-- A to Z;ero -- * 熱帯模様 *

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9.恋したのちは……

 柔らかく、暖かみのある照明の中──。
 艶やかに照り輝くヴァイオリンを構えた栗毛の演奏者が二人。
 淡いエメラルドグリーンのイブニングドレスを着ているピアニストの伴奏で、まずは深海色のスーツを着込んでいる栗毛の男性が、ボウを弦にのせる。

 レストランのダイニングに、芳醇ともいいたくなるような膨らみを持たせる音が溢れ出す。
 その男性が醸し出した音に、そこにいる者達の動きが一時だけ静止する……。
 ほんの一時でも、その一瞬をその男が制したと言っても良いだろう。

 その一瞬の恍惚感から皆が抜け出そうとした時──次には空に高く昇るような透明感ある音が響く。
 栗毛の男性の隣に寄り添っている黒いドレスの女性が、ヴァイオリンを弾き始める。
 それまで、耳を独占していただろう圧巻的な美しさと重厚な音を奏でる男性とは反対に、今度は、皆の動きは止まらずとも、心を軽やかにするような爽やかな音色に瞳を輝かせる。

『あら、右京さんの定番──カノンね』
『相変わらず。葉月さんがお供だと嬉しそうね』

 達也の側にいる煌びやかな女性達が、微笑ましい眼差しで、栗毛の従兄妹同士が奏でるハーモニーを見つめていた。
 葉月の後には、もう一人、男性のヴァイオリニスト。
 ピアノとのヴァイオリン三重奏のカノン──。
 それがこのパーティーの始まりを告げた一曲だった。

 周りの招待客の誰もが、不思議で華やかな雰囲気を醸し出す栗毛の従兄妹同士に釘付けだった。
 それは達也も同じだ。

 一昔──彼女がヴァイオリンを弾いていた事を知った時。
 それは彼女のマンションに上がり込んで、彼女の精神がふと激しく不安定に揺れた姿を目の当たりにした夜の事だった。
 その時達也は葉月が嫌だとか困るとか、どうして良いか解らないとか……あるいは本当にそうして欲しかったのか……? そんな彼女の思うだろう気持ちを無視して、『俺は断固として泊まっていく』と強引に居座った時の事だ。
 元々『何を考えているか解りかねる女』だったから、いちいち彼女の反応を確かめようとしたり、もしくは計ろうとしていると、逆にこっちが『どうして良いか解らなくなる』。
 だから、それなら『俺は、こう思う!』と達也が強引に推し進めてしまう事が多かった。
 そして、なんだか良く解らない葉月は、それが良かったとか悪かったのだと言うようなはっきりした反応は見せずに、とりあえずは『達也の提案』に頷く。
 そんな時、達也は以前も言った事があるが『お前、何歳なんだよ? ガキじゃあるまいし──』と思ってしまう瞬間……当時はそんな付き合い方だったと思う。
 おそらく隼人はその逆を行っていたのではなかろうか? 『葉月が意志表示するまで……じっくり』──その果てに葉月の自我を芽生えさせようとした結果が『あれ』だったのだろう? と、達也は思う……。
 まぁ、この話はまたにしておいてくとして……。

 その『強引に居座ろうとした夜』に、葉月が『スタジオ部屋』に通してくれたのだ。
 男としての『下心』がなかった──と、言ったら嘘になるが、『精神的に墜ちた彼女』を見た日には、そんな下心も、すっ飛ぶ。
 だから別棟のような外部屋に案内された事に不満はなかった。
 だが、だからこそ──彼女が音楽を親しんでいたのだと知る事が出来たのだ。

『俺、ギター持ってくる』

 かじりで触っていたエレキギターを持ち込んで、勝手にCDラックをつくって好きなアーティストのアルバムを並べたりして、まるで『丘のマンションでの俺の部屋』みたいに居つき始めた頃。
 ただ達也が面白がってエレキギターを弾いている内に、億劫そうだった葉月がやっとヴァイオリンを手にして……一緒に異色の音で『一つになった』……そんな想い出。

 その時の葉月は、とても重たそうにヴァイオリンを構えていた記憶がある。
 灯りもついていないスタジオの窓辺、降り注ぐ柔らかな月光の中──そこで、なんだか引きずるような重い音、そして、憂うばかりの眼差し。
 血の気がないような唇、そして頬。
 蝋人形がただひたすら泣きたくても涙が出ないが為に、そこにある楽器を『泣かせている』と言うような、そういう陰鬱さが印象的だった。

 そして──葉月はまたヴァイオリンをケースにしまい込んで、達也の前でも出そうとはしなかった。
 ピアノは時には弾いてくれたが、ヴァイオリンはその時期、一時だけだった。

 それが達也が知っている『葉月とヴァイオリン』だ。
 その後、どうなったかは良くは知らない。
 ただ、昨年──フロリダでのパーティーにて、人前でヴァイオリンを構えた彼女の演奏は……その時とは違った。
 だが、昨年の演奏では『楽しく弾ければ、それで良い』と言う、何か吹っ切れはしたが、まだ『弾くにしても病み上がり』と言いたくなるような、まだ何処か不安定な音だった気がする。

 それは──今、たった今! 目の前で懸命にヴァイオリンを演奏している葉月を見れば判る!

 彼女とヴァイオリンが『一体化』しているように見える。
 決して、彼女の何かを背負っている『相棒』でもなく、彼女の哀しみの代弁者でもなく……。
 ただ、葉月自身がそのヴァイオリンを自分に引き寄せようと引っ張っているようにも見えた。
 その彼女の心の底から湧いているだろう『エネルギー』が……つまり『彼女の心の波』と『情熱』を感じる事が出来た!

 曲は『カノン』
 決して、激しい曲ではないはず。
 華やかで、柔らかな雰囲気のその曲の色合いを引き出しつつ、彼女のその柔らかなままでは……もどかしい……とでも言いたそうなぐらいの震える音。

 達也の肌に──鳥肌が立っていた。

 淑やかな黒いドレスの女性の微笑み。
 白い頬に花が咲いたような紅い色。
 その透明感ある音を天に向けているかのような彼女の熱っぽい眼差し──。
 そんな『恋するような顔』で弾いているものだから……。
 自分自身にとても満足している……幸せそうな演奏。

 達也は……それをこの目で確かめ、少しばかりその『熱気』に負けたらしい。
 割と人が集まっているパーティのせい? まさか、『俺はこんな人の渦に負けた事はない』はず。
 だが──額に冷や汗のような物と、めまいを感じてしまっていた。

 達也は、始まったばかりの演奏会も半ばで、フッとダイニングを抜け出した。

『あら、海野中佐。どちらへ?』
『顔色が良くないね? 大丈夫かい?』

 いつもの調子で見知らぬ人間とも、それとない自己紹介をしあって親しく会話していたのだが……。
 達也は煙草を吸う仕草だけを残し、二階のリビングスペースへと足を向ける事にした。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 二階にある分煙を目的ともしているだろうリビングスペースは、とても落ち着いた茶色とベージュを基調とした空間。
 その広間にはお決まりのソファーに灰皿があるテーブル、そして古めかしい本がディスプレイされている本棚があった。
 下のダイニングの雰囲気と合わせてみても『アメリカのホームパーティ』の雰囲気を作る為の『ハウス風レストラン』と言ったところの様だ。

 なんだか──フロリダに帰ってきたような気持ちにさせられた。
 そして……別れたはずの世界だったが、急に懐かしさがこみ上げ、ホッと心が落ち着いたりした。
 まだパーティーは始まったばかりなので、二階のリビングで一息付いているのは達也だけだった。
 ソファーに座り、とりあえず、口に煙草をくわえた時、下から拍手の音が響いてきた。
 演奏が終わったらしい……。
 だが、すぐに次の演奏が始まった。
 ヴァイオリンの音が増えている気がした。
 右京と葉月以外にも、ヴァイオリンやビオラにチェロを手にしていた男女が数人いたので、加わったのだと達也は思った。

 煙草の煙を一吹き……達也は振り返る。
 なんだか、知らない女性の様な気がした。
 願っていただろう姿を見る事が出来た感動の次には、なんだか『寂しさ』を感じた気もする。

 ……暫く、達也はそんな予想もしていなかった気持ちに心を委ねたまま、煙草の煙を静かにくゆらせてみる。
 そういえば……? 隼人も『あれ以来』、なんだか今まで葉月に接していたような『自信をなくしている』と思う事があった。
 まるで『もう、お前は俺が知っている葉月じゃないよ。どうやって付き合えばいいんだよ?』と戸惑っているようにも見えたのだ。
 それを日々感じていた達也は、『何を勝手な事を……』と、葉月を思わぬ方向へ、状態へと送り出した張本人が『生み出した女』を持てあましているだなんて──と、半ば憤慨していたのである。
 でも、達也も隼人のそんな戸惑っていた気持ちが、ふと分かったような気にさせられた。

 今の葉月はもう……。

 その時、先程の『寂しさ』が再度、込み上げてきた。
 他の男を真っ直ぐに見つめている彼女の姿に──の、はずなのに……。
 隼人だけじゃない、『俺』だけじゃない……きっと彼女を愛してきた誰もが『願っていただろう彼女』になりつつあるだろうに。

 そこで達也はある事に気が付いたのだが……。
 もしかして、隼人も、『同じ気持ち』を抱いているのだろうか? と、首を傾げた時だった。

「達也──?」
「……は、葉月」

 一階からの螺旋階段。
 そこからグラスを両手に持っている葉月が現れた。
 まだ、ピアノや弦楽器の音は聞こえているのに……。

「もう、演奏はしないのか?」
「とりあえず、ね。曲だけ決めていて、参加は自由なの。でも最初の『カノン』だけ付き合うのが、お兄ちゃまと約束だったから」
「そうか」
「隣、いい?」

 達也が座っている長椅子ソファーに歩み寄ってきた葉月が、達也を見下ろしながら微笑んだ。
 決して、『大佐嬢』ではない女性がそこにいた。
 大佐嬢だから見る事がない……じゃなく、長年の付き合いがある達也でも初めての感触だった。
 そんな彼女にまるで操られたかのように、ただ頷くだけしか出来なかった。
 ふわっとした優しいトワレの香りを漂わせている葉月が、スッと隣に腰をかけた。

 手には『水』が入っているワイングラス。

「海野中佐の顔色が良くなかった──と、聞いたから。大丈夫? これ、お水……」
「ああ、サンキュ」

 冷たそうな水が入っているグラスは目にしてもとても気持ちが良さそうで、先程の熱気が静かに冷まされていくよう……。
 それほどに、『まいっていた』ようで、達也は丁度良いと思いながら、そのグラスを受け取る。
 それと同時に、少しばかり情けない気持ちになり、そっと顔をしかめた。

 右京クラスの人間達が集まっているパーティで、こんな最初の時間に既に『熱気負けした』と思われかねない『情けない退陣』のような事をしてしまった自分に。
 いつもなら、こういう場でも絶対に気圧されない自信がある。
 むしろ、もっと堂々としてやろうと言う意欲にかき立てられるのに。
 原因は、そんな慣れない人間達の中にいる自分でなく、『隣の女』が本当の理由だが、それはもっと人には知られたくない理由になるかもしれず、達也はそんな思いを噛みしめながら、冷たい水を一口含んだ。

「達也らしくないわね。どうしたの?」
「別に──」

 葉月もそんな達也の事は、よく知っているから、彼女の『らしくない』という問いかけは当然の所だろう。
 そして達也も素直に正直な返答は出来るはずもなく……。

「演奏する為のパーティーなんだろ。こんな所で俺一人なんかをかまってくれなくても、良いんだぜ」
「なによ? 心配して来たのに」

 達也の素直じゃないつっけんどんな言い回しに、いつも通りにふてくされる葉月の口調。
 隣に座っている麗しい淑女の熱気に負けていたはずなのに、そんな『いつもの彼女』を見た途端に、達也はホッと笑い出していた。
 そんな達也の笑みを見て、葉月も安心してくれたようだ。

「……いいのよ。私の今夜の一番のお客様は、達也なんだから」
「へー? そんな風に思って招待してくれていたわけ? そんな感じじゃなかったよなー? ギリギリまで返事もくれなかったし」
「なんなの? その言い方。私はね……!」

 またふてくされ、何か文句を言いたそうな葉月が、小さく呟いた。
 『楽しみにしていたのに……』と? 聞こえたような気がして、達也は目を見開いて葉月を見下ろしたのだが……。

「……なんだって? 今、なんて言った?」
「なんにも! あー、お腹空いちゃった。演奏は楽しいけど、いつもお料理をじっくり味わえないのが欠点ね! 達也、何か持ってきてよ」
「はぁ? なんで俺が? 勝手に下に行って食えば良いだろう?」
「ここで静かに食べたいのよ。持ってきてよ! それぐらい良いでしょ! それともやっぱり、下に戻るのは嫌なの? お兄ちゃまのお友達は、大人の人ばかりだものね? 怖じ気づいちゃった?」
「はぁ? んなわけないだろうっ! 解った! 持ってくればいいんだろう?」
「うん。デザートも忘れずにね」

 途端に昔ながらの調子の良い笑顔を見せ、ふてぶてしくソファーにもたれた葉月の様子に、達也は頬を引きつらせる。
 結局、いつものお嬢ちゃんじゃないかと、あからさまな舌打ちをして立ち上がると、またまた葉月に睨まれる。

 『やれやれ』の溜め息をこぼしながら、彼女に背を向けた時だった。

「こんな風に言えるのも……。きっと、達也だからね……」

 急にしんみりとした声に達也は振り向く。
 そこには、ソファーにゆったりと背を沈め、優雅な手つきで、あの紅い唇をさすっている葉月の姿。
 途端に香り立つような仕草と、たおやかな艶やかさ──それに囚われそうになりつつも、それ以上に『達也だからね』と静かに言葉にしてくれる葉月の姿に今までにない感動が、静かに襲ってきている最中だった。

「どうしたんだよ……。おまえこそ……らしくない」

 そう、『……らしくない』は、彼女の方だ。
 いつだって『俺は今、お前の目の前にいるのか? 俺は今、お前にとってどんな男?』──そのように、彼女はいつも『陽炎』を見るような目をしていた。

 達也は、『先程』の事を思い出す。
 何故、『急に寂しい』のか……。
 もしかして、『隼人もそうではないのだろうか?』と言う事を……。

 それは『小さなお嬢ちゃん』で、どうしようもない気持ちにさせられる『やっかいな彼女』を……。
 そんな『どうにか良くなってくれよ』と、苦しい気持ちにさせられる彼女でも、『愛していた』のだと。
 何を考えているか解らなくて、自分の気持ちはちゃんと言えないで、そして自分が何を感じているかも自分で解ろうとしないまま生きている彼女を──。
 もどかしくて、じれったくて……でも、放っておけなくて。
 そんな彼女が時々、爆発したように血を通わせる時の『激しい姿』──その時の姿は、いつだって感動させられた。
 だから、彼女を愛していた。
 きっと『俺達』は、そんな風な彼女の中に秘められている『情熱を信じて』愛してきた。
 彼女の『どうしようもない』……そんな手に負えない、面倒くさい『女』でも、それも彼女として愛してきた。
 そして『俺達』は、そんな彼女を愛している『己』を、誇りに思っていたはずだ。

 そんなもどかしい彼女があっても、なくても同じ事だったはず。
 たとえ、今、今夜も……そんなどうしようもない彼女でも、同じ『葉月』だったはずなのだ。

 だけど──『おそらく』。
 もう、そんな彼女は『いなくなろうとしている』のだ。
 『俺達』が、全てをかけて彼女を救おうとした『力』も、もう……葉月には必要がないのだろう。
 彼女はきっと、『俺達の手から飛び立った』……のだ?

 隼人は……それを、解っていた?
 だから、あんなふうにして『もう、今までの俺は必要ない』と、距離を置いていたのだろうか?
 急に、そんな気にさせられた。

 そして、今、目の前で……ふと、しんみりとしている彼女の姿にも。
 『達也とはこうね』と、『昔』をなぞっているかのような彼女の遠い目にも、達也は寂しさを感じずにいられなかった。

「でもね──」

 だけど、葉月はそんな達也に微笑みかけてきた。

「そんな私と達也──があって良かったと。今は思っているのよ。それが私と達也で、他の誰かと『同じはない』の」
「!」

 達也の胸が、大きく脈打った。
 階下から聞こえてくるピアノと弦楽器のハーモニー。
 目の前で、達也を真っ直ぐに見つめている女性がいる。
 そんな煌めく強い眼差しで、見つめられるのは初めてのような気がした。
 あまりにも、真っ直ぐに見つめてくるので、達也は思わず、その目力から逃れたく顔を逸らしてしまった程!

「達也……」
「……だから、そんな目で、俺を見るなと……この前から!」

 彼女がソファーから立ち上がって歩み寄ってくる。
 顔を背けている達也の視界に、ドレスの裾がふわりと入ってきた。

「こっちを見て」
「……」

 彼女の指先が、フッと手の甲に触れてきた。
 いつも冷たかったはずの指先が、この日は暖かく感じた気がする。
 だけど、気が付けば──やっぱり、達也の手より冷たかった。
 達也はその懐かしい指先に誘われるように、ふと目の前に来た葉月を見下ろした。

 そこには、いつも夢に描いていたような彼女がいる。
 女としてのお洒落には関心がなくて、化粧も日焼け対策以外はしなくて、口紅だって彩りがないニュートラルなものばかり。
 髪はのばしっぱなしで、ひどい時はゴムで束ねた跡がくっきりと残ったまま仕事をしていたり……。
 制服でなければ、ジーンズとベーシックなシャツとタンクトップばかり。
 達也が知っている『恋人だった葉月』は、そういう『若い女性』だった。
 だけど、今夜は違う。
 綺麗に夜のお洒落を決めた淑女は、『女として美しくなる自信』に満ちあふれていた。
 きっちりとアップにした夜会巻きの栗毛は艶やかに輝いていて、白い頬は薔薇色に染まり、そして──真っ赤な口紅が、フッと柔らかに微笑みの曲線をくっきりと描く。

 いつも夢の中で、吸い寄せられていたその唇。
 その唇に達也は視線を置いたまま……。
 ずっと、眺めている内に、夢か現か分からなくなりそうで、ふっと彼女の小さくて丸い肩先に手が伸びていった。

「達也……」
「……」

 葉月が少しだけ、眼差しを陰らせた。
 達也が何を感じたか、そして今、迷っているかも、この『相棒みたいな女』には既に感じ取られているよう?
 いつも、そうだ。
 お互いに感じる事がよく似ている。
 今、どんな事をお互いに感じているのか。

 そして、もし……達也が意を決したならば、その時の彼女の反応も分かっている。
 顔を背ける。
 肩にある手を払われ、背を向けられる。
 『そんな事、出来ない』とか『ごめんなさい』とか……そうして、達也の中で敗北感と共に『隼人』と言う男が、ここにいなくても二人の間に影として浮かび上がるだろう。
 それでも──今の『俺』は、そのまま彼女に触れてみたい。

 達也の中で、そんな『葛藤』が頂点に達し、気持ちのままに傾こうとしていた時。

「──私、幸せ」
「は?」
「……達也と愛し合えたことも、出会えたすべてによ」

 そして──幸せそうに微笑んでいる。
 ……急に、力が抜けた。
 彼女の肩先に乗せていた達也の手が、滑り落ちていく。

 でも、達也も顔を上げて微笑む事が出来た。
 『幸せ』と、彼女が言っているのだ。
 俺との全てに、彼女は『幸せだ』と……。

「うん……幸せそうだ」
「うん、幸せよ」
「綺麗だ」
「……」
「すごく、綺麗だ」
「達也、有り難う」

 率直に言ったのだが、急に真顔で呟いてしまったから、葉月が一時呆然としていたが、すぐに笑顔を見せてくれた。

「達也にそう言ってもらえて、私も嬉しい。今夜はね……達也に絶対にそう言ってもらおうって、頑張ったの、私」
「俺の為に?」
「そうよ。いつまでも『色気がない』なんて──今夜は言わせないんだからって。頑張ったの……」

 そんなことまで、素直に言える葉月にも達也には驚きで、もう、いったいどうやってこの彼女に対すればいいのか……頭がおかしくなりそうだった。

「俺も嬉しいぜ。こんなお前を拝める日が……本当に、くる……なんて」
「……たつ、や?」

 目の前にいる彼女の、紅の唇が滲んでいた。
 どうやら、達也はふと感極まってしまったらしい?

「ああ、えっと。俺も腹減ったな。取ってくるな……」
「……うん」

 その場を誤魔化すかのように、達也は目頭を押さえ、螺旋階段に向かう。
 肩越しに振り返ると、そこには……泣きそうな顔をしている葉月がいた。
 彼女もそんな顔をしていると、今気が付いたのか、急にフッと笑顔を見せようとしている。
 彼女なりの精一杯の返事が、そんな形でしか応えられない事への寂しさのようにも見えた。

 だが──本当は『それで充分、最高の返事』だった。
 身体を重ねるより、口づけを交わし合うよりも──。
 昔、何度もそんな事を繰り返しても、結局、最後に欲していたのは、こういう事だったのではないのか?
 『俺は確かに、お前の中にいたし、今もいる。お前を愛して、無駄な事はなかった……』──彼女の『幸せだ』と言う笑顔が、答だ。
 だから、今度は達也が微笑む。

「おい。これからも俺に、なんでも任せてくれてもいいんだぜ」
「……!」

 葉月が驚いた顔になり、笑顔を消した。

「気が済むまで……。俺の好きにさせてくれ。これからも」

 今度は達也も真顔で言い切っていた。

「うん」

 葉月はちょっと遠慮がちに、でも、俯き加減の微笑みで小さく応えてくれていた。

 それでいい。
 急に、達也の心も、ほんわりと暖かい満たされた気持ちになっていく。

 彼女が言う所の『幸せ』とは……こういう事をいうのだろうか?
 初めてだった。
 こんな『幸せ』な気持ちを、葉月から教えられるだなんて、与えてもらえるだなんて。

 今は、これでいい。
 この先──彼女以上の女性が現れるかもしれない。
 そして、おそらく彼女は二度と振り向いてくれない気もする。
 でも、やはり『栗毛の彼女』の為に、達也がやれるだけの事を……『続けたい』……そうしか思えなかった。

 彼女を愛して、良かった。
 苦しい事が多々あった恋だったが──今はその全てが、誇りに思えた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「……私よ。うん、今、鎌倉に着いたの」

 右京の知り合いが集まったパーティーは大盛況で終わった。
 楽しい演奏に、美味しい料理と程よいお酒、そして……お喋り。
 あの後、達也と一緒に懐かしい話を交えながらの楽しい食事をした。
 彼もとても楽しそうにしてくれてたのを見て、葉月もとても嬉しかった……。

 特に今夜のパーティーは、想い出深くなりそうだった。

 そして、達也と別れ、彼は宿泊先のホテルへ向かい、葉月は右京と一緒に鎌倉の叔父宅へとやって来た。

 電話の相手が『黙って……どうした?』と、聞いてくる。
 勿論──相手は隼人だ。

「今、二階のお部屋にいるんだけれどね……」

 鎌倉にお世話になる時に、いつも使わせてもらっている、右京の部屋の向かい部屋。
 従兄の部屋と同じように、庭側の窓を開けると、遠くに海が見えるのだ。
 漁り火や工業船の灯りが、小笠原と同じように煌めいていた。

「遠くに見える海が、綺麗よ。隼人さんと……眺めたいわ」

 すると電話の向こうで、笑い声が聞こえてきた。
 『海なんか、目の前に広がっている。それも毎日、当たり前のように……』と。
 それもそうだった……と、葉月も笑った。

「でも──ここの窓辺から見える海は、また違うの……。小さい頃から気に入っているのよ」

 だから……見せたい。
 そう呟くと、『そうか』と……落ち着いている柔らかい返事が返ってきた。

『俺も今、海を見ている──』

 そんな返事が返ってきて、葉月はハッとする。
 彼の部屋からは、海など見えない。
 ……と、言う事は……? その返答を彼がしてくれる。

『……勝手にあがっている。懐かしい夜を俺も思い出していたよ』
「隼人さん……」

 官舎ではなく、丘のマンションに既に来ているらしい……。

 二人で一緒に砕いてしまった時間と世界。
 それに触れる事を怖れていた……お互いに。
 元通りにならない事を目の当たりにして、もっとお互いに傷つける事を怖れて……。

 でも、徐々に小さな事にも自然に触れられるようになってきた様な気がしてきた。

「……明日、帰るからね。そのまま、待っていてね」

 一時……沈黙があって、葉月はドキリとする。
 今の葉月は、そんなふうにちょっとの事でも敏感に彼を想う。

『そんなに素直に言われると、電話でも驚くな』

 驚きの間であった事に、葉月の心はほっと緩む。

「そんなに私らしくない?」
『ああ。……らしくないね。そもそも、お前が電話をかけてくる事も……らしくないじゃないか』
「もう、いいわよ。二度と、言わない! かけないから!」
『それでも……同じだよ』
「……」

 そんな事、いちいち言わなくても『お前の事は分かっているよ』と、言ってくれているのだと判り……今度は、葉月が照れてしまっていた。

『待っているよ。おやすみ』
「おやすみなさい……」

 彼が電話を切るまで、葉月は携帯電話を耳にずっと当てていた。
 向こうも待っていたみたいだが、その間にしびれを切らしたのか、あちらから切った。
 それから、葉月も切る……。

 窓辺に腰をかける。
 そうして、ヴァイオリンを構えた。
 遠くに見える海──。
 鎌倉の夜空に響き渡る音色。

 今夜も『アヴェマリア』──。

 幼い頃、この窓辺で弾いていた想い出。
 少女の頃、この窓辺で……ヴァイオリンを投げ捨てようとして、出来なかった想い出。
 そして……今夜、愛する人達を思いながら、祈るように弾く音色。

 そうして弾いている内に、違う音が重なってきた。
 向かい部屋にいる右京だ。
 彼も窓辺でヴァイオリンを弾くのが好きだ。
 葉月のメロディーに、アレンジした伴奏を重ねてくれる。

 お兄ちゃまの音は、適わない。
 怒っている時の音も、泣きたい時の音も、そして……溢れる愛を表す音も。
 どれの心情も巧みな情緒感で表すのだ。
 葉月の恋する気持ちを知って、そんな葉月の音に彩りを添えてくれる。

 一通り演奏して、葉月はヴァイオリン片手に部屋を飛びだし、向かい部屋を訪ねた。

「お兄ちゃま……」
「お前の音、変わってきたな」
「そう?」
「ああ。……だから、つられちまったな」

 ウィスキータンブラーを片手に、窓辺のソファーで一息ついている右京。
 彼の傍らにヴァイオリン。

「今のお前は、幸せそうだ」

 柔らかく伏せられた従兄の眼差し。
 右京は、側にあるヴァイオリンを、まるで子猫を愛でるかのような手つきで撫でている。

「……生きていて、良かったと……思っているわ」

 葉月は静かに、そして神妙に呟く。
 きっと、この従兄が一番……葉月の苦悩に寄り添って、見守ってきた者になるのではないだろうか?
 そんな従兄には、一番に今の気持ちを伝えておきたい。
 『幸せ』なだけじゃない……。
 『幸せ』と言う言葉では片づけられない『それ以上』の大切な事を、ちゃんと感じる事が出来た事を……。
 それは愛してくれた男性以上に、『家族』に伝えておきたい──『生きていきたい』と言う望みを。

 死線を彷徨って、戻ってきてしまった『私』が、あれから死んだように生き、そして死にきれずに生に戻ってくる──そんなもどかしいまでの彷徨い。
 もし……『あの時、あの十歳のあの日に、死んでいたならば』……。
 葉月は、そこまで思い出し、頭の端に痛みを感じた。
 こめかみを指で押さえた時に、右京が呟く──。

「……大丈夫か? 深く考えるんじゃない。お前は、生き残った。そして、勝ち残るんだ。俺達は」
「お兄……ちゃま?」

 途端に、従兄の眼が燃えたように見えて、葉月は目をこすりたくなる。
 いつも麗しく、緩やかな感情の曲線しかみせないような眼差しは、とても安心感を得るのに……?
 なんだか、急に葉月の心を不安にさせた気がする。
 何かを遮られたような……そんな気もするが、そんな従兄の言葉からは、不安にさせられた眼差しとは違い、直ぐに安心も得ていた。

「ああ、つまらない事を。いや……俺は嬉しいんだよ。葉月」
「有り難う」

 そして、やっといつもの『世の中は、楽しくなくてはいけない』を信条にしている右京の顔に笑顔になっている。

「でも、葉月。何かあったら、直ぐにお兄ちゃんに言うんだ。わかったな……。俺だけは絶対にお前を見捨てない。守ってやる」
「……兄様?」

 やっぱりまた、違和感が──。
 右京がそういってくれるのは『いつもの事』なのに。
 でもやっぱり、妙に力が入っているようで。
 冗談交じりに『お前はオチビだから、しようがないな』と諦め加減にからかうような雰囲気ではなかった。

「疲れたな……寝よう」

 その窓辺のソファーに右京が横になる。
 いつもはきちんと着替えるマメな従兄なのに……パーティーで着ていた白いワイシャツのままで、しわくちゃになっていてもおかまいなしの様だ。

 そんな従兄の細長い身体の上を、白いレエスカーテンが揺れて覆い隠すので、葉月は夜も更けてきた事だし……と、窓に歩み寄った。

「オチビ、閉めなくていい」
「……でも」
「あー。頭の中で夜想曲……『ノクターン』が流れているが、もう弾く気力がないから、そのまま夜空を眺めていたい……」
「分かったわ……」

 従兄だけあって、葉月は右京のそんな『気質』に通ずる所がある。
 それとも? 自分がこの従兄を見て育ってきたから?
 灯りを消した部屋が好きだし、日だまりの芝生も大好きだ。
 その中で『メディテーション』をする事が、私達の『癒し』なのだろう。
 そんな時は、その時の気分の音楽が必ず、頭の中で鳴り響く。
 ──『今、ヴァイオリンがあったらいいのに』──葉月はそう思う事が多いが、心の奥にしまいがちだったので、人知れずの鼻歌で終わる。
 だが、右京はそんな時、所かまわずヴァイオリンを構えているようだ。

「ああ、お前が言っていた『本』。明日、帰るまでに見繕っておく」
「うん、楽しみ」

 それだけ言うと、従兄はやっぱりグッタリとしてしまい、動かなくなる。
 本当に寝てしまったのかと思うぐらい……。
 でも、眼が開いていて、カーテンの向こうに見えるだろう夜空を見ているようだ。

 そんな従兄が『寝る』と言いながらも、『私達が好む、瞑想の時間』がやって来たのだと葉月も理解し、そのままにして部屋を出た。

 次の日──葉月は、右京から何冊かの本を借りて、それらを鞄にしまい込む。
 鎌倉から横須賀へと右京に送ってもらい、葉月はまた『職務』への帰路につく……。

 

 小笠原行きの便は夕方に基地の滑走路に到着する。
 丘のマンションに戻り、赤い車を降りてから、自分の部屋を見上げる。
 すると……そこには、眼鏡をかけている隼人が笑顔で手を振ってくれていた。
 葉月も、手を振り返して、すぐさま部屋に向かう。
 『職務の地、小笠原』に帰ってきたけれど、まだ少しだけ『お楽しみ』が残っていた気分で向かった。

 

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