-- A to Z;ero -- * 私が見た月 *
─ステージ2─

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─エピローグ・ステージ2─
 
2.スウィートホーム

 空母を降り、残務のために横須賀で一泊。
 やっと帰ってきた。

 今、葉月は制服姿で、その家の前にいる。
 バッグから鍵を取り出し、この白い家のドアに差し込んで、かちゃりと開ける。

 この時間帯だから、まだ誰もいない。
 家の中は静か……。
 とりあえず、この愛する我が家に戻ってきた葉月は、リビングに行って庭側の窓を全部開ける。
 開けた途端に、さあっと入ってくる潮風、そして潮騒。色彩はやっぱり『青と蒼』。
 空母航行中にも、時には美しい海を目にする機会もあるが、やっぱり葉月にはここが一番美しい『楽園』だった。
 やっと自分の場所に帰ってきたという安堵感。そしてこの安らぎに、葉月は暫し目を閉じ、その潮の薫りを堪能した。

「さて。皆が帰ってくるまでの用事を済ませなくちゃ」

 部隊には明日出ることにして、直接自宅に帰ってきた。
 それでもきっと、やり手秘書官に成長したテッドは、明日の准将業務のために半日休暇もそっちのけで、空部隊本部と自分が仕切っている『秘書室』に出向いて明日の準備をしているだろう。まあ、その裏では恋人の小夜に早く顔を見せたい思いもあるのでは? と、葉月はまた一人でニンマリしてしまう。
 さて、家に帰れば『一介の主婦』であり『母』であり『妻』となる葉月のために、そうして側近が帰らせてくれたのだからこの時間を有効に使わねばならない。

 二階の寝室へと向かう。
 空母に一度乗り込むと、最低、一ヶ月は帰れない。
 なのにこの家の綺麗なこと……。
 横須賀の母が、週末はなるべく手伝いに来ていたようだけれど、この平日に一人で帰ってきても、ちっとも散らかっていなくて、本当に男二人で留守番していたのかと思えるほどの見事さだった。
 むしろ、葉月が息子と二人で留守番している時よりも、綺麗に整っている気がする……。息子にもよく言われる。『母さんは、本当に駄目だなあ』と。そして息子の方がキビキビと整理整頓をする。あれはきっと父親譲りだと葉月は思う。顔や風貌は御園の血をそっくり受け継いで、このクウォーターの母にそっくりだというのに……。そんなきめ細かさは、この家で父親と留守番をすることが多い中で、父親と密接なあまりに譲り受けてしまったのかと……。そこは絶対に母譲りではないと、顔が似ている母は思いたい。
 二階の寝室に入っても、とても綺麗に整っている。
 脱ぎ散らかしていることもなく、ベッドはきちんとメイクされている。
 そしてその部屋の匂いに、葉月はさらにうっとりと心が安まる。
 いつも、夫と愛し合っている部屋で、夫と語り合う部屋。葉月の心臓のような場所。
 その部屋にいるだけで笑顔になってしまう。上機嫌になった心のまま、この部屋の出窓をさあっと開ける。
 やっぱり青い風。潮の匂い。私の楽園。
 昼下がり。一人で帰宅しても、葉月はこの家の者にちゃんと出迎えてもらえた気持ちで、窓辺で微笑んでいた。

 さあ、今から着替えて『買い物』。
 まだこの家以外に、行かねばならぬところがある。

 制服を脱いで、この部屋にあるシャワールームで汗を流した葉月は、先日『今から会う人』がプレゼントしてくれたフェミニンなデザインだけれどシックな紺色ワンピースに着替え出かける。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 濃紺のフェミニンなワンピースに、真っ白いボレロを羽織って……。
 胸にはちょっと小さめの白花のコサージュを。
 真っ赤な口紅はつけない。昔のまま、ナチュラルにニュートラルな色合いの淡い色をつけていく。
 それでも心はどこか『上質』に。

 そんな心持ちで、葉月はいつものスーパーで買い物をして、未だに愛車にしている真っ赤なトヨタ車に乗ってある場所に行く。
 向かったのは、以前自分が『籠城』していた『丘のマンション』だった。
 相変わらずに、リッキーの両親であるホプキンス夫妻がきっちりと管理をしてくれている。だけれど葉月が訪ねるのは、その管理人夫妻ではなかった。

 今でも時々、こうして丘のマンションには足を運んでいる。
 葉月には懐かしい場所。思い出深い場所。そのマンションの丘を赤い車で上り、海が見渡せる高台になる駐車場に止めて、いつもの潮風を味わう。
 ここの風も好きだった。沢山の若き日の自分が思い返される場所。
 そして、今、この場所は──。

 葉月は暗証番号を知ってはいるものの、とりあえず、ロビーに入る前にオートロックの自動ドア前にあるインターホンを押した。
 押したのは『元我が家』だった部屋の番号。

「純兄様、ただいま」
『おう、帰ってきたか』
「うん」
『開けるから、入ってこいよ』
「有難う」

 向こうの操作で、自動ドアが開く。
 そして使っていたカードキーも使わずに、すいすいとあの鉄ドアも開いて、元の家に入れた。
 ただ違うことがひとつ。もう、自分と隼人が同棲していた時の間取りの面影なく、大々的に『改装』されてしまい、まったく新しい広い家になっていること。
 スタジオは一部分を残して縮小され、壁は取り払われ、二部屋しかなかったあの間取りから、何室もある広い広い住まいへと変貌していた。
 そう、義兄の純一がそうしたのだ。
 数年前になる。葉月達が出ていってから少し後、真一が純一の元から独立したのを機会に、ついに義兄は横須賀からこの小笠原に移転してきたのだ。
 そして既に誰も使っていない放置されたままの『義妹の元住居』を改装して住みたいと言い出した。
 それには葉月は感激し、でも……まさかこんな近くにいてくれていいのだろうかと戸惑っていると、これまたあの夫が……。

『いいね。兄さん、俺達と島に住もうよ。俺、大賛成』

 と、言ってくれた……。いや、言ったのだ。
 既に妻の葉月が、義妹以上の感情を持っている云々という気持ちではなかったような爽やかさだった。
 むしろ、この家の改装に隼人も乗り気で、義兄の引っ越しの手伝いを誰よりも率先して協力していた。
 二言目には『兄さんがいると助かる』とか『兄さんがいないと楽しくない』とか、そんなことを言う。実際に、隼人もこの家を頻繁に行き来して、二人で夜遅くまで飲み明かしたりとかして、本当に妻であり義妹である葉月も間に入らせてもらえないことが増えてきた。それで、ちょっぴり妬いてみたりとか……。でも実はお互い様で、葉月もこうして遠慮なく会いに来ていたりする。
 今日も、こうして──。長い航海から帰還して、こちらにも直ぐに顔を出す自分。
 義兄がプレゼントしてくれた服を着込んで、お洒落をして出かけるのは、むしろ、ここだったりする。

 そして義兄はここで一人暮らしで寂しくないのかというと、そうでもない。

「お邪魔します」

 新しくなった玄関のドアを開けると、直ぐ目の前に既に義兄が立っていた。

「お帰り、葉月」
「ただいま、純兄様」

 二人で静かに見つめ合い、そっと微笑み合う。

「晩ご飯、作りに来たの」
「すまないな」

 ミュールを脱ぐ前に、葉月は買い物袋を純一に見せる。
 純一もそっと笑い、すぐにその袋を手に取ってくれる。
 葉月もミュールを脱いで、姿を変えてしまったこの部屋に上がる。

 あのリビングとテラスは健在だった。
 だけれどあの狭かったキッチンは今は広い面積をとって対面式になった。
 バスルームは、もっと違う場所、奥に移された。

 そのリビング……。
 葉月の八畳部屋も潰されて、かなりのスペースになっている。何故、このフロアをこんなに広く取ったかというと……。純一が仕事の拠点を『此処』にしてしまったからだ。

『この島が気に入った。日本ではここを拠点にしてまた稼ぐ』

 そうして純一はこの島人になった。
 葉月と隼人と共に、純一も青き島人になろうとしてくれたのだ。
 それから義兄はここを仕事場とプライベートルームと分けて改装し、息子が帰国すればあの横須賀のマンションに帰ったりとしているのだ。
 だから、義兄はここで毎日、忙しそうに仕事をしている。時にはジュールもエドも訪ねてきて、一ヶ月とか二ヶ月滞在することもあるが、彼等も忙しそうに世界を駆け回っている。
 今日もそのリビングだった『仕事フロア』には何台ものノートパソコンが設置され、沢山の書類が散らばり、雑然としている。だけれど、オフィス純一の雰囲気を醸し出していた。

「忙しそうね」
「構わない。そこに座れ。ミルクティーか?」
「ううん。エスプレッソ。兄様の美味しいから」

 そう言うと、くわえ煙草の純一がそっと笑ってキッチンへと向かう。
 相変わらず、黒いスラックス。今日は白いシャツをボタンを開けて着込んでいる。
 だいぶ、白髪交じりになった黒髪の頭。目尻にもしわが増えた。義兄はもうすぐ五十代を迎える。
 それでもそのすっとした細長い身体を颯爽と動かすキビキビとした動作は変わらなかった。

 その義兄が、煙草をくわえながら入れてくれる珈琲の香りがこの海が見えるオフィスルームに広がった。

 対面式になったキッチンから、煙草を吸いながら珈琲を入れている純一が聞いてくる。

「どうだった。テスト飛行は。あのボウズがなにかやらかしているんじゃないかと期待していたんだが」
「ええ、やってくれたわ。そのうちに兄様のところには、クロウズ社長から情報が入ってくると思うから、今日は『知らないことにしたミセス准将』はなにも報告できないわ」
「へえ。やってくれたか。流石、お前が見つけた暴れん坊だな!」

 義兄の顔が輝く。
 それもそのはずで、この義兄もいつのまにかその軍とのプロジェクトに関わっていた。
 だから余計に隼人と語る時間が増えたと言っても良いだろう。
 『クロウズ社』──イギリスにある小さな航空機会社だが、あの澤村精機のような小規模でも自社ブランドは高名と言った同じタイプの会社。ある日、プロジェクトチームがこの会社に目をつけて調べていると、それを知った義兄が隼人に『社長は知り合いにしてもらっているが、俺の会社』と告げ、隼人が非常に驚いたという話になったとか。それから義兄もクロウズ社長に任せつつ、時々首を突っ込んでいるようなのだ。
 そして葉月も義妹として、『こんな仕事をしている』とか『こんな人に出会った』という話はすっかり家族の気分、妹になって話したりしている。義兄はいつも黙って楽しそうに聞いてくれ、時には人生の先輩として、指揮官をしている葉月の為になるアドバイスもしてくれる。

 そうして、義兄の純一は、義妹の葉月と義弟となった隼人の側で静かに見守って、協力をしてくれているのだ。

 そして葉月は『義妹』として、ここに良く通っている。

「チビ、出来たぞ」
「有難う、お兄ちゃま」

 葉月だってもう、四十代を目の前にした大人の女性だというのに、二人きりになるとそこには鎌倉で育ってきた二人に戻ってしまう。
 『チビ』と呼ばれ、葉月は時々ついつい『お兄ちゃま』と言ってしまう。
 そんな二人だけの時間──。

 そうして葉月が大きなテーブルで、義兄のエスプレッソを味わっている間も、純一は煙草を吹かしながら仕事を続ける。
 葉月も……。蒼い海を見渡しながら、ほろ苦い珈琲を静かに味わう。
 そんなふうに黙って側にいるだけで、それだけで……と言う関係は、変わらないままだった。

 そんな中、義兄がとても真剣な横顔、怖い顔で仕事に戻ってしまったので、葉月は黙って飲み終わったカップをキッチンに持っていく。
 そして黙って、買い物袋を開けて、義兄のために買ってきた食材を並べる。
 いつも自分専用に置いているエプロンが、変わらずにたたまれて片隅にある。葉月はそれを手にして、義兄がプレゼントしてくれたワンピースの上につけて料理を始める。

 今日は義兄が好きな『鳥の五目炊き込みご飯』と『ブリの照り焼き』。
 それを葉月は無言で淡々と準備をする。
 目の前に見える義兄は黙々と書類に向かって仕事をしていた。

 さあ、出来た!
 ご飯は炊けたら食べられるし、ブリの切り身は味付けをしたから後は焼いてくれたらいい。
 それを言い残して、今度は自宅の支度へと帰らねばと、料理をしていたキッチン台から振り返ろうとしたのだが……。
 そこにふわっと香る良く知っているトワレの匂いと煙草の匂い。そして、ふと気が付けば自分の身体を取り囲むように伸びている長い腕。
 今度こそ振り向くと、すぐ後ろ、葉月の背に密着するように純一が寄り添っていた。

「に、兄様」

 彼の煙草の匂いがする息が、首筋を滑っていった。
 そして抱きしめる訳でもなく、ただ柔らかに葉月のウエストに添えられている手。だけれどその手がゆっくりと葉月の腹部へと滑っていき、臍の上辺りで純一は両手を組んでしまい、すっかり葉月は取り囲まれた状態に。

「お前の晩飯、待ち遠しかったなあ」
「そう……。うん、嬉しい」
「いつも有難うな」

 それだけ言うと、義兄はその組んでいた手をすっと惜しむことなく離してしまう。
 だが、ほんのちょっとの隙間を空けたまま、まだ葉月の後ろに立っていた。
 いつも彷徨う義兄の指先は決して葉月を悪戯に触ったりはしない……。
 だけれど、その指先が少しだけ葉月の栗毛に触れる時、葉月の胸はいつも熱くなる。そして泣きたくなる。

 今だって……。
 こんなに私の胸は熱くなる。
 泣きたくなるぐらいに、切なくなる。
 いつも唇を噛みしめて、葉月も決して、それ以上は言わない。それ以上は求めない。
 だけれど、今、ここに。この静寂の中で、ちょっとだけの隙間を必ず挟み込んで寄り添う関係。そこに私達の愛があると葉月は信じている。

 こんな心は何歳になっても色褪せない。
 物わかりの良い、分別ある大人になっても……。
 決して変わらないあの日のままの想い。
 幼い頃に慕っていた心。十三歳で知った甘い疼き。十六歳で知った熱い愛。そしてずっともどかしく握りしめていた切ない想い。そして辿り着いた私達の愛。
 変わらなかった。そしてそれはきっとこれからも。

 そして義兄はあのマリンノートの香りと煙草の匂いを残して、葉月から離れていく。
 葉月も、それでもう充分に伝わっているから微笑みながら、エプロンを取った。

「じゃあ。冷蔵庫に入っているから、自分で焼いて食べてね。お味噌汁も温めてね」
「うん、分かった。早く帰って、海人と晃に顔を見せてやれ」
「はい、兄様」

 海人も晃と一緒に、しょっちゅうここにお邪魔している。今は社長さんのお仕事をしている『谷村のおじちゃん』は、二人の男の子に懐かれそして甘やかしている。そして勿論……。

「杏奈は元気だったか?」
「うん。音楽会のドレスを贈ってくれたんですって? いつも有難う、純兄様」
「それが、右京と重なってなあ。あいつとどっちのドレスを着るかで喧嘩になって、ジャンヌ先生に説教された。大人げないってな」
「横須賀で聞いたわ。笑っちゃったわよ。でも、ちゃんと話し合ってよ。次の音楽会は純兄様のドレスを着ることでジャンヌ姉様がまとめてくれたみたいだけれど、右京兄様すごく拗ねているみたいよ」
「はあ、それで暫く相手にしてくれないんだよな。参ったな。あいつは葉月を卒業して今は『杏奈病』だな」

 ちょっと疲れた顔でとぼけた純一を見て、葉月は笑った。
 それでまた、次の音楽会で顔を合わせて文句を言い合うのだろうと葉月は思い、さらに一人で笑ってしまう。
 そんな男幼馴染みの関係は健在のようだった。

「今度の週末はうちに来てね。皆で夕食をしましょう」
「ああ、勿論」

 義兄が忙しくない限り、週末は共に食事をするようになっている。
 隼人がそう決めたのだ。──『家族だから』と。
 それだけじゃない。今はお隣の『海野家』ともほぼ二世帯生活のようにして協力し合いながら暮らしている。週末の夕食は皆がなるべく集まるように時間を作る。それが『御園×海野』家のいつのまにか決まった習慣だった。

 『それでは、また』と、二人で微笑み合い、葉月はこの義兄の住まいとなった部屋を一人出ていく。

 また潮風が吹く丘の駐車場から、海を眺める葉月。
 海をひと眺めをしてから、赤い車のドアにキーを差し込もうとしたのだが、そこで葉月は三階を見上げた。

 ……いつもそう。義兄はそこで葉月がいなくなるまで見送ってくれる。
 そんな義兄が、くわえ煙草のまま笑顔で手を振ってくれた。

 葉月も微笑みながら手を振る。
 それもいつものこと。

 だけれど葉月はここでいつも、ひとりひっそりと囁いている。

「愛しているわ、純兄様」

 ひとりひっそりと。
 聞こえなくても良い。届かなくても良い。
 ただひとりひっそりと呟く、葉月だけのささやかな『真実』。
 小さくても良い。叶わなくても良い。ただ、私の心の片隅に、ひっそりと息づいていればいい。

 そして一人の思いこみでも、葉月は信じていた。
 きっと義兄も同じように思ってくれていると。
 もし、思ってくれていなくても、もうそれで充分。
 私達は一時でも、真っ正面から愛し合ったのだから。

 それでも笑顔で見送ってくれる義兄。
 ──お前が笑うと、幸せになる人間が沢山いるんだ。笑ってくれ。
 いつかの義兄の願いのまま、葉月は微笑みながら赤い車に乗った。

 それで、貴方が幸せに思ってくれるなら。ずっと──。

 葉月の想いは、潮風に溶けてこの丘の坂を下りていく。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 また別の買い物袋を片手に、再び白い我が家に帰ってきた葉月。
 今度は真っ直ぐにキッチンに向かう。
 こちらは対面式ではなく、別室になる形で広いキッチンを作った。
 隼人が料理を趣味にしていること、そして離れて暮らしていても訪ねてくる家族が多いこと、そして招待する同僚に後輩が多くなるだろうことを考慮して、隼人の希望で広いキッチンを作ったのだ。
 その広いキッチンの入り口に立って、葉月は驚いた。

「貴方、どうしたの?」

 まだ夕方になろうかという時間帯なのに、目の前にはエプロンをしている隼人が立っていたのだ。

「お帰り、奥さん」

 上着を脱いだ制服姿に黒いエプロン、そして変わらぬ穏やかな眼鏡の笑顔を見せる夫がそこにいる。
 このキッチン、ほんのりとした甘い匂いが漂っている。どうやらホットケーキを焼いているようだ。
 そんなことをのんびりとしている夫を見て、葉月がまだ呆然としていても、彼は可笑しそうに笑っているだけ。

「そろそろガキんちょ二人が帰ってくると思ってね」
「まだ帰ってきていないの」
「うん。今日も学校帰りに、医療センターへ寄っているのだろう……」

 夫のしぼんだ声に、葉月も俯いた。
 一歳違いの晃と海人は、二人揃ってキャンプ内にあるナショナルスクールに通わせている。
 これはどちらかというと達也の希望で、『国際的に、早いうちに英語に慣れる!』という、アメリカ生活を経験した海野パパの教育方針からだった。
 一歳違いでも、お隣同士二世帯生活をしている晃と海人は、もう兄弟同然で、いつも二人一緒だった。
 だが、今、ここに……『もう一人のママ』がいない。
 海野家には今は、ちょっと体が不自由になった八重子も同居している。だから、八重子が手伝えなくなった分、葉月と隼人も海野家の不自由な部分はフォローしてきた。そのフォローも、出産後、やはり身体を弱くしてしまった『泉美』のことも含まれている。
 ついに秘書官の夢を諦めて、泉美はやっと産んだ息子となるべく長い時間過ごす『専業主婦』の道を選んだ。葉月も泉美が調子悪い時は全面的に協力した。しかしその逆も、家にいる泉美は葉月と隼人が忙しい間は、歳を取った義母の八重子と力を合わせて子供達を守ってくれていた。
 だが……ついに。泉美はこの半年で入院生活を強いられることになってしまったのだ。
 だから、子供達は学校帰りには『もう一人のママ』に、必ず会いに行く。
 そんなことを思い返し、葉月は溜息をついた。

「明日、出勤したら会いに行こうと思って」
「それがいい。泉美さんもお前の帰りを待っていたぞ」
「うん……」

 と、しんみりとなったのだが、葉月ははたと我に返る。
 もうちょっとで上手く流され誤魔化されるところだった。

「って……。大佐はどうして今、ここにいるのよ!?」

 まだ仕事の時間のはずなのに?
 もしや?

「え? 吉田が早退しても大丈夫って言ってくれたから」
「嘘! 小夜さんがそんな甘いこと許すはずないじゃない。きっと貴方が上手くすり抜けて出て来ちゃったんだわ!」

 ホットケーキを焼いている夫。
 その夫が急に『あはは』と笑い出した。
 どうやら当たったようだ。

「ちょっと、ちょっとパパ! またなんて言われるか……」
「別に。言いたい奴には言わせておけよ。俺はやることはやっているし、子供が一番なんだから」

 途端に、葉月がいつも黙り込んでしまうあの眼の輝きを突きつけられる。
 葉月はなにかを言い続けようとした口をもごもごとさせ、ついに諦める。

 夫の『御園工学大佐』にも『噂』はある。
 ──ミセス准将の尻にひかれた甘いマイホームパパ。
 あのシビアだった隼人が、今は家庭の為家庭の為を良く口にするため、呆れる男共が多い。が、やはり女性には支持されている。
 だがそれは御園婿として軌道に乗った人生を歩んでいる夫へのやっかみであるのも葉月は知っていた。
 ──あの大佐はちょっとゆるいように見せかけて、本当は恐ろしい男。
 そんな噂もちゃんとある。なにせ、夫はこの葉月を准将に昇進させる運動を達也と起こし、そして女性初最年少の准将を世に送り出した『功績者』として知られる。それだけじゃない。今、開発している『真っ白い戦闘機』のシステムも徐々に世界レベルに知られることとなり『あの澤村精機の子息でもある』という血筋も存分に知らしめている。そして、小笠原空部隊の基礎を作って、ミセス准将に送り届けたという『功績』もある。『それなのに大佐は勿体ない』と口にする者も結構多い。絶対に妻より夫の方が将軍だと。
 だが夫は知らぬ顔。『俺は工学科科長室が肌に合っている』と言う。
 そんな隼人の狙いも、葉月には分かっていた。あまりにも地位が高くなると身動きが取れにくくなることもある。がんじがらめにされることもある。そんな地位へと送り出した妻を、いつでも後ろから見守る役を決意して四中隊を出ていった隼人。その本当の狙いは『工学科科長』という仮の姿を保持しながら、そこから自由に妻をサポートする。そんな身動きが出来るようにと、既に四中隊を出る時に隼人は思い描いていたのだ。
 だから今となっては、工学科にいる『工学大佐』の隼人ではあるが『空部隊の隠密』とまで言われている。実際に、空部隊の目に見えない見落としそうな部分を見つけて、保持してくれるのはこの夫だった。それが『裏の顔』で、隊員達に恐れられている。だが『表の顔』は、ゆるい家庭的なマイホームパパで、人を油断させているようなところもある。
 その『胡散臭さ』が、だんだんと義兄の純一に似てきたように思えて、葉月は眉をひそめてしまう時がある。

 そして今日も、その『胡散臭くなった工学大佐』は、パパの顔、甘い旦那の顔で『妻が帰ってくるし、息子達も学校から帰ってくるから』とか言って、小夜を困らせて『早退』、いや『サボタージュ』をしたに違いないのだ。
 それは葉月の手、御園の手なのに、今はそれを夫もやってしまっているから、時々絶句する葉月。

 まあ、いいわ。もう、今に始まったことじゃないから……と、葉月は呆れた溜息をついて、買い物袋をキッチン台に置いた。

「ホットケーキ?」
「ああ、食べるだろう? 腹、減っていないか」
「空いている。パパのホットケーキ、大好きよ」

 『だろ』と、フライ返しを片手に笑う夫。
 キッチンの窓辺からも海が見える。そこから見える水平線が徐々に夕暮れの色を醸し出し始めている。
 コンロの前にいる夫の傍に寄り、葉月はホットケーキを覗き込んだ。
 さあ焼けたと、夫が三枚のホットケーキを一つの皿に重ねて置いた。
 息子達のおやつと、奥さんのおやつ。
 そのうちの一枚の端を、隼人がちぎった。

「今日も、上出来だな」

 それを頬張ると、またひとちぎり。
 今度はその一欠片を、奥さんの口元へと持ってくる。
 葉月はちょっぴりどっきりとして、少しばっかり恥ずかしげに目を伏せ、そっと頬張った。

「美味しい」
「ソニアママンには負けるけれどな」
「懐かしい。あの時、貴方と食べたホットケーキは美味しかったわ」

 葉月がそう言うと、途端に夫の眼鏡の向こうで煌めいている黒目が熱く揺らいだ。十数年経っても色褪せない『私達の出会い』。それを昨日のことのように口にした葉月を、隼人はそんな目をして見つめている。
 ふと気が付けば、そのまま、海が見える窓があるシンクへと身体を押しつけられ、葉月は夫に抱きすくめられる。
 先ほど、義兄がそうして背に密着したように、今度は夫が……。
 でも、違う。今度は力一杯の両腕が葉月をしっかりと真っ正面から固く抱きしめている。

「お帰り、葉月」

 『ただいま』と、言いたかったのに……。それも言わせてもらえず、強引に唇を塞がれた。
 また、そう。夫は新婚の時のように時々でも『ちょっと強引で、躊躇いのない』……そんな熱愛を今でも見せてくれる。
 まだ口の中で溶けていないホットケーキの欠片を舌先で転がされ、喉の奥へと強引に押し込められて、葉月はやっとの思いで飲み込んだ。それでもまだ続く熱烈な口づけ。でも、やがて柔らかに葉月を労るように滑らかになっていく口づけ。
 その時、やっと葉月の耳にこの家の潮騒が優しく届く。そして夫の吐息……。
 そっと離した唇。お互いに見つめ合っている熱い眼差し。それだけじゃない。見つめ合いながらも、隼人の手は、葉月の紺のワンピースの裾をたくし上げて、素肌の腿を目的ある手つきで上へと這っていく。

「い、いきなり?」
「うん。今回はそんな気分。待っていたんだ」
「えっち……。でも駄目、子供達が帰ってきちゃう」

 その手首を葉月は掴んだのだが、また口づけで誤魔化される。
 あんまりにも熱烈に唇を愛してくれるものだから、うっかり……抵抗して掴んだ夫の手首を離してしまった。

「あっ……」

 容赦なくショーツにねじ込まれる夫の大きな手。
 どうして? 今回はとても荒っぽい。時にはそうなるけれど、こんなこと久しぶり?
 ううん……。一ヶ月ご無沙汰だっただけで、今でもそんなふうに感じてしまう。
 あっという間に潤う、夫と葉月だけの秘密の園。そこに押し当てられる隼人の指が満足げに泳いでいた。

「こんなに……。待っていた?」

 震える葉月の頬に、隼人は唇を押し当てて笑っている。
 相変わらず、意地悪な人。
 ワンピースの柔らかい裾の奥でうごめいている手、その手首を除けたい訳じゃないけれど、やっぱり葉月は堪らなくなって、ぎゅっと掴んで、唇も噛みしめる。堪えれない心地良い感覚に、目眩のようなものを感じながら徐々に夫へと何もかもが傾いていく。
 ショーツも腿まで降ろされ、そこはもう既に熱く湿っていた。それでもやまない隼人の口づけに、葉月は息も出来ずにただ喘ぐだけ──。

 すると、その夫がまたちょっと意地悪なことを言い出した。

「煙草の匂いがするな……。やっぱり義兄さんのところに行ってきたか」

 葉月は指先で翻弄されているせいか、素直にこっくりと頷いていた。
 どっちにしてもやましいことなど一つもないのだから。
 そして、隼人だって。

「苛めているわけでも、責めている訳でもないよ。分かるから、お前に触れたら抱きしめたら、分かるから」

 それは今、葉月が堪らずに隼人の手の中に陥落するほどに濡れているから?
 それとも──?
 でも、もう葉月には考えられない。

「大丈夫。俺はこの煙草の匂いがするお前も愛しているよ」
「あ、あな……た。隼人さん……」

 今度は葉月からしっかりと隼人に抱きつき、彼の唇を塞ぐ。
 夕暮れてきたキッチンの窓辺で、いつまでも熱く抱き合う夫妻。一ヶ月ぶりの熱愛を交わして、『おかえり』と『ただいま』の濃厚な挨拶。

 隼人が『もう駄目かな』と言いながら、ついにスラックスのベルトを外そうとした。
 葉月ももうなにも考えられなくなって、そのまま夫の胸に全てを預けて待ち望んでしまっていた。

 

『ただいまー!』
『父さん、いるのー?』

 

 男の子二人の声。
 葉月はどっきりと飛び上がりそうになったが、飛び退きそうになった身体を目の前の夫はまだ余裕な顔でぎゅっと抱き留めている。
 それどころか、にっこりと微笑みながら、ゆっくりじっくりと紺色の裾の奥に忍ばせている両手で、太腿まで下げてしまった妻のショーツを元通りに戻してくれた。
 まだそのスカートの部分に手が入ったまま……狂おしそうに葉月の小尻を愛でている。

「今夜、楽しみにしている」

 そのままに、まだ口づけられる。
 もうすぐそこまで、子供達が走ってくる足音……。
 でも、葉月も頬を染めてこっくりと頷き、夫の唇を吸った。

 

「あ! 准将もいるぞ」
「母さん、お帰り!」

 

 夫の手が、ぱっと軽やかに葉月のスカートの中から出ていった。

「お帰り。晃、海人」

 いつもの『柔らかパパ』のスマイルに、ぱちっと切り替わって、息子達に微笑みかける夫。 
 葉月はいつも、この変貌に今でも唖然としてしまう。
 だがそんな『ぼんやりお母さん』に構わずに、息子達はキッチンに一目散に駆け込んできた。

「わっ。隼人大佐のホットケーキだ。食おうぜっ! 海人」
「本当だ。俺達、バス停から走ってきたんだ。腹減った!」

 一ヶ月も留守だった母親、そしてお隣のおばさんがそこにいるのになんのその。
 育ち盛りの男の子二人は瞬く間にホットケーキへとめがけて、その皿を取り巻いた。

「こら。その前になにかしなくちゃいけないだろう?」

 そこで眼鏡のパパが、ちょっとだけ強面で『めっ!』と二人を睨む。

「分かってるよ、おじちゃん! 海人、手を洗いに行って早く食おうぜ」
「そうだな」

 いつもハキハキしている晃が率先し、そしてちょっと淡々としている海人がそれに頷く。
 しかし、そこで隼人パパの軽いゲンコツが、二人の男の子の頭をコツンコツンと叩いた。
 男の子二人は『なんで?』と訝しい顔を揃えて、眼鏡のお父さんを見上げる。

「違うだろ! 准将に『ご苦労様、おかえりなさい』が先じゃないのか?」

 先ほどの可愛らしい『めっ!』ではない、いつも穏やかな眼鏡のお父さんが本気で怒りそうになる一歩手前の怖い目に、二人の背がしゃきんと伸びた。
 そして、二人の男の子の顔が途端に、葉月がいる方向へ、しゃきんと向いて、葉月の方がドッキリとしてしまう。

「おかえりなさい。准将」
「母さん、おかえりなさい」

『ご苦労様でした』

 二人が揃って、お辞儀をする。
 形はどうであれ、葉月はそれだけで満足で、二人ににっこりと微笑む。

「ただいま。もう、いいわよ。手を洗ってきて食べなさい」

 そして男の子二人もそこでほっとした顔になり、晃がキッチンを飛び出すと海人もそれに続いて揃って洗面台へと走っていった。

「まったく。なんだかんだ言って、お前に一番甘えさせてもらっているのだから。お前も甘い顔しなくていいんだぞ。ここはびしっと……」
「いいのよ、私は『オバカさん』で。そういうのはパパがびしっとしているじゃない」

 兄弟のような晃と海人は、いつも一緒。
 そんなふうに……。二人の親が歳が違うのに『双子同期生』と言われていたそのままの関係が、息子二人にも引き継がれているようだ。

 いつもお兄ちゃん格である晃がキビキビと先を決めて、弟分である海人がそれに従う。
 と言っても、それは『平穏で仲が良い時』だけで、この二人が喧嘩を始めたら、『年上、年下』もない。それはもう対等の喧嘩をする。そして偉いことに、晃は『俺がいっこ上なんだからな』と絶対に言わないし、海人も『俺はいっこ下なんだからな』という盾にするような言い訳は使わない。つまり、二人は『対等』なのだ。その証拠に、彼等が取っ組み合いの喧嘩を始めたら『さあ、大変!!』と、葉月が真っ青になるぐらいに『対等』にやるのだから。
  取っ組み合いの喧嘩を始めたら、そこは怖い陸官のお父さんである達也が登場。やんわりと口で諭す隼人パパのような手加減は絶対にしない。夜中でも庭に放り出したり、一時間以上廊下で正座させたり。そんな男親のすこしばっかり必要ではある『乱暴さ』はお手の物でお任せだった。そして最後は、隼人パパが静かに諭して仲直りをさせるというパターン。
  二人とも、どちらの『お父さん、パパ』には異なる畏怖を抱いている。
 じゃあ、ママは……。と思い返すと、葉月はちょっと回れ右をして、逃げ出したくなる。
 何故かって。お母さんとかママとか、そういった完璧なる『母親』と『子供が慕う母性』は、やっぱり泉美の方が子供達の目から見ても明らかに格が上のようなのだ。

 『母さんは、整理整頓が下手だし……』と、海人。
 『俺達が好きじゃないババアな料理ばかりが得意だし』と、晃。
 『いつまでもお嬢ちゃんみたいだし』と、父親二人の口を真似て子供ふたりも揃って言う。

 仕事、仕事で飛び回っている女性のその家庭での余裕のなさを、子供達に揚げ足を取られ、いつも泉美にフォローしてもらっていた。
 そうして子供達に『一番、なめられている親』は、このミセス准将だった。
 そこを隼人はちょっと不満に思っている。葉月は一向に構わないし、そういう『なめられ役』のようなものも悪くないと思っている。なんでも親が偉いだなんて……。なめられているのは、そこはまたちょっと甘えてくれている部分であるのだって。泉美が美しき母性像を確立し、そして葉月はちょっとヘタレなお嬢ちゃんママ。それで良いと思っている。

 だが──。

 子供達がまた元気良く走って戻ってくる。
 隼人が二つのお皿にホットケーキを乗せ、ちゃんとフォークとナイフを並べて待っている。
 さあと、隼人がちょっと眼鏡の奥の眼を光らせて構えている。
 そして、葉月もちょっと緊張……。

「俺、こっちの皿取った!」
「俺、こっち!」

 隼人と顔を見合わせてほっとする。
 何故なら『こっちが大きい、俺がこっち』と、他愛もなく喧嘩を始めることもしょっちゅうだからだ。
 どうやら、無事にお互いが納得できるお皿をゲットできたようだ。
 だけれど、メープルシロップの取り合いで怪しい雰囲気に──。

「海人、先にマーガリンを塗ればいいでしょう。晃も終わったら直ぐに海人に渡しなさい。『無駄な争い』は、無駄なタイムロス。効率よくやった者が勝つのよ。それには、何処でどれだけ力を緩めて、何処でどれだけ押しまくるかを見極めてバランスを計るのも大事。自分本位にやるだけじゃ、余計な力を使っていつのまにか損失していることが多いの。自分だけじゃない、周りの相手がどんなことをしているか。その時に自分が何をすれば一番『近道』か考えるのが大事だわ」

 腕を組んで、『准将ママ』の静かで平坦な重い声。
 その顔は、ママが付かない『准将』。

「それが結局、自分のため。相手のためになっているのよ」

 二人の男の子が、ちょっと唖然とした顔で、争っていた手を止め、葉月を見ていた。
 葉月もはっとし、らしくなく語っていたことに我に返る。ここは職場じゃなくて、家庭なのに──と。
 だが、そこで子供達が無言になり静かになる。
 海人はマーガリンを手にして、晃はさっさとシロップをかける。そして二人で息があったように交換。

 やっと一口ずつ頬張る二人。

「ねえ、准将。じゃなくて、えっと……。葉月ママはそうやってうちの父さんと母さんと隼人パパと仲良くなったのかな?」

 殊の外、真剣な顔で聞いてくる晃に、何故か葉月はあたふたする。

「ええっと? そうなのかしら……」

 そして今度は、息子の海人も。

「でも海野のお父さんは、『じゃじゃ馬がいないと始まらない』ってよく言うよな」
「そうそう。『どういった始まり』だったわけ? 准将と隼人大佐と、うちの親たちって」

 葉月は『え? え?』と、言葉に詰まる。
 またそれを語るとなると、なんというか……。
 そうして困っている『准将ママ』の隣で、静かに見守っていた眼鏡パパが、ついに笑い出した。

「そりゃあ、『台風』に決まっているだろう? 俺も、達也も泉美ママもね。大変だったんだ」
「やっぱりなー! 准将ってお騒がせだもんな!」
「そうだよ。母さん、いい大人なんだから落ち着いた方が良いと思うよ。俺、時々『ハラハラ』するもんな」

 うわ。貴方達、今、パパ二人そのものに見えたわよ──! と、葉月はおののいた。
 近頃見え始めた構図。こちらもパパ二人の姿をしっかり受け継いでいるのだから。

「そうそう。ハラハラするママだよな」

 隼人も揃ってそこは男三人で大笑い。
 だが、眼鏡のパパだけは直ぐに違う顔になる。

 子供達に背を向けて、夕暮れてきた窓辺を遠い目で見る。
 そんなしんみりとした大人の背に気が付いた子供達が、また黙って眼鏡パパの様子に固唾を呑んでいる。

「でもな。そう──この准将ママがいなかったら、誰もここにはいなかった。それは確かだ」

 その男性の背を、子供達はどう見ているのだろう?
 そして彼等のちょっとしんみりを受け継いでしまった目は、何故か揃って葉月へと向けられる。
 子供達はあんなふうに口悪を叩くけれど、本当は『知ってくれている』。
 彼等は幼い頃から、准将ママの『身体の傷』を目にしていて違和感はなかったかもしれないけれど、こうしたしっかりとした少年となるほどに『気にして、気にしないように努めていること』を、葉月は肌でしっかりと感じていた。可愛いだけのやんちゃな男の子ではなく、そうして一人の女性のこと一人の人間として感じ取ろうとしていること。
 ふたりの息子の眼は、そんな眼。どこか『男』を思わせ始める『眼』だった。しかし、それも一瞬──。

「ごちそうさま! 准将、またあとで白い戦闘機の話を聞かせてくれよな」
「ええ、晃」

 晃が先に誤魔化すようにホットケーキを急いで口にかき込んで、キッチンを出ていった。
 隣の家に戻って、留守番をしているお祖母ちゃんの八重子に顔を見せに行くのだろう。
 きっと今日も夕食は、この御園家で揃ってするだろうから、その時に足が悪くなった八重子を連れてやってくるはずだ。

「海人、お前も夕飯までお隣にいてもいいぞ。呼ぶから」
「うん」
「宿題、やっておけよ」
「うん。行ってきます」

 今は母親が入院を強いられている晃。
 明るくしているけれど、本当は……。そんなところ、達也お父さんに似ていると葉月は思う。葉月の過去の匂いを嗅ぎ取りつつ、明るく知らないふり。そして母親がいない寂しさと、母親が儚くなりそうな不安を隠して、明るいふり。
 そして海人は、そんな晃となるべく一緒にいる。

「なんだかんだ言って、あの二人は『准将ママ』が一番凄いって分かっているよ」
「別に、私なんか──」

 『ここにいないと始まらない』と言ってくれる家族とお隣さん。
 そうじゃないと葉月は言いたい。──『貴方達がいるから、私がここに居られるのだ』と。

「でも、これから、お前のことを色々知っていこうとするのに、考えなくちゃいけない時期に来たかもな」
「隠すつもりはないわ」

 そこは少し困っている様子の隼人だったが、葉月がそういうと『そうだな』と微笑んでくれる。

 また静かになったキッチンでふたり。
 今度は、夕暮れに染まる瞳を見つめ合い、静かに微笑み合う。
 それだけで、充分。

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