-- A to Z;ero -- * きらめく晩夏 *

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8.溶けゆく氷

「大佐嬢、よろしく」
「よろしく、ミラー中佐」

 やっと『組める』ことになったいうのに、似たような冷めた声で交わし合う挨拶──。
 でも、二人は分かっている。
 この声になる時は、それは『コックピット』という一番自分が試される場にいる時の声なのだ。

 そこではいくらでも『ストイック』になれねば、直ぐに崩壊してしまう場所で、自分達が最も『シビア』に研ぎ澄まされる空間──そして、パイロットにとって『誇れる場所』。
 ただし……葉月はそのコックピットを想定することしか出来なくなった甲板に位置しているが、気持ちは同じだ。

「では、早速──」
「グッラック。キャプテン」
「ラジャー、ミス大佐」

 何故か、葉月は指示を出さなかったし……。
 そして、ミラーも指示を仰がなかった……。

 だが、葉月には分かる。

 葉月の頭の中に、ミラーが鋭い角度で降下していく光景が脳裏に浮かんだ。
 輝く青空の下に広がる雲の絨毯に飛び込み、そして切り裂くようにして姿をくらます……。
 それに驚き、この時になって初めて──リュウやマイケル達はレーダーを確認するだろう。
 それでは、遅い……!
 彼はもう──『下に降り貴方達の前に行ったと見せかけて、後ろにいる』

「こら! マイケル……! 下を見たな!」
「!?」 

 ミラーの操縦を想像で描いていた途端に、隣で指揮しているデイブの声。
 葉月はハッと甲板の世界に引き戻された。

「大佐、ビーストーム4が墜ちました」
「……! そ、そう」

 クリストファーの報告に、葉月はヒヤリとした感触を覚える……。

「敵を見たら後ろも気を付けろと、あれほど言っただろう!! 下じゃない、後ろだ! 視覚に惑わされるな!!」

 今度は空に吠えているデイブの声。
 彼が叫んでいる事はごもっともだ。
 葉月も同じ事を……思っていたから。

『一機、撃墜──準備運動だな』

 ミラーの余裕の声が返ってきた。
 葉月は、恐る恐る尋ねてみる──。

「……中佐。今、降下したわよね?」
『? ああ、したが? それが……』
「いいえ。引き続き、慎重にお願いします」
「ラジャー」

 今度、ミラーが何処へ行ったかは……葉月にはもう、予想は出来なかった。
 ただ、クリストファーと一緒に見下ろしているレーダーに点滅している一点が、ぐんぐんと空母艦に接近している。
 ミラーが先頭を突っ走っているのだ。
 そして後方にも、もう一機……ゆっくりとしつつも、ある点と重なろうとしている。

「後方に残されていたビーストーム6が、ウォーカー中佐のダッシュパンサーにロックオン。……撃墜されました」
「そう。四機いる所を、一機撃墜されて三機になった……。そこで一機、二機と先頭へ誘い分裂させる。後方に残された一機は、後方に控えていたダッシュパンサーと一騎打ち、当然、元エース級の中佐にやられたって訳ね」
「私が言うのもなんですが……。皆さん、相変わらずですね!」
「本当ね〜……」

 クリストファーが、いつもの有様を誤魔化す為に明るく笑い飛ばす。
 葉月も頬を引きつらせて苦笑いを浮かべた……。
 ミラー側に来たわけだが、それでも未だにやられっぱなしの昨日までの『仲間』の有様に、葉月は唸ってしまう。

「こらーー! 同じ事を繰り返すなって何度もいっただろうがーーーっ!」

 隣で梶川と組んでいるデイブの吠える声。
 葉月も頷いてしまう……。
 デイブの怒りに拍車がかかって当然の所だと。

「ビーストーム1が、母艦上空に接近。……今、来ました。母艦、ロックオン──。爆撃成功……ですね」
「ふう……いつもと変わらないわね」

 未だにミラーが先頭に立つと、あっと言う間に勝利をさらっていく。
 デイブは隣で一機、一機を叱りとばしている。
 今までの細川のようだ。
 そして、葉月は……ミラーの充分すぎる実力のお陰で、指示無しで立っているだけだ。
 これもこれまでミラーと組んできた細川の静かな様子と同じだった。

(勿体ないわ……)

 ミラーの実力が充分すぎるため、ミラーには劉達にただ追いかけられる役を数ヶ月も黙ってやってもらっていた事が、ここに立って初めて解る。

 葉月はふと……思いを巡らせた。
 揺らめく蜃気楼に目をすがめながら、側にいる金髪の後輩に呟く。

「クリストファー。空にいる全機を暫く、待機させておいて」
「ラジャー」

 クリストファーがインカムを頭に付けて、葉月代理の指示を全機に交信している間、葉月はそこを離れて、デイブの所へ向かった。

「中佐……相談が」
「なんだ」
「実は……」
「なに!?」

 デイブは一時、仰天したのだが……。

「ったく。お前らしさが出てきたじゃねーかよっ。面白いな、それ……こっちはなんだか馬鹿にされている気がするが、でも、あいつらには『納得出来きない内容』をやらされるのは、良い薬だろう」
「有り難うございます。では、私もキャプテンに報告します」

 葉月が持ちかけた事で、話がまとまった時だった。

「いいかな、少しばかり見させてあげてくれないかな?」
「マクティアン大佐」

 安全対策のヘルメットをかぶった大佐が、隼人と一緒に、彗星システムズの一行を連れてきた。

「黙ってみているし、説明は私と澤村君がするから。お嬢とコリンズ君は気にせずに、訓練を続けておくれ」

 工学老先生と隼人の後ろに、同じようにヘルメットをかぶった常盤課長達が、既に興味の目を梶川の手元にある機材へと光らせていた。

「どうぞ、どうぞ! 私達よりこっちの少佐の方がはるかに詳しいですよ」
「よろしかったら、私の側にいるダグラスの方へもどうぞ」

 デイブとそろって、快諾の笑顔を向けた。
 隼人と老先生も、にこやかな笑顔を浮かべて、常盤達を機材へと案内していたのだが、目の前に来た常盤が、葉月とデイブにお辞儀をしていた。

「おはよう、大佐嬢。今の迫力ある戦闘機の接近に、もう、胸がドキドキですよ。本日はお邪魔しますが、お許し下さいね」
「いいえ、常盤さん。この為に来ていたのですから、存分に見ていって下さいね」
「そちらは?」
「コリンズ中佐です。私が所属していたフライトチームのキャプテンです。今は一緒に甲板指揮を修行中です」
「よろしく。コリンズです」
「日本語、お上手ですねー」

 常盤の『お邪魔します』のご挨拶に、葉月達は笑顔で答える。
 彼は周りにある機材に戦闘機を見渡して、少年のように嬉しそうにしているのが葉月にも判る。
 それは常盤だけじゃなく、彼が連れてきた男性社員達も同じようだった。
 『ああ、隼人さんと同じ──機械小僧なんだわ』と、葉月は密かに微笑んでしまった。
 そんな時、メンテ服を着ている隼人が、葉月の側に寄ってきた。

「驚いた。今日から?」
「そうなの。細川監督が、やってみないかと」
「良かったな。俺、早く二人がそうなったらいいなーっ! と、思っていたから……。頑張れよ」
「有り難う、中佐」

 近頃は、一緒に夜のお酒を楽しむ仲になっている二人を見守っている隼人も、そこはとても嬉しそうにしてくれる。

「では、せっかくだから。二手に分かれようか? 澤村君はお嬢の機材で説明してくれるかな?」
「はい、大佐」

 マクティアンが彗星の社員を数名連れて、梶川少佐が操っている通信機材へと連れていく。
 隼人には、親睦が深くなったせいか常盤とそのアシスタントの彼女──そして、一人の男性社員がついて、御園側にやって来た。

「ダグラス、お邪魔するよ」
「いえ、中佐。えっと、なんだか俺の方が緊張するっス」

 隼人がいつも通りで良いよと笑い飛ばす。
 クリストファーも照れつつも、そこは彼も徐々に『甲板システムのプロ』の気構えが出来てきたのか、すぐに画面に集中した。

 そこで葉月はインカムヘッドホンを付け直し、一呼吸……。

「ビーストーム1」
『イェッサー』

 葉月はミラーを呼ぶ。
 機械の声のような彼の返答が聞こえる。

「今から、6:1をやるわ」
『なんだって?』
「敵は六機。味方は私だけになるわ……どう?」
「……」

 今まで大抵は多くても四機、さらにミラーには必ず一機はパートナーがついて、二機で対応、ミラーがリードし、数々の勝利を収めてきた。
 しかし──彼が撃墜されたのは、先日のフランシス大尉の一回のみ。
 やはり、彼もなかなか手強い精密パイロット故に、その後もそう簡単には勝利を譲ってくれない。
 もう、こういった変わり映えのない訓練は、いったん終わりにせねばならない。
 ミラーもそろそろ、腕がなまってくる頃だろう……。
 そこで、一度──ミラーが必死になってしまう訓練をしてみようと、デイブに持ちかけた。
 そうなると、どうしても敵方の機体数を増やす事になるので、こうなった。

 ミラーは黙っているが。

『OK。俺を訓練してくれるって訳か』
「私も試されるわ」
『いいだろう。望む所だ』
「そう、では──早速」

『行くわよ!』
『ラジャー。ミス大佐』

 二人は気持ちを揃えた。

「遠慮なく行くぜ。数で倒すようで申し訳ないが、これも一つの訓練だ」

 デイブの確認の声が飛んできた。

「いいわ。こっちはOKよ」
「よっしゃ、こっちも六機揃えたから開始する」
「オーライ。ビーストーム1、開始よ」

 甲板が静かになった……。
 葉月のヘッドホンからも雑音だけしか聞こえなくなる。

「大佐──あの、この訓練って……」

 またいつもの無茶が始まった事を目の前で見ていた隼人が、とても驚いた顔をしている……。
 だが、葉月はいつもの平静顔で隼人を見つめ返した。

「なに? 澤村中佐」
「いえ、なにも……お邪魔しました」

 葉月の意識が既に空に行ってしまっている事を解ってくれたのか、サッと退いてくれた。

『えっと……澤村君? 大佐嬢、どうかしたのかな?』
『いえ、何でもありません。あの、こちらがレーダーで、空に飛んでいるホーネットの位置を示しています。今、大佐が指揮している一号機で……こちらのノートパソコンでは……訓練の・・・』

 隼人が彗星システムズの常盤達に、機材の説明をしている声も……遠い囁きに聞こえてきた。

 葉月の体の中に気流が生まれていた。
 ミラーの『クセ』だろうか? それとも……勝手に想像している葉月の『クセ』なのか?
 降下した……。
 旋回する……。
 コックピットの端に小さな影が見えて、眼を動かす……。

(六機──。中にフランシス大尉がいるわ!)

 彼に捕らえられる……。
 葉月も何度か空で体験した──フランシスの目立たないが払いにくい追跡!
 ……そんな想像を描きながら、動きが報告されるまで、ジッと静かに待つだけ。
 指揮官の、待つだけのもどかしい短くて長い時間。
 その静けさを、側にいるクリストファーの声が引き裂く……!

「大佐! ビーストーム1! ロックオン……!」
「!」
「──げ、撃墜……されました」

 クリストファーの愕然としたような驚きの声。
 葉月はハッとした。
 またなんだか!? 頭の中の画像と、動きが一致したような感触が……!?
 いや、それどころではない! 画面を見下ろすと、ミラーの枠が青く点滅している。
 他の六機は無事だ。
 彼だけが撃ち落とされたという画面が、初めて表示されている!
 開始してから、あっという間だった……!

「やや? あっと言う間だったね? 流石に六機が相手はきついのではないかな……」

 機材の動きを見学している常盤が、ふっと呟いた。
 葉月もふと彼を見てしまった。

「いえ……。も、申し訳ない。一般人の一見から出ただけの、些細な意見です」
「いいえ、構いません」

 表情のない顔と声になってしまっていた……。そんな葉月を見て、常盤が黙り込んでしまったので、葉月はハッとしたのだが……。

『課長、実はこの一号機は今まで一度きりしか撃墜されていない非常に優秀なパイロットで……』
『へぇ! じゃぁ……今のが二回目?』
『そうですね。今までは皆が彼を追いかけて捕らえる形の訓練で誰も勝てなかったのですが。今日からは少し、趣向を変えた訓練をしているようで』
『ふうん? あっちのコリンズ中佐が他の九機の指揮?』
『そうですね。こちらは大佐嬢とキャプテンのみで向かっているようですね』

 つい──集中すると、周りの事などお構いなしの『無感情』になってしまう。そんな自分に気が付いて『しまったなあ?』と上手に切り替えが出来ない駄目な自分に反省……。
 でも、隼人が常盤の相手をしっかりしてくれているのを見て、葉月はホッとする。

『くそっ! やっぱりこうなるとビーストーム5がここぞとばかりにやってくる!』
「多勢に無勢過ぎたわ。何機か減らしても……」

 ミラーの悔しそうな声が返ってきて、葉月はふとそう呟いてしまっていた。
 葉月も本当のところは、かなりの予想外──。ミラーがこんなにあっという間にやられてしまうなんて、やっぱり6:1の構成は無茶すぎるとも思えなくもなく……。
 だが、そんな風に弱気に呟いた葉月の耳元に、ミラーの息巻いた声が返ってきた。

『おい。また、俺を怒らせたいのか?』
「ああ……良かったわ。きっと、そう臨んでくれると信じていました。貴方なら『苦境にいてこそ、真の最前線』と言ってくれそうだもの」
『当たり前だ! だが……君もなんていうか。俺と組んだのなら、撃墜ばかりされる指揮をしなくて良くなり、心も軽くなるだろうと思っていたら。俺に付いたら付いたで、また撃墜される環境を自ら作って痛い思いをしてしまうのだな?』
「……私は、ただ、貴方があまりにも簡単に飛んでいるのが『勿体ない』と思っただけです。それに、何回か流したら、元の訓練に戻します。彼等にも今までの乗り越えていない課題があるわけですから。ただ、貴方にもこういう形式は必要だと思っただけです」

 心にある事を素直に、一生懸命に伝えている自分がいて、葉月は言葉多い自分にハッとさせられた。
 それと同時に、向こうからは可笑しそうな笑い声が聞こえてきた。

『サンキュー』
「え?」

 彼の……コックピットにいるとは思えない、優しい声が返ってきた。
 彼なら、そんな声は葉月と二人で顔を合わせて話している時しかしないと思っていたのに。

『……俺も、目が覚めた』
「はい?」
『今──すごく、悔しい』
「中佐?」
『部下、後輩に撃墜される事すら、久し振りだが、この前の一撃は返って清々しいくらいだった。だが、今日のは悔しい……! 訓練中にこんな気持ちにさせられたのも、久し振りだ……!』

 いつになく荒ぶるミラーの声に、葉月の方が驚いて声が出なくなってしまった。

『俺は、いつのまにか……人に撃墜される悔しさも忘れ、そして危機感をも薄れさせてしまっていたんだな』
「……あちらでも、誰にも撃墜されないような訓練を?」
『そうだな。こんな俺だ。誰も俺の為を思うような訓練などは……気が付いてくれなかったな。必要ないと思われていただろうし、俺も──飛んでいるだけだったからな。周りの後輩が相手にしてくれなくても当然の態度に成り上がっていたんだろうさ』
「中佐──」
『今、最近味わった事のない苦境に囲まれて──。久し振りに落とされ、その口惜しさから来る次なる成功へのエネルギーというのだろうか? 俺は……蘇ったかもしれない。そんな気分だ』

 ミラーのとても穏やかな声が届いて、葉月はちょっぴり泣きたいような切ない気持ちにさせられた。
 どこか──なんだか、彼の言っている事が、葉月の胸をも熱くさせたのだ。訳は分からない……。
 でも、それは『危険スレスレのライン上にいすぎて麻痺していく心』に喰われてしまった『飛行馬鹿の苦悩』を見た気がしたのだ。

『しかし──! 流石に味方無しの対六機は、きついな。こんな訓練させらたのは初めてだ。あっと言う間に八方を塞がれるように囲まれていた。降下するのがやっとだったぞ!』

 それでもミラーは、悔しいと言いつつも、その帰ってきた『苦境』を喜んでいるように、葉月には聞こえた。

『大佐、直ぐに同じ事を続けてくれ』
「解りましたわ。同じ指示を再度送ります」
『ラジャー。元位置に帰る……!』

 意気込んだミラーの声がそこで消えた。
 彼の機体が元の位置に帰っていく点が、レーダー上に点滅していた。

「おい! 嬢ちゃん」

 隣で指揮をしていたデイブに呼ばれて、葉月は振り返る。

「奴ら、やっぱり怒っているぞ。六機で攻めたらミラーとて、落とされて当たり前だってよ! こんなつまらない役をやりたくないってさ」
「なにを言っていると言い返して下さい。ミラー中佐にも訓練が必要です。誰もミラー中佐に敵わないくせに、贅沢を言うなと……」
「おっ、言うな♪ 俺も同意見」
「その上に、六機で攻めておいて、それでもミラー中佐に返り討ちになった者にはお仕置きが待っていると言って下さい」
「言う、言う! あいつら必死になるぞ」

 デイブが面白がりながら、ヘッドホンマイクを掴んで、皆を脅すような指示で煽っている。
 それを見て、葉月も少しばかり笑ってしまっていた。

「大佐嬢! また、同じ事をするんだよね!?」
「常盤さん……」

 側で見ている常盤が、これまた少年のようにワクワクしている笑顔を葉月に見せてくれていた。

『少年のように奔放そうな人だよ』

 隼人がそう言っていたが、まったくその通りみたいだと──。
 それを見て、葉月も今度は微笑みかけていた。

「はい。私達を応援して下さいませ」
「うん、うん! もう既に大興奮!」

 隣にいた隼人も、肩の力が抜けたように笑い出していた。
 そして、常盤の部下である男性も……。
 隼人の同窓生である彼女は? と、葉月がその女性を見ると──彼女はメモを片手に、それに一生懸命に向かっていた。

「あの、澤村君──今なら、喋ってもいい?」
「あ、いいよ。青柳」

 緊迫した訓練の邪魔にならないよう、彼女が一番、緊張して気遣っている気がした。
 別に常盤のように、周りを気にしない陽気な気軽さで見学していても一向に構わないのだが、彼女は人一倍、固くなっている気が葉月には感じられたのだ。
 その彼女が、隼人に確認を取って、質問を始めた。

「この機材の仕組みを教えて」
「ああ、いいよ」

 隼人が簡単に説明を始めると、彼女がそれをメモに取っている。
 彼女のそんな姿を常盤が、にっこりと見守るように眺めている姿。
 そして、それをただ見ている男性社員。

 隼人の簡単な説明が終わった時だった。

「あの……大佐」
「……はい?」

 彼女のとても真剣な思い詰めたような目が、急に葉月を捕らえたのだ。
 葉月もちょっと驚いて固まった。

「まだ、お話をうかがって大丈夫ですか?」
「え、ええ……。まだ開始の号令は出していませんから」

 するとホッとしたような彼女が葉月に尋ねてきた。

「大佐は今──こうしてパイロットと交信をしながら訓練をされていますよね」
「はい、そうですね」
「今、このような機材を使われて通信をされていますが、こういう訓練上、いえ……実際に出動する本番が重要ですよね? その時に、通信上で一番『あったらいいな?』と思うものなどが、ありますか?」
「……えっと」

 突然の質問に、葉月は直ぐにはなんと答えて良いか解らなかった。

「こら、青柳。そういう話はここでなくても……。大佐は訓練中だ」
「す、すみません。つい」

 上司に制され、彼女はサッと葉月から退いてしまった。
 葉月も暫く考えたが……今は、思いつかなかった。

 だけれど、思った。
 とっても真っ直ぐで、真剣に取り組もうとしているのだと。
 だけれど、ちょっと力が入りすぎているように思えて、葉月はふっと確かめるように隼人に目線を流してしまった。
 そんな隼人と目が合う。
 隼人がそっと首を振った。

(気にするな──)

 そんな顔をしていたし、隼人が空を指さした。
 『こっちに集中しろ』──と、言っているのだ、きっと。
 葉月は頷いて、もう一度、空に向かう。

「嬢、こっちにウォーカー先輩を入れても良いか?」
「……中佐を?」
「先輩がやりたいって言うんだ。ミラーと組んでいたけど、一緒に飛んでいる時から彼との対決をやってみたいってさー……。どうする?」
「……」

 葉月はそれは、かなりの強敵になると流石に唸った。
 でも──である。
 この前までも、ウォーカーとミラーというタッグを相手にしていたのだ。
 それに、先程のミラーの蘇った意気込みを思い浮かべた。

『彼も、完全な飛行機野郎に違いないわ』

 そう思え、クスリと一人で笑いこぼす。
 飛行野郎ならば、さらなる強敵は『望むところ』に違いない。
 だから、葉月はミラーの許可を取らずにデイブに答えた。

「望むところと、ウォーカー中佐に伝えて下さい」
「オッケィ! なんだか面白くなってきたなーーっ!」

 デイブの方が武者震いを起こしているのだ。
 それを見て、葉月も笑っていた。
 そしてミラーにも報告をする。

「ビーストーム1。ダッシュパンサーも、貴方の敵になったわよ」
『望むところだ!』

 ちっとも怖じ気づかないミラーの張り切っている声。
 ほら……思った通り! 飛行機野郎なら、そう言うに決まっている!
 葉月はふっと空を見上げて微笑む。

 そして──葉月は自分の手を見つめた。
 操縦桿を握っていた右手を……。

 今日、久し振りに──空を飛んでいる感触を感じた気がした。
 うんと、生々しく感じた気がした。
 ミラーと組んだ途端に……。

 葉月の脳裏に細川の言葉が蘇る。

『あの男は、お前が飛べない分、お前の手先となって飛んでくれる男だ』

 しかし、そんな葉月の物思いを許す間を与えない訓練が再開される。
 ミラーを撃墜する容赦ない訓練は、この日延々と繰り返されたのだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 訓練後、この日は暑かったのでシャワーを浴びてから制服に着替えた。 
 その為、細川と佐藤とは一緒にランチを取る事が出来なかった。
 パイロット達もまだ帰ってきていない。
 メンテはもっと後に帰ってくる。
 中途半端に一人になった葉月は、そのまま大佐室へと戻った。

 帰ると大佐室には誰もいなかった。
 達也もランチに出て行ったようだ。
 その代わりに、葉月が大佐室に入った途端に、テッドが入ってきた。

「いつもより早いですね? ランチは? 取らずに帰ってこられたのですか?」

 葉月が帰ってくれば、一番にテッドが側に来てくれる。
 今、葉月を一番に『お世話』してくれる補佐だった。
 そして、葉月も自分で選んだ分だけ、やっぱり彼を信頼して頼っていた。

「うん。今日は暑かったわ。シャワーを浴びる事にしたら、中将達とは時間がずれるから」
「何か、買ってきましょうか? お気に入りのサンドウィッチ。今日の日替わりは、エビマヨネーズとマスタードポテトでしたよ」
「美味しそう!」
「では、行ってきますね。休んでいて下さい」
「いいえ……待ってちょうだい。その前に、テッドにお願いがあるわ」
「──? 何でしょうか?」

 葉月はテッドにあるお願いをする。
 すると彼は『案の定』──少しだけ驚いた顔をして、でも、そのまま頷いて外に出て行った。
 暫くして、大佐席の電話が内線音で鳴った。
 待ちかまえていた葉月は、それを手に取る。
 勿論、相手はテッドだ。

『シアトルに連絡いたしました。あちらはもう既に終業しておりますが、いらっしゃるそうですよ。如何致しますか?』
「大佐がよろしいのなら……是非と」
『解りました。もう一度、あちらとお話ししますから、暫くお待ち下さいね』

 そうしてテッドからの内線が切れた。

 ジッと革椅子の背もたれに寄りかかり、葉月は目をつむる。
 過ぎ去りし日の……金髪の飛行教官。
 あの頃、『私』はとても子供だったし、そして彼は立派な大人だった。
 好意は抱いていた。
 だけれど、それだけ……。
 でも……忘れられない異性であるのは確かだ。
 何処かで教官という関係以外の『異性』と言う部分を、まったく感じていなかったと言ったら嘘になる。
 そういう微妙で曖昧な──そして自分自身で明確に出来ない不確かな気持ちがある。

 だから……再会するのが怖かったのかもしれない。
 見えない気持ちが、自分で見えるようになるようで……それに向き合うのが怖かったのかもしれない。
 ミラーや隼人に『逃げている』と言われていたのは、本当だったのだろう?

 ただ……ゆっくりと思い返し、辿ってみれば……。
 あの人の『人を真っ直ぐに心配してくれる誠実さ』が、怖かった。
 男は酷いイキモノのはずなのに、それを信じる事が怖かった。
 その教官としての誠実さが本物であればとても嬉しいのに、でも、そういう物が『存在するわけがない、男など……男など!』という観念の方が勝っていたのだ。

(私、最低……)

 葉月は机に突っ伏し、両腕の中に顔をうずめた。

 彼に連絡をする時になって、やっと『己が見えてくる』。
 トーマスとの再会に怖れていたのは、そういう自分が『貴方の真心を、最初から疑ってかかっていた最低の人間』と判ったからだ。
 あの頃の自分も、そして今までの自分も──どれだけ人の好意に心を踏みにじってきたのだろうか? と。

『罪があるとかいう葉月も俺には葉月だ──愛しているよ』
『忘れないで欲しい。失敗しても君を信じてくれる人、そして待って迎え入れてくれる人が、必ずいる事を』

 二人の男性の声が聞こえてきた。
 そうだ……。こんな自分が嫌だからとて、またもや消えたい気持ちになる事なんてないのだ。
 そうだ……。『私』は、今までの数々の誤りを償う為に、戻ってきたのではないのか?

──ルルルル!──

 内線電話の音が鳴る。
 葉月は意を決して、受話器を手にした。

『トーマス大佐と繋がりました。切り替えます』
「ご苦労様、テッド」
『……あの、大佐』
「? どうかしたの? テッド」

 国際外線に切り替えてくれないテッドの躊躇っている様子に、葉月は首を傾げたのだが……。

『……グッラック、大佐』
「!」

 葉月はドキッとした。
 しかし──『当然か』とも思った。
 テッドには随分と色々な事を匂わせてきたし、彼も知らぬふりで察してくれていたのが分かっていたから……。
 何故、恩師とのコンタクトに躊躇っているのか。最初は『どうしてか』とだいぶ問いつめられていたが、それも暫くしたら、彼は一切、触れてこなくなったぐらいだから。

「……Hello?」
「!」

 今度は、そんな遠い声に葉月はふっと身体を硬直させた。

「ハヅキ? ハヅキだろう?」
「教官」
「ああ、やっと喋った! 目に浮かぶなぁ。お前は、そうして俺を怖がっているに違いない」
「!」
「大人になったお前なら、噛み付いてくるかと思ったけれど。そうして黙っている所は、変わらない」

 懐かしい余裕ある笑い声が聞こえていた。

「教官、私……あの時の自分がとっても嫌いです」
「ハヅキ?」
「あの時、教官の気持ちを分かろうとしなかった私を許して下さい」
「……」

 本当なら『ご無沙汰しております』とか『懐かしい』とか『お元気ですか?』と──まずは社交辞令のひとつでも言わねばならぬ所を。
 葉月は今にも泣きそうな声を震わせていた。
 自分でも止まらない──! と、葉月はおののく程、自分がまったくあの頃の『少女』に引き戻されている感覚に陥ってしまっていた。
 それ程に、あまりにも情けない声の再会になっているではないか!?

 だけれど、暫し沈黙を落としていた恩師の声は、次には笑い出していた。

「気付けばOK。気付かなければ、今回──『お仕置き』するつもりだったがね」
「そうなのですか?」
「あはは! 冗談だ。でも気付けばOKは嘘じゃない。でも……俺には大切な生徒の一人だった。だから元より『そんなミゾノでも全然OK』だったんだよ。それは間違いない。だから、何も気にしなくて良いのだよ」

 『変わらない』──葉月はそう思えて、肩の力が抜けてきた。
 彼は陽気な人だった。
 だけど、厳しく、シビアな人でもあった。
 そのバランスがとても素晴らしい教官で、若さも手伝って、年の差があまりない男子訓練生にも大変慕われていた。
 あの頃と、喋り方も声のトーンも変わらない。
 声だけ聞いていれば、タイムスリップしたかのように、あの頃に戻ったようだった。

 葉月は、じんわりと広がってきた暖かさを、今度は真っ向から素直に受け止めていた。
 そして『このままで良いのだ』と思えて、微笑む事が出来た。

「教官、有り難うございます。今回の申し出の事は勿論……本当は、あの頃の事もとても感謝しているのです。一度も、伝えられないままお別れしてしまって……」

 『今回、伝えられて良かった』と、葉月はトーマスに告げる。
 すると今度は、受話器の向こうから静かな溜め息が聞こえてきた。

「安心した──」
「え?」
「ハヅキ……。今、幸せなんだな」
「教官?」

 唐突にそう言われて、葉月は戸惑う。
 『幸せか?』──何故、いきなりそう彼が思ったのか分からなかった。

「まだ、どうしようもなく世間や現実を拒否して、自分ばかりを痛めつけているならば……そんな事、言えるはずがないだろう?」
「!」
「あの頃のお前は、周りが見えていなくて、そして自分を痛めつけて『死にたい』と願っていた。でも──その『死にたい』が、本当は『生きたい』の裏返しだと分かった時には、俺は、そのハヅキが自分を痛めつける事に懸命になる程に、俺も痛くて……そして、どうしても『生きる』と言う方向に向かって欲しくて」

「でも、伝わらなかった」

 トーマスの切なそうな声に、葉月の身体は再度、固まった。
 彼の無念そうな声。
 その彼の気持ちを葉月は、ずっと無視しつづけてきたのだ。

「気がかりだった。お前が優秀なパイロットになっていく噂を聞けば、嬉しさ半分怖さ半分だった。お前が男以上のエネルギーを空に注いでいる間は安心が出来なかった。大佐になったと知った時は、あまりのスピード昇進に懸念を持ちつつ、しかし師として心より誇らしかった。だがまた逆に『そこまで登り詰めたなら、もう、コックピットを降りてくれ』とも思ってしまった」

 細川が教えてくれた通りの『心配』を、切々と語る恩師の声に、葉月はただ黙っている事しか出来なかった。
 その恩師の不安と喜びが入り混じった複雑な心境──。
 今の葉月になら、分かる。
 そうでなければ、今頃、必死になってコックピットを取り戻し、甲板にいないはず……。
 いや──イタリアに行っていたかもしれない。

 あれ以来、葉月は自分を存分に振り返ってきた。
 だが、それは完結に至らない。
 帰ってきたら帰ってきたで、それは『毎日が反省』ばかりの日々だ。
 過去の自分と決別する為には、過去にいる自分の姿をひとつ、ひとつ、受け入れていき、いかほどに自分が駄目だったか、悪かったか、いけなかったか……それを本当の意味で自分自身で理解が出来ない限りは、すべてが上っ面だけになってしまっていくだろう。
 現に今日もこうして──受け入れがたい自分の姿を知り、そして、対面し、同化させていく。

 こういう事を、葉月はすべてコックピットの『危険』にすり替えて生きてきたのだ。
 葉月にとって、『コックピット』とはそういう『一番に生きてきた場所』だった。
 それと共に、そこで沢山の仲間と心を繋げてきた事も真実、『誇れる場所』でもある。

 葉月は、十数年振りに話した恩師の心を知り、顔をあげる。

「教官、私……今、とても幸せです」
「そうか! 安心した」

 恩師の声は、よく知っている陽気な声。
 葉月もふんわりと微笑んでいた。

「見たいな。今のお前の顔を……。綺麗になっただろうな」
「いえ……変わっていないと思いますよ」
「いいや。あんなに寂しそうで辛そうで今にも何処かに行ってしまいそうな顔など、もう、していないはずだ。楽しみだ……。あ、そうだ。今は甲板指揮でいったん、降りているそうだが。どうだ? こっちに来たら、一度は飛んでみたらどうだ? ブライアンも、お前といつになったら飛べるのかとぼやいていたからね。こっちにきたら、ある程度は自由の身だろう?」

 ブライアンとはミラー中佐の事である。
 しかし……葉月は、そこで固まった。

 やはり──ここで来たか、と、思った。
 ここでなければ、細川の『話』とやらのときに吐露してしまうだろう、と言う覚悟は固めてはいたのだが。
 だから、葉月はトーマスに答える。
 それも清々しい笑顔を浮かべ。

 私は、もう……戸惑わない。
 私は、もう……決心したのだと。

「教官──。私、飛ぶのはあと一回きりと、決めています」
「なに!?」

 トーマスの驚きの声。
 だが葉月はさらに続ける。

「だから、申し訳ありません。教官との航行中の訓練でもコックピットには乗れません」
「ハヅキ……! 本気なのか?」
「はい……」

 そして葉月は、もう一度笑顔を浮かべて、はっきりと告げる。

「現役を引退します。最後のフライトは、愛する人に空に飛ばしてもらう……。そう決めています」
「コックピットを降りると……」
「はい。今、初めて人に言いました。この後、細川にも告げるつもりです。でも、まだ……『彼』や仲間には伏せておきたくて」
「そうか……」
「空は、私が一番闘ってきた場所でした。でも……最後は、幸せの中で飛びたいと思っています。愛する人の目の前で誇らしく──」

 葉月の決意に、流石にトーマスも暫くは黙っていた。
 しかし、最後にあの陽気な声で言ってくれた──。

『その男と幸せなのだな。おめでとう!』

 何故か、葉月は涙を浮かべていた。

 葉月の手元には、背中の大窓から差し込んでくる煌めく夏の日射し──。
 その中で、沢山の氷がキラキラと輝きながら溶けていく気がしていた。

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