-- A to Z;ero -- * きらめく晩夏 *

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13.月の女

 仕事はいくらでもある。
 いつも自宅に持って帰ってやっている事を、ただ大佐室で続けてやっている内に時間は過ぎた。
 だが、他に残っていた本部員達も……流石に全員帰り、隼人一人だった。

 そうして、テッドから携帯電話に再度の連絡が入ったのは、22時頃になっていた。
 皆で色々と話し合って解散となったから、今から大佐室に行くとの連絡だった。
 暫くして、暗がりの事務所からテッドが姿を現した。

「大変だったな」
「いいえ」

 お互いにソファーに腰をかけて向き合った。

「柏木も反省しています。気持ちが収まらなかったとはいえ、やってはいけないことをしてしまったと──」
「そうか……。そこは大佐嬢の『過去の過ち』に触れさせないとか隠したいという訳でなく、上が極秘にしていたことだから情報漏洩の危険性を考慮しても連隊長への報告も避けられないだろうな。そして、当事者である彼女にも一介の上官として知っておかねばならないだろう」
「俺もそう思います。御園大佐本人としても、過去の過ちを思い出すことになるでしょうが……」
「事実だ」
「……そうですね。あの『俺達』、いえ……俺と柏木とテリーは、大佐嬢が遠野大佐と恋仲だった事は知っていたんです。特にテリー。二人からそう告げられたわけではないけど、様子で勘づいていたようで。それで……御園大佐は刺された自分のことをテリーに『私の因果応報だ』と言っていたそうです。あの……今回の件を聞いて、大佐は……その……。時々変にエキセントリックで不安定に見えてしまって。こっちも不安にさせられるというか」
「……」

 そこは『上官の過ちに触れざる得ないが報告は避けられない』──そうするべきだと解りつつも、恋人の隼人がキッパリした為か? テッドは痛いだろう過去に容赦なく触れてしまう事になった葉月のことを案じてしまったようだ。
 だけど、そこも隼人はキッパリと告げる。

「大丈夫だ。『今の葉月』なら」
「……!」
「それに彼女が『罪』を犯したことは紛れもない事実だ。それは彼女も自身で認めている」

 今度は恋人として後輩に言った。
 隼人のそんな強い確信に、テッドは驚いたようだ。

 彼女は自分がやってきた全てにおいて、覚悟を決めている。
 昨年の事もそうなら、今までの自分の全てにおいて──。
 ある時には、忘れたいのに忘れさせてくれない程の非難にも出会うだろう。死ぬまでに何度か出会うだろう。
 『もう昔のこと』だなんて理由で、彼女は済まさずに、甘んじて受けていくだろう。そんな覚悟だ。
 少なくとも彼女の『償い』という姿勢を見せられた隼人には、そう信じることができた。

 そして──彼女は知っているだろうか?
 本当はそんな彼女が見つけた『償う姿』に、隼人の方が沢山のことを教えてもらったのだと言うことを……。

「では、そちらのことは、中佐がいますから安心ですね」
「……ああ。そのつもり」
「やだな。のろけっぽいな〜」
「そんなつもりでもないけどなー」

 立派な部下としての姿勢を保ち続けようと精進を続けているテッド。
 だけど彼もこうして時々、隼人の目から見た『男の子』になってくれる時もある。
 そこで、二人は暫く笑い合った。

「そちらの同期生組の間で起きたいざこざも、もう、大丈夫そうだな」
「はい。柏木から吉田に謝罪しましたから」
「潔いな」
「彼も言っていました。『今度は俺がナイフだった』と。つまり、言ってしまってから気が付いたようなのですが、言葉で人を刺した気分になったそうです。ですが吉田も笑って受け入れていましたよ。お互いに言うだけ言って、沸騰するがままやるだけやって、気が済んだのでしょう。えっと、こう言うの。日本語でなんて言いましたっけ? 雨が降った後に……なんとかかんとかって」
「雨降って地固まる。かな」
「あー。それです! 御陰様で……。かえって私達『同期組』は、予想以上の結束が出来そうな気配です」
「そうか……」

 誰がどうだからこんなになってしまったのだ──だなんて、とやかく言う気持ちにはなれなかった。
 隼人自身……テッドの言葉で、ふと思ったことがあった。
 もしかして後輩の柏木をあんなふうに追い込んだのは、小夜の直属の上司である隼人にもどこか、原因があったのではないかと……。

『甘えることができるお兄さんじゃないんだ』

 あれが、ひっかかった……。
 が、ここでは置いておく。

「そうか、解った」
「本当に、申し訳ありませんでした」
「いいや、良かったな。皆で頑張れよ」
「はい」

 話はうまくまとまったようで、隼人もホッと一安心。
 テッドも心配事がまとまって、安心したのか、明るい顔で帰っていった。
 隼人もやっと片づけをして、本部に鍵をかけて帰路につく。
 向かうのは約束通りに『丘のマンション』だ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ただいま。遅くなって……」

 葉月の自宅にお邪魔すると、リビングには灯りがついていなかった。
 時間的に、彼女が就寝する時間帯に差し掛かっている。
 待ちきれなくて眠ってしまったのかと思ったが──。しかし、そんな暗がりのリビングの向こう、ガラス張りのテラスに人影が。
 そこのテーブルに黒いガウン姿の葉月が座っていた。

 彼女の手元には本が広げてあるのに……。
 夜灯りの中、そんな女がひっそりとそこにいるだけだった。

「どうしたんだ。灯りもつけないで──」
「お願い。灯りはつけないで──」

 それで、隼人は直感した。
 後輩達の間で何が起きてしまったのか、『彼女は気が付いている』と。
 隼人は手荷物をダイニングテーブルに置いて、そのままテラスへ向かった。

 彼女の向かいに立って見下ろしてみると、葉月の手元にあるのは『写真集』だった。
 『月』の写真ばかりが載っているもので、彼女が写真集を眺めている姿は初めて見た。

「そんな写真集。持っていたんだ」
「……もらったの」
「右京さんから?」

 葉月がそっと首を振る。
 そして、隼人がふと予感していた男の名を葉月が言った。

「遠野大佐よ」
「……先輩が、そんな写真集をねぇ」

 『そんなロマンティストな先輩ではなかった』と、隼人が笑い飛ばすと、葉月も『そうね』と微笑んだ。

「月みたいな女だって言われたことがある。目の前にはっきりと見えるから近いのかと思って手を伸ばしてみたら、本当は遠くにあって輝いて見えるだけだと──。蒼い月。名前の通りだって」
「先輩が、そんな事を……。似合わないなー」

 それにも葉月は、可笑しそうに笑ってくれたのだが……。
 一時して、彼女の顔が強ばった。
 そして、その顔のまま静かに呟く──。

「今日ね。十二年ぶりに『トーマス教官』と話したの」
「え!? そ、そうだったのか! い、いつの間に……」
「今日の訓練後の昼休みよ。お話しが出来て、とても良かったと思ったわ。長い時間が、洗い流されるような気持ちよさを感じていたの……」
「そうか。良かったじゃないか」

 本当に心より隼人はそう思い、一つの足枷を外すことが出来た彼女の闇の浄化を喜んだ。
   しかし、彼女が急に、そこで苦しそうに栗毛をかきあげ、唇を噛みしめながら俯いてしまった。

「……テリーのことでしょう。そのことで、何かもめていたのでしょう? 私の過去の不始末が……また、こうして後輩達を苦しめたのでしょう?」
「やはり。判っていたのか」
「あの子達はなにも悪くない。なにもかも、私が巻き込んでしまっているのよ」
「……」
「こういう事なのね。決して、直ぐに許されるものばかりではない。犯したことというものは……」

 苦悩の表情を浮かべている葉月に──隼人は言ってみる。

「そうだな。まったくその通りだ」
「!」
「お前の弱さが招いた数々の『犠牲』のうちのひとつが、表に出てきたんだな」
「……」

 慰めもせずに、むしろ残酷な程に『本当のこと』を突きつける隼人の姿に、葉月はそのまま固まっていた。

「どうした? そう言って欲しかったのではないのか? それとも? 『それでもお前にも仕方のないことがあったのだ』と言えば、気が楽になるのか?」
「!」

 それにも葉月は、今更ながら目が覚めたかのように表情を固めた。
 だけど、葉月は直ぐに降参の微笑みを浮かべていた。

「貴方が言う通り……。私から生まれた、他所への犠牲の数々は、こうして……ずっと」
「そうだな。ずっとつきまとう。それがお前が知った『償い』だったはずだ」
「そうよ、そう……だわ」

 覚悟を決めたから『平気になれる』なんて程度のものは、『償い』ではない。
 本当はその苦しみから一生、逃れられないのが償いなのだから。

 罪の重さを、今まさに、噛みしめている彼女。
 重い十字架を背負って、引きずるように歩く『罪深き恋人』を、隼人はそのまま見下ろしていた。
 見守るしかないのだ。隼人にも、もう、彼女にしてあげられることはそれしかないのだ。
 だけど、それでも隼人は言ってみる。

「……それでも、お前の側でこうして見ている。何度も言わせるな」
「隼人さん」
「お前に抱きつかれて、それがもの凄く重くても良い。軽くならなくても良い。俺は、お前を抱きしめたい──」
「──あなた」

 隼人がそう言い切ると、葉月は迷わずに立ち上がって、隼人の胸の中に飛び込んできた。
 素直に飛び込んできてくれた彼女を、隼人も躊躇うことなく、その腕いっぱいに抱きしめた。

「お前のそうした姿勢は解っているつもりだ。でも──もっと、自分の為の『言いたいこと』あるだろ? 言ってみろよ、俺が聞いてやる」

 一生背負っていくから、言い訳なんて絶対に言ってはいけない罪の重さ。
 だけど──それは『世間』に対してだ。
 せめて、『俺』の前では許してあげたい。隼人はそう思って言ったのだ。

「……私だって、私だって。愛じゃなくても、好きだったんだもの」
「葉月……ああ、知っているよ」
「あの人から教わることは、大きかったんだもの。とっても頼っていたの。あの人もうんと寂しそうだったんだもの。私みたいに閉じこもって、危険な任務ばかり志願して、私みたいに身体も傷だらけで……! 私みたいに死のうとしていたんだもの。私と同じ匂いがしたの。だから抱き合うと心地よかった……。それで、周りが見えていなかったの。それがマイナスでも世間に許されなくても。でも……私達には……」

 そうは見ることもない……泣きじゃくる葉月の姿。
 隼人という男の胸を頼って、弱い姿をさらけ出している彼女。
 だから──隼人はもっと強く抱きしめてやる。
 世間の非難は避けられない過去であっても、それは隼人も一緒に彼女と感じていくんだ、という隼人なりの覚悟だって出来ている。

「でも、後悔している。私が直接的な動機に関与していなくても、奥様の気持ちは大佐に向かっていたんだもの。刺されて思った。大佐と奥様をちゃんと向かい合わせなくちゃいけないって。でも──私はただ流されるまま、なにもしなかった……。その内に、なにもかもが壊れてしまった。だから、後悔しているの……」
「解っている。ああ……そうだったな。後悔して、お前は俺の前に現れたんだ。覚えている、あの時のお前の苦しそうな顔を」
「後悔って解る? もう二度とどうすることも出来ないことなんだって! ……だから、もう同じ過ちは繰り返さないわ!」
「ああ、俺が見ている。そして信じているよ……」

『今度こそ、そう生きていける事を』──。 

 ここで抱きしめて。
 そして、また……その風に立ち向かう彼女を、背中から見守ってやればいい。
 葉月も、今はここで弱くなっても。明日はもう向かい風の中、立っているだろう。

 その晩、ただ彼女をこうして抱きしめて、腕の中で泣かせた。
 後輩達の間に何があったかは、次の朝、食事をしながら報告をした。
 葉月は、もう、大佐嬢の顔で冷静に受け止めていたようだった。

『解ったわ。私から連隊長に報告するわ。悪くはしないし、私のことも大丈夫と、彼等に言っておいてあげてね』

 葉月より早めに部隊に出て、隼人はそれをテッドと柏木に告げると、彼等もホッとした顔に。

 だが──葉月だけじゃない。
 隼人も『ケジメ』をつけねばならぬ事を秘めていた。
 どこか心苦しいが、隼人なりの反省からも目を背けたくはなかった。

「達也、頼みたいことがあるんだ」
「は? なに?」

 それを告げると、達也が笑った。
 『やっと気が付いたんだ』と──。
 それを言われて、隼人はやはり自分も悪かったのだと反省をしたのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その朝。
 小夜はかなり重い気持ちで、本部に出勤した。

「昨夜の『チーム海野の同期生会』とやらは、どうだったの?」

 隣の席のケイトが毛先のカールを指に巻きながら、興味津々尋ねてきて、小夜は固まる。
 だが、なんとか笑顔で『楽しかったわよ』と言ってみた。

「おはよう。理香」
「……おはよう」

 一番仲が良かった彼女にも、いつも通りに声をかけてみたが……。
 この頃、彼女の反応は弱々しい。
 どこか小夜を避けているようにも見えてしまった。
 そして小夜はそれがどうしてなのか、解っていた。解りすぎる程に──。
 理香はそのまま、近頃、親しくしている様子の年が近い後輩と一緒に、外に出て行ってしまった。

 トイレだな。と、小夜は思う。
 出勤してまず、なにって。トイレというが、私達の間では『鏡を見に行く』と言うのが『名目』で、そこで大きな声では話せない事を、開放感いっぱいに話すのだ。そして、名目通りに鏡も見る。毛先のセット具合をチェックして、朝やったことをもう一度、指で丹念に手入れして、口紅とアイメイクの映り具合を確かめる。そうして『ときめくあの人への自分の自信』を鏡の中で確かめて、心を強くする。
 それが『解りすぎる事』。小夜が毎朝、していたことだ。
 化粧室(トイレ)は、女性達の『秘密の楽屋』。『秘密のサロン』。
 そこで今は『吉田小夜』とか『テリー』とか『大佐嬢』が、美味しいおやつになっていることだろう。

 もう、いい。
 小夜は、お腹いっぱい。
 『一、抜けた!』と言う気分になっていた。

「小夜ちゃん! ちょっと来てくれ」
「!」

 経理班の自分の席にいたのだが……。
 大佐室のドアが開いて、そこから海野中佐に大声で呼ばれた。

 隼人じゃなくて、海野中佐だった。
 一瞬──『あれ?』と思ったが、たまには彼のお手伝いもするから、それほど不審には思わないで、小夜は大佐室へと急いだ。

「おはようございます。失礼致します……」

 朝の大佐室は珈琲の匂い。
 キッチンではテッドと柏木君が……いつもと変わらぬ姿でお茶入れ修行をしていた。
 上官席では……。
 葉月はまだ出勤していないようで、隼人は席で既に事務作業。そして海野中佐は席の上にある書類束を綺麗に整理しながら、小夜に『こっち来てくれ』と呼んでいた。
 小夜は達也の席の前に立った。

「今日、十時からの会議出席。手伝ってくれないか」
「え……?」

 今日は彗星システムズが帰る日だった。
 朝礼が終わってすぐに、滑走路に隼人と海野中佐と柏木君と一緒に、お見送りに行く予定。
 その後は……いつも通りに隼人のお手伝いのはずだ。
 それに──海野中佐のアシスタントは『柏木君』と決まりかけているように見えたのに。

 小夜はおもわず、肩越しにチラリと海野中佐の向かい席にいる隼人を確かめてしまった。
 だけど、彼はいつもの硬い顔で仕事に集中していて、小夜と海野中佐とのやり取りに気も止めていないようだ。

「今日は、高官を交える話し合いだからな。気合いをいれておいてくれよ。これ、内容が解らなくても目を通しておくように」
「……は、はい」
「はっきりした返事!」
「はい!」

 否応なしに海野中佐にレジュメを突き出され、なおかつ、手厳しい注意をされる。
 もう一度、隼人を見た。
 やはり、何の反応もない。
 今日は、小夜の手伝いはいらないのだろうか?
 変に落ち込んでしまった自分に、小夜は気が付いてしまった。

 

 その後、彗星システムズの一行を、無事に見送った。
 飛行機が飛び立っても、海野中佐と一緒に敬礼で見送る姿勢。
 長い敬礼の時間を終えて、海野中佐も隼人も姿勢を崩したので、小夜も柏木君と一緒に一息付く。
 その帰り路の事だった──。

「達也、有り難うな。気持ちよく滞在してくれたみたいで、俺もやりやすかった」
「なーんの。こっちも大事な仕事を控えた大切なお客さんを扱う仕事をさせてくれて、良い研修場になったよ。な? 柏木」
「はい」

 滑走路から帰る途中、中佐二人のホッとした後の会話。
 だが、その時にもこの中佐二人が変なやり取りを始めた。

「柏木、今度は本島の出張に一緒に行ってみないか?」
「え? 私がですか?」
「お。いいじゃないの。行ってこいよ、柏木。お前は、外でもちゃんと出来るよ。俺が保証する!」

 隼人がそんな事を言い出して、達也がそれをあっさりと許可していた。
 小夜はまた、焦りを感じた。
 この前まで、隼人の側でなんでも手伝ってきたのは『吉田』だった。
 隼人はなんでもいいつけてくれて、そして、厳しいけれどなんでも丁寧に教えてくれた。
 出張も全部、隼人は小夜を指名してくれていた。

「あの……!」

 たまらずに小夜は、彼等の間に割って入った。
 すると……二人の中佐が、そんな小夜を何かを解っているように一緒に見下ろしたのだ。

 そして──。隼人が小夜に、この上ない微笑みを投げかけてきた。

「吉田。お前はもう大丈夫だよ。俺じゃなくても……」
「!」
「お前は俺の専属ってわけじゃないよ。色々な上官の仕事をこなせるようじゃなきゃ、駄目だ。また俺を手伝って欲しい時、よろしくな」
「……」

 『専属じゃない』──。その通りで解っていたはずなのに、小夜はものすごくショックを受けていた。
 そうして固まってしまった小夜を傍目に、また……海野中佐が大きな溜め息。

「それは柏木も一緒だな。暫く、入れ替えることにしたんだ。今、澤村中佐は外の仕事が多いし、俺は内部強化を行っているから。当然、手伝ってくれていたお前達も、外と内のどちらかに偏ってしまう。そういう判断だ」
「じゃあ。私は暫くは……海野中佐と?」
「そうだよ。小夜ちゃん。澤村兄さんが感激するぐらいに鍛え直してあげるよ。この兄さんが」
「!!」

 海野中佐の妙な微笑みに、小夜はおののいた。
 そんな達也がさらにこういった。

「小夜ちゃん。これからが『本当のお仕事』だ。俺、隼人兄さんみたいに甘くないから覚悟しておいて」
「!」

 『これからが本当のお仕事』と言う言葉に、小夜は、もっと驚いた。
 隼人の側でも、ちゃんと真剣によこしまな心を封印して頑張ってきたつもりなのに? なのに、隼人と一緒にやって来たことは『本物の仕事じゃなかった』と、言われているのだ。
 そう──それは小夜だけじゃなく、小夜をちゃんと育てようと心を砕いてくれていた澤村中佐に対しても『その指導は甘かったのだ』と言う、ライバル中佐からの厳しい評価にもなるのではないだろうか?
 だけど……隼人は、致しかたなさそうに微笑んでいるだけだった。

「俺は、ただ──小夜という女の子が本気で頑張るのを応援していただけだったよ。吉田が俺の予想以上に期待に応えてくれる日々は、指導している俺にも素晴らしい手応えを実感させてくれた」
「澤村中佐……」
「でもな、吉田。だからって、俺の部下はお前だけじゃないし、お前の上官も俺だけじゃないんだ。これから『本気』で上に行きたいなら、俺の側だけじゃ駄目だ。それに俺もお前の頑張りに甘えていたよ」
「……」

 そんな隼人が急に、遠い人に見え、小夜は悲しくなってきた。
 そうだ……! やっと解った! 隼人と恋人になれる可能性がないと思っても、『失恋』した気持ちにになれなかったは。
 それでも側にいたからなのだ……。
 今度は本当に離れていく……!

 そんな茫然としている小夜の横にいた柏木君が、そっと呟いた。

「俺、澤村中佐との外部企業と接触する出張。前から行ってみたいと思っていたんです。お願いします」
「そうか。じゃあ──今からプロジェクトの内容と予定を教えるから。行こうか、柏木」
「はい。宜しくお願い致します……」

 昨夜、仲直りはした柏木君。
 だけど、ここのところ小夜が一番に打ち込んで彼が言う所の『調子に乗ってやっていた仕事』から離すことが出来て満足なのだろうか?
 だが、違ったようだ。

「吉田。お前のように、俺も熱心に献身的に、澤村中佐をサポートできるように、頑張るよ。その熱意、俺も見習うから……」
「!」
「だから、お前も俺達同期生の戦力になれるように、海野中佐の所でも頑張れよ」
「柏木君……」

 彼の目はもう、優しくなっていた。
 皆が慕っている『マー』の目だった。

「じゃあ、達也。俺達はこのまま工学科に行くよ」
「おう、じゃな!」

 小夜と柏木はあっさりとトレードされ、隼人は去っていってしまった。
 小夜には女性の女の字も容赦ないだろう中佐が、手厳しく見下ろしているのに気が付いて……。小夜はがっちがちに固まってしまっていた。

「いずれ、大佐嬢の補佐も出来るようにならないとな」
「え……!?」
「解るんだよな、俺。アイツの目。小夜ちゃんに期待しているの」
「ま、まさか」
「言わないけどな。そんなこと」

 昔なじみだとかいう海野中佐のその言葉。
 本当なら嬉しいけれど、でも、今の小夜には信じがたい。
 そこで海野中佐が何を思っているのか、いつも以上に怖い顔で小夜を見つめてきた。

「苦しくても本気でやる気があるのか? 大佐室の補佐業務」
「……え?」
「大佐嬢も澤村中佐も、俺のことも。そして仲間のことも。一緒に向かっていく覚悟はあるか?」
「……」

 今までの小夜なら怖じ気づいていただろう。
 でも、小夜は今度は海野中佐の目を怖れずに、真っ直ぐに見つめて表情も引き締めた。
 そして大きな声でいう。

「はい。あります!」
「よし」

 小夜の新たなる覚悟は、確かに目の前の中佐に伝わったようだ。
 信じてもらえそうでホッとした瞬間の直ぐその後。彼が思わぬ事を言い出した。

「では、俺から大佐嬢に、『九月から総合管理班』で頑張れるように、推薦異動を申し込んでおいてやる」
「え!?」
「許可されるかどうかは、判らないけどな?」
「え、でも……総合管理班って……!」
「うちの本部で、総合管理班班員、女性第一号だな。頑張れよ『吉田』──」
「!!」

 可愛いだけの女の子としか見てくれなかった海野中佐が……!
 『小夜ちゃん』じゃなくて、『吉田』と言ってくれた!

 しかも──。テッドや柏木君がいる『本部の中核運営』に携わっているセクションへ異動!?

 あまりの驚きに、小夜は足が動かなくなってしまった。
 先に歩き出した海野中佐が振り返る。

「なにしているんだ。行くぞ」
「はいっ」

 やっと足が動いたが、身体のあちこちが震えている気がした。
 だけれど、もう一人の若中佐の後を一生懸命についていく。

 ただ茫然としているだけ。
 今は実感なんて湧きやしない。

 あまりの驚きに──。
 隼人と離れてしまったことすら……忘れてしまった程だった。

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