-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ2─

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─エピローグ・ステージ2─
 
1.ミセス准将の噂

 いつも変わらぬ青き潮風に吹かれ──。

 

「英太! 勝手に動かない! こっちの実験に合ったアクションをするのよ!」
『ノー! アンタの無難な指示はもうまっぴらだ!! 結果が出ないだろーがっ!』

 真っ赤な口紅、そしてサングラス。そよぐセミロングの栗毛を紺色のキャップで包み込み、インカムヘッドホンに叫ぶ女将校が一人。

「また英太か。やってくれるなあ」
「クリストファー、データーを取っている?」
「勿論ですよ。総監」

 ダグラス少佐が何か悟ったように、ニヤリと笑った。

「そうやって怒鳴りつつも、泳がせているのでしょう? 准将ったら。あれは現役だった貴女とコリンズ大佐にそっくりですよ」
「やあね。そういう昔話をしないでちょうだい。クリス」
「あはは! まあまあ『准将』。見てくださいよ、出てきましたよ」

 相変わらず、のんびりほのぼのしている口調のクリストファーだが、葉月が裏で期待していることをきっちりと見抜きながらその瞬間を逃さずに知らせてくれるところは流石だ。
 そして葉月はクリストファーの手元にあるデーターを取っているノートパソコンを覗いた。

「これは……。准将、やばいっすよ。このまま行くと機体がぶっ壊れるし、パイロットも今コックピット内ではとんでもない状態のはず……」
「英太、本気ね。あの子、成果が出ないことに苛々していたから」

 顔色を変えたクリストファーに対し、葉月はいつもの如く平坦な表情のまま。そして葉月がいるこの甲板の少し前で、空を見上げている女性に声をかけた。

「奈々美さん! 英太が馬鹿をやっているわ」
「分かっているわ。まずいわよ、あれは」
「でも、見て──!」

 葉月からやっと出た切羽詰まる声に、空を見上げていた奈々美が走ってくる。
 そして葉月が覗き込んでいるデーター画面を奈々美も覗き込む。

「これ以上は駄目よ。安全規定から外れるわ。そんなデーターはいらないと英太に言ってちょうだい。御園准将」

 だが、奈々美も顔色を変えて、メモを取るバインダーに数値を書き込み始める。

「クリストファー。そのデーターは直ぐに外部にストックして、中には残さないで。どこにも流さないで!」
「オーライ。佐々木女史」

 クリストファーも静かな真顔で淡々と作業をする。

「英太! 何度言ったら分かるの? そんな無茶な飛行は要求していない! 謹慎させるわよ」
『うっせい! 遠吠え監督! 飛んでいるのはアンタじゃなくて俺だ。この機体を一番良く知っているのも俺だ。権限で俺を押さえつけるな。データー取れたのか? 今まで以上の取れているだろ! 早く佐々木女史に取らせろよ!!』

 葉月は『まったく』と溜息をついて腕を組む。
 そして深呼吸。静かにインカムマイクを口元に引き寄せた。

「鈴木大尉。着艦しなさい。さもないと本気で貴方だけ横須賀への帰還命令を出すわよ。──本気よ。分かるわね」

 葉月の静かな声。
 なのに空にいる部下は、ずっと反抗的にいきがっていたのに見事に黙り込んだ。

『イエス、マム。総監』

 若い部下に葉月の想いが届いた瞬間。
 葉月はほっと胸をなで下ろす。

「ここだけの話。やってくれたわね。英太じゃなくちゃ駄目だったわ。有難う、葉月さん」

 奈々美が静かにほくそ笑む。余程の成果があったのだろう。規定外と言いながらもその枠が出来れば、今まで息詰まっていた空間に広がりが出来るのだろう。
 だが先ほどの彼女が言うように『規定外』のデーター。きっと彼女は、テストパイロットの英太が降りてきても、成果があったことは言わないだろうし礼も言わないだろう。

「そう? その為にだいぶやられるけれどね」

 そして葉月もきっとそうする。いや、そうせねばならない。と、なるとあの暴れん坊パイロットがまた納得行かず騒ぐという図式が浮かんで頭を抱えた。

「指揮官は大変ね。でも、貴女のお陰で今回は本当に成果があったわ。貴女には御礼を言っておくから、英太には貴女なりの労いをしてあげてね」
「そこのさじ加減が難しいけれど、そうさせてもらうわ。奈々美さんの手元に役立つ成果を上げられたのなら、暴れ者を使った私も本望よ」
「最初はどうなるかと思ったけれど。やっぱり葉月さんね。旦那さんの御園工学大佐も『その目的に適った隊員を見つけて、一癖ある隊員でも適うように改造してしまうのは、うちの奥さんはお手の物』と言っていたから安心はしていたけれど──」

 だいぶ前からこの宇佐美重工の佐々木奈々美と一緒にこのデーターを取ってきた。今は葉月が『航行任務』を遂行している最中。東シナ海を航行しながら『新システム』を搭載した戦闘機のデーターを取っている。ここ二週間、後からやってきた奈々美も民間人として航行に参加し、毎日変化のないデーターを取っていた。
 テスト機はこの葉月に任されることになり、そのパイロットも葉月が数名選んだ。
 あのプロジェクトのリーダーは、彗星システムズの常盤課長が執っているが、奈々美も佳奈もそして隼人もマリアも、それぞれの役割を分担して情報を常盤の元に集め、共に開発に取り組んでいる。

 そしてテストパイロットに選んだ『鈴木英太大尉』。
 二十五歳の血気盛んな若者だ。
 最初に見つけたのは横須賀の現役パイロットの技術を磨くための空部隊研修。その見学をさせてもらって見つけた。
 横須賀の空部教官は『あれは駄目です。協調性がない。腕がよく見えるのもスタンドプレーで目立つからですよ』という評価。さらに『今回だって根性をたたき直してこいと所属部隊から放り投げられた状態でしてね』──という経緯でこの研修に参加しているとのこと。だがその教官は渋い顔をしつつも、葉月にだけこそっと教えてくれた。『まあ……。テストパイロットには向いているかもしれませんね。あいつなら喜んで命懸けますよ』──命を懸ける。教官や指揮官が絶対に口にしてはいけない言葉だった。だがだからこそ、この教官が小声でそっと耳打ちしてくれたのだと葉月は分かっていた。
 そして小笠原の空部隊に引き寄せた。
 そりゃあもう、反抗的で暴れん坊で手の着けようがない。小笠原でもあのデイブまでもが『あいつはお前じゃないと飼えない』とお手上げだった。

 その鈴木英太が大人しく着艦をする。
 真っ白にペインティングをされている戦闘機から、真っ白な飛行服を着込んだ彼がぶすっとした顔で降りてきて、葉月の下にやってくる。
 目の前に来るといつもの無愛想な顔で敬礼をする彼。
 その彼に葉月は氷の准将と言われる顔で、そっと迫った。

「鈴木大尉。何度言っても理解できないお馬鹿さんなら、この『ホワイトスーツ』を脱いでもらうわよ」
「イエッサー!」

 そんな時の返事だけは素直なんだからと、葉月は頬を引きつらせる。
 その『ホワイトスーツ』の襟をつまみ上げ、葉月はさらに目の前の若者の耳に静かに囁いた。

「いい。ホワイトスーツを着たいという『お利口さん』は沢山いるのだからね」

 一応、物わかりの良い顔をしているが、彼のその頬も引きつっていた。
 まだ空でテスト飛行を続けているチームメイト達。葉月が英太より先に選りすぐり引き抜いていた彼等からも、新参者の英太はまだ認められていない。
 その彼等は今葉月が言ったようにクールで『お利口さん』が多い。葉月に従順で、やる時は葉月が頼れる判断を自ら行う彼等はあのミラー中佐のような冷静な精密機械タイプだ。そんなタイプを葉月は望んで集めた訳じゃない。近頃のパイロットには見事にこのクールタイプが多いのだ。──もしかしてもう『ビーストームタイプのパイロット』は時代遅れなのか──。葉月はそう思ってしまったほど、現役だった時代が遠く、そして悲しくさえ感じたものだ。そして横須賀で見つけてしまったこの男。クリストファーは『現役時代の葉月とデイブにそっくり』と言うが、デイブに言わせれば『あんなのと俺達を一緒にするな!』と怒るほどに『どうしようもない』のだ。

『サワムラを連れて行けよ。お前以上にコントロールするじゃないか』

 航行出発前に、デイブが心配そうにそう言った。
 実は『もう一人』、この暴れん坊を飼い慣らしている男がいる。それは葉月の夫『御園隼人』。
 小笠原でもデーター取りにテスト飛行は何度も行っている。葉月が吠えても、何故か……『英太、そのまま左旋回を繰り返してくれ』と、淡々と静かに伝える『御園工学大佐』には、無言ですんなりと従うことが多い。

 ……まったく、その差はなんなのか。
 飼い慣らしているのは『御園夫妻』。しかし本元の飼い主である『御園空部大隊長』である葉月より、夫の隼人の方が上手と来た。
 なにかその違いに訳があるように葉月には思えるのだが、今のところ不明だ。

 その暴れん坊が着ている飛行服。襟と袖にマリンブルーのラインが入っている『ホワイトスーツ』と呼ばれる真っ白い飛行服の襟を、今日の葉月はより一層グイッと引っ張り上げた。

「今日のはやり過ぎよ。二度とやらないと誓いなさい」
「データーは、データーはどうだったんだよ」
「ゼロよ」

 彼の頑張りを容赦なく無にする葉月の返答に、やっぱりかあっと頬を熱した英太。
 さあ、くるぞ。と、葉月も構えたその時、目の前の英太はいつもと違うやりきれない表情に歪み、吠え返してこなかった。
 その代わり、葉月が掴みあげている手を、男の大きな手で『パン!』と跳ね返したのだ。
 葉月の手が、ホワイトの襟から激しく弾き飛ばされる。その時、いつにない痛みが走り、葉月は『つっ』と顔をしかめた。
 手の甲を見ると、赤いひっかき傷のような筋が長く二本──浮き上がっている。

「こら、英太! 総監になんて態度なんだ!」

 葉月が何も言わないから、その尊厳を守るためにクリストファーが准将補佐官として、すかさず英太をたしなめる。
 だが、葉月はその手の甲に付いた傷をさすりながら、英太をただ見つめていた。
 彼の顔が……。いつもなら『俺は悪くない』と開き直っているはずの彼の顔が、急に少年のように困惑した顔をしているのだ。そして少し狼狽えるように、ひっかいてしまった葉月の手の甲を見ているではないか……。
 しかし、葉月はいつものお決まりの呆れた溜息をついて、『見なかったこと』にする。

「爪、切っておきなさい。的確で繊細な操作を要するスロットルを握るパイロットの手。その手の爪が伸びているなんて言語道断だわ」

 いつも通りに静かに言うと、急に素直に『はい』と答え、彼は俯いてしまった。

「いいわ。他のパイロットも着艦させるから、先に中に戻りなさい。昼からは『チーム雷神2』で訓練を始めるわよ」
「イエッサー」

 英太が敬礼をしたあと、葉月は顎で『艦内へ行け』と促す。
 一礼をして去っていく若いパイロットの背を見送った。

 爪──。爪が伸びていてひっかき傷が出来たのは本当のこと。
 あの子らしく、そういうパイロットらしからぬずぼらさがありプロ意識に欠けている。
 だが、葉月が思ったのはそんなことではない。

(気にしているのね)

 葉月の身体に傷が付く。
 英太は今、そこに敏感だった。

「ともあれ。今回はこれで本島に帰れるわ。常盤さんも澤村社長も首を長くして待っているようだけれど、これで喜んでくれそうね」
「内密にお願いします」
「勿論よ。参考にする程度──と、言っておくわ」

 奈々美も上機嫌だったが、妙にしおれた背中を見せている英太を心配そうに見ている。

「辛いわね、葉月さんも。褒めてあげたいけれどね」
「慣れているわ。それに──私達もそうして上官に大事にしてもらってきたのよ」
「そうね。今度は私達が不満を持たれつつ恨まれつつ『見守る番』なのよね」

 奈々美の理解ある言葉に、葉月はやっと救われた。

 着艦命令を出した後、葉月はクリストファーに後を任せ、艦内へと戻った。
 艦長室へと向かおうと通路を一人で歩いていると、その艦長室を目の前にして、真っ白い飛行服姿の英太が鉄壁に背をもたれ、たたずんでいた。

 葉月もそこで立ち止まる。
 そしてその十何歳も若い青年と見つめ合った。

「何をしているの。貴方の部屋はここではないでしょう。早く戻りなさい」

 黒髪のその隙間から、憂う潤むような瞳を見せられる時が、妙にどっきりとさせられる。
 恋とかそんなものじゃない。この歳になって、夫もいて可愛い子供が二人もいて平穏な家庭がある中、今更、年若い青年にそんな目をされたからとてときめきなんかない。もっと言わせてもらえるなら、この年若い青年より『もっと素敵な黒い目』を持つ男性を葉月は二人知っているし、愛している。でも、それと同じような色合いの目を彼は持っているのだ。
 葉月のこの胸を締め付けられる思いは、強いて言えば『母性』か。はたまた『姉心』と言ったところか?
 しかし──。向かっている青年の心を推し量ろうとすると、『大人の邪推』ばかりが浮かんでしまい、こんな時は未だに一人狼狽えている『ミセス准将』がいる。

「ミセス准将」
「なに」

 彼の思い詰めた目に、葉月は一歩後ずさりたくなる。
 何故なら、既に彼は葉月に対して一回『前科』があるからだ。

「申し訳ありませんでした」

 その葉月に対して前科者の彼が、目の前で深々と頭を下げている。

「分かればいいのよ。もういいから行きなさい」
「飛行のことは謝らない!」

 その一言を聞いて、葉月は『なにをぉー!?』と心では逆上、しかし顔は毎度の凍れる女将軍の顔を保っていた。
 だが、頭を下げつつも飛行のことは謝らない英太があげた顔はとても反省している顔。その反省が……。

「傷、傷を付けてしまって……。その、傷、女性に、傷……」
「こんなの傷のうちに入らないわよ。分かっているなら、さっさと戻りなさい!」

 あの暴れ者が、こんなに素直になっているのに、どうしてか切り口上になってしまう葉月。
 何故なら少し前に、この目の前の青年に、力ずくで組み伏せられたことがあるからだ。
 その襲われた光景は、ふと見れば、空母艦に乗っている血気盛んな若者が、数少ない女性に発情した勢いとも取れたかもしれない。しかもいつもツンツンした顔でしらっと暴れ者を抑えつけているいけすかない女指揮官と、それに反発している問題児パイロットだ。『そういうことか』と誰もが頷きそうな経緯での出来事だったかもしれない。
 でもそうじゃない。英太が葉月を勢いで組み伏せたのは、『とある噂』を気にしてだ。

『あの女将軍。昔、すんげえ命知らずのパイロットだったとかで、その証拠を見せるために、コリンズ大佐の目の前で『女は捨てる』証拠とか言って、おっぱいとおっぱいの間に、ナイフで入れ墨を彫ったらしいぜ』

 どこからそんな『噂』や『伝説』が出来上がるのか?
 葉月はこの時、若いパイロットの間でそんな『面白可笑しい伝説』があると知って、正直、大笑いをしそうになったほどだ。
 だが、英太は真剣だった。
 話はそれだけじゃない。英太が確かめたかったのはそんな『噂』じゃなく『真実』の方だ。噂を面白可笑しくして楽しむ若者の中には、これまたどうしてか『真実』に近い情報といえる『噂』を知っている者も必ずいるものだ。

『入れ墨じゃないだろう? 二十代の時に家の事情に絡んでいた男に、胸をぐっさり刺されて死にかけたって噂も聞いたことあるぜ。それでパイロットを辞めるしかなかったんだってさ』

 まだ、噂はある。

『ほら。あの伝説のコークスクリュー四回転を成功させた後、墜落しかけたという話も有名じゃないか。あの後、指揮へとコックピットを降ろされて一度も飛べなかったけれど、その傷で諦めたって。でもあの墜落のまま引退じゃあやりきれないから、四年前のラストフライトを飛ぶ許可を必死に得て獲得し、それで正式引退したって有名じゃないか。本当の原因はその胸の傷で飛べなくなったんだよ』

 ほぼ、正確な情報だ。

 英太がショックを受けたのは、どうやらこの『胸の傷で引退』ということだった。
 何故、ショックかというと、彼は葉月に反抗する際に常々『結婚でしっぽを巻いて引退した女パイロット、ふぬけ野郎』と言っていたからだ。
 つまり英太は、御園准将がそれだけの伝説を持っていながら、『パイロットより女性』を選び、あっさりと引退したことが認められなかったようなのだ。彼は二言目には『俺に偉そうな指示をするなら、お前も空に来いよ』と葉月を挑発していた。葉月はただ淡々と『行かないわよ』と相手にしなかった。
 それがその『噂』と『情報』を聞いて、心ない言葉を吐きまくっていた自分にショックを受けたのか? 『確かめに来た』と言ったところだったのだろう。

 たまたま一人で歩いていたところを通路で待ち伏せしていた英太に捕まり、人気のない通路奥に引きずり込まれ、押し倒され……。そして葉月の上に容赦なく馬乗りになった英太に男の力で組み伏せられ、紺色の作業服を引きちぎられ、胸元を晒された。
 着ていたタンクトップも、キャミソールも勢いよく左右に引き裂かれ、英太が必死になって一つのものを探している目に、葉月は異性的な衝動はないと直感したから、逆にその切羽詰まった英太の勢いにただただ唖然としたぐらい。そんな余裕はあった。だからこそ。その一点を見つけた若者がショックを受けた顔を、今でもはっきりと目に焼き付け覚えている。

 その時の英太の口から、若者の間で盛んに話されている『噂』と『はっきりしない情報』を知ることが出来たのだ。

『ほんとうなのですか』

 英太の泣きそうなその顔に、葉月はしっかりと答えた。

『刺されたのは本当。致命傷になったのも本当』

 そして葉月は、引退理由はもっと他にあったし、刺される前にその意志を固めていたことも教えた。
 勿論、英太は『それはなんだ、どんな理由だ』と、馬乗りになったまま聞き返してきた。

『それは貴方が私の中から探してくれた方が、よく分かると思う』

 そんな曖昧な返答に、英太は納得できない顔をしていたが……。
 もうひとつ、ミセス准将のはだけてしまっている肌をひと眺めし、左肩からの傷もじっと見ていた。
 そして彼がやっと引きちぎった左右の衣服を、優しくきっちりと閉じてくれた。
 その時の唇を噛みしめている彼の顔。

『どんな処分も受けます』

 彼がそう言った時、葉月の腹心達が駆けつけ、ちょっとした騒ぎになった。
 軽い処分に留めたが、葉月の腹心である側近に補佐は大騒ぎだった。
 今回の航行は、そんな騒ぎもあったと、妙に静かな英太と向き合ったまま思い返していたその時──。

 

「なにをしている。ここは艦長室前だぞ。一般の隊員は許可なく近づくな!」

 

 手の甲についた他愛もないひっかき傷を挟んで、噛み合わない波長のままただ向かい合っている上官とパイロットの間に、凛とした声がこの通路に響き渡った。

 すぐ目の前だった艦長室から出てきたのは栗毛の将校。
 この艦の艦長を勤める御園葉月准将の主席側近、テッド=ラングラー中佐だった。

「またお前か、鈴木。艦長に用があるなら、この側近である俺にまず聞けと何度言ったら分かる」

 もしこの艦の中で、誰が一番怖がられているかと言えば、もしかすると何を考えているか解らないとされる女将軍の葉月よりかは、このキリッと厳しいラングラー中佐かもしれなかった。
 だが、目の前の英太にとっては『御園工学大佐』以外の男は皆同じ男にしか見えないようだ。

「だったらよう、中佐。このいけすかないおばさんを一人にしなければいいだろう! 金魚のフンでいろよ! 半端側近!!」
「ああ? 聞こえなかったなあ。もう一度言ってみろ。よーく聞き届けて、地下の反省独房に放り込んでやる」
「あー! 望むところだ!!」

 また始まったと、葉月は額を抱える。
 クールに接しているテッドではあるが、それは表だけで内心はごうごうと燃え上がっているのだ。
 そうそう、葉月が組み伏せられているあの現場を目にして、一番逆上したのはこの側近のラングラー中佐だ。あの時は本当にグッドタイミング? いや、間が悪く、彼等側近補佐官にその現場を見つけられた時、テッドは目にするなり、なりふり構わずに英太を掴みあげて拳を振るった程だ。いつもクールな鬼中佐のその熱血な取り乱しようも、次の日には隊員達の間ですごい話題となり──『やっぱりな! ラングラー中佐はミセス御園の愛人だぜ』──という噂話が艦内で流れ、葉月もしっかり聞き届けた。まあ、その時は『女指揮官を青年が襲う』ではなく『いつものミセスと英太の喧嘩』で話は出回ったが、なにが凄かったかというとクールな側近が慌てたということ。
 それまでもテッドは、英太を密かに気にかけるミセス准将の葉月がやることにはあまり良い顔をしてくれなかった。それがあの事件で英太をもの凄い敵視をするようになって、益々噂に尾ひれがつき……。
 まあ、台風嬢が君臨する艦内はいつだって賑やかと言う訳だ。

「鈴木。今、ペナルティはあといくつだ」

 テッドの表情を崩さない追及に、英太がやや怯んだ。

「2点減点で、0点になります」

 その英太に、三十六歳になったテッドが勝ち誇ったように微笑んだ。

「ほう? 独房に入ったら、その2点はあっと言う間にマイナスだな。もしかすると独房になんか入らなくても、強制送還で済むかも知れないぞ。良かったなあ。まあ、後三日。そうならないようにすることだな。次にペナルティがマイナスになったら……」

 鬼側近と言われているテッドがそこで吠えた。

「お前の唯一の居場所である『チーム雷神』を出ていく約束だったな!!」

 今度こそ、英太にびびっと電気が走ったような衝撃が襲ったようだ。

「失礼しました、中佐。艦長も、お大事に」
「有難う。お疲れさま、英太」

 それだけ言うと、少し気が済んだように彼が去っていく。
 少しばかりその背を見送る葉月の心に痛みが走る。
 ──何故なのだろう? どこかいつしかの自分を見ているようで。

 そんな若い部下を見送っていると、ふと気が付けば目の前には、テッドのしかめ面。

「迎えに行くまで甲板で待っている約束でしたよね? 艦長」
「勘弁してよ、テッド。子供じゃないんだから」
「あんなことがあっても? 貴女が必死にかばうからあの件は『謹慎二日』で済ませたし、他の隊員達に一部始終を誤魔化すの大変だったんですからね!」
「分かっているわ」

 相変わらずの小言側近に『本当にうちの旦那以上になってきた』と、葉月は思うのだ。

「なんですか。その子供のような膨れ面は」
「なによ。可愛いって思ってよ」
「誰が。おふざけはそれぐらいにしてくださいよ。『准将嬢』」
「もう、『嬢』じゃないわよっ」

 葉月がムキになると、やっとテッドが笑った。
 それでも古い知り合いは皆、未だに『嬢、お嬢』と言う。それは構わないのだが、それを耳にして目を点にする若者に、吹き出す若者もいる。あのロボット女准将が『お嬢だって』と。徐々に昔の話になりつつあるのだ。

 だが、そんなテッドも遠い目で白い飛行服の英太を見送っていた。

「まあ、分からないでもないのですけれどね。俺達だってあんな時、ありましたもんね」
「ええ? あんなにクールだったテッドにもあったの? 分からなかったわ」
「貴女が知らないだけですよ」

 そしてテッドが言う。

「若いって彷徨いなんでしょうかね」
「人は死ぬまで彷徨うのよ」

 きっぱり言い切った葉月に、テッドが驚いた顔。
 しかし納得したように彼は笑っていた。

「……ですね。では彼は最初の試練かな。聞けばいろいろと彼にも事情があるようで」
「みたいね」

 テッドはそこのところは調べているようだが、葉月は聞かないようにした。
 何故なら、彼と真っ正面に向かって……。彼自身から私を知って欲しいように、葉月も自身から彼を知りたいと思っている。

 彼にも『生きること』を探し当てて欲しい。
 あの無茶な飛び方は本当に在りし日の自分と良く重なってしまい仕方がない。葉月の切ない想いはそこにある。

 それが、三十八歳になった『ミセス准将』の今の願い──。
 自分のことを誰もが捨てなかったように、今度は自分が捨てない。もどかしくても見守っていきたい。

「しかし英太はあのホワイトスーツを着た途端に、風格が出ましたね。小笠原に来た時は、単なるやさぐれた投げやりなだけの青年だったというか……」
「本当。だってねえ、まさかあのトーマス准将が手がけている『雷神ファミリーの一員』になれるとは思わなかったのでしょう。今となってはチームを愛する心なら、英太が一番よ」
「貴女の生き写しパイロット。まあ、彼はそこまではまだ知らないようだけれど? 育ってくれることを影ながら祈っていますよ」

 そうなのだ。手放せないのは葉月の方なのかもしれない。
 今まで葉月の心を乗せて空を飛んでくれていたミラー中佐が、葉月と共に指揮を執る為にコックピットをついに引退。最近のことだ。
 そうして自分が飛ぶように飛んでくれていた翼をもがれた気持ちでいたところ、あの青年に出会った。ミラー中佐とは真反対の熱血野郎だけれど、でもミラーが葉月をコックピットに乗せてくれるような一体感を英太の飛行は思わせてくれたのだ。だから、彼には無茶ではなく、きちっとした考えを持ってくれたら……。それはもう……。そんな『ミセス准将』の『勘』だった。

 ホワイトスーツとはイコール『フライト雷神』のパイロットであることを意味する。
 ここ数年で、葉月とジェフリーで復活させたのだ。葉月一人では無理だった。あの『元雷神』であるジェフリーだから実現できたのだ。彼は葉月の夢を知ってくれ、そしてそれを自分が布石とし、葉月に全てを後継しようとしてくれているのだ。今は雷神は二チーム。本家は湾岸部隊でジェフリーが指揮している。そのジェフリーがのれん分けをし、兄弟チーム『2』として小笠原の葉月の元に『フライト雷神』を置くことを宣言し許してくれたのだ。そしてジェフリーが『真っ白い飛行服をトレードにしよう』と決め、今や何処の基地でも『ホワイトスーツ』と言えば『フライト雷神』を指す代名詞として定着している。
 そして、そののれん分けをしてもらった葉月は、チームメンバーになるパイロットを捜しまくった。まず彼等の仕事はいまのところは『テストパイロット』ではあるが、それも技量があればこそ。そしてその湾岸准将と小笠原のミセス准将の師弟コンビが復活させた『雷神』の話は噂になり、パイロット達は葉月が見学に来ればここぞとばかりに我こそとアピールをしてきた。英太もその一人で、まあ目立っていたこと、目立っていたこと。
 彼を引き抜いたのは技量云々ではなかったけれど、葉月の勘とそのエネルギーがきっと何かをやってくれると思ってのこと。この子が一皮二皮剥けて突き抜けたら、きっと次の空軍は──。つい、そこまで考えてしまうほど、惚れ込んでいるのは自分なのかもしれない。

 彼はその『雷神2』に配属され、ホワイトスーツを着込んだパイロット。
 念願だったと、瞳を輝かせ小笠原に彼がやってきた日を葉月は良く覚えている。

 その瞳を忘れないようにしようと、本当は心優しき青年の背を、やはり葉月はどこか母親のような気持ちで見守っていた。

「あー! あと三日、早く帰りたーい」

 葉月が無邪気に伸びをすると鬼中佐と呼ばれるテッドも頬をほころばす。

「ですよね。ですがその前に横須賀で一日ほど残務がありますよ。小笠原まではあと四日かな」
「あー……そうね。でも、横須賀には……」
「ですよね。俺も楽しみ」

 そこでちょっとニンマリとしたテッドを、葉月は白い目で見た。

「横須賀より、貴方は『小夜さん』じゃないの」
「どうしてですか。あいつは未だに『澤村中佐』一筋なんですよっ」

 葉月が『ふうん』と横目でテッドを見ると、青年達に恐れられている鬼中佐がちょっと頬を染めてそっぽを向けてしまった。

「ランチに行きますよ。ランチに」
「はあい。中佐」

 先にさっさと歩き出したテッドの後を、葉月はちょっと笑いを堪えながらついていく。
 本当は早く会いたいくせに──と。そして未だに夫の隼人の補佐を工学科に異動してまでやっている恋人『小夜』が、隼人という上司が一番だと強く思っていることに、密かに嫉妬しているのだから。それでもその相手がミセス准将がまだまだぞっこんの工学大佐様であるから、テッドもまだ安心しているようだけれど?

(それにしても二人の長い春も……)

 四中隊時代からいつの間にか恋仲になっていた二人の付き合いは長く――。
 後輩の二人をいつもやきもきさせていたはずの葉月が、逆に後輩二人の長い春に何年もやきもきさせられてきたのだが……。でもと、葉月は仲の良い二人を知っているので一人ほくそ笑む。そんなテッドの照れ隠しのいつもの一言が『未だに澤村中佐一筋』という夫の中佐時代の昔話を引き合いに出すこと。

 三日後、ミセス准将が受け持った母艦は無事に横須賀基地の港に帰還した。

 その横須賀には、小笠原に帰る以上の『楽しみ』がテッドが言うように葉月にはあった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『准将、時間ですよ』

 ドアからノックの音。
 葉月は唸りながら、横になっていたベッドから起きあがった。
 そこは大きなダブルベッドがある部屋。ベージュを基調としている落ち着きのある部屋で、そしてどこか懐かしい匂いがする。
 ちょっと煙草の匂い。そして柔らかな夕方前の日射しがほんのりと入ってきている。

『准将!』

 ドアをコンコンと叩く音。
 葉月は制服姿のまま横になって休んでいたためにしわになったシャツとスカートを伸ばしながら立ち上がる。

「うーん、もうそんな時間──」
「そうですよ。今、紅茶を入れますからね」

 ドアを開けたそこは広いリビング。
 そこで側近であるテッドがてきぱきと動いていた。
 テーブルには、お互いが処理する書類がちらばり、二台のノートパソコンが向き合っている形。
 今朝早く、東シナ海巡回を終えた空母がこの横須賀に無事に辿り着き、葉月は艦を横須賀基地に引き渡し下船した。
 今回の巡回任務を横須賀本部に報告するため、今日は一日ここにいる。
 しかもこの横須賀基地の側にある両親が住まうマンションにいた。しかし、そこは両親の部屋ではなく、義兄と甥っ子が同居していたほうの部屋。
 しかし──。今、ここは誰も住んでいない。真一は独立し自活、医者となり都内の病院に勤めて暫く、鎌倉の谷村の家に戻り『心療内科』を開業。今はアメリカに留学して日本にはいない。そして義兄も……ここにはもう住んでいない。
 誰も住まわなくなったが、この広い部屋は『家族が集まる場所』として今もそのまま置いていて、葉月や隼人が本島に仕事に出てきた時に宿泊先として使わせてもらったり、真一が帰ってきた時や純一が出てくる時など、御園若夫妻と義兄親子が『四人家族』として集まる際に使っている。
 そしてさらに──。今は小笠原と横須賀を忙しく行き来するようになったミセス准将の本島での『自宅代わり』となっている。さらにさらに、もしかするとこれは通常ではおかしなことだとは思うのだが、『横須賀勤務の際の自宅代わり』でありながら、こうして大量の仕事をこなすため、今はテッドもこんな時はこの部屋で共に寝泊まりをするようになっていた。だから余計に『愛人説』が流れるのだが、葉月は彼が愛する小夜の為には良くない噂とちょっとは気にしているのに、テッドは逆に『にんまり』としている。当然だが、テッドと一つ屋根の下で寝泊まりしても、怪しいことは一切ない。

 そして今日も、テッドと交代で一休み。
 テッドを先に休ませ、葉月は『昼寝の時間帯』を使わせてもらった。
 そうして今、起こされたところだ。

「髪、ぼさぼさですよ。きちっとしてください。もうじき来ますからね。先ほど、ジャンヌ先生から連絡ありましたから」
「はあい」
「貴女には、素敵なお母様でいて頂かなくてはなりません」

 気配りは完璧になってしまった側近に淡々と言われ、葉月は素直に洗面所に行き、化粧を直し、身だしなみを整えた。
 テッドが言うとおり、そうして『待っている心』は、既に『母親』だった。

 

『テッド! ママはどこ!?』

 

 赤い口紅を塗り終わったところで、そんな声がリビングからしてきた。
 鏡に映る自分の顔が、自分でも驚くぐらいに、輝く笑顔へと変化する。
 葉月はリップブラシもきちんとしまわずに、そのまま急いでリビングへと向かった。

「杏奈、今、おやつあげようね。おじさん、ケーキを買って待っていたんだ」
「ほんとう!? 私、テッドにも会いたかったわよ。お帰りなさい!」

 そこでは黒髪の少女と、テッドが和気藹々と向き合っている。
 そうテッドの『横須賀のお楽しみ』はこれだった。
 その黒髪の少女に、テッドはとても懐かれているし、テッドももう猫可愛がりしてくれていた。
 不思議と皆に可愛がられるその少女は──。

「杏奈!」

 そう呼ぶと、真っ直ぐで長い黒髪をなびかせくるりと振り向いた女の子。

「ママ! お帰りなさい!」

 その黒髪の少女が葉月の胸の中に一直線に飛び込んできた。
 ちょっぴりオレンジがかったピーチ色のワンピース。杏色のワンピース。
 愛らしい彼女を抱きしめると、そんな甘酸っぱい可愛らしい匂いが葉月の周りを取り囲む。

 この瞬間。葉月はいつも泣きたくなる。嬉しくて泣きたくなる。
 本当に舞い降りてきてくれた私の二人の天使。この瞬間にも葉月は『この子が生まれたのは私が生きていたから』と思える。
 そしてなんてかけがえのない……この匂い、優しさ、尊さ。
 もう、きっと自分は戻らないだろうと思わせてくれる光そのもの。

「ママ、会いたかった〜」
「ママもよ。杏奈」

 お互いの鼻先をくっつけて笑い合う。
 そして葉月は夫の黒髪とそっくりな手触りがする長い黒髪を撫で、そして夫とそっくりな表情をする娘をしっかりと見つめた。
 満足そうに笑って、また抱きついてくる娘。娘は成長するほどに、やっぱり澤村の母の面影を醸し出す。どうやら完全にパパ似のようだ。
 そしてそんな黒髪の女の子を密かに望んでいた葉月はやっぱり可愛くて仕様がない。そしてそれが澤村の沙也加母の生まれ変わりのような気がするのも、嬉しいことだった。

 だが、今、この娘とは小笠原の家には同居していなかった。
 去年からのこと。今、娘は……。

「おかえりなさい。葉月さん、お疲れさま」
「ジャンヌ姉様、いつも有難うございます」

 目の前にはあのジャンヌが笑顔で立っている。
 彼女も杏奈の黒髪を愛おしそうに撫でてくれる。

「杏奈はお利口にしていたわよ。チェロのレッスンもちゃんと通って、そして毎日練習していたわ」
「そう。杏奈、偉いわね! ママに聞かせて頂戴」

 そう。娘の杏奈は血筋なのか……。
 やはり幼少の頃から音に興味を示し、まだ小学生なのに『チェロを弾く』と、はっきりとした意志を見せていたのだ。
 葉月自身、『そんな小さな頃から頑張らなくても良い。趣味でも良いじゃないか』と思っていた。実際にその音楽を目指すというのは、幼少の頃からの厳しいレッスンの積み重ねがものを言うのだ。さらにそれでも一握りの人間だけが脚光をあびるだけで終わる。そんな過酷な道を、なにも小学生になったばかりで強いなくても……。しかもレッスンをするような教室もない離島ではそれは無理だと思っていたら……。

『せっかくの才能だ。出来るところまで杏奈の思うとおりにサポートしてやろうじゃないか』

 あの夫が、あっさりとそう言って、その気になった右京がいる鎌倉に杏奈を預けてしまったのだ。
 その時はちょっぴりどころか、隼人とはかなり言い合いになった。娘を手元に置いておきたい母親の葉月。娘を大らかに思うままに伸ばしたい父親の隼人。
 だが、やっぱり話し合っているうちに、昔そのままに夫隼人の話に引き込まれて、納得している自分がいた。
 そうだ。この自分も物心ついた時からアメリカを行き来していた両親とは離れて鎌倉暮らしだったではないかと。それでもその間にあんなことがあったから……。
 だが、あの右京がすっかり乗り気になってしまったのだ。従妹の叶わなかった夢を再度とばかりに。
 それに──。ついに結婚はしたものの、子供が出来なかった従兄とジャンヌの夫妻。いつも可愛がっている従妹の子供がくるとあって、こちらは預かることをとても喜んでいたものだから。なによりも右京だけでなくジャンヌも協力してくれるというのが葉月の心により一層強い決心を促してくれた。

 その通りに、ジャンヌは本当に杏奈に良くしてくれる。
 そして不思議と娘は、チェロにのめり込んでいるようだった。
 やっぱり血筋だと、おじ様の右京はすっかりその気になって杏奈を見守ってくれている。

 だから、この横須賀に帰還した葉月の下に、鎌倉から娘が会いに来てくれたのだ。

「ママ、一緒に弾いて!」
「そうね。そうしましょう」

 娘に手を引かれて、葉月は義兄が使っていた寝室へと向かう。
 そこにはヴァイオリンケース。
 航行中も手放さず、時には甲板に出て弾いていた。今は、クルー達にも『ヴァイオリン准将』とも呼ばれ、航行中は彼等の間でも名物となった。

 そのヴァイオリンを手に取り、葉月はベランダへと向かう。
 そして娘はその小さな身体で、チェロを構える。
 そんな娘を見る時、葉月は思う。何故? このまだ小さな娘はこんなにもチェロを欲したのだろう?
 彼女に聞けばただ『チェロが良い、チェロが良い』としか言わないだけで、ヴァイオリンやビオラにピアノなどには一切興味を持たなかったのだ。それは何か与えられた天分として、娘をそうさせるのだろうか? と、ちょっと親ばか混じりながら、葉月は不思議にも思ってしまうのだ。

 横須賀の港が見えるこの窓を開けて──。

「ママ、やっぱりカノンよね」
「勿論よ、杏奈」

 さあ、我が娘。
 共にこの音を──。

 母子のカノンが流れるリビングでは、側近の男とジャンヌが微笑ましい笑顔を揃えてくれていた。

 

 

「今頃、杏奈と会っている頃かな──」

 珊瑚礁が煌めく海を眺める工学科科長室の窓辺。
 そこで黒髪の大佐は、海の向こうにいる愛しき者の帰りを待っていた。

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