-- A to Z;ero -- * 熱帯模様 *

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10.おかえり

 丘のマンションに帰ってきて、葉月は三階にある自宅へと向かう。
 赤い車で帰ってきた葉月に気が付いたのか、テラスには彼の姿があった。
 そこで、手を振ってくれる笑顔……。

 それにつられて、葉月は急ぎ足で向かい、玄関を開けたのだが……。
 まぁ、そこまでは望んではいないが、隼人の姿はそこにはない。
 リビングに入ると、まだ、テラスにたたずんでいた。

 海を眺めているのかと思いながら、葉月は『ただいま』と、その背に声をかけた。

「おかえり」

 そんな、ただ返答しただけと言ったような、短い一言だけ。
 そして、隼人は背を向けたまま、夏の海を眺めているのだ。
 元々、そういう淡泊な男性だ。
 フランスで出会った時から、そうだったではないか。
 それがかえって、男性とは深入りしたくない葉月には『煩わしくない付き合い』で、続ける事が出来たのだ。
 女性が喜びそうな対応には無頓着で……。
 でも、隼人の『甘い』は……恋人にだけ、それも突然でいざという時で思わぬ時で、驚かされて、そして、最高の気持ちにさせてくれて格別だった……。

 だから、いちいち『甘い』事なんかいらない。
 本当に要る時、本当に欲している時に──いつだって隼人は葉月にそうしてくれていたから。

 背を向けた『おかえり』に、葉月は静かに微笑み返すだけ。
 葉月がそっと静かに微笑んだ事を……隼人の背が察してくれている気がした。

 そう、そんな『ふたり』でもあったのだと、葉月は思い改める。
 『なにもなかった』一年間でもなかったし、『全てをなくしてしまった』一年間でもなかったのだと。
 義兄と心を交わしてきた十何年には適わない一年間だったかもしれない。
 でも──『あった』のだ。
 その一年間にも、それに負けない多くの事が、葉月に中に息づき存在していたのだと。

 いま、一言──『ただいま』と『おかえり』。
 目も合わせない、笑顔の取り交わしがなくても、今ならもう……それだけで『繋がっている』と感じる事が出来た。
 どこにも不安が、ない。なくなっている。
 少なくとも、葉月自身は……。

 そう思えたから、葉月は背を向けたままの隼人を置いて、鞄を置きに部屋へと向かおうとした。

「今……」
「?」

 隼人が何かを呟いたので、葉月は立ち止まる。
 彼はまだ、背を向けていた。

「なに? 隼人さん」

 鞄をダイニングテーブルに置いて、葉月もテラスに向かった。
 三面ガラス張りのテラスルーム。
 正面の一番広い窓を上も足元の窓も全開にし、丘を昇ってくる浜風に黒髪をそよがせている隼人の背に歩み寄る。

「今、そこに……赤い車から降りてきた葉月が、笑いながら手を振ってくれたのを、何度も思い返していた」
「? それが……?」

 もう一歩踏み寄り、今度はそっと隼人の顔を覗き込む。
 彼も静かに微笑んでいた。
 じっと、マンション駐車場に停まっている赤い車を見下ろしている。

「……『ただいま』と、帰ってきたんだなと、やっと思えるようになった気がして」
「!?」
「俺が手放してしまったウサギが帰ってきて。そして、手放してしまった俺も『おかえり』と言う気にやっとなれたかな……と、考えていた」
「隼人……さん!」

 静かに赤い車に微笑みかけている彼の背に、葉月は抱きついていた。
 隼人が着ている紺色の半袖ティシャツを握りしめ、そこに頬を埋めた。

 隼人の『おかえり』は、ただ週末帰省から帰ってきた彼女を迎える一言でなかった事を知って、葉月は感極まる。

 昨年の晩秋──葉月は『逃避行』から帰ってきた。
 帰ってきたけれど、隼人とは『破局』に近かった。
 二人の男女としての間柄は、まだ燃え尽きてはいないのに、それを封印するかのように冷却させた。
 仕事だけの間柄の約十ヶ月。
 時々、以前のように二人だけの間で湧き起こる『甘い波』に引き寄せられ、寄り添う事もあったけれど、葉月はそんな自分を罰し踏み止まり、隼人は臆病になって引き下がっていたように思えた。
 そんなもうひとつの『一年間』。
 一緒に同棲していた一年間は、疾風のように早く過ぎ去り、そして辛い気持ちになった日でも最後には二人で幸せな瞬間を得てきた。
 次の一年間、今日までの十ヶ月弱の日々は……一日、一日がとても重苦しくなる反面、初めて『いつのまにか一緒にいた日々』の大切さを噛みしめる事になった。
 たった一年間の『恋人同士』。
 それでも、それがお互いの今までの人生の中で、どれほどに『輝いていた日々』であった事か……重々、噛みしめた十ヶ月。

 『やり直そう』と、隼人が決めてくれてまだ日が浅い。
 そんな中でも、やっぱりどこかぎくしゃくはしていた。
 でも……。

『ただいま』
『おかえり』

 二年前、この部屋に彼を迎え入れた時のように……。
 今度は『私』が、『この人との場所』に帰ってこられた、許されたのだろうかと──葉月は、隼人の背に小さな涙の滴を、そっと、こすりつける。
 すると──『葉月』と言う心地よい声が聞こえて、葉月は顔を上げる。
 肩越しに、眼鏡の奥で穏やかに目元を緩めている隼人がいた。
 彼が振り返り、そっと背にしがみついている葉月を胸の中に包み込んでくれる。

「昨夜、俺、たった一人で……思い出していた。やっぱり捨てがたい『幸せな日々』だったなと。捨てられない、忘れられない。思い返しても、やっぱり幸せな気持ちにさせられるんだ」
「……私も同じよ。……でも、『同じに思っている』と、信じてくれる?」
「……」

 隼人は笑顔のまま葉月を見つめてくれてはいるが、『即答』でなかった。
 でも、そのうちに彼の太い親指が葉月の目尻についている涙を拭い、そしてそっと顎を上に向けられた。

 言葉じゃなかった。
 葉月に与えられたのは、柔らかい深い口づけ……。
 そっと目をつむって、葉月は隼人が思うままに唇を預ける。
 ああ……『あの頃と一緒』と、葉月は身体の力を抜いた。
 彼にもう、戸惑いはない。
 彼にもう、疑心はない。
 そして、『私』も……!
 直ぐに、葉月はその口づけに応えるよう、強く彼の唇を塞いだ。

 唇は火がついたように、そこだけが熱くて……。
 そして、なんだか真っ赤に腫れてしまったのではないかと思うぐらいに、ふっくらとしている感触が強くて。
 いつまで経っても、心地よいその感触は、溜め息が出るくらいにリキュールが効いている生チョコを、赤ワインと一緒に口に含んだ時のようで……。
 なにもかも忘れて夢中になっていたのは、葉月の方だったらしい。
 気が付くと、隼人が息苦しそうな吐息をついて、葉月をちょっと強く離したぐらいだから。

「……なんだか。やられるなぁ? 思い通りにはさせてくれないと言うか」
「……そ、そんなに?」

 隼人が黒髪をかきあげ、呆れた顔をしている。
 葉月は、そんなに驚かれる程に大胆だったのかと、素で夢中になっていただけに、恥ずかしくなり俯いてしまう。
 すると、隼人は笑いながらリビングへと行ってしまった。
 そして、そのまま、『林側の部屋』へと向かっていく。

「隼人さん?」

 葉月の自宅にやって来ても、隼人にとっては『城』でもあっただろうその部屋を避けていたのは、葉月にも分かっていた。
 なのに、隼人がスッと入っていたので、驚いた葉月もリビングへと戻る。
 そして、そこからそっと、書斎である隼人の元部屋を覗いてみる。

 窓際にある重厚な木造の机には、電源が入ったままのノートパソコン。
 そして──以前そうであったように、そのパソコンの周りには、隼人が日々仕事で使っている書類バインダーや書籍が積まれていた。
 暫くは殺風景だった机に、活気が戻ったよう。

 その机にいる隼人が、一冊の書籍を手にしながら呟いた。

「……気分が良くなってね」
「気分?」
「ああ。ここにいる気分が良くなって。昨夜は随分とはかどったな……。本棚から面白い本も見つけたし」
「……えっと、あの?」
「やっぱり好きだな。俺はこの部屋が好きなんだと思ったよ」

 それは『戻ってくる』と言っているのだろうか? と、葉月は戸惑う。
 ……正直に言うと、葉月はまだ『同棲に戻りたい』とは思っていない。
 たとえ、恋仲が修復しても『まだ、自分自身』には、自信がない。
 隼人が傍にいる、いない以前の問題だ。
 そこは、一人で日常を暮らしてみるという問題では、葉月は未だに自分に納得していないのだ。
 ここで、隼人がまたやって来て『眠れているか?』とか『今夜、何が食べたいか? 俺が作るよ』とか……そういう彼らしい『きめ細かさ』には、絶対に甘えてしまうと言う確信の方が強い。
 そんなふうに戸惑っている所を、隼人が眼鏡の隙間からチラリと見ているのに気が付き、葉月はドキリと硬直した。

「……たまには、こっちも使わせてくれ」
「え、ええ。勿論よ。いつでも待っているわ」
「分かっている。俺も、同じだから、安心しろ。今までとまったく同じようにやり直そうというのは、やめようと思っている」
「……そうね」

 葉月もそれには賛同だった。
 だけれど、そう強く言えた自分に満足しつつも、何処かでは我が儘とも思える『寂しさ』を感じている自分も否定は出来なく、ふと俯いてしまったのだが。
 顔を上げた時には、隼人が怖いくらいの真顔で葉月を見ていた。
 葉月は、またもやドッキリと身構える。

「いいか、葉月」
「は、はい」

 以前のように、なんだか『兄貴ぶった偉そうな彼』がそこにいて、葉月は背筋を伸ばす。
 葉月が今までに多々、畏怖を抱いてきた『大人の男性に言い聞かせられる』顔をしていたから。
 そして、隼人はまるで葉月に挑むような確固たる顔で言い出した。

「俺は以前通りなんて望んでいない。これから出来る事を、やっていけばいいと思っている」
「!」
「決めたんだ。俺は……行く」
「行く? ど、何処に!?」
「俺が信じる方向に」

 この前まで、何かに囚われっぱなしで彷徨ってばかりのようだった彼の顔が、『いつかの顔』を思い起こさせ始める。
 そう──隼人は自分で信じて疑っていなかった『勇気ある前進』に対して、『不信感』を抱いていたように葉月には思えた。
 葉月がそうさせてしまったのは、言うまでもないが、でも、葉月はその言葉によってここに帰ってきたと思っている。
 その証拠に彼からもらった言葉を『肌身離さず』、首にリングとして提げている。
 だけど、おそらく隼人にとっては『身の程知らずの言葉だった』とでも言いたそうに、葉月が首にいつでも提げている事に直視してくれない瞬間あるのに気が付いていた。
 けれど……今、目の前にある『いつかの顔』をしている隼人は、『あの海猫の夕暮れ時』と同じ顔をしているように葉月には思え、血が騒ぎ始める。
 そんな葉月の心を熱くさせるような、彼が彼自身を信じている輝く目をしているのだ。

「──それは、リングにつけてくれた言葉のようなこと?」

 葉月の憶測だから怖々と聞いてみると、意外と嬉しそうに隼人が微笑んでくれる。

「そんな所かな。葉月が今、そうしているように、俺も『越えるべきは己』だとね。誰以上とか、誰のようになれないとか、誰のように考えられないとか、誰を越えられないとかじゃなくてさ。だから、俺は俺なりで、もう一度、決めていた道を信じてみようとね」
「そ、そう……なの?」
「そうだよ」

 隼人は笑っていたが『誰』と言う所には『義兄』と当てはまる事が分かり、やはりそれだけ隼人も独りで『義兄の影』と闘っていたのだと、今更ながら……葉月は申し訳ない気持ちを噛みしめる。
 だけど、隼人はそんな事はもうどうでも良いかのように続けた。

「そんな生き方を選んだ俺が葉月をどれだけ惚れさせられるか──新しい挑戦だな」
「……惚れさせるって」

 もう充分、惚れていると葉月は言いたいのだが、そう言う前に隼人が頭を左右に振っている。

「お前も分かっただろう? 『今、愛し合えている』と思えても、先に保証なんてないんだ。約束も……ないんだ」
「そうね。そうなのかも」
「俺が向かうべきもの、挑みたいものは……もう、過去じゃない」

 すると今度は、急に隼人特有の輝く眼差しが、葉月を貫く!
 忘れていない……彼が持っている、葉月がよく知っている強い目。
 彼の父親も良く見せる『澤村の男』が放つ、目の色が輝く。
 そして、その揺るがない隼人が強く言い切った。

「これからだ。そこにはちゃんと葉月が見える。だから、もう、振り返らない」

 隼人はそれだけ言うと、気が済んだかのようにして、机に座りこんだ。
 葉月は圧倒されたまま、一時、そこで呆然としているだけだった。

「ああ、俺。他にも決めた事があるんだけど。今、整理しているから、今度、相談に乗ってくれ」
「なに? 仕事の事?」
「ああ、そうだ」

 隼人は急に大佐室にいるかのような顔つきで、机にかじりついてしまった。
 葉月は『分かった』と、今度は大佐嬢の心構えで返事をしたのだが──。
 それっきり、隼人はいつもの触れないような集中力にはいってしまい、流石の葉月もそっとしてそこを下がった。

 帰ってきて待ってくれていたのは嬉しかったのだが。
 なんだか、昨夜からいたと言う隼人は机に集中したまま……。
 結局、葉月が簡単な夕食を作って呼ぶまで、そこから離れようとしなかった。

 なんだかすごい『気迫』──。
 義兄を意識しなくなったとは言え、隼人の『己を越える』と言う意気込みは、かなりの物だと葉月は思った。

 だけど、そのように『自分の目標』に向かっている隼人の背中。
 懐かしい部屋で黙って仕事をしている彼の姿を、葉月は何度も確かめに覗いてしまっていた。

 

 ところで? 隼人が決めた事──相談とはいったい?
 しっかりとした頼もしい彼の背に安心しながらも、葉月は首を傾げた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 入浴を済ませた葉月は、白いキャミソールとショーツだけの寝姿になり、自室のベッドに潜り込む。
 枕をクッション代わりに背に敷いて、座った脇にはちょっとした本の山。

 従兄から借りたいと頼んだ本は、『恋愛小説』だ。
 右京のセンスで選んでもらったが、葉月が知っている純文学の有名な洋書もあれば、国内の作家、中には女流作家の物まであって驚いた。
 『男性なのに? 女性対象の話を読んでいたの?』と、葉月は思わず、問いただしてしまった。
 すると、右京が言うには……。

『女を知る、一番の近道じゃないか。女がどうして欲しいのかが、よーく解るぞ。お役に立っているぜ』

 などと、いつもの調子の良いのらりくらりとしている従兄に、葉月もいつも通りの呆れ顔になるしかない。
 昨夜、あの従兄に妙な物を感じたのは『たまたま』だったのだとほっとする事ができ、安心して帰ってきたのだが……。
 でも、葉月は小笠原の自宅に帰ってきて、青色の自室でも、ふと思い返してしまっていた。
 まぁ、従兄だってたまにはそう言う事もあるだろう?
 葉月はそう思い、目の前にある『新しい世界』を見せてくれるだろう文庫本を手に取った。

 右京に聞かれた──『何故、今になって“恋愛小説”なのか?』と。
 『確かに』と葉月も自分で首を傾げる。
 そんな気持ちが起きたのは確かだが、明確な理由は思いつかない……。
 強いて言えば、隼人も達也も本を読んでいるから、自分も少しだけ──と言う簡単な理由かも知れない。
 なんと言っても先日、達也に『原稿』を書いてもらったと言う経緯もある。
 達也がアメリカ部隊秘書官だったにもかかわらず、母国語も怠ることがない文章力があった影には、あのようにして『常日頃』……つまり、自分のプライベートの娯楽にも『訓練』を取り入れていると言う習慣を目の当たりにしたのもある。
 葉月も、少しは文章に慣れようと思ったのもある。
 それなら……今の一番の興味を盛り込んだものを読みたいのは『こういう事かな?』と思いついたのだ。
 右京が言うには『とにかく、色々な方面からの思想に触れてみたらいい』と言うのが、先程のセレクションになったらしい。

 まずは、読みやすそうと思える一番薄い文庫本を開いてみる。
 右京が一番先に読んでみたらいいと言っていた『短編集』だ。
 これなら、一つの話を読むのに、何時間もかけなくて済む。
 ひとつ、ひとつを一話完結で読める手軽さはとっつきやすいと思いながら、葉月はページを追ってみる。

「えー?」

 二編程──読んだあたりで、葉月は眉をひそめる。

 葉月が予想していた物とは違う色を放つ内容。
 恋人がいる女性が、結婚した女性が──当たり前のように、パートナー以外の異性と随分と割り切った男女関係に関わる話ばかり。
 ここまでの印象では、女性の異性に対してだけでなく、社会全てに対する『ドライ』に生きている日常。

 こんなに冷めてしまうものなのだろうか?
 ある意味、そこは新しい衝撃で、従兄が何を言いたいのか……少し戸惑う。

 葉月はそこまで読んで、溜め息をこぼし、その本は閉じてしまった。

 次に開いたのは、先程の女流作家の短編集より、きついもの。
 今度は男性作家のもので、女性とはまったく違う視点。
 女性の気持ちは描かれているが、対する男性がその女性の気持ちに関わろうとしない『エゴイズム』ばかりが見える物語。
 それもすぐに閉じた。

 その次は、とても読み込まれたような古びた文庫本。
 日本語に訳された海外の物。
 昔の貴族社会を舞台にしたもののようだ。

(お兄ちゃまのお気に入りなのかしら?)

 そこである程度まで読み進めて行き、葉月は震えた。
 浮き名を流す男女達の赴くままの恋愛が描かれてはいるが、貞操という定義がないようなでも根底にはその定義の中で苦しむ姿や、人間の尊厳に心の葛藤に揺れる姿、何かを求め続ける話が描かれているようだ。
 その時代にあっただろう社会だけの話ではない、現代にも通ずるようなものも感じる事が出来た。
 だけど、葉月は……今までとは違う衝撃で、直ぐに閉じてしまった。
 まだ見たくない物を見てしまった気分で……。

 その本は暫くじっくり読み込んでいたようで、結構、時間が経っている。が、途中で放り投げてしまい、葉月は頭の先まで、すっぽりとシーツにくるまった。
 暫く、くるまって──葉月は手だけだし、ベッドの頭にある棚に置いている携帯電話を取った。
 そして、シーツの中で、電話をかける。

『お、オチビ。どうした? 本、気に入ったか?』
「お兄ちゃま! あんな話ばかり、読めないわよ!」
『面白くなかったか? お前、まだまだだな』
「なによ! もっと共感が出来るようなものを想像していたのに」
『共感? 出来なかったのか?』
「えっと……」

 震えるものがあったのは確かだが、『今は欲しくないもの』だった。
 だけど、右京にはその間に考えた事を、いち早く見抜かれてしまった。
 本当は『あった』のに、見ようとしなかった事に致し方ないと言ったような右京の溜め息が聞こえてきた。

『そうだな。今のお前には重すぎたか。でも、一冊、紛れ込ませてあっただろう?』
「? どれなの?」
『女流作家の短編が二冊あっただろう? カバーがないヤツ。あんまり可愛らしいカバーだったから、取り払ったんだよ』
「ああ。これね」

 色合いのない表紙なので、見落としていたらしい。
 サッと開いて、短編の各タイトルを眺めると、今の葉月が欲している感じとマッチしそうな予感。

「でも、これこそ。お兄ちゃまが持っているなんて変な感じよ?」
『だから、言っただろう? 女が何を求めているか知るのに早いってのが、それだよ』
「──なるほど」

 葉月が唸る。
 今の葉月が感じたい物、満たされたい物が潜んでいそうな予感があったぐらいだから。
 男の感覚では判らないものが、あるようだ。

『それさー。一時、付き合っていた、なかなかお堅くて手強かった女の子がさ。待ち合わせしていた時に、読んでいたんだよな〜』
「それで、買ったの?」
『ああ、帰り道に本屋へまっしぐら。一晩で読み込んだ。あのお堅い所が可愛くてさ!』
「……そこまで、する?」
『知りたいだろう? 目の前の好きになろうとしている女の子が欲している気持ち。長続きしない付き合いでも、俺と付き合っていた時間は幸せだったと思って欲しいからな〜』
「そういうの、何人もしたんでしょ?」
『そうだな? 本であったり、映画だったり、旅行だったり、絵画だったり、音楽だったり、ショッピングだったり、仕事だったり。その子達が夢中になっている“一番”に尽くしてきたぜ』
「なーにが尽くすよ!?」
『皆、その後は結婚したり、仕事が成功したり、幸せに暮らしているぜ。どの子も、それぞれ佳い女だったぜ〜。恨み言も言われたおぼえないし。今でも友達だったりな』
「もう、いいわよ」

 いったい、どういう『お付き合い』を繰り返してきたのだ? と、葉月は頬を引きつらせる。
 きっと、昨晩のパーティに来ていた『綺麗なお姉様』の幾人かは、その恋を楽しんだ女性だったに違いないと葉月は確信する。
 しかし、そう思いながら──先程、投げ出した数冊の本から、それらの女性が何人も出てきそうな気がして、葉月はつい食い入るように見下ろしていた。
 右京が見てきた様々な女性は、先程、葉月が初めて出会ったような感覚に陥った『女性』ばかりの様な気がして。
 そしてそれが『ごく当たり前に存在する』現実的なものなのか……と。

『まぁ、いいさ。いつかお前でも、そんなのが読みたくて仕方がなくなる時がくるかもしれないな。お前は俺の従妹だからな』
「……」
『お兄ちゃんのオススメはそれだけだ。あとは自分の好みは自分で探す事』
「……はぁい。わかりました」

 やっぱり適わないまま、納得させられた気がして、葉月は大人しく引き下がり電話を切った。

「なに? お前が読書?」
「!」

 シーツにくるまっている中、そんな隼人の声が聞こえて、葉月はびっくりして起きあがる。
 そこには、部屋着に着替えた上に、バスタオルを首に掛けている隼人がいた。
 すっかり黒髪が濡れていて、どうやら風呂上がりのようだ。

「な、なに? お風呂、使ったの?」
「ああ。いけなかったか?」
「いけなくないけど……」

 何食わぬ顔で、隼人がベッドサイドに腰をかけ、タオルで黒髪を拭き始める。
 そして隼人は何気なく、葉月の側に重ねてある『右京セレクション』の一冊を手にしたのだ。

「ふん? お兄さんらしい雰囲気だな」
「……みたいね」
「そうなんだ。俺はこういう物は、少ししか読んだ事はないけれどな」
「私は全然よ」
「だろうなぁ。お前が読書? 『仕事──食べる──寝る』しか、繰り返していなかったのにな」
「なんだか、その言い方。失礼じゃない!? それに雑誌は時々だけど見ていたじゃない」
「ああ、ファッション雑誌ね。あれも不思議だったな? 着飾る事に興味がないくせに、眺める事だけはしているんだから。に、しても珍しく本を手にしていると思えば、恋愛小説とはね」
「もう、放って置いてよ! なんなのよ? 久し振りに来てくれたと思ったら!」

 葉月は先程、そうしていたように、またシーツの中に頭もすっぽり隠してうずくまる。
 けれど『あら? なんだか前みたいにからかわられている? 言い合っている?』と、嫌味な兄様風情の隼人にムキになっている自分に驚いていた。

 すると隼人が笑いながら、シーツをめくって隣に入ってきた。
 それがあまりにも自然で、そして今まで通りの彼だったのが逆に葉月を驚かせる。
 そんなに抵抗無く、懐かしい姿で隣に来てくれたのに──なんだか、葉月は身体を強ばらせていた。

「お嬢さん、俺も隣で読書していいかな?」
「……」

 かくれんぼをして見つかってしまった子供みたいな扱い。
 葉月の方が、恥ずかしくなってきて、シーツから出て元の座る姿勢に戻る。

「どうぞ、お好きなように。追い返す理由もありませんから」
「ああ、良かった」

 にんまりと意味ありげな笑みを浮かべる眼鏡の隼人。
 葉月は呆れた溜め息だけついて、自分も読む気になった短編集を開いた。

「……」

 少しだけ読んで、隣でもページをめくる隼人の姿をそっと見る。
 さっきまでふざけていたのに、もう、いつもの『誰も触れないで欲しい』と言ったような集中している顔で読んでいる。
 その横顔……それも葉月がよく知っている横顔。
 前は、このページをめくる音、彼が使っているほのかなスタンドの灯り、そしてそのぼんやりと浮かぶ真剣な眼鏡の横顔が葉月に安心感を与え、それが隣にある事で眠っていた気がした。

 今夜、隣には、そんな日常にあった物が蘇っていた。
 違うのは、無言で活字に向かう二人が、肩を並べて座っている事。

 でも、おかしな人──ただ本を読みに来ただけだなんて。
 隣に薄着姿の恋人がいるのに……。
 熱愛を交わしてきた部屋、しかもベッドの上で、久し振りに寄り添っているのに……。
 でも、なんだろう?
 それだけで、こんなに満たされてしまう暖かさは。
 失ってみて初めて知るとは、こういう事なのだろうか? と、葉月は思わされる。

「面白いか? それ」
「うん。これなら、読めそうね」

 葉月は女の子の恋を読み進める。
 右京はこの本を読んでいた女性と恋をしたのだ? と、思いながら……。
 その時、従兄はどんな男性になろうとしたのかな? と、思いふけりながら……。 

 時々、ページをめくろうとすると、彼の腕に当たったりする。それも葉月ばかりが。
 その度に顔を見上げると、隼人と目があった。
 向こうはただそれだけで、葉月の方が意識してしまう。
 隣の戻ってきてくれた恋人を、こんなに意識しながら、でも無言で静かに寄り添うこの感覚はとても幸せに感じる事が出来た。

『葉月……? しようがないな。やっぱり無理だったか』

 彼の呆れた声が、微かに聞こえた。
 どうやら、慣れない読書はそうは続かずに、いつのまにかまどろんでいたよう。
 それとも、彼が隣に寄り添ってくれていた幸せに満たされたから、眠ってしまったのだろうか?

 横になった葉月に、シーツを優しくかける手。

 そんな事は知らない彼女は、もう『夢の中』──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ふわっとした心地よい涼風を感じて、ふと目が開いた。
 時間は五時半──。
 部屋は既に明るかった。

 葉月は唸りながら、おもむろに起きあがる。
 ベッドには一人。
 毎日そうであるように、一人だった。
 時計を見て、いつもと同じ時間に目覚めた事を知り、『仕事』と言う文字が頭に浮かんだ。

「帰ったのね……」

 ベッドを降りる時に、昨夜……隣にいた彼の事もちゃんと思い出す。
 夕食の時、林側の部屋でまた隼人だけの仕事に没頭していたようだから、葉月はそっとして『初めての読書』をする為に部屋にこもったのだが、その後、思いもしなかった隼人のミコノス部屋への訪問。
 すっかりベッドに居ついてしまっていたのに、やはり……隼人は泊まるという事までは、まだする気がなかったのだと。
 そんな事は、葉月も予想出来た事だから、そんなにがっかりはしなかった。
 むしろ昨夜、一時でも肩を寄り添わせた暖かいひとときを過ごせただけでも、気持ちが満たされている。
 ベッドの縁に腰をかけて一人──まだ柔らかい真夏の朝日の中で、葉月は隼人と触れていた片肩を、そっと撫でて微笑んでいた。

「さて」

 葉月は立ち上がるなり、表情を変える。
 月曜日──また『訓練』が始まる!
 今日からの訓練は、今までやって来た事とは訳が違う。
 優しい週末休暇は終わったのだ。
 すぐに『大佐嬢』としてのスイッチに切り替わる!

 ずっと前から、一人暮らしをしてきた葉月は、だいたいはこの時間に『勝手に目が覚める』習慣がある。
 目覚ましは仕掛けておくが、身体が覚えてしまっているかのように、鳴る前に目が覚める。
 これも軍人生活を長年やってきた性なのだろうか?
 だけど『そうでなかった時期』があった。
 やはり、隼人と一緒に暮らしてきた時だ。
 男性と毎日一緒に一年も暮らしたのは、初めてでもあった。
 それに隼人の気配りにすっかり甘えていた事になる。
 彼は、いつも葉月が寝付くのを確かめ、そして朝もゆっくりと寝かせてくれていた。
 『今までの分、ゆっくり眠れば良いよ。葉月が気持ちよさそうに眠っている姿は安心する』──そんな隼人の思いは、葉月への深い深い愛情のひとつ。
 葉月はそれを思い出して、時々、涙を浮かべた事も度々。
 あんなに大切に愛してくれていたのに、どれだけのことを彼にやってしまい、そして踏みつけた事か……と。
 あれから、やはり──時には眠れない夜もあったけれど、絶対に『薬』には頼らなかった。
 それも随分と前に、隼人に『なるべくなら、やめて欲しい』と言われたからだ。
 そんなにひどくはないけれど、葉月を良く見てくれている老医師が、あまりにも辛かったら我慢する事はないからと、軽い物を調合してくれていたのだ。
 今までは、本当に『それ』がないと、自分自身が崩れていくような不安に襲われたりしていたが、隼人と接するようになってからはそうでもなくなった。
 そして──彼が去っていった後も、葉月はちゃんと自分で自分を、律する事が出来るようになったのだ。
 それでも……未だに『悪夢』は、葉月の脳裏に渦巻くのだが、以前のような激しさは衰えていた。

 それに今朝は、気分もいい。
 既に頭の中は、『甲板』に飛んでいる。
 やらねばならない順序組みが、素早く並ぶ。

 ──と、思いながら部屋を出たのだが。
 葉月の目線は、林側の書斎に向いた。
 ドアが閉まっているが、葉月はふと、足を向けて開けてみた。

「!」

 開けて驚く──!
 なんとベッドには、隼人が眠っているではないか?

 葉月はいったん、ドアを閉める。
 そして、バカみたいにもう一度、開けてみた。

「……ああ、朝なんだ? 相変わらず、一人だと早いな」

 そこにも以前と変わらぬ事が起きていた!
 隼人と暮らし始めて暫くは、まだこの部屋に寝ていた隼人を、早起きした朝、確かめていた事も──。
 その時も隼人は今のように、ドアの音で目が覚め、同じような事を言って起きるのだ。

「泊まったの!?」
「あー、うん。お前が寝た後、またこっちで作業していたら。いつものように二時が回っていたもんで。帰りそびれた」
「──貴方も相変わらずね」

 そんな夜中まで、時間も判らなくなる程に『没頭』するのが隼人である。

「いっけね。俺、帰るわ。制服、向こうだから」
「大丈夫? あまり寝ていないでしょ?」
「帰って一眠りしてから、出勤する」
「……気をつけてよ」

 なにをそんなに根を詰めていたのかと、葉月は呆れてしまった。
 またいつかのように、なにもかもが重なって、疲れ切った澤村中佐にはなって欲しくないから。
 こんな生活にこれからなってしまうのかと、不安にもなる。

「一人でも、よく眠っていたな。安心した」
「うん……大丈夫よ」

 本当は隼人がいたからだ。
 一人でも、良くなったのは確かだし、数年前に比べて症状は軽くなった方だとは思うが、まだ葉月の中でも拭い去れない何かが渦巻く夜は健在だ。
 でも……一頃、『良くなった』のは、紛れもなく『隣にいる確かな存在』があったからだ。
 それが帰ってきたからとて、隼人が言うように『以前通り』にしてしまっては、『これから』の意味がない。
 一人で眠れるように、この十ヶ月やってこられたのだから、葉月は『大丈夫』ととりあえず言ってみたのだ。

「でもな。前にも言ったと思うけれど、俺がいつだって駆けつける気持ちがある事は、忘れるなよ」
「分かっているわ、有り難う」
「うん、顔色もすごくいいみたいだな」

 隼人が安心する笑顔が煌めいて、葉月の胸はドキリと脈打った。
 自分の穏やかな姿を確かめて、こんなに幸せそうに笑ってくれるのだ──と。
 初めて分かったように思え、そして、以前はそれに全く気が付かなくて、自分の事ばかりだった己を葉月は恥じた。

 そこでふっと、義兄の笑顔も浮かんでしまう。
 『お前が笑うと、幸せになる人間が沢山いるんだ』──あの言葉が、義兄の声で蘇る。
 どれだけ、自分が沢山の人に愛され、気にかけてもらっている事か。
 両親も家族も、恋人も同僚達も……皆。
 義兄が言っていたのは、お前は愛されているのだから、愛しているなら、ただ笑顔を返せばいいんだ……そう言う事だったのだと。
 愛され愛しているのなら、笑顔を返せばいい。
 そうすれば、お前の目の前にいる愛してくれた者は、それだけで幸せそうに笑ってくれるはず……。
 今、義兄も微笑んでくれている気になれる。
 そんな義兄の笑顔は、もう見られない物になったし、葉月の今の笑顔は大好きだったあの人に残せなかった物なのかもしれないけれど──。

「葉月? どうした……?」

 葉月は涙を浮かべて泣いていたようだ。
 そして、今の自分は、自分がたった今、熱い涙を流している事もちゃんと感じていた。

「なんだかね。最近、涙もろくなったみたいで」
「葉月……」

 ボクサーパンツ姿の隼人が、そっと歩み寄ってきて、そのティシャツの胸元に葉月を包み込んでくれた。
 彼は何も言わずに、ただ抱きしめ、栗毛を撫でてくれる……やっぱり変わらなくて、そして懐かしい手つき。
 だから、葉月はそこから顔を上げて、もう一度微笑みを浮かべる。

「大丈夫よ」

 今、目の前にいるこの人には、ちゃんと笑顔を残したい。
 そう思って葉月は、心より感じている幸福な気持ちを、そのまま笑顔にして、隼人に向けた。

 彼もまた、幸せそうに微笑み返してくれる。
 朝のくちづけは、軽く短いもの……。
 隼人はそれだけすると、満足そうにして、官舎へと帰っていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「おはようございます。大佐」
「おはよう」

 すっかり日が昇り、小笠原の暑い真夏の一日がまた始まろうとしていた。
 大佐室に出勤すると、既に隼人もデスクについていて、達也もいつものパリッとした姿で動き回っている。
 キッチンにはテッドと柏木が葉月や中佐二人に『朝の一杯』を出す為に詰めている姿も、今となっては日常の光景。
 そして、テリーが大佐室と本部室を行ったり来たりして、隼人の仕事をサポートしている。

 それぞれに、共に休暇を過ごした男性二人。
 一緒だった時の笑顔もなく、彼等もすっかり中佐としての『スイッチ』に切り替わっているようだ。
 確かに……隼人とも達也とも、今までを確かめ合うような休暇を過ごせたと、葉月も思っている。
 だからだろうか? 彼等の顔つきが、いつも以上に引き締まっていて、それでいてなんだか『いつにない空気』──張りつめたような気迫を葉月は感じた気がしたのだが? 気のせいだろうか?

 いつもの朝礼が終わり、葉月が大佐席に腰を落ち着けた時だった。
 葉月がふと感じていた『いつにない空気』。
 それが的中した。

「大佐──。お話があります」

 まず席を立って、改まったように大佐席正面に規律正しく立ったのは、澤村中佐だった。

「なにかしら?」

 昨夜言っていた『相談したい事』だろう……と、葉月は思う。
 すると、そんな隼人を見て、今度は達也が慌てたように立ち上がった。

「大佐、私も! お話があります」

 『え? 達也も?』と、葉月は眉をひそめる。

 葉月の目の前に、かしこまった中佐が二人並んでしまい、その異様な空気がずっしりと葉月にのしかかってきた。

「では、澤村中佐からね」
「はい」

 先に言い出してきた隼人から、葉月は促してみる。
 すると、隼人は一時……躊躇ったように俯いたが、次には決心を固めたように、迷いがない顔で大佐嬢に向かって来た。

「私の独断にはなりますが、考えあっての事とご了承して頂きたい」
「そう。なにかしら」
「──メンテナンスキャプテンを辞退させてください」
「!」
「大佐嬢と同じように現場を退きたいと思っています。勿論、その後の訓練指揮には協力致します。次のキャプテンとチームの運営移行についても、考えて参りました」

 そして隼人は、書類束を一冊……葉月に差し出した。
 これを……! 昨夜、必死に作っていたのかと、やっと葉月にも解った!
 だが、隼人が迷いなく自ら決めた事に、葉月は驚きを隠せない。

「辞退の理由としては幾つかありますが、一番の理由は……『システムプロジェクト』に専念したいからです」

 そんな隼人の顔には、それだけじゃないそれ以上の『目標』を見据え、それに立ち向かう決意を固めたのだという確固たる顔だった。
 葉月がただ驚いて、黙っていると、隼人のそんな新たなる決意に触発されたかのように、まだ尋ねてもいないのに、今度は達也が言い出した。

「大佐! 私も独断ではありますが、一つの計画を思いつきましたので、許可を頂きたい」
「な、なに?」

 こっちはなんだ? と、葉月は達也の顔を見上げて構えてしまう。

「総合管理班の管理下に、特別選抜した『秘書チーム』を結成したいと思っています。私に一任してくださいませんか?」
「秘書チーム!?」
「はい。ここは『秘書室』などは設置は出来ませんが、各班から選りすぐり、いざという時、大佐の為にマルチにサポートができる『特別チーム』を作りたく思います」

 そうして達也も、一つの書類束を葉月に差し出した。

「許可いただければ、研修を始めたいと思います。叶うならば、一番最初の仕事は『彗星システムズ』がこちらを訪問する際の、一切の接待を引き受けさせてもらいたい」

 二人の男性が中佐が言い出した事は、かなりの意気込みと決意があっての事のようだ。
 葉月はただ、唖然としているだけ。

 だけど……今、目の前の二人からは。
 キラキラとした疾風がザッと流れてきたよう……。

 それぞれに新たな道を、自分達で開こうと向かい始めた男性がそこに並んでいた。

 今は真夏──。
 徐々に熱し始めた彼等の心は燃え始める寸前のように、葉月の目の前は熱かった。
 何かが新たに始まろうとしている。

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