-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ1─

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─エピローグ・ステージ1─
 
2.我が儘ウサギ

 隣の席。『いちおうの上司』である彼が、唸っている。

「うるさいわね。悩むんだったら、外で悩んでくれない?」

 澤村──もとい、御園中佐から頼まれている『ミーティング報告書』を作成中の小夜。
 隣の栗毛の少佐が大佐室から出てきて、席に落ち着いたと思ったら、何をする訳でもなくただ書面を眺めて『うーん、うん』と唸っている。うるさいったらありゃしない。
 だから、小夜が『うるさい』というと、彼は黙ってしまった。
 あれ? いつもだったら『お前の方が数倍うるさい』と返ってきそうなのに? そのまま黙って反応無しだった。
 まあ、いいわ? これで仕事がはかどるというもの。先に工学科から帰ってきたが、今の直属上司である御園中佐が帰ってくるまでに仕上げたい。小夜はそのまま、元の集中力に戻る。
 ……すると、今度は隣の少佐が『はあ』と溜息を繰り返す。いよいよになって、小夜はペンを持つ手をぎゅうっと握りしめ、ついにお隣の『いちおう上司』に吠えた。

「少佐、うるさい!」
「え? ああ。そうか、すまない」

 また、だ。それっきり、いつものお返しがないのだから。
 そんなの『お隣さん』じゃないわよと、小夜もちょっと心配になって、テッドを見つめた。
 彼はとても『悩んでいる様子』。小夜も隣にいるから分かるのだが、彼はここの班長になってから、そして御園大佐嬢の専属のようになってから色々思い悩むことが多いのだ。それは小夜も一緒だけれど、彼の方が班長とか少佐とか重責があるだろうから、小夜のような一隊員では計り知れないものだって……。だから、小夜はいつもの意地張り合いの刺々しさを取り払い、しおらしく尋ねてみる。

「なにかあったの? 葉月さんに」
「え? ああ、まあ」

 また、それっきり。腕を組んで溜息だらけ。
 聞いても言ってくれないのなら、もういい加減にしてよと小夜も業を煮やし……。

「外、行ってくれない」
「分かった」

 これまた、あっさりと席を立って本部事務室を出て行ってしまった。
 ここまで突きつけたら、『お前、誰に向かって物言っているんだ?』と、少佐の怖い目を突きつけられて、小夜もちょっと引っ込むことが出来るのに。
 なんだか相手甲斐のないまま、テッドはすうっと消えてしまった。

「なによ? なにがあったのよ?」

 またもや、なんだか嫌な予感。
 あのテッドが『御園大佐嬢、一筋』で補佐としての使命感が今や生き甲斐と言っても過言ではないところ、彼がそれほどに気になることが起きているって?

「うわー。だいぶ平和になってきたんだから、勘弁してよね」

 また大佐室でごたごたなんて御免だわ。そして……哀しい出来事も。
 小夜は、葉月が帰ってきた日を思い出して、ちょっぴり涙ぐむ。
 知らなかったとは言え、大変な過去を背負っていたことを知って……。

 報告書を作成中。小夜のデスクには『ちょっと秘密』のバインダーがある。

「ふう。そろそろ、こっちからも連絡ありそうな予感」

 その予感は当たった。報告書を書き終えて直ぐだった。以前の直属の上司である経理班長の洋子から『小夜、連絡があったから行ってね』との伝言。
 小夜はその秘密のバインダーを持って、そっと本部事務所を出る。
 洋子だけじゃない。このことはジョイ=フランク中佐も知っている。あとは、海野中佐も知っているけれど、あの人達と近すぎるから知らぬ振りをしつつ、時々小夜に尋ねてきたり……。

 小夜が向かうのはカフェがある高官棟。
 そこへ向かうためのエレベーターの前で、一人の男性が待っている。

「よ! お疲れ、吉田」
「お疲れさまです。コリンズ中佐」

 そこにはまだ飛行服姿のままでいる五中隊本部員でパイロットでもあるデイブ=コリンズ中佐。
 今まで良く知っている中佐であっても、接点がなかった遠い人。
 それが『あること』で、こうして三日に一度は顔を合わせるようになった。

「今日は、嬢はどうだったか?」

 彼の挨拶のようなもの。頭に直ぐに浮かぶのがいつだって『御園大佐嬢』。
 彼にとっては、軍人としてかけがえのない大切な同僚で後輩なのだそうだ。

「それが今、細川中将に呼ばれて出かけているそうです」
「おっさんが? 何かあったか? おかしいな。俺、嬢がいない甲板の留守を、しっかりやっているつもりだけれどな」
「なんでしょう? それがいつも一緒の補佐、ラングラー少佐もお留守番を命じられて、大佐が一人ででかけているんですよ」
「ああ、それならきっと。プライベートなことだな。『おじ様』と『葉月』とか呼び合える話をしているんだろう」
「ああ、なるほど。そうですね、きっと」

 デイブがエレベーターのボタンを押す。
 今からのその高官室が並ぶ、四階へと行く。

「だったら四階で会うかも知れないな〜」

 本当に頭の中、御園葉月一色のようだ。
 今の小夜はそれを微笑ましく眺めているのだけれど、これ二年前の自分だったら『なんなのよ』と、あの『いけ好かない女大佐』がどうしてか虜にしていく男性隊員の有様に腹を立てているところ。そんな自分を想いだして小夜はふと苦笑い。

 でも、今は──。
 小夜が抱えているバインダーの中身には、ブライダルの資料。
 ウェディングドレスやブライダルブーケ、そして最近流行の結婚式場の切り抜きなど……。

「それ、俺にも見せてくれないか?」
「はい、どうぞ!」

 小夜が大事に抱えているバインダーをデイブが手にしたところで、エレベーターの扉が開いた。
 デイブがそれを開き、眺めながらエレベーターに乗り込む。

「へえ、いいな。洋子が言ったとおり、若い女性の方がセンスが良い」
「有難うございます。ちょっと私の憧れも入っています」
「そうか。吉田の時も、盛大にやってやるぞ」
「え、本当ですか? いつか分からないけれど、そうなったら嬉しいです」
「きっと葉月が黙っちゃいないって」

 小夜は『本当にそうなる日、私にも来るのかな?』と思いつつ、本当にそうなったら嬉しいなとそっと頬を染めた。

 デイブと小夜が『ひっそり』と向かったのは、なんと連隊長室。
 一ヶ月ぐらい前から、ここに出入りするようになった。それも連隊長直々のご指名で。
 デイブがドアをノックすると、ドアが開いた。いつもなら、この扉を開くのは主席側近であるホプキンス中佐なのだが……。

「待っていたわよ! デイブ」
「お待ちしていたわよ。小夜さん」

 二人の女性が待ちきれなかったとばかりの顔で、飛び出してくる。

「よ、サラ。子供達は大丈夫か?」
「OKよ。ミラー家に預けてきたから」

 一人は旦那様にも負けないとっても明るい夫人、『サラ=コリンズ』。

「いらっしゃい、小夜さん。本当にうちの主人の我が儘で業務中にごめんなさいね」
「いいえ。これ、今回集めてきた資料です」

 そう言って小夜がバインダーを手渡したのは、着物姿の連隊長夫人。美穂だった。

「どれどれ。吉田さんのセンスは、サラも美穂もお墨付きだから楽しみにしていたんだ」
「まあ、ロイ! 私が先に見たいのに」
「いいじゃないか。河上女史の推薦だけあるなあ。長年の付き合いである彼女に頼んだら、若い子の方がセンスが良いと推してくれただけある」

 小夜がまとめてきた『イマドキブライダル事情』の資料を、連隊長夫妻が取り合っている。

 そうなのだ……。一ヶ月前に、洋子に付き合って欲しいと言われ、この連隊長室にいきなり連れてこられた。
 小夜は何事かと、ドキドキしっぱなしで洋子にただひっついていることしか出来なかった。
 仕事? それとも、人間関係で何か? それとも?? また大佐夫妻になにか!? 連隊長室に個人的に呼ばれるだなんてそれだけでもう、心臓は爆発寸前だった。
 ところが、隣の洋子は緊張していると言うよりかは、とても困った顔をしていた。そしてついに、待たされていたソファーにあの超美男の連隊長が目の前に現れ腰を掛けたのだ。『今日は来てくれて有難う』と、本当に漫画のように真っ白い歯をキラリとさせるかのようなオーラに小夜は固まった。れ、連隊長が、あの連隊長がほんっとうに目の前にいる!! と、小夜は固まりっぱなしだったのだが。横にいる洋子は慣れている様子で『困ります』と、あることについて連隊長に抗議。そして、洋子が急に言った。

『私よりかは、吉田のように若い女性の方が、イマドキのセンスには精通しています。それに彼女は秘書官並みの気遣いもしっかりしています。今回のこと、私より適任だと思います。特に、今は大佐嬢からも深い信頼を得ていますし、私よりかは大佐嬢とは同世代ですし……』

 小夜は何の話? と、首を傾げていた。
 『イマドキセンス』ってなんのこと? と。
 すると、気が付けば目の前の麗しい連隊長が小夜を見て、ニンマリと笑っているではないか。

『そうだな。洋子の言うことも一理ある。じゃあ、洋子にも手伝ってもらうが、イマドキセンスは吉田さんに任せよう』

 はい? と、話が見えなくて、ただただ黙っていると……。

『吉田さん。御園家の小笠原挙式の準備。君にも任命しよう』

 は? と、思ったのだが、話はどんどん進めていく連隊長。
 当然、逆らう隙もなく、気が付けば『一週間後までに、それらしい今風のものを俺に見せてくれ』と言われた。

 つまり──『御園家小笠原挙式のフランク連隊長ブライダル推進部』の一員にされてしまったのだ!

 そうしてあれこれと資料を集め、女性班のリーダーである連隊長夫人とコリンズ中佐夫人の二人と、数日に一回会って、あれこれと話し合っているということだ。

「まあ、これ、素敵ね。私達でもこんなかんじにしない? サラ」
「あら、本当ね。よろしいと思うわ、奥様」

 小夜が持ってきた資料を手にして、奥様同士の目が輝いている。

「小笠原の皆で手作りでやろう! 俺達しか出来ない式を、葉月にプレゼントするのだ!」

 ロイは、この前からかなりテンションが高い。
 そしてデイブも。

「連隊長、甲板を押さえてくださったようですけれど、やっぱりパーティは陸でやった方が良いと思いますよ。結構、風がきついですよ」
「そうか? 甲板でやったらパイロットとメンテナンサーらしい結婚式だと思ったのになあ」
「ところで、それで嬢とサワムラが承知するかが、一番の問題ですよ。一度、つむじを曲げたら絶対に受け入れてくれませんからね。しかも嬢だけじゃなく、サワムラも。あれで結構、頑固なんですから。『つむじまがり×2』なんてなったらとんでもない」
「うーむ、説得係もいるか」

 男同士でも、毎回あれこれと話を進めている。

「ねえ、小夜さん。このドレスはどこのドレス? 素敵ねえ」
「あ、それは最近、注目されている若手デザイナーのです」

 小夜がかき集めてくる資料は、毎回、好評だった。
 だけれど、小夜が気になるのは……当人の大佐嬢。
 やっぱり何が幸せって、花嫁が望んだ式をするのが一番良いと思うから……。

 

(大佐、どう思っているのかな?)

 

 知らないところで話が進んでいるようで、ちょっと心配な小夜だったりする。
 するとそんな小夜の心配を余所に、連隊長がとんでもないことを言い出した。

「そうだ。挙式とラストフライトを一緒になんてどうだろう」

 小夜はギョッとした。小夜だけじゃない、夫人達も、デイブさえもが驚いた顔をし、シンとしてしまった。
 そして小夜は心の中で『無茶な!』と叫んでいたのだが、まだ小娘故に連隊長にはそんな突っ込みは出来ず……。
 だが、デイブが言ってくれた。

「連隊長〜。そりゃ面白そうですが、無理っすよ」
「そうよ、ロイ! 葉月ちゃんが大変でしょうに。まったく、思いついたらぽんぽんとなんでも出来ると思って。仕事でもそうですよ。部下があって、貴方の考えが行動になるとわきまえてくださいよ」

 奥様の美穂にビシッと言われると、基地では氷の連隊長と言われてるロイでも、直ぐに頭を下げているのが可笑しくて、そしていつもそれを微笑ましく見てしまう小夜。
 そして、そんな美穂に止めてもらって小夜はほっとする。さらに結構お祭り騒ぎをしそうなデイブが止めてくれたのも意外ではあったが、パイロットの彼がそう言えば、ロイも言い過ぎたと思えたようだ。
 きっとデイブは、ラストフライトはラストフライトとして、どんな時も共にしてきた同僚パイロットをパイロットとして見送りたいから別物にしたい気持ちもあったのだと小夜は思った。

 その日は、奥様達が会場をコーディネイトする飾り付けなどの話で盛り上がって終わった。

 連隊長室を出て、デイブはそのままカフェに行くと言うので、エレベーターで別れた。
 四中隊へと向かう連絡通路がある三階へ下りるエレベーターの中、小夜はそっと洋子の言葉を思い出す。

『いい? 連隊長だからって遠慮することはないわよ。駄目なことは駄目と言った方がいいわよ。あの連隊長はこういう時には細かいことは言わないから』
『そんな……。きっと無理ですー』
『小夜。よーく、聞きなさい。これを聞けば、ちょっとは心構え変わるわよ』

 洋子がとても怖い顔で、小夜に叩き込もうとした一言は……。

『連隊長は、台風の親分よ。あの大佐嬢の親分よ! うっかりしていると、とんでもないことに巻き込まれるわよ!』

 小夜はその一言で『ひゃー』と目をつむって、『心得ます、心得ます』と首を縦に振った。
 確かに、あれは台風親分だと小夜は痛感。
 今のところ、奥様とデイブがコントロールしてくれているようで小夜は出る幕はないけれど。

「あれじゃあ、葉月さん。怒るかも……」

 そんな気がしてきた。
 こうして何かのお役に立てる任命を頂いたのは嬉しいし、それに随分とお世話になった夫妻の幸せのお手伝いが出来るのは自分にとっても願ってもないこと。だからこそ……人を喜ばすって難しいなあと思いながら、小夜が本部の目の前に戻ってきた時だった。

 

「もう、私のことは放っておいてよ!!」
「こら! 何処に行くんだ──」

 

 事務所の出口から、大佐嬢がいつになく感情的な声を張り上げて飛び出してきたところ。
 目元にハンカチをあて、泣いているように見えた。
 小夜が立っている位置とは逆に走り去っていってしまった。
 その彼女を追いかけようとして、ふと諦めた男性は、隼人。彼女が走り去っていった方向を眺め、舌打ちをしている姿が。

「ど、どうしたの? お嬢も隼人兄も」
「知らない。まったく、このごろ、ちょっと我が儘なんだ」

 何事かと顔を覗かせたフランク中佐。
 そして『知るものか』と怒っている隼人。

「お、吉田。何処に行っていたんだ?」

 隼人に見つかって、小夜は少しばかり焦った。
 連隊長のところに『連隊長の勝手なお式の準備』に出向いていることは、まだ新郎新婦には内緒なのだ。

「お帰り。俺のお遣いに行ってくれていたんだ。どうだった? あとで報告して」
「は、はい、フランク中佐。滞りなく──。後ほど、お知らせ致します」

 良く知っているジョイの助け船にほっとして、小夜は本部室に入った。
 隼人はまだ、入り口に立って、葉月が走り去っていった方向を溜息をつきつつずっと眺めていた。
 そんなに気になるなら追いかけたらいいのに……。と、女の小夜は思うのだけれど。それでも『そんなことはしない』スタンスでやってきたのが、この夫妻だと思う。だから、それにしてはこの職場で、今目にした二人の姿は『上官、側近』ではなく『夫妻』だったなと、小夜は思った。珍しいことだ。それに、確かに、テッドじゃないけれど、近頃の『葉月さん』はちょっとらしくないことが目に付くかもと、この時小夜も思うように。今日の工学レディミーティングだって、いつものふてぶてしい『悪戯』はともかくとして、勝手に外にふらりと出ていっても大事な時に席にいないなんて、いつもの大佐嬢らしくなかったと思う。

「ごめん、ジョイ。ちょっと行ってくる」
「うん、そうした方が良さそうだね」

 やっと、隼人が決断を。
 御園中佐となった彼がこの時選んだのは、『旦那さん』としての自分だったようだ。

 彼はそのまま静かに、奥さんが駆けていった方向へと歩き出した。
 小夜も席について『それがいいわ』と微笑んでいた。

「あー。やっぱり、訳わかんねえー」

 小夜が席に着くと、隣の『いちおう上司』が戻ってきて頭を抱えていた。

「どうしたの? なんだか澤村中佐と御園大佐が喧嘩していたみたいだけれど」
「ほら、今日の会議のことだ。離席が長かったことを、澤村中佐がいつもの如く大佐嬢にお説教を始めたら、なんだか知らないけれど急に大佐が感情的になって飛び出していったんだよ」

 今度は教えてくれたテッド。だが彼はそれだけ教えてくれると、また小夜が出かける前のように頭を抱えて唸り始める。
 しかし、その話には小夜もちょっと驚き。

(あの葉月さんがねー?)

 隼人が『このごろ、我が儘』と言っていたけれど?
 奥様になってちょっとそうなってしまうことってあるのだろうか?

 小夜も『葉月さんらしくないなあ』と、ふと心配になってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 まったく、仕事になると、とんでもないウサギになる!!!

 本部を飛び出してしまったウサギを追いかけて、隼人も外に出てしまっていた。

 隼人は、未だに頭が痛くなることが多い。
 他の者がやらないことを、平気でやってのけることがある。
 先ほどもそう。何か訳があって外に出るだけならともかく、一番大事なところをすっぽかすとは……!
 大佐室で我がもの顔でいすぎるのだろうか? いつものように、ふらりと陸グラウンドの芝土手にふけるのとは訳が違う場面だったとは思わないのか!?
 そうだ、そうだ。皆が、俺も、『甘やかしている』のだ! その結果があれなのだ! テッドじゃ埒が明かない。ここはこの俺がビシッと……。

 そう思ったから、ここはテッドが強く言えないなら、俺が言わねばと思って工学科から帰ってくると、テッドは留守番をしていて大佐嬢は留守。
 中将室へ出かけたとか? その間、隼人は『ああ言ってやろう、こう言ってやろう』という『お説教シナリオ』を頭の中で練りに練って、『じゃじゃ馬撃退』に備えていた。

 そうして彼女が帰ってきて、まるでウサギの両耳を持ち上げるかのようにして、くどくどと説教をしていたら……。
 急に、妻の目が潤んで、涙を流し……。あっと言う間に飛び出してしまったのだ。

 まるで、叱られて飛び出していく少女のよう?
 自宅ならともかく、部下達が揃っているあの大佐室で、葉月があんなふうになったのは初めて。隼人もびっくりだ。
 それだけじゃない。追いかけて引き留めようとしたら『私のことは放っておいてよ!』だなんて、部下達の前で叫んだりして?
 絶対に、隼人が良く知っている大佐嬢ではないし、葉月でもウサギでもなかった。

 まあ、隼人も『説教』をするにしては、いつになく苛ついていたと思う。

 隼人がこうして苛ついているのは、ウサギ大佐嬢のふてぶてしい大きな態度だけに苛ついている訳じゃない。実は他の理由もある。
 大きな声では言えないが、自宅での妻との波長がこの頃まったく合わないのだ。
 はっきり言ってしまえば? 『夜のあっちのこと』。
 この一夏、新婚生活を取り戻したかのように、あんなになににも囚われずに、愛し合ってきたのに……。土曜、日曜の朝も昼も、それはそれは濃厚に……。それが近頃、急に、葉月が『今はイヤ』と拒否をするように。
 まあ、いいだろう? ウサギに拒否されるだなんて、慣れっこさ。今までだって、昔の話にはなるが、酷い時は彼女をたっぷり愛した後、その最中、男の隼人がすっかりその気になった瞬間に『イヤ』と突っぱねられたことだってあったのだから。抱く前から『イヤ、イヤ』言われたって、今更……。
 それにしては、『その心境の変化はなんなのだろうなあ?』と、今のところ隼人にはまったく見えないし、拒否される覚えもないのだ。
 なのに、義兄の純一から連絡があると、にこにこしてすっかり甘えた妹の声で話したりしているのだから。次はいつ日本に帰ってくるのかとか、帰ってきたら会ってねとか。そりゃ、『隼人さんも一緒よ』と言ってはくれるが、こうして波長が合わない今となっては、ちょおっと義兄さんと楽しそうにしている妻に嫉妬したりするものなのだ。

「あー。俺って未だにこんななんだなあ……」

 甘い愛に彩られた日々が続いていただけに、つい、そんなふうに考えたり。
 もしかしすると、我が儘なのはお互い様で、隼人も彼女に対して愛しすぎてまた苦しめていやしないか? なんて、ふと、我に返る。
 元より、葉月にしたって、そうは濃厚な生活を好んでいた訳じゃない。彼女から言わせれば『ねえ、そろそろずるずるするのやめましょうよ』と言いたいのかも知れない。元の恋人同士で通い同棲をしていた時のように、お互いの一人だけで息が出来る空間や時間を取り戻すべきなのかも知れない。だから、葉月からあのような態度を?

 そんなことを悶々と考えながら、隼人は葉月の後を追う。

 夏の夕が近い。夕と言ってもまだ日は長いので、日射しが柔らかくなってきた程度。
 今日も小笠原の空は真っ青で、滑走路の向こうに遠く見える海も青い。
 潮風の中、隼人が向かっているのは、やっぱりあの芝土手だった。

 ところが……。陸グラウンドと球技用のグラウンドを挟んでいる土手道に隼人が辿り着くと、彼女の指定席のような場所、木陰がある土手の手前、そこで白い半袖制服姿の葉月が、目的地だっただろう木陰に辿り着く目の前で、しゃがんでうずくまっていた。
 背中を丸めて、じいっと動かない。……そんな姿。今、生き生きとした日々を送り始めた妻には、二度とあって欲しくない姿に見え、隼人の両足は固まり立ち止まってしまった。
 こうして見ていると、良く知っている懐かしい姿にも見える。
 隼人が知っている彼女が、あんなふうにうずくまって背を丸めて苦しそうにしているから、だから『ウサギ』……俺の腕の中においでよと……。

 隼人の足が動き出す。
 妻を追ってきた時よりも速い足取りで。
 うずくまっているウサギの背をめがけて、こうして歩み寄っていくのは、これで何度目だろう?
 そんないつもあった気持ちで、妻の背に追いついた。

「葉月、どうした」

 妻がそうしているように、隼人も砂利道の上に跪いてしゃがんだ。
 そして背を撫でながら、そっと妻の顔を覗き込む。

「貴方──」

 大佐嬢ではなく、その顔は隼人が愛する妻の顔だった。
 彼女も、隼人がそこにいることを知り、先ほどの感情的な態度もなんだったのかというぐらいに、その目がすんなりと隼人を受け入れてくれている。
 そしてやっぱりその目が涙に濡れているのだ。

「どうしたんだ。行きたい場所は、もうちょっと先だろう?」

 隼人は少し笑いながら、葉月が好んでいる『サボタージュ場所』である緑木を指さした。
 葉月も少し笑って『そうね』と言うのだが、気分悪そうに顔を歪め、ハンカチで口元を押さえてしまった。
 それでやっと分かった。気分が悪かったのだと。それで会議中も、佐々木女史に問われた時に、あんな顔を。嫌な顔ではなく気分が悪かったのだと。

「いつからなんだ? お前、そういうことはちゃんと俺に言えよ」
「……い、言えなかったのよ」
「どうして? 今日は会議があってなんとしても出席したかったからか? それにしても一言ぐらい言ってくれよ。お前がそれでも出席したいなら、俺だって気分が悪いなりに気遣ってあげられたのに……」

 そして、彼女は気分が悪かったから長い離席をしてしまい、帰ってこられなかったのだと。
 そう言ってくれたなら、あんなどぎつい説教しようとは思わなかったのに。
 それとも、ここのところ、それがずっと続いていたから、夜も拒否を……? お前、それならそれで早く言えよ。俺達、夫婦だろう? と、言おうとした時だった。

「……が、帰ってきた」

 妻がハンカチで口元を押さえたまま、何かを小声で呟いている。
 隼人は『なんだ?』と、葉月の頬に耳を寄せた。

「・・ちゃんが出来たの」
「え?」

 そして妻が、ふと潮風の芝土手で、夫の隼人を見つめる。
 青い空を映しているそのガラス玉の目が、どこまでも隼人を見つめていた。
 その綺麗な目。そして愛おしい目。ここが基地ではないなら、ここがあの自宅だったのなら、隼人は迷わずに目の前にあるその瞳に口づけ、次にはその下にある愛らしい薔薇色の唇を吸っていることだろう……。それぐらいに、結婚した今だって、妻の瞳に唇に隼人はこんなにも胸が締め付けられるのだから。
 なのに、妻はその瞳に溢れて止まない涙をこぼして隼人を見てるのだ。

「ど、どうした。本当に何があった?」
「だから、赤ちゃんが出来たの。送り出したあの子が、帰ってきたんだと思う」

 『え?』

 隼人は一瞬……耳を疑い。次には少し離れて、妻をしげしげと見下ろした。
 妻はまた気持ち悪そうにハンカチで口元を覆い、また涙を流している。

「ジャンヌ先生に今日、来てもらったの。どうなっているか確かめてから、貴方に言おうと思って……」

 頭が真っ白になっている。
 子供が出来た?
 それだけでも、充分に驚いているのに、隼人が知らないうちにジャンヌを呼び寄せて診察をしたというのだから!

「どうして俺に、それを言わなかったんだ!!!」

 今度は説教じゃない。本気で怒っていた。
 だが、瞳を濡らしてばかりいた葉月が、ここは何か毅然とした顔で隼人を見た。

「だって! 出来てもこの前みたいに既に何処かに行っちゃっていたら、また哀しい思いをするじゃない! だから……! だから……」

 妻のその叫びに、隼人は何故知らせてくれなかったのかを理解し、そしてその真意も判って尚更に身体が硬直した。
 葉月が言っているのは、つまり、『出来ても、ちゃんとお腹の中で生きてるかどうか』と言うことだ。
 隼人の、妻の肩を持っていた手が固まり、彼女のシャツをぎゅうっと握りしめていた。
 いつかの、あの哀しい痛い思い。それがつまりまた来たのかも知れないのだと妻が言っている。

 それでも、隼人は震える声で、尋ねる。

「そ、それで……。ど、どうだったんだ……」

 すると、葉月は口を覆っていたハンカチを、両目を隠すように覆い、今度はぐずぐずと泣き出してしまった。
 まさか──。また……。
 それで帰って来るなり、隼人が苛ついた説教を突きつけたから、あんなに感情的になって──。

 大丈夫、何度でも、お前の気が済むまで俺も付き合うよ。
 もし、まったく駄目でも、お前には俺が、俺にはお前がいて、二人で生きていけばそれでいいじゃないか。
 子供がいなくても、俺達は俺達だ。

 そういって妻を慰めたいのに、なにもかもが今は彼女には必要ない言葉のような気がして。

「ちゃんと聞こえた」

 隼人は再び『え?』と、妻を見た。

「今度は生きていたわ。貴方の子。心音、聞こえたの……!」

 隼人はざあっと立ち上がる。
 今、立ち上がったその土手にも、ざあっと芝を撫でる潮風が隼人を取り囲んだ。
 妻は足下で、泣いたまま。つまりお前、泣いているのは嬉しくて泣いていたのか? と。

 隼人は暫く、そうして感動の涙に濡れている妻を見下ろしていた。
 そりゃ、説教など聞きたくないってわけだったのか。つわりもいつから? そう言えば、野菜ジュースばかり飲んでいたなあ。ああ、そうか。それでこれが判るまで俺に黙っていたいから、夜も拒否されていたのか。──何もかも、やっと判った。
 我が儘になっているだなんて、とんでもなかったのだと。

「葉月──」

 隼人はしゃがみ込んでいる葉月の手を掴んで、立ち上がらせた。
 そして潮風の芝土手、小笠原のこの青い空の下で、なりふり構わずに制服姿の妻を抱きしめた。

「貴方。隼人さん……黙っていてごめんなさい」
「本当だよ。お前って本当に……どうなんだよ!」

 それでも、彼女を強く抱きしめて。
 そしてそれは妻一人ではなく、この彼女の身体の中にいるもう一人が今度は飛んで逃げていかないよう、捕まえるように抱きしめて。

 今、九週目。
 渚に放した天使が帰ってきた。

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