-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ1─

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─エピローグ・ステージ1─
 
7.メタモルフォーゼ

 なんだか腑に落ちないままに午後を迎えた大佐嬢。
 今や、一番傍にいる補佐官に急成長したテッドと一緒にカフェに行く。

「今日もそれだけなんですか?」
「うん……。これがやっと……」

 葉月が抱えているのは魔法瓶の水色水筒。
 近頃、葉月がランチになると持っていく物だった。
 昨日はトマトの冷製ガスパチョを夫が作ってくれた。その前の日は、彼の得意料理の一つ、ジャガイモのビシソワーズ。もちろん、こちらも冷製。暑い日が続いているので、冷製をつくってくれて食べやすい。だけれど、隼人は食べやすさも重要だけれど、たまには暖かい物をと、今日はこの魔法瓶に暖かいコンソメ仕立ての野菜スープを入れてくれたのだ。この魔法瓶だって、隼人が見つけて買ってきたもの。水色があったと大喜びで買ってきたところなんか、もう、脱帽というか……。本当に、さらっとお世話をしてくれる。

「しかし、澤村中佐も良くやりますよね。同じ男として、俺、絶対に真似できないと思うなー」
「そうね。私もここまでしてくれるとは思わなかったわ。まあ、私が大ざっぱで見ていられないのかも知れないけれど」
「元々、世話好きなんですよ。澤村中佐。完璧にお兄さんタイプじゃないですか。まるで四中隊の長兄」
「言えているかも」

 二人で、そうだそうだと笑いながらカフェに向かった。
 そのテッドと共にひとつの席で向き合って食事をするのも、今となっては当然の光景。挨拶をしてくれる隊員達の目にもお馴染みの姿となっている。
 最初の頃は『最近は、澤村中佐じゃないんだね』と良く言われたが、近頃は誰も隼人と共ではないことについては口にしなくなった。
 その後輩達が葉月の周りを動くようになったこと、そして彼等が基地中の隊員に認められるほどに頑張っているその姿は、もう『大佐嬢の側には澤村が有り』という鉄則のような物を除去させたと言っても良いだろう。

『大佐嬢、お身体お大事に』
『気をつけてくださいね』
『今、何週目なんですか?』

 通りがかりの女性隊員達も、妊娠した葉月を気遣う言葉をかけてくれる。
 それにも葉月は質問に答え、『有難う』と笑顔を返す。

 まだ外は暑い小笠原だけれど、それでも暖かいスープはほっとする。
 この夫の味も、すっかり葉月の味覚になってきている。

 もう、三年経った。
 あの人がこの小笠原に来て……。
 私達が愛し合うようになって……。
 そして今、私達は一つの命を挟んで愛し合う仲になった。

 どう向き合って良いか分からなかったあの日。
 どう愛せばよいか戸惑っていたあの日。
 今は全てが懐かしい。
 それを乗り越えて、私達、夫妻になった。そして今度は父と母に……。

 パパの愛情が、この子に届くといいなと、葉月はちょっと膨らんできたお腹に手を当てながら、スープを味わった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 午後になり、彼女達がやってきた。

「葉月! ただいま!」

 テッドが滑走路まで出迎えて、大佐室まで彼女達を連れてきてくれる。
 やっぱり一番乗りで元気いっぱいにやってきたのは、マリアだった。

「お邪魔致します」
「失礼します」

 その後に、青柳佳奈と佐々木奈々美の二人が入ってきた。
 横須賀工学科の稲葉女史は、今回は子供の用事があるとかで時間が作れなかったとか……。
 それでも三人の女性が大佐室にやってきた。

「聞いたわよ! マイクからも、あちらでお会いした鎌倉の叔父様からも──」

 やっぱりマリアが一番に騒ぎ立て、そして後ろにいる大和撫子達に振り返り、三人が揃って微笑み頷き合う。
 佳奈の手に、大きな花束がある。

「大佐嬢、おめでとう!」

 三人が揃ってお祝いを言ってくれ、そして稲葉女史と決めたというアレンジメントの花束を葉月に差し出してくれた。

「あ、有難う……皆さん」

 まだ自分から一言も妊娠のことは言っていないのに、来た途端にサプライズのようにお祝いされ、流石の葉月も感激。
 この前のミーティングでは、女性同士の闘志のようなものを漲らせ真剣勝負の空間にいた気がしたけれど。やはりこうして祝福されるのは、とても嬉しいことだった。

「ミセス稲葉がね。お花が良いわと言ってくれたの。これを見て、心を和ませてねってね」

 マリアが稲葉女史のお祝いの言葉も届けてくれ、葉月は三人から素敵な花束を受け取る。
 心が温まるベビーピンクと白色を基調とした花束。そうして花を見て和む気持ちもお腹の子に届いたら……。またそう思っている葉月は、この気持ちをプレゼントしてくれたようで嬉しくなり、もう一度、三人の女性に『有難う』と心よりの笑顔をお返しする。

「やっぱり。この前、気分が悪そうだったのはそういうことだったのね」

 落ち着くと、宇佐美重工の奈々美がふと呟いて、葉月を心配そうに見ていた。
 あの会議の日。彼女の質問で表情を歪めたのではないと言うことは、直ぐに理解してくれたよう。
 すると青柳佳奈も、ふと溜息を漏らして納得している顔で話し始める。

「私も、最後に離席したのは、もしかして……と思っていたのよ。なのに澤村君、じゃなくて御園君たら、ちょっとプリプリしちゃって、やあね」
「あの時、彼は知らなかったの」
「え、そうなの? じゃあ、あの後の澤村君、じゃなくて御園君、どうだった? 知りたいわ〜。私、一度で良いからあの澄ました澤村君が慌てている顔、見てみたいのよね!」
「佳奈さんたら……。でも、そうね。知って、驚いていたかしら?」
「あー、やっぱりね。気が付いていなかったの。でも、結婚したんだから、奥さんがこうなるかもしれないって予想出来なかったのかしら? 女ならピンと来るわよねー」
「来ますよね、青柳先輩。独身の私達がこうしてピンと来るんだから」
「来る来る。やっぱり男は駄目ね。特に澤村君。女性に気が利いているところはばっちりなのに、こういう肝心なところ、スルーしちゃって本人はちっとも気が付いていないのが腹立つ時があるわよね」

 やっぱり佳奈は、中学時代の同級生だけあって、あの御園中佐となった夫にも変わらずに手厳しいようだ。
 だが、今回、この大和撫子二人の様子を見てみれば、なんだか良い雰囲気。離れてしまってから確かめようもなくなった壊れた仲を、あの日から修復し、今まで以上の好敵手としての付き合いが始まっている気がした。……なんだろう。葉月は『ちょっと羨ましい』と、思ってしまった。お互いに苦い思いを噛みしめあった年月も長かっただろうが、女同士の彼女達がこうして譲りたくない己の信念は保持しつつも相手を尊重し、それで良い関係を築き始めていることが、とても眩しく見える。
 やっぱりあの意味のないようなミーティングは、撫子達には必要だった? 葉月の直感ではあったけれど、そんなことを目の前で見せてくれる彼女達が、今日はとても嬉しい。そして──その姿と関係を築いた二人に、葉月はまた、この世界の何かを信じてみようと思わせてもらえたのだ。
 そう。女性という世界。これから妻として母として、そして三十代を迎える女性として。今までは女性というよりかは、『独身故の一個人』が強かったと思う。『御園葉月という一個人』は、軍隊という男の世界でこれでもかというぐらいに意地を張ってきた。だけれど、それはもう通り過ぎ、その意地を張った中でも、そして男性の中でも、確実なる揺るがないものを築くことが出来たと思う。だけれど、こちらは未知の世界だ。
 女という生き方を放棄してきた葉月には……特に。だけれど、葉月は今度は『ここにも』行こうと思っている。そして、彼女達となら、何かが築けそうな気がしたのだ。男の世界で割り切れたことが、こちらでは割り切れないこともわんさか出てくるだろう。だけれどそれを『女性だから』とか『女性特有』とか『女性はそんなもの』とかいう枠のせいにしちゃいけない。今度は『女性としての自分』が自分なりに答を出していく、逃げてはいけないものがある気がする。三十路葉月のテーマのような気もする。

 だから、葉月は彼女達を手元に引き寄せてしまったのかもしれない。
 ううん。違う……。葉月が彼女達に『魅せられた』に違いない。
 彼女達は、葉月の女性の先輩。貴重な存在になってくれる予感がして仕方がない。だから、葉月が引き寄せた。

「葉月、気をつけてね」

 そして、葉月にとっては『女性に戻ろうとした発端』だったともいえる女性。その女性、マリアの心配顔が目の前に。
 またまた、彼女は我が事のような顔をして、今にも泣き出しそう。
 大和撫子の二人は、そんなオーバーなマリアの感情表現はお国柄と思ったのか、ちょっと戸惑った顔を揃えている。
 だけれど、葉月には分かった。マリアはやっぱり何もかも知っているのだと……。『赤ちゃんが出来て良かったわね!』。いつもの彼女なら真っ先にそう言ってくれそうなところなのに、まだ何か大変なことが始まったばかりと言いたそうだ。

「有難う。四度目だけれど、まだ諦めていないから……」

 『良かったね』じゃなくて、『気をつけて』。
 遠回しに言ってくれたマリアの言葉だけれど、今の葉月は、何故かそんな自分のことを彼女達の前でさらっと口にしてしまっていた。
 今までなら、何も言わずに自分だけの心の奥で感じてお終いにしていたことを。何故か仕事で出会った彼女達に。
 何故だろう? 自分でも分からない。
 ──だから、マリアはともかく、佳奈と奈々美はとても驚いた顔をしていた。そして自分より女性としても先輩である彼女達の顔色がさあっと白く変わってしまった。
 そんな彼女達に、葉月は堂々と言う。

「実は、今までも何度か。そんな体質で──。だから今度も、どこまで頑張れるか……」

 同情をして欲しくて言う訳でもなく。
 そして、言わねばならぬ事だと思った訳でもない。
 ただごく自然に、自分の一部分を彼女達に言っただけ。
 そして、葉月が言いたいことはそれだけじゃない。

「でも、今度こそ産めると信じているわ。確率は半分しかないのだけれど……」

 彼女達は暫く、何とも言えない表情で黙っていた。
 気易く『大丈夫』とも言わない人達。気易く『頑張れ』とも言わない人達。気易く『きっと大丈夫』とも言わない彼女達。
 短き付き合いなれど、でもその無言が葉月の心には一番すうっと、染みこんできた。
 だから、彼女達に言う。

「有難う。私、絶対に産めると信じて頑張るわ」

 すると、彼女達が笑顔を返す。
 そして三人が揃って言ってくれた。

「頑張ってね、大佐嬢」
「応援しているわ、葉月さん。私も祈っているからね」
「私もよ、葉月! 楽しみにしているわ」

 今の葉月は、その言葉を正面から素直に受け取れる。

「だったら、残念ねー。今日の夕食は、こちらのレディ達と葉月と一緒にと思ったのに」

 マリアがちょっとがっかりした顔。

「ちょっとくらい大丈夫よ。彼にもちゃんと言うし」
「夫の見張り付の、女同士の食事なんて嫌だからね、私!」
「そうよ。あの澤村君の堅苦しーい理論責めは、女の会話には無用だわ」

 今度の葉月は、黙っている奈々美と顔を見合わせて苦笑い。
 マリアと佳奈の『純正・女今宵の会』計画は、葉月も行きたくなったのだけれど……。

(確かに。あの旦那さんが、なんて言うか……)

 この後、大佐室に帰ってきた隼人に、このレディ達と共に『今宵お出かけ許可』を申請すると、案の定。

「駄目だ、駄目だ、駄目だ! 飲酒はしないのは当然だけれど、夜の外出は絶対に……」

 『駄目!!』──。
 いつにない隼人の強い姿勢に、彼を良く知っているマリアに佳奈は目が点になっていた。

「でも、そんなに葉月を今から縛ることないじゃない! じゃあ、いいわよっ。サワムラ中佐も来ればいいじゃない!」

 明日帰国してしまうマリアは、どうしても葉月と夕食を共にしたいようだ。
 なにせ彼女は、明日の昼便で帰ってしまうのだから──。結婚式には招待をしているし、マリアもその心積もりだけれど、まだ仕事とのスケジュール調整が取れていないとか。来てくれなかった場合は、今度はいつ会えるか。

 そして葉月は、今まで余程でないと言わないことを口走っていた。

「だったら、うちに来ればいいじゃない。ね、中佐。それなら良いでしょう?」

 大佐嬢の自宅にご招待。
 それを家主である大佐嬢が自ら口にする。それがどういう事か……。ある意味では葉月の籠城要塞でもあったあの部屋に、葉月から人を招き入れると言うこと。
 まだ葉月をそれほど知らない佳奈に奈々美でもちょっと戸惑っているけれど、驚いて固まっているのは、やはりマイクからあらかた聞いている様子のマリア。そして誰よりも驚いているのは夫の隼人。

「い、いいのか?」

 つい出た言葉なのか? 夫のちょっと震える声。

「は、葉月。べ、別にそこまでしなくても……。わ、私、小笠原のお店にも行ってみたいし……」

 マリアも、途端に夕食計画に引け腰に。
 夫と、そして葉月の馴染みでもあるマリアの様子に、流石に佳奈と奈々美もふと悟ってくれたようなのだが、葉月は皆を見て言う。……そして笑顔で言う。

「ううん。良いわよね、貴方。私、来て欲しいもの。これなら貴方も納得でしょう?」
「は、葉月──」

 戸惑っている夫の顔。
 だけれど葉月は笑顔でこっくりと頷く。すると、隼人の顔からも笑みが広がった。

「そうだな。やれやれ、どうやら今夜は俺がこき使われそう。まあ、ここのところずうっと飯当番やっているから良いけれど」
「あーんっ。サワムラ中佐の手料理、また食べられるのー!? ラッキー!」

 ちょっと面倒くさそうに言う隼人に、マリアも早速、彼女らしく乗って賑やかにしてくれる。
 それで佳奈と奈々美もほっとしてくれたようだ。

「ふうん? 澤村君の手料理? そっちの方がなんだか楽しみ」
「なんだよ。どうせ俺にけちつけて楽しむんだろう? 青柳は」

 同級生同士でも騒ぎ出した。

「よろしかったの? 大佐嬢」
「大丈夫よ、奈々美さん。自宅ならゆったり出来るから」
「そう。それならよろしいのだけれど」
「奈々美さんも、気構えずに来てくれると嬉しいわ」
「実は……。私。こういうの滅多になくって……」

 葉月の目の前で、あの奈々美がちょっと幼くなったような顔。葉月は『え?』と、一瞬、目を疑ったが……。でも、分かるような気がした。
 彼女も、実は葉月と同じ『新しい世界』に飛び込もうとしているのだと。男の世界に偏りすぎて、本来あっただろう女性の世界から置き去りにされてしまった自分達の戸惑い。それを今、私達は突き抜けていこうと、ちょっと震える足で一歩を踏み出そうとしている。

「もし、佳奈先輩じゃなければ。今日はここにいなかった気もするの」
「奈々美さん」

 あんなに芯の強い姿を見せてくれた奈々美が、か弱い一女性に見えた瞬間。
 そこには、先輩の佳奈を敬っている目があった。つい最近、距離が縮まったから得た目ではないのは、葉月にも一目瞭然。
 人は何故。尊敬しあいつつも、あのようにして心離さねばならぬこともあるのだろうか。
 でもだからこそ、取り返した物は大きい気もした。

 隼人が、マリアと佳奈から散々『パパ、パパ』とからかい攻撃をされて参っている姿を、葉月は奈々美と一緒に見て笑っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 この日の晩。少しだけ人数が増えたけれど、初めて──。葉月の丘のマンションに、大佐室の中佐と後輩達、そして工学レディが集まって、賑やかな夕食会が開かれた。
 達也とジョイがいれば、否が応でも賑やかになる。他の誰もが黙っていても盛り上がる。キッチンでは隼人を中心とした後輩達給仕が結構、見物。テッドがあれこれと気を回しているのに、それを小夜がぶち壊したり。テラスの端っこでは、静かなテリーと柏木がグラス片手にちょっと良い雰囲気。山中とデビー、そしてクリストファーの三人は毎度の体育会系の乗りで食べて呑んでに一生懸命。工学レディ達も、隼人の手伝いをしながら楽しんでいるようだった。泉美も誘ったのだけれど……。流石に達也の前妻であるマリアに今回は遠慮したようだ。マリアは気にしないようだったけれど、それが泉美の気持ちであることもちゃんと理解して今回はそれっきり黙っていたようだ。

 テリーと、通称マーが賑やかな輪につられてテラスを出ていったので、今度は入れ替わりのように葉月はふっとテラスへ。
 いつも座っている椅子に座って、ひといき。

「葉月。大丈夫?」
「マリアさん」

 やっぱり、一番に心配してくれる女性は彼女かもしれないと思うほどに、直ぐに駆けつけてくれる彼女。
 彼女の手には、白い小皿。そこにトマトのスライスがいっぱい重なっていた。

「ブラウン家特製マリネ。簡単だから作ってみたの」
「美味しそう。今、そういうの大好き」
「だと思った。よかったら食べて」

 喜んでマリアの手料理をつまんだ。今、食の好みが偏っている葉月にはとても食欲が増す味付けで、あっと言う間に平らげてしまった。

「良かった。葉月が食べてくれて」
「おかわり欲しい〜」
「ごめん。それひと皿だけなの」

 葉月のためだけに作ってくれたのだと分かって、葉月はより一層、マリアに感謝の笑みを浮かべた。
 

 向かいに座ってくれたマリア。彼女の唇は、今日も真っ赤。
 あの口紅だと葉月は確信していた。

「私も、出産してラストフライトを終えたら、つけてみようかしら。あの口紅──」
「私はつけちゃった。でもね、自信がついたからじゃないのよ」

 あら、約束と違う。と言う顔をしていたのだろうか?
 マリアは葉月を見て、ちょっと笑っていた。

「勿論、約束通りに自信がついたのもあるけれどね。でも、いざ塗る日は力が入ったわね」
「どうして?」
「なんていうか……。行くのよ、行くのよ。震えても前に行くのよ。という感じで」

 マリアのちょっと切なそうな顔。
 でも、自信がついてもへっちゃらで前に進めるのは少し違うと葉月は思うから、その気持ちが分かる。自信がついてへっちゃらになってしまうとそれは一歩間違えればはた迷惑な『傲慢』になりかねない。自信という武器を片手に、さらに前に進む。何も見えない前に自信だけを頼りに。それこそが本当の前進だと葉月は思うのだ。そしてそれは意外と『孤独』。人に見せつける妙に華々しい自信など、本当の意味で自分のためではないと思ったりもする。ただ、これは葉月の場合、仕事で感じることが多いのだが? マリアの顔はそうじゃない様子。だからちょっと言ってみる。

「マイクのこと?」

 ぽつりと呟くと、目の前のマリアの顔が見る見る間に真っ赤になってしまって、葉月の方がびっくりだ。
 どうやら、遠く離れていてもなんとなく感じていた葉月の勘は間違っていなかったか? マイクは明言はしてなかったが、空母で会った時にはかなり脈があったし……。でも、あれかれら一年? もしかして?

「ち、違うわよ! なんであの人になるのよ。仕事よ、仕事!」
「え? あ、そうよね……。仕事ね」
「やあね。葉月ったら!」

 彼女はぐうっとグラスに入っていたシャンパンを飲み干してしまった。
 葉月はなんだ図星じゃないと呆れたのだが、ここはまあ……今のところはそう言うことにしておこうと思った。
 でも、あのマイクのじれったさが目に浮かぶ気がする葉月。意思表示下手なんだろうなあと。そしてマリアも意地っ張りなんだろうなあと……。ちょっと溜息。
 だけれど、ふと気づけば、そのマリアが葉月をじいっと見ている。

「え、なに?」
「葉月、本当に良かったわね」

 まあ、良かったことは近頃、沢山あった。
 一言で言い尽くせない沢山の物が、葉月の手のひらに腕の中に帰ってきた感触。
 マリアがそれを言いたいのだと、葉月も『うん、良かった』と小さく頷く。
 だけれど、彼女が急に涙をこぼす。見るからに熱い色合いの涙を、その慈愛溢れる琥珀色の瞳から。

「もっと、うんともっと前に。そんな葉月と一緒にいたかったな……」
「マリアさん……」

  葉月もちょっと俯いた。きっと……。マリアと葉月も、佳奈と奈々美と同じような年月を過ごしてきた仲と言えそうだ。
 一生懸命に心を砕こうと葉月の心に突撃してきたマリア。それがあまりにも急激で受け止められずに、殻に籠もって彼女を拒否していた葉月。二年前、やっと心が通った二人。マリアが言うように、もし、葉月がもっと早くにこうなっていたら。あのフロリダでの押し潰されそうだった十代はどんな年月になっていただろうか?
 ……いや、違う。と葉月は首を振る。しかし、葉月だけじゃない、マリアもちゃんと気が付いていた。

「分かっている。きっとあの葉月がいなかったら、今の葉月はいなかったわ。貴女、きっと私と一緒に仕事はしていないわね」
「そうね。フロリダにすら……いなかったかもしれないわ」
「ヴァイオリンを持ったお嬢様のまま。そうだったかもしれない……」
「隼人さんにも出会っていなかったと思う」

 葉月はまた、鮮烈に──赤い花が咲く中庭を思い出す。
 夫が焼き付けてくれた【あの日の意味】を、近頃、強く思い返す。
 だったら? 幽霊がいなければ……。
 葉月はそれの先を頭の中であれ、言葉として浮かべようとした自分に驚き、慌てて首を振る。
 だけれど言葉は違えど、マリアがそんな葉月の今を口にした。

「私は、今の貴女で良かったと思う。今の貴女が好きよ、大好きよ。出会えて良かったと……」
「マリア……。私も貴女のこと大好きよ」

 マリアが目の前で泣いている。
 そして、葉月も同じように涙を流していた。
 その涙を拭って、葉月はテラスから見える漁り火の光を連ねている夜海を見つめた。

「籠もっていたこの場所からも、私はついに出ていく時が来たの。ずうっとここに独りでいたけれど……」

 二人は一緒にテラスから、賑やかなリビングを見つめた。
 そこは葉月の心のよう。籠城要塞が崩れ落ち、そして誰も入れなかったその家に、今は沢山の人が訪れている。

「貴女のハート、賑やかそうね。赤ちゃんも、びっくりよ」
「今から、慣れさせておかないと」
「それもそうね」

 そこにあるお互いのグラスを持ち、女二人だけで乾杯をする。
 マリアのグラスは空だったけれど、二人は一緒に微笑んだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 結婚式の準備が急ピッチで進められている。
 葉月の妊娠で予定が早まり、たった一ヶ月半の準備となった。
 時は十月──。蝉の声もなくなり、小笠原の空には秋を思わせる鰯雲がどこまでも続いていた。 

 その日、葉月の席の内線が鳴る。
 本部事務室からの呼び出し音。外部からかかってきた電話を繋げるために、電話番をしている総合管理班員からの内線音だ。

「はい、大佐席」
『大佐。澤村精機の社長様からお電話です』
「有難う。こちらに繋いで」
『はい』

 この時間帯、電話番をしているのは小夜のようだった。
 テッドは今、目の前のキッチンで、午後中休みのお茶の準備をしている。
 今日は葉月のために、レモネードを作ると言っていた。

 つわりはまだ続いている。
 お腹も少しだけ膨らんできた。今のところ順調。
 だけれど、葉月はやっぱり苛ついている。

(どういうことなの?)

 またもや大佐室にテッドと二人だけ。
 達也と隼人はばらばらに出ていったはずだけれど、二人揃っているはずの時間にいない。
 これがまた近頃、頻繁だった。
 さらに、横浜の和之からこうして連絡が入ってきて、息子である隼人に一番に繋げそうなところ小夜がすぐに葉月に繋ぐと言うことは、小夜が『今の澤村中佐は手が空いていない』と判断しているから。

(いったい何しているのよっ)

 苛々しながら外線ボタンを押した。

「こんにちは、お父様」
『やあ、葉月君。調子はどうだい?』
「まだつわりが少し……」
『無理しちゃ駄目だよ。気分が悪いなら、隼人に任すなりなんでもさせなさい』
「充分すぎるほどに、面倒を見てくれています。大丈夫ですわよ、お父様」

 受話器の向こうでほっとした和之の息遣いが聞こえる。
 葉月も、離れた横浜からこうして心配してくれる義理の父親になった和之の気持ちに、ほっと心を和ませた。

 隼人が妊娠を知ってから直ぐに、横須賀の両親と横浜の和之に報告をした。
 両親は勿論、大喜びではあったけれど、こちらは今までの娘の不運を知っているだけに、『生まれるまではまだまだだね』とやや落ち着いた様子。しかし和之は違う。息子隼人のその報告にまたもや『すぐに小笠原に行く!』と言う勢い。実際には仕事があったらしくこられなかった和之だが、それがもどかしかったようで暫くは二日に一回は電話連絡が入ってきていた。ここのところは落ち着いて、週に一度になっている。
 仕方がないと、夫の隼人と言っている。和之にとっては待ちに待った『初孫』だし、そしてなによりも和之はまだ葉月の体質も知らないし、実際に隼人との子供を亡くしていることも知らないから。実はそこが心苦しいままの葉月。
 だけれど隼人が言う。『言う必要ない。無事に産まれてから、俺からそれとなく言っても良いし……。そうじゃないなら……』──そうではないなら。そこで、隼人がハッとしたように口をつぐんだ。しかし、葉月はそんな考えを片隅に忍ばせている夫のことはなんとも思わない。何故なら、きっと夫より子供をお腹に抱えている葉月が誰よりも一番危惧していること、常に心で不安に思っていることなのだから。誰も言わないし、葉月も口にしないだけ。でも、それも有り得る覚悟は充分に出来ている。その時、隼人は何も言わなくなったけれど、葉月は心の中だけで『そうね。駄目になった時も、その時言えばいい』と思った。
 和之のそんな大きな期待にプレッシャーは感じるけれど、こうして支えてくれることをまず噛みしめて、葉月はいつも明るく応える。

「今度、こちらにいらした時には、お腹の写真、見てくださいね。まだちいちゃいけれど見えるんですよ。隼人さん、すごく感動していました」
『そうかい! 楽しみだね』

 義父の元気になった声。だけれど『でも』と、直ぐに和之の声が神妙になった。

『でもね、葉月君。やっぱり生まれるまではおめでとうは言えないね』
「お父様?」
『昔、沙也加が言っていたよ。隼人がお腹にいる時に。あれは無理して産もうとしていたからね……。沙也加はおめでとうじゃなくて、今、私達、戦っていますとか……冗談交じりに言っていたよ。マラソンだとも言っていたかな……。生まれたら生まれたで、その子にとってはある意味過酷な人生の始まりなんだから』
「そうですね。私もそう思います。生まれるのは楽しみなのですが、そうなったらどうなっていくのだろうとか、喜びばかりじゃありません」
『でも、沙也加はいつも笑っていたよ。彼女にとって最後のチャンスだったと思うんだよね。だけれど必死な顔はしてなかった。戦いと言いながらも、やっぱり毎日を穏やかに過ごして、隼人に話しかけていたよ。だから、葉月君もそんな感じでいたらいいよ。肩の力抜いて、産まなくちゃ! じゃなくて、この子は生まれたくて出てくるんだろうなと』
「……お母様が。では、それは、如何に穏やかでいられるかの戦いだったのでしょうか?」
『そうだったんだろうね。母親力を高めていたと思うよ。まあそんな心積もりでね』
「母親力……」

 葉月にはそれもまだ未知の世界なれど、生まれるなら必ずなるものでもある。
 そこに不安になることだってある。特に、命を粗末にしてきた自分で大丈夫なのだろうかと。しかしそれもまたある時と変わらぬ後ろ向きな自分。
 そう、マリアが言っていたように『震えても前に行く』。それに尽きるだろう。

『隼人はいるかい? 次の横須賀ミーティングの時の話をしたいのだけれどね』
「それが今、離席していまして……。後ほど、連絡をするように伝えておきましょうか」
『そうだね。まあ、実は葉月君の声も聞けたらなあなんて、それが目的だったりしてね。隼人の方には適当に言っておいてくれて構わないよ』
「まあ、お父様ったら」

 いつも最後には心強くしてくれる和之と話せ、すっかり苛つきが無くなった。
 和之に礼を述べ、お互いに電話を切る。

「本当に、いったい何をしているのかしらね」

 また席を立って、中佐達が固まっているだろう外でもじろじろと見に行ってやろうかと思ったぐらい。
 もう、いい加減にしてくれまいか? そろそろ葉月も限界だ。これがあと二、三回続いたら、問いつめてやると決意していた。

 テッドがレモネードを入れてくれ、それがとても美味しい。
 彼のこうした腕前も、日に日に向上。今は達也も任せっきりになってきた。

「なんだか近頃の中佐達、おかしくありませんか?」
「テッドもそう思うの?」
「ええ。どうやら私は貴女と一緒で蚊帳の外にされているようで。吉田はなんとなく知っているような顔しているけれど、これが意外と口が堅いんですよ」
「そうだったの……」

 テッドはもしや、男同士で知っていて何かを思って葉月にも黙っているのかと思っていたけれど。どうやらテッドも葉月と同じ囲いに押し込められているようだ。しかし隼人のアシスタントをしている小夜はなんとなく分かっている様子と知って、葉月は益々確信を深める。

「しかし、どうやら吉田もそろそろ落ちつきがなくなってきましたね。俺に話そうかどうしようかという顔をするときがあるんです。きっと貴女に知らせたいけれど、でも……と言う感じなのでしょう。それに吉田がそこまで思い詰めていると言うことは、中佐達の話がまとまってきたという感じもしますけれど」
「そうだったの。まあ、小夜さんには負担だったのね」
「それぐらい。秘書官を目指すなら、直属上司の情報はきっちりと守らなくてはいけません。顔に出るだなんて言語道断ですよ」

 冷たい横顔で、小夜のことをばっさりと評価するテッド。
 葉月は『手厳しいわね』と心で呟き、苦笑いをこぼした。
 しかしそれでも小夜がそこまで頑張って『秘密保持』をしているならば、もう、これは決定的とも言えよう。

「あと二、三日よ。それまで待ちましょう。こっちにだって手があるんだからね」
「大佐嬢の反撃ですか。怖いな。男中佐陣VS大佐嬢。なかなか好カードだけれど、そうなったらただごとじゃないし」

 なんでそんなプロレスの対戦カードのような例えをするのかと、葉月がちょっとむくれても、テッドは笑っていた。

 

 ──しかし、二、三日なんて物ではなかった。
 この日、この後直ぐに『その時』はやってきた。

 

 三時の休憩が終わり、テッドがお茶の片づけをしている時だった。
 葉月も書類に向かいつつ『ちょっと今日は二人揃っての離席が長いわね』と、再度苛ついていると、大佐室の自動ドアが開き、達也がそして隼人が、それだけじゃない、ジョイと山中も揃って入ってきたのだ。
 四人とも、とても真剣な顔つきで誰もが緊張しているのが、大佐席にいる葉月にもびびっと伝わってきたほど。
 この四中隊を支えている中核の男四人がそんな面もちでくるのだから、大佐室の空気は一気に重苦しくなった。

 そして葉月は思う。『ついにその時が来たのか』と。
 だけれどそれがなんなのかは分からない。
 予想としては内部人事の大改革。そして新たなる後輩の新育成。希望が多いという入隊希望者の枠を作るために、心苦しいが戦力外の本部員を転属させるとか。そんなことを葉月の相談もなしに、『中佐だけ男だけ』で話をまとめているのが葉月には許せないだけ。もしそういうことがしたくても、やる前に一言知らせて欲しい。それをまるで葉月が『やらせない。許可しない』とでも言いそうだから、言われる前に俺達だけでやってしまえというその構えがまた許せない。
 どうして? なぜ? そんなに自分達だけでやってしまいたいのかと、葉月はもうここ数週間ずうっと、この信じてきた補佐達に持ちたくない不信を抱えてきたのだ。

「大佐、お話があります」

 やはり葉月の席の前に、堂々と立ったのは達也だった。
 どうやら達也がリーダーのようだ。

「なにかしら」

 持っていたペンを机に置き、葉月も真っ向勝負のように、ビシッと四人に向かう。
 四人の中佐から放たれていくるその『勢い』のような風が、葉月をざあっと取り囲んだ気がする。つまりそれほど彼等の気迫が凄いと言うこと。
 この大佐嬢を押し潰すのではないかという気迫は、本当に百戦錬磨の中佐となった彼等だからこそのオーラだった。
 葉月はそれに押されまいと、いつもの平静顔を保つ。それこそ大佐嬢だからだ。

 しかし達也は後ろに従えている三人を肩越しに見て、少し躊躇っていた。
 ここまで来て往生際悪い。葉月の苛つきも頂点に。

「さっさとして頂戴。忙しいのだから!」

 そうよ。忙しいのに、貴方達、こそこそとした離席長すぎ!! と、叫びたいところをグッと堪える。
 するとついに四人の表情が『決意』へと揃った。その瞬間、初めて葉月はどっきりと固まった。
 なにが、なにが繰り出されるのか……? と。

「では。俺も回りくどい説明は嫌なんで、さっさと。フランク中佐、澤村中佐、どうぞ」

 いつものふてぶてしい達也になったかと思うと、今度はジョイと隼人が前に差し出される。
 何故、この二人が? 葉月がどきどきしているのを悟られまいとなんとか平静を保っているその前に、二人が並んだ。
 その中佐二人が……。葉月の弟分が、そして葉月の夫が、お互いに頷きあい葉月の目の前に一枚の紙切れを差し出してきた。

「大佐、ご検討をお願い致します」
「大佐、私もこちらを希望したく思っています。ご検討の上、出来ましたら『許可』をお願い致します」

 許可?
 しかし、葉月は二人がそろって提出した紙を見て息を止めた。

 その紙切れは『転属希望』を申請する紙。

 ──何故? 二人揃って!?

 葉月は声にならず、ただジョイと隼人を見上げた。

 ジョイの紙には『フロリダ本部基地』
 隼人の紙には『小笠原第六中隊、教育隊工学科』

 何故。二人は葉月の元を離れようとしている?
 やっと平穏な、なにも変わらない日々が来たと思っていた。これからずうっと皆と一緒だと……。
 でもやっと安定したその形が崩れていこうとしている!
 平穏を、私達の築いた形が壊れていく? 彼等の突風で壊されていく?
 ──もう台風は自分じゃない。

 

 しかしそれこそが、彼等が弾き出した『メタモルフォーゼ』とは……。葉月にはまだ、理解できていなかった。

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