-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ1─

TOP | BACK | NEXT

─エピローグ・ステージ1─
 
3.義兄さんは、今。

 どれぐらい眠っただろうか?
 久しぶりだなあ。だいぶ、寝た気がする。

 素肌には、ぱりっとした真っ白いアップシーツ。そして肌触りの良いタオルケット。
 純一は裸でそれにくるまって、ふと目覚めた。
 この部屋に入れているダブルサイズのベッドは、贅沢に一人で使っている。
 ベージュを基調にしたこの部屋のカーテンから、やんわりとした光が漏れていた。
 暫く、その目覚めは、この部屋のゆったりとした雰囲気に委ねるまま、純一もぼんやりとしていた。

 そんなとき、ふと浮かんだのは栗毛の女性で……。

「おいっ。クソ親父。起きろよ!」

 まただ。近頃、どうも粗暴なやんちゃ盛りなのか、息子はこうして純一を起こす。
 まるでドアを蹴るような乱暴さ。どうしてだ? 親愛なる若叔母や祖父母の前では、品の良い坊ちゃん顔でいるくせに。どうして父親の俺にはこんなに粗暴なんだ?

「昼飯、冷めるだろ! 俺、学校に行くんだから、早く食えよ!」

 騒々しいドアを叩く音に、優雅な栗毛の女性との再会のような瞬間をかき消され、純一は渋い顔で起きあがる。
 手元にあるガウンを羽織って、ドアを開けた。

「うるさい。昨夜、イタリアから帰ってきたばかりなのだから、寝かせてくれ」
「それでも昼だろ、昼。起きろよ。食ってから寝ろよ」

 そこにはティシャツとジーンズといったラフな姿、そして太い黒縁の眼鏡をかけた栗毛の息子が……。
 こうして向かい合うと、目線が一緒だ。……いつのまにか同じ体格の男に成長している。

「昼飯、そこ。食器洗っておいてくれよ。洗濯物も今日は外に干した。シーツもね。夕方には取り込んでおいてくれよ。この前、親父、仕事に没頭しすぎて忘れていただろう!? 今日は夕立がくるかもしれないから……」
「わ、分かった。分かった」

 父親が部屋を出るなり、ビシビシと留守中の指示をする息子。純一は、苦笑いでとりあえず頷いた。

 そして息子は横浜へと出かける準備を始める。ラフな服装はこの家で家事をこなすため。出かける時にはきっちりと年頃のお洒落をして出かける。太い黒縁眼鏡も、フレーム無しのスリムでインテリな眼鏡に変えて。そうして身なりを整えた栗毛で茶色目の息子は、『ほう』と言いたくなる品格を醸し出す。もうすぐ十九歳になるにしては、随分と大人びた顔をしている。いや、御園の血だなあと、我が子ながら溜息が出てしまう。親ばかだろうか?

「じゃあな。俺、夜遅いから。親父が飯当番だからな」
「あー、はいはい」

 玄関の重厚なドアが閉まる音。
 やあっと出かけていった。と、純一は『お前は嫁か』と言いたくなるほどに、細かにやりこなすようになった息子の手際に脱帽。今となっては頭が上がらない状態だ。
 一人取り残されたリビング。壁際のサイドボード。そこに純一好みのブランデーやウィスキーを集めているのだが、その上に一つの写真立て。葉月と真一が選んでくれた『皐月』の写真だった。軍服姿ではないもの。彼女が残した姿の中で『これ、女らしいわよね』と葉月が言い、真一と共に選んだ写真だ。純一もその写真を久しぶりに目にしてから、遠い昔の彼女をやっと思い出したかのよう。とても気に入っていた。
 その写真に近づいて、純一は溜息をこぼした。

「あれは……。あのうるさい口は絶対にお前譲りだ」

 妻になるはずだった彼女に、純一は溜息をこぼした。
 するとまた玄関が閉まった音。そしてバタバタと廊下を走ってくる音、その音が近づいてきてリビングのドアが開く。

「親父──! 忘れていた!!」

 今度はなんの騒ぎだと、ほんっとうにこの息子の母親である彼女の昔を思い出させる騒々しさに、純一はついに顔をしかめたが。それでもいつもの平静さで『なにを忘れた』と聞いてみる。

「葉月ちゃんに連絡してよ! あっち大変だから! じゃあな!!」

 それだけいうと、息子はなにやら意味深な笑みを残して、またバタバタと出かけていく。

「おい、こら。なにが……」

 手を伸ばして、息子を呼び止めようとしたのだが……。既に遅し。姿無しだ。

「何が大変なんだ。まったく……! どうせ帰国したなら早く連絡しろってことなんだろう?」

 義理の妹が、『連絡を頂戴ね』と再々言ってくることを、息子は気にしていた。
 『葉月ちゃんは、親父とずっと一緒にいたいんだから。連絡はマメにしてやれよ』と、いつも言われる。
 そりゃ……。こっちだって、そうしたいところ。それに義妹は、今回のイタリア出張前にも『帰ってきたら連絡頂戴ね。会ってね』と何度も言っていた。そう、まるで純一が何処かに行ってしまうかのような不安な声。──解っている。義妹が何を不安に思っているかも。そして解っていて、この義兄はまた黙り続けている。素知らぬ振りで……。

 純一は、部屋に戻って仕事用の机に置いている携帯電話を手にしてみたのだが。
 義妹は大佐嬢の顔で仕事に没頭していることだろうと思い、今は時間が悪いと電話を置いた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 息子に言われたとおりに、今夜の夕食当番となった父親は、きちんと身なりを整えて買い物へと出かける。
 マンションの駐車場から、新しく買った車を自分で運転し、昼下がりの公道を走る。
 近所の大型スーパーマーケットにたどり着いて、男一人買い物だ。

 銀色のカートを押して、まずは野菜を物色する。

「ふうむ。時間もあるしビーフシチューでも作ってみるか」

 その材料を買い込む。
 息子と暮らし始めてから半年経つ。それまでに二回ほどこのシチューを作ったら、息子は『うまい、うまい』と言ってくれ、おかわりをしてくれたのだ。
 『親父って料理も出来たんだね! ジュールとエドに任せっきりかと思った!』──悪いが。その二人が若い時に自炊していたのは兄貴分の俺だというと、息子はさらに感心していた。それからだ。真一がもどかしい手つきでも自炊を始めたのは。
 もともと何でも器用にこなすのか、この半年でだいぶ上達している。掃除に洗濯などは、十三歳から訓練校の寄宿生活をしていたせいか、きっちりとこなす。あの山崎の一軒家にいた時は、大人達に甘えていたのか大雑把な生活をしていた息子に『訓練校でちゃんとやっているのだろうか?』と心配をした父親ではあったが、それは親の過ぎたる心配だったようで、息子はやるときはきちっとやっている。
 本当に、純一と暮らし始めてからの息子の成長ぶりには驚かされるばかりだ。

『暫く、一緒に住むか?』

 今の横須賀のマンションを、亮介と共に購入をすることを決めた時、息子にそう言った。
 息子はとても驚き、そして次には目を潤ませ何も言わずにこっくりと頷いただけだった。

『しんちゃんの念願だったに違いないわ。口では決して言わなかったけれど。本当の親子生活ね。兄様、有難う』

 義妹の葉月も、預かっていた甥っ子が戻るべきところ、身を寄せるべきところ、そして甥っ子が心底願っていたことが叶い嬉しそうだった。
 そしてそれは義妹も、長年、願っていてくれたことなのだろう。
 そしてそれは……きっとこの父親も。

 レジで精算をし、純一はそのまま一直線にマンションへと戻る。
 出かけた時は天気が良かったのに、息子が言っていたように空模様が怪しくなっていた。
 急いで部屋に戻り、ベランダの洗濯物を取り込む。
 キッチンに立って、早めの夕食作りに取りかかると、スコールのような激しい夕立が降り始めた。

 野菜などの下準備をしていると、テーブルに置いていた携帯電話が鳴る。
 表示を見ると小笠原のロイからだ。

「よう。どうした」
『帰ってきていたか』
「昨夜な──」

 包丁をまな板の上に置き、黒いエプロンで適当に手を拭き、椅子に座った。

『ちゃんと頼んできてくれたか?』
「ああ。エドにな。二週間内にこっちに来てくれるそうだ」
『良かった〜』

 ロイの安堵の声。
 純一もふと微笑んでしまった。

 イタリアには頻繁に出向いている。長年、そこを拠点にしてきたために直ぐには離れられないのだ。
 仕事もあるし、元の隠れ家に顔を出したりというのもある。ジュールとエドも忙しい身故、その隠れ家に落ち着いていることはない。だが、純一が帰ってくると言えば、二人は初日だけはきちんとその家に戻って迎え入れてくれた。……以前なら、騒々しい子猫がいつだって待っていたのだが。それも今となっては……。ともかく、今回のイタリア行きは仕事だけではない。この悪友に依頼されたこともあって、その用事もちゃんと済ませてきた。

「お前が言っていたデザイナーも念頭に、エドが最新の『ウェディングドレス』を取り揃えて小笠原に行ってくれるそうだ」
『エド自らか? それは頼もしい! エドは医者のくせに、なんだ、あの流行美的センスは? 羨ましいぞ!』
「あはは。俺もだ!」

 そうなのだ。義妹が今度こそ着られる『ウェディングドレス』の衣装合わせをするための準備を整えてきた。

 つい最近までは、お互いの『使命』を全うするために、必要以上に敵対心を見せる付き合いをしていた。
 だけれど、言ってみれば、この男と表と裏で組んできたからここまでお互いにやってこれたと言っても過言ではない。
 二人の行く道の色は違えど、向かうところはひとつ。『幽霊を探せ!』──だが、それも終わった。二人が共に愛していた女性へ、互いに穏やかな心での供養と冥福を祈る日々が訪れていた。
 彼も、先月。瀬川が皐月の墓を訪れた後。リッキーと共に、赤い薔薇の花を手向けに行ったそうだ。
 彼は『氷の青年将軍』と呼ばれているが、実は仲間では一番涙もろくて、熱血野郎のお坊ちゃんだ。そんな彼だから、墓参りが終わった後、純一のこのマンションを訪ねてきて『終わった』と、号泣しにきたのだ。それを一緒に味わえるのはお前しかいないとかいって、二人で久しぶりに一晩中飲み明かした。

 そして、今。この熱血野郎が夢中になっているのが、妹分の結婚式を『仕切ること』だ。
 この男は人のことを『派手野郎』というが、実はこの男の方がどれだけ派手か。まったく無自覚も良いところだ。だからとて、止められる者は少ない。リッキーの言葉で駄目なら、夫人の美穂が。駄目なら細川が……。しかし仕事でなければ今回の細川おじきは『若い者のこと、勝手にやれ』と言っていそうだ。美穂にしても、楽しく手伝いを進めているというじゃないか。
 ふと心配になって義妹の葉月に『お前、嫌なことは嫌と言って、通じないなら右京からちゃんと言ってもらえ』と連絡をしたのだが。

『もう、遅いわよ。ロイ兄様にはうんとお世話になったし、気が済むようにお祝いしてもらうわ』

 なんて、葉月もまんざらでもなく、実は嬉しそう?
 それでも彼女も『行き過ぎたことがあったら、ちゃんと言うから』と構えてはいるようだ。
 あの連隊長が先頭に立っての基地をあげてのお祭りになるのじゃないかと、純一はひやひやしてる。
 右京はと言えば……。近頃は園芸と咲いた花と、ヴァイオリンと……そして金髪の女医に夢中で、『ああ、いいんじゃないの? 葉月が嫌がることさえなければ』と、すっかりロイにお任せ状態だ。

 それになんと言っても、お隣で暮らしている亮介と登貴子の御園夫妻が、誰よりも楽しみにしているのだから……。
 だから純一もひやひやしながらも『まあ、いいか』と笑って終わることが殆どだ。

 そうしてエドが小笠原にドレスを持って、衣装合わせに来てもらうようにと頼んできたところだ。

『そうだ、純一。近いうちにこっちに来られないか? 電話では話せないことがいろいろあってな』
「なんだ」
『まあ、いろいろと探っていたら出てきたんでね』

 ロイの『出てきた』に、純一の動きは止まる。
 それが、ちょっと前まで純一を闇にいさせたことに、繋がるものだろうと。
 その後、ロイがひとこと、ふたこと、匂わせることを告げてくれ、純一は『そっちに行く』と即答していた。ロイ側もなるべく早く会いたいようで、純一さえ良ければ明日でも明後日でもという。だから純一は『明後日行く』と返事をする。ロイもそのつもりの基地出入り許可を申請しておくとのことで、話がまとまった。

 純一は溜息をついて、切った携帯電話を置いた。
 そして激しい夕立の音がするリビングで一人。額を抱えてうなだれる。
 目の端に、皐月の笑顔が見えた。

 先輩から届くたまの手紙にも、ある程度のことは書かれていたが、どれも信じがたく、そして受け入れていなかった。
 手紙の中に書かれていた『これが一番のきっかけだった』という皐月が生徒にロッカールームで襲われていた事件のことも。軍がもみ消したはずと書かれていたから、ロイが探してもその形跡はやはり何処にもなかったようだ。だからこそ。それこそ先輩の都合の良いでっちあげではないかと思ってしまうのだ。それだけじゃなかった。生徒がそうして目立つ美女教官を易々襲った背景には、若い男性教官のちょっとした恨み辛みが含まれた『からかい』も手伝っていたとか。つまり、ロッカー事件の時点では深刻にはなっていなかったが、ある程度、教官同士のセクハラもあったのではないかという先輩の告白。だから上の者から指示されその調査をしていたところ、生徒と女教官のロッカー強姦未遂に出くわしたということだったそうだ。だが、どれもこれも隠匿さている。

 しかしロイが『それらしいものをみつけた』と言う。
 どうやら今の地位を存分に使って、横須賀基地を徹底的に洗ったようだ。
 彼も、その為に……。そして愛した女性が出くわした悲劇を同じ女性に遭わせないために。そんな環境作りには絶対に『権力はいる』と言い、それであそこまで登りつめた若将軍。その為なら、彼もある程度の手段は選ばなかったことだろう。しかし彼の目的はそこにある。彼はその為にのし上がった。

 今の夕立のように、純一の心も大雨だ。
 今でもこんなに雨が降る。どんなに終焉したと言っても、義妹と息子と新しい弟と共に穏やかな日々を迎えても。
 純一の心にはきっとこの雨雲は消えない。そしてたった一人の時に、黒い雨が土砂降りになる。

『泣かないで──』

 肩にそっと置かれる柔らかな手。
 ふんわりとしている長い栗毛。
 そこに香ったのは、義妹から感じる涼しげで愛らしく爽やかにも感じる甘い香りではなかった。
 もっとむせるように香る、妖艶な花の匂い。芳醇に純一を取り囲む艶やかな花の匂い。
 彼女が真っ赤なドレスを着て、純一に微笑みかける。近頃は、長く髪を伸ばして、とても艶やかに笑いかける。

 きっと生きていたら、純一の意志などお構いなしに飛びつくように抱きついて。
 そして強引に彼女は俺の唇を塞ぎ、情熱的に愛してくれるだろう。
 そして俺はその花の匂いと、情熱に巻き込まれ、どこまでも熱くなる。
 今、彼女は熟女となって純一の傍にいる。もう、髪が短いお転婆な小娘ではなかった。
 近頃、思い浮かぶようになった皐月の姿。四十を越えた純一同様の年頃、真っ赤な熟女の姿を思わせてくれるようになった。

 包丁を持って、今度は無我夢中に野菜を剥く。
 そして無我夢中で夕飯の支度に没頭した。

 そうして涙が枯れた頃、夕立も上がる。
 横須賀の港町。遠くは鮮やかな夕焼けが広がっていた。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ことことと音を立てる鍋。
 息子が帰ってくるまでじっくりと煮込み、少々遅い時間帯でも、同じ時間に向き合った食事をしようと思う。
 その間。鍋の側、ダイニングテーブルにパソコンをセッティングし、仕事を片づける。ジュールに、そしてエドに、そして若槻に。カルロにも、それぞれにメールを送る。
 それを終えても、まだ時間が余る。そうして時計を見ると、程良い時間になったようだ。
 純一はやっと携帯電話を手にして、小笠原の義妹夫妻の自宅に連絡をする。さて、どちらが出るか?

『はい』

 男性の声。義弟だ。

「よう、隼人か」
『義兄さん! 帰ってきたんだ。お帰りなさい』
「うん、昨夜な」
『そうか。毎月、大変だな。でも、兄さんなら慣れっこか。真一は?』
「今、予備校だ。もうじき帰ってくる」
『遅くまで大変だな。真一は没頭すると、時間を忘れてまっしぐらになるところがあるから、ちゃんと睡眠とか食事とか、大丈夫かな』
「ああ、健康管理は医者の卵だから、ばっちりさ。元気有り余って、俺が管理されて大変だよ。あれはやっぱりあの皐月の息子だとつくづく思うね」

 流石の義兄も疲れた声。すると隼人が『それは、それは』と大笑いをした。
 それが幸せな証拠だと義弟が言う。純一も、心底ではそうだと思っているから、一緒に笑った。

「葉月だろ? 今、代わるな」

 別にそう言う訳でもないが……。いや、そう言う訳で電話したのだが。
 義弟は何も言わなくても、いつも程々で直ぐに義妹に代わってくれる。そりゃ、直ぐに義妹の声も聞きたいが、お前とだってゆっくり話したいことは山ほどあるのだぞと……純一はやっぱり言えずに心で呟くだけだ。
 義弟はそうしていつも気遣い、そして純一の立場も大切にしてくれる。そうでなければ……こうして義妹に連絡すら出来なかったことだろう。彼には償うに余りある罪を犯した義兄なのだ。彼と『共犯だった』と言い合っても、どれほど傷つけたことか。
 だが、義弟は『それがあっての今』とばかりに、何も言わない。もし、純一がこの世で本当の意味で頭が上がらないのはこの義弟なのではないかといつも思う。

『義兄様。お帰りなさい!』

 義妹の元気な声が聞こえ、純一はほっとする。
 彼女の声に安らぎを覚えるとかではなく、あの義妹がこうして元気な声で日々を過ごしていることに安堵するのだ。

「ああ、ただいま。元気そうだな」
『うん。元気よ』

 さて、息子は『あっちは大変』と言っていたが何のことだったのかと思う。 
 やはりただのからかいか、放っておくと音沙汰無しの過去を責めての釘刺しだったのか?
 義妹は明るい声で元気だし、なにが大変なのかと純一は首を傾げる。
 まあ、それならそれでいいのだ。
 ただ単に帰ってきた報告を。……だから、俺からの話はここで終わってしまった。なので、義妹と向き合っている受話器にはしんとした沈黙が漂う。

『あ、あのね。義兄様……』
「うん」
『あの……』

 本当はお互いに話すことなどそんなにない。
 いつもそうだ。『元気か』『元気よ』だけだ。それでも義妹はその一言のために待っていてくれていると言うから、そうしているし、純一も。
 やはり顔を見て目を見て、初めて……義妹の様子も分かり、彼女の状態も透けて見えてくるというもの。きっと義妹も長いお喋りよりも、ただ声を聞き、ただ姿を見ることが一番の『実感』なのだろう。

 なかなかお喋りが進まないのも、義妹らしい気もする。
 そんなにべらべらと喋る女ではない。そして、純一も。
 二人でいる時は、ただ寄り添っていれば、ただ姿を見ていれば。それで良い関係、それが一番の関係だったと思う。

 だが、今回は純一の方に連絡事項がある。

「明後日な。そっちに用事があってロイに会いに行くんだ。その時に会おう」
「こっちに来るの!?」

 義妹がとても驚いた声。
 まあ、それもそうだろう。穏やかな日々を取り戻したとはいえ、今までは黒猫として『禁断の島』だった小笠原に、あのロイに誘われて出向くというのだから。
 だが次には義妹のとても元気な声。

『じゃあ、待っているわ! その時に義兄様、私とも会ってね。絶対よ!』
「ああ、勿論。そうだ、それならお前に何か好きな菓子でも買ってきてやろう」
『本当!? 今ね、今ね。すっごく食べたいのに本島まで行かないとなくって、がっかりしていたの!』

 義妹はいつにない喜びようで、次々と菓子店の名と菓子名を矢継ぎ早に言う。
 純一は『待て、待て』と言いながら、側にあったメモ用紙に、訳の分からない菓子店や菓子の名前を記した。

 では、明後日──。
 いつもはどこか勿体ぶって電話を切ろうとしない義妹の方が、あっさりと切ってしまった。

「なんだ。いつも以上に元気じゃないか」

 どこが大変なんだ? と、純一は首を傾げた。
 そして義妹が望んだ菓子店を見て溜息。

 

 煮込んだシチューが程良く出来上がった頃。息子の真一が帰宅する。

「うおーー!? 俺が好きな親父のビーフシチューーーっ」

 今日の晩飯はなんだと、コンロにある鍋の蓋をすぐさま開けて大喜び。
 部屋に駆け込み、瞬く間に着替えを済ませ、少し品よく気取っていた御園の坊ちゃんは、いつものやんちゃで無邪気な息子に戻った。
 すぐに食卓を整え、二人で向かい合って食事を始めた。息子はいつものように美味い、美味いと夢中で食べてくれる。
 その食事をしながら、純一は小笠原に連絡したことと、明後日出かけることを息子に告げた。

「あれ? 葉月ちゃん、それしか言わなかったの?」
「ああ。何かあったのか? すこぶる元気だったし。見ろ、この菓子依頼。俺には探しきれん。お前、知っているか」

 息子はそのメモ用紙を見て『あー』と、なんだか不満げな声。

「今からこんなに。本当に、もう……。まあいいか」
「だから、なんなのだ?」
「いやいや。ドレスを着る前にこんなに食べたら太るかもよと言うこと。まあ、良かったじゃない。葉月ちゃん、きっと喜ぶよ。そうそう、このお店はね──」

 息子がメモ用紙の空白に、百貨店の地下食品売り場に出店しているという店の場所を教えてくれる。
 一つの百貨店の地下ですみそうで、純一もほっとした。

「葉月ちゃんはね。ここの『白玉ぜんざい』なら、抹茶も小豆も、珈琲味も好きだよ」
「ぜんざいに珈琲味??」
「うん。隼人兄ちゃんも好きだよ。親父もこれなら食べられるかもね」

 若叔母の好みなら、息子の方が詳しいかもしれない。
 純一は『そうか』と唸ってメモを財布にしまった。

 さて、その小笠原に行くことになったのだが──。
 誰も教えてくれない『驚き』が純一を待っていた。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.