の時間も動き出す。彼はこの家を肩越しに振り返る余裕を見せながら、手前に迫ってくる黒猫軍団に動じることなく、身を翻し逃走を始めたのだ。

「ア、アル……?」

 葉月がハッとした時は、隣にいた美波がとてもショックを受けた顔で庭を見下ろし、後ずさっていた。
 もう、疑いようもなく──。彼女の父親は、娘がいることを分かっていても、『その犯行』を見せ、この家の者を傷つけることを厭わない姿を証明してしまったのだ。
 だが、葉月が美波の衝撃を見たのは一瞬で、次には自分の中で『認めたくない大波』がどっと音を立てるように襲ってきていたのだ!

 義兄が、純一が撃たれた!
 恐れていたことが起きてしまった!
 誰も、傷ついて欲しくなかった。この自分の胸の痛みが最後の傷であって欲しかった。
 なのに──!!

「に、兄様……。兄様!」

 杖をしている手を前に出し、葉月は一歩前に進んだのだが、転んでしまった。
 翼もこの時にやっとハッとしたのか、直ぐに床に跪いて抱き起こそうと手を伸ばしてくれたのだが……。

「アル! アル、行かないで……! 待って、アル!!」

 またもや娘がいることも分かっているくせに、背を向け逃げてしまった父親を美波が追いかける。
 彼女は脇目もふらない勢いで、この部屋を飛び出していってしまったのだ。
 翼が彼女の名を呼び、でも、体が不自由な葉月を置いていくことも出来ない迷いを見せていた。

「行って! 美波さんの側にいてあげて──!」

 本当ならすぐさま純一の下に、何を置いてでも、飛んでいきたい──。
 でも、葉月は困惑しながらも、『自分なら隼人に追いかけて欲しい』と直ぐに思ったから、だから翼の迷う背を押した。
 彼は頷き、飛び出していった美波を追いかけていった。

「誰か! 誰か来て頂戴──! パパ、パパ……!!」

 ジュールもエドもきっと必死の思いで飛び出して行っただろう。
 だから葉月が必死に叫んでも、いつものように直ぐに駆けつけてくれる二人は来なかった。だが、この部屋の開いているドアに、人が現れる。

「葉月ちゃん……!」
「しんちゃん! お願い、お願い! 純兄様のところに連れて行って、お願い! 兄様が、兄様が──!」

 真一はやや呆然としていたが、何故か落ち着いているようだった。
 頷くとすぐに葉月の下に駆けつけ、転んで倒れている葉月を抱き上げてくれる。

「早く……! 兄様が……! 見ていたでしょ!? しんちゃん、どうしよう──!」
「見ていた」

 どうしてか、父親が庭で襲われた光景を目にしたと言うその返事がとても落ち着いていたので、葉月は驚いた。
 真一は、葉月を床から起こすと、今度は足を揃えて腕にかけ、男らしく逞しく、若叔母の葉月をザッと抱き上げた。

「早く、早く! いや! 純兄様がいなくなるなんて絶対に嫌! 早く、連れて行って! 側にいてあげたいの……!」

 だけれど、真一は走り出さなかった。
 葉月の泣き叫ぶ顔を静かに見ているだけで──。
 その顔が、いつも無口に黙り込んでいる静かな義兄にそっくりで、葉月は思わず涙が止まり、そして叫び声も止まってしまった。
 走り出さない真一は、葉月を抱き上げている腕をそのまま窓辺へと向ける。そして葉月の身体を窓辺に近づけた。

「に、兄様──!?」

 甥っ子に抱かれて見下ろした庭。
 カルロが跪くそこには、純一がむっくりと起きあがっている!
 その背中を見て、葉月は唖然、さらなる呆然。

「今朝、嫌な予感がするから今日から『警戒着用』を部員達にも出すとか言いながら、防弾チョッキ着ていたよ」
「え!?」
「なんか、ジュールが開発した商品にもならなかった特注品だって。良かったよ、今朝のことで」

 葉月の頭の中で、『マルセイユの岬基地』に出向いた任務を思い出していた。
 あの時──。テロリストに制された岬の管制基地に侵入した隼人や他の仲間が捕らえられた時。葉月は無茶をして女身単独で乗り込もうとした。その時、潜入サポートをしてくれたのが義兄だった。潜入の支度をする時に着せてくれたジュールが開発したという『あのチョッキ』!
 自分もそれで撃たれてもちっともダメージなく身を守れた事があった──。葉月はそれを思い出したのだ。

 それが分かると、途端に力が抜けてくる。
 真一のその逞しくなった胸にがっくりとうなだれ、そしてもたれた。

「連れて行って──」
「もう、危なくないかな? きっと親父は葉月ちゃんには外に出てきて欲しくないと……」
「いいから、連れて行って!」

 父親と意志疎通をするように叔母を守ろうとしている甥っ子に癇癪を起こすように叫んでしまっていた。
 真一は驚き、そして迷っていたが……。やがて不安を抱えた顔のまま、部屋から連れ出してくれた。
 部屋を出ると、ジャンヌが階段を降りない格好で、階下を覗き込んでいる姿が──。

「葉月さん──、部屋にいた方がいいわ」
「嫌! 純兄様の側に行きたいの……!」

 そのまま真一は、ジャンヌに構わずに階段を降りてくれる。
 ジャンヌがそのまま付き添うように後をついてきた。

 リビングに降りると、母がそこにいて、エドがついていた。
 開け放しているリビングの窓、庭が見渡せるその向こうには、まだ腹部を押さえてうずくまっている純一の背と、その両脇で様子を確かめているカルロと父の姿が──。

「葉月! 何しているの、お部屋にいなさい!」
「見たの? ママ。あの男を見たの!?」

 真一に抱き上げられたまま問うと、小さな娘を諫めるような登貴子の勢いはなくなり、青ざめた顔でこっくりと頷いた。

「あの男よ、ママ……あの男なのよ!!」
「そう……」

 母は黙って俯いてしまった。
 青ざめた顔のまま、こめかみに指先を当て、何も考えたく無さそうな苦痛顔。その母の顔を見て、葉月ははっと荒げていた声を引っ込めた。
 目の前に、娘二人を虐げた男の実像を見た母の心を思うと、それはもう計り知れないものに違いない。
 葉月はそれ以上は、何も言えなくなり、一緒に俯いた。

「葉月──」

 そうしていると、そのリビングの窓辺には……黒いジャケットの裾を春風に翻している細長い男が立っていた。
 純一が、立っていた。
 葉月の目には涙が溢れる。
 もう、言葉が出ない。力が抜けて、安心して、でもあのとてつもない消失感がまだ生々しく心に残っていて……。
 純一は本当に何事も無かったかのように、リビングを上がり、葉月と真一の下へと歩み寄ってくる。

 そのジャケットの下、いつも着ている白いシャツの脇腹に穴が開いていた。
 腕から降ろしてくれた真一と寄り添いながら、純一を迎え入れる。

「純兄様──!」
「親父……!」

 二人一緒に、その細長い身体に抱きついた。
 いなくなったらどれだけ哀しいか。それを訴えるように葉月は抱きつき、そして真一は泣きそうな顔を堪え、額を父親の肩にひっつけていた。

「懐かしいだろ。ジュールのチョッキ」

 安心させるためなのか、純一はいつものふてぶてしい笑みでおどけていた。
 それでも二人は笑うことが出来ず、むしろ抗議をするように『驚かすな』と口を揃えた。

 だが、純一はすぐに表情を引き締め、撃たれた脇腹を押さえて言った。

「あの人なら、『その気』があれば一発で仕留められるはず。『外したな』。──ワザと」

 純一の口元が、悔しそうに曲がる。
 確かに、穴が開いている位置は、急所を狙うにはあまりにも外側過ぎる『脇腹』。

「狙撃の腕も、訓練では一番だった。海野に匹敵するかしないか、ぐらいの」
「あの達也と同じですって?」

 その男が『急所』をあの距離で外すはずがないと純一は言いたいようだ。
 それならば……? その次に思いついた事を純一が言った。

「──宣戦布告か。俺外し、か。お前を傷つけたいのか」

 宣戦布告──。もう幽霊のように姿を見せないような戦いではない。幽霊も『決している』。その宣戦布告?
 純一外し──。もし、防弾チョッキを着ていなければ、脇腹でも純一は負傷する。暫くは動くことは出来ない。
 傷つけたい──。それは葉月が愛している義兄を失う痛みを、与えるため?

 そんなことが葉月の脳裏に走る。
 だが、義兄は運良く最強のチョッキを身につけていたことで、幽霊の狙いを幾分か阻止することが出来た。

 それはほっとした。
 だがそれと同時に何かが葉月に押し寄せてくる。
 ついに、『彼が会いに来た』。やっぱりそうだった。彼は消えない。自分を迎えに来ると──。
 その顔を見せに来た。挨拶に来たのだ。

 それはやっぱり宣戦布告──!

「兄様……。あの男は兄様になんて話しかけてきたの?」
「……『俺が判るか』と。直ぐに判った。お前が言ったとおりに、俺も目と声で判った。俺が判ったというのが伝わったのか、『先輩』は笑いながら『嬉しいよ』と言った。その途端に発砲され……」

 葉月以上に、良く知っている眼であることだろう。
 純一は、それでも寂しそうに庭に振り返る。

「綺麗な眼をした人だった。変わっていなかった」

 葉月と同じ事を呟く純一。
 そしてその『変わっていないのに、何故』と言う寂しそうな眼。

 義兄の中では、まだ『瀬川先輩』と『幽霊』は一致していないのだと、葉月は寂しそうな純一の顔を切なく見つめていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 いつだって単独行動でやってきた。
 ある時以外は、なんでも単独だ。

 アルドの背後には、それとは反して『組織』の下で動いている男達が何人も追ってきている。
 肩越しに振り返っても、五十メートルか、そこらか。
 それだけの距離があれば充分、逃げ切れる距離だと一人ほくそ笑む。

『アル! 待って……アルーーっ!』

 先ほどから、自分を必死に呼ぶ『ミーナ』の声。
 それを知っていてアルドは、いつものように走り続ける。

『アルーー! 置いていかないで……、アル……』

 やがてその声は掠れ、疲れ、すぼみ……遠くなり聞こえなくなってくる。
 聞こえなくなったその時、アルドはまた振り返ってしまった。

 これでも、分からないのか。
 お前の父親は、こういう男だと──。
 早く認識し、『忘れろ』。憎んでもいいから忘れろ。

 今更だが、アルドは後悔していた。
 やはり、側に置くべきではなかった。
 ──あんな思いをさせてしまうのなら。

 疾風のように軽く走る足は、昔から誰もその背に近づけたことはない、『強靱な足』だ。
 だからもう振り返っても、黒い男達の影はない。
 病院の外を出たなら、尚更こちらの『思うまま』だ。あの手、この手で細かい道を選んで時には他人様の庭を横切る。
 やがて男達の気配は消えた──。かなり悔しがっていることだろう。アルドは少しだけ、唇の端を上げ笑う。別段、嬉しい訳でもなく、勝ったという優越感もない。『奴ら、黒猫』は、その世界ではかなり一目置かれている名の知れている『謎の軍団』と噂されている程だが、それでもアルドにとっては『優越感の必要もない、当たり前の勝利』であるのだ。誰に限らず、何に限らず、いつだってそうだった。

「ふん。やはり、着慣れない」

 アルドは彼等をやや馬鹿にするような気持ちで、スーツを選んできてきたのだが、汗だくに湿った首元の不快感をなくすために、ネクタイをほどいた。

 その時、ふとアルドは空を見上げる。
 何故かそこから哀しい声が聞こえた気がしたのだ。

『美波を……お願い致します』

 か細く儚い声。
 あの女も、結局はアルドの正体を知らず、なに疑うことなく逝ってしまったのだ。
 それで良かったのか?
 まあ、いいだろう。何も知らずにいることの方が幸せである数の方が多いのかも知れない。知ってしまうほどに、無くしてしまうこともあるのだ。

 アルドは歩き出す。

 娘には、あの男がいる。
 俺がいなくても、やってけるさ──。

 とりたてて未練はない。
 そうして『独り』で生きてきた。
 今までが特殊すぎたのだ。アルドの人生にとって、そう、有り得ないことだったのだ。

 そうだ。昔、それなりに恋した女とその娘以外にも、『有り得ない日々』があった。
 アルドはそれを思い返し、また立ち止まり振り返った。

 午後の影。伸びる自分の影。
 そこの頭の先に、いつも女が現れる。
 燃える眼をした、赤い女だ。
 彼女はいつもアルドを憎むように見ている。
 だが時には飛びきりの眩い微笑みも見せるし、時には妙に艶めかしい泣き顔を見せる。
 そう言えば、その女とは切れたことがない。
 アルドが今まで誰と一緒に寄り添い歩んできたかと言えば、間違いなく、その影の先っぽに現れる『赤い彼女』とだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 それはもう、遠い昔──。

「アル先輩。統括科から内線ですよ」

 そう言って、電話の受話器を手渡そうとしているのは隣の席にいる『谷村純一』。
 フロリダの特校を卒業し、その身体能力が秀ていること、さらに歳の割には落ち着いた判断が出来るという評価で、この本部に配属されてきた若い隊員。
 ──噂では『御園のバックがついている』とか囁かれてもいる。時にはそれに対する意地悪い行為を受けているのをアルドも目にしたことがあるが、これが気持ちが良いぐらいこの若い後輩は『相手にしていない』のだ。くよくよしたりせず、ムキになって相手と同レベルに自分を貶めるような無駄な争いは買わない。アルドもそうであるべきだと思っている。そして『この青年はあんな一族ぐるみの権威にすがらなくても、きっちり単独でやっていける男』と密かに認めていた。

「サンキュ、谷村」
「来週の会議の件で相談したいことが〜なんて訳の分からないことを言っていますけど──。女性ですよ? あれですか、『また』」
「うるさいな。お前、余計なお喋りをするなら、シメるぞ」
「やめてくださいよ。先輩にシメられたら、俺、即死ですよ」

 普段は無愛想な面で、寡黙な青年である谷村が、ちょっと年相応とも言える悪戯っぽい笑みを楽しそうに浮かべ見せてくれる。
 あまり無駄口を叩かない男だったが、気のせいか? アルドには多少心を緩めてくれている気がしていた。
 そして、この寡黙な後輩に『尊敬』されていると……自負している自分がいた。

 彼に渡された受話器を耳に当てる。

『アルドさん……! やっと出てくれたのね』

 小さく舌打ちをした。
 デートをした覚えもない。ただ、カフェテリアで彼女が隣に座って、話しかけてきたから、それなりに相手をしただけなのに──。
 なのにあれから、どういう訳か彼女につきまとわれている。
 ランチの時間も彼女がいれば、その場所を避けたし、廊下で彼女がいたら彼女の視界に入らないように努めてきた。……それがここまで、させたのか。まあ、避けるだけでは駄目だったと言うことだろう。ならば、ここで『決めねばならない』。

「申し訳ありません。私のスケジュールに、来週は会議なんてありませんから」
『そうではなくて……。この前、ほら、たまには豪勢なディナーでもしたいというお話をしたでしょう?』

 アルドは額を覆い、机に肘をつき小さく溜息をこぼした。
 それは『勝手に』隣に座った彼女が、『勝手に』お喋りをしている中で、『勝手に』一人で『カフェテリアのお昼ご飯は毎日食べていると飽き飽きしてくる。たまには外で豪勢にディナーでもしたいわよね』と言ってきたから、『そうだね』と一言、言っただけだ。
 それが、どうして『約束した』という話になるのか……!
 こうして今も、そっちの都合良い内線の名目を蹴ったんだから、いい加減に気が付けよ──とも思うのだが。

「あのですね。はっきり言いますよ。私は、どなたとも豪勢な食事はしません」
『え?』
「言っている意味、分かりますね? 本当に、あまり度が過ぎると私も業務的に黙っていられませんよ」

 向こうで息が止まったのが分かる。
 やっと、分かったのだろう? いや、目が覚めたのだ。
 ここで相手が女だからと、やんわりと断り続けているとずるずると長期戦になる。それなら、胸に痛い思いはさせてしまうだろうが、きっぱりと跳ね除けておかねばならない。それでも『貴女とは行かない』ではなく『誰とも行かない』と最後、ここだけは譲ったつもりだ。馬鹿でないならここで察して欲しい。これもある種の恋の駆け引きとかいう範囲内で終わらせられるじゃないか。そうでなければ本当に馬鹿なことで彼女の中でも重く残ってしまうだろうから。

『失礼致しました。申し訳ありません……』
「いいえ。それでは」

 途端に統括科の選りすぐられた女性隊員のしんなりとした声に戻っていた。
 そしてアルドから内線を切る。

「やっと終わった」

 アルドが今度こそ、あからさまな大きな溜息をつくと、隣の席で先輩に言いつけられて書類を作成している谷村が『お疲れさま』と、これまた業務的な淡々とした一言を呟いたのだ。

「お前、面白がっているだろう? ほんとうは。真面目くさった顔と声で『お疲れさま』なんて労ってくれても、お前の腹、楽しそうに笑って動いているじゃないか」

 谷村は途端にペンを止め、そのまま自分の腹部に視線を落とした。
 そして彼が急にケラケラと笑い出す。

「あはは! 腹が笑っているだって!」
「ほら、笑っていたんだろう。他人事だと思いやがって!」

 アルドは手元にあった書類束で、隣にいる谷村純一の頭をペシリと叩いた。

「それにしても、先輩は次から次へと絶えないっすね。男前っすもんね」
「こんな顔、欲しいなら、くれてやる」
「顔はあげても、瞳はあげない方がいいっすよ」

 アルドは『何故?』と、目元を押さえた。
 するといつも無愛想で寡黙な彼が、にっこりと微笑み、アルドを見つめていた。

「そんな微妙な色合いの目。あまり見ないなと思って。綺麗な目だから、それは顔を変えても残しておくべきだと思うな」

 顔じゃなくて『目』。
 何故か、誇らしくなってしまった己がいた。
 ハッとしてアルドは純一に言い返す。

「いいか、男は顔じゃない!」
「志でしょ。俺も大賛成」

 後輩はまた真顔で挙手をすると、ちょっと慌てたアルドを彼から切り捨て、また書類に向かってしまった。
 アルドは溜息をこぼしたが、だが、心では密かに微笑み和んでいる自分がいた。

「おーい、谷村!」

 入り口から中年の男性が、手を振ってまで奥にいる隣の後輩を呼んでいた。
 純一が顔を上げる。そして今度は隣の後輩が顔をしかめたのだ。

 そこにはまったく違う部署にいるはずの彼の『幼馴染み』がいた。
 入り口にいるその中年男性はおろか、周りの隊員達もやや落ち着かぬ顔で入り口に現れた『栗毛の女性』へと視線を集める。

『あの、違うのです。私、上司の遣いで届け物に来ただけですから』
『え、いいじゃない。いつも一緒に帰っているぐらいだから。付き合っているんでしょう?』
『そんなんじゃ、ありません!』

 彼女は敬礼を済ませると、サッと走り去っていってしまった。
 それを向かわずに席で見ていた純一が、今度はアルドがしたように舌打ちをした。
 そう、これが彼がよく受けている『からかい』。今のだって本当は、ちょっとした意地悪もあの中年男性にあったとアルドは思う。あの栗毛の幼馴染みが業務的にサッと去ろうとしても、『谷村に会いに来た』とわざと騒いだのだ。その心の向こうに透けて見えるのは『谷村は御園というバックがあっていいなあ』と言うどうしようもない嫉妬。
 だからとて、純一は顔をしかめるだけで、何事もなかったかのように落ち着いている。心の中で思うことはあれど、決して 顔にも出さない、口にも出さない。本当に『なにもなかった』ように消化してしまうのだ。きっと今までもそこは散々にぶち当たって来て、今となってはそこまで消化できる程に到達しているのだろうとアルドは見ていた。

「彼女、追いかけないのかよ」
「先輩、腹が笑っている」
「あはは! お前の方が、どうしようもない状況だったりしてな」

 この後輩と『隣近所』と言う縁から、ずうっと寄り添うように軍隊まで共にしている『幼馴染み』同志。
 この基地でも有名な話で、そして隣の後輩はそれを面白く思っていない。
 ああして彼女が側に寄ってくると、アルドがそうしているように、あからさまに避けるぐらいだ。

 だからとて、この時はなんとも思っていなかった。
 後輩の、単なる『とある事情』。他人事。よく聞く話。そしてそれを上手くやりこなしていくのが男なのだ。

「それにしても、彼女はどこでも注目の的だな」
「知ったこっちゃないですよ。俺は俺ですから」

 幾ら幼馴染みでも。
 最後に後輩はそう言いきる。
 そしてアルドは、彼のその言い切りに強く頷いていた。

 栗毛で若さ弾ける美しさを、ただそこに現れただけでぱあっと広範囲に漂わす女性隊員。
 当時では珍しい現場に勤める女性隊員。そして、あの『御園一族』の跡取り娘。
 彼女はボーイッシュに努め、男性の輪に馴染もうとしているようだが、生まれつきなのか──。彼女が歩くたびに基地中に、花びらを撒いているかのようにアルドには見えた。

 なにも騒ぎが起きなければいいのだが──。

 まだ新人に近い彼等より何年も先にいるアルドには、ふとそんな嫌な予感が過ぎっていた。

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