-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ1─

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─エピローグ・ステージ1─
 
4.ベイビー・タイフーン

 昨日のことが、どうも釈然としないのだ。

「ねえ、聞いて。連隊長、この日取りにするっていうのよ」
「どれ……」

 隣の席にいる黒髪の女性同期生が、近頃大事に持ち歩いているバインダーから、スケジュール表のような紙を見せてくれる。
 それをテッドは、ちょっと疲れた顔で覗いた。

「なんでそんなに疲れているの? もしかして昨日の大佐と中佐のこと?」
「うーん。おかしいと思わないか?」
「思う、思う!」

 意外にも隣の彼女が、強く同調してくれる。
 いつもはなにかと反対のことを言って、テッドを困らせるのに──。

「本部で二人があんなに感情的に仲違いしちゃっているのは初めてだったけれど、帰ってきてからのあの仲の良さはなんなの? って感じだったわよね! 私も気になる〜っ」

 毎度、騒々しいのだが、彼女はただ単に『単純な熱血女』であるだけで、悪くはないのだ。
 なんと言っても、喧嘩する時は憎たらしいほどに騒々しく口も達者だったりするのだが、こうして共感を得てくれる時の賑やかさは逆にとても喜びたくなる程で、なんといっても味方につけたら一番強かったりするのだ。
 それで彼女が昨日の出来事で、テッドが思っているとおりのことを言ってくれる。
 テッドもまったく同じことを言いたい。今や直属の上司である大佐嬢──人に言わせると『無感情令嬢』か『ロボット女将校』。それほどの冷たい横顔を保ち、決してここでは感情的になることはない。だからこそ、恋人でもあった澤村中佐、現・御園中佐と夫妻になってオフィスに復帰しても、その変わらずのスタンスにはテッドも『流石』と思っていたのに。それが急にあれだ。それは側にいるテッドでなくても『いったい何が?』と思うのだ。それだけじゃない。どうも近頃、彼女が『読めない』。もともと読めない人だったが、それでもなんとなく解るようになったと専属補佐になりかけている今、自負できていた時だっただけに……。またもや新たなる壁の如く『読めない』ことが起きている。会議で思わぬやり方の離席をしたり、ときおり気分が悪そうだったり、そして昨日の感情的な行動に、追いかけていった夫と戻ってきたら、なんとも幸せそうな顔をして。

(いい加減にしろよっ)

 テッドは初めてそう思っている。

 まあ、彼女が初恋ではないが、今までの中で一番憧れた女性だ。
 そう、今は憧れで良かったと思っている。あのような女性、テッドではコントロールは無理だ。それにプライベートだって、大変な苦労だ。
 それでも、やっぱり憧れた女性だし、敬愛している上司なのだ。
 その上司でも……。やっぱり女性なのだろう? 結婚して暫くはいつもと同じ顔をしても、やっぱり旦那と喧嘩もするし、そしてあんなふうに女らしい顔で、もう旦那に寄り添って……。
 それだけじゃあない。まだある! あの後、澤村中佐が何を思ったのか『彼女、早退するから。俺が送ってくる』と言って、定時前、大佐嬢を連れ去ってしまったのだ。気分が良くないというのが海野中佐に告げられた理由ではあったけれど、海野中佐も訝しそうで、そしてテッドもそうだろうなと思いつつも、それでもあっさりと旦那に早退させられ、びっくりだ。しかもいつもなら『お前、一人で大丈夫だな』と中佐の顔で突き放しそうなところ、その旦那自らの運転で大佐嬢は大事に大事に自宅に送り届けられた。暫くして澤村中佐は帰ってきたが、彼もなんだか心あらずと言った感じで、変にご機嫌な顔をしているのだ。
 まったく──。どれだけいちゃついてきたと言うんだ? テッドはちょっと我慢限界なのだ。嫉妬じゃない! いつもの大佐嬢に戻って欲しいのだ。まさか、まさか。結婚してやっぱり変わってしまう大佐嬢? そんなのぜえったいに認めない!!!

 それでも昨日の時点で、忽然と消えた大佐嬢に我慢したのも『明日にはテッドにも言うからね』と言ってくれたからだ。

「おはよう」

『おはよう、お嬢』
『おはようございます。大佐』

 来た! この瞬間を待っていた。
 フランク中佐や、他の隊員が出勤してきた彼女に挨拶をしている中、テッドも席を立ち上がる。

「おはよう、ジョイ」
「おはよう隼人兄。最近、一緒に出勤なんだね」
「ああ、暫くは──」
「もう、このこの。やっぱり新婚になると、隼人兄も甘いねえ〜」

 フランク中佐にからかわられる澤村中佐の顔。
 いつもならちょっと天の邪鬼な顔をして『そんなんじゃない』と言うのに、今日は昨日に引き続き、まんざらでもない顔。

「テッド、おはよう」

 そんな中佐達にも、ややいらっとした時……テッドが良く知っているそんなしっとりした声。
 大佐室に入る前に、彼女がこちらを見て微笑んでくれていた。

「お、おはようございます。ぐ、具合は良くなったのですか?」

 すると彼女はちょっとはにかんだ顔を見せ、小さくこっくりと頷いた。
 こんな時に見せてくれる女性の顔には、テッドもちょっとばかり舞い上がりそうになる。
 いつだって冷たい横顔、冷徹な女大佐。泣きたい時も、それをぐっと心の奥にひた隠しにし、その氷の顔を整えてきた彼女を見て哀しく思うことだってあった。そんな大佐嬢が、そうして頬をちょっと染めて感情ある素直な表情を見せてくれるのは、ときめきとは別の意味でテッドもほっと心がほぐれる瞬間。

「ちょっと。話があるから来て」
「は、はい」

 やっとその時が来たようだ。
 机の上を離席状態に整えて、テッドは大佐室に向かおうとした。
 すると、制服のシャツを誰かに引っ張られる。隣の席の小夜だった。

「テッド、私にも教えてよ」
「ああ」
「そうそう。私、朝一から連隊長とコリンズ中佐と昨日の話の続きがあるの。ちょっと抜けるから上手く言っておいて。今日はね、日取りを決めるのよ。やっぱり『大安が良い』ってアメリカ人のお二人には主張するわ」
「おお、頑張れよ。俺からも適当に誤魔化しておくから。フランク中佐には離席を報告しろよ」

 小夜は『うん!』といつもの元気な顔を見せて、出かけていった。
 『タイアン』ってなんだろう? と、テッドは唸りながら……。そうか、ついに日取りを決めるかと、わくわくしてきた。
 今、テッドの大佐嬢に対する精神は不安定だが、それでも彼女の結婚式は純粋な気持ちで楽しみだ。
 どんな顔を見せてくれるだろう? 幸せな顔でありますように。そして……『綺麗だろうな、きっと』。テッドはそう思う。

 それで少しは心が和んで、大佐室に入る。

「お前、靴を脱げ」
「ど、どうして? ちゃんと踵のない靴にしたじゃないっ」
「俺が今から売店に行って『スリッパ』を買ってくるから、それまで裸足でいろ!」
「もう〜。昨夜からなんなのよー」

 また、旦那中佐と奥様大佐が妙なやり取り。
 中佐はなんだか妙に神経質な顔で、大佐嬢の足下に跪き、とっとと彼女が履いている外履きの靴を脱がしてしまった。
 大佐嬢は裸足にさせられてちょっと不満そうだが、それでもいつものような我は張らず、妙に旦那に従順だ。
 靴は駄目、スリッパだ、スリッパと。本当に訳が分からない。

「ああ、テッド。おはよう」
「おはようございます。澤村中佐」
「悪いけれど、あのじゃじゃ馬が歩かないように見張っていてくれ。俺が帰ってくるまで、どこにも行かせないでくれ!」
「はい? 構いませんが……」
「頼む!」

 隼人に両手をぎゅうっと握られ、テッドがきょとんとしているうちに、彼は瞬く間に大佐室を飛び出していった。
 何事? と、テッドも目が点だった。

「ごめんね、テッド……。あの人、おかしいわよね?」
「い、いえ」

 大佐嬢の申し訳なさそうな顔。
 またちょっと頬を染めて、それはもう……『奥様』の顔だったから、流石にドキッとしてしまう。

「こっちにきてくれる?」
「は、はい……」

 大佐席の前に促され、テッドはいつもの規律正しい姿勢でピンと背筋を伸ばして立った。
 だが彼女は楽にして良いからねと微笑みかけてくる。だから少しだけ、肩の力を抜いた。

「昨日は、貴方には何も言わないで突然に早退してしまってごめんね」
「いいえ……。だいぶ気分が優れなかったみたいで」

 それが原因で喧嘩したのかどうかはしらないが、どうやらすっかり仲直りはしているようで、今朝の彼女は爽やかな顔をしている。
 ……気のせいかな? ちょっと穏やかな眼差しが、いつも以上に綺麗に見えたりして。それに頬を染めてと先ほどから言っているが、それがずうっと続いている気がした。

「気分が悪いのにはね……訳があって」
「何処か、悪いのですか?」
「ううん。えっと……テッドにはこれから暫く凄く迷惑をかけると思うの」

 気分は悪くないけど、迷惑? 
 そんなの今に始まった訳でもないし……。迷惑だなんて水くさいなあと、友人としてなら今すぐそう言いたい。だけれど今は部下の顔、補佐の顔。でも? 目の前の大佐嬢は、いつものきりっとしている大佐嬢の顔ではない気がして。
 その彼女がさらっと笑顔で言った。

「あの……子供ができちゃって」
「え?」
「気分が悪かったのは、その……つわり?」
「……え、ええ!?」

 はにかんで俯く大佐嬢と、ただ驚くだけで彼女をじっと見たまま固まった補佐。
 二人きりの大佐室がシンとする。

「昨日、一時間抜けたのはね? ジャンヌ先生に来てもらって、お腹の子供が生きているかどうか確認してもらったの。ほら……私、すぐに駄目になっちゃうから。『心音』を確認できるまで、澤村にも黙っていたのね……。それでつわりがきつくて苛々したり、確認するまで不安でしようがなくて。でもね、昨日、ちゃんと聞こえたの『心音』──」

 そこには、今まで見たことがない『大佐嬢』がいた。いや、大佐嬢じゃない。御園隼人の妻で、そして母親になる女性の顔、そんな『御園葉月』がテッドの目の前にいた。
 その衝撃──! そして、沢山のことが頭の中で駆けめぐった! 昨日の離席、そして不安定な彼女、具合が悪そうな彼女。そして、子供がなかなかお腹に落ち着かない彼女。二年前にも流産していたって……!

 ……判明してすっきりしたこと、だけれどこれから心配なこと。そして、この俺が今後も職場で気をつけなくちゃいけないことって??
 に、妊婦なんて初めてだ。側で付き合うなんて初めてだ。ど、どうしたら??

 急に隼人のあの神経質な慌て振りを思い返す。
 あれはおかしくなんかない! あれぐらいになってしまうだろう!?

「テ、テッド? 大丈夫?」
「は、はい。はい。だ、大丈夫です……!」

 ちょっと気が遠くなって、テッドはなんとか頭を振ってもう一度ピンと立ち直る。

「おめでとうございます!」
「あ、有難う……」
「勿論、仕事は続けますね?」
「ええ、昨夜、澤村とも話し合ったけれど、そのつもり。ただし絶対に無理をしないのが条件だって」
「当然ですよ! 今まで以上に俺になんでも言ってください!!」

 今度のテッドは、明るい笑顔で言いきっていた。
 そして目の前の女性がやんわりと微笑み、テッドを頼もしそうに見てくれる笑顔。こんなの初めてだった。

「大佐の子供、きっと元気な子でしょうね。男ならやんちゃで、女の子なら間違いなくお転婆だ!」
「ひどーい。澤村と同じことを言うのね」
「誰だってそう言いますよ。言い切って良いですよ」
「男の子ならそれでもいいけど、女の子は絶対におしとやかに育てるわ!」

 葉月がちょっとむくれながらも、そんな未来ある言葉を言ってくれるなんて……。テッドは嬉しくなってくる。
 彼女は今度は生まれると信じている証拠!
 そして二人は一緒に笑い合っていた。『きっとそうなんだろうね』と……。
 大佐嬢の顔はとても柔和で綺麗だった。なによりも笑顔なのが、ほっとする。

 母親になると綺麗になるってよく聞くけれど、本当かも知れないとテッドは思った。

「あーあ、それにしても。これからこんなことでどうするのかしら?」

 大佐嬢が裸足になった足を見下ろし、溜息をついていた。
 今、とっても神経質なのは、どうやら旦那さんのようだ。

「ほんとうですね。ちょっと中佐らしくなかったですよ」
「なにもするな、動くなって言うの。どう思う?」

 テッドは『うーーん』と唸る。どちらかというと隼人の気持ちの方がよく解る気がする。
 そしてテッドもどうして良いか解らない。まさか、補佐となって『育児書』とかも必要かもしれないなんて思う日がこようとは。

 その後、隼人がスリッパを本当に買ってきて、妻の足にかいがいしく履かせる一面も。

 そこに達也が朝礼前に日課にしている外部署の見回りから帰ってきた。
 そしてテッドと同じように、その見慣れぬ光景に首を傾げている。

「なにやってんだよ、スリッパなんて。この大佐室、いつから土禁になったのよ?」

 すると隼人がちょっと照れた顔で立ち上がり、椅子に座っている大佐嬢を見下ろし……。大佐嬢は座ったまま、旦那の隼人をはにかみながら見つめ返し。もう、それを見ているだけでテッドは胸焼けが起きそうなほどの濃厚なアイコンタクト。そして達也も『なーにみせつけているんだよ』とちょっと不機嫌になった。

 そして二人が一緒に言った。

「葉月に」
「私……」
『子供ができちゃって……』

 揃って小さく呟き、俯く二人。
 もう衝撃波を受け終わったテッドはちょっとニンマリしながら眺めていたのだが……。やっぱり達也は先ほどのテッドと同じように一瞬、固まっていた。しかし、やっぱり海野中佐、直ぐに賑やかになる。

「ま、まじかよーー! お、お前、いつ判ったの!?」
「ええっと、昨日? 無事に心音があって……」
「し・ん・お・ん!! あった、あったんだ! 第一関門突破じゃんか!」

 彼らしくわあっと騒ぎ始めたので、いつも静かな夫妻は逆にギョッとしている。

「そりゃ、スリッパじゃなくちゃ駄目だ! 兄さん、良く気が付いた! お前、動くな歩くな!」
「ちょっとそれ、やめてよ! 隼人さんも昨夜からそんなかんじで、もう、うんざりよ!」
「いいやっ。お前にはこれぐらい言っておかないと、絶対に無茶する! もうお前一人の身体じゃないんだぞ。そうだ、紅茶も駄目だ。分かったな!!」
「それぐらい分かっているわよ!」

 葉月は、達也にまでくどくどと言われて本当にうんざりした顔をしている。
 だが、最後に達也が大きな声で吠えた。

「おめでとう!! 頑張ろうな! 俺も全面協力するから!」

 ここにも、長年大佐嬢の痛みを知っているからこそ、『頑張ろう』と言ってくれる人が一人。
 テッドは思う。今度こそ、大丈夫なんじゃないかって。何よりも大佐嬢が幸せそうだから……。
 今までのように、いつも何かに囚われて痛くて泣きたい日々ではなくなっている。
 穏やかな日々の中、喜びの中、笑顔の中なら、きっと──。
 今はそう思える、不思議と……。

 そうして大佐室三人が喜び合っていると、途中から隼人が抜けて、テッドのところにやってきた。

「あのな、テッド……」
「はい、中佐」

 隼人からひとつのメモ用紙を渡される。
 それを開くといくつも箇条書きにされている項目が──。

 階段は駄目。エレベーターでとか、紅茶は駄目とか、欲しがっても菓子を与えるなとか……。そんなことが。
 それだけじゃない。その隼人がなにやら大判のハンカチか何かでくるまれた包みをテッドに差し出してきた。

「これ、今日の大佐嬢のランチ。カフェのものはぜえったいに食べさせないでくれ!」
「はあ……」

 おいおい。ついに旦那手製のランチボックスまで出てきたよ……と、テッドはもうちょっとで脱力。なんとかその包みを受け取った。
 そしてその旦那さんに『今はテッドが頼りなんだ』とまた手をぎゅうっと握られた。

 なんなら? 側近なんだから替わりましょうか?
 中佐が四六時中ひっついていた方がいいかも?

 そんな言葉が喉まで出かかって、テッドは飲み込んだ。

「今、何週目なんだよ」
「九週目かしら」
「うわー。俺んとこの『晃』といっこ違いじゃん!」
「そうなの、そうなの! なんだか嬉しい」
「俺も、俺も! 同じ部隊に入れようぜ」
「また、早いわよ。そんなこと言って──」

 同期生同士はいつまでも賑やかだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そしてここにも耳を疑う女性が一人──。

 話があると隣の席にいる『いちおう上司』のテッドに言われ、二人一緒に本部の外廊下に出た。

「──と、いうことだったんだ」

 そしてそこで、目の前の栗毛の少佐が、驚くことを告げた。
 小夜は、もう一度聞き返した。

「ええっと? 誰が妊娠って?」
「だから。御園大佐が。九週目だってさ。だから、ここのところ『つわり』で気分が悪かったらしくて……」

 あの大佐嬢が『妊娠』!
 それは小夜にとっては、嬉しいことを思わせ、反面ではちょっと哀しいことも思い出させる複雑な瞬間。
 だけれど、徐々に嬉しさが勝る。……いや、待って! と、小夜は頬を押さえた。

「で、でも、でも……葉月さんって……。ほら、テッドも去年、一緒に聞いちゃったじゃない。永倉少将が一緒だった時に……」

 そう、彼女は一度、今の夫と恋人だった時にも妊娠をして、駄目になって……。
 そうそう。この夫妻に限っては、いつものごとく一直線にはちきれんばかりの喜びを示してはいけない。慎重に、慎重に……。
 すると目の前の少佐が、なんだか嬉しさいっぱいの顔をしていた。

「それが昨日。お腹の子供の『心音』を確かめることが出来たって」
「ほ、本当!?」
「うん。とりあえずだけれど。でも、今、大佐室、賑やかだぜ〜! ご夫妻のとろけた顔、お前も見て来いよ」
「いやーんっ! 見たい、見たい! きっと澤村中佐がちょっと拗ねたような顔をして照れているのよ! もう、いつもの意地悪をここで返さなくっちゃ〜」
「駄目、駄目! もう中佐はお腹の子に支配されているんだぜ」
「うっそー! あの澄ました中佐が!? 見に行かなくちゃ〜!!」

 凄く嬉しい! 何故って、今までを見守るしかできなかった後輩だから……。何も出来なかった部下だから。
 もう……。あんな思いはしたくない。
 小夜はそう思う。それはきっと当人である大佐嬢に寄り添ってきた中佐達にはもっともっと苦い思いだったはず──。
 なのに、ちょっと前から携わることになった小夜にだって、葉月が急に留守になった昨年の冬はとても辛い時期だった。特に──大佐嬢が空母艦航行から帰ってきて、『今度こそ、女性として澤村中佐の胸に行ってくださいね』と密かに願っていたあの旅行に送り出した後、さあ帰ってくるねと皆で待ち構えていたら二人揃って出勤にならず……。数日後、海野中佐が今にも泣きそうに周知した報せには途方に暮れたものだ。そのあと数日間の重い空気。本部全体が哀しみにつつまれ、そして落ち着かぬ日々。特に大佐嬢と深く連携している空軍管理班、そして小夜が今所属している総合管理班では、皆が暗い顔をしていた。『もしかしたら、駄目なのか。いや、そんなこと考えてはいけない』──そんな繰り返し。小夜の人生の中で一番、痛くて苦しい日々だった。
 だからこそ……。いつの間にか、涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。

「うっうううっ……。どうしよう、こんな顔じゃあ、逆に澤村中佐に苛められるわ」
「小夜──」

 目の前の彼が『吉田』でなく、『小夜』と言う時は、仕事の姿勢を取り払って『友人』として向き合ってくれる時──。
 テッドの手が、そっと小夜の肩に乗った。

「……だよな。お前が一番、泣いていたもんな。あの時。俺だって思うよ。こんな日が来るだなんて。もうあんなふうに胸が締め付けられて待っているだけしかできない日々なんて嫌だ」
「うん……。私も……」

 小夜が何を思って泣いているか、彼はすぐに悟ってくれた。
 騒々しく叫ぶ時も、騒々しく泣く時も『お前はオーバーで、うるさい』と言うお隣さん。だけれど、だからこそ……。彼が一番、小夜の気持ちの起伏を見届けてくれた人だと思う。

「落ち着いたらお前も言ってこいよ、お祝いを。きっとお二人とも、お前からの言葉、より一層喜んでくれると思うぞ」
「有難う、テッド──」

 ハンカチで涙を拭って、小夜は彼に笑いかける。
 彼がちょっと戸惑った顔を見せた気がしたけれど、無言で小夜の肩を叩くと、直ぐに本部事務室へと背を向けた。

 そっか……。葉月さん妊婦なんだわ……。
 これから、大変ね。私達も気をつけてあげなくちゃ。
 そうそう。心臓が悪い泉美さんだって頑張って生んだんだもの。葉月さんだってきっと!

 小夜の頭の中で、今後どうするべきかという注意点が即座に駆けめぐる。

 紅茶は駄目。
 サンダルは駄目。
 階段も駄目。
 それから。それから……。そうだ、こうなると結婚式も……。

「ああああ!!」

 小夜は廊下のど真ん中で、大声で叫んだ。
 目の前の本部に入ろうとしたテッドが飛び上がって振り返る。

「お前、なんだよ。その声! いつもいきなり! 一呼吸置いてから声を出すって出来ないのかよ!」

 いつもの小言と、嫌そうな目つきが向かってきたが、小夜は真っ青になって頭を抱えていた。

「どーしよーーっ」
「なんなのだ、まったく!」

 テッドが事務所の中を気にしながら、また小夜のところに戻ってきた。

「今朝、お式は二月の桜の時期がいいって決まったのー!」
「変えろよ。今すぐ連隊長のところに行って、変えてもらえ!」
「駄目よー! 連隊長夫人の美穂さんは、本島からシェフ班を呼んでお料理をしてもらうんだとか、ドレスだって衣装合わせは御園のお兄様とか言う人のつてで二週間後だし……!」

 小夜はさらに大きな声で叫ぶ。

「葉月さん、お腹、おっきくなっちゃうし!」
「お前、声……でかいっ」
「盛大な、おふっ・・っりも、 ふ、ぐっ……」

 『連隊長が一番張り切っている盛大なお料理の手配も間に合わない!』──と、叫びたいのに、ついにテッドに『静かにしろよ』と口を塞がれていた。
 気が付けば、小柄な自分よりずっと背が高い彼の腕の中、胸の中に押し込められていて、彼が背後から長い腕を伸ばして小夜の口を押さえている。それにハッとして、小夜はついに黙った……。

「ほんっとうにお前は騒々しいな! ちっと落ちつけといつも澤村中佐に言われるだろう!?」
「だってーー! ほんっとうに素敵なお料理を手配する準備しているんだものっ。あーん、どうなるの、どうなるの。私もお料理すっごく楽しみにしていたのにーっ。春まで予約いっぱいのシェフなんだものーーっ!」

 計画総崩れ! と、小夜はまたきゃんきゃんと騒ぐ。当然、目の前の彼はもう呆れた顔で、額を抱えてうなだれていた。

「おい、小夜!」

 だけれど突然、彼のキリッとした声。
 少佐の声だけれど、呼ばれたのは『小夜』。それは彼が小夜という個人と向き合ってくれる時の姿。
 だから、小夜は急にぴたっと口を閉じてしまう。
 その彼が、あのエメラルドのような瞳を煌めかせ、なにやら確固たる顔で小夜に言おうとしている。
 実は小夜……。彼のこの目にちょっとどっきりすることが多くなってきた。こんな綺麗な緑色の目をして、そしてこんな毅然と煌めく目をする同い年の男性。そんな同世代の男性は小夜の側には彼しかいない。他部署に配属されている女性同期生達にも『小夜はラングラー少佐と仕事が出来ていいわね』なんて、近頃は羨ましがられるぐらい。ちょっと自慢の『同僚』なのだ。
 その目でぐっと強く見つめられ、小夜も心も姿勢も正して彼を見た。

「お前、なにか忘れていないか?」
「なに?」
「確かに時間があるなら、そういったパーティでも良いと俺も思うよ。大佐も中佐も連隊長にお任せすると喜んでいるし。だけれど、事情が変わったのなら、変わったなりの手配をするのだって、今回のお前の使命、そして手腕だと思うけれどな」
「でも、最高の形にするのはやっぱり時間が……」

 テッドが首を振った。
 そしてまた小夜を見る。

「最高ってなんだよ」
「え?」
「いろいろな形があると俺は思うよ。そうだな、一番最高だと言うなら、俺はやっぱりどんな状況でも大佐が喜んでくれる方法を必死で探すよ」

 彼女の補佐としての誇りを彼が見せる。
 だけれど基本はそこなのだと彼が言っているのが分かる。
 つまり、御園夫妻が喜んでくれるのが一番良いことだと。

「あの二人は、本島の流行出張シェフが来ても喜んでくれるだろうと思うけれど、それだけじゃないと思う。例えば──大佐は『玄海』の寿司が好きだし……」
「そうだわ! 大佐は『Be My Light』の、ポークサンドが好きで、澤村中佐はエビレモンチーズ!」
「そうそう、大佐は『ムーンライトビーチ』の野菜スティックサラダも好きだ。澤村中佐は鯛のカルパッチョ」
「そうそう! 『なぎ』のおでんとラーメンも、二人とも大好きだわ」

 そして最後に二人の声が揃う。

『そして大佐はカフェテリアの、クラブハウスサンドが大好き──』

 二人でさらに『そうそう!』と笑い合う。
 テッドが言おうとしているところが小夜には直ぐに分かった。

「それこそ『小笠原式』だわ! 私、そっちのほうが断然良いと思う!」

 そしてテッドも、言いたいことが直ぐに通じた小夜を見て、満足そうに頷いてくれた。

「そう言ってこい、連隊長に。お前が言えば、きっと連隊長も分かってくれるさ」

 テッドにポンと背中を押され、小夜は新しく真っ白に光ったように見えた道を走り出した。

「有難うー! テッド!」

 振り返って手を振ると、その大きな声が気に入らなかったのか、彼が面倒くさそうに手を振って、さっさと本部へと姿を消してしまった。
 そして小夜はいつものとおりに、まっしぐら! 連隊長室へと向かった。

 そう、小笠原式結婚式。
 きっとそれが二人が喜ぶこと。そして……小夜も。
 この愛しき小笠原の島で、皆と迎えるハッピーデー! それを思い描いて……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 この日、葉月は沢山の人々から祝福の言葉を受けていた。
 まだ外には出ていないし、外に漏れるには少し時間がかかると思う。だから、今のところ周りの本部員達から──。

 朝礼での報告は今回は避けた。
 ジョイの提案で、『それぞれの責任者から様子を見て報告ってどうかな』と言うことになった。
 陸班なら山中が、そして総合班はジョイから、空軍管理は隼人から……。
 そうして静かに広まっていく形を取ることにした。だけれど、昼までには本部員の殆どが知るところになったようだ。
 達也もあの後直ぐに、携帯電話を手にして泉美に連絡し、葉月は電話口から彼女の祝福を受けた。もうすぐ一緒のママになれるのねと泉美も嬉しそうで、葉月も身近にママ先輩がいて頼もしく思った。
 後は山中はもちろん、洋子も、デビーも。クリストファーにテリーも。皆が大佐室に入ってきては『おめでとう』と言ってくれる。

 後は、彼等の口から外部に広まっていっても良いと思っている。
 葉月からは、今から親しい人へ連絡だ。

(純兄様には来てから言おう)

 お兄ちゃまの顔を見て、言おう。
 葉月はそう思って昨夜の帰国連絡の際は言わなかった。
 そして義兄がくるのを待ち望んでいる自分がいる。……それはやっぱり今でも止められない気持ちだった。
 さらにロイと細川には、今日中に。そして今夜のうちに両親に、横浜の両親にも──。葉月はそう思い描きながら、お腹をさする。
 まだ、なんの手応えもないけれど。でも『実感』はある。

「いい。ちゃんとしがみついているのよ。今度こそ……」

 でも、葉月はなんとなく知っている気がした。
 この子、本当はなんでもお見通しなんだと。
 今まで、パパとママの周りの世界が不完全だったから出てこられなかったのだと。
 今なら……。今なら……。
 葉月自身、今までの妊娠の時以上の『確信』がある。真っ暗な闇の中で、先が見えない状態で身ごもった時は、喜びよりも不安が大きかったのではと思い返す。だけれど今は不安よりも、前進に未来に確信。そんなものが葉月の中で見え隠れしている。
 穏やかな日々を迎えて、心が落ち着いてきたからこその確信か。

 なにか輝かしくてしかたがない。
 あの心音を聞いてから、ずっと。
 ジャンヌと一緒に微笑み合い、葉月はその瞬間に涙を流していた。

『生きているわよ。貴女と同じように心臓も動いているのよ』
『はい……』

 その言葉により一層、涙が溢れ、葉月は自分の心臓がある位置に手を当てた。
 空で酷使させてきたこの心臓。いつ破れたって止まっても良いと思っていた心臓。もう少しで刃の餌食になりそうになってギリギリのところで助かった心臓。
 それと同じものを抱えた天使が、今、自分のお腹にいるのだという実感が溢れた。

 今もその実感。
 お腹の下の方からじんわりとしたぬくもりが広がってくるようだった。

 そんな幸福感。
 だけれど……。と、葉月は溜息をついた。

「初日からやりすぎなのよね。今からこんなに力んでどうするのよ?」

 葉月は机の隅に置いている『ランチボックス』を手にした。
 昨夜、隼人は遅くまでパソコンに向かって、インターネットで何かを調べていたようだ。
 そして朝、起きるとこのお弁当が出来上がっていたという……。『これから毎日、俺が作る』だなんて言っていたけれど? そんなの大変じゃないかと、面倒くさがり屋の葉月は思うのである。
 しかも……葉月が最も不満なのは、大佐室にある『菓子類』がすべて撤収されたことだ! いや、撤収じゃない。これは『没収』だ!
 葉月専用の、いろいろな人からもらった飴やクッキーやチョコレートやガムを貯めていた『お菓子缶』も、『没収』された! 机の引き出しの奥にある『隠し菓子』も捜索され没収。
 たまに気分転換に口にしていたのに。それに『取り上げられた』と思うと、より一層、口寂しく感じた。
 今、酸味がきいたものとか、ちょっと甘い物が無性に欲しいのに。

「お・嬢っ」

 そう思っていたら、自動ドアが開いて、ジョイが顔を覗かせた。
 たまたま補佐が出払っていて、葉月一人。それを見計らったようだ。

「これ、一枚だけね。内緒だよ」

 ジョイが差し出してくれたのは、クッキーの小袋。

「ほんとー!? 有難う、やっぱりジョイね!」
「皆、やりすぎだよねえ。まあ、でもそれだけお嬢に無事に産んで欲しいってことなんだからさ。これで我慢。でも俺からもこれっきりね」
「うん! それでも良い!」

 今や麗しき連隊長従兄にも負けない青年に成長したジョイ。
 いつだってこうして葉月の気持ちを察してくれる。
 葉月はそんな弟分とこうして安泰の日を迎えられそうなことも、嬉しく思っている。
 そしてそれはジョイも……。

 だけれど、彼がちょっとおかしなことを呟いた。

「さて。お嬢の結婚式だけは見届けないとね。これだけは俺も念願だから」

 彼はそういうと、ちょっとらしくない憂い顔を見せた気がした。
 だけれど、いつもの少年のような笑顔を見せて出ていった。

 『結婚式だけは……』
 そこが、妙に葉月の頭にこだました。

 明日は純一がやってくる。

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