-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ1─

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─エピローグ・ステージ1─
 
8.メビウスの出会い

 大佐嬢の目の前に突き出された側近中佐の『異動希望』、補佐中佐の『転属希望』。

「な、何故なのかしら? 理由を聞きたいわ」

 驚きのあまり震えている声をなんとか抑え、葉月はいつもの平静顔で尋ねる。
 まず、葉月はジョイの顔を見た。
 今までこの彼とは長く離れたことはない。訓練校を先に卒業した葉月が日本に帰国し、ジョイが入隊してくるまでの二年は離れていたが、それ以外は本当に十歳の頃から一緒だった。
 訓練校も一緒。配属された『ここ』も、お互いに希望してやってきた基地。葉月は日本帰国のため。ジョイは尊敬する従兄『ロイ』が『俺が引っ張っていく基地』と決めた場所で、そしていつでも一緒だった幼馴染みの姉分がいる基地だったから来たと言う。
 達也が去り、遠野が殉職し、隼人が来るまでも、この四中隊を守って引っ張ってきたのはこのじゃじゃ馬嬢とやんちゃアメリカ坊主の二人だった。葉月が何をするか決め、ジョイが達者な口と社交性を武器にして向かっていってくれた。彼がいなければ……。そう思う。
 でも、それは、まだこれからだって……。
 葉月はそう思いながらも、それでもジョイの青い目を一目見て、直ぐに分かってしまった気もする。
 そう、葉月は彼を『引き留めすぎていたのかもしれない』と。
 だが、ジョイは葉月がまったく予想していないことを口にした。

「えっと。結婚します……」
「え!?」
「フロリダで待っている彼女と結婚します。だから、あっちに帰りたいなあと。まあ、それが一番の理由です」

 葉月は唖然として、また違う意味で言葉を失った。
 相手はあの女性しか思い浮かばない。一昨年の式典で、ジョイの両親が連れてきた女性。確か、名前は『グレース』だったか。ジョイの妹であるユリアの学友。夏期休暇に妹を通じて出会って、ジョイが初めて気にした女性だった。
 初めて彼女がジョイの両親と共に式典来賓として小笠原に訪れた時、葉月だけジョイからこっそりと彼女を紹介されたことがある。栗毛で素朴ではあるが、清楚な女の子だった。それはまだ学生故の愛らしさであったと思うが、社会人となり大人の女性になれば、とても知的で品良い女性になりそうだと葉月は直感した物だ。あまり騒ぎ立てずに、ジョイの横でひっそりと微笑みつつ、あからさまに『会いたくて来た』と言うのでもなく、単に『学校で日本文化を専攻しているので、一度来てみたかったのです』と控えめな理由で微笑んでいた彼女。──『この子なら』と、葉月はジョイがすうっと心に残した彼女だけあると納得した物だ。
 それからのジョイは、休暇が取れそうな時なら短期でも休みを取って三ヶ月に一度は帰国していた。それが何故なのかは既に暗黙の了解といったところで、あの可愛らしい彼女がジョイの両親と小笠原に来た時から誰もがちゃんと知っていた仲で、そして微笑ましくジョイの帰国を見送り、影ながら応援してきたつもりだ。
 彼女と出会った頃、最初は恋心を抱いている自分に戸惑っていたジョイ。姉分の葉月に相談してからは、ジョイは自分に挑むようにして素直になり彼女と少しずつ育んできた物が……今、ここに花咲いているのだと初めて知る。
 それだけじゃない。きっとジョイは彼女をとても待たせていたと思う。──彼女にはお嬢の事は『面倒がかかる幼なじみ姉ちゃん』って、散々紹介しちゃっているから──と、言っていたジョイ。そう……ジョイは葉月がこうして落ち着くまで見守ってくれていたのだ。もしかすると幽霊と再会するような出来事がなければ、ジョイの方こそ、先に結婚して既に転属していたのではないかと思う。と、言うことは……。あの彼女もこちらの事情を解って、ジョイをずうっと待っていると言うことか?

 ジョイの口から『結婚』。
 それだけで、仕事上の理由を聞かなくとも、葉月には充分に『許可したい』気持ちが高まってくる。
 見渡せば、ジョイのその結婚決意は中佐男達は既に知っているようだった。
 つまり、それを知った上で四人で今後の補強や、新人事を練っていたのだろうとやっと葉月にも判る。

 そして、ジョイが『フロリダ本部基地』を望んでいると一目見ただけで……。
 結婚とは別の物が、葉月の中で浮かんでいた。
 彼は最年少で中佐になった有望な青年。なによりもフランク家の男だ。今まではまだ新入隊員であったり、入隊して数年という『お坊ちゃん』の位置に置かれていたが、ここまで成長してはもう、『中隊』という枠にいては勿体ない人材なのだ。
 小笠原という基地はそれでも上のレベルにあるのだろうが、フロリダ本部と並べればここは僻地にある一つの大きな基地に過ぎないのだから。しかもそこで将軍付きの秘書官ならともかく、一中隊の中にいる一介の補佐に過ぎない状態。
 ジョイも二十七歳になった。もういい男盛りだ。その才能をここに留めてはいけなかったのだ。今ならまだ間に合う。きっと達也と山中、そして隼人もそう思ったから、ジョイがフロリダに帰ることを前提とした計画を立てたのだろう。それは葉月だって……。ジョイにも大きな翼を背にして飛んで欲しいと思う。

 葉月は、切なく目を細めた。
 そして何かが見えてきた気がした。

 弟分の、そんな決意に触れ、葉月は知る。
 平穏を迎え、大佐嬢らしくなく……『私は立ち止まっていたのだ』と。
 だから次に見た夫の顔を見ても、葉月はもう何も問えなくなった。

「御園中佐は、結婚……ではなさそうね」

 ちょっと皮肉混じりに、葉月は笑ってみせたが、隼人の顔は殊の外真剣だった。

「はい。結婚ではありません」

 そんな真面目に返してくれなくても……と、葉月は冗談も通じないほどの夫の真剣さに、先ほどまで忘れていた『寂しさ』がぐっと込み上げてきたのだが堪えた。
 では、そこまで真面目な顔しかしてくれないなら、こちらもと葉月は溜息混じりに『御園中佐』を見上げた。

「何故? この四中隊に居ながらにして工学科プロジェクトは可能だと思うわ」
「可能ですよ。大佐嬢には今までも随分と融通を利かせてもらっていましたし」
「それなのに? 工学科に異動でもしなければ集中できなくなったとでも?」

 隼人が首を振り『いいえ』と静かに答える。

「まあ、一言で言えば。『もうここにいる必要はなくなった』と言うことです」

 葉月の胸にズキリとした物が走った。
 それは、もう『御園葉月という上官もいらなくなった』と聞こえたからだ。
 そしてそれは、もう『御園大佐嬢の側近も辞めたくなった』と言うことだ。
 何故? 結婚したから? 一つの大佐室にプライベートでの関係がより一層に深い『夫妻』が誕生したから? 実際に『御園大佐』と『御園中佐』が一緒の部屋にいるのはややこしいと言う声が内外共に上がってきている。その為、隼人は正式以外では『澤村中佐』のまま、通称名として通しているし、それが言い慣れている者は、今だって『澤村』『サワムラ』と呼ぶ。会議などの正式な場での紹介では『御園中佐』と呼ばれるし、隼人自身もそう自己紹介をする。だけれど、それ以外は殆ど今まで通りに呼ばせている。しかし、徐々に『澤村』から『御園』と呼ぶ者も増えてきていた。
 つまり? 結婚したが故の、きっちりした線引き?
 夫がその様子を垣間見せることもなく何時決意したかを、葉月は頭の中で一生懸命に時間をさかのぼって探った。だが、その『瞬間』らしきものには結局、遭遇できない。

「葉月。お前らしくない」

 ふと気が付けば、夫の怖い顔が葉月を見下ろしていた。
 何故、そんな顔を?
 しかしその顔は、今まで彼が葉月という上官のために厳しく接してくれていた顔と変わらなかった。
 だから、葉月はそれだけでハッとさせられる。
 『お前らしくない』──。その一言、そしてジョイの決意で知った『己の停滞』。

「貴方。私……」
「どうした、じゃじゃ馬。お腹に赤ん坊がいても、お前はそんな大佐嬢で終わるはずはないんだ」

 夫のその顔は、葉月が良く知っている『澤村中佐』の顔だった。
 葉月の身体の中に、びりっとした何かが走り去っていった。まるで眠っていた何かを呼び覚ますかのように!

 そして葉月は、ついに……。
 その二枚の紙切れを、自分の手元に引き寄せていた。

 さらに『気が付いてしまった一言』を、葉月はついに呟く。

「四中隊から、卒業ね」

 葉月が呟いた一言に、隼人がふと微笑んだ。
 妻が、上官である妻が、やっと気が付いてくれたということ。
 そして多くの理由を語らずとも、妻が何を思い通じてくれたか──。そんな喜びの笑顔なのだ。

 葉月は、震える指先でペンを持ち、サインをする空白にペン先を置いた。
 ──やっぱり、嫌! いつまでも、いつまでも、変わらぬ『四中隊』であると思っていた。ううん! 今、夫が言いたいことに目覚めてしまっても、それでも『せめてあと一年で良い。もう少し、このままで皆といたい!』と思う。だから、サインが出来ない!
 そんな葛藤を、定まらないペン先が語っていた。
 まだ決意できぬ葉月に、隼人がさらに言う。

「いつまでもじゃじゃ馬でいて欲しい。だけれど、いつまでも大佐嬢でいて欲しいと思っていない。これは俺だけじゃない。ここにいるお前にここまで引っ張ってきてもらった『俺達中佐四人』の願いなんだ」

 葉月は『貴方達の願い?』と、首を傾げた。

「そう。いつまでも中隊という枠にいるんじゃない。俺達にはもう……『四中隊』は狭すぎる。いいや、俺達が先にそう思うなんて、絶対におかしい。何故なら、いままで俺達より先に先に小さな枠を突き破って、外に飛び出そうとしていったのは『じゃじゃ馬嬢』のお前じゃないか」

 そうだった。いつも彼等が『お前のさあねは怖い』と言った時、彼等が戸惑う中で葉月は既に先へと目線を向けていた。
 それを知って、彼等は驚きつつも、知れば素晴らしいサポートをして来てくれた。
 つまり、今回はこう? 『大佐嬢が動かないので、俺達が用意した。さあ、大佐嬢、次へ行こう!』。彼等が初めて葉月に、次ダイヤの切符を差し出してくれているのだと。
 具体的な彼等の思惑はまだ判らない。達也が小脇に書類冊子を挟んでいるから、それに素晴らしい提案が書かれていると予想できた。
 しかし、もう……。葉月はそれを確かめなくても分かる。彼等はきっと素晴らしいルートとなる線路を見出しているはずだと。 

「海野中佐、それを見せてくれる?」
「勿論です。どうぞ」

 達也もいつものおふざけも、ふてぶてしさも取り除き、真剣そのもの。
 葉月がその書類を見せて欲しいというと、待ってたとばかりに直ぐに差し出してくれた。
 それを開き、最初の一ページを見ただけで葉月は驚き、四人の中佐を見渡した。

「こんな事、勝手にやろうと思っているの?」

 それは本当に『中隊』単位で済む話ではなく、基地全体に影響する大規模なものだった。
 勿論、葉月だってそこにはぶち当たってはいたが、単位が基地だけに『いずれは』ぐらいにしか思っていない段階。
 中佐連中は、それを本気でやろうと思っているのには、流石のじゃじゃ馬も舌を巻いた。

「やれやれ。自分だって、フランス航空部隊にフロリダ本部基地を巻き込んだ大規模な合同研修と合同訓練なんて大それた計画を、もうほぼ実行にこぎつけたくせに。それだけじゃない。シアトル湾岸部隊の空母艦にだって押しかけたり、だいぶ派手にやっているんだぜ? これぐらいなんだ」

 そして、達也がついに葉月が驚いた部分を堂々と口にした。

「小笠原の部隊編成改革。お前は空部隊のトップになるんだ。まだ上のおっさん達は、やらねばならぬだろうなあと思いつつも、未だに足踏みしている段階。それなら俺達が先にどんどん進めていってしまえという事」

 葉月が振ってきたダイス。
 それを今回は、彼等に振られてしまった気分だった。

 葉月は、ひとまず達也が提出してくれた書類を閉じた。

「ゆっくり見させてもらいますから、預かっておきますね」
「ご検討、よろしくお願い致します」

 達也が敬礼をして、退いた。

「……フランク中佐も、御園中佐も、とりあえず預かっておきますね」
「よろしくお願い致します」
「お願いします」

 ジョイと隼人もそこで敬礼、大佐席前から下がってくれた。

「山中中佐も……。有難う。貴方達が思ってくれたこと、嬉しく思っています。ですが……」

 そこで、葉月は涙が浮かんできてグッと堪えた。
 大佐嬢は無感情令嬢で、いつも冷たい横顔。ロボットのように何を考えているのか解らない表情で淡々と仕事をしている。……はずなのに。
 それなのに、この大佐席で葉月は泣きそうになっていた。

「暫く、考えさせてください。一人にしてくれますか?」

 達也の書類。その上に、ジョイと隼人が出した転属希望書を重ねて置いた。

「失礼致しました」

 四人の中佐が、揃って敬礼をし、早々に大佐室を出ていった。
 彼等がああしてすんなりと出ていってくれたのも、もう、葉月にも見えていると確信し、そしてそれならば決断をしてくれるだろうと信じてくれたからだ。

 彼等が出ていって、葉月の頬にやっと涙が流れる。
 いつまでも同じところにはいられない。いつまでも同じ形ではいられない。
 変化する流動の中にいつだっているのだから。いつだって動いていなければならない。止まったら、ただ流されていくだけ。止まったら、もう変化は出来ない。
 なのに葉月はその止まることに、やや居心地の良さを感じてしまっていたようだ。一回抜いた息。それは葉月をとても楽にさせてくれた。そして、葉月は彼等にお決まりの『さあね』というセリフを二度と言わなくなるところだった。それだけ、安穏としかけていたのだ。

 だけれど、目が覚めた。
 中佐四人が揃って振ったダイス。
 まだ目は出ていないけれど、それでも葉月にはもう『目』が見えていた。

 私は空部隊のトップになる。大隊長になる。そして大空野郎の女房になる。
 その道へ行く後押しを、中佐達が贈ってくれた。
 それだけじゃない。空部隊が出来るなら陸部隊も編成しなければならない……。そのトップは……?
 そしてそれだけじゃない。私達、空と陸を『海』としてまとめてくれる人も必要だ。それは……。

 大それた計画。
 自信過剰もいいところ。
 大佐嬢が空部隊のトップへと言うこと以外は、後は誰がどうなりたいなるべき等はすべて空白にされているが、それでもそこに『俺達が大佐嬢と行くのだ』という彼等のチャレンジと自信が垣間見える。
 そして彼等が最後に描いた『大きな輪』。彼等は四中隊という枠を出て、『この私達五人』で大きな輪を作りたいと言っているのだ。

 いつの間にか、葉月の涙は止まり、微笑みに変わっていた。

「大佐──。大丈夫ですか? 驚きましたね」

 キッチンでそっと息を潜め待機してくれていたテッドが、飛んできてくれた。

「テッド。大変なことになっているわよ」

 葉月は笑って、もう一度、達也の書類を開いてテッドに見せた。

「新しい人事。貴方、私の専属側近になっているわよ。補佐から側近へ昇格。しかも海野とダブル側近じゃないわ。『専属』よ。大変ね。その海野は側近じゃなく、『隊長代理』から『副隊長』に昇格して欲しいですって。生意気ね」

 テッドは凄く驚いた顔で固まってしまい、次にはその一番側近だった隼人の席を見ていた。
 つまり、このままで行くと、テッドが座ることになる席を。
 隼人の席には、もう……。空軍管理の書類も僅かで、殆どが工学の資料ばかりで山積みにされている。

「お、俺……! ちょっと行ってきます!」

 テッドが慌てて大佐室を飛び出していった。
 きっと隼人を引き留めに行ったのだろう。
 葉月もテッドを引き留めず、そのまま見送った。
 納得するまで、隼人にぶつかったらいい……。

 きっと夫の決意は変わらないだろう。
 あの人は誰よりも頑固なのだから。
 そしてなによりも四中隊を愛してくれていることだろう。

 後輩についにその側近の座を引き継ごうとしている御園中佐。
 工学科へ行きたいのは何のためか、葉月はまだ分からない。
 それでも、きっと、そこには四中隊の為と、妻である大佐嬢の為の決意であろうと葉月は確信している。

 葉月は再度、ペンを握りしめた。
 今度は震えてない。しっかりと握りしめ、二枚の紙を自分の前に並べた。

「ジョイ、今まで有難う。私はもう大丈夫よ。今度は貴方の番、幸せになるのよ」

 その空白に、葉月はサインをする。
 そしてもう一枚の紙にも……。

 夫のその紙にペン先が触れた時……。やっぱり涙が込み上げてきた。
 それでも葉月は、しっかりとペンを握る。

 

『今度はこちらでお世話になろうと思いまして、中将のお力添えで側近として就くことになりました』

『ひどい!! 最後まで心を動かさなかったくせに!!』
『お嬢さんのことだ。意固地になって迷うと思ってね!』

 

 隼人が初めて、しかも突然に島にやってきた日のこと。今でもこんなに鮮烈に思い返す。
 四中隊は、あそこから動き始めたと言っても過言ではない。

 大尉だった彼が中佐となり、そして今は葉月の夫。
 その夫が四中隊を『卒業』する。
 いつまでも側にいるだなんて、なんてぬるいことを思ってしまっていたことか。
 そう、私は大佐嬢。いつまでも貴方の大佐嬢。妻ではない大佐嬢。

 毅然とその紙に向かい、しっかりとペン先を走らせる。

「澤村中佐、ご苦労様でした。貴方が来てくれたから四中隊が動き出したこと、感謝しております……」

 しっかりとその紙に、葉月はサインをする。
 涙はその後に、沢山流せばいい。今、一人きりの大佐室で。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 本当に、今日もこの島の空は変わらない。
 鰯雲の列が、水平線の向こうまで続いている。
 頭の上を通り過ぎていくホーネットの編成。この時間なら、二中隊のチームだろうか。

「テッド、一人にしてくれる」
「分かりました。十五分ほどしたら迎えに来ますから。あの……」
「分かっているわ。ここから一歩も動かないから安心して。貴方が迎えにくるまで、勝手な行動はしません。誓うわ」

 葉月は今、四中隊棟の屋上にいた。
 先ほどの中佐台風にやられてしまい、サインをした後に、こうして気分転換に屋上に来たのだ。
 いつもならテッドを話し相手に、少しの時間だけ外の空気を……という時間なのだが、今日はやっぱりそんな気分じゃない。

「それでは。ごゆっくり……」

 葉月の『誓う』に安心したテッドが、笑顔で去っていく。
 彼も一人になりたい葉月の気持ちは重々解ってくれているからだろう。

 一息つき、葉月は手すりの側に行き空を見上げた。
 空は変わらないのに……。そう思っていたのに。
 でも、間違っていた。空は変わらずに見えるだけで、本当はこんなふうに沢山の表情もある。地上では穏やかに見えても、上空に行けばそこは過酷な世界を存分に突きつけてくる。
 変わらないものなど、本当は何もないのだって……。

 それでも、中佐達が葉月に言いたかったことは、もう葉月にも充分に通じた。
 あの紙にサインをした。後は上に出し、彼等の希望が叶うように、大佐嬢は全力で推していかなくてはならない。必ず、聞き入れてもらうよう。
 達也の新しい人事も、完璧だった。テッドが専属側近に、そして総合管理班長に柏木、新しい空軍管理班長にはクリストファーが。テリーと小夜はこのまま大佐室の専属アシスタントとして置いておく。葉月が『いずれ』と思い、ここ数年、手元に引き寄せた後輩達をついに大事なポジションに起用していた。起用した理由も彼等の長所と短所をふまえたものが記されており、葉月は納得。つまり、達也との意見は見事に一致していたと言うことになる。
 今まで若い中隊故に、隊長は不可欠でも『副隊長』は置かなかった。今度は達也自らが『側近ではなく、副隊長になりたい』と言う。だけれど、葉月はそれで良いと思う。特に、これから隊長の自分が出産育児にあたるとなると、その後をサポートしてくれる達也には、もう隊長代理というぼやけたような肩書きよりかは『副隊長』としっかりと位置づけた方が統率にも良い影響となるだろう。

 彼等四人が打ち出した『次への一歩』。
 それはつまり言い換えれば、『次に出ていくのは隊長のお前だ』と言うこと。
 葉月はまだこの中隊でやり残していることがあるので、直ぐには出ていけないがそれも視野に入れての達也の『隊長宣言』だったのだろうと思う。

 そう思うと、四中隊という場にいるのは、ただ単に出発点に過ぎないような気もしてきた。
 これからが『空軍人』としての『本番』なのだと。

 青い空の青い潮風。
 その中で、葉月は胸ポケットに忍ばせていた『雷神ワッペン』を取り出し、見つめた。
 恩師から授かった思い。あの時の熱き思いが葉月の中で蘇ってくる。
 葉月はそれをぎゅうっと握りしめ、こちらに向かってくるホーネットを見据えた。

 訓練中のホーネットが、こちらにどんどん近づいてくる。
 轟音が青い島の空気を切り裂きながら、葉月の頭上にやってきた。

「見ていなさい。小笠原で最高の防衛チームを作ってみせるわ! どこの国際連合軍のチームにも畏れられるチームを。エースチームよ!」

 『雷神』のワッペンをさらに握りしめ、葉月は轟音の中、空へと叫んだ。

 まだ誰にも言っていない、大佐嬢の『夢』だった。
 見ていなさい。また『台風』と言わせてやるわ。お前の『さあね』は、先が怖い。
 いつのまにか巻き込まれ、最後には大佐嬢の思惑に誰もがはまっている、動いている。──そして、実現する。

 ホーネットの轟音が、空気を切り裂いて過ぎ去っていったのを葉月はいつまでも見送っていた。

 

「葉月」

「貴方──」

 

 その轟音を見送るように振り返ったそこ──屋上に上がる階段のあるドアに隼人が立っていた。
 二人は遠ざかっていく轟音の中で、暫くそのまま見つめ合っていた。
 遠く遠くその音が聞こえなくなると、いつもの潮風が二人の間を静かに通り過ぎていく……。

「大丈夫そうだな」
「当たり前よ。どうして」

 もうメソメソなんかしない。
 緩んだ大佐嬢の顔も決して見せない。
 葉月の、いつもの意地張り。
 でも、隼人はそこで笑っていた。

「そっか。それならいいんだ。まあ、俺達もさ。今まではお前に引っ張ってもらっていたから、お前なしでどれだけ出来るかって言うのを一度やってみたかったというか……」
「相談もしてくれなかったのは、ちょっとむかついたわ」
「あはは。もう勘弁してくれよ。俺達だって、お前が多少は怒って暴れて……なんて覚悟していたのに。あんなにすんなり大人しく受け取ってくれたから拍子抜けしただろう。葉月も大人になったなあって驚いていたところだよ」

 なんだ、この人達は。人のことをなんだと思っているのだと、葉月はむくれた。
 だけれどそれも半分本気で半分冗談の彼等なのだろう。
 葉月はそのままむくれ顔を崩さなかったけれど、隼人はいつもの眼鏡の笑顔を見せて、青空の下に出てきた。

「気分、大丈夫か」
「え? うん……」

 つい最近までパパの顔ばかりで、大丈夫、あれ危ない、それはよせとばかり言って、その過保護振りに本部の後輩達も驚いていたのに。
 やっぱりいざとなると、この中佐の割り切りと判断は大佐嬢でも敵わないところだった。
 なのにそうした穏やかな微笑みは、ちっとも変わらない。

 その笑顔の隼人が、手すりの側にいる葉月が見ていられなくて側に来るのかと思ったら、数歩手前で立ち止まってしまった。

「今度は俺が待っている」

 急に告げられた一言に、葉月は首を傾げた。

「待っている?」
「そう。前はお前が俺を連れだしてくれたから。今度は俺が連れだしてやる。俺の今回の『卒業』は、ここまで連れてきてくれた大佐嬢に感謝を込めて。そしてその卒業の先にも、俺の目の前にはまだまだ大佐嬢の後ろ姿が見えているよ」

 なんのことだろうかと、葉月はさらに分からぬ顔をしていると、やっぱり隼人はちょっと可笑しそうに笑っているだけ。
 待っているとはいったい?

「工学科に行くことを決めたのは、テッドにお前を任せられるようになったこともあるし、工学科の今の仕事もある。だけれど俺自身、工学科で終わるつもりはない」
「どういうこと?」

 行きたくて行くのではないのか? と、葉月は益々夫の心が見えなくて困惑したのだが。

「佐藤大佐も動き出している。小笠原空部隊を作るんだ。俺もその空部隊を、大佐嬢の空部隊を見てみたい。俺が下準備をして待っている。お前は今の合同演習の実現を。そして出産に全力を──」

 やっと見えた隼人の真意に、葉月は驚いて息を止めた。
 ただ単に工学科で専門的なことに没頭したいだけじゃなかった。
 もっともっと先の自分を、隼人は自ら作ろうとしていたのだと。そしてそこにはやっぱりお前がいるよ……と、言ってくれているのだ。
 だから『待っている』。大佐嬢の空部隊を編成して待っている。だからお前も早く卒業して来いよと。

 また、一機のホーネットが海上から飛んできて、二人の頭上を過ぎ去っていく。
 轟音、一瞬駆け抜けていく風。
 その中で二人はお互いの目を、ただ見つめ合っていた。

 そして葉月の目が熱くなり、先ほど、誰にも見せまいと思っていた涙が、ついに御園中佐の前で流れる。目の前の人は御園中佐から、葉月の夫である御園隼人へと変わっていく。
 そのホーネットの轟音と一瞬だけ駆け抜けていった切り裂く風の中で、葉月の中にあった『あること』がふと変わった気がした。

「貴方、聞いて」
「え? なに?」

 今度は夫が眼鏡の顔で、きょとんとしている。
 葉月はそれでも、今度は自分が笑って彼に言う。

「貴方はいつか【あの日】があるから、俺達が出会ったと言ったわね」
「あ、ああ……。そんなこと、話したこともあったな?」
「私、違うと思う」

 夫の【あの日の意味】に支えられてきた日は多かったと思う。
 そしてつい最近も、【あの日】があったから、ここに葉月と隼人という夫妻が生まれたのだとも思っていた。
 そこでもう少しで【幽霊がいたから】と決めそうになった。

 でも、葉月は……。フランスでこの男性に出会ったのは、【あの日】のお陰じゃないと。駆け抜けていった風の中で強く思うことが出来た。

「私達、【あの日】があってもなくても、出会っていたと思うわ」
「どうして……?」
「メビウスの輪のように、どこかがねじれても、きっと私は貴方のところに現れていたと思う」

 そして、これからも、どこかがねじれても。私は貴方のところに戻ると思う。

 そう呟くと、目の前の夫は固まっていた。
 それは突然にぶつけられた初めての告白のように、とても驚いた顔と言えばいいのだろうか。
 気が付けば、中佐として数歩の距離を保っていた夫が、葉月の元にやってきて強く抱きしめてくれていた。

「葉月。まるで初めてお前と出会ったあの日のような気分にさせられた……!」

 きつく抱きしめてくれる夫の背を、葉月も両手一杯に抱きしめた。
 哀しい彼女だったから俺の目の前に現れた。隼人だって、先ほどの葉月のように、それがなければ俺達はなかったと思っていただろう。
 だけれど、違うと葉月は強く思える日が来たと思った。
 私達は必ず出会っていた。そう思う。だってこんなに共に空を愛している私達だから。

 私達の【あの日】は、そよ風がさざめくポプラ並木。
 私は煙草をくわえ、貴方は木陰で分厚い本を読んでいた──【あの日】。

 そこが始まりで。
 そして、また始まる。
 どこまでも、おいかけっこのように、二人で走っていく。

「貴方、必ず行くわ。待っていて」
「ああ、待っている。俺の大佐嬢──」

 彼は卒業する。
 もうすぐ、四中隊を出ていく。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「さあ、お嬢様。出来ましたよ」

 その日、ロイの家の一室で、葉月は白いドレスを身にまとった。
 あまり飾り気のない、裾も豪華に広がるものではないシンプルなドレス。
 その代わりに、ベールはふんわりと豪華に、そして花を沢山あしらってもらった。

「お嬢様には、こちらがお似合いでしたね。指輪と一緒ですね」
「有難う、エド」

 葉月のベールを、その器用な指で細かに直してくれるエド。
 そして、彼の女性スタッフが、そのベールを綺麗に床に広げてくれた。

 目の前では、付き添ってくれていた母と美穂が揃ってぼうっとした顔で、溜息混じりに葉月を見つめている。
 だけれど、その支度が終わると、誰よりも早く母登貴子が目の前にやってきた。

「綺麗だわ。葉月、綺麗よ」
「ママ、有難う」
「お腹の膨らみもどうなるかと思ったけれど……。でも違和感ないわね」
「ごめんね、ママ。我が儘言って……」

 実は葉月のドレス。ゆったりしているが、その腹部は少しばかりぽっこりと出ていた。
 普通は隠れるようにするものだと、ドレスを選ぶ時に母と喧嘩になった。母はやっぱりお腹が目立たないドレスをと主張していたのだが。
 葉月はシンプルに、裾も踏みつけない長さのドレスを選んだのだ。しかもわざとお腹が見えるようなものを。
 だから、今日は試着した時よりもより一層、天使が住んでいるそのお腹はぽっこりと存在感を主張していた。

「でも、この子。きっと喜んでいるわね。ママこそ、ごめんなさいね。こうして見ると、この子もちゃんとパパとママと一緒に大事な日を迎えるのだわと思えてきたわ」

 登貴子がその小さな膨らみを愛おしそうに撫でてくれた。

「今日はパパとママの結婚式よ。聞こえる? おばあちゃまよ」
「まだ早いわよ。ママったら」

 お腹の膨らみが見えることを気にしなかったのは、今日もこの子がここにいることを主張したかったから。
 そしていつかこの子が生まれた時に、この日を知って欲しかったから。

 そうして母と晴れ姿を鏡で見つめ合い、やっと訪れた幸せを噛みしめあっていると、ドアからノックの音。
 エドがドアに歩み寄り『お支度できましたよ』と、ドアを開けた。

 その開いたドアに、真っ白な軍の正装服を着込んだ夫が佇んでいた。
 白い手袋に、黒い肩章には金のモールを下げている隼人がいる。

「貴方」

 声をかけたけれど、夫はそのまま立ちつくしたまま固まっていた。
 頬を染め、熱い眼差しで葉月をただ見ているので、葉月もついに恥ずかしげに俯いてしまった。

「やっと見せてもらえた。……綺麗だ」

 隼人の震える声。
 葉月も熱く夫を見つめる。

 ついにこの日がやってきた。

「さあ、挙式会場へ向かいましょう」

 エドの手添えで葉月は歩き出す。
 向かう場所はちょっと気をつけて行かねばならないところだったから、途端にエドの神経がぴりっと緊張感を醸し出した。

 今日は、御園若夫妻の『小笠原結婚式』。
 素晴らしい晴天。この日も空は青く、海も蒼い。

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